反古のうらがき 卷之二 復讐
○復讐
寄合御醫師久志本君の奧方は、公家今川何某【◎今川トウフ公家ハナシ、今出川ナルベシ。】の御娘子なり。家にありし時のかし付(づき)の女は、家にかろき奉公する者のつまにてありけるが、今は其夫とともに取立(とりたて)にて、夫婦とも姫君御付け人とぞなりける。
[やぶちゃん注:底本でも以下は改行されてある。]
其事のはじめをとふに、御家に劒術師範する者ありけるが、狂氣せしにや、或夜、彼(かの)かしづきが夫の家に忍び入、矢庭に六十餘歳になりける老人をさし殺(ころし)ぬ。
「あなや。」
と叫ぶ聲に、家人、皆、目覺(めざめ)たれども、燈火も消へたれば、何の子細といふこともしられず。
人の足音のしけるに、
『盜人か。』
と思ふ内に、老人が苦しげなる聲の聞へければ、
「當(たう)の敵ぞ。」
と、刀、引拔きて切付たり。
闇夜のことなるに、かろき身分の者なれば、劒術の心得もあらねど、父を打たれしと思ふ一心に踏込(ふんごみ)て打合(ふちあひ)けり。
老人が妻も出合(であひ)たれども、くらやみに、すべきよふなく、漸く、火打取出(とりいで)て手燭をともし、打合(うちあふ)一間(ひとま)をてらしけるに、俄に明りを見し故なるや、又は、互に眼くらみたるや、暗仕合(やみじあひ)の如く、人もなき所を切拂ひ、寄せ合せて打合(うちあふ)事は絶てなく、壁に突當り、柱に切付などする斗(ばかり)なれば、老母、手燭をてらしながら、
「夫れ、右よ、夫れ、左よ。」
と、聲かくるに、少し耳に入(いる)にや、其(その)いふ方を切拂ふ。
これに、敵し兼たるや、狂人は、おもての戶をおしはづして逃出(にげいづ)るとて、戶の中程を踏(ふみ)ぬきて、梏(はた)をかけたるよふ[やぶちゃん注:ママ。]に成(なり)ける所を、たゝみ懸、切付ければ、遂に打留たり。
よくよく見れば、同家中何某にて、劒術師範の人にてぞ有けり。
日頃、遺恨のこともなき人なれば、
「定(さだめ)て亂心なるべし。」といふことに極(きはま)りて、こと濟(すみ)たり。
「下賤の者なれども、身命(しんみやう)を顧りみず、當の敵を卽座に討留めたれば、褒美として取立にあづかりける。」
と、久志本夫人、予に親しく語り玉へり。
[やぶちゃん注:「復讐」という標題は父を殺された、この当時、下男であった夫の「復讐」の意である。
「寄合」旗本の内で三千石以上乃至布衣(ほい:下位の旗本(すなわち御目見以上)の礼装は素襖とされていたが、幕府より布衣の着用を許されれば、六位相当叙位者と見なされた。その相当格の者)以上の者で、役職に就いていない者の総称。
「御醫師久志本君」旗本久志本家は元は三重の神主の家系で、徳川家康の侍医に召し抱えられ、後裔の久志本左京常勝も幕医として第五代将軍綱吉の病を治療しているから、その後裔である。しばしば出てくるロケーションの二十騎町の西直近には「久志本左京」の屋敷がある。
「今出川」菊亭家(きくていけ)の別称。清華家(せいがけ:摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する公家の家格。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることが出来る。当初は七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)であったが、後に広幡・醍醐が加わり九家となった。さらに豊臣政権時代に五大老であった徳川・毛利・小早川・前田・宇喜多・上杉らも清華成(せいがなり)しており、清華家と同等の扱いを受けた)の家格をもつ公家。藤原北家閑院流の西園寺家庶流。家業は琵琶。江戸時代の家禄は当初、千三百五十五石であったが、正保二(一六四五)年に三百石加増されて千六百五十五石となり、摂家の鷹司家の千五百石を上回ることとなった(以上は主にウィキの「菊亭家」に拠った)。
「當(たう)の敵ぞ」「當の」は連体詞。「まさにそれ(本物の盗賊)だ!」。
「暗仕合(やみじあひ)の如く」目が眩んで逆に闇の中で斬り合うような感じになってしまい。
「敵し兼たるや」「敵する」の連用形ととる。互角に相手になることが出来かねたと思ったものか。
「梏(はた)」「桎梏(しっこく)」のそれで(「桎」は「足枷(あしかせ)」)、「梏」は「手枷」のこと。戸板を打ち抜いた際に手を怪我したものか、或いは乱心であるから、何らかの発作によって手が動かなくなったとも考えられる。
「當の」ここは「まさにその時の」。]
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