柳田國男 うつぼ舟の話 一 /始動
[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年四月発行の『中央公論』初出で、後の昭和一五(一九四〇)年八月創元社刊の評論集「妹の力」(「いものちから」と読む)に収録された。
底本は国立国会図書館デジタルコレクション上記「妹の力」の当該の「うつぼ舟の話」(リンク先はその冒頭部)の章の画像を用いた。一部、誤植と思われる意味の通じない箇所は、ちくま文庫版全集と校合して訂した。但し、その個所は特に注していない。
私は、私の高校国語教師時代のオリジナル古典教材授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」(©藪野直史)を公開しており、実際に授業もやったが、その『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』で本篇の「二」に登場する、滝沢馬琴の「兎園小説」の、琴嶺舎(馬琴の子息滝沢興継のペン・ネーム)の報告になる「うつろ舟の蛮女」を電子化訳注し、さらに子細な考証も行っている。
いわば、それを補助するものとして、この「うつぼ舟の話」一篇のみを電子化することにした(「妹の力」総てではないので注意されたい)。但し、今までの本カテゴリ「柳田國男」での、有意な分量の単行本ではあったが、「蝸牛考」(完成に一年)や「一目小僧その他」(同じく一年三ヶ月)ような詳細注は附さないこととする。私の場合、注を附け始めると、徹底しないと気が済まなくなり、テクストの完成自体に上記の通り、ひどく時間がかかってしまうためである。但し、私自身がどうしても附けたくなる箇所、致命的に判らない部分・疑問部分及び私自身が柳田國男の見解に反論がある場合、また、若い読者が躓きそうな熟語の読みや意味についてはその限りではない。その場合は当該箇所の直後或いは段落の後に注を挿入することとする。……とか言いつつ、結局、元の木阿弥化した。……まあ、仕方ねえな、俺の「性(さが)」じゃけぇ……【2018年9月15日 藪野直史】]
うつぼ舟の話
一
今から百六十五年前の寶曆七年の八月の或日、辨慶法師の勸進帳を以て世に知られた加賀國の安宅(あたか)の濱に、一つのうつぼ舟が漂著したと云ふ舊記がある。「うつぼ舟」とは言ひふらしたけれども、其實は四方各九尺ばかりの厚板の箱で、隅々を白土のしつくひをもつて固めてあつた。開けて見ると中には三人の男が入つて死んで居る。沖で大船が難破するとき、船主その他の大切な人、または水心を知らぬ者を斯うして箱に入れ、運を天に任せて押し流す例があるといふ。果して其樣な事があるものかどうかは心元無いが、たとへ死んでも姿だけは、何處かの海邊に打ち寄せられることを、海で働く人たちが願つて居たことだけは事實である。
[やぶちゃん注:「寶曆七年」一七五七年。同年「八月」は一日がグレゴリオ暦九月十三日。
「九尺」二メートル七十三センチメートル弱。]
如何なる素性の人間であつたか、久しく郡代の手で尋ねて見たが、終に何らの手懸りも無かつた。そこで亡骸は先づ砂濱の片端に埋め、木の箱はこれを毀して、供養の爲として其あたりの橋の板に用ゐしめた。其時諸宗の寺々より三人の塚に會葬して、有難い追福の行事が行はれたのであつたが、尚海上の絶命に迷ひの念慮が深かつたか、但しは南蠻耶蘇の輩であつて佛法が相應しなかつたものか、夜分は時として此墓から陰火の燃えることがあつたと謂ふ。遺念火(ゐねんび)の怖ろしい話は、最も此類の墓所に多かつた。必ずしも目の迷ひで無くとも、他の場合には心付かずに過ぎてしまふ出來事を、何かと言ふと思ひ出す者が、其方角ばかり眺める故に、特に見出して騷ぐことになつたのであらう。河内の姥が火とか尾張の勘五郞火とか、百をもつて算へる全國の同じ例が、場所や時刻を一定して、其上理由までもほゞ似て居たことを考へると、たとへば天然普通の現象であつたにせよ、やはり非業の死を傷む人の心の動きから、作り設けた不可思議といふことになるのである。
[やぶちゃん注:「姥が火」私の「諸國里人談卷之三 姥火」を参照されたい。ウィキの「姥ヶ火」もよい。
「勘五郞火」「かんごらうび(かんごろうび)」。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」によれば、『続く日照りに思い余った男が他人の田から水を盗み、それがばれて殺され埋められた。子を失ったその母もあとを追った。それ以来、夏の夜には二個の陰火がとび、青木川の堤防は毎年きれるようになった』とある(出典はリンク先を参照のこと)。]
又箱の板を橋に架けたということも、同じく古風な日本人の、優美なる心遣ひであつた。奈良では藥師寺の佛足石の碑の石なども、久しい間佐保川の橋板に用ゐられてあつた。冬の徒涉りの辛さを味わつた者ならば、この萬人の脚を濡らすまいとする企ての、尊い善根の業であることを理解する。人を向ふの岸へ渡すといふ思想には、更に佛教の深い趣意があつて、地藏樣などは牛馬にも結緣させんがために、橋になつて踏まれてやらうといふ御誓願さへもあつた。けだし北國の濱邊の昔のたつた一つの出來事でも、斯うして記錄になつて傳はつて居ると、次から次に思ひ掛けぬ色々の問題を、考へさせずには置かぬのである。
[やぶちゃん注:「徒涉り」「かちわたり」。]
但し自分がここで少しばかり、話の種にして見ようと思ふのは、さほど込み入つた民族心理の法則などでは無い。この大海を取繞らした日本國の岸には、久しい年代に亙つて流れ寄る物が無數であつた。曾ては半島の出水に誘はれて、所謂天上大將軍の怖ろしい面貌を刻んだ木の杭が、朝鮮から漂著したことも一再でなかつた。羽後の荒濱では蛾眉山下橋と題した橋柱を、漁民が拾ひ上げたといふ奇聞もある。沖より外の未知の世界は、殆どある限りの空想の千變萬化を許したにも拘らず、如何なる根強い經驗の力であつたか、海を越えて浮び來たる異常の物は、例へば死人を納めた木の箱のごときものまで、我々の祖先は一括して、常に之を「うつぼ舟」と呼ばうとしたのである。それがもし偶然の一致で無ければ、卽ち何らかの原因の隱れたる、不思議な國民の一つの癖である。つまらぬ問題のやうではあるが、もし之に基づいて新たに見出さるべき知識があるとすれば、是もやはり學問のうちではあるまいか。
[やぶちゃん注:「天上大將軍の怖ろしい面貌を刻んだ木の杭」朝鮮民族の村落に見られる魔除けのための境界標である、尖塔部に厳めしい武人の頭を彫り込んだ「除魔将軍標」或いは「将軍標」(朝鮮語音写:チャングンピョ)のこと。]