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2018/09/25

柳田國男 炭燒小五郞が事 八

 

      八

 金屋が神と其舊傳とを奉じて、久しく漂泊して居た種族であるとしても、彼等と宇佐の大神との因緣は、此だけではまだ見出されないのである。又眞野長者を中心とした連環の物語が、其の不文の記錄から出たと云ふことも單に一箇の推測であつて、炭燒の一條が果して最初より是と不可分のものであつたか否かには疑がある。自分はたゞ此ほど奇拔にして且つ複雜な話が此ほどの類似を以て各地に偶發することは無いと信じ、何人かゞ運搬してあるいたとすれば、それは炭燒の業と最も親しかつた者が、古く信仰と共に或地方から持つて出たので、之を豐後とすれば比較的鍔目[やぶちゃん注:「つばめ」。]が合ふように思ふだけである。但しまだまだ解きにくい難題がいくらもある。

 例へば芋掘藤五郞の、イモは鑄物師と見てもよいが、奧州三戸(のへ)郡の是川(これかは)村には、蕪燒笹四郞(かぶやきさゝしらう)と爲つて同じ奇談が、路の行く手のヤチ[やぶちゃん注:「谷地」等と漢字表記し、草などの生えた湿地の意。普通に使用するが、青森の方言としてもある。]の鴨に、花嫁の二分金(ぶきん)を打ち付けることから、後に發見した大判小判を洗ふこと迄、あとは大抵其まゝで傳はつて居る。親の讓りのたつた一枚の畠地から、朝夕蕪ばかりを掘つて來て、燒いて來て食つて居たと云ふ點だけが違つて居る。遠くかけ離れて肥後の菊池の米原(よなばるの)長者、是も名前が薦編(こもあ)みの孫三郞であつたのと、鳥が白鷺であつた點を除けば、長谷の觀世音の夢の告げと云ふことまで、符節を合したる小五郞であつた。黃金發見者の職業は、只何と無く少し替へて見たのかも知らぬが、肝要な點である爲に看過することが出來ぬ。尤も肥後の方では程遠からぬ玉名郡の立願寺(りふぐわんじ)村に、匹石野(ひきしの)長者の舊記があつて、恰も中間の飛石を爲しては居る。此長者は貧しい炭燒別當であつた。花嫁は内裏の姫君、同じく觀世音の御夢想に由つて、女房十二人侍四人を從へて堂々として押掛けたまふ。但し此には水鳥の飛立つことは無く、靑年は只一つの石塊をツチロ[やぶちゃん注:辞書類では見当たらぬ語であるが、恐らくは薦編みの際に用いる糸巻のような中央に窪みのある錘、「ツチノコ」「ツツロ」のことではなかろうか? 「マネジャーの休日余暇(ブログ版)」の「椎木の薦上の薦編み」のページに木製のそれが使用されていることが確認出来る(写真有り)。また、神野善治氏の「手工用具」PDF)に『俵や菰、背負い袋を編むときに俵編み』(工具名。俵や菰を作製する編み台。リンク先に有り。)『と共に用いる。ツチノコ・ツツロなどという』とある。但し、「只一つの石塊を」用いてとあるところは、或いは、素材である藁や薦を加工し易くするために叩く「藁打ち槌(つち)」ことのようにも当初は思えた。しかも前記の神野氏の解説では、その「藁打槌」のことを鹿児島では「ワラウツゴロ」「ワラウチゴロ」と呼ぶとあるのである。]として、其炭薦を編んで居たとある。そのツチロはどこから持つて來たかと問うと、斯樣なる石塊は此山中に何程もあり、炭燒が家では水石[やぶちゃん注:「すいせき」。ここは泉水を作っている用材石と庭石の意であろう。]踏石まで皆此なりと答へ、乃ちそれが黃金であつたと謂ふ。此長者は早く退轉して、長者屋敷には瓦や礎が殘り、又例の糠(ぬか)の峰、小豆塚等の遺迹の他に、金糞塚と稱して鐵滓[やぶちゃん注:既出。「かなくそ」。]多く出る塚もあつた。鐵の滓が出ただけでは、之を以て黃金發見者の實在を證することが出來ぬ次第であるが、よく似た話は羽前の寶澤(はうざは)村にも有つて、藤太の相續人が建てたと云ふ石寶山藤太寺[やぶちゃん注:山形県山形市上宝沢(かみほうざわ)にある住吉神社(ここ(グーグル・マップ・データ))はブログ「蟻行記」の「住吉神社と炭焼藤太」に、同神社は『神仏混合時代は、真言宗石宝山藤太寺吉蔵院真言宗石宝山藤太寺吉蔵院であった』とある。同ブログは記事も必読。]は、是も炭燒男の語として、こんな石が三國の寶であるなら、私が山屋敷では藁打つ石まで、みんなこの石だと謂つたのに基くと傳へて居る。偶然の一致では無かつたやうである。而も炭燒が薦を編んだ、藁を打つたと云ふことも、よく考へてみると仔細があるらしい。卽ち單に炭を包む爲だけに斯んな物を作つたのでは無く、金屋は一般に其製品の輸送に付て[やぶちゃん注:「ついて」]、特に薦を大切にしたかと思ふ。江州長村(をさむら)の鑄物師の神は、豐滿明神(ほうまんみやうじん)と稱へて其音は宇佐の御伯母神[やぶちゃん注:「おほんはくのははのかみ」か(しかし、どう読んでみても、ちっとも音通ではないが)。ウィキの「八幡神」によれば、『アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられて』おり、『宗像三女神は宗像氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされて』、『比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説がある』とある。]に近いが、もと高野(かうや)より移りたまふと傳へて居る。其時此地の米を獻上し、十符(とふ)の菅薦(すがごも)を二つに切つて下された。今に至る迄其由緖を以て、鑄物師は五符の薦を以て包むと云ふ。其意味はまだよく分らぬが、荷造りにも作法のあつたことを謂ふのであらう。江戸深川の釜屋堀[やぶちゃん注:底本は「金屋堀」であるが、調べてみると、地名としては「釜屋堀」が正しい。ちくま文庫版もそうなっているので、ここは本文を訂した。]の鑄物師は、上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた。當日の神事のツク舞の柱に、高く結附けられる徑[やぶちゃん注:「わたり」。]八尺の麻布の球は、必ず鍋釜を包裝する藁の殘りを納めて、其心(しん)につめたと云うふ話がある。此ばかりの材料から推測をするのは大膽であるが、宇佐神宮の以前の御正體(みしやうたい)が、黃金であつたと謂ひ、薦を以て之を包んだと謂ふ神祕なる古傳は、卽ち亦薦編みの孫三郞が、後終に米原長者と耀くべき宿緣を、豫め説明して居たものかとも考へられるのである。

[やぶちゃん注:今回、調べものをするうちに、すわさき氏のサイト内に「炭焼き小五郎/芋掘り藤五郎/運命の結婚/いざり長者」炭焼長者(再婚型)/丁香と海棠」「炭焼長者(父娘葛藤型)轆角荘の由来/薯童伝説/月の中の天丹樹の話」という本「炭焼き長者譚」の世界的でしかも膨大な資料集成を見出した。是非、ご覧あれ。

「上總の五井(ごゐ)の大宮神社に、十月十五日を以て始まる祭市(まつりいち)と古くからの關係があつた」「當日の神事のツク舞」現在、当該の大宮神社の兼務神社の一つに、市原市五井中央西にある上宿・宿大神社(しゅくだいじんじゃ)というのがあるが、「大宮神社公式サイト内の同神社の解説によれば、この神社は万治二(一六五九)年に『現在の鎮座地に移った』もので、『万治二年、五井の宿割りをした際に用いられた縄と、幣束を社殿に納め』、『五井宿の守り神として祭られた。また、塩焼き業に欠かせない竈を守る神として崇敬を集め』、『宿割荒神とも呼ばれる』とあり、現在の『宿大神社の例祭日は、十二月一日で』、『例祭日には、つくめまい(筑摩舞とも)と呼ばれる舞が演じられ、鍋釜市が開催されたと伝えられる(現在の五井大市』(ごいおおいち:三百五十余年の歴史があるという)『の起源)。つくめ舞は、現在行われていないため』、『詳細は不明であるが、文書には以下のように記されている』。『市街の中央に高さ二丈余りの大柱二本を組』み『建て、柱の頂上には麻布にて周囲八尺余経二尺許の球形を』『造り、太き麻縄二本を結び』、『以て階梯とし』、『多人数をしてそれを左右に引かしめ、舞人は獅子の仮面を冠り』、『白衣の装束を着し、頂上に昇りて舞を奉すを以て例とす。世俗に之を五井のツクメ舞と称せり』。『ツクメ舞が盛大に行われていた頃、万治年間より、五井は大きく発展し始めた。万治元年八月一日、深川の釜六・釜七という金物屋が鍋釜市を開いたのが、徐々に盛大に行われ、五井宿の守護神として尊崇を集めていた当社の祭礼と重なり、現在の五井大市へと発展していったと言われている』。『当社は、江戸時代の五井宿の地頭神尾家の崇敬も厚く、神尾家の紋入りの祭器具や調度品の寄進もあったと伝えられている。明治』一七(一八八四)『年の火災により焼失し』、『今に残されていない。その後』同年内に再建され、昭和七(一九三二)年の『修繕を経て』、『今に至っている』とある(ごくこじんまりとした小社である。リンク先に写真有り)。]

 孫三郞も小五郞も、畢竟するに常人下賤の俗稱である。此物語の盛に行はれた時代には、家々にそんな名の下人が多く使はれて居た。それ程の者でも長者になつたと云ふ變轉の面白味もあつたか知らぬが、尚大人彌五郞(おおひとやごらう)などの旁例を考へ合せると、特に八幡神の眷屬として、其名が似つかはしい事情があつたやうに感ずる。併し其點までは今は深入りせぬことにしよう。炭燒男の名としては既に列擧した藤次藤太の外に、尚阿波の糠の丸長者の傳説に伴うて、攝津大阪には炭燒友藏が住んで居た。長者の一人娘は父に死別れて後、家の守護神なる白鼠に教へられ、遙々海を越えて尋ねて來て嫁となる。奇妙に光る石塊を井戸の傍に出て洗つて見て、是が黃金ですかと謂つた若者が、曾てあの大阪に住んで居たと謂ふのは、今更の滑稽である。

[やぶちゃん注:「大人彌五郞」柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 九 大人彌五郎までを参照されたい。そこでも書いたが、鹿児島県曽於市大隅町岩川にある岩川八幡神社で行われる「弥五郎どん祭り」というのがある。私は大の祭り嫌いであるが、この岩川は私の母方の実家(祖父笠井直一。歯科医師)のあったところである。私は若き日の母が見た「弥五郎どん」の祭りを、死ぬ前に一度、必ず、見たいと思っている。]

 大隅鹿屋(かのや)鄕大窪村の山で、からかねを[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を發見したと云ふ觀音信者の炭燒は、初の名が五郞藏であつた。炭は暖い國に來るほど、段々と不用になる。故にもう是が日本の炭燒長者の、南の端であつても不思議は無いのだが、佐多の島泊(しまどまり)の山に新たなる意外が起らんとしつゝある如く、更に又波濤の千海里を隔てゝ、世にも知られぬ寂寞たる長者が住んで居た。宮古の島の炭燒太良(すみやきだら)は卽ち是であつて、事は本文に既に詳かに述べてあるが、自分が爰に問題として見たい唯一つの點は、冬も單衣ですむやうな常綠の島に在つて、尚且つ炭を燒きつゝ終に長者となることが、信じ得べき物語であつた根本の理由である。

 

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