鮎川信夫 「死んだ男」 附 藪野直史 授業ノート(追記附)
死んだ男 鮎川信夫
たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も形もない?」
――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かかった黄金時代――
活字の置き換えや神様ごっこ――
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった。
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
*
「鮎川信夫詩集」(昭和三〇(一九五五)年荒地出版社刊)より。
鮎川信夫(大正九(一九二〇)年~昭和六一(一九八六)年)本名は上村隆一。東京生まれ。早稲田大学英文科中退。昭和一二(一九三七)年、中桐雅夫編集の詩誌『LUNA』、翌年には村野四郎らの『新領土』に参加、昭和一四(一九三九)年森川義信らと詩誌『荒地』を創刊した。諸和一七(一九四二)年十月に青山の近衛歩兵第四連隊に入隊、翌年、スマトラに出征したが、マラリアや結核を発症、昭和十九年五月、傷病兵となって送還され、福井県の傷痍軍人療養所に入所、昭和二〇(一九四五)年四月、外泊先の岐阜県から退所願いを出し、福井県大野郡石徹白村で終戦を迎えている。翌年、詩誌『新詩派』『純粋詩』に参加、昭和二二(一九四七)年、第二次『荒地』を創刊した。同年に発表された本詩「死んだ男」は戦後詩の出発点と称されている。昭和二六(一九五一)年には田村隆一・黒田三郎らを同人とし、年間アンソロジー『荒地詩集』を創刊、戦後現代詩を作品と詩論の両面にわたってリードする地位を決定的なものとした。詩作品の他にも多くの翻訳・詩論・評論・随筆がある。平凡社「マイペディア」及びウィキの「鮎川信夫」を参考にした)。
【鮎川信夫「死んだ男」 藪野直史 授業ノート】
●第一連
◆「遺言執行人」=作者=死んだ友人M(に代表される戦死(第三連)していった人々)の代わりに生きる《役目》を与えられてしまった「ぼく」
◎《戦後》という時代を《遺言執行人》として生きることを自らに課した詩人の登場
★何故「遺言執行人」なのか?
*「遺言執行人」は「遺言配達人」でも「遺言告知人」でもないことに気づかせる。果敢に「執行」するのである。
《モノクロームのサスペンス映画のオープニングのように「遺言執行人」のシルエットが見え始める印象的な映像的処理》
●第二連
・回想~戦前
◆「遠い昨日」=(第三連)つい「昨日」であったにも拘わらず「遠い昨日」である「短かかった黄金時代」=(第四連)しかし、同時にある意味では戦後の「今日」に、飴のように延びきって続いてしまっている「昨日」でもある
・「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」
┃ 並列(等価)
・「手紙の封筒を裏返すようなこと」
◎ニヒリズム(虚無主義)を気取った文学青年の知的で、アンニュイ(倦怠)に満ちたデカダン(退廃的)な雰囲気の醸成
《心内の映像もカメラをやや傾かせて撮るのがよい》
☆「手紙の封筒を裏返すようなこと」とは何か?
*実際の封筒(横開きの開口部が大きいものを使用)を何人かの生徒に渡し、自由にやらせてみる。《実演させる》
*ただ封筒の裏(裏書き部)返す生徒には、その意味を聴き、それが「ゆがんだ顔をもてあます(こと)」と同属性を持つ意味を聴く(経験的には「住所・名前を見るため」「その手紙の内容が恋人からの最後の手紙であるから」「知人の訃報」等。但し、私が正答と考えるそれを躊躇なく行う生徒もいる)。
・「手紙の封筒を裏返すようなこと」の「ようなこと」とは、それが、普通でないことであり、尋常でない「ような」ヘンな「こと」なのではないか?
↓ とすれば
・ただ封筒を表から裏に「裏返す」ことではないのではないか?
↓ とすれば答えは一つ
☆袋状の封筒の内側を外側にひっくり返す、反転させること
↓ さればこその
「実際は、影も、形もない?」(Mの台詞)
=現実や人間社会なんて、内も外もない「空っぽ」なもの
=存在自体の空虚さ
=アンニュイでデカダンなニヒリスティクな〈当時の〉雰囲気
↓ しかしそれは、「今」に響き合う
・「――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった」~現在への意識転換
↓
『「死にそこなっ」た〈戦後〉の自分のこの空虚感の予言だったのだ』という認識
●第三連
◆「昨日のひややかな青空」~Mと共にあった作者の思い出の象徴的イメージ
クールな(存在の空虚さを孕んだ)詩的な感覚世界
(その頃からぼくらの心情はいつだって感傷的な)「秋だった」(第四連)
*「剃刀の刃」から連想する語句を生徒に挙げさせ、その属性を記す。例えば、
「自殺」~デカダンな議論にしばしば登場
「鋭い」~詩人の持ちがちな「反」社会性・「非」社会性。人生そのものへの批判的な「抉るような」「鋭敏な」感覚
「傷つける・切り裂く」~自己の或いは人の心を
「危険」~無謀な感性
↓
《青春の属性》
◎「活字の置き換え」
~戦前のモダニズム・ダダイズム風の詩的実験や制作上の試み
*西脇順三郎・北園克衛・高橋新吉・萩原恭次郎等の作例を示す。
◎「神様ごっこ」
~詩人としてミューズから霊感を受けたような天才気取りの競い合い
《詩的絶対者然とした者たちの果てしない議論のシークエンス》
↓ それが
★「僕たちの古い処方箋だった」
『一時の気休めとして用意(処方)された、前時代的な効き目のない古くさい慰戯に過ぎなかったんだよ。』(これはMの亡霊の台詞か?)
☆「ぼく」が「M」を「見失ってしまった」のはなぜか?
①(彼らの過去時制で考えると)時代(ファシズム・戦争への傾斜)の渦へと巻き込まれて行き、その中で自分さえも見失ってしまったからか?
②(詩作時の現時制で考えると)現在(戦後)の作者の意識の中で、Mの存在が同一化してしまっているからか?
*私は②でとる。そうすることで、この詩は真に〈話者の重層化〉(話し手が、Mでもあり、作者でもある)が行われ、「遺言執行人」としての「ぼく」の存在も同時に明確となるからである。
●第四連
◆「いつも季節は秋だった」
Mや「ぼく」の青春期を覆う時代の色調
↓
決定的にうそ寒く、淋しく、暗い。
↓ しかも
戦前・戦中(「黒い鉛の道」)の「昨日も」、戦後の「今日も」(変わりはしない)
*この詩句は直ちにヴェルレーヌの「秋の歌」の詩を想起させ、当該詩篇の冒頭にはランボーの詩篇の一部が引かれており、彼らの悲劇的な同性愛関係とその決裂を考え合わせると、Mと「ぼく」との間に同性愛的な意識関係があったと仮定することは無理がないと考えている。
・「淋しさの中を落葉がふる」(Mの詩篇か? 作者のそれか? はたまた彼らの意識の中の共通したヴェルレーヌでありランボーでもあるような寂しいミューズか?)
↓ 衰滅を比喩する「秋」
◆戦争と絶望と死、そして戦後という荒れ果てた地(現実+精神)への道は永久に「淋しさの中を落葉がふる」「道」であった
《この連は一見すると最もリアリスティクな二人の町を行く映像が相応しい》
●第五連
◆戦没死したMの埋葬=「ぼく」の想像の中の心象風景《イメージ・フィルム》
・「憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった」=全否定で表現された絶対の沈黙・絶対の孤独=感情という中途半端なものが、一切、かき消えた無感動・無表情~虚無感
・「空に向かって」あげられたMの視線
~ここでは『戦争において死にそこなったもののすべては、はっきりとみつめかえされて』いる(長田弘評)
★「さよなら、太陽も海も信ずるにたりない」
「太陽」~人間の儚い「希望」?
「海」~生命の根源としての無限の包容力をもった広大無辺とされる「愛」のようなもの?
↓
全否定
↓
現実への深い懐疑・絶対の強烈な絶望
*この言葉はMのみのものか?
「遺言執行人」としての「ぼく」の言葉でもあることは言を俟たぬ
★「Mの傷口」が作者の「胸の」傷口でもあるとすれば?(Mと作者との一体化からそう考えるのが自然)
過去(主に第二連以降)~死者「M」に代表される者の思い(胸の傷=心傷(トラウマ))
↓ が直ちに
現在(主に第一連)~生き残った自分に代表される者の思い
↓ であるとすれば、それはやはり直ちに
未来へと投げかけられる
↓ 命題であり、だからこそ「ぼく」=「M」は言う
「これがすべての始まりである。」
*本詩篇全体を包んでいる徹底した陰鬱な気分は、戦争体験者の、回復し難い「生の意識」の喪失感と、戦後の虚構に満ちた〈平和〉社会への違和感・拒絶感の表明でもあろう。
【二〇一八年九月二十六日附記】
授業(私が最初にこれを授業したのは一九八〇年の柏陽高校の三年生に対してで、その後、最低でも二回はやったと記憶する。暗く難解だという理由で、教科書の載っていても、やらない国語教師は多かった。国語教師は現代詩の授業を苦手とする者が実は非常に多い。現代詩好きの国語教師であればあるほど、逆にやらない傾向さえある。感性重視派のそうした現代詩を偏愛する人々ほど、普遍的な解釈や分析を生理的に甚だ嫌うからである)では意識的に「M」が誰であるかを語らなかった。それは本詩篇を生徒が個人的な感傷に還元して処理してしまうことを避けたいと思ったからである。
この「M」は鮎川信夫の親友で詩人の森川義信である。大正七(一九一八)年十月十一日に香川県三豊郡栗井村本庄で生まれ、香川県立三豊中学時代に「鈴しのぶ」のペン・ネームで文芸投稿誌『若草』(宝文館発行)や西條八十主宰の詩誌『臘人形』(両誌は後に詩誌『詩研究』に統合された)に投稿、早稲田第二高等学院英文科に入学(十四年十二月中退)した昭和一二(一九三七)年に中桐雅夫の編集していた『LUNA』に参加して筆名を「山川章」と改名、中桐・鮎川信夫を知り、昭和十四年には鮎川の主宰した第一次『荒地』に参加したが、昭和一六(一九四一)年四月に丸亀歩兵連隊に入隊、翌昭和一七(一九四二)年八月十三日、ビルマのミートキーナで戦病死した。享年二十五、未だ満二十三歳であった。
私の古い電子化に「森川義信詩集 やぶちゃん版」(二〇〇五年一月七日公開。底本は昭和五二(一九七七)年国文社刊の鮎川信夫編「森川義信詩集」)があり、「青空文庫」にも現在、二十四篇の詩篇が公開されている。
鮎川の本詩篇「死んだ男」は、実はそれら、森川の詩篇を読むことで、森川の詩想を確信犯で裏打ちした作品であることが判る。例えば、彼の(引用は私の上記詩集から。但し、今回、森川が敗戦前に亡くなっていることから、現在の私のポリシーに従い、恣意的に漢字を概ね正字化して示した)「衢路」(「くろ」。「岐(わか)れ道」の意)、
*
衢路
友よ覺えてゐるだらうか
靑いネクタイを輕く卷いた船乘りのやうに
さんざめく街をさまよふた夜の事を――
鳩羽色のペンキの香りが强かつたね
二人は オレンジの波に搖られたね
お前も少女のやうに胸が痛かつたんだろ?
友よ あの夜の街は新しい連絡船だつたよ
窓といふ窓の灯がパリーより美しかつたのを
昨日の虹のやうに ぼくは思ひ出せるんだ
それから又 お前の掌と 言葉と 瞳とが
ブランデーのやうにあたたかく燃えた事も
友よ お前は知らないだろ?
ぼくが重い足を宿命のやうに引きづつて
今日も昨日のやうに街の夜をうなだれて
猶太人のやうにほつつき步いてゐる事を
だが かげのやうに冷たい霧を額に感じて
ぼくははつと街角に立ち止つて終ふのだ
そしてぼくが自分の胸近く聞いたものは
かぐはしい昨日の唄聲ではなかつたのだ
ああ それは――昨日の窓から溢れるものは
踏みにじられた花束の惡臭だつたのだ
やがて霧は深くぼくの肋骨を埋めて終ふ
ぼくは灰色の衢路にぢつと佇んだまま
小鳥のやうに 昨日の唄を呼ばうとする
いや一所懸命で明日の唄をさがさうとする
ボードレエルよ ボードレエルよ と
ああ 力の限りぼくの心は手をふるのだつたが
――又仕方なく昏迷の中を一人步かうとする
*
のシチュエーションや全体のダルな雰囲気(十六行目の「かげ」及び十七行目の太字「はつ」は底本では「丶」点)、或いは、「衢にて」(「ちまたにて」と訓じておく。意味は先の「衢路」に同じい。全体の雰囲気からはより広義の「街路」「街中」でもよいと思う)、
*
衢にて
翳に埋れ
翳に支へられ
その階段はどこへ果ててゐるのか
はかなさに立ちあがり
いくたび踏んでみたことだらう
ものいはず濡れた肩や
失はれたいのちの群をこえ
けんめいに
あふれる時間をたどりたかつた
あてもない步みの
遲速のままに
どぶどろの秩序をすぎ
もはや
美しいままに欺かれ
うつくしいままに奪はれてゐた
しかし最後の
膝に耐え
こみあげる背をふせ
はげしく若さをうちくだいて
未完の忘却のなかから
なほ
何かを信じようとしてゐた
*
の冒頭部、或いは、森川の代表作の一篇である「勾配」、
*
勾配
非望のきはみ
非望のいのち
はげしく一つのものに向つて
誰がこの階段をおりていつたか
時空をこえて屹立する地平をのぞんで
そこに立てば
かきむしるやうに悲風はつんざき
季節はすでに終りであつた
たかだかと欲望の精神に
はたして時は
噴水や花を象眼し
光彩の地平をもちあげたか
淸純なものばかりを打ちくだいて
なにゆえにここまで來たのか
だがきみよ
きびしく勾配に根をささへ
ふとした流れの凹みから雜草のかげから
いくつもの道ははじまつてゐるのだ
*
は、既にして詩篇全体が、本「死んだ男」との激しい親和性を持っていることが判る(「ゆえ」はママ)。
但し、これはインスパイアなどという、なまっちょろいものでは決して、ない。
元に戻り給え、本「死んだ男」は既にして詩人鮎川信夫と詩人にして盟友の森川義信のハイブリッドな産物なのであるから――