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2018/09/16

柳田國男 うつぼ舟の話 三

 

        

 

 大昔もこれとよく似たうつぼ舟が、やはり常陸國の豐良(とよら)の濱といふ處に漂著して、漁夫に拾ひ助けられたと云ふ話がある。廣益俗説辨の一節として偶然に傳へられて居る。欽明天皇の御宇、天竺舊中國霖夷大王の姫金色女、繼母の憎しみを受けて此舟に載せて流された。後久しからずして病みて身まかり、その靈は化して蠶となる。是れ日本の蠶飼ひの始めなりと、語る者があつたさうである。此俗説も同じく中世の造り言ではあらうが、起原は必ずしも甚だ簡單で無い。奧羽の各郡に住する盲目の巫女たちが、今に至るまで神祕の曲として傳承する所の物語は、何れも駿馬と婚姻した貴女の靈天に上り、後再び桑樹の梢に降り化して此蟲と成ると稱し、豐後で有名な眞野(まんの)長者をもつてその父の名とする者もあるが、話の内容は支那最古の傳説集、干寶が搜神記の記事と著しく類している。蠶の由來を説く必要のあつた者は、多分は蠶の神の信仰に參與した人々であらう。或時機緣が有つて斯ういふ外來の舊傳を取入れ、自他の昔を識らんとする願ひを充たしたことは想像してよいが、それとうつぼ舟の漂著とを、一見繼目も知れぬやうに繼合せたのは、別に海國に住む民の、數千年に亙つて、馴らされたる一つの考へ方が、働いて居たものと見るの他は無い。

[やぶちゃん注:「常陸國の豐良(とよら)の濱」サイト「Silk New Waveによれば(リンク先は各神社の解説ページ)、驚くべきことに、

茨城県つくば市にある日本一社の「蚕影(こかげ)神社」(つくば市神郡豊浦。『隣りにある老人保健施設「豊浦」にその名が残ってい』る)

日本最初の蚕養(こがい)神社」(日立市川尻町豊浦。『近くには小貝浜=蠶飼浜があ』る)

日本養蚕事始めの「蚕霊(さんれい)神社」(鹿島郡神栖町日川(豊良浦))

三つの場所にこの地名が現認出来る

「廣益俗説辨」は江戸前・中期の肥後熊本藩士で神道家の井澤蟠龍(いざわばんりょう 寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年)が一般の通説・伝説を和漢の書を引用して検討・批判した啓蒙書。以上のそれは、同書の附編(享保四(一七一九)刊)の「第六雜類」の「蟲介」に、「蠶食(こがひ)の始(はじめ)の説」として以下のように載る。私は正編しか所持しないので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(国民文庫刊行会編・大正元(一九一二)年刊)の画像を視認して起した。

   *

       蠶食の始の説

俗説云、欽明天皇の御宇、天竺舊仲國(きうちうこく)霖夷(りんい)大王の女子(むすめ)を金色女(このじきぢよ)といふ。繼母(けいぼ)にくみてうつぼぶねにのせてながすに、日本常陸國豐良湊(とよらのみなと)につく。所の漁人(ぎよじん)ひろひたすけしに、程なく姫病死して其靈化(け)して蠶(かひこ)となる。是日本にて蠶食(こがひ)の始(はじめ)なり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。【 】は二行割注。]

今按ずるに、此説は蜀方志、代醉編、搜神記等(とうに)載(のす)馬頭娘(ばとうぢよう)が事を、日本の事とせるものなり。【馬頭娘がこと印本の恠談全書にある故略ㇾ之。養ㇾ蠶法は黄省曾蠶經にくはしく見えたり。おのおのあはせ見るべし。】日本紀云、雄畧天皇命螺嬴國内蠶。續日本紀云、和銅七年二月辛丑始令出羽國養蠶と、是日本にあつて養(かえ)るのはじめなり、俗説用ふるなかれ。

    *

「日本書紀」と「續日本紀」のそれを訓点(ルビは省略してある)に従って訓読しておくと、

雄畧天皇、螺嬴(すがる)に命じて國(くに)の内の蠶(かひこ)を聚む。

和銅七年二月辛丑(かのとうし)、始て出羽國(ではのくに)をして蠶(かひこ)を養(か)はしむ。

である。「螺嬴(すがる)」は「日本書紀」「日本霊異記」に見える雄略帝配下の武人(武族)「少子部連螺嬴(ちいさこべのむらじすがる)」のこと。ウィキの「少子部スガル」には狂言か落語みたような「日本書紀」の『雄略天皇六年三月の条』(機械換算四六二年)の、『后妃への養蚕を勧める雄略天皇から日本国内の蚕(こ)を集めるよう命令されたが、スガルは誤って児(嬰児)を集めてしまった。雄略天皇は大笑いして、スガルに「お前自身で養いなさい」と言って皇居の垣の近くで養育させた。同時に少子部連の姓を賜った。とある』という養蚕。命名奇譚示されてある。「和銅七年」ユリウス暦七一四年。

「奧羽の各郡に住する盲目の巫女たちが、今に至るまで神祕の曲として傳承する所の物語は、何れも駿馬と婚姻した貴女の靈天に上り、後再び桑樹の梢に降り化して此蟲と成ると稱し」言わずと知れた「おしらさま」伝承である。ウィキの「おしら様を参照されたい。また私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 原蠶」も一つ、参考になろう。

「眞野(まんの)長者」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(8)』の本文を参照されたい。

「干寶が搜神記」「搜神記」(そうじんき)は私の偏愛する、四世紀に東晋の政治家文人干宝が著した志怪小説集。当該条は巻十四の以下。

   *

舊説、太古之時、有大人遠征、家無餘人、唯有一女。牡馬一匹、女親養之。窮居幽處、思念其父、乃戲馬曰、「爾能爲我迎得父還、吾將嫁汝。」。馬既承此言、乃韁而去。逕至父所。父見馬、驚喜、因取而乘之。馬望所自來、悲鳴不已。父曰、「此馬無事如此、我家得無有故乎。」。亟乘以歸。爲畜生有非常之情、故厚加芻養。馬不肯食。每見女出入、輒喜怒奮擊。如此非一。父怪之、密以問女、女具以告父、「必爲是故。」。父曰、「勿言。恐辱家門。且莫出入。」。於是伏弩射殺之。暴皮於庭。父行、女以鄰女於皮所戲、以足蹙之曰、「汝是畜生、而欲取人爲婦耶。招此屠剝、如何自苦。」。言未及竟、馬皮然而起、卷女以行。鄰女忙怕、不敢救之。走告其父。父還求索、已出失之。後經數日、得於大樹枝間、女及馬皮、盡化爲蠶、而績於樹上。其蠒綸理厚大、異於常蠶。鄰婦取而養之。其收數倍。因名其樹曰桑。桑者、喪也。由斯百姓競種之、今世所養是也。言桑蠶者、是古蠶之餘類也。案「天官」、「辰、爲馬星。」。「蠶書」曰、「月當大火、則浴其種。」。是蠶與馬同氣也。「周禮」、「教人職掌、票原蠶者。」。注云、「物莫能兩大、禁原蠶者、爲其傷馬也。」。漢禮皇后親採桑祀蠶神、曰、「菀窳婦人、寓氏公主。」。公主者、女之尊稱也。菀窳婦人、先蠶者也。故今世或謂蠶爲女兒者、是古之遺言也。

   *

梗概ならば、ウィキの「蚕馬」(さんば)にある。]

 しかもこれ以外には東部日本に於ては、空穗舟の話は未だ聞く所が無いのである。其信仰も亦舟の中の少女の如く、波に浮んで西南の方から、次第に流れて來たらしい痕がある。本來が人間ばかりの計畫に基づいて、開かれたる通路で無かつた故に、乃ち奇瑞として神の最初を説き、まだ家々の昔を誇る者が、之を遠くの故鄕から導いて來ることを忘れなかつたのである。歸化人の後裔としては、九州では原田の一族が、近い頃まで此口碑をもつて居た。是も右に謂ふ俗説辨の中に、筑前怡土(いと)都の高祖(たかず)明神は漢の高祖を祭つて居る。傳ふらく高祖の皇子一人、虛船につくり込めて蒼海に押し流され、終に此濱邊に到著す。皇子の姿かたち等倫[やぶちゃん注:「つねに」。]に超えければ、處の者ども奏聞を遂げ、敕許を蒙りて此地の主とす。苗裔は卽ち原田氏にして、タカズを高祖と書くは其謂れなりと稱したとある。但し此傳は歷史と合致せず、又同じ門流でも更に宗教的色彩の豐かな大藏氏などは、之と異なる由緖を主張して居るから、言はゞ後に世間の風にかぶれて、斯うも考へられたと云ふに過ぎぬのかと思ふ。

[やぶちゃん注:「広益俗説弁」のそれは「後編 巻三 士庶」の「原田種直は漢の高祖の裔(えい)といふ説」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。本文部は柳田の引用と大差ないので電子化しない。原田種直(保延五(一一四〇)年~建暦三(一二一三)年)は源平合戦期から鎌倉初期の武将。ウィキの「原田種直」によれば、『原田氏は天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧に活躍した大蔵春実の子孫、大蔵氏の嫡流。代々大宰府の現地任用官最高位の大宰大監・少監(大宰府の第三等官・管内の軍事警察を管轄)を世襲する。最初期よりの武士団のひとつ』。『保元の乱以降、大宰大弐(大宰府の第二等官)に続けて任官した平氏(平清盛・平頼盛)と私的主従関係を結ぶ。平清盛の長男・重盛の養女を妻とし、大宰府における平氏政権、日宋貿易の代行者となる』。『平氏の軍事力の中核のひとつでもあり』治承三(一一七九)年十一月の『平氏による政変では、郎党を率い御所の警護を行』っており、治承五年二月の九州に於ける『反平氏の鎮西反乱で』は『肥後の菊池隆直らと合戦』、また、寿永二(一一八三)年八月の「平氏都落ち」の際には』、『私邸を安徳天皇の仮皇居にしたと伝えられる』(「平家物語」・「筑前国続風土記」)。文治元(一一八五)年二月、源範頼軍との「葦屋浦の戦い」の際、弟『敦種が討ち死にし』、以降、同年二月の「屋島の戦い」、三月の「壇ノ浦の戦い」に敗北、『平家没官領として領地を没収された』。『関東(一説には扇ヶ谷)に幽閉されるも』、建久元(一一九〇)年に『赦免され、御家人として筑前国怡土庄に領地を与えられる』。『福岡県糸島市二丈波呂には、種直が平重盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる龍国寺がある』。『鎌倉市建長寺の裏山にも原田地蔵と伝わる故地があり、かつては地獄谷と呼ばれていたこの地にて処刑される平家の人々を、種直とその一族が弔ったものと考えられる』。『この地蔵堂はやがて心平寺となり、北条時頼の代にはその地に建長寺が創建された』。『一族およびその子孫は筑前・筑後・肥前を中心に繁栄。鎮西大蔵朝臣六家(原田氏・波多江氏・秋月氏・江上氏・原氏・高橋氏)といわれる家々を中心に国人領主、大名に成長するも、豊臣秀吉の「九州征伐」により没落。秋月氏を除き他家の陪臣となる』。『筑前国以外には、三河国の徳川家家臣団にも原田家があり、足助などには種直に因む千躰地蔵の話が伝わる。 江戸時代になると、旗本として数家に別れた。さらにそこから榊原氏家老や紀州徳川家重臣となった原田家もある』とある。なお、井澤蟠龍は本文後の評言で、大化年中(六四五年~六五〇年)の帰化人とするものの、当然の如く、『虛船(うつぼぶね)』説は否定している

「筑前怡土(いと)都の高祖(たかず)明神」現在の福岡県糸島(いとしま)市高祖(たかす)にある高祖(たかす)神社ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「高祖神社」に『創建は不詳』で、『伝承では、古くは大下の地に鎮座したが』、建久八(一一九七)年に『原田種直が当地に入るに際して、高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、高祖山の怡土城跡に高祖城を築城してその麓に高祖神社を移したという』。『また、古くは怡土城の鎮守神として祀られたとする伝承もある』。『糸島地方は』「魏志倭人伝」に『見える伊都国の比定地で(曽根遺跡群)、古墳時代にも古墳の密集地域として知られるが、一方で渡来系氏族による製鉄遺跡も認められており、上古の祭祀の性格については古来伝統祭祀と渡来系祭祀の両面で諸説がある』とある。]

 瀨戸内海沿岸の古い移住者の中には、之とよく似た家の傳説が、まだ幾らもあつたやうだが、そればかりで歷史を推定するが如きは、最も不安全なる學風である。たとえば周防の大内氏が歸化人の後だということは、最初百濟の琳聖太子[やぶちゃん注:「りんしやうたいし」。]、當國多々良濱[やぶちゃん注:「たたらはま」。]に上陸したまふという物語から出たのだが、元來の趣意は至つて遠い時代に、此地に降臨なされたと云ふ北辰妙見の宮と、家の起源を一にすることを主張し、其到著が神意に基づくことを説くに在つたので、太子は恐らくは尊神の御子を意味し、必ずしも本國が百濟であることを要しなかつたかと思はれる。しかも百濟が佛法の輸入國であつた爲か、或は後に述べんとする第二の理由からでもあつたか、備前の宇喜田氏の如きも、その系圖の最も信用すべからざるものに於ては、やはり百濟の王子をもつて第一世の祖として居る。大治二年[やぶちゃん注:一一二七年。]と謂へばかの王國が滅びてから、四百數十年も後の話である。百濟の國から王子を孕める姫宮を、うつぼ舟に乘せて海に放ち、其舟今の兒島に漂ひ寄る。三條中將といふ人此女性を妻に賜はり、腹ごもりの子生長して後に三條宇喜多少將と稱すなどゝ謂つて居る。或は千人のちごの千人目に當つた故に、京の三十三間堂の棟木を曳かしめたとも謂ひ、(大治二年といふのは其爲であらう[やぶちゃん注:三十三間堂は、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿の一画に平清盛に建立の資材協力を命じて長寛二(一一六五)年に完成したとされる。しかしこの付け合いも人を食った話で、後白河天皇はこの大化二年の生まれである。])、又は名作の鬼の面を取持[やぶちゃん注:「しゆじ」。]したために生きながら鬼になつて人を噉ひ[やぶちゃん注:「くらひ」。]、由つて再び兒島に流されたところ、某といふ山臥[やぶちゃん注:山伏。]これに行逢ひ、鬼面を取上げて切碎き終に其恠を退治した。兒島の瑜伽寺(ゆうがじ)の鬼塚はその面を埋めた塚だなどゝも傳へられ、今ではかの地方の信仰や口碑と混同して、手輕に本の姿を見定めることがむつかしくなつて居る。

[やぶちゃん注:「琳聖太子」(生没年不詳)は大内氏の祖とされる人物。ウィキの「琳聖太子」によれば、朝鮮半島の百済の王族で第二十六代聖王(聖明王)の第三王子で武寧王の孫とされる。名は義照。十五世紀後半に書かれた「大内多々良氏譜牒」に『よれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ』、推古天皇一九(六一一)年に『百済から周防国』の多々良浜(現在の山口県防府市)に上陸、『聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという』。『この琳聖太子を祖として名乗り始めた大内氏当主が、大内義弘である。義弘は朝鮮半島との貿易を重視した』。大内氏は、「李朝実録によれば応永六(一三九九)年には『朝鮮に使節を派遣、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。領地の要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が大内氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知れ渡っており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した』「大乗院寺社雑事記」の文明四(一四七二)年の項には『「大内は本来日本人に非ず』……『或は又高麗人云々」との記述が見える』とある。

「北辰妙見の宮」仏教に於ける天部の一人である妙見菩薩の別名。ウィキの「妙見菩薩によれば、『妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもので』、中国の神としては、『北の星宿の神格化』されたもので、『玄天上帝ともいう』とある。

「備前の宇喜田氏の如きも、その系圖の最も信用すべからざるものに於ては、やはり百濟の王子をもつて第一世の祖として居る」ウィキの「宇喜多氏」によれば、『従来から広く一般に敷衍している通説で、「兒」を旗紋とする百済の』三『人の王子が備前の島(現在の児島半島)に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわし、後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多(浮田)を名乗ったとするもので、本姓を備前三宅氏(三宅連:新羅王族子孫)とする』。この説は、「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」(「宇喜多能家画賛」)の『記載に基づくものである。宇喜多氏自身が称した出自であることから、地元岡山県に於いても古くから広く受け容れられ』、二十『世紀末以降に入って出版された岡山県史・岡山市史・倉敷市史など地方公共団体が編纂した歴史書などでも、この説を採っている』。『備前岡山藩士・土肥経平が安永年間にまとめた』「備前軍記」では、「宇喜多能家画賛」の『全文や宇喜多氏の出自についての諸説を紹介した上で、宇喜多氏の出自を備前三宅氏と結論付け、この備前三宅氏について「(宇喜多能家画賛とは異なり)新羅王族の子孫とするものもある』。『古代朝鮮王族の子孫が備前児島の東』二十一『カ村を指す三宅郷という地名から三宅連の姓を賜り、後の三宅氏となった」との説を紹介している』。『なお、備前三宅氏については、備前に置かれていた古代大和王権の直轄地である屯倉に由来するとの説も古くからある』。『浮田(宇喜多)姓に相当する地名は、古くに遡っても備前児島には存在せず、地名ではなく地形等に由来する姓であるものと思われるが、岡山県編纂の』「岡山県史」では、『宇喜多氏が本拠とした備前豊原荘一体にはもともと備前児島に由来する三宅氏が分布していたことから、宇喜多氏が本姓三宅氏で三宅氏の支流であることに矛盾はないとする』。『ただし、児島郡に三宅郷という郷名や三宅連という人名は見られず、三家郷と三家連の誤りと思われるうえ』、『三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫であり』、『宇喜多氏が称する百済王族子孫との整合性に大きな矛盾が生じる』とし、『一方で、上記の通説とは逆に、宇喜多氏が備前児島半島の三宅氏の先祖であるとする極少数説もある』。『百済王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となり、その系譜を汲む東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)の三家を祖として三宅氏の家の元祖とするものである。一説に、東郷太郎は百済王族の子、加茂次郎と西郷三郎は三条の中将と百済の姫の子とされ、藤原北家閑院流三条家の血を引くとする系図が多数を占める』。『具体的には三条実親の玄孫にあたる参議・三条実古』『の子公頼(加茂次郎)が、山城国大荒木村宇喜多又は、山城国大荒木田宇喜多社領』『から備前国東郷に下向、公頼の子・実宗(東郷藤内、土佐守)の時水沢姓が分かれ、実宗の子・信宗(宇喜多十朗)が宇喜多姓を称し(赤松家家臣浮田四郎敏宗の養子となったともいう)、信宗の子宗家(宇喜多修理進三郎、土佐守』)が文明二(一四七〇)年に『上道郡西大寺に居住したとする』。『なお、三宅姓は古くから確認できるのに対し、宇喜多姓自体は室町時代の』「西大寺文書」が『文献で確認できる初出である』とある。

「兒島の瑜伽寺(ゆうがじ)」現在の岡山県倉敷市児島由加(こじまゆが)にある真言宗由加山(ゆがさん)蓮台寺((グーグル・マップ・データ))の前身とされる寺。]

 しかしこれらの雜説を丁寧に仕分けてみれば、一つとして備前より外[やぶちゃん注:「ほか」。]では聞かぬと云ふものが無い。中にもうつぼ舟は系統が明瞭であつて、つまりは遙かなる海の彼方から、因緣あつて來たり寄るものは、昔も今も此舟を必要としたことを知るのである。現に對岸の伊豫に在つては、河野家の始祖と稱する小千御子(をちゑこ)も亦それであつた。大昔興居島(ごゝのじま)の漁夫和氣五郞大夫なる者、海上に出でゝ、一艘のうつぼ舟を見た。家に曳き還つて之を開き見るに、内に十二三歳の少女あり、我は唐土の者、仔細ありて此の如し云々。名づけて和氣姫とよんで養育し奉る。後に伊豫王子の妃となつて小千御子を生むと傳へ、船越といふ處には姫の御墓なるものが今も存する。常陸の荒濱の所謂アメリカの王女が、決して突發した空想でなかつたことは、もう是だけでも證明し得られるのである。

[やぶちゃん注:「河野家の始祖と稱する小千御子(をちゑこ)」河野氏は伊予国の有力豪族で、越智氏の流れを汲むとされる一族。個人サイト「おに」の「越智氏考や、古田史学会報〇〇八月木村賢司論考等が参考になる。]

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