譚海 卷之三 禁裡附初て上着
禁裡附初て上着
○禁裏附(きんりづき)の衆關東より上着(じやうちやく)のときは、諸搢紳(しんしん)より祝詞を申越(まうしこさ)るゝ事也。使者にて來るもあり、自身來臨も有(あり)、家々に應じ答禮の例(ためし)有(あり)て、甚(はなはだ)わずらはしき事也。門内まで駕籠にて入るゝ有(あり)、門外にて下乘せらるゝ有、式臺迄人來るもあり、式臺の筵道(えんだう)に中立(なかだち)して迎ひ出(いづ)るを待ちて、祝詞を演説してかへるも有、履(くつ)を倒(さかしま)にして低頭して送り奉るもあり。關東より始(はじめ)て來(きたり)ては混漾(こんやう)として辨(べん)じがたければ、案内をよく覺えたる者をたのみ置(おき)て、差圖の如く應對する事也。内侍所(ないしどころ)の使者殊に驚く事也。神供(しんく)の洗米(せんまい)を菊桐金紋の文庫に入(いれ)、六位の使者烏帽子素袍(すはう)にて齋(いつき)し來(きた)る。内侍の方申越さるゝの趣、此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段(だん)演説し、金紋の文庫を指出(さしいだ)す事ゆゑ、取次のものあらかじめ意(い)得(え)ざれば、偏(ひとへ)に華音(くわおん)を聞(きく)ごとくにて當惑する事也、おくまは御供米の略語也。
[やぶちゃん注:「禁裏附」「禁裏付」とも書く。江戸幕府に於ける職名の一つで、天皇の住む禁裏御所の警衛及び公家の監察などを担当した。ウィキの「禁裏付」によれば、寛永二〇(一六四三)年九月に『明正天皇の譲位と後光明天皇の即位に伴って設置』された。『老中支配で芙蓉之間詰』、『千石高の御役目で、役料は千五百俵。定員は二名。但し、『配下として、各々』、『与力』十『騎と同心』四十名が配された。『勤務は当番制で、毎日』、『御所に参内し、御所にある御用部屋に詰めた。参内した後は、武家伝奏との折衝や、京都所司代や京都町奉行と武家伝奏との間の取り次ぎなどを行った。御用部屋にある用帳に天皇の「機嫌の様子」など禁裏における諸事を記録し、常と異なることがあれば』、『京都所司代に報告した。老中支配ではあるが、京都にいる間は京都所司代の配下として』、『万事において指示を受けた』。『他にも、口向(くちむき、くちむけ)』(天皇等の『日常生活を支える諸役人』の呼称)『や禁裏賄頭(きんりまかないがしら)』(『禁裏御所の会計・調度・食料などを管掌する』役人であるが、これは『幕府から派遣された』)『の統括、禁裏における金銭の流れの監督、禁裏の警衛、朝廷内部で発生した事件の捜査、内裏普請の奉行など、禁裏の全般』と『公家衆の行跡も監督し』た。『火事が発生すれば』、『発生場所が御所からどれだけ離れていても』、『与力とともに禁門の警備を行った』。御所等の門の『出入りを取り締まり、禁裏付』が発行した「通り切手」(通行証)『を持たない者の通行を禁じた』。『官位は昇殿を許されない地下官人クラスの従五位下だが、日常的には朝廷内で幕府を代表しているため』、権威・威勢は『相当なものがあった。正二位とか従一位の官位をもつ武家伝奏に連絡、相談がある場合は』、『「伝奏を呼べ」と御用部屋へ呼びつけた。また御所の外にあっても』、五摂家・宮家と『行き交う場合は』、『駕籠から飛び下』って、『お辞儀を』したが、大納言・中納言・参議や、『それ以外の堂上公家などに対しては、駕籠から下りず』、『そのまま』通行してしまったという。安永二(一七七三)年には、『口向役人による諸経費の不正流用・架空発注事件が発覚、大量の処分者を出』したことから、『それを受けて』、『口向を監督する機構の改革が行われ』、翌年、京都御入用(ごいりよう)取調役・御所勘使買物使兼御買物方(ごしょかんずかいけんおかいものかた)を新設して、『これらを禁裏付の支配下とした』とある(最後の二つの職名はややおかしい感じがしたので、調べて、一部を補足した)。
「搢紳」「縉紳」とも書く。笏(しゃく)を紳(おおおび:大帯)に搢(はさ)むの意から、「官位が高く身分のある人」を指す(ここまで既注。向後は繰り返さぬし、読みも振らぬ。悪しからず)。
「筵道」「えだう(えどう)」とも読んだ。天皇や貴人が徒歩で進む道筋や、神事に祭神が遷御する際の道に敷く筵(むしろ)。筵の上に白い絹を敷く場合もある。
「混漾として辨じがたければ」「混漾」は私は見かけたことがない熟語であるが、「漾」も「混じる」の意があるから、各公家衆や役方連中の訪問や挨拶の式方が全く以ってまちまち、ごちゃごちゃしてどう対応(応対・返礼)してよいか判らぬので、の意であろう。
「内侍所」三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を安置した所。賢所(かしこどころ)とも呼ぶ。
「洗米」ここは神仏に供えるために洗って禊した米。「饌米」とも書く。
「素袍」「素襖」とも書く(但し、その場合の歴史的仮名遣は「すあを」)。男性の伝統的衣服の一種。室町時代に発生した単(ひとえ)仕立ての直垂(ひたたれ)。庶民が着用したが、江戸時代には平士・陪臣の礼服になった。
「齋(いつき)し」潔斎して。
「此度上着愛度存候、仍て相祝候ておくまを進入致さるゝ段」判り易く訓読表記したものを示す。
「此(こ)の度(たび)、上着(じやうちやく)、愛度(めでた)く存じ候ふ。仍(よつ)て相ひ祝ひ候ふて、「おくま」を進(しん)じ入(い)り致す」
であろう。
――今回、関東より、無事の御上洛、目出度く存知申し上げまする。依ってお祝いを申し上げまして、「御供米(おくま)」を御進上申しまする――
であろう。「おくま」=「御供米」とは「くましね」(奠稲・糈米)の略語で、神仏に供えるために洗い清めた米のこと。「かしよね」。
「取次のものあらかじめ意得ざれば」取り次ぎに出る配下の同心などが、禁裏附勤務の経験が殆んど全くなく、それが何を意味する式礼かを事前に知らないと。
「偏に」ただもう。
「華音」「くわいん(かいん)」と読んでもよい。中国語。]
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