反古のうらがき 卷之三 隅田川の見物
○隅田川の見物
[やぶちゃん注:本篇は非常に長いので、適宜、改行を加え、途中に注を挟んだ。]
近きころのことになんありける。大國、領し玉へる諸侯の國につかへまつる貮人の武士ありけり。こたび、江戶の館に召されて國を出しが、百餘里の道程を經て、江戶に付(つき)けり。初て君にまみへ奉ることおはりて、各(おのおの)それぞれの役儀をぞ受(うけ)たまわりける。公事のいとまある每に、城外に出(いで)て見るに、目なれぬことのみおゝく[やぶちゃん注:ママ。]て、いと興あるまゝに、今日は深川八幡、あすの日は淺草觀音と、名所々々を打(うち)めぐり、樂しみける。
夏の初(はじめ)頃、日の永きに、朝、とく出で、此日は隅田繩手を行(ゆき)て、牛島(うしじま)・白髭(しらひげ)・梅若塚(うめわかづか)・關屋の里など見𢌞(みめぐ)り、此あたりの植木の花つくりが家に入(いり)ては、家每に見𢌞りければ、見なれぬ鉢植(はちうゑ)どもの多く、いと珍らかなり。
[やぶちゃん注:「牛島」底本の朝倉治彦氏の注によれば、『牛御前近辺をいう。向島洲崎町(現在は隅田公園に移っている)。長命寺、弘福寺と隣接して、隅田川に臨んでいた』とある。東京都墨田区向島の隅田川左岸の牛嶋神社石碑附近(グーグル・マップ・データ)。
「白髭」同じく朝倉の注によれば、『白髭明神をいう。寺島町一丁目。隅田川堤の下に鎮座』とある。現在の東向島白鬚神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「梅若塚」同じく朝倉の注によれば、『梅若山梅若寺(隅田区隅田町二町目)の境内にある。梅若丸の貴種流離譚が伝えられている』とある。但し、梅若寺は現在の木母寺の前身で、この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、後に復活して、現在の東京都墨田区堤通に現存する。ウィキの「木母寺」によれば、『寺伝によれば』、貞元元(九七六)年に『忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した』とされる『梅若丸を弔って』塚(梅若塚:現在の墨田区堤通二-六)を『つくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる』。天正一八(一五九〇)年には、『徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った』慶長一二(一六〇七)年、近衛信尹(のぶただ)に『よって、梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた』。『明治に入ると、神仏分離に伴う廃仏毀釈により』、『いったん廃寺となったが』、明治二一(一八八八)年に再興された。その後』、『白鬚防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した』とあるから、このロケーションは梅若塚のあるこの附近(グーグル・マップ・データ)となる。
「關屋の里」同じく朝倉の注によれば、『隅田より千住河原までの一円の地で風光の名所、関屋天神があった』とある。これは今の北千住を中心とした一帯、現在の足立区千住仲町の関屋天満宮附近(グーグル・マップ・データ)である。]
大(おほ)やかなる家は、門のかゝり、風流にして、座敷の樣、籬(まがき)結ひ𢌞せし樣、池の作り、石竹、いろいろの美を表せし庭の景色、こなたの家にて見たると、彼方の家にて見たると、又、別々の趣ありて、何れか勝れる、何れか劣れるなど、かたり合(あひ)て見るまゝに、幾家(いくいへ)ともなく、見てけり。最後に入たる家は、殊に門のかゝり風流にして、入て見れば、二重の板塀ありて、とみには入得ず、
「奧の方ぞゆかし。」
とて見𢌞るに、板戶の開(ひ)らきてあるより、入たり。
水そゝぎ塵はらふ男の、三人四人(みたりよたり)出來て、
「いづくより。」
と問ふ。
「いや、くるしからず。何某が家の子なるが、こたび初て武藏の國に來(き)にたれば、名所古跡見𢌞るとて、此あたり迄來にけるが、植木の花作り共(ども)が、心も及ばず手を盡したる庭の面白くて、一と家一と家と見てければ、此方(こなた)は殊に大(おほ)やかなる構へに見受(みうけ)侍れば、奧の方ゆかしくて、こゝ迄は入來(いりきた)れり。ゆるして、見せ玉へ。」
といへば、
「こは、ふしぎの者どもが來にけり。」
とて、打(うち)どよめくを、耳にも留(とめ)で、籬に添(そひ)て入(いり)けり。
主(あるじ)めける、道服(だうふく)[やぶちゃん注:僧衣。]着たる法師が是を見て、
「今の言葉に相違もあるまじ。苦しからず。こなたへ。」
といひて入(いれ)けり。
これは、今迄見しとは、又一きわ立(だつ)て、大きなる石のいろいろなる形あるもあれば、石の燈籠の大きなるに、見も及ばぬ彫物したるもあり、池の𢌞り、松の枝、橫に竪に思ふまにまに作りなして、珍卉(ちんき)珍木、數をしらず、植込(うゑこ)めたり。四つ足の亭(あづまや)に唐木(からき)の珍らしきもて雕(ゑ)りたる桂・うつばり[やぶちゃん注:梁。]・椽板(えんいた)・簷(のき)のたる木[やぶちゃん注:垂木。]迄、思ひ思ひの珍木を集めたるもあり。大やかなる家の作り、又、わびたる家の作り、其所々によりていろいろに作れり。
𢌞り𢌞(めぐり)て、元來(もとき[やぶちゃん注:底本のルビ。])し道のほとりに來て見れば、池に臨みたる家の、美を盡して作りたる椽前に大石を置(おき)、先の法師が椽にこし打懸(うちか)けて居(ゐ)にけり。
「扨も扨も、見事なる手入(ていれ)かな。」
とたゝへてければ、
「これにて、茶壹つ、まゐるべし。」
といふにぞ、
「辱(かたじけな)し。」
とておし並んで腰かけたり。
淸らかなる女(め)の童(わらは)が茶を汲(くみ)て持ちて來るに、今一人の女の童が、見るに目なれぬむし菓子を、玉(ぎよく)の器に盛りて持(もち)て來にけり。
「一つ、まゐり玉へ。」
といふに任せて、手に取り見るに、是も目に見たる事もなき飴の如きものの煉り詰(つめ)たるに、砂糖の氷なせるを打碎(うちくだ)きてかけたる樣なるにこそありける。二人のもの、一つづつたうべたるに、得(え)[やぶちゃん注:呼応の副詞「え」への当て字。]もいわれず[やぶちゃん注:ママ。]うまかりければ、茶も、二つ三つ、乞ひて飮(のみ)けり。
法師もよろこべる樣に、
「酒まいり玉はんや。」
といふにぞ、
「元より、好める一所。」
とこたへければ、
「いざ。」
といひて椽に上れば、先の女の童が、酒壺・酒(さか)づき、其外いろいろの酒のな[やぶちゃん注:「菜」。肴(さかな)。]持出(もちいで)たり。
武藏にては初鰹とて、四月の初より、松魚(かつを)を賞翫するよしは兼て聞(きき)つれども、未だ節(ふし)[やぶちゃん注:鰹節。]に作れるより外は見し事も無きを、差身(さしみ)に作りて出(いだ)したれば、問(と)はで、「鰹なるべし」とは知りけり。
玉の鉢に盛り入(いれ)たるは、名もしらぬものゝ、いろいろに煮染(にそめ)たるを、三品五品(みしなごしな)取揃(とりそろ)へて小皿に取分(とりわけ)て、一人一人の前に差置(さしお)き、酒(さか)づきめぐらして、すゝめける。
「扨も、かゝる富貴なる家の植木の花作りもありけり。人の入來(いりきた)るに間もなくて、かゝる珍味を取揃へて出(いだ)しぬるは、絶へせず客の來ることにや。吾國は山野なれば、見る事(こと)每(つね)に珍らしく、今日程の樂しみは世に覺へなきことに侍る。」
など聞へければ、法師は、たゞうなづく斗(ばか)り、おほく物談(ものがたり)もせで座して居にけり。
二人の者は酒の𢌞(めぐ)り、數重(かずかさな)りければ、いとゞ心よく、いろいろのこと語り出で、
「吾(わが)國主の庭も、よしといへども、手入方(ていれかた)おろかなれば、中々にかくは得及ばず。今日(こんにち)是迄、多く見し家家もこれには及ばず。殊に主(あるじ)の樣(さま)、又、主ぶりも、かくは行屆(ゆきどど)き侍らず。且(かつ)、もてなしぶりのみならず、種々の珍味に飽(あき)てけり。酒も數盃(すはい)に及びたれば、今は辭し侍る。」
といふに、一人がいふ。
「かく迄もてなしぶりよきに、如何なる謝儀の計らひにして歸らん。」
といへば、今一人がいふ。
「吾、聞及(ききおよ)びしは、江戶の風として、茶を乞ひたらんには、茶の價(しろ)を取らせ、酒肴(しゆかう)を出(いだ)したらんには、酒肴の價をとらすとこそきく。かゝる富貴めける家にても、其價はかはることなし。吾計(はから)ひ侍らん。」[やぶちゃん注:底本では「計」は「斗」であるが、国立国会図書館版を採った。後の『吾ながら、よく計ひけり』も同様の仕儀。]
とて、懷中より細金(こまかね[やぶちゃん注:底本のルビ。])壹つ取出(とりいだし)て紙におしつゝみ、
「これは少し斗(ばか)りなれども、いさゝか先程よりの謝儀として、二人の者より送り侍る。」
とて差出(さしいだ)しければ、法師は、いなみもやらず、
「心づかひ、なし給ひそ。」
とて、火入の箱の上に置(おき)けり。二人はよろこびて、おもふに違(たが)はず受け納めぬれば、
『吾ながら、よく計(はから)ひけり。』
とて、いとまを乞ひて立(たち)ぬ。
一人がいふ。
「かく迄によき主ぶりの家は又なきを、再び來りて訪(おとな)ひもし、又、何某々々など打連れて來らんに、家の名を問ひ侍らでは叶ひがたし。」
とて、家の名をとひしに、法師が、
「これ持(もち)玉へ。」
とて、札紙にかきたるを出(いだ)せり。
請取(こひとり)て、紙挾みに入(いれ)たれば、『後日に見ん』とて、立出て家に歸りけり。
[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が施されてある。]
明けの日は、國主の館につかへまつる日なりければ、二人の者も出で、諸人(もろびと)と樣々の物語する中に、
「扨も、昨日(きのふ)の遊び程面白かりつることは覺えず、隅田川の堤は絶景に侍れども、殊に勝れたるは植木の花作りが家の園なり。そが中にも白髭の社(やしろ)のこなたあるあたりに、殊に勝れたる植木師がり立(たち)よりて、酒肴のもてなしに預りたるは、又なく心よく覺ゆる。」
など語るに、諸人、問(とひ)侍りて、
「其家は何とかいふ家ぞ。」
ととふに、一人がいふ。
「札紙にしるせし名を請取たれども、家にのこし置たれば思ひ出でず。」
一人がいふ。
「吾は名は問ひ侍らねども、座敷の鴨居の上に、石摺(いしずり)にしたる大文字を額に張りて懸けたるが、主じの名かと思ひ侍る。しかし、とくとも覺へ侍らねども、『石』へんに『頁』したる字と、今一字はわすれたり。扨、其(その)家の樣(さま)、主の法師の樣、細やかに問ふに、答ふる所、其あたりの植木師が家にあらず。
諸人の内に心付(こころづき)たるものありていふ。
「先に聞けることあり。もろこしに、沈德潛(しんとくせん)といへる人ありて、しかじかの文字を書(かき)て額に張りしを、後の人、石摺となして、長崎の津に持(もち)て來にけり。こゝに又、何がしといへる有德人(うとくじん)あり、當都將軍の御覺(おんおぼえ)深くて、今は仕(つかへ)をやめて法師となりて、隅田川のつゝみにいませるよし、其名石摺の文字と音(こへ)おなじければ、さる人、送り奉りしより、額にはりて掛け玉ふときく。其文字に疑ひなし。其御人ならば、今仕へは止め給へども、常に將軍の御召しにより登城も爲し給ひ、御覺へ以前にかわらず[やぶちゃん注:ママ。]、此御人にとり入(いり)候(さふらふ)てとあれば、如何なる望みある人も、叶はずといふことなし。こゝをもて、いづれの國主・城主たりとも、この御名を聞(きく)ときは、おそれ玉はずといふことなし。かの二人がもしあやまりて植木作りの家と見て、無禮のことあらば、一大事なり。とくとく家に行(ゆき)て名書(ながき)の札紙、もてこよ。」
といふに、二人も大(おほい)におどろき、
「左(さ)なりけるか。當所不案内のことなれば、是非なしとはいへども、云譯(いひわけ)もなき粗忽(そこつ)なりけり。」
などいう[やぶちゃん注:ママ。]内に、一人が歸り來て、
「違(たが)はざりけり。」
とて、差出(さしいだ)す名札は、まさに其御人の名にて有(あり)ければ、
「こは。いかにせん。」
と、みな一同に、かたづをのみけり。
かくて、二人のものをば、先(まづ)、家におしこめ置(おき)て、國主には告げで[やぶちゃん注:底本「告けで」。国立国会図書館版「告げて」。後の展開から、特異的にかく表記した。]、重役のつかさ人(びと)より、使者もて、隅田つつみの館に言入(いひいれ)けるは、
「國主の家の者なるが、今度(このたび)國より出(いで)たれば、物のわきまへもなく、昨日(さくじつ)御館(おんやかた)に推參して、上(うえ)なき無禮に及びしよし、申出(まうしいで)侍るにより、二人ともに家におしこめ置(おき)て候が、いよいよ、さあらんには、如何なる刑に行ひ申(まうす)べきや、此むね、伺ひのため、參越(まゐりこ)したる。」
旨、申入(まうしいれ)ければ、頓(とみ)に使者の趣(おもむき)取次(とりつぎ)て申入(まうしいれ)けるに、
「使者、こなたへよべ。」
とて、召しけり。
おそるおそる、入(いり)ければ、先(さき)の二人が申(まうし)つる法師、しとねの上にありて、
「きのふ來りしは、田舍の人なるべきが、庭の草木見んとて望むに任せて、ゆるして見せたるなれば、決(けつし)て無禮のことなし。『おしこめ置(おき)たり』とは、大(おほい)なるひがことなり。國主の耳に入(いる)べき理(ことわ)りなし。とく歸りて此趣き申聞(まうしき)けべし。」
とて、歸しける。
其後は如何になり行(ゆき)て事濟(ことすみ)けんか、しらず。
此法師も世を去り、故ありて隅田の花園も、今は田畠となりて、跡もなし。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体がポイント落ちの二字下げ。]
◎御小姓頭取中野播磨守隱居シテ石翁トイフ。墨田川ニ別莊アリ。其娘於美越、文恭廟ニ侍シテ加州公主溶姫、藝公主末姫ヲ産ム。
[やぶちゃん注:「中野播磨守」旗本中野播磨守清茂(きよしげ 明和二(一七六五)年~天保一三(一八四二)年)のことである。九千石。別名を中野碩(或いは「石」)翁(せきおう)。通称は定之助。ウィキの「中野清茂」によれば、父は三百俵取りの徒頭(かちがしら)『中野清備。正室は矢部定賢の娘。後妻に宮原義潔』(よしきよ:高家肝煎)『の娘を迎えたが、離婚している。また川田貞興の娘も妻とした』。『鋭い頭脳を有し、風流と才知に通じていたとされる。幕府では御小納戸頭取』(原注(天暁翁浅野長祚のそれであろう)の「御小姓頭取」というのは、この誤認か)、『新番頭格を勤め、十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であった。また、家斉』(彼の諡号は文恭院。原注の「文恭廟」は彼のこと)『の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもある』(彼女は後注しるが、原注の「其娘於美越」の「越」は「代」の誤記か誤判読と思われる)『新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した。隠居後も大御所家斉の話し相手として、随時』、『江戸城に登城する資格を有していた。このため』、『諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが』、天保一二(一八四一)年に『家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、その翌年に死去した』。『漢学者』五弓久文(ごきゅうひさぶみ)の「文恭公実録」に『よると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は一橋穆翁こと徳川治済』(はるさだ/はるなり)、『島津栄翁こと島津重豪』(しげひで)。『一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として白河楽翁こと松平定信が挙げられている)』とある。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であり、彼が加増地没収と別邸取壊処分を受けてから、七~九年以内の記事となる。所持する江戸切絵図類を見ても、どの辺りかも探り得なかった。豪邸変じて田畑と成る。
「於美越」前注で示した通り、中野清茂の養子で第十一代将軍徳川家斉の側室の一人で、寵愛された専行院(せんこういん 寛政九(一七九七)年~明治五(一八七二)年)。俗名は「美代」或いは「伊根」とも。ウィキの「専行院」によれば、『実父は内藤造酒允就相』(ないとうみきのじょう(「なりすけ」か))、『養父が中野清茂とあるが、真の実父は中山法華経寺の智泉院の住職で破戒僧の日啓とされている』『はじめ駿河台の中野清茂の屋敷へ奉公に上がったが、清茂は美代を自身の養女として大奥に奉公させ、やがて美代は将軍家斉の側室になり』文化一〇(一八一三)年三月二十七日に溶姫を、文化一二(一八一五)年十月十六日に仲姫を、文化一四(一八一七)年九月十八日に末姫を産んでいる。『仲姫は夭折したが』、「溶姫」は加賀藩第十二代藩主前田斉泰(なりやす)の正室となり、「末姫」は安芸国広島藩第九代藩主浅野斉粛(なりたか)の正室となった。『家斉の寵愛が深く』、天保七(一八三六)年、『家斉にねだって』、『感応寺を建てさせ』、『将軍家の御祈祷所にした上、実父の日啓を住職にさせることに成功している。この感応寺では大奥の女性達が墓参りと称して寺を訪れ、若い坊主と遊興に耽っていたとされる。また』、『前田斉泰に嫁いだ溶姫との間には前田慶寧が誕生したが、大奥での権勢を固めたい美代は』、『家斉に慶寧を』、『いずれ』、『将軍継嗣にして欲しいとねだり、家斉の遺言書を偽造したとまでいわれている』。『家斉死去後は、落飾し、専行院と号して二の丸に居住した』。『慶寧の伯父(溶姫の異母兄)である』。第十二代将軍『徳川家慶が政治を行うようになると、老中首座の水野忠邦は天保の改革を開始し、手始めに大御所時代に頽廃した綱紀の粛正に乗り出し、寺社奉行阿部正弘に命じ、感応寺、智泉院の摘発を行い、住職であった日啓は捕縛され、遠島に処された(刑執行前に獄死)。このとき専行院は、西の丸大奥筆頭女中だった花園とともに押込になり、養父・中野清茂も連座して押込を申し渡された』。『専行院のその後について、三田村鳶魚は「江戸城から追放され、娘の溶姫の願いで』、『本郷の加賀前田家屋敷に引き取られた」とし、広く信じられてきたが、それを裏付ける史料はない。一方で』、『三田村鳶魚が天璋院付きの御中臈だった村山ませ子から聞き取ったところによれば、「二の丸にいて、文恭院(家斉)のお位牌を守っていた」ということで、こちらには、少なくとも』、文久二(一八六二)年、徳川家茂の代まで江戸城大奥二の丸に健在だったとみられる傍証がある』。明治五(一八七二)年六月十一日、『文京区の講安寺にて死去』、享年七十六歳と伝えている。『駒込の長元寺に葬られたが、後に金沢市の野田山の墓地に改葬された』とある。]