反古のうらがき 卷之三 風俗
○風俗
[やぶちゃん注:読めば分かるが、所謂、トンデモ薀蓄の饒舌体なので、より判り易くするため、特殊な改行法を多用し、途中に注を挿入した。読み難いと思うが、悪しからず。桃野以上に私は我慢して注を附したのである。お察しあれかし。]
文政の季年にかありけん、散り殘る花に靑葉打交りて、日永く、風淸らなる日、友人の家に訪ひ侍りしに、其あたりなる友がき一人二人集りて、酒、打のみて居にけり。各(おのおの)心々(こころごころ)のこと、語り合たる中に、一人がいふ。
[やぶちゃん注:「季年」末年。文政は十三年十二月十日、グレゴリオ暦で一八三一年一月二十三日に天保に改元しているから、一八三〇年の初夏のロケーションである。
「友がき」「友垣」。友人。交わりを結ぶことを垣を結ぶのに喩えた語。]
「扨も、此頃の風俗、いろいろの好みある中に、願ひの如くにとゝのわぬ[やぶちゃん注:ママ。]ことのみ多くて、花の咲く山遊び、又は川風すゞしき舟遊びなども、心のくるしき事あれば、樂しからず。かく友どち、二人三人(ふたりみたり)、打(うち)よりてかたり合ふとても、時の風俗に出立(いでたち)て、同じ心の人とよりあふが、反(かへ)りて、樂し。」
などいゝ[やぶちゃん注:ママ。]けり。
[やぶちゃん注:「時の風俗に出立(いでたち)て」今の風俗の出で立ちをして。]
「いかなることか、時の風俗ぞ。」
[やぶちゃん注:これは貴殿の申される「時の風俗」とは「いかなること」を「か」言ふ「ぞ」の意か。或いは単に「いかなることが」貴殿の言ふ「時の風俗ぞ」の濁点落ちか。]
ととへば、先づ、男は、
「廿(はたち)のうへ、一つ二つ越たるが、さかり也。
身の丈(たけ)はひくき方ぞ、よき。
色は餘りに白からぬを、よく洗ひて、つやあるをよしとす。
目(まな)ざし・口元・鼻のかゝり、女めけるも反(かへ)りて、よろしからず。たゞにくからぬぞ、よき。
[やぶちゃん注:「かかり」作り。様子。]
髮のかゝりは、髭(ひげ)薄らかに、月代(さかやき)のそりたる跡、靑々として、油の氣(け)、少くて、つやあるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にすき立(たち)、元結の糸、數少(かずすくな)く卷(まき)て、手輕く推曲(おしま)げ、『イチ』の大きさと『ハケ』の長さと、其人の顏かたちにかなひたるが、よし。
[やぶちゃん注:「イチ」「日本国語大辞典」に、髷(まげ)の元結で括ったところから後方に出た部分を指すとあり、浮世風呂から『(イチ)が上り過たじゃあないかね』という引用例が示されてある。
「ハケ」「日本国語大辞典」に、男の髷の先端・髻(もとどり)の先・はけさき、とあり、「刷毛先」である。]
先づは『小銀杏』といへる結び樣(やう)ぞ、時の流行に叶へり。
[やぶちゃん注:ウィキの「銀杏髷」(いちょうまげ)によれば、『江戸時代を通して最も一般的だった男性の髪形』が「銀杏髷」=「銀杏頭(いちょうがしら)」で『現在』、『一般に「ちょんまげ」と呼ばれるのは』それであるとあり、『月代(さかやき)を剃り、髻を作って』、『頭頂部に向けて折り返し』、『その先(刷毛先)を銀杏の葉のように広げたもの(広げない場合も多い)』を指すが、『身分や職業によって結い方に特徴があ』あったとし、『武士の多くには』今の相撲取りのする『大銀杏が好まれた。髷尻と呼ばれる髷の折り返しの元の部分が後頭部より後ろに真っ直ぐ出っ張っているのが特徴で、町人の銀杏髷より髷が長く、髷先は頭頂部に触れるくらいで刷毛先はほとんどつぶれない。なかでも野暮ったい田舎の藩主などは頭頂部より前にのめりだすような、まるで蒲鉾をくっつけた状態の太長い髷をこれ見よがしに結うものもいた』。『武士ではあるが、町人の中に住まって犯罪捜査に従事する「不浄役人」の与力はもっと町方風の粋な銀杏髷を結っている。髷尻が短く髷自体も短くて細い。髷先を軽く広げ月代の広いサッパリとした「細刷毛小銀杏」がそれで、町人とも武士とも見分けがつきにくい(現代でいう、私服姿の捜査員である)。同じ街中で暮らすにしても浪人などは月代をきれいに剃らず節約のため』、『五分刈り状態で伸ばしていた』。町人の『いわゆる「江戸っ子」は髪形に気を使っていて、いつもきれいに剃りあげようと散髪屋に足しげく通ったために散髪屋が社交場になるほどだった。彼らの好みはやはり「小銀杏」だが、ここでも職業によって微妙に違いが見られ』たとある(太字下線やぶちゃん)。「コトバンク」の「大銀杏」の「大辞泉」のところにある画像で「大銀杏(武士)」・「小銀杏(町人)」・「浪人銀杏(浪人)」の図が見られる。]
扨、春着の小袖ならば、『羽二重(はぶたへ)』にかあらん、『七子(なゝこ)』にかあらん、何(なんに)まれ、『通し小紋』といふに染(そめ)て、『花色染(はないろぞめ)』の『秩父絹(ちちぶぎぬ)』を裏となし、『フキ』多く出して上に着るぞ、よき。
[やぶちゃん注:「羽二重」経(たて)糸・緯(よこ)糸に撚(より)をかけない生糸を用いて平織り又は綾織りにした後で精練と漂白をして(「後練り」と称する)白生地とし、用途によって染め等を施す。一つの筬羽(おさば)に経糸を二本、二重にして
通すところからこの名がついたとされる。柔らかく上品な光沢がある高級品である。
「七子」「七子織り」「斜子織り」は経糸・緯糸ともに二本以上を一単位として平織りにした絹織物。同じ本数の経糸と緯糸を打ち込んで織る。織り目が籠目のように見えることから、現在は「バスケット織」「ホップサック織」とも呼ばれ、
漢字では他に「魚子織」「並子織」などの表記がある。「魚子織」は外観が魚卵のように粒だって見えることからと言う。ふっくらとした厚地の織物で、帯地や羽織に用いられる、と創美苑の「きもの用語大全」の「斜子織」の解説にあった。生地画像は株式会社アルテモンドのこちらがよい。
「通し小紋」「小紋」はウィキの「小紋」によれば、『全体に細かい模様が入っていることが名称の由来であり、訪問着、付け下げ等が肩の方が上になるように模様付けされているのに対し、小紋は上下の方向に関係なく模様が入っている』とある。中でも「江戸小紋」は別格の格式あるもので、『江戸時代、諸大名が着用した裃の模様付けが発祥。その後、大名家間で模様付けの豪華さを張り合うようになり、江戸幕府から規制を加えられる。そのため、遠くから見た場合は無地に見えるように模様を細かくするようになり、結果、かえって非常に高度な染色技を駆使した染め物となった。また、各大名で使える模様が固定化していった。代表的な模様として』「鮫小紋」(紀州藩徳川氏)・「行儀小紋」及び本「(角)通し小紋」があり、これを特に「江戸小紋三役」と称する。他にも『「松葉」(徳川氏)「御召し十」(徳川氏)「万筋」、「菊菱」(加賀藩前田氏)、「大小あられ」(薩摩藩島津氏)「胡麻柄」(佐賀藩鍋島氏)があ』り、『このような大名の裃の模様が発祥のものを「定め小紋」「留め柄」という』とある。「通し小紋」の生地様態は、表参道の江戸小紋の店「染一会(そめいちえ)」のこちらがよい。
「花色染」「花色(はないろ)」は青系統の代表的な伝統色で、強い青色を指すので、ここもその染め色のことであろう。サイト「伝統色のいろは(日本の色・和色)」の「花色」によれば、奈良時代以前は「はなだ色」、平安の頃は「縹色(はなだいろ)」の『色名で、江戸の頃より「花色」「花田色(はなだいろ)」と呼ばれるようにな』ったもので、『現代でいうところの』「青色」に当たるとあり、『ちなみに、「花色」の名前は平安時代にも見られ、これはもともと鴨頭草(つきくさ)(露草(つゆくさ)の古名)の花の青い汁で摺染(すりぞめ)していたことに由来し』、『いつからか』、『藍染(あいぞ)めに黄蘗(きはだ)をかけた色を指すようにな』っ『たが、色名はそのまま残ったようで』ある、とある。
「秩父絹」現在の埼玉県秩父地方で生産される絹。着物の裏地として、当時はその丈夫さで知られていた。
「フキ」「袘(ふき)」。創美苑の「きもの用語大全」の「袘」の解説から引く。『袷の着物や綿入れの袖口や裾の部分で、裏地を表に折り返して、表から少し見えるように仕立てた部分。ふき返しとも』称する。『表地の端の傷みや汚れを防ぐため』及び錘(おもり)の『役割などを担ってい』るもので、『かつては、ふきに綿を入れる「ふき綿仕立て」があり』、『ふきに綿を入れて重みや厚みを持たせることで、裾がばたばたしなくなるという実用面の他にも、ふっくらと柔らかな美しいラインが出て、重厚な感じや着物の豪華さを引き立て』る役割をした。『このため、武家や富裕な商家の女性に好まれ』たという。『ふきの分量は流行で変化もあり、江戸時代中期には』一『寸以上の幅や厚みを持つものもあったといい』、『時代が下ると庶民にも広がり、明治~昭和初期にはふき綿入りの晴れ着も一般的にな』った『が、現在は花嫁衣裳や舞台衣装などに残るのみで』あるとある。但し、『綿を入れないふきは、今でも袷の着物や綿入れの袖口や裾に見られ』、『表布からちょっぴりのぞいて見えるふきは、配色などにおいてのデザイン性も兼ね備えてい』て、『今も昔も変わらぬ、実用と装飾の両面を併せ持つ工夫といえ』る、とある。]
かさねには『中形小紋』といへる染(そめ)の縮緬(ちりめん)に、おなじ【花色の事。】[やぶちゃん注:以上の【 】内は割注ではなく、「おなじ」の右添え書き。]こん染(ぞめ)の裏付(うらつけ)て、二つ三つ、打重(うちかさ)ね、黑染(くろぞめ)の『龍門』といへる絹に、白く紋(もん)付(つけ)たる上着も、よし。それも家の紋にかぎらず、紋の樣(さま)、心にくからぬよふ[やぶちゃん注:ママ。]に見つくろふて[やぶちゃん注:ママ。]、大きさ二寸計(ばか)りに、三所、付(つけ)たる、よし。
[やぶちゃん注:「中形小紋」本来は。型染(かたぞめ)の技術で、「小紋」よりも少し大きな型を用いて、中ぐらいの大きさ紋を染め出すものを「中形」と称したようである(後に今のような専ら浴衣地の呼称となった)。幾つかのページを見たが、まず、グーグル画像検索「中形小紋」がよかろうか。
「龍門」染織品の販売用商品名であるようだ。沢尾絵(かい)氏の論文「『宗感覚帳』にみる江戸時代前期の染織品の受容と価格―西鶴作品との比較検討を中心に―」(『日本家政学会誌』(第六十四巻第十二号(二〇一三年刊))(PDF)の「(4)越後屋呉服店の経営と呉服商品」(「越後屋呉服店」は現在の「三越」の前身)の章に(ピリオド・コンマを句読点に代え、「日本永代蔵」の刊行年の個所の表記を変更、注記号を省略させて貰った)、
《引用開始》
越後屋呉服店の繁盛の様子を、井原西鶴が『日本永代蔵』(貞享
五(一六八八)年)巻一ノ四「昔は掛算今は当座銀」でも取り上げている。ここでは、本来の三井八郎右衛門の名が三井九郎右衛門に置き換えられているが、店の規模、手代の人数、越後屋の特徴である現銀売り・掛値なしの商売といった内容は駿河町に移転後の越後屋呉服店の特徴であり、当時の越後屋呉服店の知名度の高さを窺うことができる。越後屋の大変な繁昌ぶりと共に、品揃えの豊富さも知ることができる。売場で扱われる商品の名称としては、金襴、日野・郡内絹、羽二重、紗綾、紅類、麻袴、毛織類、天鵞絨(天鳶兎)、緋繻子、龍門があげられる。これらの品揃えは、三井高好が記録した『宗感覚帳』の「亥七月店落残」「呉服物相場書上」の羽二重類、紗綾、紅類、羅紗や猩々緋(毛類)、びろうど、龍文といった名称と共通する。西鶴作品中の染織品と同じ名称を呉服屋の記録に見出せることで、西鶴作品に描かれている染織品を、当時実際に使用された呉服商品として捉える事が出来るのである。
《引用終了》
因みに、同論文の注の十七に、「日本永代蔵」の当該箇所が引かれてあり、確かに『龍門』とある。沢尾氏によれば、事実は『龍文』が正しいようだが、この薀蓄は桃野が記憶の中にあるものを再録したものであるから、殊更に指弾する必要はない。]
肌着の襦袢(じゆばん)、縮緬のしぼり染(ぞめ)ぞ、よき。襦袢の袖は無地の茶染(ちやぞめ)なるべし。
半ゑりは、皆、黑染の『八丈』、打(うち)そろひたる、よし。
[やぶちゃん注:「八丈」八丈絹。原産地とされる伊豆八丈島産の「黄八丈」を中心とした、平織りの絹織物で、八丈島産のものを「本八丈」と呼び、類似品が各地で生産されるようになった。着尺地(きしゃくじ:大人用の着物一着を作るのに要する布地)・夜具地などに用いられる。また、各地で生産されているものに「黒八丈」・「米沢黄八丈」・「鳶八丈」・「八丈紬」・「紅八丈」などがあり、「美濃八丈」・「尾張八丈」などの名も残っていると、「ブリタニカ国際大百科事典」にはあり、同事典の「黒八丈」には、黒色無地の絹布で、略して「黒八」ともいう。生糸を落葉高木の夜叉五倍子(やしゃぶし:ブナ目カバノキ科ハンノキ属ヤシャブシ
Alnus firma)の液に入れて煮出してのち、鉄分を多く含んだ泥土にもみ込むことで、ヤシャブシに含まれるタンニンと泥中の鉄分が化合して純黒色に染まる。現在の東京都あきる野市五日市付近を中心に産し、「泥染」と称したが、現在ではほかの機業地へ移ったとある。また、「大辞泉」には、主として和服の半襟・袖口や畳の縁などに使用される。黒色で、織り目を横に高くした絹織物で、初めは八丈島で織ったので、この名がある、とするから、八丈産ではない可能性が高い。]
ゆきたけは、少し身丈(みたけ)より長くして、ゆたかなる、よし。
[やぶちゃん注:「ゆきたけ」着物の裄(ゆき:着物の背の縫い目から袖口まで。肩ゆき)の長さ。
「身丈」この場合は、実際の背骨の中心から腕首までの長さを言っていよう。]
帶はよき品ほどよけれども、此頃の流行に隨ひては、『小白(こはく[やぶちゃん注:底本のルビ。])』の淺靑染(あさぎぞめ)ぞ、よき。幅、かねざし、一寸八分にくけ上げて、『伊勢松』といふ縫物師が仕立たるぞ、よき。
[やぶちゃん注:「小白(こはく)」不詳だが、或いは光沢のある絹織物か? 識者の御教授を乞う。
「淺靑染」薄い青緑色の「浅葱(あさぎ)」色に染めるたものであろう。
「幅、かねざし、一寸八分にくけ上げて」全然、意味不明。「くけ」は「絎(く)く」(現代語「絎(く)ける」)で、「縫い目が表に出ないような縫い方をする」の意か。そうすると、例えば帯の幅を曲尺(かねざし)の寸法で「一寸八分」(=五センチ二・七ミリ)分、内側に織り込んで縫い目を外に出さずに縫った帯の謂いか?
「伊勢松」帯職人の名前らしいが、不詳。]
『小白』の黑染をもて、袖形に作りたる頭巾のゆたかなるぞ、又なく、よし。
扨、上着の小袖、『黑小白』ならば、下着は『唐ざらさ』の靑にも、よし。
[やぶちゃん注:「唐ざらさ」「唐更紗」(からさらさ)であろう。インド産の更紗。木綿や絹に花・鳥などの模様を描いたもの。]
羽織は『七子』まれ、『八丈』まれ、『ケンボ』といへる小紋に染(そめ)たるに、同じく黑染の『八丈』の裏(うら)付(つけ)て、『毛拔合(けぬきあは)せ』といふに仕立(したて)、丈は二尺の上に出(いで)ざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にして、前下(まへさが)り無きぞ、よき。
[やぶちゃん注:「ケンボ」よく判らぬが、「憲法小紋(けんばふこもん)」のことではなかろうか。「憲法(けんぼう)染め」の「小紋」で、黒茶色の地に小紋を染め出したもの。慶長年間(一五九六年~一六一五)に吉岡流四代目憲法(直綱)(吉岡憲法は剣術吉岡流の歴代当主が世襲した名。渡来した明の人から伝授された手法を以って創始したと伝える染織の技術も相伝した)が考案したとされる。「吉岡染め」とも。ここは赤みがかった暗い灰色を地色として染めた小紋(染め)を指し、江戸時代には黒系統の平服として広く愛用された。私は「『ケンボ』といへる小紋」で、直ちに、芥川龍之介の「枯野抄」の、『と思ふと又、木節の隣には、誰の眼にもそれと知れる、大兵肥滿(だいひやうひまん)の晉子(しんし)其角が、紬(つむぎ)の角通(かくどほ)しの懷(ふところ)を鷹揚にふくらませて、憲法小紋の肩をそば立てた、ものごしの凛々(りゝ)しい去來と一しよに、ぢつと師匠の容態を窺つてゐる』という去来のそれを思い出したのである。
「毛拔合せ」二枚の布を縫い合わせて、両方の布に縫い目から同分量の被(きせ:縫い目が表から見えないように糸道に沿って深く折った時の、縫い目から折り山までの部分。折りきせ)をかけて仕立てる手法。]
かゝれば、武士・町人の分ちなく、よけれども、武士には今一つの好み、多し。
大小の刀は、いづれも短きぞ、よき。
大の方は、二尺の外に出(いで)ざる、よし。備前の太刀、細くとぎへらして、地金(ぢがね)、あらび、心金(しんがね)、きらきらと出(いで)たるに、『丁字(ちやうじ)亂れ』の燒刃、刃(やいば)近き所斗(ばかり)殘りたるが、反(そ)り深く、輕きぞ、よき。
[やぶちゃん注:「とぎへらして」「砥ぎ減らして」。
「地金、あらび、心金、きらきらと出たる」これは刀の真価としては、おかしいことを言っているように思われる。日本刀に求められるものは「折れないこと」・「曲がらないこと」・「よく切れること」で、この相い反する要求に応ずるため、折れぬように軟らかな「芯金(しんがね)」(ここで言う「心金」)という鉄を、曲がらずによく切れるようにするための「皮金(かわがね)」というよく鍛えた硬い鉄(炭素鋼)が包み込む構造になっているのである。「地金が出る」という言い方があるが、これは、太刀の研ぎをやり過ぎ、皮金が減ってしまって「芯金」がすっかり出てしまった状態を指すのであって(そこから、「表を取り繕っていたものが取れてしまい、悪しき本性が表われてしまった意味に転じた)、地金が「荒ら」んで、削れてしまい、その間から「心金」が「きらきらと」チラついて見える太刀はダメな刀なのではあるまいか? 実際に太刀打ちすることもなかった、このウンチク・ボンクラ侍のお飾り太刀であったとすれば、大いに満足、腑に落ちるとは言える。
「丁字亂れ」焼入れによって生じた文様「焼刃(やきば)」「刃文(はもん)」の一つ。丁子刃。代表的な乱刃の一つで、乱れの頭が丁子(クローブ)の蕾に似ていることに由来する。グーグル画像検索「丁子乱れ 刃文」を見られたい。]
小の方は一尺斗りの、極めて銘古く、極めて名高き品、よし。細き直(す)ぐ刀(がたな)の、金色(かねいろ)、白く見ゆるこそ、尊(たつと)げなれ。
茶染(ちやぞめ)の糸卷(いとまき)の柄に、黑塗りの頭(かしら)を卷(まき)かけて、白鮫(しろざめ)の粒(つぶ)揃(そろ)ひたるが、うるみのつやあるよふに[やぶちゃん注:ママ。]、うらに油をさし、それとしれざるよふ[やぶちゃん注:ママ。]にしたる、よし。
[やぶちゃん注:「日本刀・居合刀のNPS」のこちらの「柄巻き」(全三ページ)でその過程が具さに判る。
「頭」柄頭と採った。
「白鮫」サメの皮であるが、実際に使用されたのはエイの皮。表面がざらざらしていることから、滑り止め(柄の補強と柄糸がずれぬようにする)として柄木の被覆に使用された。
「うるみのつやあるよふに、うらに油をさし、それとしれざるよふにしたる」「潤(うる)みの光澤(つや)ある樣(やう)に、裏に油を注(さ)し、其れと知れざる樣にしたる」如何にも如何にもいやったらしい極みである。]
目貫(めぬき)は『いろ繪』あるぞ、よき。
[やぶちゃん注:「目貫」柄に附ける金具。「目抜」とも書く。元来は刀剣の茎孔(なかごのあな)へ通して、柄と刀身をがっちりと留めるための目釘(めくぎ)の上の金具であって、ごく実用的なもので(「目」とは「孔」のこと。それを「貫く」の意)、普通は、その上を前に出た柄糸で糸巻にしたので見えなかった。特に巻かずに露見しているものを「出(だし)目貫」と称した。しかし、中世末から近世に入ると、目釘と目貫は本来の機能的連結を失って分離してしまい、目貫は専ら、刀装(拵(こしらえ))の装飾の一つになってしまい、室町後期に装剣金工を業とする後藤家が出現して以降、「獅子」「虎」「竜」或いは「家紋」などの意匠がそこを飾るようになってしまうのである。
「いろ繪」「色繪」。金工用語。刀剣の装飾金具として、色彩の異なる数種の金属を組み合せて象眼(ぞうがん)文様を作ることを指す。]
『フチ』は銀の『四分一(しぶいち)』といへる、金或(あるい)は烏金(しやくどう[やぶちゃん注:底本のルビ。])の、立(たち)だけ、二分(ぶ)斗りなる平(ひ)ら形(かた)なるに、奈良の京にて作りたる細工のものぞ、このまし。
[やぶちゃん注:「フチ」縁金(ふちかね)。柄頭の逆の鍔側に附ける金具。
「四分一」色金(いろがね)の一つで、暗い灰色をした、銀と銅の合金。合金に於ける銀の比率が四分の一である事から名付けられた。参照したウィキの「四分一」によれば、『煮色仕上げで美しい銀灰色を示すことから』、『朧銀(ろうぎん、おぼろぎん)とも呼ばれ』、『朧銀には他に銀の表面に梨地(なしぢ)をつけ』て『光沢を消したものも含まれる』とある。
「烏金(しやくどう)」ルビで判る通り、赤銅(しゃくどう)のこと。銅に金を三~四%、銀を約一%加えた銅の合金。硫酸銅・酢酸銅などの水溶液中で煮沸すると、紫がかった黒色の美しい色彩を示すことから、本邦では古くから「紫金(むらさきがね)」「烏金(うきん)」などと呼ばれて重用された。
「立(たち)だけ」「だけ」は「丈」で、柄からの盛り上がったその高さ、の意であろう。
「二分」六ミリメートル。いやはや、細かい注文がお好きだね。]
鍔は、いかめしからぬぞ、よき。
其外の金(かな)ものは、金まれ、しやくどうまれ、さゝやかなる、よし。
さや塗(ぬり)は呂色(ろいろ)に『きすの魚の石』など塗(ぬり)こめたるか、又は『笛卷』といふに塗(るり)たるか、あわび貝の靑き粉(こ)をまきたるなど、いろいろ、あるべし。
[やぶちゃん注:「呂色」サイト「伝統色のいろは(日本の色・和色)」の「呂色」によれば、『黒漆の濡れたような深く美しい黒色』で、『漆工芸の塗りの技法のひとつである呂色塗からきた色名で、蝋色とも書』く。『呂色塗は京漆の代表で、中でも本堅地(ほんかたじ)呂色塗は大変な工程と高い技術を必要とし、また』、『表面を平滑に磨き上げる非常に技術の高い塗りだからこそ』、『専門職の呂色師が存在するほどで』あるという。『生漆(きうるし)に油類を加え』ずに『精製したものを塗ることで、色は黒色に近い深い光沢をもつ色にな』るとある。漆アレルギーの私には触れない。
「きすの魚の石」キス類(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科
Sillaginidae)の耳石(じせき:脊椎動物の内耳にある炭酸カルシウムの結晶からなる組織。平衡胞に含まれる平衡石で、平衡感覚と聴覚に関与する。よく目にする魚類のものが知られ、その断面は木の年輪のような同心円状の輪紋構造が見られ、事実、一日に一本の筋が形成される。これを「日輪(にちりん)」と呼び、年齢推定を日単位で行うことが出来る)であろう。キスは耳石が採取し易い。キス属シロギス
Sillago japonica のそれは「福井県水産試験場」公式サイト内のこちらで見られる。
「笛卷」笛巻塗(ふえまきぬり)。「銀座上州屋」の「刀剣用語解説集」より引く。『刀の鞘或いは槍や薙刀の握部に施された、主として赤と黒の段塗り模様。一寸ほどの間隔で円周方向に段差をつけて塗る手法がとられる。竹笛の節模様に似ているところからの呼称だが、風流な趣が感じられる』とある。]
但し、此(この)刀の事に尤(もつとも)心を用ひで叶はざること、あり。
[やぶちゃん注:「尤心を用ひで叶はざること」最も心を用いないでは(細心の注意と意識の集中を行わない限り)、決して叶わぬ(実行不可能な)こと。]
さやの小じりに羽織のすそのかゝり過(すぎ)たるは、藥師(くすし)めきて、見苦し。餘りに刀の鞘、出過(いですぎ)たるは、田舍武士めきて、見苦し。刀の小じりは『螢小(ほたるこ)じり』とて、金まれ、銀まれ、極めて薄くして、橫に見ては、無きが如く、後(しり)へより見て斗(ばか)り見ゆるよふに[やぶちゃん注:ママ。]したる小じりの、羽織の外に一寸(いつすん)出(いで)たらんは過(すぎ)たり。五分(ごぶ)、出(いで)たらんは、時によりて隱(か)くれて見えず、人の步む度(たび)ごとに、五分、一寸、五分、一寸、とかはりかはりに見ゆるぞ、よき。」
と、いゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。
[やぶちゃん注:「小じり」「鐺」「璫」等と書くが、元は「木尻」の意。刀剣の鞘の末端。また,そこに嵌める金物を指す。
「藥師」医師。
「螢小(ほたるこ)じり」以下に語られる構造から、何となくは判る。金銀の薄い薄片を埋め込んであれば、昼でも夜でも蛍の尻のようにそれこそ「木尻」が光るわけだ。
「後へより見て斗(ばか)り見ゆるよふにしたる」後ろから見たときだけ、辛うじて現認出来る様(よう)にした。
「小じりの、羽織の外に一寸(いつすん)出(いで)たらんは過(すぎ)たり。五分(ごぶ)、出(いで)たらんは、時によりて隱(か)くれて見えず、人の步む度(たび)ごとに、五分、一寸、五分、一寸、とかはりかはりに見ゆるぞ、よき」ここまで私が我慢して聴いていたら、その様子をその場で滑稽に演技してこいつ以外の連中の笑いを誘う、ね。
「いゝけり」ママ。]
余、こゝに至りて、聞(きく)事をおふるに得(え)たへずして、座を立(たち)て去りけり。
[やぶちゃん注:「おふる」ママ。「終へる」。私なら、一発、「地金、あらび、心金、きらきらと出たる」のところでチャチャを入れて、へこまして黙らせる、ね。
「得」は呼応の副詞「え」の当て字。]
數十年の後、思ひ出(いづ)るに、時の風俗は、目に見し事も忘れ侍れど、此事のみは耳に殘りて、今に語り出(いで)て話しの種となせり。