柳田國男 炭燒小五郞が事 五
五
天皇潛幸の畏れ多い古傳は、かの炭燒藤太の出世譚と同じく、亦弘く東北に向つて分布して居る。富士淺間(せんげん)の御社に於ては、竹取物語の一異説として、かくや姫は聖德太子の御祖母なりと傳ふること、廣益俗説辨に擧げられ[やぶちゃん注:「卷三 神祇」の「富士淺間神(あさまのかみ)は赫夜姫(かくやひめ)を祀ると云(いふ)説、附富士山、孝靈帝ノ御宇に現ずる説」。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部分の画像)の右頁の終りから三行目を見よ。]、有馬皇子が五萬長者の姫を慕ひ、下野に下つて暫く奴僕に身をやつしたまふといふことは、慈元抄[やぶちゃん注:室町時代に書かれた教訓譚。]にこれを錄して居るが、其よりも更に類似の著しいのは、岩代苅田宮(かりたのみや)の口碑である。是は物語と謂ふよりも寧ろ現存の信仰であつた。用明天皇或年此國に幸したまひ、玉世姫を娶りて一人の皇子を儲けたまふ。妃薨じて白き鳥と化したまふ。祠を建てゝ祀り奉り白鳥大明神と謂ふ。水旱疾疫に祈りて必ず驗あり、土人は今も白鳥を尊崇して、敢て之に近づく者も無いとある。後世の學者には此説の正史と一致せざるを感じ、白鳥の靈に由つて日本武尊の御事ならんと論ずる者があつた。社傳も亦漸く之に從はうとして居るが、鄕人古來の傳承は、尚容易に動かすことを得ないやうである。此地方には一帶に、鵠(くゞひ)[やぶちゃん注:白鳥の古名。]を崇敬する白鳥明神の例が多い。柴田郡[やぶちゃん注:底本は「柴田村」。ちくま文庫版で訂した。]では平(たひら)村の大高山神社、之に隣する村田足立(あしたて)二處の白鳥社は、相連繫してよく似た傳説を奉じている。但し緣起は何れも三百年來の京都製であつて、殊に別當寺と神主側と互に相容れざる言立をして居るのは怪しいが、双方の偶然に一致して居る箇條は、却つて最も荒唐信ずべからざる部分、卽ち乳母が稺き[やぶちゃん注:「をさない」。]皇子を川の水に投じたるに忽ち白鳥と化して飛び揚り去りたまふと云ふ點に在る。此の如き一見無用なる悲劇は、固より後人の巧み設くべき物語で無い上に、苅田宮の方にも同じく兒宮(ちごのみか)子捨川(こすてがは)投袋(なげぶくろ)などの舊跡があつて、此と共通なるきれぎれの口碑の今も有るを見れば、何か尚背後に深く隱れたる神祕が有るのであらう。それは又別の折に考へるとして、兎に角に御父を用明天皇、御母の名を玉倚媛(たまよりひめ)とする尊い御子(みこ)が、此地に祭られたまふ神なりと弘く久しく信ぜられて居たことだけは偶然の一致では無かつたらうと思ふ。以前平の隣村、金瀨宿(かながせじゆく)の總兵衞と云ふ者の家には、古風なる一管の笛を藏して居た。其先祖某、或時林に入りて大木を伐り、其空洞の中より之を見出したと傳へ、笛頭には菊の紋が彫つてある。是れ卽ち山路(さんろ)用ゐる所の牧笛なるべしと、土地の人たちは謂つたとあるから、あの物語の爰でも歌はれて居たことは疑が無いのである。
[やぶちゃん注:以上の伝承については、福田晃氏の論文「白鳥・鷹と鍛冶―二荒山縁起の「朝日の里」を尋ねる―」がたいへん参考になる。]
長者の娘、容顏花のごとくにして、終に内裡[やぶちゃん注:「だいり」。内裏。]に召され、妃嬪[やぶちゃん注:「きひん」。妃と嬪。天子の第二・第三夫人、或いは、天子に仕える女官のこと。]の列に加はつたと云ふ話は、備後の靹津[やぶちゃん注:「とものつ」。]の新庄太郞、常陸の鹿島の鹽賣長者等其例少からず、古くは又實際の歷史であつたかも知れぬが、特に之を用明天皇に係け[やぶちゃん注:「かけ」。]まつるに至つては、乃ち亦豐後の影響なることを感ずるのである。炭燒藤太の舊住地の一つ、陸前の栗原郡に於ては、姉齒(あねは)の松の古事に托して、美女の途[やぶちゃん注:「みち」。]に死したる哀話を傳へて居る。氣仙(けせん)高田の武日(たけひの)長者が姉娘であつたと謂ふ。妹は後に代りて京に上らんとして、姉が墓の松に對して涕泣したと稱して、紙折坂[やぶちゃん注:「しをりざか」。]の地名もある。用明帝の御代の事と謂ひ、側に神通山用明寺があつた。陸中鹿角(かづの)郡小豆澤のダンブリ長老は、蜻蜓[やぶちゃん注:「だんぶり」。蜻蛉(とんぼ)類の古い総称。]に教えられて酒の泉を發見し、之に由つて富を積んだと謂ふ有名な長者である。唯一人ある愛女[やぶちゃん注:「愛娘」同様に「まなむすめ」と訓じておく。]を皇后に召されて、寂寞の餘りに財寶を佛に捧げたと云ふことが、是亦眞野長者の生涯に似通うて居るが、彼[やぶちゃん注:「かの」。]地に於ては之を繼體天皇の御時と傳へて居る。嶺を隔てゝ二戸(のへ)郡の田山に於ても、田山長者の事蹟は全く是と同じく、是は唯大昔の世の事とばかりで、何れも既に至尊巡狩の傳へは存せず、いよいよ本[やぶちゃん注:「もと」。]の緣は薄れて居るが、尚此物語の獨立して起つたので無いことは、之を推測せしむる餘地があるのである。
其理由の一つとして算へてよいのは、所謂滿能長者[やぶちゃん注:「まんのうちやうじや」。]の名が、遠く本州の北邊まで知れ渡つて居たことである。蜻蜓長者(だんぶりちやうじや)の例を見てもわかるやうに、大凡長者の名前ほど、變化自在なものは無い筈であるのに、説話中の長老の極度の富貴に住する者は、往々にして其名が滿能であつた。自分が始めて炭燒藤太の話を書いた後、八戸(のへ)の中道等(なかみちひとし)君が同處のイタコから、正月十六日のオシラ神遊びの詞曲を聽いて、手錄した所の一篇にも、やはり「まんのう」長者とあつた。イタコは奧州の村々に於て、桑の木で刻んだ男女の神に仕へ、神託を宣る[やぶちゃん注:「のる」。]を業とする盲目の女性である。世を累ねて曾て文字無く、授受を苟くもせぬ[やぶちゃん注:「いやしくもせぬ」。いい加減には決してしない。]彼らの經典に、尚この名稱を存して居るのは、尋常流行の章句と同一視することが出來ぬのである。但し此曲に説く所は、炭とは何のゆかりも無い養蠶の起原であつた。長者の厩第一の駿馬せんだん栗毛、たゞ一人ある姫君に戀慕して命を失ひ、其靈は姫を誘ひて上天し、後に白黑二種の毛蟲となつて現れたのを、十二人の女房と八人の舍人(とねり)、こかひ母、桑取り王子と爲つて之を養ふと謂ふのが其大要で、之に續いて春駒によく似た文段がある。干寶[やぶちゃん注:底本は「于」であるが、誤植なので訂した。]が搜神記は中央の學者等に取つても、手に入り易い平凡の書では無かつたのに、如何なる徑路を經𢌞つていつの時から、それと同じい話が北奧の地にばかり、斯うして姫見嶽の長者の名と結合しつゝ、巫女の祕曲には編入せらるるに至つたか。誠に過去生活の不可思議は、窺ふに隨つて益々其渺茫を加ふるが如き感がある。
[やぶちゃん注:最後の部分は所謂、中国の伝説の一つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変じてこの世に絹を齎したとする「蚕馬(さんば)」「蚕女」「馬頭娘」伝説と、奥州の「おしらさま」伝承との係わりを言っている(但し、私は「おしらさま」は本邦で独自に平行進化したもののように思われてならない)。その最も古形とされるのが、東晋の文人政治家干宝(?~三三六年)が記した私の偏愛する「捜神記」の巻十四にある話で、私は既に「柳田國男 うつぼ舟の話 三」の注で原文を電子化してある。]