反古のうらがき 卷之二 賊
○賊
[やぶちゃん注:主人公の名はルビがない。須藤三次なる個人は不詳であり、名の「三次」は「みつぎ」・「みつじ」・「みつよし」・「みつつぎ」・「みつぐ」・「みよし」・「さんじ」など多様な読みがある。お好きなそれで読まれたい私は個人的趣味から如何にも名前らしい「みつぐ」で読んだ。]
予が門人須藤三次は、何某が門人にて劒術を學びたり。膽太く、力も強ければ、よく遣ひてけり。
何某が家に若侍ありけり。これも劒術を好み、免許迄、受(うけ)けり。召使ひの女と申約(まうしかは)せしこと、あらわれて、いとまに成(なり)たるが、或日、寒稽古とて、主人は稽古場へ出(いで)たるを伺ひ、竹具足(たけぐそく)に身をかため【宵より忍び入(いり)たると見えて、稽古人(けいこにん)の竹具足を奪ひてきたる也。】、大太刀引拔(ひきぬき)て、女どもが食事の一間(ひとま)の椽下(えんのした)より跳り出で、直(ただち)に椽にかけ上(あが)りたれば、女どもは一聲、
「あ。」
と叫ぶまゝに、一同、伏轉(ふしまろ)びて、稽古場の方へと逃(にげ)にけり。
其日は常より稽古人も少く、古き門人は三次壹人にて、其餘は免(ゆる)しも受(うけ)ざる少年の人のみなりければ、先づ、門の方へは三次壹人をさし向け、何某は鎗おつとり、前後に門人を從へ【家内の變事に門人を前後に立てしは如何にといふ。】、一と間一と間と家の内を𢌞るに、大太刀を拔(ぬき)たる所にさや斗(ばか)り拾(ひろひ)ありて、人、なし。四方の圍(かこひ)も高ければ、出(いづ)べきよふなし、
「定(さだめ)て椽下ならん。」
とて、さがしけり。
三次は一方をあづかりたれば、
「でう口(ぐち)[やぶちゃん注:「でう」はママ。]より門へ出ん所を討(うつ)べし。」
と命ぜられたれば、一心に刀振上げ、待(まち)たるに、よくよく思へば、
『彼は吾より免許も先に受たれば、平日稽古にも一席を讓る人也。彼が刀は二尺五寸餘と覺へ、切物(きれもの)なるに、それが死に物狂ひとなり、飛出(とびいで)たらんには、首尾よく討留(うちとめ)んこと、心元なし。相打(あひうち)より外に手なし。餘儀なきことに命を果(はた)す。』
とおもへば、口惜しく、且は己が刀の二尺四寸斗りなるが、壹、二寸、短く覺えて心細く、惣身、石の如く堅くなりて、働き、自由ならぬようにて俄に息切(いきぎれ)し、稽古、四、五人を相手にせし後のよふに覺へければ、
『これにては、とても働(はたらき)、覺束なし、如何せん。』
とあんじ煩ふ程に、玄關に、雜巾をあらいたる、きたなげなる水の入(いり)たる手桶あるを見付(みつけ)、先づ、すくいて[やぶちゃん注:ママ。]、一口飮(のみ)たれば、大(おほい)に精神おさまりしを覺(おぼえ)けり。
拔刀引(ひき)そばめて待(まつ)ことしばらくして、でう口のくゞりをのぞき見るに、内に見かへしのつい立(たて)あり、其下より人の足の見へければ、
『すは、出來(いでく)るよ。』
と、刀、振上げ、
『今ぞ、一生懸命の所。』
と待(まち)かけたれば、此時は、眼くらみ、物の心も覺へぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]にてありける。
よくよく見れば、敵にはあらで、主人其外の人にぞありける。
「いかに、いかに。」
と互(たがひ)に聲かけ、
「いづち、行けん、見へず。」
といひけり。
「されども、家の内に疑ひなし。今一度、𢌞らんと思ふなり。此度(このたび)は此口より逆に向ふべければ、最早、でう口を圍むるに及ばず。表の座敷に手鎗あり。取來(とりきた)りて持(もつ)べし。」
といふ。
三次、思ふに、先の如く、おそろしかりしも、打物(うちもの)短く覺ゆる故なり。
『手鎗ならば心づよからん。』
とおもひ、
「心得たり。」
とて取に行けるに、其道筋は、やはり彼(かの)賊がおどり上りたる椽より上りて、表座敷へ行(ゆく)なれば、いかなる所に潛み居(を)らんも計りがたし。
おもひ切(きつ)て行たれば、事も無し、歸り道は二十四、五間の三尺斗なる「ひやわひ」なり。
鎗を持(もち)ながら、五、七間、行(ゆき)たるに、つかみ立てらるゝよふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]に覺へて、十五、六間は息をもつきあへず、かけ拔(ぬけ)たるは、おそろしくもいゝ[やぶちゃん注:ママ。]甲斐なくも、吾ながら吾身ならず、足元より吹(ふき)とばさるゝよふにて、吾ならず走りたり。
此(この)十五、六間が内に、又、息切(いきぎれ)して、水をのみて、漸く心地付たり。
再び家の内を搜しけれども、行衞なく、遂に裏どなりの境なる板塀(いたべい)に土足の跡あるを見付て、
「逃去りける。」
とはしれり。
『さるにても、今、辰の刻斗りなるに、竹具足に白刃(はくじん)を持(もつ)たる者が往來へ出(いづ)べきよふなし。』
と思ふに、此あたりは、殊に人通り少なき所にてありければ、朝は早し、其姿にて逃さりけるなり。
事果(ことはて)て後、
「一同、骨折なり。分(わけ)て表口の一方は、殊に骨折なり。」
とて、右の鎗をもらひたり。
かゝる事に出合(であひ)たるは不仕合(ふしあはせ)なれども、又、心得にもなることとて、予に親しく語り侍る。
[やぶちゃん注:臨場感を出すため、改行を施した。
「召使ひの女と申約(まうしかは)せし」これは具体的な交情(肉体関係は未遂でも既遂でも構わぬ)を持ったことを指している。
「竹具足」竹で鎧の胴の形に作ったもの。剣道・槍などの稽古に用いる。
「家内の變事に門人を前後に立てしは如何にといふ」如何にも!
「でう口(ぐち)」不詳。しかし、思うにこれは「錠口」(但し、歴史的仮名遣は「ぢやうぐち」で現代仮名遣でも「じょうぐち」である)ではなかろうか? これは単に「錠を取り付けた箇所」の意もあるが、ここでは明らかに屋敷内の特定の出入り口を指していることから、これは、将軍や大名などの御殿や大邸宅に於いて、表と奥との境にあった内外から錠がおろされてあった出入り口である「御錠口(おじょうぐち)」を指しているのではないか? と考えた。単なる剣術家の屋敷ではちょっと考え難いが、後のシークエンスで、この「でう口」にいる三次が主人から「表座敷」にある槍を持ってくるように命ぜられるところで、その帰り路の距離を「二十四、五間」、四十四~四十五メートル半と述べていることから、この主人の屋敷は相応に広いことが確認出来るので(或いはどこかの藩の剣術指南役か何かなのかも知れない)、この「御錠口」と採って違和感はないのである。
「二尺五寸」七十五センチ七・五ミリ。
「命を果(はた)す」「命を落とすとは……、とほほ」。
「二尺四寸」七十二センチ七・二ミリ。
「二寸」約六センチ。
「くゞり」潜(くぐ)り戸(ど)のこと。大きな門扉の脇や下部に作られた、潜って出入りする扉。
「見かへしのつい立(たて)」奥向きが外から見えぬように配した衝立。
「三尺」道幅が約九十一センチ。
「ひやわひ」これは正しい歴史的仮名遣は「ひあはひ」、現代仮名遣は「ひあわい」で、漢字表記では「廂間」「日間」。小学館「日本国語大辞典」によれば、『廂(ひさし)が両方から突き出ていることころ。家と家との間の小路。日の当たらないところ』とあるから、主人の屋敷の内で、相応に高い単立家屋の壁が左右から迫って立っていて、道幅が九十センチメートルとごく狭く、しかも途中で逃げ場がない路地様の長い(四十四、五メートル余り)路地であることが判る。ここでかの乱心の手練れの賊と対峙しては万事休すである。
「五、七間」九メートルから十三メートル弱。
「つかみ立てらるゝよふ」「摑み立てらるる樣」で、前には人影は見えぬものの、背後から襟首辺りを摑まれて、引き上げられでもするか、という心地がしたのであろう。
「十五、六間」二十七メートルから二十九メートルほど。
「おそろしくもいゝ甲斐なくも」「怖ろしとも言はむかたなき」という究極の恐怖感に襲われた気持ちの表現。「ひあわい」の路地の閉塞感が恐怖感を倍加させているところが、映像的にも効果的である。
「辰の刻」午前八時頃。]

