甲子夜話卷之五 17 松平周防守持鎗の事
5-17 松平周防守持鎗の事
松平防州【康任。石州濱田城主】に會したる次手に、予其家の持鎗靑貝柄の方は、世に神祖御手の形など云ふ。然るや否やと問ふ。答に否。其刃は如ㇾ此にて、嘗て賜りしものなり。國本に祕藏す。柄は二間半なり。當時持するものは其寫しにて、柄二間なりと云。
■やぶちゃんの呟き
標題及び本文の「持鎗」は「もてるやり」或いは「もつやり」と訓じておく。
「松平防州【康任。石州濱田城主】」老中で石見浜田藩(現在の島根県浜田市)第三代藩主松平康任(やすとう 安永八(一七七九)年或いは翌年~天保一二(一八四一)年)。ウィキの「松平康任」によれば、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中と幕府の重職を歴任した。『分家旗本・松平康道の長男だったが、浜田藩主松平康定に子がないため、康定の婿養子となり』、『家督を相続』した。『文化・文政期の幕府の実力者水野忠成』(彼の義父忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なるもので、忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となったが、その間は、かの「田沼時代」を遙かに上回る空前の賄賂政治が横行したとされる)『の歩調に合わせ、彼に追随する形で順当に昇役し、老中に就任する』。『忠成同様、賄賂には大変鷹揚なところがあり、但馬出石藩仙石家の筆頭家老の仙石左京から』六千『両もの賄賂を受け取り、その結果、実弟の分家旗本寄合席・松平主税の娘を左京の息子小太郎に嫁がせたが、これがのちに康任失脚の布石となってしまう』。『忠成死後、老中首座となったが、このころから』、閣内では『康任派と水野忠邦派の抗争が激化』し、天保五(一八三四)年に発生した仙石騒動』(出石(いずし)藩で発生したお家騒動)『において、仙石左京に肩入れした不正の計らいを行い、老中辞任に追い込まれた』。『また別件で、浜田藩ぐるみで竹島密貿易を行っていたこと(竹島事件)も発覚し、名乗りを下野守と改めさせられたうえ、永蟄居を命じられた。康任の後、家督を継いだ次男の康爵は間もなく陸奥棚倉に懲罰的転封を命じられ』ているとある。さても、この松平家を辿ってみると(養子縁組が多いので、直血族ではない)、松井松平家初代松平康重(永禄一一(一五六八)年~寛永一七(一六四〇)年)なる人物に辿り着く。ウィキの「松平康重」によれば、『駿河国三枚橋城主松平康親の長男』で、天正一一(一五八三)年三月の『元服の際に家康』(二十五歳年上)『から「康」の偏諱を授かり康次、のちに康重と改めた』。『家康が東海地方にいた頃』に当たる、天正一一(一五八三)年から同十八年にかけては、父『康親の跡を継いで』。『駿河国沼津城の守備役を務め、後北条氏に約』八『年間も対峙した「小田原征伐」後の天正十八年八月に『家康が関東に移されると、武蔵騎西』(きさい:現在の埼玉県加須市根古屋)に二『万石を与えられた』。文禄四(一五九五)年には『豊臣姓を与えられ』、後、常陸笠間三万石・丹波国篠山藩五万石と加増移封、元和五(一六一九)年には『大坂平野南方の要衝』であった『和泉岸和田に移封となっ』ている。『康重は松平康親の子とされているが、実は徳川家康の落胤とする説がある』。『生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま』、『康親に嫁いだとされる』。『後に子孫も家康の「康」を通字として用いている』(太字やぶちゃん)と驚くべきことが書かれてあり、この家なら「家康の手形を擬えた」家康から賜った(これ或いは手ずから賜ったの転訛のようにも私には思われるのだが)「鎗」があると世間で囁かれても、これ、おかしくなわいな!
「靑貝柄」螺鈿細工。
「世に神祖御手の形など云ふ」世間では、鑓の先の部分が神君家康公の御手の形を模したものである、と噂申して御座る。
「二間半」四メートル四・五センチメートル。
「當時持するものは其寫しにて」現在、江戸上(或いは下)屋敷に所持するものはそれのレプリカで。
「二間」三メートル六十四センチメートル弱。