反古のうらがき 卷之四 才子美人
○才子美人
所はいづこにや、才子と美人とありけり。男は才の秀たるのみならず、容(すがた)さへ人にすぐれてみやびやかなりければ、其父母はいふもさらなり、凡(おほよそ)しれたる程の人、皆、めでずといふことなし。同じ友とまじわりても[やぶちゃん注:ママ。]、何事も藝能のすぐれたれば、友とはいへど、師のくらい[やぶちゃん注:ママ。]にぞありける。女はかたちのうつくしきがうへに心ざまやさしく、いとたけ[やぶちゃん注:「糸竹」。琴や横笛の演奏。]はいふに及ばず、諸々(もろもろ)の藝に精しく、物ごとまめやかに、人にまじろふ[やぶちゃん注:交際する。]ことさへ、すぐれてよかりけり。かゝる人々の同じ所に住(すみ)て、相しれる中なれば、「果(はて)は夫婦となりて、天の才子美人を生(しやう)じ玉ひし御(み)こゝろにかなふべきは、人間の力を用ゆるに及ぶべからず」と、人々、見許(みゆる)して[やぶちゃん注:(二人が親密にするのを本来はやや節操を欠くとして咎めるべきところを)見ながらも、とがめないでおき。見逃してやり。]、言名付(いひなづけ)などのよふに婚姻の時をぞ待(まち)にけり。男女のたがひのこゝろのうちにも、『かくあるべし』と思ふにぞ、敢て戀(こひ)わぶる事もなく、世の人のいふ事を言ひ約束のごとく思ひて、時、經にけり。かく定まりたることのよふに思ふものから、佗(ほか)より言(いひ)よる人もなく、のけものゝよふにぞ有(あり)けり。男女(ふたり[やぶちゃん注:私の勝手な読みである。])もこゝろにかくは許せども、誰(たれ)もていひよらんたよりもなけれど、よのつねの人の戀するさまも珍らしからず、かく天より結びし緣なれば、自然に任(まか)すとも、今、はた、われを捨て佗人(たにん)に許さんよふ[やぶちゃん注:ママ。]はあるまじと、こゝろにおちゐて、月日をぞ得ける。扨も、男廿一、女十八といふ年のはる、男女ともに、他(ほか)より、婚姻の事、いひ入(いる)る人ありて、其方(そのはう)にぞ許しける。互の父母のこゝろには、克(かつ)て貴き人に緣結ぶならん、此方(こなた)より言出(いひい)で、ことならずば、恥なるべし、若(も)し、貴き人を求るこゝろなくば、必(かならず)吾方に言入ることあるべしと思ふにぞ、一言もいひ出さず、又、わざわざにまじわりもうとくして、親しみよる方を負(まけ)なりと思ひ、いたづらに、にらみあひて過(すぎ)ける。佗(ほか)の人、これを見て、もどかしさに媒(なこうど)となりて言入(いひいれ)たるに、思ふよふにおり合はで、遂には、互に、腹あしくなりて、事、やみにけり。古(いに)しへより、才子美人の緣はなきものなりといふ人ありしが、理(ことわり)に通達(つうたつ)したる人なりけり。かかれば、緣ありて人に妬(ねた)まれんよりは、緣なくて人におしまるゝも[やぶちゃん注:ママ。]、却て、才子美人の甲斐あるよふに覺ゆるなり。とかくに事は十分ならぬ方(かた)ぞ、なさけありて、よし。世に「痴人の福」といふこと、おふし[やぶちゃん注:ママ。]。薄命は才子美人のつねぞかし。惜しむも又、理(ことわり)に達(たつ)せざる人なるべし。
[やぶちゃん注:くどい叙述で、両「才子美人」の映像も一向に浮かばず、言っている理窟もつまらない。「反古のうらがき」の中では最も面白くない一条と私は思う。しかし、或いは、ここには作者鈴木桃野自身の隠された人生が裏打ちされているのかも知れない。]