反古のうらがき 卷之二 手打
○手打
尾藩(びはん)門前通り、名、不ㇾ知(しらず)、御旗本ありける。若殿、武術稽古に出(いで)られけるが、
「家來の中間(ちうげん)、供をはづせし。」
とて、屋敷に歸りて大に叱りけるに、中間、口答への上、過言(くわごん)せし故、止むことを得ず、一太刀、切(きつ)たる處へ、大殿、立歸り、大(おほい)に驚き、刀を奪取(うばひとり)、一間(ひとま)の内に推入(おしいれ)て出(いづ)る事を許さず。
若とのの奧方、
「是(これ)にて切捨(きりすて)玉へ。」
と脇差を持來(もちきたる)を、大殿、是も奪取、扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、
「吾、兼々、心願の筋ありて、此度(このたび)、こと成就せんとする時、來(きた)れり。此(この)四、五日の内こそ大切の時なるに、ケ樣(かやう)の變事ありては、又候(またぞろ)、妨げと成り、多年の心願、仇事(あだごと)となるべし。枉(まげ)て内濟(ないさい)取結(とりむす)ぶべし。かゝる者一人、命取りたりとて、無益の殺生なるを哉(や)。ぜひに、ぜひに。」
とて、用人(ようにん)に命じ、醫を呼び、疵口(きずぐち)ぬわせなどして療用せしに、折節、夏のことなりければ、させる疵にもあらねども、療用六ケ敷(むつかしき)こととはなりぬ。
其夜の内に、いよいよ六ケ敷く、命(いのち)の處(ところ)、請合兼(うけあひかね)たるよし、醫師、申ければ、大殿、甚(はなはだ)難澁し、
「もし、命、終らば、内濟なるまじ。」
といふ内、早、死入(しにいり)てけり。
「さらば、最初よりの如く、手打の趣きにて屆けたらん方(かた)、まさるべし。」
とて、請人(うけにん)、呼寄(よびよせ)けるに、是(これ)は人宿(ひとやど)やの奉公人にて、請人女房來り、
「慮外に付(つき)御手打とあるからは、子細なし。死骸、引取申(ひきとりまうす)べし。」
とて、大の男を引起(ひきおこ)し、身のうち・疵所(きずどころ)、殘りなく改めけるが、扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。]、
「是は慮外に付御手打とは僞りなり。無理殺しに疑ひなし。手打の者を疵を縫ふ法やある。其筋へ御届となし、御吟味請申(うけまうす)べし。ケ樣の死骸、引取(ひきとる)法、なし。」
といふにぞ、大殿もてあまし、
「彌(いよいよ)、心願の妨(さまたげ)なるべし。」
と手を盡(つく)し、内濟を入(いれ)、
「怪我にて手疵おわせし處、急所にて一命にかかる事に成行(なりゆき)たれば、身寄(みより)の者、養育の爲、手當金を遣す。」
といふ事にて、三十兩とか出(いだ)す事となりて、内濟、ととのひけり。
此事、評判となり、やはり心願の妨げとなり、損毛(そんもう)の上、耻辱(ちじよく)をとりたるよし。
武家の未練は、よからぬ事なり【雲樓、話。】。
[やぶちゃん注:読み易さを狙って、改行を施した。
「尾藩」尾張藩。特に指示がない以上、これは今までもしばしばロケーションとなった「廿騎町」(現在のここ(グーグル・マップ・データ))の南直近の尾張藩上屋敷(現在の防衛省)西門があったと思しい、西、新宿区市谷仲之町附近(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。
「家來の中間(ちうげん)、供をはづせし。」「家来の中間が、気がついたら、途中、御供をサボっていた!」。
「過言」弁解を越えて、出過ぎたことを言ったのである。若殿、年少なればとて、或いは若殿に責任があるようなニュアンスのことを言ってしまったものであろう。でなくては、手打ちにまでは普通は及ばぬと思われる。後で母親までその手打ちを完遂させようとしていることからも、かなり不埒なことを言ったものと思われる。
「奪取(うばひとり)」或いは「ばひとり」かも知れぬ。よくそうも読んだし、リズムとし「内濟(ないさい)」表沙汰にしないで、内々に事を済ませること。江戸時代に於ける裁判手続き上の和解としての用語として存在した。幕府は、公事(訴訟)がなるべく「内済」で終ることを望み、殊に民事上の「金銀出入り」 (無担保利子付(つき)の金銀貸借及びこれに準ずる起債権の訴訟。これらを「金公事(かねくじ)」と称した)では奨励しており、その場合は訴訟人 (原告) が訴状に奉行所から相手方 (被告) に出頭を命じる旨の裏書を得、これを相手方の村の名主のもとに持参すると。名主・五人組は両当事者を立会わせて内済を勧告した。内済が整わぬ時には、相手方は奉行所に出頭することになっていた。相手方が裁判所に出頭し、両当事者が対決した後でも、内済は許された。内済の場合には、両当事者は内済証文(済口証文(すみくちしょうもん)とも称した) を作成し、裁判所の承認(済口聞届)を得なければならないが、金公事の場合には「片済口」と称して、訴訟人のみの申立てで足りた。この制度は現在の調停制度へ引継がれている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。ここは刑事事件で、しかも事態は甚だ重いのであるが、ある程度の展開(被害者が死ななかったらの仮想経緯)の類似性は認知出来ようとは思われる)。
「人宿(ひとやど)やの奉行人(ほうこうにん)」「奉公人」は底本では「奉行人」であるが、これはおかしいので、国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」で補正した。さて、「人宿や」(人宿屋)であるが、これは単に旅館のことも指すのであるが、この被害者の中間の妻の遺体検案の様子からみると、そんじょそこらの宿屋の女中なんぞとはかなり違っていて、妙に場馴れしていることが見て取れる。さればこれは、男女奉公人の周旋を業とした「人宿(ひとやど)」屋に奉公していた者と見たいのである。「人宿」は、町奉行所等の記録や法令に於いては「人宿」とあるものの、一般には「けいあん」「口入(くちいれ)」(時代劇でよく耳にする)「口入人」などと呼ばれていた。「人宿」の語の初見は寛永一七(一六四〇)年であるが、より以前から使用されていたと考えられており、江戸では若党や徒士(かち)・中間などの武家奉公人を多数必要とし、この「人宿」を仲介とする雇用先の大半は武家方であった。「人宿」は奉公人の身元保証人(請人)となって判賃(判銭)を取り,また奉公先を周旋して契約が成立すると、周旋料(口入料・口銭)を受けたのであった(「人宿」については平凡社「世界大百科事典」に拠った)。さすれば、まさに中間等のトラブル等にもこの「人宿」は関係したから、その「奉公人」であったこの害者の女房も、それなりの知識や応対の方法を心得ていたのではなかったか? 宿屋女中奉公といった一般庶民の女房なら、夫の亡骸を見て、激しく狼狽えこそすれ、遺体を引っ繰り返して仔細に観察、致命傷の傷口の様態等まで具に見、事件の報知内容と遺体の状態の齟齬を突き合わせて分析し、異常な殺害遺体であるから引き取りは拒否するとか、その筋に訴え出て、正式に吟味してもらいたいなどと主張するような、心理的余裕や智慧は普通は働かないのではなかろうか?
「無理殺し」正当な理由もなく、本人も斬られるという意識もなく、突発的に創傷を受け、不当に殺されたものであること。
「怪我にて手疵おわせし處」誤魔化しがある。誰のせいでもない、突発的な事故によってたまたま怪我をし、手傷を負ったところが。
「三十兩」既に述べた通り、これが江戸時代後期の出来事となれば、一両は現在の三~五万円に相当するから、九十万円から百五十万円相当となる。
「損毛」「損亡(そんまう(そんもう):そんばう(そんぼう)」に同じい。損害を蒙ること。損害を与えること。損失。被害。
「耻辱」「恥辱」に同じい。
「雲樓」不詳。因みに、江戸後期の山水画家三宅西浦(みやけせいほ 天明六(一七八六)年~安政四(一八五七)年:本名・三宅高哲(たかてつ))は「看雲楼」の別名を持っていた。彼かどうかは判らぬが、ウィキの「三宅西浦」をリンクさせておく。]
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