反古のうらがき 卷之一 赤岩明神
○赤岩明神
信濃の山奧に赤岩明神といへるありと言傳(いひつた)へて、所のものもしらざること也。
何某、此國に公(おほやけ)の御用にて趣きたる時、此事を聞(きき)て土人に尋(たづね)たるに、しる者なく、
「唯、山奧とのみ聞つる。」
よし、いへり。
何某、數日の糧(かて)を包みて、山に入(いり)尋づぬるに、樵夫(きこり)も其所をしらず。
三日路(みつかみち)にして、道、絕へたり。
剩(あまつ)さへ、山蛛(やまぐも)の絲亂れて、行(ゆき)なやめるに、山蛭(やまびる)といふもの、人の氣(けはひ)を聞(かぐ[やぶちゃん注:底本のルビ。])と均しく、木の枝より落來(おちきた)りて、人に付く。水蛭(みづびる)の如くにして、大なり。蛛の絲は尋常より太く、小鳥をとるの設(まふけ)なり。篠竹を持て打拂(うちはら)ふに、やゝ手ごたへあり。多く引(ひき)たる所は、幾打(いくうち)か打(うち)て初(はじめ)て通(かよ)ふことを得る、となり。
引きぐしたる人、三、四人なれども、雲霧深く、咫尺(しせき)を分つこと能はず。各(おのおの)、聲、呼(よび)かわして[やぶちゃん注:ママ。]、其(その)在る所をしるなり。おりおりは大鳥獸の往來する音して、其形は見へず。餘りに霧深ければ、落葉、かき集めて火をもやし、或は晝といへども、松火(たいまつ)ふり照して行(ゆか)ば、霧も霽(はる)ることあり。溪の水音ありて、其所を求(もとむ)るに、しりがたし。少しの水はもたらしたれども、數日(すじつ)の後は、水にて、事かきたり。
四日といふには樵夫にも逢ふことなく、唯、大木の下をくゞるのみ。路とも溪とも分たず行(ゆき)けるが、元より、夜晝といふ分ちもなく、よき宿りになすべき大木の下にて、いつにても、足もつかれたる時、かはるがはる眠るなり。
五日といふには、みな、倦果(うみは)て、
「こゝ迄にして歸りなん。」
といひて立(たち)けるに、折ふし、夜の明がたにて、四方の雲霧、晴わたりしに、西北のかたと覺しき處をみれば、深き谷を隔てゝ、其向ひに一つの山あり。其色、火の如くみへける。
「これぞ、聞及(ききおよ)ぶ『赤岩明神』。」
とて、皆、一同に禮拜して立(たつ)間に、又、霧、立込(たちこめ)て、見へずなりぬ。
行(ゆき)て見んとするに、深き溪にて、渡るべきたよりなし。其あたり、少し平らなる所ありて、宮にてもありしかと思ふよふ[やぶちゃん注:ママ。]なる處あれども、礎(いしづゑ)などのしるしも、なし。
「扨、此處は何づくにかあらん。」
といふに、初(はじめ)案内せし從者の内に、少し心覺へ[やぶちゃん注:ママ。]ある物ありて、
「此(ここ)より、今、二、三日も行(ゆか)ば、越後の方江出(いづ)べし。」
といへり。
こゝより、立歸りけるに、亦、日數(ひかず)經て、元の路に出けり。
「所の者さへしらぬ『赤岩』、みし。」
とて、誇りて語りけり。
[やぶちゃん注:以下は底本でも改行されてある。]
此(この)赤岩、朱砂(しゆさ)のかたまりたるならんといへれど、左にあらず、尾州の淺尾大嶽がかたりたる。
「富士の登山三千遍に及ぶといふ人の富士眞景の内に、朱塗(しゆぬり)の富士あり。これを如何にと問ふに、朝日の移りて如ㇾ此(かくのごとき)こと、たまたまあり。大嶽も、四、五年の内に一度、見たり。」
といへり。蓋し、此山、朝日に向ひたるを、溪の向ふより見れば、かく紅く見ゆる所にて、「赤岩」の名も得しことか。されば、常に此處に來る人有りても、朝日の時にあらざれば、其色、紅(こう[やぶちゃん注:底本のルビ。])ならず、又、雲霧、深ければ、見ることなし。
何某、
「幸(さいはひ)の時に來りて、數日跋渉(ばつせう[やぶちゃん注:ママ。])の勞をつぐのひ[やぶちゃん注:ママ。]たり。」
とて、語りけるなり。
[やぶちゃん注:怪奇談ではないが、アプローチはおどろおどろしく夢幻的なれば、臨場感を出すために、改行を施した。
「赤岩明神」長野県茅野市にある八ヶ岳連峰の硫黄岳の西に位置する「赤岩の頭(あかいわのあたま)」(標高二千六百五十六メートル)があるが、後の「此(ここ)より、今、二、三日も行(ゆか)ば、越後の方江出(いづ)べし」が合わない(ここは、私には横浜翠嵐の山岳部で引率した二度の八ヶ岳縦走(三度だが、最初のそれは悪天候で行者小屋からの赤岳登攀(地蔵尾根)途中で断念した)の最後に下ったとても懐かしい山である。ここ(国土地理院図)である。「赤岩の頭」は森林限界を越えており、南斜面は禿げて岩が露出している。東の硫黄岳には巨大な爆裂火口が切り立ったクレーターのようにあり、まさに異界感が強い場所で、この話柄には一瞬、相応しいと私は感じたのだが)。新潟に連なるとすれば、北アルプスで、槍ヶ岳の東方に聳える二千七百六十八・九メートルの赤岩岳が候補とはなる(ここ(国土地理院地図))。ここも最初の柏陽のワンダー・フォーゲル部の夏山で二度、横を通過した(表銀座縦走路の脇。あそこから北の端の燕岳(つばくろだけ)なんぞはまさに火星の様相だ)。もし、この「赤岩岳」がここが「赤岩明神」だとすれば、何某一行は、松本から徳本(とくごう)峠を越えて上高地に入り、徳沢の谷筋を詰めたと考えると、日程・各シークエンス・ロケーション位置(最後に見上げたのが「西北」なら、徳沢の奥の槍沢が分岐する河原附近がぴったりである。ここ(グーグル・マップ・データ))と極めてよく一致するように思われるのである。ああ、もう孰れも二度と行くことはないだろう。
「山蛭」環形動物門ヒル綱ヒル亜綱顎ヒル目ヤマビル科Haemadipsa 属 Haemadipsa zeylanica 亜種ヤマビル Haemadipsa zeylanica japonica。日本本土では唯一の陸生吸血ヒル。私は吸着されたことはないが、丹沢では引率した生徒がよく襲われた。
「水蛭」本邦の、成体でヒトから吸血する水棲性のヒルは、ヒルド科 Hirudidae ヒルド属チスイビル Hirudo nipponica である。
「蛛の絲は尋常より太く、小鳥をとるの設(まふけ)なり。篠竹を持て打拂(うちはら)ふに、やゝ手ごたへあり。多く引(ひき)たる所は、幾打(いくうち)か打(うち)て初(はじめ)て通(かよ)ふことを得る、となり」あり得ないけれども、異界へ通じる道にはすこぶるつきで、いいアイテムである。
「引きぐしたる人」「引き具(供)したる人」。同行者。但し、何某の同格式の者ではないようだ。現地で調達した山案内人や畚背負いの合力である。
「咫尺」極めて近い距離。「咫尺を弁ぜず」等と使って、「視界がきかず、ごく近い距離でも見分けがつかない」の意となる。
「かはるがはる眠るなり」ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus・ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax・野犬(のいぬ)等の襲撃を考えれば、交代仮眠は必須である。
「淺尾大嶽」既出既注であるが、再掲しておく。画家谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)の門人に、同姓同名(号)の名古屋藩藩士で、名は「英林」とするデータが、サイト「浮世絵文献資料館」のこちらにあった。
「富士の登山三千遍に及ぶといふ人」不詳。こんなギネス級の登山者なら名が残っていそうなもんだが?
「朱塗の富士」ウィキの「赤富士」によれば、明和八(一七七一)に文人画家鈴木芙蓉が「赤富士に昇竜龍図」を描いているが、紀州藩勘定奉行支配小普請方の医師で南画家としても知られた野呂介石が文政四(一八二一)年に描いた「紅玉芙蓉峰図」絹本淡彩一幅も赤富士を描き、赤富士を主体に描いたのはこれが最初のものと推定されているようである。中でも、浮世絵師葛飾北斎の「富嶽三十六景」(天保元(一八三〇)年~天保五年刊)の一図「凱風快晴」の赤富士が最も知られる。本「反古のうらがき」の成立は嘉永元(一八四八)年から嘉永三(一八五〇)年頃である。
「跋渉(ばつせう)」歴史的仮名遣は「ばつせふ」が正しい。山野を越え、川を渉り、各地を歩き回ること。
「つぐのひたり」埋め合わせとなった。]