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2018/09/05

反古のうらがき 卷之一 羆

 

   ○羆

 予がしれる御作事下奉行豐藤省吾といへる人の弟何某、公(おほやけ)の仰(おほせ)を受(うけ)て、蝦夷ケ嶋(ゑぞがしま)に行(ゆき)ける。おゝく日數(ひかず)經(へ)にたれば、冬の中(うち)に至りて、雪、いたく降り積りて、おゝやけのこともはかばかしくはてず、いたづらに日を送りけり。

 或日、蝦夷(ゑぞ)一人、弓矢たづさへ出(いづ)るを見る物から、

『こわ[やぶちゃん注:ママ。]、獵に出るならん。』

と思ひて、跡につきて行けり。

 貮里斗りも行ける時、蝦夷、立留(たちどま)りて小隱(こがく)れする樣(やう)、

『獸にても見付たるや。』

と見てあれば、行手の路、十四、五間斗りの處に、竹の多く生(おい)しげれるを、左右よりおし倒して、其上に大熊、座したり。

 聞及(ききおよ)ぶ蝦夷の大熊は所謂、羆(しくま)といふ者にて、尋常の熊より遙(はるか)に大にして、且(かつ)、たけし。

 此方(こなた)に向ひて座したるは、睡れる樣(さま)に似たり。

『扨も、大(おほい)なる熊よ。』

と見る程に、蝦夷は大岩のかげに身を潛(ひそ)めて、何某が立(たち)ける後より一矢(いつし)射て、跡をも見ずして逃去(にげさ)りけり。

 此(この)矢は烏頭(うづ)を煎じつめて、魚の骨を鏃(やじり)とせし箭(や)をひたし置(おき)て、いることにて、毒矢なり。ふつうの獸は一矢にて、遠くも走らで立(たち)すくみになりて死する、と、きく。

 今、射付(いつけ)たるも是なり。

 月の輪を目懸(めがけ)たれども、間(ま)、遠ければ、一尺斗りも下とおぼしき處に立(たち)ける。

 大熊、驚きて、此方を見ると均しく、ましぐらに飛來(とびきた)る。

 何某、身を潛(ひそむ)るに所なく、雪は深し、逃(にぐ)べき方(かた)もなし、先づ、立(たち)ながら、刀、引拔(ひきぬき)て、靑眼(せいがん)にかまへたれば、大熊、少しおそれけるか、とみにも取(とり)かゝらず、間(ま)一間(けん)斗りに立留りて、人立(じんりつ[やぶちゃん注:底本のルビ。])【ひとのごとく立(たつ)。】して大口を開き、怒れる樣(やう)、口より出(いづ)る息氣(いき)、煙(けぶ)りの如し。

 此方(こなた)も、少しのすき間も無く、刀、突付(つきつけ)て、近よらば、差通(さしとほ)さん、とかまへたり。

 されども、見上(みあぐ)る程の大熊なれば、叶ふべしとも覺へず[やぶちゃん注:ママ。]、しばしにらみ合(あひ)て有(あり)けれども、はてしなし。

 蝦夷が立歸(たちかへ)りて、今、一矢、射るやと思ふに、其事も無く、後(しり)への方は、今、來りし路なるが、高低(たかひく)ありて平らかならず、岩の高きも有(あり)つれども、皆、雪に埋もれて、しるよしなし。

『扨は、逃(のが)るべき方(はう)なし。唯にたのむ所は此(この)一刀のみ。』

と思ふに、今は心細く、一心に握り詰(つめ)たる手の内、油、出で、ぬめるに、堅木(かたぎ)に金物(かなもの)はめたる木柄(こづか)なれば、殊にしまりあしく、

『大熊、もし取(とり)かゝりたらんに、此まゝ刺(さゝ)んより外に手なし、惡しく刺(さし)たらんには、手の内より、ぬめり出で、取落(とりおと)さんか。』

と思ふ憂ひありて、心元なく思ふ物から、唯、足ぶみと手の内とのみに、心を付(つけ)て、大熊の來(きた)ると來らざるとは、思ひ斗(かは)るにいとまなかりしが、凡(およそ)、烟草(たばこ)を吸ふ三服斗りの時刻を經て、熊も、體つかれしか、又は、毒の𢌞りしか、つく息、ほのふ[やぶちゃん注:ママ。]の如く、氣息(きそく)、急になりて、しばしば取かゝらんとして、かゝらず。

 伺某は力盡果(つきは)て、

『今は、かなわじ。』

と思ふに、持(もち)たる刀の重さ、十貫め斗りある如く覺て【持たる刀の十貫めもあるらんと思ひしといふ事、不審なり。あぶらの出(いづ)ぐらい[やぶちゃん注:ママ。]、上氣してあらんには、重き刀もかるくなるはづ[やぶちゃん注:ママ。]也。これは實地を踏みたる論とは思はれず。】、持ち兼(かね)たる時、大熊も、氣、盡(つき)て、大山の如く、倒れかゝりけり。差付(さしつけ)たる刀は、胸のあたりに刺入(さしいり)けると思ひしが、絶入(たえいり)て、其後は覺へず、相共(あひとも)に雪の中に伏しけり。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行がなされてある。]

 此事、誰(たれ)しる物もなく、其日も暮(くる)る頃、蝦夷、家に歸りて、何某が家來に手眞似して教ゆる樣(さま)、恠しげなりしが、ひたすら袖を引(ひき)て行(ゆく)に從ひて行(ゆき)ければ、やがて、其所に出(いで)たり。

 よくよく見れば、主人と大熊なり。

「扨は、主人は家にはあらで、いつしか此所に來(き)まして、大熊と共に死し給ひけるよ。」

と、大(おほい)に驚きて、いだき起し、家に背負ひ歸りて、燒火(たきび)にて煖(あたた)め、氣付藥などあたへければ、程もなく蘇(よみがへ)りぬ。

 蝦夷ども、多く呼集(よびあつ)めて、大熊、引歸(ひきかへ)りて、みるに、一丈斗りの大熊にて、其(その)種、常にかわりて、深山にのみありて、みることまれなる物なるが、雪のいたく降(ふり)たるによりて、近きあたりに出けるなるよし、膽(きも)も常より大なりといふ。

[やぶちゃん注:底本でも以下は改行がなされてある。]

 何某が、後(のち)に人にかたりしは、

「木の柄の刀、持(じ)すべからず。手の内、𢌞(まは)りて、取落すことあるべし。目貫(めぬき)も大なる方(はう)、よし。幾ばくの手がかりになる物也。元來、刀は身の守りにて、鬼魅魍魎[やぶちゃん注:ママ。]もおそるゝといゝ[やぶちゃん注:ママ。]傳ふること、誣(しひ)たりとせず。大熊、刀の光りを見て、とみに飛かゞらざること、刀の威德といふべし。刀の刄(は)の利(よ)く物を截(さい)するは、人こそよくしりたれ。大熊のしらんよふ[やぶちゃん注:ママ。]はなけれども、自(おのづ)から神物(しんもつ)と見ゆるものから、近(ちか)よることの能はざるは、不思議といふもおろかなり。かゝる神器(しんき)を身に付(つけ)たる武士こそ、仕合(しあはせ)といふべし。努(ゆめ)、腰物(こしのもの)、粗末になし玉ひそ。」

といへりとぞ。

[やぶちゃん注:臨場感を出すために、改行を施した。「羆」は本文に振られてある通り、「しくま」と訓じている。哺乳綱食肉目クマ科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis 古くは「しくま」と呼ばれた。平安中期の源順の著した「和名類聚鈔」の「羆」の条には、

   *

羆 爾雅集注云羆【音碑和名之久萬】似ㇾ熊而黃白又猛烈多力能拔樹木者也

   *

とあり、「之久萬」は「しくま」である。ネット上の「語源由来辞典」の「ヒグマ」によれば、この古称「しくま」は『漢字の「羆」を「四」と「熊」に分けて読んだこと』に由来するとあり、『七世紀には「ヒグマ」の発音が見られるが、一般には「シクマ」もしくは「シグマ」が江戸時代まで使われた』。『明治時代以降、「ヒグマ」の発音が増えるが、明治中期以降も「シグマの誤り」とする辞書が多く、一般化したのは大正以降である』。『「シクマ」からの音変化は、「シ」と「ヒ」の音が混同されやすいこと』によるものと『考えられるが、漢字「羆」の字音は「ヒ」なので、「羆熊(ヒクマ)」という意識があったとも考えられる』。『ちなみに、漢字の「羆」は、網で生け捕りにする熊を表した会意文字で、「四」と解釈されている部分は「網」を表している』とある。

「御作事下奉行」「おさくじしも(或いは「した」とも)ぶぎょう」(現代仮名遣)と読む。ウィキの「作事奉行」によれば、『普請奉行、小普請奉行とあわせ下三奉行(しもさんぶぎょう)と呼ばれた』とあるから、この「下」は普請関係の実務を統括した奉行職の謂いのようで、下級職という意味ではない。寛永九(一六三二)年の設置で、老中支配、諸大夫役で役高は二千石。定員二名。『殿中席は芙蓉の間。幕府における造営修繕の管理を掌った。特に木工仕事が専門で、大工・細工・畳・植木などを統括した』。寛文二(一六六二)年からは一『名が宗門改役を兼任した』。『納戸口と中の口門の間の棟の一番端の目付部屋の隣に本部が置かれた。下役に京都大工頭、大工頭、作事下奉行、畳奉行、細工所頭、勘定役頭取、作事方被官、瓦奉行、植木奉行、作事方庭作などの役がある』。『作事奉行を無事に務めあげた者は、大目付や町奉行、勘定奉行などに昇進した』とある。

「豐藤省吾」姓は「とよふじ」であろう。区立京橋図書館の『郷土室便り』(第二十四号・昭和五四(一九七九年六月発行)の安藤菊二氏の「切絵図考証 一一」(PDF)の中に『御畳奉行格御作事下奉行豊藤省吾』と出ており、「第 3  日本近世の浮橋 ―江戸幕府御用舟橋論考―」(PDF・全体の標題不詳)の中にも天保一二(一八四一)年八月八の老中首座水野忠邦の、翌年の将軍日光参詣の際の休憩所等の検分ための調査一行の中にも『豊藤省吾(作事下奉行)』の名を見出せる。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。

「蝦夷ケ嶋(ゑぞがしま)」言わずもがな、現在の北海道。ウィキの「北海道」によれば、古くは「日本書紀」に『渡島(わたりしま)として登場し、阿倍比羅夫』(あべのひらふ 生没年不詳:七世紀中期飛鳥時代の将軍。越国守・後将軍・大宰帥(だざいのそち)を歴任し、斉明天皇四(六五八)年から三年をかけて日本海側を、北は北海道まで航海して蝦夷を服属させた)『と接触を持ち、奈良時代、平安時代には出羽国と交易を行なった。当時の住民は、東北地方北部の住民と同じく蝦夷(えみし)と呼ばれていた。恐らく両者は同一民族で、北海道側の蝦夷が後の蝦夷(えぞ)、現在のアイヌの先祖だと考えられている』。『中世以降、北海道の住民は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、北海道の地は蝦夷が島、蝦夷地(えぞち)など様々に呼ばれた。古代の蝦夷(えみし)は農耕も生活の柱としていたが、次第に狩猟・漁業に特化し、鉄などを日本人(和人)の交易で得るようになっていった』。また、『鎌倉時代以降になると、後の松前藩や和人地の基礎となった渡党の活動が見られるようになる』。『室町時代には、渡島半島南端(後の和人地)に和人、渡党、アイヌが居住し、豪族が館を構えていた』。『和人の築いた道南十二館のひとつである勝山館跡では和人とアイヌの混住が考古学的にも確認されている』。『当地に割拠していた館主(たてぬし)らは安東氏と被官関係を結んでおり、かれらが北海道に渡った時期は不明であるが、その多くは鎌倉時代に津軽や糠部の北条氏所領の代官層であった侍の子孫とも考えられている』。『室町・戦国期には本土から』の『和人の渡海者が増え、現地のアイヌとの間に対立が起きたという。近世以前の北海道に関しては松前藩の由緒を記した』「新羅之記録」(寛永二〇(一六四三)年成立)『があり、同書に拠れば』、康正三・長禄元(一四五七)年に起きた「コシャマインの戦い」で『甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広がアイヌの指導者コシャマインを殺し、和人の勝利を決した。信広は蠣崎氏を継ぎ、その子孫は後に松前の氏を名乗り、代々蝦夷地の南部に支配権を築いた(松前藩)』。『松前藩の経済基盤はアイヌとの交易にあった。安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、アイヌとの交易条件を自らに有利なものに変えていった。アイヌは』「シャクシャインの戦い」や「クナシリ・メナシの戦い」で『蜂起したものの、松前藩によって鎮圧された』。天明四(一七八四)年からは『蝦夷地の開拓を始め、沿岸にいくつかの入植地が建設された。なお、明和八(一七七一)年には、『「択捉島のアイヌ」と「羅処和島のアイヌ」が団結し』、得撫(うるっぷ)島と磨勘留(まかんる)島で『ロシア人を数十人』、『殺害する事件が発生していた史実が』あるとする。『江戸時代後期に、ロシアがシベリアから領土を広げつつ』、『日本と通商を求めるようになり、鎖国を維持しようとする日本に北海道近辺で接触した。中にはゴローニンや高田屋嘉兵衛のように相手国の捕虜になった人もいた』。『ロシアの脅威に対する北方防備の必要を認識した江戸幕府は、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、伊能忠敬といった者に蝦夷地を(樺太・千島列島を含め)探検させ、地理的な知識を獲得した。また』、寛政一一(一七九九)年には東蝦夷地を、文化四(一八〇七)年には『西蝦夷地を松前氏から取り上げた。また、統治機構として』、享和二(一八〇二)年に『蝦夷奉行を置き、後に箱館奉行、松前奉行と名を変える。幕府の統治はアイヌの負担を若干軽減したが、基本的な支配構造には手を付けなかった』。その後、『ロシアの領土拡大的な南下が停滞したため、奉行は』文政四(一八二一)年に『廃され、全蝦夷地は松前藩に還付され』ている。前注の時制限定から、これは松前藩還付後のことと考えてよいようにも思われる(無論、それ以前でも構わぬ)

「物から」以前に注した接続助詞「ものから」(形式名詞「もの」+名詞「から(故)」)で、ここは順接の確定条件の原因・理由の用法。「~なので・~だから」。

「こわ」「こは」(代名詞「こ」+係助詞「は」)。「これは! まあ!」の感動表現を示す連語。何某は仕事も捗らず、暇であったのに加えて、個人的興味からも、アイヌの狩猟法を見たかったのであろう。

「十四、五間」二十五メートル半から約二十七メートル。

「烏頭(うづ)」強毒を有する双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属Aconitum の古い総称異名。

「いることにて」射ることにて。実戦に於いて射るのに用いるものであって。

「月の輪」「これは蝦夷にはいないツキノワグマ(クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマUrsus thibetanus japonicusだから、この話全体が嘘と見えた」と知ったかぶりしてはいけない。エゾヒグマには個体によっては「月の輪」があるのである。ウィキの「エゾヒグマ」によれば(太字下線やぶちゃん)、『毛色は褐色から黒色まで個体により様々であり』、『その色合いごとに名称が付けられている。黄褐色系の個体は』「金毛」と称し、『白色系の個体は』「銀毛」、『頸部や前胸部に長方形様の白色がある個体は』「月の輪」と称するとある。個人の画像であるが、こちらを見られたい。

「靑眼(せいがん)」Q&Aサイトの回答によれば、『中段の構えの一種で』あるが、『流派によって微妙に違う』らしい。一般的な『中段の構えとは』、『切っ先を相手の喉もとのあたりに向ける構えのことで』あるが、『これをやや斜め上に少し上げて、相手の眉間から左目のあたりに切っ先を向けるのが、青眼の構え』であると回答者は理解しているとあり、『流派によっては、正眼と青眼と晴眼を使い分けたり、上段も下段も正眼の中に含める流派もあったりして、正直いって全体像はなかなかつかめ』ない。『ただ、「青眼」あるいは「正眼」という以上は、真正面から相手に向き合う構え、という意味なのは間違いないと思』われると記す。しかし、『その「正面」というのが、本当にまっすぐなのか、それともやや斜に構えたほうが実際には打ち込みやすいととらえるのか、そのあたりが流派や人によってとらえ方が異なり、言葉の使い方の差となって表れているのではない』かと纏めておられる。まさに眼から鱗であった。

「とみにも取(とり)かゝらず」急には襲いかかって来ず。

「一間」一メートル八十二センチメートルほど。

「はてしなし」「果てし無し」。

「後(しり)への方は、今、來りし路なるが、高低(たかひく)ありて平らかならず、岩の高きも有(あり)つれども、皆、雪に埋もれて、しるよしなし」後方への逃走のために垣間見たのであるが、その様子から、どうみても顚倒せずに走り逃げおおせることは困難と見たのである。

「殊にしまりあしく」木製の柄と刀身の締りが非常に悪いために、刀身が脇に逸れがちで、突き通した際に、目指すところ(心臓と思われる辺り)から流れてしまい、失敗する可能性があると感じているのである。

『大熊、もし取(とり)かゝりたらんに、此まゝ刺(さゝ)んより外に手なし、惡しく刺(さし)たらんには、手の内より、ぬめり出で、取落(とりおと)さんか。』

「足ぶみ」自身の左右の足の送り方。

「つく息、ほのふ[やぶちゃん注:ママ。]の如く」「ほのふ」は「炎(ほのほ)」であるが、「氣息(きそく)、急になりて」とあるから、羆の呼吸が荒くなって、呼気よりも吐気が激しく、それが白い水蒸気と成る様子が炎のようであったというのである。

「十貫め」三十七キロ五百グラム。桃野の「重き刀もかるくなるは」ずだという批判の当否は別としても、この重量は幾らなんでも誇大に過ぎ、「これは實地を踏みたる論とは思はれず」という猜疑も確かに生ずると言わざるを得ない

「一丈」三メートル三センチメートル。

「種」「しゆ(しゅ)」でよかろう。その類。

「手の内、𢌞りて」柄が木製だと、強く握っても、手の中で柄が回転し易く。

「目貫(めぬき)」目釘のこと。刀身が柄から抜けるのを防ぐために茎の穴と柄の表面の穴とにさし通す釘。竹・銅などが用いられた。それが大きい方が滑り止めの役目や、刀を安定して支持し続けるためのなにがしかの「手掛かり」ともなるから、と言っているようだ。

「鬼魅魍魎」「魑魅魍魎」の誤字らしい。

「誣(しひ)たりとせず」「しふ(しう)」は「強いる」と同語源で、「事実を曲げて言う・作りごとを言う」。嘘とは思わない。

「大熊のしらんよふはなけれども」「よふは」は「やうは」で、幾ら獣(けもの)とはいっても、知らないという「ようなことは」流石にないであろうが。無論、熊でも、一度、刀が危険物であることを学習すれば、知ることは出来るし、そもそもが光るものは本能的に警戒するはずである。

「自(おのづ)から神物(しんもつ)と見ゆる」この感想が冷徹な現実主義者の桃野には気に入らなかったのではないかと思われ、それが引いては話全体を作り話ではないかと疑う契機となったのではあるまいか。

「ものから」先と同じ、順接の確定条件(原因・理由)。

「不思議といふもおろかなり」ただ単に「不思議だ」と言ったのでは、まだ言い足りないほどの超自然の神秘の力ではないか。これも桃野が甚だ嫌う物謂いと言える。

「といへりとぞ」という文末から、この話が直接何某から聴いた話ではなく、高い確率で、その兄で桃野の知人である豊藤省吾から弟の〈実体験談〉として聴き取ったものであることが判明する。友達の弟というのは友達の友達ではないから、嘘臭い噂話の主属性からは外れるが、この話、結局、この何某の自慢話に軟着陸しており、数分間に及ぶ睨み合いからトリカブトの毒が間一髪で効くところなどのシーンに劇的な作話性が感じられ(目の前で睨み合っていた何某が背後を振り返って地勢を確認する辺りは、一見、リアリズムっぽく映像にも浮かぶけれども、羆と睨み合っている最中にそうした動きをすれば、確実に後ろを振り向いた瞬間に羆に襲われている)、最終的には桃野が疑うように私もどうも信じ難い気がしている。]

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