反古のうらがき 卷之二 水練
○水練
或人、
「水の心は得ざれども、一度(ひとたび)浮(うか)び出(いづ)るは難(かた)くもあらぬことなり。」
といゝ[やぶちゃん注:ママ。]ければ、又、一人のいふは、
「左にあらず。浮むも沈むも心ありてこそ、おのがまにまになさめ、其身、銕石(てついし)にひとしくて、何の期(き)すること、あらんや。」
といゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ひしが、或夜、あたりなる川に舟浮べ、二人、遊びけるが、「浮ぶ」といひし人、誤りて水に落けり。今、壹人は水心もありければ、入(いり)て救ひ出(いだ)さんとする程に、落(おち)たりし人、舟のほとりに乳のあたり迄、浮出(うかびい)で、
「ソリヤ。浮(うき)たり。いかに、いかに。」
と罵りて、再(ふたたび)、沈入(しづみいり)て、出(いで)もやらず。
兎角して救ひ出(いだ)せし頃は、半ば死入(しにいり)て在(あり)しが、やゝありて甦(よみがへ)りけり。
最後の一言にも爭ひし事は「忘れざりけり」とて、人々、笑ひ合りき【皞齋、話。】。
[やぶちゃん注:底本でも以下の第二話の頭は改行が施されてある。]
又、御徒の役(やく)勤めたる人、七十餘歳にて組頭となり、若き人の水稽古に出(いづ)る舟に乘合(のりあひ)て、居睡(ゐねむり)して、水に落(おち)けり。
「年こそ寄(より)たれ、一度浮む程の事は、今も猶、覺へあらん。」
と、人、見てけるに、ふつに浮ばず。
名にしおふなる神田川の落水(おちみづ)なりければ、
「流され也(や)しけん。」
とて、遙に川下の方より入(いり)て、こゝかしこ、求むるに、人も、なし。
やゝして、元(もと)落入(おちいり)しあたりに、人、あり。
引上(ひきあげ)んとするに、さからひて、出でず。
二人(ふた)り、三人(みた)りして引上れば、恙なし。
「何とて浮び出ざりし。」
ととへば、
「兩刀は船に置ぬ。紙入囊(かみいれぶくろ)・きせるは内懷(うちふところ)に入(いれ)て、手拭もて胴卷(どうまき)せり。たばこ入(いれ)は腰に付(つけ)たり。今一品は、扇子なり。蘭香が畫(ぐわ)に、赤良(あから)が筆あり。たゝみ置(おき)たれば、ぬるゝとも、猶、用に立(たつ)べし。さらぬといへど、畫と書とは助(たすかり)ぬべし。それが行衞の知れざれば、心當り、あさり求(もとめ)て在りしが、態々(よくよく)思へば、羽織と袴ごしとの間に、さし挾みおきしものを。」
と答へしかば、人々、さめて、
「人の心もしらで、死欲の深さよ。」
と、そしりけるとなん【高橋太左衞門師、話。】。
[やぶちゃん注:底本でも以下の第三話の頭は改行が施されてある。]
これも水心しらぬ人、池水に落たり。
岸の方は深くもあらぬに、やゝ立てども、影もなく、水のさわぐ樣(やう)も、なし。
人々、いぶかり、入(いり)て見るに、水は腰にも及ばず。
落たる所に人あり、坐して動かず。
引(ひき)おこしければ、出來(いできた)れり。
「かゝる淺き所に坐したるは、如何に。」
ととへば、
「われ、水心なければ、常に覺期(かくご)して這(は)う[やぶちゃん注:ママ。]べき心なり。されども、落(おつ)る時、倒顚しぬれば、西東(にしひがし)を辨(わきま)へ侍らず。『若(も)し誤りて深き方に向ひて這ふこともあらんか』と、是をおそるゝ故に、先(まづ)坐して、岸の人の動靜(よふす[やぶちゃん注:底本のルビのママ。])をうかゞひ居(ゐ)たり。故に猥(みだ)りに手足を動かし侍らず。」
といゝし[やぶちゃん注:ママ。]【川上麟川、話。千坂千里なりとも聞(きき)けり。】。
[やぶちゃん注:底本でも以下の第四話の頭は改行が施されてある。]
これも水心しらぬ人、
「水の底を這ふ。」
といふ。
「いや、ならぬ。」
といゝ[やぶちゃん注:ママ。]爭ひしが、或時、
「玉川に鮎の魚取る。」
とて、打連れて行けり。
河の瀨、幾筋にもなりしを見て、
「水の底、這ふことの、なる・ならぬを勝負せん。」
とて、人々とゞむるもきかで、入けり。
此瀨、思ひの外、淺くして、這ふ人の背も隱れざりしを、數丈の底にも入(いり)たる心地せしにや、色々、さまして、這ふ程に、這ふ程に、息のつゞくだけに、向ひの岸に上(あが)りて、
「如何に。如何に。」
と誇り罵りしは、おかしかりき[やぶちゃん注:ママ。]【富永金四郎といふ人の話。又、秋浪も、かくありしとか。】。
[やぶちゃん注:迷ったが、対峙する台詞が多く、その比較のために改行を施した。
「水の心」水練の心得。
「浮むも沈むも心ありてこそ、おのがまにまになさめ」水に浮かんだり、潜ったりすることは、これ、総て自分自身がそうしようと思うに従ってのみ動作出来るものであるのであって。「こそ」……(已然形)「、」~の逆接用法のやや特殊な限定用法。
「其身、銕石(てついし)にひとしくて、何の期(き)すること、あらんや」反語。その身(人体)が、そのままでは(意志を以って泳ごうとしなければ)、鉄や石と同様(に重量を持っていて水に沈むものであるの)に、どうして誰でもが簡単に浮かぶことがそう難しくなく出来る、などと断定・主張することが、これ、出来ようか、いや、出来ぬ!
「皞齋」不詳。「こうさい」或いは「ごうさい」か。因みに、漢詩人で木口皞斎(きぐちこうさい)なる人物がいるが(「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」の「皡斎存稿」のデータを見られたい)、この人物は寛政五(一七九三)年に二十四歳で夭折しており、鈴木桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれであるから、違うか。ただ、この人物は桃野も好んだ漢詩作家であり、また、既に出た桃野と繋がりのあった林述斎とも親交があったから、或いは彼を経由して得た、又聞きの古い話である可能性はあるかも知れない。
「水稽古」水練の稽古。将軍の外出の際に徒歩で先駆(さきがけ)を務め、また、沿道の警備などに当たった御徒組であるから、そうした訓練があったとしてもおかしくない。
「ふつに」「都に・盡に」などと漢字表記した、呼応の副詞で、下に打消の語を伴って「全然~(ない)・全く~(ない)」の意。
「名にしおふなる神田川の落水(おちみづ)」神田上水は上水である以上、滞留していたのでは役に立たないから、相応に流れが速かったと考えられ、それは世間によく知られていて、されば「名にし負ふ」であったものと推定される。
「さからひて、出でず」救い上げようとしているのに、抵抗して逆らい、川から出ようとしない。
「紙入囊(かみいれぶくろ)」鼻紙袋。財布のこと。
「手拭もて胴卷(どうまき)せり」手拭に包んでそれを胴に巻き付けてあった。
「蘭香」浮世絵師吉田東牛斎蘭香(享保九(一七二四)年~寛政一一(一七九九)年)である。詳細事蹟は「浮世絵文献資料館」のこちらを見られたいが、そこにまさに『没後史料』として、嘉永二(一八四九)年のクレジット(本書成立の範囲内)で、『『反古のうらがき』〔鼠璞〕』『(鈴木桃野著・嘉永二年記)』(私が校合している国立国会図書館デジタルコレクションの「鼠璞十種 第一」と同じ後代のものであろう)『(「水練」の項。某御徒役、神田川に落水した時〝蘭香画、赤良筆〟の扇子を共に没めたものと思い、行衛を探しに潜水し周囲をはらはらさせた話。扇子は船中の羽織と袴こしの間にありし由)』とあるから、間違いない。
「赤良」四方赤良(よものあから)。天明期を代表する稀有の文人・狂歌師で、御家人として支配勘定でもあった大田蜀山人南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)狂名。
「態々(よくよく)」通常は「わざわざ」であるが、どうもしっくりこないので、かく、当て読みした。
「人々、さめて」皆、興醒めして。
「高橋太左衞門師」不詳。「師」とあるから「高橋太左衞門」の「師」匠(何の師匠かは不明)の意であろう。
「やゝ立てども、影もなく、水のさわぐ樣(やう)もなし」少し立った気配はしたが、よく見てみても、姿が見えず、溺れて辺りの水が掻き乱されているような様子も、これ、ない。
「覺期(かくご)」「覺悟」。危険なこと・不利なこと・困難なことを予め考えて、それを受けとめる心構えを持つこと。ここは水泳が出来ぬから、冷静に水の底を這って陸(おか)に上がろうと冷静な判断と行動をとろうとしたことを、如何にも事大主義的に言っているので、既にしてここが笑話なのである。
「西東」ここは単に広義の「方角」の意。池の縁がどちらであったか、の意。
「川上麟川」「かはかみりんせん」と読んでおく。不詳。
「千坂千里」底本の朝倉治彦氏の補註に、『千坂廉斎。昌平黌徒出役』(「徒」は不明だが、所謂、「出役(しゅつやく)」とは江戸幕府の職制に於いて、本職を持つ者が臨時に他の職を兼ね勤めることを指し、昌平黌からの出役として知られるのは、鈴木桃野が死の直前に命ぜられた甲府徽典館(きてんかん:甲府にあった学問所。山梨大学の前身)へのそれや、他の学問所や取調所への出役があった)『名は幾、字』(あざな)は『千里、通称一学。本姓吉田氏。天保八』(一八三七)『年致仕後は莞翁』(かんおう)『と号した。元治元』(一八六四)『年八月歿、七八歳』とあるから、生まれは天明七(一七八七)年で、桃野より十三年上である。
「富永金四郎」不詳。
「秋浪も、かくありしとか」「秋浪」不詳であるが、この謂いは、秋浪(あきなみ)という桃野の知合いも、これと同じ経験があったとか言う、の謂いか。]