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2018/09/08

原民喜 望鄕 (オリジナル詳細注附)

 

[やぶちゃん注:昭和一八(一九四二)年五月号『三田文學』初出。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。

 本篇は現在、ネット上では未だ電子化されていないものと思われる。

 なお、第二段落にある伏字『□□□□』は底本のママである。初出誌を見ることが出来ないが(『三田文学』は原本画像が限定公開されているが、大学・研究機関に所属する者にのみに閲覧許可が下りる甚だ差別的で不当な設定である。日本の文学研究のレベルの低さがよく判る)、無論、同じであろうと思われる。当然、筆者自身による伏字と考えられる。

 また、この伏字の主である主人公の「叔父」であるが、太平洋戦争は既に昭和一六(一九四一)年十二月八日未明(日本時間)に開始されており、その当時、この主人公の叔父はアメリカ合衆国(或いはカナダ)の在留邦人であったと考えられる。「神戸大学経済経営研究所」の「新聞記事文庫」の『大阪毎日新聞』の昭和一八(一九四三)年四月十八日附(本篇が発表される前月)の「米加在留邦人状況 外務省事務室の調査報告」によれば、『現在敵国に在留する邦人総数は約五十七万に達し、そのうち抑留されているもの一万三百、集団移住生活者は十三万らに上っている、米国およびカナダの邦人に関してはこのほど詳細な調査が出来たので十七日同事務室から別表の』如き『報告が発表された』とあって、詳細な数値が示されてある。されば、この太平洋戦争での本邦の敵国となっていたアメリカでの邦人抑留者の中に「叔父」は入っていたという意味であることが判る。

 さらに言い添えておくと、原民喜の父信吉は広島市幟町で陸海軍用達の原商店を経営しており、彼の五男であった民喜の上には、三男の信嗣(後に家を継いでいる)と四男の守夫の二人の兄がいた(守夫とは中学時代に同人誌を作るほど馬が合った。長男と次男は夭折)。この事実は、本篇で入れ子構造になっている作品内小説(断片)の人物設定と非常に強い親和性(モデル性)を感じさせる。さすれば、この叔父も実在し、原商店で働いた事実があり、その後、アメリカに渡り、この時、アメリカで抑留されていたのかも知れない。父方か母方は不詳だが、全体を通して読むと、兄の一家と若い時には一緒にいたこと、主人公の姉の死に激しい悲痛を感じていることなどから推すと、主人公の父の弟であるように私には思われる。

 当初、以上以外にも簡単な読解に不可欠な必要最小限の注を附すつもりであったが、考証を重ねるうちに量が増えてしまい、しかも本文の細かな内容に触れる(ネタバレを含む)ことにもなったため、最後に別に注を附すこととした。

 一箇所だけ先に注しておくと、太字で示した「きつぼ」は底本では傍点「ヽ」なのであるが」、これは「きっぽ」で、「傷跡」、則ち、「傷口が盛り上がって跡が残った状態」を指す広島弁である。

 なお、二度目の有意な作品内小説の引用(⦅ ⦆で囲まれてある)の後は、底本では改ページとなっており、一ページ行数を数えると、行空けは施されていないことが判る。しかし、第一回目の引用の後は、同じように底本で改ページでありながら、行数を数えると、間違いなく一行空けが施されてある。一番良いのは、初出誌を確認することであるが、前に述べた通りで、私にはそれが出来ない。そこで――取り敢えず――先例に徴して――一行空けを施した。しかし、これは本篇の中に現われる〈ある現象〉との関連性が疑われ、或いは、原稿でも初出でも行空けは施されていないのかも知れない。これについては最後の最後に別に注することとした。]

 

 望鄕

 

 靜かな朝であつた。春はまだ淺く、日曜日の朝であつた。――それを彼は部屋に坐つてひとり意識してゐた。ずつと、むかうの方に、しかし、ただならぬものがある。そこにも、朝の光は降りそそぐであらうか。もの音はきこえるであらうか。その老いたる胸にはどんな感慨がたぎつことだらうか。

 ――叔父の面影を描かうにも、あまりに隔たるものが重なつてゐた。しかし、たしかに叔父は敵國の收容所で、身に降りかかるものを峻拒するが如く、毅然とした姿でゐる。さうして、大きな運命に身を委ね、自らの胸に暗淚を抑へてゐるにちがひない。不思議と彼には叔父の感情が解るやうな氣がした。さつき、何氣なく朝刊の抑留邦人の氏名を見てゐると□□□□といふ活字が彼の目に大きく觸れた。やはり、さうであつたのか、と彼は感慨にゆらぐ心を、じつと視凝めるのであつた。

 それにしても、叔父は今、幾歳になつたのだらうか……と彼は自分の齡をまづ顧みねばならなかつた。彼自身も今はもう若いといふ齡ではなかつた。……ずつと前から、彼は幼年時代の記憶をもとにして、短篇を書いてゐた。明治末の鄕里の景色をくどいまでに描寫することに、何か不思議な情熱を覺えるのであつたが、容易に筆ははかどらず、まだ一册の本にもならなかつた。しかし、少し前までは、彼はその本が出來上つたなら、一册はアメリカの叔父に送るつもりでゐた。二度ほど歸國したことのある叔父は、その度に鄕里の街を貪るやうに步き𢌞つてゐた。叔父なら、――ごたごたした過去の描寫も喜んでくれさうに思へた。

 

⦅簿記の棒を弄つてゐた叔父が、突然、机の上の戸棚へ意氣込んで掌を觸れた。秋夫はその動作を待ち兼ねてゐたのだ。しかし叔父は今ランプを引寄せると、ゆつくり戸棚の中を搜してゐる。叔父はなかなか見つけ出さないので、秋夫は少し心配になる。「あ、さうだつた」叔父は腰掛から立上つて、机の橫の抽匣を開いた。「ほら、どうだ」と、叔父は一枚の大きな紙を秋夫の前に突附けた。すると、秋夫の眼はそれに吸ひ着けられたまま動かない。そこには、赤・黃・紫・綠・何十種類の切手が縱に橫に斜に重なり合つて犇いてゐるのだ。秋夫はわくわくして眺め入つた。

「皆に見せてやらう」と、叔父は秋夫の手から紙片を取上げて、應接間の方へ行く。そこには大きな火鉢を圍んで、父や姉や兄や店員達の顏があつた。今、皆の目は一勢にその紙に集中されてゐる。――秋夫は叔父が前から舊い手紙の封筒に貼られた切手を鋏で捩取つて蒐めてゐるのを知つてゐた。消印のところは巧く重ね合せて隱し、大きな紙に貼り附けてみるのだと叔父は云つた。秋夫はそれが出來上る日を待ちつづけた。そして、今、立派に出來上つたそれは、てつきり自分が貰へるものだと思ひ込んでゐた。しかし、叔父は人に見せびらかすばかりで一向に呉れさうな氣配がない。「呉れよ」と兄の春彦は叔父の方へ手を伸した。「呉れよ」と秋夫も叔父に迫つた。ところが叔父はそれを高々と頭の上に翳して、片手を振つた。「ただではやれない、五拾錢、五拾錢でなら讓らう」秋夫は茫然として、叔父の姿を見上げた。すると、彼の側にゐた店員が蟇口を開けて、銀貨を一枚取出した⦆。

 

 彼の未完結の作品の一節にこんなところがある。彼は五拾錢銀貨を摘み出した店員が誰であつたかも、その紙片を貰へたものであつたかも、そのあたりの記憶はぼやけてゐるのであつたが、ただ、叔父の意氣込んで、子供をからかふ時の姿がはつきり浮ぶのだつた。

 叔父が父の店へ手傳に來るやうになつたのは、一年志願の兵役を濟してからであつたが、秋夫の記憶にも、軍服を着た叔父が、庭の飛石傳ひに、緣側の方へやつて來る姿が仄かに殘つてゐる。幼い彼は緣側で叔父にきつく抱き上げられたやうな氣がする。さういふ時も、叔父は何か意氣込んで、子供の氣持を高く引上げようとするやうだつた。

 しかし、それ以前の叔父の姿となると、古い寫眞の記憶と母からきいた話によるほかはない。商業學校の卒業紀念に撮つたらしいその寫眞は、細面のすつきりした靑年の姿であるが、右の頤のところに小さな絆創膏が貼つてある。叔父は頤のところにきつぽがあるのを氣にして、いつも絆創膏を粘つてゐたといふ。そんなお洒落ではあつたが、あんまり色が白いため學校で揶揄されるのを口惜しがつて、何時も物乾臺に登つて、天日で皮膚を焦がさうとした。母はよくこんな話を繰返した。彼はかすかにカオールの匂ひを思ひ出した。若い日の叔父が常に愛用してゐた藥である。

 

⦅その日――秋夫は兄の春彦と一緖に叔父と戲れてゐた。叔父は白いシヤツをまくり上げて、拳固を振𢌞したり、草履で廊下を踏み鳴して、二人を追拂つた。逃げては進み、逃げては進みしてゐるうちに、秋夫も春彦ももう無我夢中であつた。

「惡い子供だな」と、ふと思ひがけぬところから叔父の尖つた聲がした。稻妻のやうに物尺が閃いて來た。わあ! と二人は緣側を轉ぶやうにして逃げて行つた。避難所まで來ると、秋夫は息が切れて、へとへとであつた。背後にはまだ眞赤な興奮があつて、暫く秋夫と春彦は棕櫚の葉蔭に弄つてゐた。「ようし、あれを歌つてやらう」兄の春彦が棕櫚の葉を弄りながら云つた。「いいか、靜かに、そろつと、知らない顏して行くのだぞ」

 暫くして二人はそろそろ店の方へ引返した。見ると、叔父はもういつもの顏附で椅子に腰掛けてゐた。二人は默つて、叔父の近くまで進んだ。それから春彦が合圖した。忽ち二人は琵琶を彈く手眞似で聲をはりあげて歌つた。

  屋島と北里 どちらがお好き ビ ビン ビン ビン ビン

 叔父はものをも云はず椅子から立上つた。柱にかけてある帶に叔父の手が觸れた瞬間、ガチヤリと異樣な音響がした。次いて硝子の破片がベリベリと崩れ落ちた。箒は商品棚の硝子戸に大穴を穿つてゐた。もの音を聞いて、父がやつて來た。叔父は奮然と無言のまま立つてゐる。

「一體どうしたのだね」父は訊ねた。

「どうしたと云つたつて、あんまり子供が腹立てさすから……」と、叔父の聲はひきつつてゐる。

「子供を相手にそれはあんまり亂暴ぢやないか」

 父は靜かにたしなめた。突然、叔父はワーツと大聲で泣き出した。秋夫は大人がこんなに號泣するところをまだ見たことがなかつた。その泣聲は何ものかと抗爭するやうにひしひしと續いて行つた。

「出て行きます、出て行きます、これを機會に僕はどうしてもアメリカへ行くのです」

 叔父は兩掌で顏を押へながら、頭を持上げては、また泣いた。⦆

 

 このことがあつてからすぐ、叔父の姿は店から見えなくなつた。コナゴナに碎かれたガラスはやがて新しいのが張りかへられた。店の前の往來を人が行交ふ夕暮、西の空に雲が其赤に燃えてゐた。秋夫はアメリカといふ方向も知らなかつたし、叔父がどうなつたかも知らなかつた。彼が小學校へ入つた頃、叔父はアメリカにゐるといふことを母から聞かされた。

 秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)五月の日曜日の朝彼が緣側に腰かけてゐると、ステツキを小脇に抱へた叔父の姿が庭の方から現れた。叔父は緣側のところに立つて家のうちを眺めてゐたが、靴を脱ぐと同時に、「春彦はゐないか、春彦は」と、つかつか奧の方へ上つて行つた。「何、二階? 二階にゐるのか」ともう叔父は忙しさうに階段の方へ𢌞つた。恰度、聲をきいて兄は階段から降りて來るところであつた。兄と叔父とは階段のところで出逢つた。と思ふと、叔父は兄の手を摑んだ。「やあ、春彦だな、春彦だな、憶えてるか、憶えてゐるか」中學四年の兄が羞みながら頷くと、「さうか。憶えてるかなあ」と叔父は懷しさうに兄の手を搖するのであつた。それからまた忙しさうに裏庭の方へ叔父は𢌞つた。そこには虞美人草や罌粟が一めんに咲いてゐた。「うん、變つてゐないな」と、叔父は滿足さうにあたりを眺めた。しかし、一年あまり前に父はもう死んでゐたし、家のうちも氣持も秋夫にはもう變つてゐたやうだつた。

 秋夫は叔父が兄を把へて、「憶えてるか、憶えてるか」と訊ねた時、幼い日の出來事がすぐに思ひ出された。あの日どうして、叔父はあんなに怒つたのか、叔父を怒らした⦅屋島と北里……⦆といふ歌の意味もその頃は分つてゐなかつたのだつた。そこで、――ずつと後のことであるが――彼ほ兄にその歌の由來を訊ねてみた。意外にも、兄はあの歌は大きな姉が作つて子供達に歌はせてゐたのだと云ふ。琵琶を彈く手眞似は、當時流行の筑前琵琶を叔父が習つてゐたためらしい。そのうち、屋島と云ふ姓がふと彼の記憶の底から思ひ出された。小學六年の時、學藝會に出て以來有名になつた女の子に屋島といふのがある。その屋島といふ家が、嘗て叔父の住んでゐた家と同じ町内にあることを知つたのは、秋夫が父の葬儀の囘禮に𢌞つた折のことであつた。彼は何となしに、その女の子に美しい姉があつて、若い日の叔父の胸中に存在してゐたやうに勝手な想像をするのであつた。

 半年あまり滯在の後、叔父は新妻を伴つて再び渡米した。毛皮の上に並んで立つた叔父とその花嫁の寫眞が暫く皆の目にはもの珍しがられた。叔父の二度目の歸朝は亡妻の遺骨を持つて、その時から九年後のことになる。

 

 ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである。アメリカから悔狀が來てゐるので返事を書いてくれと彼は母から賴まれた。その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた。彼は何氣なく母の依賴に應じたが、その上質の紙に深く喰ひ込むやうな勢で書込まれてゐる字句を讀んで行くうちに、彼ははたと困惑を感じた。

 それは通り一遍の悔狀ではなかつた。嫁いでから死ぬる迄あまり惠まれなかつた姉への追憶と哀悼に滿ち、同時に人生の激浪を乘切らうとする者の激しい感慨の籠つた、あまりにもさまざまの心情を吐露した告白のやうなものであつた。さうして、最後に自作の短歌が一首添へてあつた。

 

 叔父が二度目に歸鄕したのは、その手紙から二三年後のことで、妻の骨を納めるためにはるばる歸つて來たのだつた。妻を喪つて叔父は、しかし、相變らずキビキビした動作で、快活さうに見えた。小さな子供をとらへては、 Bad boy! と呼び、口笛を吹いて、大股で步き𢌞つた。男盛りの、仕事もどうやら快調とある、明るい精力に溢れた顏であつた。それにひきかへて秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた。

 叔父は再婚の話も肯かず、渡米を急いだ。最後に家に暇乞に來た時、叔父はわざわざ二階の方にゐる秋夫のところへもやつて來た。

「やあ、それではこれで當分お別れだが」さう云つて、叔父は彼に握手を求めた。

「君の氣持もよく僕には分るし、君には同情してゐるのだよ、いいかい」

 はじめ叔父が何のことを云つてゐるのかよく解らなかつたが、秋夫は默つて頷いた。

「いいかい、しかしだね、とにかく勉强し給へ、何でもかんでも頑張らなきやいかん」さう云つて叔父は頻りに彼を激勵するのであつた。

 

 アメリカに渡つた叔父は間もなく、秋夫のところに時折雜誌を送つてくれた。MJBのコーヒーやサンメイドの乾葡萄も家の方へ送られてゐた。

 しかし、それから程なく、彼は母から叔父の身の上に生じた大きな災難を聞かされた。歸朝の間留守にされてゐた商舖は叔父の友人に依つて經營されてゐたが、その男は叔父の名義を利用していろんな無謀を企て、これが發覺して遂に起訴されたといふのである。叔父を知るほどの人はみんな同情しても、責任上、刑務所へ入らねばならなくなるだらうといふことであつた。それから後は叔父の消息も殆ど彼の耳にははいらなかつた。彼は叔父が相變らず人生の激浪と鬪つてゐるもののやうに想像してゐた。

 

 彼は叔父のことを書いてみようと思ひながら、それもまだ果さなかつた。叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた。ところが、母の七囘忌でこんど歸鄕してみると、こゝで彼は叔父に關する耳よりなことをきかされた。一人の叔母が親戚の家々を𢌞つては、「定次郞はもう近いうちに歸つて來ます」と頻りに力説してゐるのである。狂信家の叔母は何の靈感に打たれたものか、「あれが歸つて來たら、住宅にも困るから今のうち早く何とか借家をみつけてやらなきやいけません」と、急き立てる。叔父はまだ杳として何の消息もないのに、この叔母は骨肉との再會をまぢかに信じて疑はないのであつた。

 

[やぶちゃん注:・「峻拒」(しゆんきよ(しゅんきょ))は「きっぱりと拒むこと・厳しい態度で断ること」の意。

・「暗淚」(あんるい)は「人知れず流す涙」のこと。

・「簿記の棒」「簿記棒」「丸定規」或いは「ルーラー(Ruler)」と呼ぶ、記帳の際に罫線を引くのに用いた円筒形の特殊な棒。「一橋大学附属図書館」公式サイト内の特別展「明治初期簿記導入史と商法講習所」にある「簿記棒」(写真有り)によれば、使用し易い標準的なものは、直径一センチメートル、長さ十五センチメートルで、材質は樫(カシ)等のような『木質堅靱にして密に』、『且つ』、『反りの生ぜざるを良しと』し、その『使用上』より『重きを可とするが故に』、『材料も成るべく重きものを撰ぶと同時に』、『木材の中心に鉛を入れ』、『目方を付するが如き手段をとることあり』とある。私自身、このページで初めて現物を見た。

・「弄つて」「いぢつて(いじって)」。

・「抽匣」「ひきだし」。

・「カオール」現在も東京都江東区毛利に本社を置く化粧品・医薬部外品の製造・販売を行っている「オリヂナル」株式会社が、明治三二(一八九九)年に発売を開始した口中香錠の商品名(現在も販売されている)。これは知られた「森下仁丹」の「仁丹」が発売される六年ほど前の発売である。

・「避難所」比喩。普段、何かがあった時に決まって兄治彦と弟秋夫が逃げる場所の意であろう。

・「屋島と北里」「平家物語」の「屋島の戦い」の地名に、叔父の知っていたその「屋島」という女性を掛けたもので、「北里」もやはり叔父のそうした知人女性の姓であるぐらいの推理しか私には働かぬ。「北里」という固有名詞は私の知る限りでは、「平家物語」には出ないように思う。

・「秋夫が中學一年の時、叔父は一度アメリカから歸國した。(それは世界大戰が終つた翌年であつた。)」「中學四年の兄」「一年あまり前に父はもう死んでゐた」第一次世界大戦が終わったのは大正七(一九一八)年十一月十一日で、この翌年である大正八年、原民喜(明治三八(一九〇五)年生)は満十四歳で、事実、この年の四月に広島高等師範学校付属中学校に入学しているから一致する。冒頭の注で示した彼の兄の三男信嗣(明治三二(一八九九)年生)は当時二十、四男守夫(明治三五(一九〇二)生)は十七で中学四年で、これによって作品内小説の「治彦」が確かにこの守夫をモデルしていることが確定される。彼らの父信吉は実際には大正六(一九一七)年二月に胃癌のために逝去しているから、一年のズレはあるけれども、ほぼ事実に即していることが明確に見てとれるのである。

・「筑前琵琶」盲目の琵琶法師の系譜をルーツとする語りものの一ジャンル。参照したウィキの「筑前琵琶」によれば、『日本中世に生まれた盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、室町時代に薩摩盲僧から薩摩琵琶という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。筑前琵琶は、それに対し、筑前盲僧琵琶から宗教性を脱していったもので、明治時代中期に女性を主たる対象とする家庭音楽として確立したものであり』、『近代琵琶楽の第一号にあたる』。『近代琵琶楽としての筑前琵琶の成立にあたっては、福岡藩藩士の娘であった吉田竹子の活躍が大きい。歴史的には、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、芸術音楽としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行している』。『筑前琵琶の音楽は薩摩琵琶に比べ曲風が全体的におだやかであり、楽器、撥ともやや小ぶりである。胴の表板は桐に変わり、音色は薩摩琵琶に比べて軟らかい。調絃も三味線に準ずるようになった。薩摩琵琶では歌(語り)と楽器は交互に奏されるが、筑前琵琶の音楽には三味線音楽の要素が取り入れられており、歌いながら琵琶の伴奏を入れる部分がある。著名な曲としては「湖水渡」「道灌」「義士の本懐」「敦盛」「本能寺」「石堂丸」などがある。筑前琵琶の種類は四絃と、四絃より音域をより豊かにする為に初代橘旭翁とその実子である橘旭宗一世によって考案された五絃があり、五絃の方が全体にやや大きい。撥も五絃用のものの方がやや開きの幅が広く、いくらか薩摩のものに近い。柱はいずれも五柱(四絃五柱、五絃五柱)。この他、高音用の「小絃」、低音用の「大絃」も作られたが、一般的に普及はしていない』。『筑前琵琶は、明治の中期に晴眼者で筑前盲僧琵琶の奏者であった初代 橘旭翁(たちばな きょくおう)(本名:橘智定(たちばなちてい)が薩摩で薩摩琵琶を研究して帰り、筑前盲僧琵琶を改良、新しい琵琶音楽として作り出された。琵琶奏者の鶴崎賢定(つるさきけんじょう)や吉田竹子がこの新しい琵琶音楽を広めるのに一役買った』。明治二九(一八九六)年、『橘旭翁は東京へ進出し』、『演奏活動を開始して注目を浴びた。そして雅号として「旭翁」と号し、筑前琵琶 橘流を創始、明治天皇の前で御前演奏をするなど急速に全国に広まったり、人気を評した。橘流は創始者である初代橘旭翁の没後、「橘会」と「旭会」の』二『派に分かれて現在に至っている。また吉田竹子の門下から高峰筑風(高峰三枝子の父)が出て一世を風靡したが、後継者がなく』、『その芸風は途絶えた』。『筑前琵琶は、女性奏者に人気があり、娘琵琶としても流行し、嫁入り前の女性の習い事として重視された。旧福岡市内には多い時で』五十『人もの琵琶の師匠がいたといわれる』。『また、一時期は花柳界にも「琵琶芸者」なる演奏者があったほど琵琶熱が高く、大正時代末期の琵琶製造高は博多人形のそれに迫るほどであったという』とある。

・「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」原民喜は大正一三(一九二四)年四月に慶応義塾大学文学部予科に入学している。「その前の年に秋夫の姉が亡くなつてゐた」とあるが、民喜の長姉操は明治二四(一八九一)年生まれで、この大正十三年に亡くなっており、ここでも事実と一致していることが判る

・「悔狀」「くやみじやう(くやみじょう)」。

・「肯かず」「きかず」。うけがわず。承知せず。

・「秋夫は薄暗い懷疑に閉ざされ、動作も表情も弱々しい學生であつた」前の「ある年、秋夫が東京の學校から歸省した時のことである」を民喜の長姉操の逝去の翌年、大正一四(一九二五)年ととると、「二三年後」というのは昭和四(一九二九)年か五年となり、民喜は慶應義塾大学英文科一、二年となり、当時の民喜は「日本赤色救援会」に参加し、昭和五年十二月下旬頃には、広島地区救援オルグとなったりしている(昭和六年には組織の衰弱と崩壊につれて活動から離れた。ここは底本全集の第Ⅲ巻の年譜に拠った)。

・「MJBのコーヒー」現在も続く、一八八一年創業のアメリカ合衆国のコーヒー・ブランド会社。公式サイト日本語)歴史をリンクさせておく。

・「サンメイドの乾葡萄」Sun-Maid は現在も続く、一九一二年創業のアメリカ合衆国のドライ・フルーツ会社。公式サイト日本語)沿革をリンクさせておく。

・「母の七囘忌」原民喜の母ムメは明治七(一八七四)年生まれで、明治二三(一八九〇)年に信吉と結婚、昭和十一年九月に尿毒症で亡くなっている。その七回忌であるから昭和一七(一九四二)年九月となる。本作の発表(昭和一八(一九四二)年五月)の八ヶ月前となる。冒頭注に出した在米邦人抑留の記事は昭和十八年四月のものであるが、彼らはそれ以前から抑留されていたわけであり、昭和十七年春ぐらいに邦人抑留の新聞報道があってもなんらおかしくなく、「叔父が北米に抑留されてゐることを知つた時から既に數ヶ月は過ぎた」というのも特におかしいとは思われない。

[やぶちゃん最終注:最後まで読まれた方は判ると思うが、本篇に作中内小説の主人公として出る「秋夫」というのは、言わずもがな、本篇を執筆している主人公がモデルなのであるのだが、二度目の作中内小説の引用が終わった後の個所以降の本篇の後半では、この区別は実は作品の本文と融解して一体化してしまっているのである。しかし、それは殆んど違和感を感じさせないと言ってよい。私はこれは原民喜の確信犯の仕儀なのだと思う私が冒頭注の最後でたかが行空けの有無を意味深長に記したのは、その確信犯を匂わせるために、民喜はわざと行空けをしなかったのかも知れないという思いがあるからでなのであった。今のところ、『三田文学』の画像を見ることの出来る雲上のアカデミストの研究者にしか、その真相は⦅藪の中⦆ということになる。何方か、ご確認あられたい。そうして、こっそり私に教えて呉れると有り難い。その時は行空けがないことだけをここに追加補注して、私は私の⦅在野の一分(いちぶん)⦆に於いて、電子テクストはこのままとする積りである。

 ともかくも――上手いぜ、民喜!――]

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