《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 讀孟子 オリジナル注附
[やぶちゃん注:一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(本底本)の「初期の文章」に載るものに拠ったが、葛巻氏はこれを「第一高等学校時代」のパートに入れているものの、特にその根拠を示していないし、同パートで前に入っている「菩提樹――三年間の回顧」・「ロレンゾオの戀物語」・「寒夜」のようには文末に推定執筆年のクレジットも表示されていない。それを信ずるとすれば、明治四三(一九一〇)年九月十三日(第一高等学校一部乙類(文科)入学日)から大正二(一九一三)年七月一日の一高卒業までの、龍之介十八歳から二十一歳の閉区間に書かれたものとなる。ただ、内容的な深い洞察や表現から見ても中学以前のものとは私にも到底思われない。以下、私の葛巻氏の編集に対する疑問や推測は、前回の「斷章」の冒頭注に述べたので、繰り返さない。
各段落末に、私自身にとって本篇が完全に読解し得るようにすることを主目標として、不審を残さぬようにオリジナルに語注を附したつもりである(無論、私は二十一の時にこれだけの文章は書けなかったし、今でも無理である。芥川龍之介、恐るべし)。附していない箇所でお判りにならないものは、ご自身でお調べあれかし。注の後は一行空けた。]
讀孟子
事新しく云ふ迄もなく、孟子の哲學は内容に於て完く孔子の哲學也。彼は此點に於て新しき哲學の創唱者に非ずして、單に其祖述者たるに止まりき。然れども、彼が孔子の衣鉢を傳ふるや、彼は殆ど古今に其匹儔を見ざる忠實と熱誠とを以てしたり。彼が孔子の哲學によりて其立脚地を樹立したるが如く、孔子も亦彼を俟ちて、始めて其哲學に牢乎たる根柢と組織とを與へたりと云ふも、恐らくは過褒にあらざるべし。加ふるに彼の犀利なる文章と辯才とは、能く彼をして彼の使命を完ふするを得しめたり。彼の文節は極めて明快にして、其縱論橫議竹を破る、刃を迎へて節々皆解くるが如きの妙に至つては、昌黎の雄鷙眉山の俊爽を以てするも、到底其堂奧を窺ふに足らず、二分の圭角と八分の溫情とを湛たる彼をして毫裡に躍如たらしむる、殆ど憾なきに庶幾し[やぶちゃん注:読点はママ。]。しかも彼の舌鋒は又、其文字の雄勁なるが如く雄勁にして、虛より實を出し、實より虛を奪ひ、比喩を用ひ、諧謔を弄び、彼と議論を上下するものをして、辭盡き言屈し、又如何とも爲す可らざるに至らしめずんば止まず。其齊の宣王に見えて牢牛を談ぜしが如き、戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したるが如き、彼の踔厲風發、説いて膚寸をも止めざる好箇の例證たらずんばある可らず。
[やぶちゃん注:・「匹儔」(ひつちう(ひっちゅう))は「匹敵すること・同じレベルの存在と見做される相手」の意。
・「牢乎」(らうこ(ろうこ))は「しっかりしているさま・揺るぎないさま」の意。
・「犀利」(さいり)。「犀」は「堅く鋭い」の意で、ここは「才知が鋭く、物を見る目が正確であるさま」の意。
・「刃を迎へて節々皆解くる」底本では「刃」は「刅」の右端の一画を除去した字体。「やいば」。「切れ味鋭い英知の刃を迎えて、蟠った節々が瞬く間に、皆、鮮やかに剖(き)り解かれる」の意。
・「昌黎の雄鷙」中唐の佶屈聱牙、唐宋八大家の一人であった韓愈のこと。彼は昌黎生まれを称し、人々から韓昌黎(昌黎先生)と呼称された。「雄鷙」は「ゆうし」と読み、「雄々しい猛禽」から「偉大な英雄」のことを言う。
・「眉山の俊爽」眉州眉山(現在の四川省眉山市東坡区)の出身であった、北宋の英才で唐宋八大家の一人である蘇東坡のこと。「俊爽」(しゆんさう(しゅんそう)」は人品・風物などが優れていること。
・「圭角」「圭」は「玉」に同じい。通常は「人の性格や言動に角があって円満でないこと」を差し、ここも表面上はその意であるが、そこに、原義の稀な輝きを持った「宝玉の尖ったところ・玉の角」、則ち、真の鋭才故の角立った部分を匂わせる。
・「毫裡」(がうり(ごうり))はごく僅かな時間内。瞬時。
・「憾なきに庶幾し」「憾」は音「カン」で読みたい。「非常な心残りとなる残念な思い」が全くなく、「庶幾」(しよき(しょき))はこの場合、「目標に非常に近づくこと」の意。
・「雄勁」(ゆうけい)は力強いこと。元来、この語は書画・詩文などに、力がみなぎっていること。
・「齊の宣王に見えて牢牛を談ぜし」「牢牛」は「ろうぎゆう(ろうぎゅう)」で「牢」は「生贄(いけにえ)」の意。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「七」の話。柏木恒彦氏のサイト「黙斎を語る」内のこちらで原文と書き下し文(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)が、小田光男氏のサイト内の「我読孟子」のこちらで原文と現代語訳が読める。
・「戰の比喩を以て梁の惠王を揶揄一番したる」所謂、知られた「五十歩百歩」の話である。「孟子」巻之一の「梁惠王章句上」の「三」。同じく柏木恒彦氏のサイト内のこちらの「梁惠王曰寡人之於国章」で原文と書き下し文と現代語の通釈が、小田光男氏のサイト内のこちらで原文と現代語訳が読める。
・「踔厲風發」(たくれいふうはつ)は「才気に優れ、弁舌が鋭いこと」。韓愈の柳宗元の墓誌に記した「柳子厚墓誌銘」が原拠。原文はこれ(中文ウィキ)。訓読(歴史的仮名遣ではないが、概ね首肯出来る)と訳は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「唐宋八家文 韓愈 柳子厚墓誌銘(四ノ一)」が良い(後者では「踔」が表記不能漢字となっている)。
・「膚寸をも止めざる」説いた舌鋒が、寸止めでなく、膚でぴたっと止まるの意か。]
啻に之に止らず、業を子思の門人に受けたる彼は、魯中の叟が大經大法の宗を傳ふると共に、又能く天下の儒冠をして推服せしむるに足るの學殖を有したりき。殊に、其詩書に出入するの深き、吾人をして、上は堯舜を追逐して參りて翶翔して下は禹湯に肩隨して、濁世を救濟するの誠に偶然ならざるを感ぜしめずんばあらず。既に言を以て、異端を叱呼するに足り、學は以て、一世を壓倒するに足る。是に於て、四方の俊才が翕然として其門下に參集したる、亦怪むに足らず。しかも其一生の經歷が彼の先導者たる孔子のそれに酷似したるが如く、彼も亦、孔子が顏囘の賢、曾參の智を打出したると殆ど同じき成功を以て、樂正子の如き、公孫丑の如き、幾多の人材を陶鑄したり。
[やぶちゃん注:・「啻に」「ただに」。限定の副詞。
・「業を子思の門人に受けたる彼」孟子は、孔子の孫であった子思(しし)の、その門人の下で学んだとされる。
・「魯中の叟」魯国の老人で孔子を指す。
・「大經大法」「たいけいたいはふ(たいけいたいほう)」。「大經」は「大きな筋道・不変の条理・大道」の、「大法」は「大きな定理・重要な規律」。
・「宗」は「そう」と読んでおく。根本義。原理。
・「儒冠」儒学者。
・「推服せしむる」ある人を敬って心から従わせる。心服させる。
・「吾人をして」「我々をして」。以下の「感ぜしめずんばあらず」が受ける。
・「堯舜を追逐して參りて翶翔して」「翶翔」(こうしよう(こうしょう))は「天高く飛び上がること・空を自由に飛ぶこと」。伝説の聖王である堯や舜の正道を忠実に追い、或いはそれをも超越せんとするかのように、理想の高みに自在に飛翔して。
・「禹湯に肩隨して」古代の賢明なる名君たる、夏の禹王や殷の湯王に比肩追随して。
・「濁世」私は個人的には「ぢよくせ(じょくせ)」と仏教語読みしたい。政治や道徳の乱れきった濁り汚れた世の中。「だくせ」という仏教語でない純粋に上記の意味である読みもあるが、私は読みとして好まないからである。
・「叱呼」(しつこ(しっこ))は通常は「大声で呼ぶこと」であるが、ここは正面から名指しして徹底批判すること。
・「翕然」(きふぜん(きゅうぜん))は「多くのものが一つに集まり合うさま」。
・「顏囘の賢」孔門十哲の一人で秀才随一とされた。孔子が最も嘱望した弟子であったが、孔子に先だって亡くなった。
・「曾參の智」曾子(そうし)。先に出た孔子の孫子思は曾子に師事し、子思の教えが孟子に伝わったことから、孟子を重んじる「朱子学」が正統とされるようになると、先の顔回と、この曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。
・「樂正子」(がくせいし)は春秋時代の曽子の弟子であった楽正子春(しゅん)。
・「公孫丑」(こうそんちゆう(こうそんちゅう))は孟子の弟子。「孟子」全十四巻中の二冊「公孫丑章句」の上・下の編纂を担当している。
・「陶鑄」(とうしゆ(とうしゅ))の「陶」は焼成して創る陶器、「鋳」は「金を鋳(い)て器を作ること」で、「陶冶」に同じい。]
彼が卅歳の一白面書生として、鄒の野に先王の道を疾呼してより、七十三歳の頽齡を以て、志を天下に失ひ、老脚蹉跎として故山に歸臥するに至るまで、彼の五十年の一生は、一面に於て不遇と薄命との歷史なれ共、他面に於ては、又教育家として、殆剩す所なき成功の一生涯なりき。
[やぶちゃん注:・「卅歳の一白面書生」「卅歳」で「白面」(はくめん:年が若くて経験の浅いこと。青二才)というのは少々感覚的には皮肉っぽくも感じられるが、芥川龍之介はここで「彼の五十年の一生」と言っているが、孟子は現在、辞書類では紀元前三七二年頃の生まれで、紀元前二八九年頃の没とされており、それに従うなら、八十三歳前後の生涯であったことを考えれば、かの戦国時代にあって、まず「白面」は腑に落ちるとも言える。因みに「卅歳」を前の生年推定に機械的に当てると、紀元前三四二年頃となる。小学館の「日本大百科全書」によれば、その後、孔子の生国である魯に遊学し、そこで孔子の孫の子思の門人に学んだ後、弟子たちを引き連れて「後車数十乗、従者数百人」という大部隊を組んで、梁(魏)の恵王・斉(せい)の宣王・生国である鄒の穆(ぼく)公・滕(とう)の文公などのもとに遊説して回ったが、孰れも不首尾となり、晩年は郷里で後進の指導に当たったとある。
・「鄒」(すう)。孟子は鄒、現在の山東省西南部の済寧市の県旧市である鄒城(すうじょう)市の生まれである。ここ(グーグル・マップ・データ)。
・「先王の道」儒家の政治思想に於いては、天下の人民が帰服するような有徳の王者を遠い古代に想定し、それを「先王」と称し、その政道を「王道」と呼んだ。「徳」を政治の原理とする思想は既に「書経」や「論語」などに見られるが、「王道」を覇者が武力や権謀術策によって天下を支配する「覇道」と対比させて明確にしたのは孟子であって、「徳を以つて仁を行ふ者は王たらん」、則ち、「仁義の徳が善政となって流露するのが王道である」と説いた(平凡社「世界大百科事典」に拠った )。
・「疾呼」(しつこ(しっこ))慌ただしく主張し喧伝すること。
・「七十三歳の頽齡」「頽齡」(たいれい)は心身の能力が衰えてしまうほどの高齢・老齢の意。先の「卅歳」やこの「七十三歳」(同前の機械計算では紀元前二九九年となる)という限定年齢は、芥川龍之介が拠った何らかの出典があるものと思われるが、不詳である。しかし、先に示した孟子の遊説先の内、在位開始が最も後なのは、斉の宣王で紀元前三一九年から(退位は没した三〇一年)であるから、時制的には違和感はない。
・「蹉跎」(さだ)「蹉」「跎」ともに「躓(つまず)く」の意で、「つまずくこと・ぐずぐずして空しく時を失うこと」或いは「落魄(おちぶ)れること・不遇なこと」の意もある。但し、ここで芥川龍之介は「教育家として」「成功の一生涯」と言っているのであるから、単に「老いて足が不自由になること」の意である。
・「殆剩す所なき」「ほとんどあますところなき」。]
然れども、彼の偉大なるは其能く數多の小丘、小孟珂を打出したる教育家としての驚くべき成功の故にあらず、寬厚宏博、天地の間に充つるが如き文章の玄に悟入したるが故にもあらず、抑も又秋霜の辯と河海の學とを抱き、以て一代の學徒として能く仰望敬畏せしめたるが故にもあらず、山夷ぐべく谷煙むべく、而して孟何の名、獨り萬古にして長く存する所以の者は、其孔門の哲學をして、醇乎として醇なる眞面目を具へしめしが故にあり。
[やぶちゃん注:・「其」「それ」。
・「小丘」小さな孔丘(こうきゅう)。「丘」は孔子の諱(いみな:本名)。
・「小孟珂」小さな孟子。軻(か)は孟子の諱。
・「寬厚宏博」心が広くて態度が温厚な上に、広汎なる知識の持ち主であること。
・「文章の玄」微妙で奥深く、深遠な赴きを持った文章。
・「悟入」実体験によって物事をよく理解すること。
・「抑も又」「そもまた」。さても、また。
・「秋霜の辯」弁論が、非常に厳しく厳(おごそ)かであること。
・「河海の學」「史記」の「李斯(りし)伝」に基づく「河海は細流を択(えら)ばず」を意識した。「度量が広く、よく人を容れるところの、大人物の持つ真の学識」の意であろう。
・「仰望敬畏」(ぎやうばうけいい(ぎょうぼうけいい))は敬い慕われ、褒め讃えられること。至上の尊敬と真の敬意を払われること。
・「山夷ぐべく谷煙むべく」思うに、「煙」は「堙」(「埋」の同義有り)の芥川龍之介の誤字、或いは、葛巻義敏の誤判読と思う。「堙」ならば「やま、たひらぐべく、たに、うづむべく」と読めるし、それでこそ意味も腑に落ちるからである。
・「萬古にして」永遠なるものとして。
・「醇乎」心情・行動が雑じり気がなく純粋なさま。後の「醇なる」はその畳語表現。
・「眞面目」「しんめんぼく」と読んでおく。本来の姿。]
其仁義の説の如き、性善の説の如き、五倫の説の如き、四端擴充の説の如き、放心を求むるの説の如き、就中浩然の氣を養ふ説の如き、人をして切に孔子死して九十餘年古聖の肉未冷ならざるを感ぜしめずんばあらず。しかも彼の擴世の奇才を抱きて之を事に施す能はず、楊柳條々として梅花雪の如くなる故山の春光に反きて、幾多門下の高足と共に、短褐蕭々として四方に歷遊するや、王威地に墮ちて、六霸幷び起り、中原の元々皆堵に安んぜず、道廢し、德衰へ、天下貿々然として之く所を知らざりしのみならず、墨子學派の博愛主義の如き、楊子學派の快樂主義の如き、神農學派の農業社會主義の如き、老莊派の極端なる個人主義の如き、無數の思潮は無數の中心をつくりて、隨所に其波動を及ぼし、一度孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎、堯舜三代の大道、一朝にして亡び、先生の遺法、倐忽として瓦の如く碎くる、將に目睫に迫れるの觀を呈したりき。
[やぶちゃん注:・「仁義の説」ウィキの「孟子」より引く。『孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物に適切であることをいう』。
・「性善の説」ウィキの「孟子」より引く。『人間は生まれながらにして善であるという思想』。『当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため』、周の『文王や武王のような明君が現れると』、『民は善を好むようになり』、同じ周でも、『幽王や厲王のような暗君が現れると』、『民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば』、『不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は』、「人の性の善なるは、猶ほ水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と『述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人も』、『その性は一様であると主張した。また、性が善でありながら』、『人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだ』、『とした。そのため』、『孟子は、』「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失はざる者なり」(離婁章句下)、「學問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)『とも述べている』(龍之介が後に言う「放心を求むるの説」はこれ)。『その後、荀子』『は性悪説を唱えたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念となって』、『多くの儒者に受け継がれた』。
・「五倫の説」ウィキの「五倫」から引く。「書経」の「舜典」には、『すでに「五教」の語があり、聖王の権威に託して、あるべき道徳の普遍性を追求してこれを体系化しようとする試みが確認されている』が、孟子は、『秩序ある社会をつくっていくためには何よりも、親や年長者に対する親愛・敬愛を忘れないということが肝要であることを説き、このような心を「孝悌」と名づけた。そして、『孟子』滕文公(とうぶんこう)上篇において、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した』。①父子の親(『父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない』)・②君臣の義(『君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない』)・③夫婦の別(『夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる』)・④長幼の序(『年少者は年長者を敬い、したがわなければならない』)・⑤朋友の信(『友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない』)がそれで、『孟子は、以上の五徳を守ることによって社会の平穏が保たれるのであり、これら秩序を保つ人倫をしっかり教えられない人間は禽獣に等しい存在であるとした』。
・「四端擴充の説」ウィキの「四端説」より引く。性善説を受けて孟子が発展させた『道徳学説。四端とは、惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ)の』四『つの感情の総称』。「孟子」「公孫丑章句上」によれば、そこ『に記されている性善説の立場に立って』、『人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳(四徳)を誰もが持っている』四『つの心に根拠付けた』。『その説くところによれば、人間には誰でも「四端(したん)」の心が存在する。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味で、それは』、①『「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)』・②『「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)』・③「辞譲」『(譲ってへりくだる心)』・④『「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)』の四つの『道徳感情である』とし、『この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の』四『つの徳に到達すると』説く。『言い換えれば』、『「惻隠」は仁の端』であり、『「羞悪」(「廉恥」)は義の端』、の『「辞譲」は礼の端』の、『「是非」は智の端』である『ということであり、心に兆す四徳の芽生えこそが四端である』。『たとえば、幼児が井戸に落ちそうなのをみれば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)がおこってくる。これは利害損得を越えた自然の感情である』。『したがって、人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきであり、それによって人間の善性は完全に発揮できるとし、誰であっても「聖人」と呼ばれるような偉大な人物になりうる可能性が備わっていると孟子は主張する。また、この四徳を身につけるなかで養われる強い精神力が「浩然の気」であり、これを備え、徳を実践しようとする理想的な人間を称して「大丈夫」と呼んだ』(龍之介が後に言う「浩然の氣を養ふ説」はこれ)。『なお、四端については、南宋の朱熹の学説(朱子学)では、「端は緒なり」ととらえ、四徳が本来』、『心に備わっているものであるとして、それが心の表面に現出する端緒こそが四端であると唱え、以後、四端説において支配的な見解となった』とある。
・「孔子死して九十餘年」孔子は現在、紀元前五五二年九月二十八日生まれで、紀元前四七九年三月九日に没したとされ、その「没後九十餘年」は紀元前三八三年頃となり、現行の孟子の生年から計算すると、孟子は未だ十四歳頃であるから、先の芥川龍之介の「卅歳」で「鄒の野に先王の道を疾呼し」たというのを上限として受けるとなら、紀元前三四二年頃で、孔子没後百三十七年、「孔子死して百三十餘年」が正確となる。
・「未」「いまだ」。
・「擴世」人倫・人智の在り方を遙かに大きく押し広げるような、の意であろうか。
・「反きて」「そむきて」。
・「高足」(こうそく)は「高弟」に同じい。
・「短褐」(たんかつ)は麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。身分の賤しい者が着る衣服。「短褐穿結(せんけつ)」(「穿結」は「破れていたり、そこを結び合わせてあったりすること」で貧者の粗末な姿の形容である)。
・「蕭々として」もの寂しい感じで。
・「六霸」芥川龍之介が「戦国の七雄」と「春秋六覇」(こちらは「五覇」の方が一般的であるが、「六覇」とも称する)とを混同したものか。前者は秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国である。
・「元々」「げんげん」で、これで「人民」の意。
・「堵に安んぜず」「とにやすんぜず」。民草が安穏に暮らすことが出来ず。「三国志」の「蜀書諸葛亮伝」に基づく「堵に安んずる」(「堵」は「人家の垣根・その内」の意で、「民が住まいに安心して住める、安心して暮らす」の意)。
・「貿々然」ぼんやりとしてはっきりしない様子。「貿」には「視界が悪い」の意がある。
・「之く」「ゆく」。
・「楊子」戦国時代前期の思想家楊朱(ようしゅ)。老子の弟子とされ、徹底した個人主義(為我)と快楽主義とを唱えたと伝えられる。前期道家思想の先駆者の一人で、「人生の真義は自己の生命と、その安楽の保持にある」ことを説いたとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
・「神農學派」神農は中国古代の伝説上の帝王であうが、神農の名前が最初に文献に現れるのは実は「孟子」であり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきである、と主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である「緯書(いしょ)」などに、しばしば神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃の琴を発明したともされる。こうした業績から、「三皇」の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
・「一度」「ひとたび」。
・「孔門の繼承者にして其人を誤らむ乎」孔子の継承者として誰彼を誤認したものであろうか。
・「倐忽」(しゆくこつ(しゅくこつ))は「忽(たちま)ち」の意。
・「將に目睫に迫れる」「目睫」(もくせふ(もくしょう)は目と睫毛(まつげ)で、今まさに目前に迫ってしまったことを意味する。]
然り、彼の成敗は彼一人の成敗に止らずして、全儒教の成敗を意味すべき、存亡の危機に際したりき。然れども、彼は着々として幾多の創見と發明とを以て、儒教の地盤を定むるに成功したり。而して傍、異端を弁じ、邪説を闢き、歷古の沈迷を開きて、能く聖人の道、彼を得て復明なるの大業を成就したり。彼は彼自身、孔子を崇敬するの厚きを以て、屢〻自己の創見をも、嘗て孔子の一度之を云へりし如く、人に示したりき。しかも、其全く彼が前聖未發の卓見にして、彼の大才の奕々として這裡に光耀せるは、孟子二百六十一章を通じて、隨所に指示し得るべしと云ふも、亦妨げず。
[やぶちゃん注:・「成敗」ここは孟子とその教えを否定・無化することを指す。
・「傍」「かたはら」。一方で。
・「邪説を闢き」「闢き」は「ひらき」。誤った説を論破して明確に否定し。
・「歷古の沈迷」古き時代からの議論の混迷。
・「復明」正しい理念を復興すること。
・「其」「それ」。
・「未發」未だ発見・発明されていないこと。
・「奕々」(えきえき)は「光り輝くさま」の意。
・「這裡に」「ここに」と読む。]
かくして、彼は孔子の哲學を最も理論的に、しかも又最も實際的に樹立せしめたり。彼の偉大なる祖述としての事業は、玆に完き成功を以て、其局を結びたり。之を措いて、孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ。孟子を知らざるの甚しと云ふべきのみ。
[やぶちゃん注:「祖述」(そじゆつ(そじゅつ))は「先人の説を受け継いで述べること」。
・「其局を結びたり」その孔子の真の教えの解明を終わらせた。
・「孟子の論法を云ひし齊の宣王の祿十萬を以て卿に列せしめむとしたるを云ひ、三萬四千六百八十五言の雄健快利の風あるを云ふ」「孟子」の対話者として多く出る斉(せい)の宣王は孟子を厚遇した(孟子の献策で燕を制圧しようともしたが、失敗に終わっている)。「快利」は迅速なさま。「三萬四千六百八十五言」は「孟子」「二百六十一章」の総字数。]
韓退之曰、孟子なかりせば、皆服は左袵にして、言は侏離たらむと。又曰、功は禹の下にあらずと。孟子を透見し得て餘蘊なきに似たり。孟子歿して一千二百年の後、後生も亦我を知る者在りとして、彼亦恐らくは泉下に一笑せしならむ。
[やぶちゃん注:・「韓退之」中唐の文人政治家韓愈の字(あざな)。以下は彼の「孟尚書書與」(孟尚書に與ふるの書)の一節、「然向無孟氏、則皆服左袵、而言侏離矣」(然れども、向(さき)に、孟氏、無かりせば、則ち、皆、服は左袵(さじん)にして、言は侏離(っしゆり)ならん)。個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」のこちらを参照されたい。
・「左衽」衣服を左前に着ることを指す。昔、中国では夷狄の風俗とした。
・「侏離」(しゆり(しゅり))は、元来は古代中国で西方の異民族の音楽のことを指したが、そこから、異民族の言葉を卑しめていう語となり、更にここで使うように「(音声が聞こえるだけで)その意味が全く通じないこと」の意となった。
・「餘蘊」(ようん)は「余分な貯え・残ってしまったもの・あますところ」の意。
・「孟子歿して一千二百年の後」現在の孟子の没年(紀元前二八九年頃)に足すと、九一一年で、中国では唐が亡んだ(九〇七年)後の五代の頃となるが、韓愈は七六八年生まれの八二四年没であり、その没年からだと千百十三年前となるので、まあ、誤差範囲と言ってよかろう。]