反古のうらがき 卷之二 貴樣
○貴樣
貴樣といふは尊稱なれども、今は世の樣(さま)、下(さが)りて、へつらへる言(いひ)のみ多ければ、同輩より賤しき人を呼ぶ言葉とは、なれり。
[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてある。]
あるいやしきつかさ人どち、いゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ふこと有(あり)しが、互に腹立(はらだつ)まゝに、一人より、
「貴樣は何々。」
と言(いひ)ければ、
『常には互(たがひ)に「貴樣」とよぶこと無きを、今、かくいふは、吾を賤しむよ。』
と、大に怒りて、
「貴樣々々。」
とつづけざまに、四つ五つ、云(いひ)けり。
『扨は。吾を罵るよ。』
と心得て、彌(いよいよ)爭ひとなりて、互に
「一分(いちぶん)立(たた)ず。」
など言(いふ)程に、上司(かみつかさ)の人の前に出で、理非を斷じけり。
一人は、
「貴樣といふは固(もと)より同輩の稱呼。」
といふ。一人は
「のゝしりし覺(おぼえ)なし。」
といふ。
上司、斷ずるにかふじ[やぶちゃん注:ママ。]たれば、互に叱りこらして、止みけり。
「さるにても、何故、『貴樣々々』と重言(じふげん)せし。」
ととふに、
「貴樣、吾を『貴樣』と呼(よぶ)ならば、貴樣をも『貴樣』と呼ぶぞ。」
といゝしが、
「腹立(はらだつ)まゝに疾言(しつげん)して、罵るよふ[やぶちゃん注:ママ。]にきこへ侍りしならん。」
と、跡にて、笑ひ合(あひ)けりとか。
[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてある。]
予共、適樓にて「世説(せせつ)」の會讀せしに、吾、「卿(けい)を卿とせずして、誰(たれ)か卿を卿とせん」といふ所を讀むとき、阿部松陰、此談をなしたり。實は組下の人のよしなり。松陰、死して今十一星霜を經たり、鳴呼。
[やぶちゃん注:以下は底本でも改行がなされてあり、特異点で二字下げの追伸形式と推察される。]
嘉永二年三月六日、桃季(たうり)盛んに開きて、日永きとき、筆をとる。
[やぶちゃん注:短いが、それぞれの言い分を比較し易くするために改行を施した。「貴樣」という二人称は、『中世末から近世初期頃に武家の書簡で用いられた語で、文字通り』、『「あなた様」の意味で敬意をもって使われていた』。ところが、『近世後期頃から』、口語として『使用されはじめ、一般庶民も「貴様」を用いるようになった』ことから、『尊敬の意味が薄れ、同等以下の者に対して用いられるようになった』。特に『その後、相手を罵って言う場合にも用いられるようになり、近世末には上流階級で用いられなくなった』と「語源由来辞典」にある。
「いやしきつかさ人どち」幕府の下級官吏。
「かふじたれば」「困(こう)じたれば」。歴史的仮名遣は誤り。どうしてよいか判らず、困ってしまったので。
「疾言(しつげん)」「失言」であろうが、売り言葉に買い言葉で軽率に言い合って、思わず「口走ってしまった言葉」という意味で腑に落ちなくもない。
「予共」私や共学のものどもが。或いは「予、共適樓」なのかも知れぬが、後の「會讀」から、共を複数を示す接尾語「ども」でとった。
「適樓」不詳。塾の固有名詞か? 識者の御教授を乞う。或いは、前注の通り、「共適樓」の可能性もある。
「世説」中国南北朝期の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集「世説新語」。「世説」とは「世間の評判」の意。
「會讀」数人が集まって、同じ書物を読み合って、その内容や意味を研究し、論じ合うこと。
「卿を卿とせずして、誰(たれ)か卿を卿とせん」「世説新語」の「惑溺第三十五」の一節。
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王安豐婦、常卿安豐。安豐曰、「婦人卿壻、於禮爲不敬、後勿復爾。」。婦曰、「親卿愛卿、是以卿卿。我不卿卿、誰當卿卿。」。遂恆聽之。
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王安豐(わうあんぽう)の婦(ふ)、常に安豐を「卿(けい)」とす。安豐、曰はく、「婦人の壻(せい)を『卿』とするは、禮に於いて不敬爲(た)り。後、復(ま)た爾(しか)する勿(な)なれ。」と。婦、曰はく、「卿を親したしみ、卿を愛す。是れを以つて卿を『卿』とす。我、卿を『卿』とせずんば、誰(たれ)か當(まさ)に卿を『卿』とすべき。」と。遂に恆(つね)に之れを聽(ゆる)す。
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「王安豐」は、かの「竹林の七賢」中の最年少者である王戎(おうじゅう 二三四年~三〇五年)のこと。三国時代から西晋にかけて、魏・晋に仕えた軍人政治家。「婦」は妻、「壻」は夫。「卿」は当時の中国では、昵懇の者への信愛を込めた呼称、或いは同輩以下の者に対する親しみを込めた呼称であり、ここは「あなた」とか「あんた」とかの意となる。日本語の「卿」とは異なるので注意が必要。
「阿部松陰」「公益社団法人新宿法人会」公式サイト内の「新宿歴史よもやま話」の第七十九回の「灌楽園――松岡藩下戸塚村抱屋敷(5)」の記載の中に、『寛政二(一七九〇)年、松平定信による寛政改革の一環として幕府は朱子学を正学とし、他を異学とする異学の禁、ついで九年の幕臣やその子弟を教育する機関を昌平坂学問所(官学)と決めた。したがって、昌平坂学問所に関係または影響を受けた漢詩を嗜む人たちを官学派詩人といわれた』。そうしたグループの一つとして『文政五(一八二二)年十二月二十六日』に『関口龍隠庵で詩会氷雪社が結ばれた。参加したのは山内穆亭・設楽翠巌(
篁園門下、名能潜、通称八三郎、のち代官、勘定吟味役、先手鉄砲頭〔組 屋敷は住吉町〕と進む)・中村秋浪・石川柳渓(名澹、字若水、通称次郎 作、昌平校助教、牛込宝泉寺葬、現中野区上高田)・石川秋帆(柳渓の
弟)・拝石・川上鱗川・石川練塘・阿部松陰・内山一谷・鈴木桃野ら。遅れて楢原景山(如茂、表右筆、屋敷は四谷から牛込白銀町)・南圃・木村裕堂(友野霞舟の女婿、学問所吟味に及第して勤番組頭)も加わる。評者は野村篁園・植木玉厓・友野霞舟。龍隠庵は都電早稲田終点駅から程近い現在の椿山荘西側、胸突坂下の芭蕉庵である。篁園は風流絶佳の地として『龍隠庵賞月賦』を作詩している。なお、これより以前であるが、大田南畝もまた竜』(ママ。以下も同じ)『隠庵での佳日(七月七日、九月九日)の詩会七回の記録を残し、その中の『竜隠庵に会する記』に「竜蛇の潜伏する所なり、門を敲きて入り、曲徑の紆余する有りて、庵に上る」と記している』(下線太字やぶちゃん)と出る。「阿部松陰」でヒットするのはこの一ページのみである。
「組下」既出条に登場する人物(親族・友人)の多くは先手組であるから、それと考えてよい。
「松陰、死して今十一星霜を經たり」本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃であるが、この記事のみ、特異的に次の一行でクレジット記載があって「嘉永二年三月六日」とあるから、記事記載時制は一八三八年と確定され、この桃野の学友・詩友であった阿部松陰は、天保九(一八三八)年に亡くなっていることが判る。冷静な桃野にして、極めて珍しく、ここでは記末に「嗚呼」と歎き、情感を露わにしており、今までにないクレジット追記の添書きも非常な感傷に満ちているではないか。彼の松陰への信愛の強さが伝わってくる。]