反古のうらがき 卷之二 雪隱
○雪隱
或人、おゝやかなる館に行(ゆき)侍りて、夜に入(いり)てかわやに行けるが、其樣、いとひろびろとして、見なれぬことのみおゝかりければ、時經る迄、用足しなやみ侍りけるが、いとゞ内せまりて、こらふべくもあらねば、先(まづ)さし入て、内のさま、見侍りしに、備後疊(だた)み幾重か敷(しき)たる座敷に、黑漆もて塗(ぬり)たる板あり。取上(とりあげ)て見るに、切穴(きりあな)と覺敷(おぼし)くて、下に又、黑漆の板をはり、その中に大錢(おほぜに)程も有らんと覺ゆる、穴、有り。「是(ここ)に臀(いさらへ[やぶちゃん注:底本のルビ。])さし當て、其穴より用たすことにや」と思ひ侍れど、其間(そのあひだ)、六、七寸も隔たれば、首尾よくたれ果(はつ)べくも覺へ[やぶちゃん注:ママ。]侍らず。もみ尻して、やみけり。庭の柴垣のあたりに冬木の蔭ありて、いとたれよげに見へければ、ひそやかに其あたりに入てたれければ、知る人もなくて、すみけるにぞ。後、人に問(とひ)ければ、二重の蓋のよし、穴あるは下の蓋にて、手かけの所にてぞありける。
[やぶちゃん注:「備後疊み」備後表(びんごおもて)で張った畳。備後表とは、広島と福山両藩の備後地方の藺草(いぐさ)で織った畳表。主産地を形成する備後国(広島県)沼隈(ぬまくま)・御調(みつぎ)郡地方では、すでに天文・弘治年間(一五三二年~一五五八年)に引通表((ひきとおしおもて:途中で継がずに幅一杯に一本の藺草を通した上質な畳表)が織られていた。福島氏時代(一六〇〇年~一六一九年)の沼隈郡では二十七ヶ村で七百七十二機もの畳表織機があったという。毎年、三千百枚が幕府献上品とされ、畳表改役(あらためやく)による製品管理が厳重に行われた。福山藩主が水野氏になると、献上表は幕府買上げの御用表となり、正保四(一六四七)年には「備後表座」とよぶ独自の買上げ機構が設けられた。畳表生産の大部分を占める商用表は、国産第一の品として領外市場の信用確保のため、「九か条御定法」を定め、品質管理及び流通統制を厳重に行った。広島藩に於ける御調郡産の畳表も、藩は毎年一万枚を御用表として買い上げ、商用表は運上銀を納めて尾道(おのみち)町表問屋の手を経て、販売された。表問屋の金屋取扱いの畳表は、元禄一六(一七〇三)年で四万六千九百枚、宝永七(一七一〇)年には五万余枚となっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「大錢」十文銭である宝永通宝の通称。しかしこれ、直径三センチ八ミリしかないんですけど……。
「臀(いさらへ)」「ゐさらひ(いさらい)」の転訛したもので、尻・臀部の意。しかも平安中期の辞書である源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚鈔」にも出る古い語である。
「六、七寸」十八~二十一センチメートル。二階から目薬ほどではないにしても……。
「たれ」「垂れ」。
「もみ尻して」自ずと適正確実にヒリ放ち垂れることがおぼつかず、遂に文字通り「尻」込みされて、という意味で採る。
「やみけり」用をたすのが文字通り「憚(はばか)られて」止めてしまったのである。
「いとたれよげに見へければ」「いと垂れ良氣に見へければ」。「ウン」、この気持ちは私にはよく判る。私は二十七年前、イタリアのローマのカンピドリオ広場でこのように物色し、妻を見張りに立てて、果敢に実行に移したことをここに自白する。無論、うまうまと「知る人もなくて、すみけるにぞ」であったのであった。]