反古のうらがき 卷之三 きつね (二篇目)
○きつね
近き代の事なりけん、河内の國也(なり)。ある時、御代官の巡見在(あり)とて、村々より人賦(にんぷ)を出し、村繼(むらつぎ)に繼立(つぎたて)ける。凡(およそ)拾八村をぞ巡りける。最後の村にて、夜のしらめる頃、ふと心付(こころづき)て見れば、御代官と思ひしは、古き山駕籠の内に壹人(ひとり)のいざりのおしなるを入(いれ)たる也。銘々(めいめい)持(もち)しものを見れば、長柄(ながえ)は古き竹帚(たけぼうき)となり、合羽籠(かつぱかご)[やぶちゃん注:大名行列などの最後で下回りの者が棒で担いでいた雨具を納めた籠。]は番ども樽となり、どれも異形のもの成りしかば、「扨は狐狸にやたぶらかされしぞ」とて、繼立(つぎたて)し村々を聞合(ききあは)せしに、いづれも、「人賦をばいたしけるが、夜のほどにて心付かず、誠の巡見とのみ心得し」とぞ。「夜明ぬれば、狐の離れし故、心付けるにぞ、猶、夜の明(あけ)ざらましかばと、幾ケの村々をも化しけん。かく橫行(わうぎやう)に化したるは世に珍らしき事にて、おそろしきもの也」とて、上方より下りて、天文方(てんもんかた)を勤めし足立左内といひし人、語りける。
[やぶちゃん注:「近き代」本項最後のクレジットは嘉永三(一八五〇)年。しかしそれから最低でも五年を引いた弘化二(一八四五)年よりも前となる(後注参照)。
「人賦」夫役(ぶやく)。百姓が負担する雑税である「小物成(こものなり)」の一つで、労役を課せられる人足役(にんそくやく)。
「村繼(むらつぎ)」幕府や領主の御触(おふれ)などを村から村へと引継いで順達させること。
「いざり」「躄」。下肢の不自由な歩行困難者。
「おし」「啞」。
「合羽籠(かつぱかご)」大名行列などの最後で下回りの者が棒で担いでいた雨具を納めた籠。
「番ども樽」不詳。識者の御教授を乞う。
「橫行(わうぎやう)」読みは「わうかう(おうこう)」でもよい。自由気儘に歩きまわること、或いは、恣(ほしいまま)に振る舞って悪事が盛んに行われること。
「天文方」幕府によって設置された天体運行及び暦の研究機関。主に編暦を担当した。詳しくはウィキの「天文方」を参照されたい。
「足立左内」江戸後期の幕臣で天文学者足立信頭(あだちのぶあきら/しんとう 明和六(一七六九)年~弘化二(一八四五)年)の通称。で生家の姓は北谷。ウィキの「足立信頭」によれば、大阪生まれで、『大坂鉄砲方足立正長の養子となる。暦学を麻田剛立に学ぶ』寛政八(一七九六)年に『幕府天文方、高橋至時の下役となった』文化一〇(一八一三)年に『松前藩に出張し、馬場貞由らとゴローニン事件で幽閉されていたヴァーシリー・ゴローニンからロシア語を学び、文政年間には通詞を務めた』。天保六(一八三五)年に『天文方を拝命する。渋川景佑らとともに』、天保一五(一八四四)年の『改暦に功績があった』。とある。鈴木桃野(寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)より三十一も年上である。最後のクレジット(嘉永三(一八五〇)年)から考えると、五年以上前に彼から桃野が直に聞き取った話ということになり、そこから「近き代」(近い過去)とするのが正しいと考える。
以下は底本では全体が二字下げ。桃野自身の附記。]
此ふたくだりは、吾師一谷(いつこく)先生(うし[やぶちゃん注:底本のルビ。「氏」のつもりか。但し、その場合は「うぢ」が正しい。])の聞傳(ききづた)へ玉へることを、みづからかひ付置(つきおき)[やぶちゃん注:「書き付けおき」。]玉ひて、余が「反古のうら書」の内へ入れてよ、とて、おくり玉へるなり。今、先生、世を去り玉ひて已に一年を經ぬ。此卷をつゞるによりて、卷の初めにかむらして、いひおくり玉へることにそむかざるにぞありける。嘉永三年暮春
[やぶちゃん注:「此ふたくだり」以上の二条。前の「きつね」と、錯簡の問題(注で後述)はあるが、この「きつね」を指すと考えてよいであろう。実は、国立国会図書館版ではこの二つの条には底本のような(「きつね」)の標題が附されていないことから見ても、そう考えてよいのである。
「一谷先生」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『内山壺太郎の子』である『一谷か。名』は『謙、字』(あざな)は『徳柄。「うなぎ」』(この後三つ目)『の項の皡斉先生』とある。「今、先生、世を去り玉ひて已に一年を經ぬ」とあり、最後のクレジットが「嘉永三」(一八五〇)「年暮春」であるから、この「一谷先生」は嘉永二年晩春前後に没していることになろうか。なお、「うなぎ」の項の冒頭で桃野は「予が師内山先生」と起筆しており、補註には『内山椿軒の子、通称壺太郎。名』は『明時。天保四』(一八三三)『年八月二十六日歿、法号常徳霊明信士』とあるから、桃野は内山壺太郎及びその子である一谷の父子二代に亙って弟子であったということなる。
「此卷をつゞるによりて、卷の初めにかむらして、いひおくり玉へることにそむかざるにぞありける」不審。或いは、先の「幽靈のはなし」の末尾に唐突に中に挟まった附記やそこに書かれた「すでに五つ卷をなせり」という謂いから見て、現行の「反古のうらがき」は原本の総てではなく、原「反古のうらがき」は実は六巻以上、存在し、しかもその幾つかが散佚・断片化してしまい、それを不用意に繋げた結果、錯簡が生じているのではないかと考える。そう措定してこそ、これらの奇妙な表現や附記配置の不思議が解明されるからであり、全四巻の分量のバランスの不均衡もそれで腑に落ちるからである。【2018年9月24日追記】いつも貴重な情報をお教え下さるT氏より、昨日、鈴木桃野の父白藤(本名・成恭)についての膨大な資料情報を頂戴したが、そこで紹介された、国立国会図書館デジタルコレクションの森潤三郎氏の「鈴木桃野とその親戚及び師友(上)」(大正一四(一九二五)年刊)には「十、成虁の事蹟とその著書」の一章が存在し、(ここから)そこには、
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予は本年二月永井荷風氏より書簡を以て、同氏も鈴木成恭の事蹟を知らんと欲し、光照寺[やぶちゃん注:鈴木家の菩提寺。神楽坂藁店上。但し、現在は孫の鈴木成虎の墓だけしかない。「新宿法人会」公式サイト内のこちらの記事に拠る。なお、それによれば、白藤は『書物奉行を十年間勤め』たが、『江戸城内の紅葉山文庫を管理する仕事の中で密かに多くの秘蔵の書物を筆写、友人達にも与えたことが露顕して文政四(一八二一)年に免職になった』ともある。]を訪問せられ、住職が桃野の「反古の裏書」の稿本を保管せることを聞き、予に通知せられたるを以て、一日同寺を詣でゝ之を見ることを得たり。稿本は半紙版にして七冊に分たれ、箱の表に
桃野先生遺稿
反古廼裏書
浄書幷に原稿【浄本四冊、稿本七冊】
とあるも、淨書本は今傳はらず。第一册に口繪四枚あり、第二册の綴目の邊に「嘉永元戌戊申九月望後一日書ス」第五册の同所に「嘉永三年庚戌雛祭る頃日永く月淸らかなる日北に向へる窓の下に筆を執る」、[やぶちゃん注:中略。ここには本底本の巻末にある「詩瀑山人の漢文の最終詩が載る。こちらで見られたい。]
とあり。用紙はその名に背かず、すべて反古を裏返へしとして認めらる。學、庸、論、孟、易、書、詩禮[やぶちゃん注:間に読点なし。改行部なので印刷時に省略された者と思う。]と橫に印刷し、「湯淺猪之助十七」等の文字あるを見れば、昌平黌學問所若しくは自宅にて諸生に講義の出席簿ならん歟。[やぶちゃん注:下略。続きはこちらで見られたい。]
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とある。T氏は、現行の四『巻本は、浄本四冊の系統のようで』、『稿本七冊から浄本四冊へどのように編集されたかは不明』であると述べておられる。]]