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2018/09/11

甲子夜話卷之五 19 舜水歸化の後、言語の事

 

5-19 舜水歸化の後、言語の事

朱舜水、歸化年久しかりし後は、邦語をも用ひしが、兒言の如くありしと。一日或人塗に遇ふ。何れへ行たまふぞと問たれば、あす覺兵衞祝儀、肴かひゆくと答しと。又禁廷より内々に揮筆命ぜられしことありて、綿を賜りしとき、御所樣綿くれたと、人に語りしよし。さも有べきこと也。

■やぶちゃんの呟き

「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「兒言」「じげん」。幼児語。

「一日」「あるひ」。

「塗」「みち」。路。

「覺兵衞」前に出した安積澹泊(明暦二(一六五六)年~元文二(一七三八)年)の通称。澹泊は号、諱は覚。所謂「水戸黄門」に登場する「格さん」(渥美格之進)のモデルとされる。ウィキの「安積澹泊によれば、水戸生まれで、『祖父・正信は小笠原家に仕えて軍功あり、後に水戸藩初代徳川頼房に仕え禄』四百『石であったが、父の貞吉は多病で』、『この禄を辞退し、寄合組となった』。寛文五(一六六五)年九月、澹泊が未だ十歳の頃、第二代『藩主徳川光圀が』、『朱舜水をともなって水戸に帰国したのを機に、父・貞吉が光圀に願い出て』、『朱舜水に入門させた。同年暮れには江戸に出て朱舜水のもと学んだ』が、翌年七月に『父が死去したので水戸に帰り、家督を継いで寄合組となった』翌寛文七(一六六七)年)に『朱舜水が水戸を訪れると』、『再び教えを受け』、翌年、『朱舜水に従って江戸へ出た。しかし』、寛文一〇(一六七〇)年『春には痘瘡を病んで水戸に帰国した。澹泊が朱舜水のもとで学んだのは』三『年ほどであったが、朱舜水は「日本に来て句読を授けた者は多いが、よくこれを暗記し、理解したのは彦六だけだ」と言ったという。光圀も澹泊の好学を賞して金』三『両を図書費として与えた』。『水戸へ帰った澹泊は同年』二百『石で大番組を命じられ』、小納戸役・唐物奉行を歴任し、天和三(一六八三)年二十八歳の時、』『彰考館入りし』、『史館編修に任じられた』。元禄二(一六八九)年、『吉弘元常』(よしひろもとつね)『・佐々宗淳』(さっさむねあつ)『両総裁とともに修史義例の作成に関与』し、元禄五年には三百石となり、元禄六年には、『死去した鵜飼錬斎の後任として史館総裁に就任した』『(当時の総裁は』三名で『他は佐々宗淳・中村顧言)』元禄九年には『佐々らとともに「重修紀伝義例」を作成して修史の方針を明確にし、また「神功皇后論」を著して皇位継承についての所信を述べ』ている。元禄一三(一七〇〇)年に光圀が死去し、翌十四年に第三代代『藩主徳川綱條』(つなえだ)『の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに』「義公行実」を編集、享保八(一七二三)年には、第四代藩主となっていた徳川宗堯(むねたか)の『命により、さらにこれを修訂』、した上、「常山文集」の『付録として印刷した』また、享保九年には、「義公行実」の付録として「西山遺事」を著した。元禄十四年、『総裁の職は元のままに』、『小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも宝永年間』(一七〇四年~一七一一年)『の筆削活動は目覚ましく、そのため』、『ほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという』。正徳四(一七一四)年に『総裁を辞任したが、その後も彰考館にあった』。享保元(一七一六)年からは、『「大日本史論賛」の執筆を行』った(同五年完成)。「論賛」とは『史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である』(但し、文化六(一八〇九)年になって論賛は削除されたため、完成した現在の「大日本史」には存在しない)。享保六(一七二一)年、新番頭列、同七年には『新番頭に任じられたが』、『いずれも史館勤務は元の通りであった』。享保一二(一七二七)年からは徳川家康の伝記である』、「烈祖成績」の『編集を担当(同』十七『年完成)』した。享保一八(一七三三)年に致仕したが、『致仕後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた』。『私的な面では菊づくりを趣味としていたという』。『明治時代になってから』、『大阪の講談師・玉田玉知が幕末の講釈師の創作であった』「水戸黄門漫遊記」の『中に主人公・光圀のお供役として澹泊をモデルにした家来を登場させ、澹泊の通称である覚兵衛から渥美格之進(格さん)と命名』、『大人気となった。この講談中で』、『同じくお供を勤める佐々木助三郎(助さん)のモデルである佐々宗淳は、やはり水戸藩で澹泊と同じく彰考館総裁を勤めた人物である(総裁は複数制であったので、ともに総裁であった時期もある)。澹泊の』十六『歳年上。なお、佐々宗淳(佐々介三郎宗淳)の墓碑文で安積澹泊(安積覚兵衛澹泊)は「友人」として「おおらかで正直、細かいことにこだわらない」「よく酒を飲む」などといった人物像を記している』とある。

「綿を賜りし」綿を褒美として下賜した。元は祭祀に用いた神聖な綿の下げ渡しであったものかと思われるが、例えば、先行する甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事には、江戸幕府が年始に於いて、大名・旗本などに対し、綿入れの小袖が下賜衣料として出てくる。

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