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2018/09/28

柳田國男 炭燒小五郞が事 一〇

 

      一〇

 南の島々の金屬の始めは、鑛物に豐かでなかつたばかりに、非常に我々の島よりはおくれて居た。それにも拘らずいつの間にか、炭燒長者は早ちやんと渡つて住んで居る。自分が本文の炭燒太良の話を書いて後、佐吉眞(さきま)興英君は其祖母から聽いたと云ふ、山原(やんばる)地方の炭燒の話を、南島説話に於て發表せられた。大體に於て宮古島の例とよく似て居て、此も亦女房の福分が、二度目の夫(をつと)を助けたことを説くらしいが、濱の寄木(よりき)の神樣から、赤兒の運勢を洩れ聽くことゝ、鍋のヒスコ[やぶちゃん注:不詳。文脈からは鍋底の煤(すす)とは思われる。]を額に塗る風習を、説明しようとした部分は落ちてしまつて、其代りとして前の夫が、死んで竃の神と爲つた點を詳しく傳へて居る。沖繩と宮古と二處の話を重ね合はすれば、ちやうど琉球神道記の江州由良里(ゆらのさと)の物語に近くなるから、或は之を以て慶長の初め頃に、袋中上人一類の内地人から、聽いて記憶して居たものとみる者が有るか知らぬが、其では合點が行かぬ節々が少なく無い。殊に長老となるべかりし貧困なる第二の夫(をつと)が、炭燒であつたと云ふ一條が、沖繩と宮古とにはあつて、中世京都附近に行はれた物語には見えず、而も千里の海山を隔てた奧州の田舍で、現に口から耳へ傳承する話には、炭燒が又出て來るのは、如何にしても不思議である。

[やぶちゃん注:「琉球神道記」江戸前期の倭国の浄土僧袋中良定(たいちゅうりょうじょう 天文二一(一五五二)年~寛永一六(一六三九)年)の琉球滞在体験を元に書かれた仏書。序文によれば慶長一〇(一六〇五)年の完成で、慶安元(一六四八)年には版本の初版が開板されている。ウィキの「琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)より引く。これは『琉球王国に渡った』、『倭僧の袋中良定』(陸奥国磐城郡出身。仏法を求めて明に渡ることを企図し、渡明の便船を求めて琉球王国に滞在し、その滞在中に琉球での浄土宗布教に努めた。渡明の便船が見つからずに帰国した後は、京都三条の檀王法林寺を始め、多くの浄土寺院の創建や中興を行った。ここはウィキの「袋中に拠った)『が著した書物である。神道記と題しているが』寧ろ、『本地垂迹を基とした仏教的性格が強い書物となっている。また、薩摩藩が侵攻する以前の琉球の風俗などを伝える貴重な史料でもある』。『本書は後述のような構成を持って書かれているが』「古代文学講座十一 霊異記・氏文・縁起」では、『この構成について、仏教をインド・中国から説明し、さらに琉球伽藍の本尊仏を説明、最終巻で琉球の神祇に顕れた本地垂迹を説明することにより、琉球の神祇が真言密教と深く関係していると説くことを意図し、書かれたものだと述べている。以上の様な内容のため、神道記とは題しながらも、琉球の神祇について書かれているのは最終の巻第』五『のみとなっている』。『本書は大きく』二『種類に分類することができる。第』一『は袋中良定の自筆した京都五条の袋中庵に所蔵されている稿本、第』二『はその後作られた版本で』、両者には有意な違いが認められる(リンク先では具体な違いが検証されてある)。前掲書によれば、『本書に袋中良定の直接見聞したと思われる記事が散見されることから、本書の記事が袋中良定の聞書的な性格を持つものだと考察している。このため、後の時代の書物と本書の記事を比較することで』、『琉球における風俗の変遷を知ることができる貴重な史料となっている』。著者である袋中良定は浄土宗の僧侶で、その伝記』「袋中上人絵詞伝」に『よれば、明への渡航を望んで琉球まで来たが』、『琉球より先への乗船を許す船が見つからず』、三『年間この地に留まった』後、『日本へ帰国したのだと言う。また』、「中山世譜 巻七」には万暦三一(一六〇三)年。和暦で慶長八年)に扶桑の人である僧袋中なる者が三年の間琉球に留まり、「神道記」一部を著して還った、と『あり、袋中良定が琉球に滞在していた』三『年の間に本書が著されたことが分かり、序文の記述を裏付けている』。『しかし、稿本の奥書のみに見える部分には「この』一『冊、草案あり。南蛮より平戸に帰朝、中国に至る、石州湯津薬師堂において之を初め、上洛の途中、しかして船中これを書く、山崎大念寺において之を終える。集者、袋中良定』慶長十三年十二月初六 云爾」『とあり、序文とは成立年が相違している』。昭和五三(一九七八)年角川書店刊の横山重「書物捜索 上」では序文が万暦三十三年(一六〇五年/慶長十年)、奥書が慶長十三年(一六〇八年)『となっていることから』、『本書の製作年代は簡単には決定できないと述べた上で、序文が明の元号である万暦となっているのは、袋中良定が琉球に滞在していた時に書かれたからであろうと推測している』。『また、稿本と版本では序文に記述された本書の執筆動機が大きく異なっている』。『稿本の序文には「帰国の不忘に備える」とあり、本書が備忘録的な意味で書かれたことを窺わせるが、版本の序文では国士黄冠位階三位の馬幸明に「琉球国は神国であるのに未だその伝記がない。是非ともこれを書いて欲しい。」と懇願され、本書を作成したと記している。袋中が入滅した西方寺の』「飯岡西方寺開山記」にも、『馬幸明に懇願された袋中が、旅行中の身であることを理由にこれを』一旦は『断ったが、頻りに懇願された』ことから、本書五巻と「琉球往来」一巻を『著したと記されている』。『この馬幸明と言う人物は琉球王国の士族と考えられているが』、よく判らない。或る説では、『馬幸明は那覇港に勤務していた士族で、しかも黄冠の中では最上位となる位階三位であることから、中山王府の高官ではないかと推測』されている。『さらに袋中自筆の』「寤寐集(ごびしゅう)」には、『馬幸明に孫が生まれたが、この子は泣き声を発さず』、『乳を飲むばかりで、やがて死んでしまいそうな様子であったことから、馬幸明は必死に袋中を頼ってきた。そこで、ある夜、袋中はこの子の元へ行き、文を書いて御守りとして渡すと』、『翌朝』、『この子は泣き出し、馬幸明は大いに喜んだと言う話が』載ることから』、『馬幸明』は『在する人物で、袋中とかなり親しい間柄であったと』もされる(以下、本書の成立年代と執筆動機の現行での定説が記されるが、略す)。「琉球神道記」の構成は『巻第』一『は三界、巻第』二『は竺土、巻第』『三は震旦、巻第』四『は琉球の諸伽藍本尊、巻第』五『は琉球の神祇』となっている。最終巻の内容は、波上権現事・洋ノ権現事・尸棄那権現事・普天間権現事・末吉権現事・天久権現事・八幡大菩薩事・天満大政威徳大自在天神事・天照大神事・天妃事・天巽・道祖神事・火神事・権者実者事・疫神事・神楽事・鳥居事・駒犬事・鹿嶋明神事・諏訪明神事・住吉明神事・キンマモン事となっているが、調べて見たところ、柳田國男の言う「由良の里」の物語は「火神事」の内容かと思われる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像から読める。

 奧州方面の炭燒長者は、佐々木喜善君がその幾つもの例を採集して居る。今に書物になつて出るであろうが、さし當りの必要のために、二つだけ話の大筋を揭げておく。一つは和賀郡に行はれているもの、他の一つは佐々木君の居村、上閉伊郡六角牛(ろつこうし)山の山口で、物知りの老女が記憶して居た話である。

㈠ 木樵が二人山に泊つて同じ夢を見る。二人の家には男と女の兒が生れたが女の兒は鹽一升に盃一つ、男は米一升の家福だと、山の神の御告げがあつたと思うて目がさめた。翌日還つて見ると果して子が生れて居る。成長の後夫婦となつて家が繁昌した。女房は一日に鹽を一升使ひ、盃にほ酒を絶さず[やぶちゃん注:「たやさず」。]、大氣[やぶちゃん注:「たいき」。気が大きいこと。]で出入の人々に振舞をするので、小心の夫は之を見かね、離緣をしてしまふ。女房は出て行つたが、腹がへつたので大根畠に入つて大根を拔くと、其穴から酒が涌き出たので、

    ふる酒の香がする

    泉の酒が涌くやら

と歌いつゝ、女房は其酒を飮んで、元氣になつて行くうちに日が暮れる。山に迷つて一つ家の鍛冶屋に無理にとめてもらふ。翌朝見ると鍛冶場の何もかもが皆金である。それを主人に教へて町へ持出し、賣つて長者になつたら、其あたりが町になつた。後に薪を背負うて賣りに來た父と子の木こりがあつた。それは女房の先の夫であつたと謂ふ。

㈡或鍛冶屋の女房、物使ひが荒くて弟子たちに迄惜しげ無く錢金を與へる。夫の鍛冶屋はこの女房を置いては、とても富貴にはなれぬと思うて、三つになる男の子をそへて離別する。女房は道に迷うて山に入込み、炭竃の煙を見つけて炭燒小屋に辿りつく。小屋のヒホド(爐)に小鍋が掛つて居る。主人が還つて來たから泊めてくれと謂ふと、今夜此飯を二人で食へばあすはもう食ふ物が無いと當惑するので、明日は又何とかしますと、それを二人でたべて寢る。翌日女房は懷から金を出して、これで米を買うて來て下され。そんな小石で何の米が買はれべ。インニェこれは小石で無い。小判と謂ふ寶物だ。こんな物が寶なら、をれが炭燒く竃のはたは、みんな小判だと謂つて笑ひながら、それでも買物に町へ出た。其あとで女房が往つて見ると、誠に炭竃のまはりには黃金が山のやうだ。之を運ぶ

と小屋が一杯になつて、入口から外へ溢れる。そこへ町から爺が還つて來る。一俵の米が殘り少なくなつて居るから、わけを聞くと途中で腹がへつたので、俵から米をつかんで食ひ食ひ來た。後からも人が附いて來るから、其人にも一つかみづゝ投げてやりながら來たと謂ふ。その人といふのは自分の影法師のことであつた。さういふ風の人なれども女房はきらはず、次の日から其金で米を買ひ木こりや職人を呼んで、家倉小屋を數多く建てさせ、そこで炭燒長者と呼ばれるやうになると、其邊も村屋になつた。ところが先夫の鍛冶屋は女房を出してから、鎌を打とうとすれば鉈になり、鍬と思えば斧になる。けちが附いてろくな仕事もできないので、乞食になつてしまひに炭燒長者の門に來る。女房がそつと見ると元の夫であつたから、米三升をやつて無くなれば又來よと謂つて返す。それから長者の夫にも話して、共々にすゝめて下男にする。何も知らぬから悦んで、一生この炭燒長者の所で暮してしまふ。

[やぶちゃん注:この二話は柳田の言う通り、民俗学者佐々木喜善(明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)の「聴耳草紙」(昭和六(一九三一)年三元社刊)にカップリングされた「炭焼長者」一話となって収録されている。末尾には『和賀郡黒沢尻町辺にある話、家内の知っていた分』(所持する一九九三年ちくま文庫版に拠る)という但し書きが附されてあり、ジョイントは悪くなく、躓かずに読める。]

 同じ老女の話したうちには、右の二つの物語が一つに續いて居るのもある。挿話があつてあまり長いから抄錄しなかつたが、それにも大根を拔いた穴から甘露のやうな酒が出て、之を賣つて自ら長老の女主となつたとあり、卽ち一方には田山小豆澤のダンブリ長者の話とつゞき、他の一方には三郡の蕪燒笹四郞の蕪を食べた話とも緣をひく。殊に面白いのは先夫に福分が無くて、藁に黃金を匿して、草履を作つて來いと謂つて渡すと、夜中に寒いので其藁を金と共に、ヒホド(爐)に燃してしまふ。握り飯の中に小判を入れて遣ると、歸りに沼に下(お)りて居る鴨を見かけて、其むすび[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]を投げつけてしまふ。女房はさてさて運の無い人だと歎息して、すゝめて我家の下男とする。さうして酒屋長者の家で一生を終るといふのである。但し此方では長者は獨身の女主で、黃金は發見せずに酒の泉を發見した。第一の話は後の夫が鍛冶屋、第二の話だけは炭燒であるが、やはり亦前の亭主を鍛冶屋にして居る。他の類例を集まる限り集めてみたら、必ず變化の中から一定の法則が、見出されることゝ信ずる。要するに話を愛した昔の人の心持は、一種精巧なる黃金の鏈[やぶちゃん注:「くさり」。]の如きものであつた。

 

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