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2018/09/16

柳田國男 うつぼ舟の話 四

 

        

 

 だから我々はいたずらに諸國の類例を列擧して、今さら偶合の不思議に驚くよりも、何物の力が斯くまでに根強く且つ年久しく、この民族の想像を導き又約束したかを尋ねて見なければならぬのである。伊豫の和氣姫は仔細あつてと謂つて居るが、その仔細なるものは大なる神祕であつた。叨り[やぶちゃん注:「みだりに」。]に語られざる神話であつた故に、忘れられんとして尚僅かに傳はつて居るのである。奈良の手向山(たむけやま)の勸請以前から、公邊の文書には八幡の祭神は應神天皇であつたが、宇佐には別に一箇の異傳があつて、伊多利亞で成長した耶蘇教と同じく、殊に御母神[やぶちゃん注:「みおやがみ」。]を重しとし、後に大帶姫(おほたらしひめ)を神功皇后と説くに至つても、尚比咩神(ひめがみ)または玉依姫の御名を以て、之を中殿に祭つて居た。養老年中[やぶちゃん注:。七一七年~七二四年。]に大隅の隼人が亂を起した時、宇佐の神部(かみべ)は頗る平定の功に參與したと稱し、爾後宇佐本社との絶えざる交通があつたにも拘らず、大隅正八幡宮の本緣として、古く記錄せられた物語は、亦全然北方の所傳とは一致せず、母の神の御名を大比留女(おほひるめ)と申し上げ、若宮は卽ち太陽の御子であつて、同じく空穗舟の中の人であつた。八幡愚童訓・惟賢比丘筆記等に、詳しく此由緖を載せたのみならず、男山の社においても既に大比留女の名を錄して居た。恐らくは朝家の認定と兩立せざるを憚つて、次第に之を南端の一社に押付けてしまつたものであらう。

[やぶちゃん注:「大隅正八幡」鹿児島県霧島市隼人町内(はやとちょううち)にある大隅国一宮である鹿児島神宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。この辺り、『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 流され王(4)』も参照されたい。

「八幡愚童訓」鎌倉中・後期に成立したとされる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起通史。

「惟賢比丘筆記」「いけんびくひつき」と読む。僧惟賢が、建武二(一三三五)年六月に鎌倉の宝戒寺で、諸書から日吉山王のことを抜き書きし、山王神道の立場を明らかにしたもの。]

 今簡單にその舊傳を述べるならば、震旦[やぶちゃん注:「しんたん」。古代中国の呼称。]國陳大王の娘大比留女、七歳にして懷妊す。父王之を訝り、汝まだ幼少なるに、誰人の子を儲けたるぞと問ひへば、わが夢の裡に朝日の光胸を覆ひて娠む所なりと答へたまふ。いよいよ驚き怖れて誕生の皇子もろ共に、うつぼ舟を刻みて之に入れ、印鎰[やぶちゃん注:「いんやく」。公印と蔵(或いは門)の鍵。]を相具して大海に放ち流したまふ。流れ著かん所を所領とせよとの御詞であつた。然るに其舟日本國鎭西大隅の磯岸に寄り來る。太子を八幡と號し奉るに由つて、その岸を八幡崎と稱へた。時は繼體天皇の御宇[やぶちゃん注:在位は継体天皇元(五〇七)年?から同二五(五三一)年?とされる。]のことゝいふ。後に大比留女は筑前若椙(わかすぎ)山に飛入つて、香椎[やぶちゃん注:「かしひ(かしい)」。]の聖母大菩薩と顯われたまひ、王子は大隅國に留まつて正八幡と齋(いは)はれ、幼稚の御年にして隼人を討ち平げたまふと謂つて居る。

 日の光が少女の胸を覆ふということは、はつきりとせぬ言ひ方である。八幡大菩薩御國位緣起には、朝日の光身にさして、寢たる胸間に在りとあるが、それでもまだ納得が出來なかつたものか、後世の俗説では大比留女、日を吞むと夢みてと言ひ替へて居る。太閤秀吉を恐らくは最後として、以前の高僧たちの生ひ立ちの記などに、日輪懷に入ると謂ひ、もしくは日を吞むといふ類の母の夢が幾つとも無く傳へられるが、何れも個々單獨に空想せらるべく、あまりにも奇拔なる空想であつた。人もよく知るが如く、此系統の物語で最も早く記錄の上に現はれたのは、百濟と高句麗と二つの王國の、始祖王の誕生に關する奇瑞であつたが、固く信じた人々の筆になつたゞけに、其記述は之に比べて遙かに精彩がある。卽ち一人の年若き女、兒を生まばその兒は後に王となるべしとの豫言があつたので、これを一室に幽閉して外界との交通を杜絶して置くと、太陽の光が戸の隙間より差し入り、直ちに少女の身を射る。之を避くれば何處までも追ひかけ、終に感應して身ごもらしめたと謂ふのである。ぺリイの文化遷移論には、東印度の諸島にも往々にして此傳承の例あることを説いて、日の光の物を實らしむる力あることを經驗した者の間に、おのづから成長した説明神話なるが如く解釋して居るが、單にそれのみでは斯ういふ個人指定の思想などは起り得ない。年久しく密林の底に遊び、又は巖窟の奧に隱れ住んで、太陽の光線の譬へば黃金の箭の如くなるものが、屢〻心有つて人に近づかうとするやうな有樣を見た者にして、始めて夢まぼろしの間に、之を雄々しい男神として迎へ親しむことを得たのであつて、日を崇敬した原始人の信仰は、却つて此の如き異常受胎の奇瑞に刺戟せられて、更に強烈を加へた場合が無かつたとは言はれぬ。從つて記錄の今日に傳ふるものは、假に扶餘の二種族の建國譚を最も古しとするも、これを傳説の根源と解すべからざるは勿論である。日本に於ては山城賀茂の玉依姫、山川に美しい白羽の矢を拾ひ還つて、感じて別雷神[やぶちゃん注:「わけいかづちのかみ」。]を産み給ふと謂ひ、或は大和の三輪の大物主の神は、姿を丹塗りの矢に變じて、流れ來たつて少女の身を突き給ふと謂ふの類、單に太陽を男神とする俗信の夙く[やぶちゃん注:「はやく」。]衰へたばかりに、説明の付けにくゝなつた説話が數多いのみならず、別に又新羅の古き物語として、日の光の虹の如くなるに照されて、赤い玉を生んだと云ふ賤の女の話を載せ、其玉美麗なる孃子と化して日矛(ひぼこ)王子の妃と爲り、後に遁れて日本に渡り、難波の比賣碁曾(ひめこそ)の社の神に祭らるるというからは、我々の祖先も二千年の昔から、必ずしも大陸の歷史家の仲介を須たず[やぶちゃん注:「またず」。]して、既に日を父とし人間を母とする、尊とき神あることを知つて居たのである。平安京の初期に際して、大に用ゐられた武人の家、阪上氏は百濟の遺民であつた。家の由緖を朝廷に奏聞して、詳かに太陽が少女を占有した傳説を述べて居る。それが後漢書の記事とも合致すれば、亦大隅正八幡の緣起ともよく似て居て、同じ頃に西海に興隆した宇佐の信仰が、之を學び且つ利用したと解することも困難ではない。しかし自分達は其樣に窮屈に、一つの物語が次を逐うて諸國を周流したと迄は思つて居らぬ。遠く太古に潮つてまだ多くの民族が今の如く分散しなかつた時代に、誤つた判斷ながら素朴なる人の心に、深い印象を與へた實驗が殘つて居て、緣に觸れて再び各處に出現したものが、斯うして大切に保存せられ、圖らずも互ひに比較せられることになつたのかも知れぬからである。但し此點を論究しようとすれば、話が込み入つて果し[やぶちゃん注:「はてし」。]が付かぬ。しかも差當り自分の考へたいのは、何故に海の彼方の大比留女を、うつぼ舟に載せてこの島國へは運んだか。或は比賣碁曾の社の阿加流姫神(あかるひめのかみ)が、もと新羅の太陽の御子であつたことを、何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]の教へに由つて知り得たかといふ點であるが、是とても決して容易なる問題では無いと思つて居る。

[やぶちゃん注:「ぺリイの文化遷移論」作者・著作ともに私は不詳。識者の御教授を乞う。

「扶餘」「ふよ」。「夫余」とも記す。中国東北地方から朝鮮半島東北部に紀元前一世紀から紀元後五世紀の間に存在した国及び部族名。民族の系統についてはツングース系ともされるが、定説はない。漢文化の影響を受けて紀元前一世紀に国家を形成し、今の長春・農安付近を中心に、松花江流域を版図とし、紀元後一~三世紀頃を全盛とする。鮮卑(せんぴ)や同人種の高句麗と対立し、三世紀後半から衰退、四九四年、勿吉(もっきつ)(後に靺鞨(まっかつ)と呼称)に滅ぼされた。「三国志」の魏志東夷列伝によれば、迎鼓という祭天の行事を新春に催すなど、シャーマニズムの傾向が窺われる。なお、百済の王族はこの夫余が南下したものとする伝説があるという。平凡社「マイペディア」に拠った。

「比賣碁曾(ひめこそ)の社」現在の大阪府大阪市東成区東小橋にある比売許曽(ひめこそ)神社。(グーグル・マップ・データ)。

「阪上氏」ウィキの「坂上氏によれば、坂上氏系図によると、『坂上直』(さかのうえのあたい)『姓の初代は東漢』(やまとのあや)『氏の坂上直志拏』(「しだ」か)。『東漢氏は後漢霊帝の後裔と称し、応神天皇の時代に百済から日本に帰化した阿智王(阿知使主』(あちのおみ)『)を祖とすると伝わる。後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)で、その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志拏であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)』。『坂上志拏には坂上志多、坂上刀禰、坂上鳥、坂上駒子らの子があった。その子孫が坂上田村麻呂である』とある。]

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