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2018/10/31

和漢三才圖會第四十三 林禽類 練鵲(をながどり) (サンジャク)

Onagadori

をなかとり

      【俗云尾長鳥】

練鵲

 

レンツヤツ

 

本綱練鵲似鴝鵒而小黑褐色其尾鵒長白毛如練帶者

是也禽經云冠鳥性勇纓鳥性樂帶鳥性仁所謂帶鳥者

此練鵲之類也俗呼爲拖白練

肉【甘溫】主治益氣治風疾

△按練鵲大如鳩狀似山鵲而項黑如黑帽胸柹灰色

 背青碧尾長其中二尾最長一尺許端白成圓環形甚

 美嘴脛灰黑色將雨時羣飛其聲短其飛也不遠也關

 東山中多有之畿内曾不見之俗呼名尾長鳥

 

 

をながどり

      【俗に「尾長鳥」と云ふ。】

練鵲

 

レンツヤツ

 

「本綱」、練鵲、鴝鵒〔(くよく)〕に似て、小さくして、黑褐色なり。其の尾、〔鴝〕鵒〔より〕長く、白毛〔にして〕練〔れる〕帶のごとき者、是れなり。「禽經」に云はく、『冠鳥は、性、勇なり。纓鳥〔(えいてう)〕は、性、樂なり。帶鳥〔(たいてう)〕は、性、仁なり』〔と〕。所謂〔(いはゆる)〕帶鳥とは、此の練鵲の類なり。俗に呼びて、「拖白練〔(たはくれん)〕」と爲す。

肉【甘、溫。】主治、氣を益し、風疾を治す。

△按ずるに、練鵲、大いさ、鳩のごとく、狀、山鵲に似て、項〔(うなぢ)〕、純黑〔にして〕黑き帽のごとし。胸、柹灰色。背、青碧。尾、長く、其の中〔の〕二尾、最も長く、一尺許り。端〔(はし)〕に白く、圓環形を成し、甚だ美し。嘴・脛、灰黑色。將に雨〔(あめふ)〕らんとする時、羣飛す。其の聲、短し。其の飛ぶや、遠からざるなり。關東〔の〕山中、多く之れ有り。畿内に〔ては〕曾て之れを見ず。俗、呼んで「尾長鳥」と名づく。

[やぶちゃん注:さんざん、調べあぐねて、辿り着いたのが、高い高い山の梢であった。この「本草綱目」の記載するそれ(無論、こんな鳳凰みたような鳥は、関東どころか、日本にはいません!)は恐らく、

スズメ目カラス科サンジャク(山鵲)属サンジャク Urocissa erythrorhyncha

か、その近縁種であろうという結論にたどり着いた。ウィキの「サンジャク」によれば、分布域は中国・ベトナム・西ヒマラヤ地方で、全長七十センチメートルほどであるが、その体長の『大半は弾力のある長い尾羽で占められている。頭部は黒、体の上部と翼は金属光沢のある青、腹部と下尾筒は白い羽毛で包まれ、頭頂部に特徴的な白い斑紋がある。嘴と足は鮮やかな赤』で、『標高』二千百『メートルまでの山地の森林地帯に棲息』し、『通常は木の上で生活するが、採食は地上で行う事が多い。雑食性で昆虫やカタツムリ等の小動物、果実、他種の鳥の卵や雛などを食べる。高い木の枝に枯葉や小枝などを集めてカップ型の巣を作り、産卵・育雛する』とある。何より、画像を御覧あれ。中文ウィキ同種ページ蓝鹊(「紅嘴藍鵲」)の方の写真がよいかも。いや! 学名グーグル画像検索リンクさせておく。確かに。鵲(かささぎ)っぽくて、ド派手で、ありえへん二尾やがね!!

「鴝鵒〔(くよく)〕」良安先生の困ったちゃんが続くのだ。「本草綱目」の記載であり、これはスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus を指すと考えねばならない。その経緯は鸜鵒(くろつぐみ) (ハッカチョウとクロツグミの混同)の私の注を見られたい。あ~あ、向後はこのメンドクサイ注は出来れば附したくないな!

「禽經」既出既注。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「冠鳥」不詳。

「纓鳥」不詳。

「「拖白練〔(たはくれん)〕」「白練」真っ白な練絹のような白色を指し、「拖」は「ずるずると重い物を引きずる」の意であるから、賦には落ちる。

「風疾」漢方で中風・リウマチ・痛風などのこと。

「按ずるに、練鵲、大いさ、鳩のごとく……」この一条に二時間余りを費やしてしまった。私は良安が何をこの「練鵲」と誤認しているのかは判らぬ。記載はしかし、サンジャクにクリソツだ。山にも結構登ってきたが、私はこんな鳥が我が関東にいるのを見たことも聴いたことも、ない。これだよ、と同定される方がおられれば、御教授願いたい。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 𪃹(しなひ) (アカハラ・マミチャジナイ)

Sakahara

しなひ  正未詳

     一名赤腹

𪃹【鶺同】

    【俗云志奈比】

 

△按𪃹者百舌鳥之屬形大亦相似而背灰蒼色腹赤其

 聲短能羣飛故多易捕於其來處撒餌張罟或以囮取

 之炙食味美

 

 

しなひ  正しきは未だ詳らかならず。

     一名、「赤腹(あかはら)」。

𪃹【鶺も同じ。】

    【俗に「志奈比」と云ふ。】

 

△按ずるに、𪃹は、百舌鳥〔(つぐみ)〕の屬。形・大いさも亦、相ひ似て、背、灰蒼色。腹、赤。其の聲、短く、能く羣れ飛ぶ。故に多〔くは〕捕へ易し。其の來たる處に於いて、餌を撒き、罟(あみ)を張り、或いは囮(をとり)を以つて之れを取る。炙りて食〔へば〕、味、美なり。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目ツグミ科ツグミ属アカハラ Turdus chrysolaus、及びよく似ている近縁種の、ツグミ属マミチャジナイ Turdus obscurus

であろう。ウィキの「マミチャジナイ」によれば、マミチャジナイは「眉茶鶇(眉茶鶫)」「眉茶𪃹」と漢字表記するとある。一方、ウィキの「アカハラ」によれば、アカハラは『古くは、茶鶫(チャジナイ)と呼ばれていた』とありこの二つの記載をカップリングすると、「𪃹」は「ジナイ」であり、それは「アカハラ(赤腹)」を指す語であると読める。しかし、「アカハラ」は腹部がオレンジ色を呈し、その体色は以下に見る通り、仲間の「マミチャジナイ」もよく似ているのであり、現代の分類学でも同じツグミ属である。しかも「鶫」は広く、古くは「しなひ」「しない」と呼ばれていたから、「赤いシナイ」「眉の茶のシナイ」でもあったのであるから、まずこの二種としてよかろう(既にツグミは前項に出ているからでもある)。但し、私は「アカハラ」は知っていたが、「マミチャジナイ」という種名は今日只今、初めて、知った。

 先にウィキの「アカハラ」から引く。全長は二十三・五~二十四センチメートルで、、『胸部から腹部側面にかけてオレンジ色の羽毛で覆われ、和名の由来になっている。腹部中央部から尾羽基部の下面(下尾筒)にかけて』、『白い羽毛で覆われる。頭部は暗褐色の羽毛で覆われ、顔や喉は黒ずむ』。『上嘴の色彩は黒く、下嘴の色彩は黄色みを帯びたオレンジ色。後肢の色彩は黄色みを帯びたオレンジ色』。『メスは喉が白い個体が多い』。『平地から山地にかけての森林に生息』し、『食性は動物食傾向の強い雑食で、主に昆虫類を食べるが』、『果実も食べる』。『山地の森林(北海道や東北地方では平地でも)に巣を作り卵を産む』。本邦には二亜種、

アカハラTurdus chrysolaus chrysolaus(中国南部・台湾・日本・フィリピン北部)

『夏季に日本で繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部や日本、フィリピン北部へ南下し越冬する。日本では繁殖のため本州中部以北に飛来(夏鳥)し、冬季になると本州中部以西で越冬(冬鳥)する』。『上面が暗い緑褐色の羽毛で覆われる』。

オオアカハラ Turdus chrysolaus orii(日本、ロシア(サハリン及び千島列島))

『夏季に千島列島で繁殖し、冬季になると日本へ南下し越冬する』。『上面が濃い緑褐色の羽毛で覆われ、頭部や喉の黒みが強い。嘴は太くて長い』。

がいる。

 次にウィキの「マミチャジナイ」を引く。インド・インドネシア・タイ・中華人民共和国(香港含む)・台湾・日本・バングラデシュ・フィリピン・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・ラオス・ロシア東部に分布。『夏季に中華人民共和国北東部やロシア東部で繁殖し、冬季になると東南アジアへ南下し』、『越冬する。日本では主に渡りの途中に飛来する(旅鳥)が、少数が冬季に西日本や南西諸島で越冬(冬鳥)する』。全長は二十一・五センチメートル、翼開長は三十七センチメートル。『背面や翼は褐色、胸部から体側面にかけてはオレンジ色、腹部は白い羽毛で覆われ』、『眼上部にある眉状の斑紋(眉斑)は白い』。『オスの頭部は灰褐色の羽毛で覆われ、メスは頭部に灰色味が少なく、喉は白く』、『暗色の縦縞が入る』。『森林に生息』し、『食性は雑食で、昆虫類や多足類、陸棲の貝類、果実(イチイ、クサギ、ナナカマド、ハゼノキ、ミズキ等)等を食べる』とある。

「鶺に同じ」これは正直、書いて貰いたくなかった。「鶺」は通常、「鶺鴒」セキレイ類を指すからである。本邦の種等は、第四十一 水禽類 鶺鴒(せきれひ/にはくなぶり) (セキレイ)第四十二 原禽類 白頭翁(せぐろせきれい) (セキレイ)の私の注を見られたい。こういうことをしなくてはならなくなるから、書いて欲しくなかったんよ! 良安先生!

「罟(あみ)」目の細かい網を指すものと思われる。所謂、カスミ網である。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 贈物にそへて

 

  贈物にそへて 

 

兵隊どもの列の中には、

性分のわるいものが居たので、

たぶん標的の圖星をはづした。

銃殺された男が、

夢のなかで息をふきかへしたときに、

空にはさみしいなみだがながれてゐた。

『これはさういふ種類の煙草です』 

 

[やぶちゃん注:本詩集で初めて発表された詩篇。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『贈物にそへて(本篇原稿一種一枚)』として以下の一篇が載る。表記は総てママである。

   *

 

  あるひとの贈物にそへて

 

兵隊どもの中には

眼の性分の惡いものが居て

多分標的の圖星をはづした

銃殺された男

あるひ→あくる朝までにやつと息を吹きかへしたときに

長い時間のあひだには長い煉瓦の壁があつた→光つて居た悲しげに光つてきた、

『これはそういふ種類の煙艸です』

 

   *

 

 

 

Sininntoatoninokorerumono

 

[やぶちゃん注:田中恭吉の「死人とあとにのこれるもの」。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)によれば、大正三(一九一四)年十二月の作で『インク・鉛筆、紙』とある。右ページ(百ページ)に「贈物にそへて」の最終行「『これはさういふ種類の煙草です』」一行だけが印刷されていて、左ページに短い上記の右辺を下にした形で配置されている。しかし、それは原画の正立像を九十度右に回転させて貼り込んだもので、この絵は本を左に九十度回転させて鑑賞しなければならないのである。この絵の長辺は絵の枠が正直線でないため、このままの大きさで貼り込むには最低でも横幅が十二・二センチメートルが必要である。ところが、本詩集の本文部分の用紙の横幅は約十三・五センチメートルしかなく、しかも綴目による視認の阻害を考えると、使用可能な幅は最大十二・五センチメートル以下であり、とてもこの絵を正立像で鑑賞に耐え得るように貼り込む(実際には貼り込まれたもので、挿絵には本詩集巻頭部分の挿画目次でページ数が割り当てられているものの、その数字は実際には、差し込みした前のページのノンブルである)ことは出来ない。無論、以上で私は、当該の絵を正立させて示してある(原本の絵の中の「地」は実際にはクリーム色を呈しているが、今回はシャープさを最優先とし(私の粗末な機器とソフトではカラーでとり込むと、全体がソフトになってぼけた感じになってしまうことが判ったためである)、モノクロームで画素数を上げてとり込んでみた)。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 春の實體

 

  春の實體

 

かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて、

春がみつちりとふくれてしまつた、

げにげに眺めみわたせば、

どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。

櫻のはなをみてあれば、

櫻のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、

やなぎの枝にも、もちろんなり、

たとへば蛾蝶のごときものさへ、

そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、

それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。

ああ、瞳(め)にもみえざる、

このかすかな卵のかたちは楕圓形にして、

それがいたるところに押しあひへしあひ、

空氣中いつぱいにひろがり、

ふくらみきつたごむまりのよに固くなつてゐるのだ、

よくよく指のさきでつついてみたまへ、

春といふものの實體がおよそこのへんにある。 

 

[やぶちゃん注:太字「ごむまり」は底本では傍点「ヽ」。

 さて。その下の「よに」はママであり、筑摩書房全集の校訂本文でも「よに」である。「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年アルス刊)でも「よに」で、☞「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)で「やうに」となっている☜だけである。萩原朔太郎は詩・文を問わず、文中に口語の短縮表現(「なつてゐる」ではなくて、「なつてる」のような。以下の初出形の終りから三行目の末尾を見よ)を好んで用いる傾向がある。ここも、「ように」ではなく、「よに」なのである。則ち、筑摩の徹底消毒主義が適用出来ないのだ。「よに」は口語の「ようだ」の連用形「ように」の短縮形だ。歴史的仮名遣を訂すること殲滅的なる編者はここは「よに」を「やうに」と修正指示するべきところだ(「やに」というのは流石に見たことないから、無効だろう。第一、誰もが躓くからな)。しかし、前で「やう」を削除しているから、この「よに」は朔太郎確の確信犯の用法であることは明白だ。まさに編者らが逆に躓いたであろう痛し痒しという場面だ。彼らは「凡例」の『著者獨特の用字・用語』或いは『慣用表記』を適応したと言うだろう。しかし、そうしたら、校訂本文はそれを遙かに逸脱して消毒していることは明白じゃないか? 筑摩版校訂本文は、絶対の萩原朔太郎の最良校本どころか――萩原朔太郎に――殆んど優等生の礼服をお仕着せした〈気持ちの悪い〉――いや! 朔太郎の詩篇の持つ大事な〈気持ちの悪さ〉が――まるで伝わってこない――殺菌消毒済の「最良最上品のタグをつけたマガイ物」――なのである!

 なお、初出によって、上掲の四行目の「類」は「るゐ」と読んでいることが判る。

 初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月発行に載った。以下に初出形を示す(三箇所の太字は同前)。

   *

 

  春の實體

 

かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて

春がみつちりとふくれてしまつた

げにげに眺めみわたせば

どこもかしこもこのるいの卵にてぎつちりだ

さくらのはなをみてあれば

櫻の花にもこの卵いちめんにすいてみえ

やなぎの枝にももちろんなり

たとへば蛾蝶のごときものさへ

そのうすき羽は卵にてかたちづくられ

それがあのやうにぴかぴかぴかぴか光るのだ

ああ 眼にもみえざる

このかすかな卵のかたちは楕圓形にして

それがいたるところに押しあひへしあひ

空氣中いつぱいになり

ふくらみきつたごむまりのよに固くなつてるのだ

よくよく指のさきでつついてみたまへ

春といふものの實體がおよそこのへんにある。 

 

   *

ルビ「るい」の表記はママ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『麥畑の一隅にて(春の實體(本篇原稿四種四枚)』として以下の一篇がチョイスされて載る(標題は「春――四月上旬白晝の感覺――」)。表記は総てママである。

   *

 

  の實體

    ――四月上旬白晝の感覺――

 

さくら

楕圓形のかずさへしれぬ蟲けらの白き→どもののたまごのるゐにて

春がみつちりとふくれてしまつた

ああげにげに眺めみわたせば

どこのかしこもこのるゐの卵にていつぱいなりぎつしりだ

ああ→みよあかるまばゆき春なれや→なればの日に

櫻は春なれやさくらの花をみてあれば

櫻の花にも蟲の細長き卵つきこのるいの卵いちめんにつきすいてみえ

柳の枝にももちろんなり

とほくたとへば蝶のごときものさヘ

そのうすき羽はぴかぴか卵の細胞にて形づくられ

それがあのやうにぴかぴかぴかぴかぴか光るのだ、

ああ眼にもみえざる

すべてのこのかすかな卵のひとつひとつは形は楕圓形にして

それがいたるところに押しあひへしあひ

空中に→宇宙にみつちりひろがつて しまつた

空氣中いつぱいになり、

はりふくらみきつたゴム球のやうよにふくれ固くなつてるのだ、

よくよく見給へ→さわつてみたまへ指のさきでさわつて見給ヘ

といふものだ→みんながこれを稱して春と呼

春といふものだものがここにある。ほんじつたいがおよそ→まづこのへんにあるやうだ

 

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 くさつた蛤

 

  くさつた蛤 

 

半身は砂のなかにうもれてゐて、

それで居てべろべろ舌を出して居る。

この軟體動物のあたまの上には、

砂利や潮(しほ)みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、

ながれてゐる、

ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。 

 

ながれてゆく砂と砂との隙間から、

蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、

この蛤は非常に憔悴(やつ)れてゐるのである。

みればぐにやぐにやした内臟がくさりかかつて居るらしい、

それゆゑ哀しげな晚かたになると、

靑ざめた海岸に座つてゐて、

ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。 

 

[やぶちゃん注:底本は面白い。四行目の四つの読点が例のような奇妙な間の抜けた字空けがなく、寧ろ、タイトに詰めに詰めて、それぞれの下の「ざら」の濁点に、それこそくっかんばかりなっているのである。ところが、最終行の「ちら」の下の読点は、いつも通り、阿呆みたような空隙を三箇所総てが持っているのである。この奇体な組版は、結局、四行目の位置が九十三ページ最終行(左ページ)に当たり、例の調子で読点をやらかすと、四行目が二行に渡らざるを得なくなり、そのはみ出た分が、見返しの次の九十四ページの頭に送られて詩篇としてのリズムが著しく阻害される(と朔太郎が考えた)からであろうと推理出来る。本篇は本詩集が初出でもあり、朔太郎はかなり気を使った、ということであろう。

 なお、草稿二篇は、五年まえに、

「(無題) 萩原朔太郎 (「くさつた蛤」草稿1)」

「くさつた蛤 萩原朔太郎 (「くさつた蛤」草稿2)」

として別々に電子化しているので見られたい。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 陽春

 

  陽  春 

 

ああ、春は遠くからけぶつて來る、

ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、

やさしいくちびるをさしよせ、

をとめのくちづけを吸ひこみたさに、

春は遠くからごむ輪のくるまにのつて來る。

ぼんやりした景色のなかで、

白いくるまやさんの足はいそげども、

ゆくゆく車輪がさかさにまわり、

しだいに梶棒が地面をはなれ出し、

おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして、

これではとてもあぶなさうなと、

とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。 

 

[やぶちゃん注:「さかさにまわり」の「まわり」はママ。太字ごむ」と「へん」は底本では傍点「ヽ」。初出は『ARS』大正四(一九一五)年五月号。初出は、一行目の「ああ」の後の読点がなしで「春は」以下に連続すること、その下の「けぶって來る」の「來る」が「くる」であること、「をとめ」が「おとめ」、「遠く」が「とほく」、その下の「のつて來る」の「來る」が「くる」、「景色」が「けしき」、「はなれ出し」が「はなれだし」である以外は変わらない。それにしても、正字統一主義を貫いている筑摩書房版校訂本文の「欠伸」のままなのは面白いねえ、そうさ、多くの作家は「あくび」として書く場合に「缺伸」と書かずに、「欠伸」と書くんだけどねえ、それじゃ正字統一鉄則に逆らうだろうにねえ、面白いねえ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』末尾には、本篇の草稿として『陽春(本篇原稿一種一枚)』と記すものの、その一篇は活字化していない。ただ、『本稿の題名は』、陽春→春雨→白い春雨→けぶる春雨 から、その一篇の草稿内では「春」に落ち着いており、『その副題に「―春雨白くけぶる日の感覺」とあ』り、さらに、『末尾に「のんせんす・ぽえむ」と附記されている』と言う旨注記がある。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 麥畑の一隅にて

 

  麥畑の一隅にて 

 

まつ正直の心をもつて、

わたくしどもは話がしたい、

信仰からきたるものは、

すべて幽靈のかたちで視える、

かつてわたくしが視たところのものを、

はつきりと汝にもきかせたい、

およそこの類のものは、

さかんに裝束せる、

光れる、

おほいなるかくしどころをもつた神の半身であつた。 

 

[やぶちゃん注:「類」は韻律からは私は「たぐひ」と読みたい。「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)及び昭和四(一九二九)年以降の詩集類では、各行末の読点が除去されており、また昭和三(一九二八)以降の詩集類では「かくしどころ」に傍点「ヽ」が附される。本詩は詩集「月に吠える」が初出で、先行する雑誌等への発表はない。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『麥畑の一隅にて(本篇原稿一種一枚)』として以下の一篇が載る(標題は「實驗(麥畑の敎訓)」)。表記は総てママである。

   *

 

  事實(麥畑の中の敎訓)

  實驗

 

まつ正直の心もちで

わたくしどもはものをいひたい話をしたい

信心からきたるものはすべて

すべて幽靈のかたちであるみえる、

かつてわたくしが視たところのものを

もつと汝らにきかせたい

それかくの如きおよそこの類のものは、

白きさかんに裝束せる

光れる、

おほいなるかくしどころをもつた神であるの半身であつた。

 

   *

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 貝

 

   

 

つめたきもの生れ、

その齒はみづにながれ、

その手はみづにながれ、

潮さし行方もしらにながるるものを、

淺瀨をふみてわが呼ばへば、

貝は遠音にこたふ。 

 

[やぶちゃん注:初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月発行に掲載。初出形は、は以下。

   *

 

  

つめたきものうまれ

その手は水にながれ

齒はながれ

潮(しほ)さし行方もしらにながるるものを

淺瀨をふみてわがよべば、

貝は遠音(とほね)にこたふ。

 

   *

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『貝(本篇原稿三種三枚)』とし、二篇が載る。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  

 

つめたきもの生れ

その手は水にながれ

その齒は砂にながれ

しほさし

遠瀨州にかくれ

淺州

 

 

  

 

つめたきもの生れ

その手は水にながれ

砂□□□□

齒は砂にながれ

足はしほさしゆくえをしらにながるゝもの

貝の□□□□いのりを

□□の

あさりはまぐりの貝せをわたりふみてしばしきく

遠音に貝のいのるをきくばかり

 

   *]

 

 

 

Ketai

 

[やぶちゃん注:前掲の「貝」末尾の二行が見開きの八十八ページ(右)、その左に田中恭吉の強烈な(と私は感じる)一枚「懈怠」が配されてある。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)よれば、この元画は「シリーズ「心原幽趣I」の「XII 懈怠」で、大正四(一九一五)年二月二十六日の作(インク・彩色、紙)とある。既に挿絵目次で既注であるが、再掲すると、「けたい」或いは「けだい」と読み、原義は仏道修行に励まぬこと、怠り怠けることを指す。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 猫

 

   

 

まつくろけの猫が二疋、

なやましいよるの家根のうへで、

ぴんとたてた尻尾のさきから、

糸のやうなみかづきがかすんでゐる。

『おわあ、 こんばんは』

『おわあ、 こんばんは』

『おぎやあ、 おぎやあ、 おぎやあ』

『おわああ、 ここの家の主人は病氣です』 

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。朔太郎の有名な猫語詩。ここだけ、特異的に底本の奇妙な特性(詩篇本文内の文末でない読点は、有意に打った字の右手に接近し、その後は前後に比して一字分の空白があるように版組されている。これは朔太郎の確信犯なのだろうが、これを再現しようとすると、ブラウザ上では、ひどく奇異な印象を与え、そこで躓いてしまう(少なくとも私は躓く)ので今までは無視してきた)を再現してみた。その理由は、読者がそこで立ち止まり、そこに同時に猫の鳴き声が余韻として長く残るのをこれで示したかったからである。初出は『ARS』大正四(一九一五)年五月号。初出形を以下に示す。

   * 

 

  

       ――光るものは屍臘の手―― 

 

まつくろけの猫が二疋、

ぴんとたてた尻尾のさきから、

いとのやうな三ケ月がかすんで居る。

『おわあ、こんばんは』

『おわあ、こんばんは』

『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』

『おわああ、ここの家の主人は病氣です』

          ――一五、四、一〇――

 

   *

太字「いと」は傍点「ヽ」。添辞の「屍臘」は「屍蠟」の誤記か誤植であろう。屍蠟(しろう)は死体が蠟状に変化したもの。死体が長時間、水中又は湿気の多い土中に置かれ、空気との接触が絶たれると、体内の脂肪が蠟化し、長く原形を保つ。そうした遺体現象を指す。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『猫(本篇原稿三種二枚)』とし、三篇(順に標題「春夜」(「猫」「つるむ猫」とも。但し、本文内は全抹消)・「春の夜」・「夜景」)が載る。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  春夜    つるむ猫

 

そこの

家根の上に黑猫が二疋

さつきから ぴんと尻尾をたてゝた尻尾のさきから

月がかすみ

猫が二疋で鼻をつきあはせ

ぴんと尻尾を

 

 

  春の夜

 

家根のてつぺんで

まつくろけの猫が二疋

ぴんとたてた尻尾のさきから月がかすんで

細い糸のやうな三ケ月がかすんで居る

「おわあ、こんばんは」

「おわあ、こんばんは」

「おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ」

「おおわあ、この家の主人は病人です」

 

 

  夜景

 

高い家根の上で猫が寢て居る、

猫の尻尾から月が顏を出し、

月が靑白い眼鏡をかけて居る見て居る、

だが泥棒はそれを知らないから、

近所の家根裏へひつこりとび出し、

まつくろ くろ けの衣裝をきこんで

なにかまつくろの衣裳をきこんで、

煙突の窓からしのびこもうとするところ。

 

   *

最後に編者注があり、『最初の二行は「猫」に關連し、以下の部分は第三卷『詩集三』に收錄する「病氣の探偵」に關連すると思われる。』とあるのであるが、この「第三卷『詩集三』」というのは何かの誤りであろう。そんなものは「第三卷」にはないからである。これは、「第二卷」の「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」にある「病氣の探偵」のことである。幸いにして、それは『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 病氣の探偵 / 筑摩版全集所収の「病氣の探偵」の草稿原稿と同一と推定』の私の注で既に電子化してある(その草稿の草稿までも、である)ので、参照されたい。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 ありあけ

 

  ありあけ 

 

ながい疾患のいたみから、

その顏はくもの巢だらけとなり、

腰からしたは影のやうに消えてしまひ、

腰からうへには籔が生え、

手が腐れ、

身體(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり、

ああ、けふも月が出で、

有明の月が空に出で、

そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、

畸形の白犬が吠えてゐる。

しののめちかく、

さみしい道路の方で吠える犬だよ。 

 

[やぶちゃん注:これもしい月夜」に続いて、本詩集名の由来する一篇。或いは、こちらの詩集の方が具体なヴィジュアル性の高さから、「月に吠える」のイメージとしては相応しいように思われる。因みに、私は「月に吠える」というと、何故か、後のジョアン・ミロJoan
Miro
)の一九二六年の作品「Dog Barking at the Moon」を思い出すのを常としている((英文サイト))。私は凄愴たる絵より、朔太郎が生きていたら(彼は昭和一七(一九四二)年五月十一日に急性肺炎で亡くなっている)、きっと気に入ったに違いないとさえ思っている作品である。初出は『ARS』(創刊号)大正四(一九一五)年四月号。初出形を以下に示す。

   *

  ありあけ

ながい疾患のいたみから、

その顏は蜘蛛の巢だらけとなり、

腰から下は影のやうに消えてしまひ、

腰から上には竹が生え、

手が腐れ、

しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり。

ああ、けふも月が出で、

有明の月が空に出で、

そのぼんぼりのやうなうすあかりで、

畸形の白犬が吠えて居る。

しののめちかく、

さむしい道路の方で吠える犬だよ。 

 

   *

「ぢつに」はママ。個人的には断然! 「籔」より「竹」だ!

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『ありあけ(本篇原稿五種五枚)』とし、二篇(前者は標題「黎明の散步」で、後者は無題)が載る。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  有明の 步行

  黎明の散步

ありやけ月のうす白み

月かげのさびしきことは限りなし

み空をながれああわれの病おもたく

あらゆるところに疾みを登し

我のこの→人の→その右の手は白み

鼻白み

電線くもの巢のごとくからみ顏にはくもの巢がかゝり

腰から下のごときはもつともじつにめちやくちやなり

ああこの地面に鋭どき柱をたて

ましろき象牙をたて

常夜の闇を步かしめ

霜の夜天に尖れるものを

人肉の上にも光らしめ、

みよ、いたるところに遊行し

ありやけの人間は人體は血みどろなり

 

 

  

 

病氣のその靑い顏は蜘珠だらけになり

腰から下のごときもつともはやはらかくなりて消えてしまひ

腰から上には竹が生え

長い疾患のいたみから

あたまは光る金屬になり

しんたいいちめんじつにめちやくちやなり

ああけふも月が出て

有明の月が空にさむざむいでさむざむ→しろじろと淚ながるゝ

いたるところに遊行し淚

さぞやさむしかろうとおもへど

そのさむしさに淚ながしつゝあれど

畸形なる病氣病犬とつれだちてあゆむなり

有明の月はしろじろと墓場の上に

 

 

 

そのぼんぼりのやうなうすあかりで

しみじみと

畸形な白犬が吠え居るのをきき、

 

   *

以上の後者の「有明の月はしろじろと墓場の上に」と「そのぼんぼりのやうなうすあかりで」の間については、編者注に『空白がある』という記載があるため、敢えて三行空けた。或いは前のパートの終りの部分の、別詩想に基づく並置残存でもあるのかも知れない。他に、『「有明の月と犬有明の月と白い犬」と題をつけた別稿がある。また、末尾に「三月十六日」と制作月日を示した原稿もある。』とある。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 およぐひと

 

  およぐひと 

 

およぐひとのからだはななめにのびる、

二本の手はながくそろへてひきのばされる、

およぐひとの心臟(こころ)はくらげのやうにすきとほる、

およぐひとの瞳(め)はつりがねのひびきをききつつ、

およぐひとのたましひは水(みづ)のうへの月(つき)をみる。 

 

[やぶちゃん注:初出は山村暮鳥個人誌『LEPRISME』(第二号)大正五(一九一六)年五月号(誌名については、先行する椅子」の私の注を参照されたい)。初出形は以下。

   *

 

  およぐひと(泳ぎの感覺の象徴)

 

およぐひとのからだはななめにのびる、

二本の手はながくそろへてひきのばされる、

およぐひとの胴體はくらげのやうに透きとほる、

およぐひとのこころはつりがねのひびきをききつつ

およぐひとのたましひは月をみる。 

 

   *

四行目末尾の読点なしはママ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』末尾には、本篇の草稿として『およぐひと(本篇原稿二種二枚)』と記すものの、一篇も活字化していない。ただ、『或る稿の末尾に「プリズム.I.」と附記されている』と注記がある。]

古今百物語評判卷之五 第三 殺生の論附伏犧・神農、梁の武帝の事

 

  第三 殺生(せつしやう)の論伏犧(ふつき)・神農、梁の武帝の事

[やぶちゃん注:少し長いので、特異的に改行字下げを施し、注も途中の適当な位置に入れ込んだ。]

 ある人の云(いふ)、

「好(このみ)て殺生をなせし者は、怨靈、來たりて、仇(あだ)をなし、又は、其子孫にむくふ事、世に、物がたり、多し。此故に、佛家(ぶつけ)には五戒の第一とし、儒者には遠庖厨(庖厨(はうちう)を遠(さ)く)とやらむ申すよし、承り候ふ。されども、先祖のまつりに犧(いけにへ)をさき、饗應(あるじまうけ)に生類(しやうるゐ)を殺す事、これ又、聖賢の掟(おきて)なり。本朝には魚鳥(うをとり)を服(ぶく)すれども、四足をいむ事、昔より然(しか)り。此説、いかゞ。」

[やぶちゃん注:「五戒」在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」。

「遠庖厨」「孟子」の「梁惠王章句上」に基づく。話し相手である斉の宣王が、嘗て生贄に連れて行かれる牛を見て、憐憫の情を起こし、助けて、羊に代えるようにせたところ、人民はそれを王が高価な牛を惜しんで吝嗇(けち)ったのだと思い込んでいると語り、

   *

曰、無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獸也、見其生、不忍見其死、聞其聲、不忍食其肉。是以君子遠庖廚也。

(曰く、傷(いた)むことなかれ。是れ、乃(すなわ)ち、仁術なり。牛を見て、未だ羊を見ざればなり。君子の禽獸に於けるや、其の生けるを見ては、其の死するを見るに忍びず、其の聲を聞きては、其の肉を食ふに忍びず。是(こ)れを以つて、君子は庖厨を遠ざくるなり。)

   *

「傷(いた)むこと」とは「愚かな民の見当違いな評価を気にすること」を指す。以上はの結論は、則ち、生贄や食用に供する動物を殺戮し、その断末魔の声が響き、血の匂いに満ちた台所には君子は決して近づいてならない、というのである。現行の「男子厨房に入らず」の謂いはこれを誤用したものである。

「服(ぶく)す」原本は「ふく」。厳密には魚鳥も動物であり、獣の仲間であるという認識は古くからあった(魚と鳥が四足でない、或いは四足に見えないことは四足獣と差別化して食用に供するには甚だ都合はよかったことは事実)ので、それら(四足獣も含む)を食する場合に薬としていやいや食べる、「藥喰(くすりぐひ)」と称したから、「服用する」の意の「服(ぶく)す」は、殺生・肉食(にくじき)嗜好を隠蔽するには格好の動詞となった。]

と問ひければ、先生、答(こたへ)て云(いふ)、

「是、むづかしき論なるを、とひ給へり。先(まづ)、佛家には、平等利益(りやく)をたつとぶ故に、人の親を見る事、わが親におなじく、蚤(のみ)蝨(しらみ)を見る事、人を見るにひとし。此故に、つよく殺生戒をたてゝ、一つの蟲をも殺さず。其(それ)、ひとつの蟲を殺す事、猶、我が親をころすにひとし、とおもへり。されば、落穗をひろひ、麻を着て、三衣一鉢(さんえいつぱつ)のまうけだに、かつかつなるを、本分(ほんぶん)の事とす。是れも又、たうとからずや。猶、六道流轉を立てゝ、人間より畜生になり、畜生より人間に生ず。されば、一疋の魚鳥を見るとても、是れ、何ぞ過去生(くはこしやう)のわが親なる事も、知るべからず。現在にても、おくれさきだつ親類の中、何(いづ)れか畜生に生れたらむも、心得がたし。況や、おなじ人におゐては、猶、其因緣を知るべからず。是れを以て、釋氏の教(をしへ)は、もつぱら、殺生戒をおもんず。行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれしも此心なり。

[やぶちゃん注:「三衣」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に身をただ包むに足る粗末な僧衣のこと。

『行基の歌に「鳥べ野にあらそふ犬の聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞおもふ」と詠まれし』この歌形は知らぬ。知られたそれは、「玉葉和歌集」(鎌倉末期の正和元(一三一二)年頃に成立した勅撰和歌集。全二十巻。伏見院の命により京極為兼が撰した)の巻第十九の「釈教」に載る、行基(天智七(六六八)年~天平二一(七四九)年)作の遠い昔の一首(二六二七番)、

   山鳥のなくを聞きて              行基菩薩

 山鳥のほろほろとなく鳴く山鳥の聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ

の伝承変形異形か。しかし、古えの風葬(古えは墳墓を作るのは特別な階級の人間だけであった)・鳥葬地(一説には死者を木に吊るしてその肉を鳥に喰らわせる鳥葬が行われていたともされる)であった「鳥辺野」で、投げられたり、ぶら下がった人肉を喰らうのを争う「犬」の吠え声の方が、これ、遙かに凄絶で、私好みではある。

 儒家の説には、天を父とし、地を母として、其見識の大きなる事、釋氏にかはらねども、その中に『本末(もとすゑ)』の差別あり。『本末』といふは、先(まづ)、我親は天下の至つて年比(ねんごろ)なる物なれば、『本』とす。それにつぎて兄弟、又、其次は親類・眷屬、其つぎは朋友、その次は知らぬ世界の人、其次は禽獸草木(とりけものくさき)なり。是れを『末』とす。されば、天下を以ても、我が親一人にかへ申さず。此心を本末といふ。此故に、其親へねんごろなる心をおしてひろめて、兄弟・親類・朋友にほどこし、其あまれる處を他人へ及ぼし、又、其餘れる心を禽獸(とりけだもの)に至らしむ。かく差別あるゆへに、禽獸までは、その仁心(じんしん)、おなじごとくにはいたらねど、猶、其(それ)殺すに、禮義を立てゝ、天子國君も、故(ゆゑ)なければ、牛をころさず、其(その)孕めるにあたつては、ちいさき[やぶちゃん注:原典のママ。]鳥獸(とりけだもの)をも害せず。また、數罟不ㇾ入洿池(數罟(さくこ)洿池(をち)に入れず)といへば、ちいさき目の網をもつて魚の子までを取盡(とりつく)す事をきらひ、草木(くさき)も春夏の長ずるにあたつては折りとらず、葉落ちて後(のち)、杣(そま)を山林にいるゝ、と云へり。是れ、禽獸草木(きんじうさうもく)へおよべる愛心(あいしん)なり。

[やぶちゃん注:「天下を以ても、我が親一人にかへ申さず」世界全体を以ってしても、自身の親一人の存在に、それをとって代えるなどということは到底出来ぬことにて御座る。

「數罟不ㇾ入洿池」「孟子」の「梁恵王上」に基づく。

   *

數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也。

(數罟(さくこ)、洿池(をち)に入(い)ざれば、魚鼈(ぎよべつ)勝(あ)げて食(くら)ふべからざるなり。)

   *

「細かな目の網を以ってして、水の溜まった浅い小さな沼や池の生き物を徹底的に漁(と)ることをしなければ、子魚や小さな鼈(すっぽん)は残され、未来に於いてもそこの生き物が尽きることはない」の意である。なお、これについては、魚類学者真道(しんどう)重明先生の『再び、「数罟不入夸池」について』という大変、興味深い論考がある。実は、真道先生は四、五年前、私のサイトでの栗本丹洲の「栗氏千蟲譜」の電子化注を、お褒め戴くと同時に激励して下さった稀有の恩人であられる。]

 それ、天地開闢(てんちかいびやく)のはじめ、人は萬物(ばんもつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])の靈なれば、禽獸(とりけだもの)より、はるかの後(のち)に生ず。既に生じては、衣服なき事、あたはず。此故に禽獸(きんじう)の血をすひ、肉をくらひ、其皮を着るといへど、猶、その力のき物ありて、人の害をなせしを、其時の君、これを制する事を教へ給ふ聖人を伏犧と云ふ。「伏」とは「たいらぐる心」、「犧」といふは「鳥獸」といふ心なり。其後(そののち)、人民、おほくなりて、禽獸(きんじう)、たらざりしに至りて、始めて、五穀を食らふ事を教へ給ふ聖人を神農氏といふ。是れ、たゞ其時節のよろしきによれるのみ、何ぞ、其心にかはりあらんや。されば、蛛(くも)は蠅(はい[やぶちゃん注:原典のルビ。])をとり、雀は蛛をとり、鳶(とび)は雀をとり、鵰(たか)は鳶をとり、犬の小さきを制し、きが弱きにかつは、天地自然の勢(いきほひ)なれば、人倫の物をとる事も、なを[やぶちゃん注:ママ。]、かくのごとしといへど、既に其(その)殺すに禮儀を立(たつ)るは、人の萬物の靈なるゆへ、彼の親をしたしみ、人をおもむずる[やぶちゃん注:ママ。]心を、おしひろめたるのみ、是れ、周公・孔子の道なり。

[やぶちゃん注:「伏犧」「伏羲」が一般的だが、かくも書き、「庖犧」「虙戯」などとも書く。小学館「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。華胥(かしょ)氏の娘が雷沢(らいたく)の中に残されていた巨人の足跡を踏んで懐妊し、生まれたのが伏羲であるという』。『三皇五帝の』一『人に数えられる』。「列子」では、『伏羲は人頭蛇身とされ、漢代の画像石には蛇身の伏羲と女媧(じょか)が尾を交えている姿がみられる。易の八卦』『を考案したり、網を発明して民に狩猟や漁労の方法を教え、さらに獲物を生(なま)のままでなく』、『火を使って料理することも教えたといい、庖犧の名はこれを表していると思われる。そのほか』、『結婚の制度を創始するなど、さまざまな事物の発明や諸制度を創設したといわれるが、これらは諸文物の起源を好んで聖天子の功績に帰そうとする中国古伝承の現れであって、史実とはいえない。民間では、伏羲と女が結婚して人類の祖となったという伝承が語られているが、むしろこのような伏羲が本来のおもかげをとどめているものと考えられる』。

「神農氏」同じく「日本大百科全書」より引く。『古代の伝説上の帝王。神農の名前が最初に文献に現れるのは』、「孟子」で『あり、これには、戦国時代、許行という神農の教えを奉じる人物が、民も君主もともに農耕に従事すべきであると主張したという話が載っている。許行が信奉した神農がいかなる存在であったかは明らかではないが、漢代になると、神秘的な予言の書である』「緯書(いしょ)」などに、『しばしば』、『神農のことが記されるようになる。それによれば、神農は体は人間だが頭は牛、あるいは竜という奇怪な姿をしており、民に農業や養蚕を教えたり、市場(いちば)を設けて商業を教えるほか、さまざまな草を試食して医薬の方法を教え、五絃』『の琴を発明したとされる。こうした業績から三皇の一人に数えられることもあるが、神農に関する具体的な記述は古い文献にみえないため、神農の伝説には後代の知識人が付け加えた部分が多いと考えられている』。

「鵰(わし)」タカ目(新顎上目タカ目
Accipitriformes)の内で大形で強力な鳥の総通称。

「周公」(生没年未詳)周の政治家。文王の子。名は旦。兄の武王を助けて殷を滅ぼし(紀元前十二世紀末)、武王の死後、幼少の成王を助けて王族の反乱を鎮圧。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めた。礼楽・制度を定めたといわれる。儒家の尊崇する聖人の一人。]

 故(かるがゆへ)に、むかし、梁の武帝といふ天子、ふかく佛法を信じ、殺生戒をたもちて物を殺さず、宗廟の牲(いけにへ)を蠟(らふ)にて作り、織物にさへ生(いけ)るものをおらしめず。其(それ)たつときに、鳥獸をきりて、殺生戒をばやぶるに似たればなり。かくは有(あり)しかど、遠き敵國と戰(たゝかひ)て、數多(あまた)の群兵(ぐんひやう)をころして、大(だい)を輕んじ給ふを、儒家より笑ひしが、後(のち)果して、國、みだれて、臺城(たいじやう)に餓死(うゑじに)し給へり。

[やぶちゃん注:「梁の武帝」蕭衍(しょうえん 四六四年~五四九年)南朝梁の初代皇帝(在位:五〇二年~五四九年)。武帝は諡(おくりな)。斉を滅ぼして建国。治世中、六朝を通じて最も貴族文化が栄えたが、晩年、仏教に傾倒し、財政を破綻させた。ウィキの「蕭衍」によれば、五四八年、『東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り』、『河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙城県)で敗れてしま』った。『その後、武帝は侯景に軍を保持したまま』、『梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱)、都城の建康を包囲した』。『当時』、『建康の外城を守っていたのは、東宮学士庾信率いる文武』三千『人だったが、鉄面をつけた侯景軍が迫ってくると』、『瞬く間に四散してしまい、浮橋を落とすことにも失敗した。侯景軍は宣陽門から、宗室の臨賀王蕭正徳の手引きの下、ほとんど無血で外城の中へと入ってきた。武帝たちは内城に篭り、侯景たちは彼らを包囲しつつ、占拠した東宮でとらえた宮女たち数百人を将兵に分かち与えて、祝宴を始めた。怒った皇太子蕭綱は兵を派遣して東宮を焼いてしまい、こうして南朝数百年で積み上げられた建康の歴史的建造物も、その蔵書も多くが焼けてしまった』。『内城攻略戦は、梁将羊侃の健闘により数ヶ月にわたって一進一退の様を呈し、侯景が木驢を数百体作り城を攻めると、羊侃は葦に油を注いで放火してそれらを焼いてしまう有様だった。業を煮やした侯景は、宮城の東西に土山を築くため、建康の住民を平民から王侯まで貴賎の別なく駆り立てて、倒れる者は土山の中に埋められた。しかし、山は完成を見ぬうちに豪雨が降り、崩壊した』。『そこで侯景は、今度は奴隷解放令を出し、宮中の奴で降る者はみな良民にすると宣言した。早速』、武帝のお気に入りの政治家朱异(しゅい:低い身分の出身であった)の『家の入墨奴隷が反乱軍に降ると、侯景は儀同の官位を与えた。これに感激した奴は馬に乗り』、『錦を着て城中に』向かって『「朱异は』五十『年も仕官してやっと中領軍になれただけだが、私が侯王(侯景)さまに仕えたら早くも儀同になったぞ!」』と『叫んだという』。三日の『うちに侯景軍の兵力は激増し、一方で内城の防御軍は櫛の歯の抜けるように脱走は相次ぎ、ついに』五四九年三月、『内城を統率していた羊侃』(ようがん)『が死ぬと、いよいよ戦況は最終局面を見せた。内城の兵士や立てこもった男女も、体が腫れて呼吸も困難となり、「爛汁、堀に満つる」有様だった。こうした中、侯景は玄武湖の水を堀に注いで水攻めを開始、ついに城は陥落した』。『引き立てられた武帝は、侯景と次のような問答を交わした』(以下、改行を会話の省略した)。『「江を渡る時、何人いたのか?」「千人です」「では、建康を囲んだ時は?」「』十『万人です」「今は何人なのだ?」「率土のうち、己の有にあらざるはありません」『そのまま、武帝は黙ってうなだれた』。『侯景に幽閉された武帝は、食事も満足に与えられなかった。憂憤のうちに病気になり、蜜を求めたが与えられず、失意のうちに死んだ』とある。後の『北宋の司馬光は』その「資治通鑑」の「梁紀」の論賛で、『次のように評している』。『梁の高祖(武帝)が終わりを全うしなかったのはもっともだ。自らの粗食(菜食)を盛徳とし、君主としての道が既に備わって、これ以上』、『加えるものがなく、群臣の諫言はどれも聞くに値しないとした』。『名は辱しめられ、身は危うく、国は覆り(滅び)、宗廟の祀りは絶え、長く後世に憫笑(哀れだとさげすみ笑われ)された。哀しいことだ』とある。

「臺城(たいじやう)」六朝期に宮城を「臺所」と呼んだ。]

 さはいへど、ゆめゆめ、物をころせるがよきといふにはあらず。上(かみ)にまうせしごとくなり。其外、物の命をすくひて壽命を得、官位を得し類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。さて又、我が日の本に四足をいむ事は、本朝人皇のはじめ、既に天地の風氣(ふうき)、ひらけて、五穀もみちみちけるにより、はじめより、四足の類を服(ぶく)するに及ばず。食事のたれるは、我が國の風俗なるべし。中頃まで、孔子の奠(まつり)[やぶちゃん注:「奠」は「神仏に物を供えて祭る」の意。]に狗彘(こうてい)[やぶちゃん注:犬や豚。]を用ひしかども、ある人の夢に、孔子、告(つげ)てのたまはく、『我、此國にまつられては、天照大神(てんしやうだいじん)と同座なる故、猪鹿(ちよろく)の類(たぐひ)、目にあたりて、惡(あし)し。國に入りては國にしたがふが我が心なれば、向後(きやうこう)、用ゆる事、なかれ』と御告(おつげ)ありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、それより用ひずといふ事、「著聞集」にも見えたり。思ふに、狗彘の類(るゐ)は既に魚鳥(うをとり)とはちがひて、人の類にちかき物なれば、殺さゞる風俗、たれか惡(あし)しといはむや。我が國を君子國(くんしこく)といふも、むべなるかな。さて、其(その)禮義もなく殺生を好めるものは、天地(てんち)の心、元(もと)、物を生ずる事を好み給ふにそむけば、何ぞ報(むくひ)もなからざらむ。もし、鷹かい[やぶちゃん注:ママ。「飼ひ」。]獵師などのなさで叶はぬものなり共、面々の遠慮あるべき事にこそはべれ」とかたられき。

[やぶちゃん注:『「著聞集」にも見えたり』「古今著聞集」の「巻第一 神祇」にある、「或人の夢に依りて、大學寮の廟供に猪鹿を供へざる事」(別本では前半を「孔子の夢の告に依り、」とある)。

   *

 大學寮の廟供(べうぐ)には、昔、猪(ゐのしし)・鹿(かのしし)をもそなへけるを、或る人の夢に尼父(ぢほ)[やぶちゃん注:孔子。字の仲尼と尊称。]ののたまはく、「本國にてはすすめしかども、この朝に來りし後は、大神宮、來臨して禮を同じくす。穢食(ゑしよく)、供(きやう)すべからず」とありけるによりて、後には供せずなりにけるとなん。

   *

「大學寮」は式部省(現在の人事院相当)直轄下の官僚育成機関。官僚候補生である学生(がくしょう)に対する教育と試験及び儒教に於ける重要儀式である釈奠(せきてん/しゃくてん/さくてん:孔子及び儒教に於ける先哲を先師先聖として祀る儀式)を執行した。「新潮日本古典集成」(西尾光一・小林保治校注/昭和五八(一九八三)年刊)の同書の注に、平安後期の宇治左大臣藤原頼長の日記「台記(たいき)」の久安二(一一四六)年四月一日の条に、『「大神宮つねに来臨す。肉を供ふるなかれ」との文宣王(孔子)の夢告によって獣肉の供えは廃された、という本話と類似する記事が見える』とある。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 ばくてりやの世界

 

  ばくてりやの世界 

 

ばくてりやの足、

ばくてりやの口、

ばくてりやの耳、

ばくてりやの鼻、 

 

ばくてりやがおよいでゐる。 

 

あるものは人物の胎内に、

あるものは貝るゐの内臟に、

あるものは玉葱の球心に、

あるものは風景の中心に。 

 

ばくてりやがおよいでゐる。 

 

ばくてりやの手は左右十文字に生え、

手のつまさきが根のやうにわかれ、

そこからするどい爪が生え、

毛細血管の類はべたいちめんにひろがつてゐる。 

 

ばくてりやがおよいでゐる。 

 

ばくてりやが生活するところには、

病人の皮膚をすかすやうに、

べにいろの光線がうすくさしこんで、

その部分だけほんのりとしてみえ、

じつに、じつに、かなしみたえがたく見える。 

 

ばくてりやがおよいでゐる。 

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」、「たえがたく」はママ(以下の初出も同じ)。この重度の強迫神経症か統合失調症の幻視のような関係妄想的展開が、こたえられぬほどに青年期の私の心臓を撲(う)った。朔太郎の病原性は私の惨めな青春のトラウマ(心傷)から秘かに侵入し、感染し、その落魄れた魂を致命的に冒した。そのマゾヒスティクな精神の傷みは密やかな至高の麻薬であった。

 初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月。殆んど変化はないが、初出形を以下に示す。

   *

 

  ばくてりやの世界 

 

ばくてりやの足

ばくてりやの口

ばくてりやの耳

ばくてりやの鼻 

 

ばくてりやがおよいで居る 

 

あるものは人物の胎内に

あるものは貝るいの内臟に

あるものは玉葱の球心に

あるものは風景の中間に 

 

ばくてりやがおよいで居る 

 

ばくてりやの手は左右十文字に生え

手のつまさきが根のやうにわかれ

そこからするどい爪が生え

毛細血管の類はべたいちめんにひろがつて居る 

 

ばくてりやがおよいで居る

 

ばくてりやが生活するところには

病人の皮膚をすかすやうに

べにいろの光線がうすくさしこんで

その部分だけほんのりとして見え

じつにじつにかなしみたえがたく見える。 

 

ばくてりやがおよいでゐる。 

 

   *

「貝るい」はママ。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『ばくてりやの世界(本篇原稿四種四枚)』とし、一篇(無題)が載る。以下に示す。表記は総てママである(くどいが、「泳」であるべきが「洗」であるのは総てママである)。

   *

 

  ○

 

ばくてりやの足

ばくてりやの毛

ばくてりやが洗いで居る

ばくてりやが洗いで居る

生物の胎内を洗いで居る

あるものは葱の玉葱の球心に

あるものは貝類の柱の中に人體の内臟に

ばくてりやの手は上下左右十文字にはえ

人間の→血球の毛細血管のいちめんにやうにひろがつて居る

どこでもかしこも

ばくてりやがいちめんに生棲する世界ところには

あるものは、日光のあたる畑で

あるものはこまかい砂利

うす 淺黃の あか い日光が皮膚を通して

ほんのりしたべに色の光線がさし

哀しげな音樂がひびいて居る。

   *

最後に編者注があり、『「ばくてりやの生活」と表題をつけた別稿もある』とある。

 さらに、筑摩版全集第三卷の『草稿詩篇「補遺」』の「斷片」パートに、

   *

   ○

手の爪さきが根のやうにわかれ

そこからするどい

   *

というフレーズがあるが、これは本篇の断片であることが判る。]

 

 

 

Minomus1

 

 

 

Minomus2

 

 

[やぶちゃん注:前の「春夜」の終りの二連が右ページで、その左ページに、私の好きな、田中恭吉の以下の仮題(恐らくは萩原朔太郎による)「こもるみのむし」の絵がある。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)よれば、大正四(一九一五)年二月から三月頃の作で(インク・紙)とある。カラーで取り込んだものは補正していないものであるが、右上のハレーションが気になるので、エッジが粗くなるが、モノクロームに変換したものを後に掲げた。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 春夜

 

  春  夜 

 

淺利のやうなもの、

蛤のやうなもの、

みぢんこのやうなもの、

それら生物の身體は砂にうもれ、

どこからともなく、

絹いとのやうな手が無數に生え、

手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。

あはれこの生あたたかい春の夜に、

そよそよと潮みづながれ、

生物の上にみづながれ、

貝るゐの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、

とほく渚の方を見わたせば、

ぬれた渚路には、

腰から下のない病人の列があるいてゐる、

ふらりふらりと步いてゐる。

ああ、それら人間の髮の毛にも、

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、

よせくる、よせくる、

このしろき浪の列はさざなみです。 

 

[やぶちゃん注:「淺利」はママ(現行「浅蜊」と表記し、全集も例の強制補正でそうなってしまっているが、アサリ(斧足綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum)の和名は「浅」い場所に棲息すること、「さり」は砂「利」(さり・じゃり)で砂のことを指すことに由来するから、「淺利」を誤字として書き換えるのは私にはいただけない)。幼年期より海産無脊椎動物に異様に興味を持ち続け、小学五年で小泉八雲の怪談・奇談にのめり込んだ私が、中学時代に萩原朔太郎に致命的に惹きつけられてしまうことになったのは、まさにこの一篇によってであった。初出は『ARS』(創刊号)大正四(一九一五)年四月号。殆んど変化はないが、初出形を以下に示す。

 

   * 

 

  春夜

 

淺利のやうなもの、

蛤のやうなもの、

みぢんこのやうなもの、

それら生物の身體は砂にうもれ、

どこからともなく、

絹糸のやうな手が無數に生え、

手のほそい毛が浪のまにまにうごいて居る、

あはれこの生あたたかい春の夜に、

そよそよと潮みづながれ、

生物の上にみづながれ、

貝類の舌もちらちらとしてもえ哀しげなるに、

遠く渚の方を見わたせば、

ぬれた渚路には、

腰から下のない病人の列があるいて居る、

ふらりふらりと步いて居る、

ああ、それら人間の髮の毛にも、

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、

よせくる、よせくる、

この白き浪の列はさざなみです。 

 

   *

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『春夜(本篇原稿二種二枚)』とし、二篇ともに載る。標題は最初が「春夜」で、後は「春夜」或いは「砂の中に住む生物」である。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  春夜

 

生物のうへに水ながれ

しづかにぬるみ

貝は淺き瀨にしづむ

しづかに砂のながれて

春が

そらにしらみ

 

 

  

  の中に住む生物

 

遠淺の砂の中で呼吸を して居る する

春の夜の海の渚路に

あさりのやうなもの

蛤のやうなもの

みぢんこのやうなもの

それらの生物の身體は砂にうもれ

どこからともなく

毛のやうな手が無敷に生え

手が浪のまにうごて居る

あはれこの生ぬるいあたゝかい春の夜に

そよそよと水ながれ

生物の上に水ながれ

遠い海岸を病人が步いて居る、

月も病氣や重からん

みよ海岸には

貝類の舌もちろちろとして居るいとも悲しげなる

遠くみわたせば渚路に

腰から下のない病人の列が步いて居る

みよああそれら人間の髮の毛にも

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ

この遠き白き浪の列はさざなみ、です、

浪はさゝなみ

月てんぺんに冴え

その病人の腰にはかすみをかけ、

   *

なお、後の題の並存は編者注で記されている内容を再現したものである。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 椅子

 

  椅  子

 

椅子の下にねむれるひとは、

おほひなる家(いへ)をつくれるひとの子供らか。

 

[やぶちゃん注:「おほひなる」はママ。初出は山村暮鳥個人誌『LEPRISME』(第二号)大正五(一九一六)年五月号(雑誌名は表記はネット上で調べると信頼の措けそうなページや学術論文でさえも、中黒がなかったり、「Le Prisme」だったり、「LE PRISM」だったりと、ひどい有様なので、雑誌原物の画像を確認しようと思ったのだが、画像検索「山村暮鳥 LE PRISME」で上ってくるのは私のブログの私の少年期の写真(!)だったりして、お手上げ(この嘘のような本当は、私が昨年、このブログで「山村暮鳥全詩」(完遂)を手掛けた結果である)。筑摩書房版脚注のそれを採用した)。閑話休題。初出形は以下。

   *

 

  椅子(静物よりきたる感覺の象徴)

 

椅子のかげにねむれるひとは

おほひなる家をつくれる人の子供らか。

 

   *

「おほひなる」はママ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 内部に居る人が畸形な病人に見える理由

 

く さ つ た 蛤

 

  なやましき春夜の感覺とその疾患 

 

[やぶちゃん注:パート標題「くさつた蛤」(左ページ)の見返し裏の掲辞。]

 

 

  内部に居る人が畸形な

  病人に見える理由 

 

わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、

それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。

わたしは手に遠めがねをもつて居ります、

それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、

につける製の犬だの羊だの、

あたまのはげた子供たちの步いてゐる林をみて居ります、

それらがわたくしの瞳(め)を、いくらかかすんでみせる理由です。

わたしはけさきやべつの皿を喰べすぎました、

そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、

それがわたくしの顏をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。

じつさいのところを言へば、

わたくしは健康すぎるぐらひなものです、

それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。

なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。

おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、

そのへんがはつきりしないといふのならば、

いくらか馬鹿げた疑問であるが、

もちろん、つまり、この靑白い窓の壁にそうて、

家の内部に立つてゐるわけです。 

 

[やぶちゃん注:標題の途中改行はママ。本標題は底本詩集中、最も長い題で事実上、版組の一行には入りきらない。但し、改行の結果として、詩篇本文の二行目のみが掲げられ(左ページ)、読ませるには、右ページの掲辞と相俟って、次の袋を切って読みたくなる欲求を惹起させる、非常に効果的な版組とはなっている(そこまで計算したとは思えぬが)。改行は太字は傍点「ヽ」。標題の「畸形な」の「な」に限っては「奈」の崩し字体。「ぐらひ」はママ。「につける」は金属のニッケル(nickel:元素記号 Ni)。初出は『ARS』大正四(一九一五)年六月号(第一巻第三号)。有意に異なる初出形は、既に内部に居る人が病氣に見える理由 萩原朔太郎(「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」初出形)で電子化済みであるのでそちらを参照されたいが、その初出の最終行は、「もちろん、この高い窓の内側にある理由(わけ)です。」となっており、少なくとも、この初出形では、最後まで読んだ読者はフィード・バックして、標題のそれを含め、総ての詩篇内の「理由」を「わけ」と訓じて再鑑賞することを詩人は望んでいるように理解する(少なくとも私はそうである)と思われる。但し、本「月に吠える」版の決定稿はそうした強制力は持たないから、やはりここでは普通に「りゆう」でよいのであろう。]

 

 

Gakou3

[やぶちゃん注:「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」の「なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。」以下の六行が右ページで、その左に以上の田中恭吉の画稿より採った絵が掲げられる。これも同じく薬包紙に描かれたものと推定される。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本詩篇の草稿として『内部に居る人が畸形な病人に見える理由(本篇原稿三種三枚)』としつつ、一篇がチョイスされて載る。標題は「高い窓」である。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  高い窓

    (靑い窓のそばに居る人の說明)

 

わたくしは窓かけのれいすのかげに居ります

それがわたくしの顏がうすぼんやりと見せるわけ理由です

わたくしは手に遠めがねをもつて居ります

それでわたくしはずつととほいところをみて居ります

につける製の雲雀だのだの羊だの

あたまのはげた子供たちの步いて居る林を見て居ります、

のわけでれがわたくしの眼をいくらかかすんで居ます見せる理由です

わたくしはまた靑いお酒をのみ野菜と固い食物をたべすきました

それがわたくしの顏を心持ゆがんで見せるのです

わたくしはほんとうに立派な

じつさいのところをいへばわたくしは立派健康すぎるぐらいです

だがけれどもみなさんなにが見えない?おかしい?

ああ、それをわらつてはいけません→わらふ人の→おかしい筈はない★怪しむ理由はないでせう//不思議がる筈はないでせう★

[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附した。「ああ、それをわらつてはいけません→わらふ人の→おかしい筈はない」の後に「怪しむ理由はないでせう」と、「不思議がる筈はないでせう」のフレーズが並置残存していることを示す。以下も同じ。]

わたくしの腰ならば★ちやんとこの高い窓の下にあります。るんです。//もちろんこの高い窓の下の下にあるわけです。★

   *

なお、最後に編者注があり、『欄外に「内部に居る人がたいがい病氣に見える理由」と附記されている。』とある。]

2018/10/30

和漢三才圖會第四十三 林禽類 百舌鳥(つぐみ) (ツグミ)

Tugumi

 

つくみ      反舌 𪆰

         舎羅【梵書】

百舌鳥

 鶫【音東】 馬鳥

        【和名豆久見】

ヘツシヱツニヤウ

 

本綱百舌鳥居樹孔窟穴中狀如鴝鵒而小身畧長灰黑

色微有斑喙亦尖黑行則頭俯好食蚯引立春後則鳴

囀不已夏至後則無聲十月後則藏蟄人或畜之冬月則

死此鳥陰鳥也能反舌囀又如百鳥聲故名百舌反舌周

書月令芒種後十日反舌無聲謂之陰息

按百舌鳥【俗云眞豆久見】狀如鸜鵒灰黑色京師毎除夜炙

 食之爲祝例矣倭名抄用鶫字又一名馬鳥【字義未詳】然其

 馬鳥又誤今稱鳥馬

 

 

つぐみ      反舌

 𪆰〔(かつかつ)〕

         舎羅【梵書。】

百舌鳥

 鶫【音、「東」。】

         馬鳥〔(まてう)〕

        【和名、「豆久見」。】

ヘツシヱツニヤウ

 

「本綱」、百舌鳥、樹〔の〕孔・窟穴の中に居〔(を)〕り。狀、鴝鵒〔(くよく)〕のごとくして小さく、身、畧(ほゞ)長く、灰黑色。微かに斑有り。喙も亦、尖り、黑し。行くときは、則ち、頭を俯す。好んで蚯引(みゝず)を食ふ。立春の後、則ち、鳴き囀り〔て〕已まず。夏至の後、則ち、聲、無し。十月の後、則ち、藏蟄〔(あなごもり)〕す。人、或いは之れを畜ふ。冬月には則ち、死す。此の鳥、陰鳥なり。能く、舌を反〔(かへ)〕して囀る。又、百鳥の聲のごとし。故に「百舌〔ひやくぜつ〕」「反舌」と名づく。「周書」の「月令〔(がつりやう)〕」に『芒種の後、十日、反舌、聲、無し。之れを「陰息」と謂ふ』〔と〕。

按ずるに、百舌鳥【俗に「眞豆久見〔(まつぐみ)〕」と云ふ。】の狀〔(かたち)〕、鸜鵒〔(くろつぐみ)〕のごとく、灰黑色。京師、毎除夜に之れを炙り食ひ、祝例と爲す。「倭名抄」、「鶫」の字を用ふ。又、一名「馬鳥」【字義、未だ詳かならず。】。然れども、其の「馬鳥」を又、誤りて、今、鳥馬(ちやうま[やぶちゃん注:ママ。])と稱す。

[やぶちゃん注:スズメ目ツグミ科ツグミ属ツグミ Turdus eunomus 及びハチジョウツグミ Turdus naumanniウィキの「ツグミ」によれば、中華人民共和国南部・台湾・日本・ミャンマー北部・ロシア東部に分布し、『夏季にシベリア中部や南部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部などへ南下し』、『越冬する』。本邦には『冬季に越冬のため』、『飛来(冬鳥)する』。『和名は冬季に飛来した際に聞こえた鳴き声が』、『夏季になると聞こえなくなる(口をつぐんでいると考えられた)ことに由来するという説がある』。全長二十四 センチメートル、翼開長三十九センチメートル。『色彩の個体変異が大きく、ハチジョウツグミとの中間型もいる』。『嘴の色彩は黒く、下嘴基部は黄色』。『後肢の色彩はピンクがかった褐色』。『頭頂から後頸の羽衣は黒褐色、背の羽衣は褐色』。『喉から胸部は淡黄色、胸部から腹部の羽衣は羽毛の外縁(羽縁)が白い黒や黒褐色』。『尾羽の色彩は褐色や黒褐色』。『翼の色彩は黒褐色で、羽縁は赤褐色』。『雌雄ほぼ同色である』。『平地から山地にかけての森林、草原、農耕地などに生息する』。『越冬地では』、『まず山地の森林に群れて生息し、その後に平地へ移動し分散する』。『鳴き声(地鳴き)が和名の由来になったとする説(この場合』、「ミ」は『「鳥」や「群れ」を指す』「メ」が『なまったとされる。)もある』。『食性は雑食で、昆虫、果実などを食べる』。『農耕地や河原などの開けた地表で採食を行う』。一方、ハチジョウツグミは『夏季にシベリア北部で繁殖し、冬季になると中華人民共和国北部へ南下し越冬する』。『日本では冬季に越冬のため』、『少数が飛来(冬鳥)する』。『和名は八丈島で捕獲されたことに由来する』。『上面の羽衣は緑褐色や灰褐色、黒褐色』。『下面の羽衣は赤褐色や赤みを帯びたオレンジ色で、胸部から腹部は羽縁が淡褐色』。『尾羽の色彩は赤褐色や赤みを帯びたオレンジ色で』、『中央尾羽の色彩は黒い』とある。

「鴝鵒〔(くよく)〕」大変、困るのであるが、「鸜鵒(くろつぐみ)(ハッカチョウとクロツグミの混同)」で見たように良安は「ハッカチョウ」と「クロツグミ」を混同している。しかも更にさらに困ったことに、良安はこれ以前に「原禽類 吐綬雞(とじゆけい)(ジュケイ類)」その他で、「鴝鵒」を「ヒヨドリ」(スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis)とも誤認してしまうという致命的なミスを犯してしまっているのである。これは「本草綱目」の記載であり、これはヒヨドリでもクロツグミでもなく、スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus を指すと考えねばならないのである。

「十月の後」十月過ぎて。

「舌を反〔(かへ)〕して囀る」これは、鳴き声よりも、彼らが地上で摂餌する際、そり返るように胸を張って立ち止まる様子からの、それではないか? そもそも、どうも「百鳥の聲のごとし」『故に「百舌〔ひやくぜつ〕」』というのは納得が行かない。そんな物真似の天才ではない。寧ろ、他の鳥の真似を非常に器用によくするのは、私にとっての真正の「百舌」=スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus である。時に、序でにフライングして言ってしまうと、良安が命名の由来は解らないとしている、ツグミの異名である「馬鳥」(まちょう)というのは、まさにこの独特の目立つ摂餌行動、両足を揃えて数歩ピョンピョンと歩いては、立ち止まり、胸をそらしては、静止するという独特のポーズ(実際には索餌と同時に外敵に対する周囲への警戒監視行動である)が、地面を跳ねるように見えることかから、かくついたと考えられる。

「周書」これは「礼記」の良安の誤りであろう。

「鸜鵒〔(くろつぐみ)〕」ここは良安の謂いで、叙述から見て、混同している内の、真正のスズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis であると断定してよい。]

古今百物語評判卷之五 第二 蜘蛛の沙汰幷王守乙が事

 

  第二 蜘蛛の沙汰王守乙(わうしゆいつ)が事

 

Kumo

 

[やぶちゃん注:以下、底本では総て「蟲」であるが、原典を見ると、総て「虫」であるので、今回はそれに従った。途中の漢字の「へん」を表わす部分が「蟲篇」では如何にも無理があるからである。]

 

一人のいはく、「そのかみ、源氏相傳の名劔(めいけん)に『蛛切(くもきり)』と申(まうす)、御座候ふよし、「太平記」にしるせり。さしも賴光の名將にて、土蛛(つちぐも)ほどの物におそはれ給ふべきは心得がたく侍る」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「此事、さもあるべし。蜘蛛はちいさき虫なれども、智のおそろしき物なりとて、文字にも「虫」篇(むしへん)に「知」の字をかき、又、網にふれたる物を誅(ころ)する[やぶちゃん注:ルビは原典のママ。]義ある故に、「蛛」の字を書(かけ)り。是、「誅」の字をかたどる心なり。それ、春の蝶の、園をたづねて、花をすひ、秋の蟬の、林をもとめて、露をなむるも、皆、智のなすところなるに、何とて蜘(くも)のみ、智ある名には立ちけるぞや。まことに一寸の虫に五分の魂なきも侍らねど、花をすひ、露をなむるは、たゞ身のうへの事のみなり。それ、蜘は、もろもろのむしの心をはかりて、事なきに網をまうけ、懸らんものを己(おのれ)が餌(えば)にせんと、たくめる事、惡智のなせる處なり。此心を長じもてゆきたる大蛛(おほぐも)は、人をも害するたくみ、ありつべし。此故に、もろこしの人も、にくめるにや。王守乙といへる人は、蜘の網をみる每(ごと)に、杖もて、破り侍り。人、その故を問(とひ)けるに、「天地の間(あひだ)、飛びかけるたぐひ、みな、身を動して、口腹のたすけとせるに、たゞ蜘のみ、さがなきたくみをなして、物の命をそこなひて、身を養ひけるをにくみて、かく、やぶる」とぞ云へりとかや」。

[やぶちゃん注:「源氏相傳の名劔(めいけん)に『蛛切(くもきり)』と申(まうす)、御座候ふよし、「太平記」にしるせり」源家の伝家の宝刀のそれについては、所謂、「剣巻」と呼ばれる特異な軍記物の附録のようなものに載る。「平家物語」の幾つかの伝本や「源平盛衰記」に附帯するものが知られているが立国会図書館デジタルコレクション奈良絵本平家物語剣之巻の解題に、『源氏重代の名剣の由来を述べたもので』、「平家物語」の『屋代本、百二十句本に付されており、覚一本などの諸本にある「剣巻」とは、内容が異なる』とし、この「剣巻」は『江戸時代には』「太平記」の『版本にも付載されたので、「太平記剣巻」とも呼ばれる』とある。生憎、私は「剣巻」を含む、それらの軍記物の活字本を所持しないのだが、今回、国立国会図書館デジタルコレクションので通読し、また、絵本太平記も併読したところ、頼光絡みの部分は基本的にほぼ同一の内容であることが判った。ウィキの「髭切によれば、大元は平安時代の清和源氏六孫王源経基の嫡男であった武官貴族源満仲(延喜一二(九一二)年~長徳三(九九七)年)が、天下守護のために「髭切」と「膝丸」の二腰の剣を作らせた内の、「膝丸」がそれ(「源平盛衰記」にはともに二尺七寸(一メートル三センチ弱)の太刀とされている)。ゴースト・バスターのチャンピオン源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)の手に伝えられ、大山蜘蛛(この伝承を元にした謡曲「土蜘蛛」によってその名で大ブレイクした)退治したことから、名を「膝丸」から「蜘蛛切」と改名したと伝える。

「土蛛(つちぐも)ほどの物におそはれ給ふべきは心得がたく侍る」「平家物語」の「剣巻」では、化蜘蛛に最後に襲われた際、生憎、頼光は瘧病(わらわやみ:マラリア)を患っていたから、それに乗じて来襲したのであって、この質問者へはその事実を語るべきところであろう、元隣は医師でもあるのだから。しかもしっかり頼光は一刀の下に決定的な傷手を与えているのだから。

「蜘蛛はちいさき虫なれども、智のおそろしき物なりとて、文字にも「虫」篇(むしへん)に「知」の字をかき、又、網にふれたる物を誅(ころ)する義ある故に、「蛛」の字を書(かけ)り。是、「誅」の字をかたどる心なり」漢字の成立史(特に対象とそれから受けた印象と漢字音の強い関連性)から見て、この「ご隠居」元隣の解説に、思わず「熊さん」「八さん」になりそうになるが、彼の解字は概ね、マッカな嘘である可能性が頗る高い。元隣の言っているようにもっともらしく「誅」を説明している記載も見かけるが、この「朱」は「動かない」の原義で、「蛛」はシンプルに「巣を張って殆んど動かずに生きている生き物」というのが正しいようである。因みに、本文にある通り、「蜘」だけでもクモを指す。

「事なきに」何の苦労もせずに。

「餌(えば)」「餌食(えばみ)」の転訛した語。

「王守乙」不詳。出典も未詳。お手上げ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 蛙の死

 

  蛙 の 死

 

蛙が殺された、

子供がまるくなつて手をあげた、

みんないつしよに、

かはゆらしい、

血だらけの手をあげた、

月が出た、

丘の上に人が立つてゐる。

帽子の下に顏がある。

            幼年思慕篇

 

[やぶちゃん注:「悲しい月夜」パートの掉尾に置かれている。私が最も偏愛する一篇。ここには恐るべき「永遠の少年」(puer eternus:プエル・エテルヌス)のトラウマが隠されている。私はずっと昔から、この一篇をイメージ・ショート・フィルムに撮りたい欲求を抑えきれない。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。特に大きな変化はない(但し、「幼年思慕篇」の附記はない)が、以下に示す。

   *

 

  蛙の死

 

蛙が殺された、

子供がまるくなつて手をあげた、

みんないつしよに、

可愛いらしい、

血だらけの手をあげた。

月が出た、

丘の上に人が立つて居た、

帽子の下に顏がある。

 

   *

個人的には映像的なシナリオとして読む時、初出は「血だらけの手をあげた。」の句点に軍配を挙げるが、共時的コントラプンクト(対位法)のモンタージュとしては「丘の上に人が立つてゐる。」の現在進行形がよい。例えば、モノクロで、

 

●蛙の断末魔(サウンド・エフェクト。オフで)

○殺された蛙。(フェイド・イン。ロング・ショットからゆっくりズーム・イン)【1ショット】

○丸くなって、手を挙げる子供たち。(上からフル・ショットで子どもたちが全方向からイン)【1ショット】

○みんな、一緒になって挙げる「かはゆらしい」、「血だらけの」手、手、手(カット・バック)【5ショットほどでよろしく】

○月の出。【1ショット】

○丘の上に立っている人。(ロング・ショット)【1ショット】

○夜の空。(ゆっくりティルト・ダウンして)帽子、そして帽子の庇、そして、その下の奥の翳に開く、両眼。【1ショット】

 

といった感じだ。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 干からびた犯罪

 

  干からびた犯罪

 

どこから犯人は逃走した?

ああ、いく年もいく年もまへから、

ここに倒れた椅子がある、

ここに兇器がある、

ここに屍体がある、

ここに血がある、

そうして靑ざめた五月の高窓にも、

おもひにしづんだ探偵のくらい顏と、

さびしい女の髮の毛とがふるへて居る。 

 

[やぶちゃん注:「屍体」及び「そうして」はママ。私の偏愛する一篇。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。「ああ、」の読点がなく字空け、「いく年もいく年も」が「何年も何年も」、「死体」が「死體」、「おもひにしづんだ探偵のくらい顏と、」が「想(おもひ)にしづんだ探偵のくらい顏と、」となっている以外は変更はない(「そうして」は初出でも同じである)。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『干からびた犯罪(本篇原稿三種三枚)』としつつ、一篇がチョイスされて載る。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  罪の行方→犯人→日影

  干からびた犯罪

 

どうしてどかこらあの犯人は逃走した?

ああ何年たつてもも何年もまへから

こゝにたほれた椅子がある

こゝに兇器がある

こゝに屍體がある

こゝに血がある

どこから彼は逃走し た?

そうしてどこへかくれたか、

そうしてみろ、靑ざめた五月の高窓にも

思ひにしづむだ探偵のくらい顏と

ふるへるさびしい女の髮の毛とがふるへて居る

探偵の 雲雀は女の髮の毛をおとしていつた

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 酒精中毒者の死

 

  酒精中毒者の死 

 

あふむきに死んでゐる酒精中毒者(よつぱらひ)の、

まつしろい腹のへんから、

えたいのわからぬものが流れてゐる、

透明な靑い血醬と、

ゆがんだ多角形の心臟と、

腐つたはらわたと、

らうまちすの爛れた手くびと、

ぐにやぐにやした臟物と、

そこらいちめん、

地べたはぴかぴか光つてゐる、

草はするどくとがつてゐる、

すべてがらぢうむのやうに光つてゐる。

こんなさびしい風景の中にうきあがつて、

白つぽけた殺人者の顏が、

草のやうにびらびら笑つてゐる。 

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「血醬」はママ。「血漿」が正しい。私の偏愛する一篇。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号であるが、標題は「酒精中害者の死體」である。細かな部分の表記上の複数の異同以外は変わらないが、初出形全体と、その後の「月の吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)以降の変遷について、酒精中害者の死體 萩原朔太郎(「酒精中毒者の死」初出形 附同詩形全変遷復元)で少しマニアックに電子化しているので参照されたい。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『酒精中毒者の死(本篇原稿二種二枚)』としつつ、一篇(標題は「酒精中害者の屍體」)がチョイスされて載る。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  醉漢

  ある酒精中害者の屍體

 

あほむけに倒れた→ざんこくに殺された醉つぱらひの屍體がある

血だらけの屍體

生ぐさい醉つぱらひの屍體

その屍體の

醉つぱらひがあほむけに倒れてゐるたよつぱらひ

それそのまつ白の腹からのへんから

えたいのわからぬものがながれて居る

蟲の い液體 夜目にも光る透明な靑い體血奬と[やぶちゃん注:「血奬」は「血漿」の誤字であろう。]

ゆがんだ多角形の心臟と

くさつたわたはたと

らうまちすのただれた手くびと

ごたごたしたぐにやくした臟物と

そして草の→あたりの 草は 地べたはラジウムのやうに光つてゐた

そこらいちめん

地べたはべたべたぬれてぴかぴか光つて居

草はすべて→いつしんにするどくとがつて居

日はかんかんとてつて居るすべてがいたいやうにとがいたしく病的に光つてゐる

わたし→おれは天をあほいで

かなしくもざんこくに殺されたのだ

しかしそしてみろ、

けれども、よつぱらひの眼ばかり

靑白い風景の中にうきあがつて

ラジウムのやうに光つて居た、

さびしい殺人者の顏が草のやうに白く笑つてゐる、

 

   *

この草稿を見ると、実はこの「殺された」「酒精中毒者」が、実は「わたし」「おれ」、則ち、萩原朔太郎自身であることが判る。而してこれは、直ちに、シュールレアリスムの先駆者とされるギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年)の一九一六年発表の小説「虐殺された詩人」( Le Poète assassiné )を想起させるのだが、ご覧の通り、本詩篇の初出は――それよりも――一年早い――のである。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 危險な散步

 

  危險な散步

 

春になつて、

おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、

どんな粗製の步道をあるいても、

あのいやらしい音がしないやうに、

それにおれはどつさり壞れものをかかへこんでる、

それがなによりけんのんだ。

さあ、そろそろ步きはじめた、

みんなそつとしてくれ、

そつとしてくれ、

おれは心配で心配でたまらない、

たとへどんなことがあつても、

おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。

おれはぜつたいぜつめいだ、

おれは病氣の風船のりみたいに、

いつも憔悴した方角で、

ふらふらふらふらあるいてゐるのだ。 

 

[やぶちゃん注:太字「ごむ」は底本では傍点「ヽ」。初出は『詩歌』大正四(一九一五)年六月号。「それにおれはどつさり壞れものをかかへこんでる、」が「それにおれはどつさり壞(こは)れものをかかへこんでゐる、」となっており、「そろそろ步きはじめた」が「そろそろ步きはぢめた」、「おれは心配で心配でたまらない、」は「じつさいおれは心配で心配でたまらない、」、「おれは病氣の風船のりみたいに、」は「だから病氣の風船乘りみたいに、」、「あるいて」が「步いて」となっている。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『危險な散步(本篇原稿三種二枚)』としつつ、二篇(無題と「足音のしない人の散步」がチョイスされて載る。以下に示す。表記は総てママである。アラビア数字は朔太郎が附したもの。

   *

 

  

 

1春になつて

2おれはあたらしいくつのうらにつけた

どこをいつあるいても3どんなにさびしいれた道路步道をあるいても

4あのいやらしい音がしないやうに

5さあ、おれが步きだしたはぢめた

6みんなおれのことならそつとしておくれ

7そつとしておくれ

おれは、少しこわれものをもつて居る

おれにさわらないでおくれ

おれはたとへ死んでもこひ死をしても

おまへの→あんな人間のとこへなんて二度といきはしない

おれは風せん玉のやうに

おれの氣のむいたところを

用心しながら

ふらふらふらふらあるいて居るのだ

 

 

  僕の散步

  足音のしない步行人の散步

 

春になつて

おれは新らしいくつのうらにごむをつけた

どんなさびれた粗製の步道をあるいても

あのいやらしい音がしないやうに

それにおれはどつさりこわれものをかかこんで居る

そいつがなによりけんのんだ

さあ、そろそろ步きはぢめた

みんなそつとしてくれ

そつとしてくれ

じつさいおれは心配で心配でたまらない

たとへどんなことがあつても

おれのゆがんだ足つきだけは見ないでくれずに居てくれ

しかし、だがおれはぜつたいに自由だ

おれはだからおく病氣の風せんのりのやうに憔悴した方角で

へん てこな方角を→惟倅した空 中を

ふらふらふらふら步いて居るのだ、

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 死

 

  

 

みつめる土地(つち)の底から、

奇妙きてれつの手がでる、足がでる、

くびがでしやばる、

諸君、

こいつはいつたい、

なんといふ鷲鳥だい。

みつめる土地(つち)の底から、

馬鹿づらをして、

手がでる、

足がでる、

くびがでしやばる。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正三(一九一四)年十一月号。七行目の「土地」にルビがない以外は、全く同じである。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 悲しい月夜

 

  悲しい月夜

 

ぬすつと犬めが、

くさつた波止場の月に吠えてゐる。

たましひが耳をすますと、

陰氣くさい聲をして、

黃いろい娘たちが合唄してゐる、

合唄してゐる、

波止場のくらい石垣で。 

 

いつも、

なぜおれはこれなんだ、

犬よ、

靑白いふしあはせの犬よ。 

 

[やぶちゃん注:詩集の題名由来の一篇であり、救い難い強烈な孤独感が表白されている。初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年十二月号。「くさつた波止場の月に吠えてゐる。」が「くさつた波止場の月に吠江て居る。」(「江」はその崩し字)、二箇所の「合唄」は孰れも同じく「合唄」と表記している。他に「おれ」は「俺」、「ふしあわせ」は「不仕合せ」となっている以外は、変更はない。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 かなしい遠景


悲 し い 月 夜

 

 

Kanasikitukiyo

 

[やぶちゃん注:パート標題(左ページ。その右ページは前の「焦心」の末尾)。その次の次の左ページに、以上の田中恭吉の画稿から採ったこのペン画が現われる(少しだけハイライトを加えて補正した)。やはり前と同じく、赤い肺結核であった恭吉自身の飲んだ後の薬包紙に描いたものと思われる。左右にはローマ字が記されてあるが、上手く判読出来ない。左手は上から「わがみの」「まくろき」「ま*aoの」「ひらめき」、右手は上から「そこーより」(?)「かげひき」「はてまで」「のぼれ」、か? 右下はローマ数字らしいが、「MCCⅩⅤ」か? これだと「19115」で、或いは「一九一一年五月」とすれば、明治四十四年五月となるが、恭吉の肺結核発症は大正二(一九一三)年で薬包紙使用と齟齬することになる。判読がお出来になられた方は、是非、お教え願いたい。

 

 

  かなしい遠景

 

かなしい薄暮になれば、

勞働者にて東京市中が滿員なり、

それらの憔悴した帽子のかげが、

市街(まち)中いちめんにひろがり、

あつちの市區でも、こつちの市區でも、

堅い地面を堀つくりかへす、

堀り出して見るならば、

煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ。

重さ五匁ほどもある、

にほひ菫のひからびきつた根つ株だ。

それも本所深川あたりの遠方からはじめ、

おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。

なやましい薄暮のかげで、

しなびきつた心臟がしやべるを光らしてゐる。 

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。二箇所の「堀」はママ。既に述べた通り、朔太郎の書き癖である。無論、「掘」が正しい。この一篇、プロレタリア詩の中に作者名を伏せて潜ませれば、誰もがそれらしい無名の労働者の詩だ、とその象徴詩の巧妙な罠に気づかずに納得してしまうのではなかろうか?

「五匁」(ごもんめ)は一八・七五グラム。

「にほひ菫」種としては、双子葉植物綱スミレ目スミレ科スミレ属ニオイスミレ Viola odorata。西アジアからヨーロッパ・北アフリカの広い範囲に分布し、バラ・ラヴェンダーと並ぶ香水の原料花として古くから栽培されている。草丈は一〇~一五センチメートル、茎は匍匐して葉は根生、他のスミレ類と同じくハート形。花は露地植えでは四月から五月にかけて咲き、左右相称の五弁花で菫色又はヴァイオレット・カラーと呼ばれる明るい藍色が基本であるが、薄紫・白・淡いピンクなどもあって八重咲きもある。パンジーやヴィオラに比べると花も小さく、花付きも悪いが、室内に置くと一輪咲いているだけで部屋中が馥郁たる香りに包まれるほどの強い香りがある(以上はウィキの「ニオイスミレ」に拠った)。但し、ここは「にほひ菫」という可憐な呼称が喚起する、幻想植物と採るべきところであろう。

 初出は『詩歌』大正四(一九一五)年一月号であるが、標題が異なり、単に「遠景」とする。「かなしい」が「哀しい」、「それらの憔悴した帽子のかげが、」は「それらの憔悴した紫色の顏が、」で、「市街(まち)」は「巷街(まち)」、「ひろがり」は「ひろごり」、「あつち」と「こつち」には傍点「ヽ」が附され、「ひからびきつた」は「干(ひ)からびきつた」で同行末「根つ株だ。」は「根つ株だ、」と読点になっている。また、最後の二行は大きく改変され、

   *

東京市中いちめんにおよんで、

空腹の勞働者がしやべるを光らす。

   *

となっている。初出全形は既に遠景 萩原朔太郎(「かなしい遠景」初出)で電子化しているので参照されたい。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『かなしい遠景(本篇原稿六種六枚)』としつつ、一篇の無題がチョイスされて載る。以下に示す。表記は総てママである。太字は底本では傍点「﹅」。

   *

 

  

 

東京市中の勞働者、

光るしやつぽの勞働者、

市中いつぱいにひろごりひろごりかたい地面を堀りかへす

みんなそろつて、

えんやらやつと土地を堀る、

あつちでもこつちでも町いちめんに堀つくりかへす

堀りあげて見たら、

すすぐろい嗅煙草の銀紙だ、

にほひ菫のしなびた根株だ、

くもり日の疲れきつた空□の哀しい心で心で

夕ぐれどきの疲れきつたこころで、

遠い勞働者がしやべるを光らす。

   *

編者注があり、『別稿では「(東京遊行詩扁、3)」と附記されている。』とある。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 焦心

 

  焦 心

 

霜ふりてすこしつめたき朝を、

手に雲雀料理をささげつつ步みゆく少女あり、

そのとき並木にもたれ、

白粉もてぬられたる女のほそき指と指との𨻶間(すきま)をよくよく窺ひ、

このうまき雲雀料理をば盜み喰べんと欲して、

しきりにも焦心し、

あるひとのごときはあまりに焦心し、まつたく合掌せるにおよべり。 

 

[やぶちゃん注:太字「あるひと」は底本ではの傍点「ヽ」。「雲雀料理」パートの掉尾の詩篇である。初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号。四行目

「白粉もてぬられたる女のほそき指と指との𨻶間(すきま)をよくよく窺ひ、」

「化粧せる女の白き指と皿との𨻶間(すきま)をよくよく窺ひ、」

と大きく異なる。「このうまき」が「この」、「およべり」が「及べり」となっている。

 因みに、筑摩版全集校訂本文では正字統一方針に従い、「並木」を勝手に「竝木」にしてしまっている。こんな暴挙はあってはならない。萩原朔太郎は一度としてここを「竝木」とは書かなかったのであるのに、である。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『焦心(本篇原稿五種二枚)』としつつ、一篇の無題がチョイスされて載る。以下に示す。表記は総てママである。丸括弧は朔太郎の附したもの。

   *

 

  

 

雪ふりつめたきあさを

少女の列はあたゝき別製の雲雀料理をもてさゝげたりゆく少女あり

そのそが光れる皿と女の白き指のすきまより

少女の白き指と皿とのすきまより

[やぶちゃん注:「┃」は私が附した。二つのフレーズが並置残存していることを示す。]

(狡猾にも)この雲雀料理を盜み喰べんとして

霜かれづきの並木にもたれつつ

あるひとのごときはいたましきまでに 焦心せるものなり眼をさへとじ 合掌し傷心 せるなり→してあり→ありさまなり、 せるに及べり傷心し合掌せるにも及べり、

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 天景

 

  天  景

 

しづかにきしれ四輪馬車、

ほのかに海はあかるみて、

麥は遠きにながれたり、

しづかにきしれ四輪馬車。

光る魚鳥の天景を、

また窓靑き建築を、

しづかにきしれ四輪馬車。

 

[やぶちゃん注:韻律から「四輪馬車」は「しりんばしや(しりんばしゃ)」、「魚鳥」は「ぎよてう(ぎょちょう)」と読みたい。初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年一一月号。「麥は遠きにながれたり、」の読点が句点で、次の四行目「しづかにきしれ四輪馬車。」の句点が読点である以外は変更はない。リフレインと計算された韻律が軋るサウンド・エフェクトに合わせて、風景がカット・バック風にモンタージュされる、すこぶる音楽的にして映像的な優れた、一読で暗記させられてしまう魔術的短詩である。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 掌上の種

 

  掌上の種

 

われは手のうへに土(つち)を盛り、

土(つち)のうへに種をまく、

いま白きぢようろもて土に水をそそぎしに、

水はせんせんとふりそそぎ、

土(つち)のつめたさはたなごころの上にぞしむ。

ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、

われは手を日光のほとりにさしのべしが、

さわやかなる風景の中にしあれば、

皮膚はかぐはしくぬくもりきたり、

手のうへの種はいとほしげにも呼吸(いき)づけり。

 

[やぶちゃん注:太字「ぢようろ」は底本では傍点「ヽ」。本詩集刊行までの未発表詩。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀料理

 

  雲雀料理

 

ささげまつるゆふべの愛餐、

燭に魚臘のうれひを薰じ、

いとしがりみどりの窓をひらきなむ。

あはれあれみ空をみれば、

さつきはるばると流るるものを、

手にわれ雲雀の皿をささげ、

いとしがり君がひだりにすすみなむ。

 

[やぶちゃん注:パート標題と同題の詩篇。「魚臘」はママであるが、筑摩版全集では編者によって誤字と断ぜられて、強制補正で「魚蠟」とされている(ここは正しい補正であるが、以前にも本カテゴリで文句を言ったが、この強制補正を校訂本文に問答無用で行うというのは、私は如何なものかと考えている。解説を含め、前漢字が正字表記という優れた全集なだけに、ちょっと残念な点である)。「魚臘」では中国語で魚の干物であるが、「魚蠟」(ぎよらふ(ぎょろう))なら、魚油から作った蠟で、粗悪な蠟燭などに用いたそれで腑に落ちる。点ずるとかなりの生臭さが漂う。

 初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年十一月号。「ゆふべ」が「夕べ」、「薰」に「くん」のルビ、「ひらきなむ」が「開きなむ」、「流るる」が「ながゝる」、「ささげ」が「捧げ」である他は、変更はない。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 盆景

 

  盆  景

 

春夏すぎて手は琥珀、

瞳(め)は水盤にぬれ、

石はらんすゐ、

いちいちに愁ひをくんず、

みよ山水のふかまに、

ほそき瀧ながれ、

瀧ながれ、

ひややかに魚介はしづむ。

 

[やぶちゃん注:「らんすゐ」については、私は以前にこのブログで、「盆景 萩原朔太郎 /……誰か馬鹿な僕の疑問に答えてくれ……」と本篇を掲げて、意味を問うたものであった(そこに書いたが私は盆景が大好きで、小学生の頃、亡き祖母と一緒に何度も作った。盆景の経験のある少年(元)というのは今では化石だろう)。すると、即座に古い教え子が反応して呉れた。それは『「らんすゐ」追跡1』で記してある。その後、怠け症の浮気男である私は、追跡をしていない(私のスランガステインは惨過ぎる)。そこで少し検索して見た。山本掌氏のブログ『「月球儀」&「芭蕉座」』の「萩原朔太郎「盆景」 <盆景>、ご存知でしょうか?」に、盆景の隆派「神泉流」の創始者で、日本盆景協会(ブログには百年前に創立とあり、山本氏の記事は二〇一六年のものだから、単純に引き算すると、大正五(一九一六)年。これは本詩集刊行の前年には当たる。但し、本詩篇の創作年月日は後に示す通り、大正三年八月十日である)を創設した小山潭水(明治一一(一八七八)年~昭和二一(一九四六)年)で、その『創設した方を、「たんすい」ならぬ「らんすい」といったものか』。『朔太郎、かなり朔太郎流に漢字をかえたりしていることもあるので』。『あるいは詩作品なので、名前を替えたのかも』という、かなりマニアックな仮説をお立てになっておられるのを見つけ、また、で、中国人が、本詩篇中国語訳簡体字)てお(以下の引用は注記号をカットし、題名のポイントを上げた)、

   《引用開始》

  盆景

春夏后双手化琥珀,

眼瞳在水中濡湿,

染上翠,

一切都浸透着愁意,

看啊那山水的深

涓涓瀑布流下,

瀑布流下,

贝类沉没在寒溪。

   《引用終了》

とあるのを発見した(「」は「過」、「」は「為」、「」は「盤」、「」は「頭」、「」は「嵐」、「」は「處」(処)、「」は「魚」、「贝类」は「貝類」の簡体字で、「」は「沈」の異体字である)。この方は「らんすゐ」を私が当初、検討した「嵐翠」と採っておられる(注があり、そこには『翠,指山中绿色的气。』とある)。「嵐翠」の歴史的仮名遣は「らんすい」であるが、萩原朔太郎はかなり歴史的仮名遣を間違って使用しており、中には確信犯で表記を変えているケースもしばしば見かけるから、それは実はあまり問題ではない。ここまで私は、どうも、この中国語訳をされた方の説、「嵐翠」に従いたい気になってきてはいる。大方の御叱正を俟つものではある。

 本詩篇の初出は、『地上巡禮』大正三(一九一四)年九月号。「いちいちに愁ひをくんず、」が「いちいちに愁ひをかんず、」で大きな改変である他は、「ひややかに」が「ひやゝかに」の表記違いである。但し、詩篇の後に下インデントで『――一九一四、八、一〇――』のクレジットがある。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 殺人事件

 

  殺人事件 

 

とほい空でぴすとるが鳴る。

またぴすとるが鳴る。

ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、

こひびとの窓からしのびこむ、

床は晶玉、

ゆびとゆびとのあひだから、

まつさをの血がながれてゐる、

かなしい女の屍體のうへで、

つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。 

 

しもつき上旬(はじめ)のある朝、

探偵は玻璃の衣裝をきて、

街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。

十字巷路に秋のふんすゐ。

はやひとり探偵はうれひをかんず。 

 

みよ、遠いさびしい大理石の步道を、

曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。 

 

[やぶちゃん注:「よつつぢ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「よつつじ」。「晶玉」は「しやうぎよく(しょうぎょく)」で大理石などの美しい石。初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年九月号。「こひびと」が「戀びと」、「床」に「ゆか」とルビ、「しもつき上旬(はじめ)のある朝、」が「九月上旬(はじめ)のある朝、」であるのが大きな改変で、「十字巷路に秋のふんすゐ。」の方にも「よつつぢ」(ママ)のルビがあり、さらに「ふんすゐ」の後の句点は読点、「はやひとり探偵はうれひをかんず。」は「はやひとり、探偵はうれひを感ず。」と読点と漢字表記の違いがあり、「遠いさびしい」も「遠い寂しい」、「すべつてゆく」も「すべつて行く」となっている。この一篇は松本清張にどっぷりはまっていた中学時代に読んで、カット・バックとクロース・アップを多用し、サウンド・エフェクトも美事な、サスペンス映画のワン・シーン、例えば、後のキャロル・リード(Carol Reed監督の「第三の男」(The Third Man・一九四九年製作・イギリス映画)を見るようなそれに、一気に惹かれたのを思い出す。私は当時から好きな詩を書き写す手帖を持っていたが、確かにこれをそこに綴ったのを懐かしく思い出す。九月上旬から十一月上旬に変えることで、シークエンスの冷感がいや増しにされて効果的なのではあるが、ただ、その結果として前段の「きりぎりす」が鳴いているのが、ありえないミス・シーンとなってしまっている(九月上旬なら問題ない)のが惜しまれる。

なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』末尾には、本篇の草稿として『殺人事件(本篇原稿三種四枚)』と記すものの、一篇も活字化していない。ただ、『或る稿の題名に「九月の探偵」とある』と注記がある。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 苗

 

   

 

苗は靑空に光り、

子供は土地(つち)を堀る。 

 

生えざる苗をもとめむとして、

あかるき鉢の底より、

われは白き指をさしぬけり。

 

 

 

Naenoato

 

[やぶちゃん注:見返しで二ページに分離しており、見開き右ページに「あかるき鉢の底より、」/「われは白き指をさしぬけり。」の二行があり、その左ページに田中恭吉の画稿から採ったこの鮮烈なペン画が現われる。赤い薬包紙(肺結核であった恭吉自身の飲んだ後のそれである)に赤インクで描かれたものである。これはサイト「文学マラソン」の「薬包紙に描かれた画(詩と画のコラボレーション)による情報である。そこには、『田中は萩原朔太郎』『からの依頼で『月に吠える』の装丁・挿画を引き受けます。得意の版画は体力的に厳しくなっており』(恭吉は大正二(一九一三)年頃に発症しており、療養のために郷里和歌山に帰っていた)『ペン画にすること、詩のイメージにこだわらない「わがままな画」で良いことを条件に引き受けました。切羽詰まった中でペンを運んだと思われ、赤い薬包紙に赤インクで描かれたものも』三『点含まれます。それらが彼の遺作となりました』。『田中が朔太郎にあてた手紙の一節に』は、

『私の肉体の分解が遠くないといふ予覚が私の手を着実に働かせて呉れました。兄の詩集の上梓されるころ私の影がどこにあるかと思ふさへ微笑されるのです。』

『とあります。自分の心情にぴったりの表現の場を得て、病いの中にあっても、心躍り、夢中になっているのが分かります。しかし、その言葉(「私の影がどこにあるか」)通り、『月に吠える』が上梓された』大正六年二月十五日(朔太郎三十歳)『には、田中はもうこの世にいなかった。死から』一年と三ヶ月『ほど経とうとしていました』。『『月に吠える』では、朔太郎の病的なまでに研ぎすまされた言葉の合間に、田中の画が姿を現します。「わがままな画」なので、詩を説明したような画ではありません。画が詩の添え物ではなく、画も詩と対等に存在し、相乗効果を生んでいるようです』とある。初版を読む者の見た目で示すために、右ページも含めて取り込んだ。地はもっと白いが、赤の色調の変質を考え、敢えて補正は行っていない。

本詩篇「苗」の「堀る」はママ。なお、本篇に限っては詩篇の初出はない。本詩集刊行までは全くの未発表の詩であったと考えられる。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『卵(本篇原稿二種三枚)』としつつ、一篇の「光る鉢」がチョイスされて載る。以下に示す。表記は総てママである。

   *

 

  金盞花→植木

  光る鉢

 

苗は天上靑空に光り

子供は土を堀る

えんえん花 さき ひらき

天上の生えざる苗をもとめんとして

あかるき鉢のなかよりの内より

ちいさき□のごときものあらはれ

われは遠方を

れは白き指をあてゝをさしぬけり、

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 山居

 

  山 居

 

八月は祈禱、

魚鳥遠くに消え去り、

桔梗いろおとろへ、

しだいにおとろへ、

わが心いたくおとろへ、

悲しみ樹蔭をいでず、

手に聖書は銀となる。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正三(一九一四)年九月号。初出では「悲しみ」が「哀しみ」である。「悲しみ樹蔭をいでず、」が「悲しみ樹蔭をいです、」であるが、これはただの誤植。但し、詩篇後に下インデントで『――一九一四、八 吾妻山中にて――』と記す。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀料理(序詩)・感傷の手



 雲 雀 料 理

 




[やぶちゃん注:パート標題。左ページ。その裏に以下。活字は詩篇より有意にポイント落ちである。囲み線がブラウザ上では上手く引けないので、画像で示し、文章を改めてベタで後に示した。太字「ふおうく」は画像の通り、底本では傍点「ヽ」。]

 

Hibariryouri

 

五月の朝の新綠と薰風は私の生活を貴族にする。

したたる空色の窓の下で、私の愛する女と共に純

銀のふおうくを動かしたい。私の生活にもいつか

は一度、あの空に光る、雲雀料理の愛の皿を盜ん

で喰べたい。

 

 

 

  感傷の手

 

わが性のせんちめんたる、

あまたある手をかなしむ、

手はつねに頭上にをどり、

また胸にひかりさびしみしが、

しだいに夏おとろへ、

かへれば燕はや巢を立ち、

おほ麥はつめたくひやさる。

ああ、都をわすれ、

われすでに胡弓を彈かず、

手ははがねとなり、

いんさんとして土地を掘る、

いぢらしき感傷の手は土地を掘る。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正三(一九一四)年九月号。「をどり」が「跳り」、「しだいに」が「しだに」(これは脱字であろう)、「おほ麥」が「大麥(おほむぎ)」、「ああ、都をわすれ、」が「ああ都を忘れ、」、「われすでに胡弓を彈かず、」の読点がなく、二箇所の「掘る」が「堀る」(これは長年の電子化から朔太郎の癖と思う)である以外は変更はない。但し、詩篇末に下インデントで『――一九一四、八、三――』のクレジットがある。「かへれば」は多層的で、畳み掛けた表現で燕は「歸れば」(帰ってしまったので)――雰囲気としての動作としての「返れば」(ふと気になって振り返って見れば)――帰らぬ季節・時制の変化を示す「變れば」(様変わってしまって)等の響きを持たせているように私は感ずる。言わずもがなであるが、「はがね」は「鋼」、「いんさん」は「陰慘」である。「せんちめんたる」その他も含め、こうした意識的なひらがな表記は漢語の硬直したそれを軟体動物の蠢きのように変化させる朔太郎の内在律、錬金術的手法とも言える。]

2018/10/29

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 卵

 

  

 

いと高き梢にありて、

ちいさなる卵ら光り、

あふげば小鳥の巢は光り、

いまはや罪びとの祈るときなる。

 

Huyunoyuube

[やぶちゃん注:この詩篇は右(二十四ページ)にあり、その左に、田中恭吉「冬の夕」「夕は「ゆふべ」と読むか)が配されてある。大正三(一九一四)年の作。紙にインク・鉛筆。取り込み時に黄変したので、補正を加えてあるが、原版よりも見易い感じには仕上がっている。詩篇の初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号。「ちひさなる」が「ちいさなる」、「あふげば」が「あほげば」、「罪びと」が「つみびと」で、最終行末は句点ではなく、読点となっている以外には変更はない。但し、これにも
詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩扁――』(「扁」は「篇」の誤植であろう)と記すのは注目する必要があろう。なお、本詩篇を以って「竹とその哀傷」パートは終わっている。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『卵(本篇原稿五種四枚)』としつつ、一篇の無題がチョイスされて載る。以下に示す。表記は総てママである。

   * 

  ○ 

よるのやみのなかのくひくやみ

たましひのそこよりいづるわれのいのりを

あきらかに樹ぬれいとたかき木ずゑにありて

雀のちいさなる卵は光り

よるのやみのひとのいのりを

いまはたかきはやつみびとのいのるときなる、 

   *

編者注があり、『別稿の題名に「光る卵 罪人」とある。また「罪びと」と題し、末尾に「十二・二十七」と附記した別稿がある。』とある。

 さらに、同全集の『習作集第九卷(愛憐詩集ノート)』に、「つみびと」と題した本篇と酷似する以下がある。

   *

 

 つみびと

 

いと高き木ずゑにありて、

ちいさなる卵等光り、

あほげば小鳥の巢は光り、

いまはや罪びとの祈るときなる、

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 天上縊死

 

  天上縊死 

 

遠夜に光る松の實に、

懴悔の淚したたりて、

遠夜の空にしも白ろき、

天上の松に首をかけ。

天上の松を戀ふるより、

祈れるさまに吊されぬ。 

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正四(一九一五)年一月号。「遠夜」に「とおよ」のルビ、「懴悔」が「懺悔」、「白き」が「しろき」、「吊されぬ」が「つるされぬ」で変更はない。但し、これにも詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩扁――』(「扁」は「篇」の誤植であろう)と記すのは注目する必要があろうなお、筑摩版全集に載る草稿群は既に「縊死 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿1)」「縊死 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿2)」「(無題) 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿3)」、「白金屍體――天上縊死續篇―― 萩原朔太郎 (「天上縊死」草稿4)」で別個に電子化してあるので参照されたい。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 冬

 

   

 

つみとがのしるし天にあらはれ、

ふりつむ雪のうへにあらはれ、

木木の梢にかがやきいで、

ま冬をこえて光るがに、

おかせる罪のしるしよもに現はれぬ。

 

みよや眠れる、

くらき土壤にいきものは、

懴悔の家をぞ建てそめし。 

 

[やぶちゃん注:初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年三月号であるが、題名が「貘」と異なり、詩篇自体も大幅な改変がなされている。既に「貘 萩原朔太郎(「冬」初出形)で電子化しているが、再掲する。

   *

 

   

 

あきらかなるもの現れぬ、

つみとがのしるし天にあらはれ、

懺悔のひとの肩にあらはれ、

齒に現はれ、

骨に現はれ、

木木の梢に現はれ出で、

眞冬をこえて凍るがに、

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

             ――淨罪詩扁――

 

   *

「扁」は「篇」の誤植であろう。

【二〇二一年十二月二十八日追加】なお、筑摩版全集の「草稿詩篇 月に吠える」には本篇の草稿四種五枚の内、三種(無題・「所現」・「家」)が掲げられてある。以下に示す。歴史的仮名遣・脱字はママ。

   *

 

  

つみとがのしるし天にあらはれ、

みよ懺悔のいのれるひとの姿にあらはれ、

つみとがのしるし天にあらはれ

樹々の梢にあらはれ

光れる雪

れきれきとしてその齒にあらはれきざまれ

骨にあらはれきざまれ

樹にきざまれ

しるしは天にあらはれぬ

樹々の梢にあらはれいで

ま冬めぢのかぎり

さもしろしろを雪ふりつもり[やぶちゃん注:「を」はママ。「と」の誤字か。]

ま冬を越えていちめんに

犯せる罪のしるし四方にあらはれぬ、

 

  罪罰

  所現

あきらかなるもの現れぬ

つみとがのしるし天にあらはれ

懺悔のひとの姿にあらはれ

齒にあらはれ

骨にあらはれ

木々のゆきふるなべにしらしらと

木々の梢にあらはれいで

あるみにうむの薄き紙片に

すべての言葉はしるされたり

ま冬をこゑていちめ雪ぞらに凍るがに

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ

             ――淨罪詩扁

 

  

つみとがのしるし空にあらはれ、

ふりつむゆきのうへにあらはれ

凍れる魚の齒にもあらはれ

木々の梢にあらはれかがやきいで

ま冬を越えて光るがに

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

 

みよや眠れる

くらき土壞にいきものは

懴悔の家をぞ建てそめし。

 

最後の「家」の後の編者注があり、『「家」は雜誌發表(題名「貘」)から詩集刊行までの間に書かれた清書原稿と推定される』とある。といっても、発表は大正四(一九一五)年三月で、「月に吠える」の刊行は大正六年二月十五日であるから、そのスパンは二年ある(以上は字体をゴシックにして追加であることを明確にした)。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 笛

 

   

 

あふげば高き松が枝に琴かけ鳴らす、

をゆびに紅をさしぐみて、

ふくめる琴をかきならす、

ああ かき鳴らすひとづま琴の音にもつれぶき、

いみじき笛は天にあり。

けふの霜夜の空に冴え冴え、

松の梢を光らして、

かなしむものの一念に、

懴悔の姿をあらはしぬ。 

 

いみじき笛は天にあり。 

 

[やぶちゃん注:四行目の末尾の意味がよく私には判らぬ。「縺れ吹き」か。初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号。「あふげば」が「あほげば」、「をゆび」が「おゆび」、「ものの」が「ものゝ」、「懴悔」が「懺悔」であるだけで変更はない。但し、これにも詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩扁――』(「扁」は「篇」の誤植であろう)と記すのは注目する必要があろう

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『笛(本篇原稿六種六枚)』としつつ、三篇(但し、最初は無題で、二篇目は「琴」、三篇目が「笛」)がチョイスされて載る。表記は総てママである。実際には、これらの内の、例えば最後の顕在化された「エレナ」詩篇は、後に別の記事(「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 われの犯せる罪 / 附・「月に吠える」の「笛」の草稿の一部及びそれと本篇が載る原稿用紙の復元)で電子化しているが、今回、ここに挿入するに当たって、再度、零から総ての草稿の電子化を、やり直した。

   * 

  

みよ 吹く 橫笛は天にあり

あほげば高き天上にしも琴かきならす

指にはパン 光る象牙の爪光りはして

金のふくめる琴をかきならす

あほげば松の色香をさヘ

霜夜ふけゆき

つゝめるごとく琴をひくきみ

あゝかきならす琴にあはせて

そのわが橫笛は天にもあり

淚にぬるゝ天上世界に

けふの霜夜の空に冴えしんしんたる吹く笛の

光る 松葉を ふみてさへも ぬらして わが衣手に 遠方にあ

いのりは→すがたを、 つみはみ空にあらはれぬ

松の梢を光らして

いのれるものゝあらはれぬ

┃懺悔のすがたあらはれぬ

┃懺悔のひとの橫笛は空をながれぬ

[やぶちゃん注:最後の「┃」は私が附した。二行が並置残存していることを示す。]

 

 

  

 

あほげば高き★天上に//松が枝に★妻琴かき鳴らす

[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附した。「天上に」と「松が枝に」とが、並置残存していることを示す。]

指には銀の爪はしり

ふくめる琴をかき鳴らす

ああかきならす妻琴にあはせての調べにあはせ

わが橫笛は天にあり

松の梢を光らして

けふの霜夜の空に冴え

松の梢を光らして

いのれる哀しむものゝ一念に

懺悔のすがたをあらはれぬしぬ

わが橫笛は天にあり。

 

 

  

   ――既に別れし彼女にE女に――

 

あほげば高き松が枝に琴かきけ鳴らす

小指には銀の爪をに紅をさしぐみて

ふくめる琴をかきならす

ああかき鳴らす人妻琴の調べにあはせ音にも★あはせて//つれぶき★

[やぶちゃん注:記号と意味は同前。]

いみぢしき笛は天にあり

わが戀もゑにしも失へり

けふの霜夜の空に冴え冴え

松の梢を光らして

哀しむものゝ一念に

 懺悔の姿をぞ★あらはしぬ//凍らしむ★

[やぶちゃん注:同前。]

わが横笛は

        天にあり

いじみき笛

[やぶちゃん注:「わが横笛」と「いじみき笛」(「いみじき笛」誤字)は「天にあり」の上のフレーズの並置残存。]

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 龜

 

   

 

林あり

沼あり、

蒼天あり、

ひとの手にはおもみを感じ

しづかに純金の龜ねむる、

この光る、

寂しき自然のいたみにたへ、

ひとの心靈(こゝろ)まさぐりしづむ、

龜は蒼天のふかみにしづむ。 

 

[やぶちゃん注:「ひとの手にはおもみを感じ」の後に読点がないのはママ。初出には読点があり、全集も読点を打つが、「月に吠える」の再版でも「蝶を夢む」でも読点はないから、私は従わない。初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年一月号であるが、最後に『――十二月作――』のクレジットが入る。「ねむる」が「眠る」、「いたみ」が「傷(いた)み」、「耐へ」が「耐え」(「え」は「江」の崩し字)、ルビの「こゝろ」が「こころ」であるだけで、変更はない。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『龜(本篇原稿六種四枚)』として以下四篇総てが載る(但し、三種は無題で、最後が「龜」)。表記は総てママである。

   *

 

  

 

しだい沼にしづめるもの

 

わが掌のうへ、

疾める心臟の底

龜はしづむ、

 

沼あり、

蒼天ありひろごるの秋

その、重みを感じて

しだいに沈むところの龜

つちの林中の龜

   *

編者注があり、『第一連と第二連との間に大きな餘白があり、一連上部から餘白部分にかけて落書の繪がある。』とある。正直、こんなことを書くより、その写真を、小さくても、ここに挿入した方が、なんぼか、マシやで! あほんだら!

 以下、無題二篇と「龜」。

   *

 

  

 

林あり

沼あり

蒼天あり

その蒼天の重みを感じ

               いたみ

ひとの掌(て)のうえには     を感じ

               重み

ふかみに

龜は 眠り 光り

光るしづかに純金の龜は眠れる

この眠れる もの 龜を

永劫の世界で龜は

樹々の

この眠る

その蒼天風景のいたみを感じ

このひとの心靈にも龜は光るまさぐりしづむ

一疋のこの遠き 地上の

龜をば指さし、合掌し、

ひとり木ぬれに立ちて心に祈れば

木ぬれに風吹きつれ

生物のうえに水ながれ

このひとの額に秋天ひろごる。

 

 

  

 

林には沼あり

沼には蒼天あり

その蒼天の重みを感じ

ひとの掌のうへには光る龜あり

龜は眠り

永遠にしづみゆく世界にあり

ひとり林に座りていのれば

生物のうへに水ながれ、

ひとの額に秋天ひろごる

 

 

  

 

林あり

沼あり

蒼天あり

ひとの掌には重みを感じ

しづかに純金の龜光る

この光る

風景さびしき自然の傷みを感じに耐え

ひとの心靈(こゝろ)にまさぐりしづむ

    永遠の

龜は 蒼天の       ふかみにしづむ。龜。

    穹窿(おほぞら)の

 

   *

最後は「龜は」と「ふかみにしづむ。龜。」の間に、「永遠の」と「蒼天の」と「穹窿(おほぞら)の」の三候補が並置残存していることを示す。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 すえたる菊

 

  すえたる菊

 

その菊は醋え、

その菊はいたみしたたる、

あはれあれ霜つきはじめ、

わがぷらちなの手ほしなへ、

するどく指をとがらして、

菊をつまむとねがふより、

その菊ばつむことなかれとて、

かがやく天の一方に、

菊は病み、

饐(す)えたる菊はいたみたる。 

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正四(一九一五)年一月号。「いたみしたたる」が「傷みしたゝる」(「傷」にはルビはない)、「ぷらちな」に傍点「ヽ」、「つまむ」が「摘まむ」、「つむ」が「摘む」、「かがやく」が「かゞやく」、最終行が「なやめる菊は傷(いた)みたる」となっている他、一篇目の「竹」と同じく、詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩篇――』と記すのは注目する必要があろう。これによって、前の二篇目の「竹」に接いだような無題の奇妙な詩篇が、前(「竹」第一篇を含む)と後ろから響き合うように配置されているのだとも言えよう。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『すえたる菊(本篇原稿五種五枚)』としつつ、ただ一篇(標題はただの「菊」)がチョイスされて載る。以下に示す。「1」から「10」に至るアラビア数字は総て朔太郎が附したもの。表記は総てママである。

   *

 

  

1  その菊はすゑ→酸醋え

2  その菊はいたみしたゝる

3  あはれあれ霜月はじめ

4  わがぷらちなの手はしなえ、

    するどく指を とがらして きづゝけて

    おゆびの針を光らしむ→するどく針を光らしむ

5  するどく指をきづゝけてとがらして

    とがれる針を光らし

6  菊をつまんと願ふよりする勿れ

7  菊をばつむこと勿れとて

8  かゞやく天の一方に

9  その菊はすゑ、

10そのなやめる菊はいたみしたゝるたる。

 

   *

抹消部と数字を除去してみると、

   *

 

  

その菊は醋え

その菊はいたみしたゝる

あはれあれ霜月はじめ

わがぷらちなの手はしなえ、

するどく指をとがらして

菊をつまんと願ふより

菊をばつむこと勿れとて

かゞやく天の一方に

その菊はすゑ、

なやめる菊はいたみたる。

 

   *

決定稿にいよよ近いことが判る。

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)

 

  

 

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるえ。 

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。 

 

[やぶちゃん注:初出は、『詩歌』大正四(一九一五)年二月号。竹 萩原朔太郎(「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)でも電子化してあるが、かなり激しい改稿がなされているので、併置して示す。

   *

 

  

 

新光あらはれ、

新光ひろごり。

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるゑ。 

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。 

 

祈らば祈らば空に生え、

罪びとの肩に竹が生え。

          ――大正四年元旦――

 

   *]

 

 

Takenoato

 

 

    みよすべての罪はしるされたり、

    されどすべては我にあらざりき、

    まことにわれに現はれしは、

    かげなき靑き炎の幻影のみ、

    雪の上に消えさる哀傷の幽靈のみ、

    ああかかる日のせつなる懴悔をも何かせむ、

    すべては靑きほのほの幻影のみ。

 

[やぶちゃん注:この詩篇は標題がない。目次にも示されていないから、この詩篇は二篇の「竹」の後に附した詩篇として読まれるようにはセットされている(右ページに上記の「竹」の終りの二行があり、絵と詩篇が右ページに文字のポイントを本篇詩篇より有意に小さくして載っている)。全集にも初出・異同等の資料が全く附帯しないから、本詩集刊行時に新たに創作して附したものなのであろう。また、本篇に限っては詩篇の初出はない。本詩集刊行までは全くの未発表の詩であったと考えられる。或いは、本詩集刊行に際し、前後の詩篇に合わせて新たに創作された可能性もあるか。さらに、この詩篇の上にある、モノクロームの奇妙な以上の絵は、私は漠然と無批判に田中恭吉のものと思い込んでいたが、挿絵の目次にも示されていないし、全集の解題にある田中と恩地の絵の枚数にも含まれていない。さすれば、この奇体な抽象画のようなものは、彼らの絵ではないことになり、そうなると、萩原朔太郎の手すさびのデッサンということなのだろうか? この絵について何か御存じの方はお教え願いたい。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇(同題の前の「竹」とは確然と区別されてある)の草稿として『「竹」(本篇原稿五種九枚)』として、以下の二篇がチョイスされて載る(標題は一篇は「新光」、一篇は「光る靑竹」或いは「靑竹と祈禱」の並置残存)。一篇目の中のアラビア数字「1」「2」「3」は朔太郎自身が附したもの。

   *

 

  新光

     一月一日作

ああ、なんぞやけふの蒼天

いつさいのものは肩にあり。

竹が生え

光る地面に竹が生え、竹、竹、竹が生え→りんりんとして竹が生え靑竹が生え

竹が生え→靑竹、竹、竹が生え

地下には竹の根が生え

根がのびてゆき竹の根が生えひろごり

けぶれる竹の根より纖毛が生え

かすかにけぶる纖毛が生え

かすかにふるえ、[やぶちゃん注:「ふるえ」はママ。]

 

1かたき地面に竹が生え

地面にするどき竹が生え

靑竹が生え2まつしぐらに竹が生え2

りんりんとして靑竹が生え、その竹ずたひ水がなれ[やぶちゃん注:「竹ずたひ」「水がなれ」はママ。]

するどく光り蒼天に3

その竹づたひ水ながれ竹竹竹が生え

りんりんとして祈り竹が生え

竹竹竹が生え

 

いのらばいのらば空に生え

つみびとの肩に竹が生え

 

 

  竹と新光

  光る靑竹

  靑竹と新光祈禱

 

ああ、なんぞや→ああけふの 光る蒼天、

いつさいのくもの→光は ものは肩にあり

光る蒼天光るあらはれ、

光る蒼天蒼天ひろごり

新光あらはれ

新光ひろごり

光る地面に竹が生え

靑竹が生え

地下には竹の根が生え

根がしだいに細くなりらみ萠え

根はしんしんとひろごりゆき根が

竹の根の先より纖毛が生え

かすかにけぶる纖毛が生え

かすかにふるえ、[やぶちゃん注:「ふるえ」はママ。]

 

かたき地面に竹が生え

地上にするどく竹が生え

まつしぐらに竹が生え

するどく光り竹が生え

その

りんりんとして竹が生え

氷れる竹の根節々りんりんと

蒼天のもと→蒼天靑空のもとに竹が生え

竹竹竹が生え

 

いのらばいのらば空に生え

罪びとの肩に竹が生え

 

蒼天あらはれ

蒼天ひろごり

新光あらはれ

新光ひろごり

        ――大正四年一月元旦――

 

   *

 さらに、実は、これに続いて、『○(本篇原稿一種一枚)』と記す、所謂、この奇体なオブストラクトに添えられた詩篇の草稿もあるので、以下に示す。草稿では「靑い炎」という題がついている

   *

 

  靑き炎の幻影

    ――淨罪詩扁――奧附――

 

合掌せる肩の上にあらはれ

鬼はすべてを示せり

みよすべては示されたりしが

すべては我にあらざりき

くみるみるいつさいはまことに現はれしは

みるみる靑き炎の幻影のみ

雪の上に消え去る幻影のみ哀傷の幽靈のみ

ああかゝる切なる懺悔をも何かせむ

すべては靑き炎の幻影のみ、

 

   *

これに私は――思わず叫んだ!――「Blue spirit blues」というわけだったのか!?――と…………]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹

 

  

 

ますぐなるもの地面に生え、

するどき靑きもの地面に生え、

凍れる冬をつらぬきて、

そのみどり葉光る朝の空路に、

なみだたれ、

なみだをたれ、

いまはや懺悔をはれる肩の上より、

けぶれる竹の根はひろごり、

するどき靑きもの地面に生え。 

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正四(一九一五)年二月号。二箇所の「なみだ」が「なんだ」(「なみだ」(「淚」)の「なむだ」→「なんだ」の音変化で、古くからある)、「懺悔をはれる」が「懺悔を終れる」となっている以外は詩篇自体の異同はないが、詩の最後で改行して下方に『――淨罪詩篇――』と記すのは注目する必要があろう。私の竹 萩原朔太郎(「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)で電子化してあるので参照されたい。

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『「竹」(本篇原稿八種十枚)』として、以下の五篇がチョイスされて載る(一篇は無題(「○」がそれ))。三篇目の最終連一行目冒頭の「×」は朔太郎が附したもの。

   *

 

  

      凍れる冬を

 

蒼天磨きをかけ

すぐなるものを 竹地に立ち

するどきものを 竹地に立ち

 

竹のいつしん

そのみどりば靑き葉うらに今日の空ぢに

いのりをくみ

いのりあげ

いのりあげ

なんだたれ

なんだたれ

懺悔ををはりて一念に

怒れるいのれるひとの肩のうへより

靑竹光る、

みよ

靑竹の根ははえ

靑竹の幹光る、

ときたる幹は[やぶちゃん注:編者は「とき」を「とぎ」の誤字とする。]

 

 

  

 

すぐなる長きもの地面に生え生ひ立ち

するどきもの靑きも地面に生ひ立ち[やぶちゃん注:「靑きも」はママ。]

凍れる

ま白き遠夜の冬をつらぬきて

そのみどりば光る今日朝の空ぢに

いのりあげ

いのりあげ

なんだたれ

なんだたれ

いのれるひとのむきむきに

 

いのれるひとの

いまはやひとの

懺悔を終れる肩の上より

みよ靑竹の根は生えひろごり

いのれるひとのむきむきに

するどき竹は ましぐらに、 天に立つ。靑きもの地面に立ち。

 

 

  

 

ますぐなるもの地面に生ひ立ち

するどきもの地面に生ひ立ち

凍れる冬をつらぬきて

そのみどりば光る朝の空路に

なんだをたれ

なんだをたれ

いのれるひとのむきむきになんだをたれ、

いまはや懺悔終れる肩のうへよりも、

 

靑竹の根は生えひろごり

いちめんに生え

     靑きも

するどき        地面に立ち

     かたきもの

 

×けぶれる竹の根は生え、ひろごり

するどき靑きもの地面に立ち、

 

 

  

 

ますぐなるもの地面に立ち生え

するどき靑きもの地面に生ひ→立ち生え

凍れる冬をつらぬきて

そのみどりば光る朝の空路に

なんだたれ

なんだをたれ

いまはや懺悔終れる肩のうへより

けぶれる竹の根はひろごり

するどき靑きもの地面に立ち、生え

 

いのれるひとのむきむきに

懺悔を終れる肩のうへより、

[やぶちゃん注:ここに編者注があり、『最後の二行は、やや離して書かれている。』とある。]

 

 

  

 

ますぐなるもの地面に生え

するどき靑きもの地面に生え

凍れる冬をつらぬきて

そのみどりば光る朝の空路に

なんだたれ

なんだたれ

このひとなんだをたれ

いまはや懺悔を終れる肩の上より

けぶれる竹の根はひろごり

するどき靑きもの地面に生え

           ――淨罪詩扁

 

   *]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 草の莖

 

  草の莖

 

 冬のさむさに、

ほそき毛をもてつつまれし、

草の莖をみよや、

あをらみ莖はさみしげなれども、

いちめんにうすき毛をもてつつまれし、

草の莖をみよや。 

 

雪もよひする空のかなたに、

草の莖はもえいづる。 

 

[やぶちゃん注:初出は『遍路』大正四(一九一五)年二月。表記違い(二行目の「つつまれし」が「包まれし」、三行目の「みよや」が「見よや」、「あをらみ」が「靑らみ」、「さみしげ」が「さびしげ」、「いづる」が「出づる」であるのと、各行末の読点が無いだけで、後は同じ。 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『「草の莖」(本篇原稿三種三枚)』として、以下の一篇が載る。これは草稿が三種類、原稿用紙で三枚分存在することを示すもので、以下一篇しか載らないのは、決定稿や以下の草稿と比して後の二種が活字にするに有意な価値がないと編集者が判断した一篇だけをチョイスしたことを意味する。削除部分は削除線を施した。「→」は前の当該語句・表現を書き変えたことを示す。以上の注は以下では省略する。
   *

 

 なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『「草の莖」(本篇原稿三種三枚)』として、以下の一篇が載る。これは草稿が三種類、原稿用紙で三枚分存在することを示すもので、以下一篇しか載らないのは、決定稿や以下の草稿と比して後の二種が活字にするに有意な価値がないと編集者が判断し、一篇だけをチョイスしたことを意味する。削除部分は削除線を施した。「→」は前の当該語句・表現を書き変えたことを示す。以上の注は以下では省略する。

   *

 

  

     ―初冬ノ感覺
     ―冬日微光
     ―多ノ感受ヲ歌ヘルモノ―
 

ほそき草木の莖は

冬のさむさに

ほそき毛をもてつゝまれぬ

さびしげな草の莖を見よや

あまたさびしげなれども

まだうら靑く→靑らみうすくさびしげなれども

かずいちめんに細き毛をもてつゝまれ

ゆきしだいにふりつもり

かかる日のくれに ところに→野末のうすら日に日のうれひをふかみ

遠の野末に雪ふりつもり

しんしんめんめんたる雪

ふりつもる雪をやぶりてしみじみとこそ芽雪掘りあげ

あたらしき芽 生萠えいづる

ゆきわりぐさの莖萠えづる、

 

   *

最終行の「萠えづる」はママ。編者注があり、『題名の下にそれぞれ丸でかこんだ「莖」「冬」「初冬」「微光」「草の莖」の文字がある』とある。この草稿は、これ以下、二〇二二年三月に追加したのだが、字体を整えるのが面倒なので、ゴシックで挿入した。この注記も以下では省略する。]

萩原朔太郎詩集「月に吠える」ヴァーチャル正規表現版始動 序(北原白秋・萩原朔太郎)目次その他 地面の底の病氣の顏

 萩原朔太郎詩集「月に吠える」ヴァーチャル正規表現版を始動する。

 使用底本は所持する昭和五八(一九八三)年刊の日本近代文学館刊行・名著復刻全集編集委員会編・ほるぷ発売の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」内の内のアンカット装のそれ(大正六(一九一七)年二月十五日感情詩社・白日社出版部発行)を実際にカットしながら用い、田中恭吉及び恩地幸四郎(二人ともパブリック・ドメイン)の挿絵も総て掲げる。底本の復刻版セットは、私が教員になって四年目の冬、出版の年のボーナスで買ったものであった。もう幾らだったか忘れたが、恐らく、私が人生で最初に買った、最も高額な書籍(セット)であったと記憶する。購入した理由は、私の卒業論文であった尾崎放哉の句集「大空(たいくう)」(初版現存物は極めて少なく、私が訪ねた彼の属していた『層雲』社にもなかったし、彼の研究者でさえも所持していない方が多い)が含まれていた(同書画像は私の同書初版本を底本とした尾崎放哉「入庵雜記」に掲げてある)からであるが、それだけでは値段的に躊躇されたのを、この「月に吠える」もあったことが後押しをしてくれたものであったことを覚えている。

 詩篇本文の加工用データとしては、鹿児島県立短期大学文学科准教授竹本寛秋氏が公開しておられる、「萩原朔太郎『月に吠える』(大正六年二月)テキストデータ」を使用させて戴いた(失礼乍ら、かなり誤植が認められる)。ここに謝意を表する。

 字体は勿論であるが(但し、新字相当の表記も有意に認められる)、ポイントや字間も可能な限り類似させたが、後者は完全な再現はしていない。例えば、標題は概ね詩篇本文の活字の一字から一時半下げ分ぐらいであるが、一定しないし、本文の活字の組み方自体が普通よりやや間が空いているため、一律、二字下げに統一した。また、詩篇本文内の文末でない読点は、有意に打った字の右手に接近し、その後は前後に比して一字分の空白があるように版組されている。これは朔太郎の確信犯なのだろうが、これを再現しようとすると、ブラウザ上では、ひどく奇異な印象を与え、そこで躓いてしまう(少なくとも私はそうである)ので、これはある特別な箇所を除いて無視し、再現していない。ルビは当該字の後に丸括弧で示した。字体も主要部が明朝であること、数箇所でゴシックが用いられていることを考慮して、基本を明朝とした。私の注に出る英語は私の趣味でローマン体を使用した。

 書誌情報及び校合資料として、昭和五〇(一九七五)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第一巻を使用した。

 文中段落末或いは詩篇末に、ごく禁欲的に注を附した。

 それにしても、最初から馬鹿正直にカットしつつ、詩篇本文に到達するのに(二十六帖)これだけ時間のかかる詩集も、まず、珍しい。【二〇一八年十月二十九日 藪野直史】【二〇一八年十一月一日 藪野直史・追記:実は、この迂遠な冒頭は、本詩集の底本が、「月に吠える」の初版本でも特殊な製版を施したものであることに拠ることが、作業中に判明した。「愛憐」の私の注をフライングして参照されたい。】

 

Yorunohana

 

Kabase_2

[やぶちゃん注:カバー表紙と背。裏は無地なのでカットした。絵は田中恭吉の「夜の花」。生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)を見たが、「夜の花」という出品作はない。「闇の花」(回覧雑誌『密室』三・大正二(一九一三)年五月作(インク・彩色、紙))というのが気になるが、別物かも知れない。]

 

Hontaihyousise

 

[やぶちゃん注:本体表紙と背。裏は無地なのでカットした。絵は恩地幸四郎の「われひらく」。]

 

Tobira

 

 月に吠える  詩 集

 

[やぶちゃん注:扉。]

 

Syousaihyousi

 

[やぶちゃん注:扉の次の次のページ。以下に書記方向を逆転させて電子化する。崩し字の「え」は「江」で示した。ポイントは総て同じとした。

 なお、共同出版となっている「感情詩社」と「白日社」であるが、「感情詩社」は室生犀星(朔太郎三つ歳下)と萩原朔太郎の二人が中心となって運営した出版社で、「白日社」の方は歌人の前田夕暮(朔太郎より三つ歳下。北原白秋と懇意で、彼の雑誌『詩歌』には本詩集の詩篇が多く初出する)が主宰した出版社であった。

 
    
詩   集

 月 に 吠 江 る

 

     萩原朔太郎著

    ――――――――

     
北原白秋序

     
室生犀星跋

 

       故田中恭吉挿

       恩地幸四郎挿

   ――――――――

     發  兌

   感情詩社・白日社

 

Hikari

 

[やぶちゃん注:田中恭吉の版画(左ページ)。後の挿画の目次には「稿より」とあるが、調べてみると、「光」という作品名である。ある記載に大正四(一九一五)年作で大きさは14×8.5とあったが、生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)を見る限りでは、そのクレジットは原型(インク・鉛筆と紙)のものであって、これは彼の死後、本詩集のため、大正六(一九一七)年頃に、彫師(恐らくは「挿畵目次」の後に名が示されてある山岸主計氏)によって原画からに木版に彫られ、それを摺師(これも同じく名が示される小池鐡太郎氏)が摺った校合摺(きょうごうずり:本来は本邦の錦絵に於いては、輪郭だけ彫られた版木が摺師に渡され、摺師は必要な枚数(色数)の墨摺りをして再び絵師に戻すが、この墨摺りしたものを「校合摺」という。絵師は一枚づつ色指定をし(これを「色差し」と称し、必要個所を朱で塗り潰し、指定色を書き込むが、この場合は、作者の田中は既にいないから、彫師がそれを行ったものか。ここについては、サイト「錦絵」の「錦絵の制作技法(1を参考にした)の一品らしい。なお、取り込んだ画像が暗いので、有意にハイライトをかけた(実際、光を照らすと、字の金色が目立つからである)。実際には周囲は濃紺である。]

 

[やぶちゃん注:以下、独立左ページ。]

 

 從兄 萩原榮次氏に捧げる

 

[やぶちゃん注:以下、北原白秋の序。左ページから。]

 

 

 萩原君。

 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永續するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縱(よ)しそこにそれぞれ天禀の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の(すず)しさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理會する。さうして以心傳心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奧底に直接に互の手を觸れ得るたつた一つの尊いものである。

[やぶちゃん注:「天禀」「てんぴん」或いは「てんりん」。天から授かった資質。生まれつき備わっている優れた才能。天賦。]

 

 私は君をよく知つてゐる。さうして室生君を。さうして君達の詩とその詩の生ひたちとをよく知つてゐる。『朱欒』のむかしから親しく君達は私に君達の心を開いて呉れた。いい意味に於て其後もわれわれの心の交流は常住新鮮であつた。恐らく今後に於ても。それは廻り澄む三つの獨樂が今や將に相觸れむとする刹那の靜謐である。そこには限の知られぬをののきがある。無論三つの生命は確實に三つの据りを保つてゐなければならぬ。然るのちにそれぞれ澄みきるのである。微妙な接吻がそののちに來(く)る。同じ單純と誠實とを以て。而も互の動悸を聽きわけるほどの澄徹さを以て。幸に君達の生命も玲瓏乎としてゐる。

[やぶちゃん注:「朱欒」「ザムボア」と読む。文芸雑誌。東雲堂書店発行。明治四四(一九一一)年十一月から大正二(一九一三)年五月まで十九冊を発刊した。北原白秋編集で後期浪漫派の活躍の場となった。大正七(一九一八)年一月発刊の改題誌『ザムボア』は同年九月で廃刊した。

「据り」「ゐすはり」或いは「すはり」。後者であろう。

「玲瓏乎」「れいろうこ」。「玲瓏」は玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。或いは、玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさまを言う。「乎」は状態を表わす漢語に附けて語調をめる助字。]

 

 室生君と同じく君も亦生れた詩人の一人である事は誰も否むわけにはゆくまい。私は信ずる。さうして君の異常な神經と感情の所有者である事も。譬へばそれは憂欝な香水に深く涵した剃刀である。而もその豫覺は常に來る可き悲劇に向つて顫へてゐる。然しそれは恐らく凶惡自身の爲に使用されると云ふよりも、凶惡に對する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刄となる種類のものである。何故なれば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、正(まさ)しく君の肋骨の一本一本をも數へ得るほどのさを持つてゐるからだ。

 然しこの剃刀は幾分君の好奇な趣味性に匂づけられてゐる事もほんとうである。時には安らかにそれで以て君は君の薄い髯を當(あた)る。

[やぶちゃん注:「生れた詩人」以って生まれた詩人。

「涵した」「ひたした」。

「ほんとう」ママ。]

 

 淸純な凄さ、それは君の詩を讀むものの誰しも認め得る特色であらう。然しそれは室生君の云ふ通り、ポオやボオドレエルの凄さとは違ふ。君は寂しい、君は正直で、淸楚で、透明で、もつと細かにぴちぴち動く。少くとも彼等の望的な暗さや頽廢した幻覺の魔睡は無い。宛然凉しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきである。その鏡に映るものは眞實である。そして其處には玻璃製の上品な市街や靑空やが映る。さうして恐る可き殺人事件が突如として映つたり、素敵に氣の利いた探偵が走つたりする。

[やぶちゃん注:以下の三行空けはママ。次のパートの頭を次ページに送るためかとも推定されるが、後の方の書き方からの感じでは、原稿自体がそうなっている可能性が高い。]

 

 

 

 君の氣稟は又譬へば地面に直角に立つ一本の竹である。その細い幹は鮮かな靑綠で、その葉は華奢(きやしや)でこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直觀する。而も此竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根の細(こま)かな纖毛のその岐(わか)れの殆ど有るか無きかの毛の尖(さき)のイルミネエシヨン、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の突端にかぢりついて泣く男、それは病氣の朔太郞である。それは君も認めてゐる。

[やぶちゃん注:「細(こま)かな」底本は「細(まか)かな」とルビするが、誤植と断じ、特異的に筑摩版全集で訂した。]

 

「詩は神祕でも象徵でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤獨者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徵として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷(すすりなき)がそこから來る。さうしてその葉その根の尖(さき)まで光り出す。

[やぶちゃん注:二箇所の「ほんとう」はママ。以下も同じ。以下の三行空けはママ。]

 

 

 

 君の靈魂は私の知つてゐる限りまさしく蒼い顏をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは眞珠貝の生身(なまみ)が一顆小砂に擦(す)られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は眞珠になるりそれがほんとうの生身(なまみ)であり、生身から滴(したた)らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が證明してゐる。

 

 外面的に見た君も極めて瘦せて尖つてゐる。さうしてその四肢(てあし)が常に角に動く、まさしく竹の感覺である。而も突如として電流體の感情が頭から足の爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から淚がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。

 潔癖で我儘なお坊つちやんで(この點は私とよく似てゐる)その癖寂しがりの、いつも白い神經を露はに顫へさしてゐる人だ。それは電流の來ぬ前の電球の硝子の中の顫へてやまぬ竹の線である。

[やぶちゃん注:エジソンが商品化した当時の白熱電球のフィラメントは京都産の竹で出来ていた。]

 

 君の電流體の感情はあらゆる液體を固體に凝結せずんばやまない。竹の葉の水氣が集つて一滴の露となり、腐れた酒の蒸氣が冷(つめ)たいランビキの玻璃に透明な酒精の雫を形づくる迄のそれ自身の洗練はかりそめのものではない。君のセンチメンタリズムの信條はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める、この凝念のさであらう。摩詞不思議なる此の眞言の秘密はただ詩人のみが知る。

[やぶちゃん注:「ランビキ」ポルトガル語「alambique」から。「蘭引」とも書く。江戸時代、酒類などの蒸留に用いた器具で、陶器製の深鍋に溶液を入れ、蓋に水を入れてのせ、下から加熱すると、生じる蒸気が蓋の裏面で冷やされて露となり、側面の口から流れ出るもの。但し、ここはその精製された酒を受けるガラス製の容器を指している。

 以下、三行空けはママ(底本では改ページで行空け)。]

 

 月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。晝のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる聲まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、眞實に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。

 

 ぴようぴようと吠える。何かがぴようぴようと吠える。聽いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀨ない聲、その聲が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。

[やぶちゃん注:冒頭の「ぴ」は底本では右に転倒している。誤植であるので訂した。

 以下、三行空けはママ。]

 

 

 

 萩原君。

 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて來た一つの相似た靈魂の爲めに祝福し、更に甚深な肉親の交歡に醉ふ。

 又更に君と室生君との藝術上の熱愛を思ふと淚が流れる。君の歡びは室生君の歡びである。さうして又私の歡びである。

 この機會を利用して、私は更に君に讃嘆の辭を贈る。

  大正六年一月十日

            葛飾の紫烟草舍にて

             北 原 白 秋

[やぶちゃん注:「紫烟草舍」は底本では「紫畑草舍」となっている。白秋は大正五年の夏から約一年間、当時、旧東京府南葛飾郡小岩(現在は江戸川区)にあった離れ屋で創作をしていたが、それに号したのが「紫烟草舍」であった。誤植と断じ、筑摩書房版全集で特異的に訂した。]

 

[やぶちゃん注:以下、萩原朔太郎自身の序。白秋の序の終りが右で、その左ページから。]

 

 

  

 

 詩の表現の目的は單に情調のための情調を表現することではない。幻覺のための幻覺を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣傳演繹することのためでもない。詩の本來の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 

 詩とは感情の神經を摑んだものである。生きて働く心理學である。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「●」。以下、同じ。]

 

 すべてのよい敍情詩には、理窟や言葉で明することの出來ない一種の一感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(人によつては氣韻とか氣禀とかいふ)にほひは詩の主眼とする陶醉的氣分の要素である。順つてこのにほひの稀薄な詩は韻文としての價値のすくないものであつて、言はば香味を缺いた酒のやうなものである。かういふ酒を私は好まない。

 詩の表現は素樸なれ、詩のにほひは芳純でありたい。

[やぶちゃん注:「氣禀」「きりん」。原義は、生まれつき持っている気質。

「要素である。順つて」底本では、句点がない。脱記号と断じ、全集によって補った。]

 

 私の詩の讀者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた槪念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感觸してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雜した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは明ではない。リズムは以心傳心である。そのリズムを無言で感知することの出來る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

 

 『どういふわけでうれしい?』といふ質問に對して人は容易にその理由を明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい?』といふ問に對しては何人(びと)もたやすくその心理を明することはできない。

 思ふに人間の感情といふものは、極めて單純であつて、同時に極めて複雜したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。

 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音樂と詩があるばかりである。

[やぶちゃん注:「どういふ工合にうれしい?」の疑問符は底本にはないが、前や後との照応性からも、脱記号と考えるべきで、特異的に全集で補った。]

 

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。

 あの病氣にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コツプに盛つた一杯の水が息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。

 『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我我にとつては只々不可思義千萬のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも眞實な事實なのである。そして此の場合に若しその患者自身が‥‥‥何等かの必要に迫まられて‥‥‥‥この苦しい實感を傍人に向つて明しやうと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病氣について特種の智識をもたなかつた場合には彼に對してどんな慘酷な惡戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戰慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出來ないであらう。

 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で明することの出來ないものまでも明する。詩は言葉以上の言葉である。

[やぶちゃん注:八点リーダはママ。底本ではもっと詰っている。]

 

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。

 人間は一人一人にちがつた肉體と、ちがつた神經とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。

 人は一人一人ではいつも永久に永久に恐ろしい孤獨である。

 原始以來、神は幾億萬人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顏の人間を、决して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも單位で生れて、永久に單位で死ななければならない。

 とはいへ、我々は决してぽつねんと切りはなされた宇宙の單位ではない。

 我々の顏は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、實際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである、この共通を人間同志の間に發見するとき、人類間の『道德』と『愛』とが生れるのである。この共通を人類と植物との間に發見するとき、自然間の『道德』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤獨ではない。

[やぶちゃん注:「同一のところをもつて居るのである、」の末尾の読点はママ。全集版では句点となっている。]

 

 私のこの肉體とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も私一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦點に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

 

 詩は一瞬間に於ける靈智の産物である。ふだんにもつてゐる所のある種の感情が、電流體の如きものに觸れて始めてリズムを發見する。この電流體は詩人にとつては奇蹟である。詩は豫期して作らるべき者ではない。

[やぶちゃん注:「ふだん」は次段の謂いから推すと、「不斷」ではなく、「普段」であろう。]

 

 以前、私は詩といふものを神秘のやうに考へて居た。ある靈妙な宇宙の聖靈と人間の叡智との交靈作用のやうにも考へて居た。或はまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のやうにも思つて居た。併し今から思ふと、それは笑ふべき迷信であつた。

 詩とは、決してそんな奇怪な鬼のやうなものではなく、實は却つて我々とは親しみ易い兄妹や愛人のやうなものである。

 私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臟の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。

 私は詩を思ふと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんずる。

 詩は神秘でも象徵でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤獨者との寂しいなぐさめである。

 詩を思ふとき、私は人情のいぢらしさに自然と淚ぐましくなる。

[やぶちゃん注:「そういふ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「さういふ」。]

 

 過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦燥と無爲と惱める心肉との不吉な惡夢であつた。

 月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は靑白い幽靈のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。

 私は私自身の陰欝な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに。

 

               萩原朔太郞

[やぶちゃん注:この最後は底本十二ページであるが、十一ページ末(左)が最終段落の「私は私自身の陰欝な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。」で終わり、改ページとなって右ページ行頭から「影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに。」となっているため、この「影が、永久に私のあとを追つて來ないやうに。」が単独行のように錯覚される。

 以下、「詩集例言」。以上の左ページから。箇条の二行目以降は総て二字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、ここは無視した。]

 

 詩 集 例 言

 

一、過去三年以來の創作九十餘篇中より叙情詩五十五篇、及び長篇詩篇二篇を選びてこの集に納む。集中の詩篇は主として「地上巡禮」「詩歌」「アルス」「卓上噴水」「感情」及び一、二の地方雜誌に揭載した者の中から拔粹した。その他、機會がなくて創作當時發表することの出來なかつたもの數篇を加へた。詩稿はこの集に納めるについて槪ね推稿を加へた。

[やぶちゃん注:全集の解題によれば、実際には本初版では叙情詩五十三篇、「竹とその哀傷」中の無題一篇、及び、長篇詩二篇である。『初版の形が決定する前の現存する校正刷りを見ると「晝」(『蝶を夢む』に「野景」と改題され収錄)「夜景」の二篇が収められているので、』この叙情詩五十五篇というのは『詩集原案によった篇數と思われる』とあり、割愛した二篇を引くのを朔太郎自身が失念していたものと思われる。ここで、彼がカットした二篇を全集から復元しておく。後者の「夜景」は恐らく大正四(一九一五)年三月の『卓上噴水』に発表したそれと思われる。

   *

 

 野景

 

弓なりにしなつた竿の先で

小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる

おやぢは得意で有頂天だが

あいにく世間がしづまりかへつて

遠い牧場では

牛がよそつぽをむいてゐる。

 

   *

 

 夜景

 

高い家根の上で猫が寢てゐる

猫の尻尾から月が顏を出し

月が靑白い眼鏡をかけて見てゐる

だが泥棒はそれを知らないから

近所の家根へひよつこりとび出し

なにかまつくろの衣裝をきこんで

煙突の窓から忍びこもうとするところ。

 

   *

「夜景」最終行の「こもう」は発表誌のママ。]

一、詩篇の排列順序は必ずしも正確な創作年順を追つては居ない。けれども大體に於ては舊稿からはじめて新作に終つて居る。卽ち「竹とその哀傷」「雲雀料理」最も古く、「悲しい月夜」之に次ぎ、「くさつた蛤」「さびしい情慾」等は大低同年代の作である。而して「見知らぬ犬」と「長詩一篇」とは比較的最近の作に屬す。

一、極めて初期の作で「ザムボア」「創作」等に發表した小曲風のもの、及び「異端」「水甕」「アララギ」「風景」等に發表した二、三の作は此の集では割愛することにした。詩風の關係から詩集の感じの統一を保つためである。

すべて初期に屬する詩篇は作者にとつてはなづかしいものである。それらは機會をみて別の集にまとめることにする。

[やぶちゃん注:「なづかしい」はママ。]

一、この詩集の裝幀に就いては、以前著者から田中恭吉氏にお願ひして氏の意匠を煩はしたのである。所が不幸にして此の仕事が完成しない中に田中氏は病死してしまつた。そこで改めて恩地孝氏にたのんで著者のために田中氏の遺志を次いでもらふことにしたのである。恩地氏は田中氏とは生前無一の親友であつたのみならず、その藝術上の信念を共にすることに於て田中氏とは唯一の知己であつたからである。(尚、本集の插については卷末の附錄「插畵附言」を參照してもらひたい。)

[やぶちゃん注:版画家としてよく知られる田中恭吉(明治二五(一八九二)年~大正四(一九一五)年十月二十三日)は和歌山県和歌山市出身。肺結核のため、本詩集刊行の二年前、二十三歳で夭折した。

恩地孝四郎(おんち こうしろう 明治二四(一八九一)年~昭和三〇(一九五五)年)は東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。ウィキの「恩地孝四郎」によれば、『創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている』とある。]

一、詩集出版に關して恩地孝氏と前田夕暮氏とには色々な方面から一方ならぬ迷惑をかけて居る。二兄の深甚なる好意に對しては深く感謝の意を表する次第である。

一、集中二、三の舊作は目下の著者の藝術的信念や思想の上から見て飽き足らないものである。併しそれらの詩篇も過去の道程の記念として貴重なものであるので特に採篇したのである。

 

Soranisakueterunohana

 

[やぶちゃん注:中扉(と後の挿画の目次では呼んでいる)。左ページ(右は「詩集例言」の末尾)。田中恭吉「空にさくエーテルの花」。取り込んだ際に地が黄変してしまったので、補正をかけてあるが、この方が原版に近い。但し、生誕百二十年記念として和歌山県立近代美術館で催された「田中恭吉展」「出品目録」PDF)を見ると、正確な題名は「そらに咲くエテルの花」で、大正四(一九一五)年作(インク、紙)とある。]

 

   詩 集  月に吠える

 

[やぶちゃん注:左ページ。ゴシック体の「詩集」は右から左に横書。「月に吠える」はその間の下部に縦書。]

 

[やぶちゃん注:以下、目次であるが、リーダとページ数はカットした。各詩篇題がパート標題より大きいが、無視して同ポイントで示した。]

 

目  次

 

竹とその哀傷

 地面の底の病氣の顔

 草の莖

 竹

 竹

 すえたる菊

 龜

 笛

 冬

 天上縊死

 卵

雲雀料理

 感傷の手

 山居

 苗

 殺人事件

 盆景

 雲雀料理

 掌上の種

 天景

 焦心

悲しい月夜

 かなしい遠景

 悲しい月夜

 死

 危險な散步

 酒精中毒者の死

 干からびた犯罪

 蛙の死

くさつた蛤

 内部に居る人が畸形な病人に見える理由

 椅子

 春夜

 ばくてりやの世界

 およぐひと

 ありあけ

 猫

 貝

 麥畑の一隅にて

 陽春

 くさつた蛤

 春の實體

 贈物にそへて

さびしい情慾

 愛憐

 戀に戀する人

 五月の貴公子

 白い月

 肖像

 さびしい人格

見知らぬ犬

 見しらぬ犬

 靑樹の梢をあふぎて

 蛙よ

 山に登る

 海水旅舘

 孤獨

 白い共同椅子

 田舍を恐る

長 詩 二 篇

 雲雀の巢

 笛

 

[やぶちゃん注:以下、挿絵の目次。見開き二ページ。先の目次同様、リーダと二箇所を除いてページ数はカットした。]

 

挿  目 次

    田中恭吉遺作十一種

1稿より        口 絵

2空にさくエーテルの花  中 扉

 3冬の夕

 4稿より Ⅰ

 5塙より Ⅱ

 6塙より Ⅲ

 7こもるみのむし(假に題して)

 8懈怠

 9死人とあとにのこれるもの

10悔恨

11夜の花         包紙として

   恩地孝四郎版三種及圖一種

 1抒情(よろこびあふれ)

 2抒情(よろこびすみ)     附錄の 一

 3抒情(ひとりすめば)     附錄の一六

 4われひらく       表紙に用ひて

[やぶちゃん注:「2空にさくエーテルの花」の「空」は底本では「室」。誤植と断じ、全集改題によって特異的に訂した。

「懈怠」「けたい」或いは「けだい」と読み、原義は
仏道修行に励まぬこと、怠り怠けることを指す。

「包紙」カバーのこと。]

 

亞 鉛 凸 版   近松製版所

コロタイプ 版   岸本 勢助

同  印  刷   藤本 義郎

木     版   山口 主計

手     摺   小池鐡太郎

機 械 印 刷   五 彩 閣

 

[やぶちゃん注:以上、右ページ(字間は底本のままではない)。以下、やっと本文が始まる。以下のパート標題「竹とその哀傷」はこの左ページ。]
 



 

 竹 と そ の 哀 傷

 

[やぶちゃん注:以下、次の次の左ページから始まる。]

 

  地面の底の病氣

  の顏

 

地面の底に顏があらはれ、

さみしい病人の顏があらはれ。

 

地面の底のくらやみに、

うらうら草の莖が萠えそめ、

鼠の巢が萠えそめ、

巢にこんがらかつてゐる、

かずしれぬ髮の毛がふるえ出し、

冬至のころの、

さびしい病氣の地面から、

ほそい靑竹の根が生えそめ、

生えそめ、

それがじつにあはれふかくみえ、

けぶれるごとくに視え、

じつに、じつに、あはれふかげに視え。

 

地面の底のくらやみに、

さみしい病人の顏があらはれ。

 

[やぶちゃん注:初期形の初出は『地上巡禮』大正四(一九一五)年三月号であるが、そこでは題名が驚天動地の自身の名を入れた「白い朔太郎の病氣の顏」である。改作したため、幾つかの異同がある。私の「白い朔太郎の病氣の顏 萩原朔太郎(「地面の底の病氣の顏」初出形)を見られたい。第一連のみが、本文三ページ(左ページ)に独立して、一読、どきっとする。確信犯の版組である。標題の改行も空白が左に無駄に広がらないようにすることを狙ったものであろうかとも思われる。]

2018/10/28

帰還

アリス……もう、帰ろう――



殺し屋たちへ

私はナチスのユダヤ人殲滅を憎悪する。同時に、イスラエルの暴虐によるパレスチナの民の「殺戮」を全く以って同じだと考える、そういう「人種」である。 政治思想など、下らぬ「最下劣」である――

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鸜鵒(くろつぐみ) (ハッカチョウとクロツグミの混同)

Kurotugumi

くろつぐみ 鴝鵒  八哥

 哵哵鳥 寒

鸜鵒【渠欲】

      【俗云黒

       豆久見】

キユイ ヨッ

 

本綱鸜鵒巢於鵲巢樹穴及人家屋脊中身首俱黑兩翼

下各有白其舌如人舌剪剔能作人言五月五日去其

舌尖則能語聲尤清越也嫩則口黃也老則口白頭上有

幘者有無幘者好浴水其睛瞿瞿然故名鸜鵒天寒欲雪

則羣飛如告故名寒皐皐者告也又可使取火也

其目睛和人乳中研滴目中令人目明能見烟霄外之物

肉【甘平】主治五痔止血【炙食或爲散】又治老嗽【臘月臘日以作羮或炙食】

三才圖會云五月鸜鵒子毛羽新成取養之以教其語俗

謂之花鴝

按鸜鵒大如伯勞其頭背正黑色胸腹白而有黑斑脛

 黑觜黑其吻黃色能囀人畜之樊中賞之其雌者臆腹

 之斑色不鮮翮黑其裏柹色

眉白鸜鵒 形狀同鸜鵒而眉白者

 

 

くろつぐみ 鴝鵒〔(くよく)〕

      八哥〔(はつか)〕

 哵哵鳥〔(ははてう)〕

      寒〔(かんこう)〕

鸜鵒【〔音、〕「渠」「欲」。】

      【俗に「黒豆久見」と云ふ。】

キユイ ヨッ

 

「本綱」、鸜鵒は鵲〔(かささぎ)〕の巢、樹〔の〕穴、及び、人〔の〕家屋の脊〔(せ)〕の中に巢〔(すく)〕ふ。身・首、俱に黑。兩翼の下、各々、白有り。其の舌、人の舌のごとく、剪剔〔(せんてき)〕して能く人〔の〕言〔(ことば)〕を作〔(な)〕す。五月五日、其の舌の尖〔(とが)〕りを去るときは、則ち、語を能くす。聲、尤も清越なり。嫩〔(わか)〕きときは、則ち、口、黃なり。老するときは、則ち、口、白し。頭の上に幘〔(さく)〕有る者あり、幘無き者〔も〕有り。好く水に浴す。其の睛(ひとみ)、瞿瞿然〔(くくぜん)〕たり。故に「鸜鵒〔(くよく)〕」と名づく。天、寒くして、雪〔(ゆきふ)らんと〕欲〔(す)〕るときは、則ち、羣飛して、告ぐるがごとし。故に「寒皐」と名づく。「皐」とは「告ぐる」なり。又、「火を取らしむべし」〔と〕なり。

其の目-睛〔(ひとみ)〕を人の乳の中に和して、研〔(と)ぎ〕て目の中に滴〔(したた)らせ〕て、人をして、目を明〔(あきら)か〕にして、能く烟霄〔(えんせう)〕の外〔そと〕の物を見せしむ。

肉【甘、平。】主〔(つかさどる)に〕、五痔を治し、血を止む【炙り食ひ、或いは散と爲す。】。又、老嗽〔(らうさう)〕を治す【臘月臘日、以つて、羮〔(あつもの)〕に作し、或いは、炙り食ふ。】。

「三才圖會」に云はく、『五月、鸜鵒の子、毛羽、新たに成〔れるを〕取り、之れを養ひ、以つて、其の語を教ふ。俗、之れを「花鴝〔(くわく)〕」と謂ふ』〔と〕。

按ずるに、鸜鵒は大いさ、伯勞〔(もず)〕のごとく、其の頭・背、正黑色。胸・腹、白くして黑斑有り。脛、黑。觜、黑。其の吻、黃色。能く囀る。人、之れを樊〔(かご)の〕中に畜〔(か)〕ひ、之れを賞す。其の雌は、臆・腹の斑色、鮮かならず。翮〔(はねくき)〕、黑。其の裏、柹色。

眉白鸜鵒〔(まゆじろくろつぐみ)〕 形狀、鸜鵒に同〔じう〕して、眉、白き者なり。

[やぶちゃん注:「くろつぐみ」とするが、ここは二種の鳥を混同してしまっている。一つは真正の、

スズメ目ツグミ科ツグミ属クロツグミ Turdus cardis

であるが、異名として挙げる「八哥〔(はつか)〕」は面倒なことに、本邦でも「くろつぐみ」の異名を持つ、

スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus

である。しかも主標題の「鸜鵒」はもとより、異名として並ぶ「鴝鵒〔(くよく)〕」「八哥〔(はつか)〕」「哵哵鳥〔(ははてう)〕」「寒〔(かんこう)〕」の総てが、現行でもハッカチョウの異名なのである。

 ともかくも、概ね、「本草綱目」「三才図会」の記載は後者のハッカチョウのものであり、良安の記載は「胸・腹、白くして黑斑有り」という特徴から、私は真正の前者のクロツグミを言っているものと読む。

 まず、ウィキの「クロツグミより引く(太字下線は良安の評言と一致する箇所である)。『夏に』、『主に日本の本州中部以北や中国の長江中流域などで繁殖し、冬には中国南部まで渡って越冬する。西日本では越冬する個体もいる』。体長は二十二センチメートル『ほどでツグミ』(ツグミ属ツグミ Turdus eunomus)より、『すこし小さい。日本で記録されたツグミ属の中では、最も小さい種類の一つである。 オスは全身が黒く、腹側は白地に黒の斑点が目立つクチバシとアイリング(目のまわり)は黄色。メスは全身が褐色で、胸から脇腹にかけてが』、『白地に黒の斑点があり、腹は白』。『オスメスともヨーロッパに生息するクロウタドリ』(ツグミ属クロウタドリ Turdus merula)『に少し似るが、クロウタドリは全身の羽毛が一様に黒か褐色である点等で大いに異なる。更に、クロウタドリは日本』には『通常』、『渡来しない迷鳥である』。『主に山地や丘陵地の森林に生息し、繁殖するが、平野にある森林にも生息する。繁殖期は番いで生活し、縄張りを持つ。渡りの時期には小さな群れを作り、市街地の公園で観察されることもある』。『食性は主に動物食で、林の地面をはね歩きながら、昆虫やミミズなどを捕食する』。『繁殖については、木の枝の上に、コケ類や枯れ枝、土を使って椀状の巣を作り』、五~七月に三、四『卵を産む。抱卵日数は』十二~十四日ほどで『雛は巣立つ。雛の世話はオスとメスが共同で行う』。『オスは繁殖期には大きい声で独特の囀りを行う。さえずりは複雑で、さまざまな鳥の声を自分の歌に取り入れることもよくする。日本の夏鳥で最も魅力的なさえずりを聴かせる鳥のひとつといえる。地鳴きは「キョキョキョ」など』、とある。「クロツグミ(1)さえずり」「野鳥 動画図鑑」(You Tube)をリンクしておく。

 次に、ウィキの「ハッカチョウ」を引く(太字下線は「本草綱目」との一致点)。原産地は、中国大陸南部、および、インドシナ半島。国別で言えば、中華人民共和国中部地域および南部地域、台湾、ベトナム、ラオス、ミャンマーに分布する』。『日本では外来種である。 観察された地域は、東京』・神奈川・大阪・兵庫・福島・栃木・愛知・大阪・京都・和歌山・香川・鹿児島・先島諸島で、神奈川や『兵庫などでは繁殖の記録もある』。『なお、沖縄県与那国島・鹿児島県など南日本での観察記録は、台湾などから飛来した迷鳥(すなわち自然渡来)の可能性もある』。『カナダでは、移入されたものが外来種として繁殖し、問題となっている』。全長は約二十六~二十七センチメートルで、『ムクドリ』(スズメ目ムクドリ科ムクドリ属ムクドリSturnus cineraceus)ほどの大きさがある。『全身の色は黒い。翼には大きな白い斑点があり、飛翔する際によく目立つ。下尾筒(かびとう)』『の羽縁と尾羽の先端が白い。突き出した冠羽が頭部前方を飾っているのが特徴的である(これが本文の「幘〔(さく)〕」である)』『の色は橙色、肢は暗黄色。この翼の斑点と、頭部の飾り羽によって識別は容易』。『食性は雑食で、植物の種子等のほか、タニシなど陸棲貝類、ケラなど地中棲の昆虫、甲虫類とその幼虫、イナゴ等のバッタ類である。ムクドリと同様の群れを作る例もある』。『鳴き声は、澄んだ声でさまざまな音をだす。ものまねもする習性がある』。『人によく懐き、飼い鳥とされる。人語などを真似るということでも親しまれている』。『マレーシアやシンガポールなどの都市部ではハトやすずめ以上に街中でよく見かける鳥であり、ホーカーセンター(東南アジアの屋台街)での食事中でも人をまったく怖がる様子もなく、近づいてきては食べ残しを漁っている』。『中国では、人によく懐き、人語を真似るということで親しまれている。花鳥図などの題材にもされる。また、羽毛と内臓を取り除いた八哥鳥は漢方薬として利用される』。『日本では八哥鳥を飼うとする習慣は、江戸時代に広まった。江戸初期において古九谷の陶工は八哥鳥の図柄を磁器に焼き付け、絵師・伊藤若冲は』、『その手になる』「鹿苑寺大書院障壁画」(宝暦九(一七五九)年、若冲四十四歳の時の作品)の一枚である「芭蕉叭々鳥図」に『八哥鳥を描いている』(「鹿苑寺大書院 芭蕉叭々鳥図襖絵」の一部で相国寺公式サイトのこちらのサムネイルの左の上から二番目がそれである)。『標準和名は「ハッカチョウ」、その漢字表記は「八哥鳥」』で、『異称に、「叭叭鳥(あるいは、叭々鳥)」および「哥哥鳥』『」とそれらの読み「ハハチョウ」、「鸜鵒』『および「鴝鵒』『」とそれらの読み「クヨク」、「小九官鳥』『」とその読み「ショウキュウカンチョウ」がある』(ムクドリ科キュウカンチョウ属キュウカンチョウ Gracula religiosa に姿や習性が似るが、同科ではあるが、属違いの全くの別種であるので注意されたい)。『主要原産地の一つである中国』『では、八哥の仲間(八哥属)の代表的一種としてのその名「八哥」のほかにも、「瞭哥(簡体字』『(以下同様)』『:了哥)」「鸜鵒』『(鸜)」「寒皋」「鴝鵒』『(鸲鹆)」「駕鴒(驾鸰)」「鳳頭八哥(凤头八哥)」「中國鳳頭八哥(中国凤头八哥)」、および、台湾亜種』『に固有の「加令」に、古称の「秦吉瞭(秦吉了)」といった、数多くの名で呼ばれている』。『英語名 crested myna の語義は「crest (意:鶏冠などの頭飾り。ここでは、冠羽)」の myna (すなわち、ムクドリの仲間』『(ムクドリ科Sturnidae)』で、『「冠羽を具えた椋鳥」の意である、とある。

 一つ気になるのは、上記の引用にある通り、日本ではハッカチョウを飼う習慣が江戸時代に広まったという点で、良安の意識の中には「八哥」という異名から、真正のクロツグミ以外の別種としてのクロツグミ=ハッカチョウがいたことを彼が認識していなかったというのは、やや気になるのである。「和漢三才図会」の完成は正徳二(一七一二)年頃であり、伊藤若冲の「鹿苑寺大書院障壁画」は宝暦九(一七五九)年の作品である(芭蕉の植わった庭を飛んでいるのは、襖絵だからであろう考えるにしても、襖絵に描くほどに、当時、京で賞翫されていた飼い鳥であったということであり、四十七年前の良安が全く知らないというのは、やや不自然かも知れぬと私は思うのである。

」の音は「ハツ・ハチ」であるが、「日文研」内の「近世期絵入百科事典データベース(試作版)」の「訓蒙図彙(きんもうずい)」(中村惕斎(てきさい)著寛文六(一六六六)年成立)所載のこちらの「鸜鵒(くよく)」の画像に記された『哵哵鳥(ははてう)也』のルビに基づいた。東洋文庫訳は『はつはつちょう』と振るが、従わない。上記の「ハッカチョウ」にも「ハハチョウ」とあるからである。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica

「脊〔(せ)〕」屋根。棟。

「剪剔〔(せんてき)〕」切り除くこと。「舌切り雀」じゃあるまいし。でも、かく書かれている以上(厳密には時珍ではなく、「集解」中の唐の本草学者陳蔵器の引用)、実際にやったんだろうなぁ、可哀想に。

「清越」音声が清らかでよく響き通ること。

「嫩〔(わか)〕き」「若き」。

「幘〔(さく)〕」中国で、髻(もとどり)を覆い隠し、髪を包むのに附けた巾(きれ)。頭巾。

「瞿瞿然〔(くくぜん)〕」「瞿然」は「目をぎょっとさせて驚くさま」であるが、ここは眼がクリクリとしているさまを指す。

『「火を取らしむべし」〔と〕なり』「雪が降って寒くなるから暖房のための火の準備をせよ!」とも告げているのである。

「研〔(と)ぎ〕て」磨って。

「烟霄〔(えんせう)〕の外〔そと〕」霞んでいる景色の向う側。

「五痔」一説に「切(きれ)痔」・「疣(いぼ)痔」・「鶏冠(とさか)痔(張り疣痔)」・「蓮(はす)痔(痔瘻(じろう))」・「脱痔」とするが、どうもこれは近代の話っぽい。

「散と爲す」粉末にして散薬とする。

「老嗽〔(らうさう)〕」老人性の気管支炎や肺炎による咳か。

「臘月臘日」陰暦十二月八日の異名。China Internet Information Center公式サイト古代からの風習に、『臘は合の意味で、新旧がつなぎあわされる時として、天地、神霊、祖先をいっしょにした「合祭」、古代に「臘祭」と称された行事をする。また、臘は猟の意味で、子孫たちが野獣を捕って、うやうやしく先祖に供えた、原始社会の祖先崇拝の遺風であるという説もある』『古代の臘日について、梁宗懍の』「荊楚歳時記」に『このような記事がある。「十二月八日を臘日といい、『臘鼓を鳴らせば、春草生ず』という諺あり。村人はみな細い腰鼓を打ち、武者の帽子をつけ、金剛力士に化装して疫を払う」。古人は臘日(またはその前日)に、金剛または力士などの神霊に化装し、踊りながら臘鼓を打ち鳴らせば、災いを除き邪を払えると思っていた』とある。なお、本邦でもこの日に年末の大事な追儺の儀式である「大儺(たいな)」を行った。

「伯勞〔(もず)〕」私の好きな、スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。先行する「鵙(もず)(モズ)を参照。

眉白鸜鵒」不詳。

古今百物語評判卷之五 第一 痘の神・疫病の神附※1※2乙(きんじゆおつ)」の字の事

 

百物語評判卷之五

 

  第一 痘(いも)の神・疫病(やくびやう)の神2乙(きんじゆおつ)」の字(じ)の事

[やぶちゃん注:「1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」。]

 

Housousin

 

ある人、問(とふ)て云(いふ)、「痘の神・疫病の神と申(まうす)ものこそ、まざまざある物に候哉(や)。又、たゞ病氣のうへのみなるを、かく申(まうし)ならはせるや」と問(とひ)ければ、先生、答へて云はく、「痘の神・疫病の神、ともに、あるべし。痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたるよし、醫書にみえたり。元、人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり。されば、其根ざしは胎毒(たいどく)なれども、其いざなふ物は時の氣なり。そのあつまれる處、則ち、鬼神あり。是れ、痘の神なりけらし。それにより、世俗にしたがひて送りやりたるも、輕くなる理(ことわり)、なきにあらず。又、疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふれど、其靈(たましひ)の、今の世まで、さながら[やぶちゃん注:そのまま。]生き通して、我が日の本にわたれる事も、あるまじ。おもふに、疫病のはやる時は、多くは飢饉の後(のち)なれば、其道路にうへ死(じに)せるやからの、生(しやう)あるときだに、一飯もわけらるべき方(かた)[やぶちゃん注:手立て。]なければ、まして、死後にまつらるべきしたしみもなき亡魂どもの、あつまりて、人に[やぶちゃん注:ママ。]おそふが故に、その執(しう)に乘じていふ空言(そらごと)、おほくは、衣食(えじき)の事のみなり。又、兵亂(ひやうらん)の後(のち)にも行はるゝは、其戰場にて果(はて)し魂魄の疫鬼(えやみのおに)となれるなるべし。其(その)うけたる人の強弱にしたがひて、生死(しやうじ)の品(しな)もかはるにや。かくはあれど、孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば、其惡鬼をさくるやうに、まじなひて、名香をたき、雄黃(をわう[やぶちゃん注:原典のママ。])をかぎ、又、神符(しんふ)など書附(かきつけ)たるも、よろし。近比(ちかごろ)、家々に「2乙(きんじゆつおつ)」といふ字をはりしは、「群談採餘(ぐうだんさいよ)」僧(そう)の部に出でたる故事なり。元の末つかた、天下に疫氣(えきき)はやりし時、浙江(せつこう)といふ渡しのあなたなる在所は、いまだ、其(その)類(るい)なし。ある時、老僧一人來り、其わたしの船頭をよびて云(いひ)けるは、『たゞ今、此所を、黃なる裝束したる者五人きたりて、「渡らん」といはゞ、必ず、わたすべからず。此五人はたゞ今、天下にはやる疫鬼(えきき)なり。もし(しい)て「渡らん」と云はゞ、此文字を見せよ』とて、老僧は行きがたしれずなりにけり。船頭、あやしき事に思ひけるに、あんのごとく、五人の者、來たりて、『舟に乘せよ』といふ。船頭、うけがはざりければ、五人の者、大きにいかつて、船頭を打擲(ちやうちやく)せんとする。『すはや』と思ひて、彼(かの)文字のかきたるをみせければ、五人の者、見るとひとしく、跡(あと)をも見ずして、逃げたり。船頭、『さては。疫神にまぎれなし』とおもひ、急に追(おつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])かければ、五人の者の、背(せなか)にちいさき籠(かご)をおひたるが、捨(すて)て逃(にげ)たり。船頭、今は間(あい)もへだゝれば、是非なく、其かごをとり、歸りて、ひらき見れば、ちいさき棺桶、三百づゝを入れたり。驚き、在所に歸りて、始めおはりを語りて、彼(かの)文字を家々におしける、となん。此文字なかりせば、その棺のかずほど、人を殺さむ爲(ため)なるべし、といふ事、みえたり。今の「2乙」はそれを用ひたるなり」と語られき。

[やぶちゃん注:今までもそうだが、本条の原本のルビは歴史的仮名遣の誤りが特にひどい。今まで通り、勝手に私が訂しており、それについての注はしていない。本篇は元隣の話の五人の疱瘡神の話が私は知らなかったので面白く読めた。

「痘」疱瘡(ほうそう)。天然痘。「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の「疱瘡」の注を参照されたい。序でに、ここに関連させて、「耳囊 卷之四 疱瘡神狆に恐れし事」「耳囊 卷之五 痘瘡神といふ僞説の事」「耳囊 卷之七 痘瘡の神なきとも難申事」等も読まれると面白かろう。

「痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたる」前者は正しいが、後者は誤りウィキの「天然痘によれば、『日本には元々』は『存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった』六世紀半ば(古墳時代末期)に『最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇』(びだつ 宣化天皇三(五三八)年?~敏達天皇一四(五八五)年?)『が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた』。「日本書紀」には(敏達天皇十四(五八五)年三月丙戌三十日の条。オリジナルに示す)、

   *

發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。

(瘡(かさ)發(い)でて死(みまか)る者、國に充ち盈(み)ちたり。其の瘡を患はむ者、言はく、「身、燒かれ、打たれ、摧(くだ)かるるがごとし」と。啼き泣きつつ死ぬる。老いも少きも竊(ひそ)かに相ひ謂ひて曰く、「是れ、佛像を燒く罪か」と)。

『とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)』五八五年の『敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている』とある。

「醫書にみえたり」言わずもがなかも知れぬが、筆者山岡元隣は医師であることをお忘れなく。

「人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり」誤りであるが、胎児性の先天性感染性疾患と見做している。しかし、これは漏れなく総ての人間に当て嵌まる現象ということになり、元隣はその天然痘の病原を含んだ悪血胎毒を出生後に持っていても、「時の氣」(ある条件と体調の一致)に遭遇しなければ発症しない、則ち、そうした健常者、「キャリア」もいる、と考えていることになる。

「送りやりたるも」痘の疫神を追儺(ついな)することによっても。

「輕くなる」病状が軽くて済む。

「疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふ」出典不詳。識者の御教授を乞う。なお、ウィキの「瘟鬼には(下線太字やぶちゃん)、『瘟鬼(おんき)は、中国に伝わる鬼神あるいは妖怪。疫病、疱瘡を引き起こすなどして人間を苦しめるとされる』。『瘟部神(おんぶしん)、瘟司(おんし)、瘟疫神(おんえきしん)とも言う』。『疫病や伝染病をひとびとにもたらして苦しめるという存在である。季節ごとにこれらを迎えたり送ったりして病害が大きなものにならぬよう祈りをささげる行事などが民間に広く伝承されていた』。『また、天の神々がふとどきな行いをかさねている人間たちに対して罰を下すために瘟鬼などを向かわせるという伝承も古くは存在しており、天界にはそのための瘟神・瘟鬼たちが詰めている瘟部(おんぶ)という場所があるとも伝えられていた』。『瘟鬼たちは五人組で行動をとることが多いと言い伝えられており、それを五瘟(ごおん)または五瘟使者(ごおんししゃ)などと称した。家畜に起こる伝染病に対しての祈願との関係で五瘟鬼それぞれに馬・牛・鶏・羊・兎など別々の禽獣の頭を持つ鬼神の図が描かれたりすることもある。縁起の悪い文字を忌み吉字をもって記載をする地域では「瘟」の字を忌んで「福」とし、これを五福大神、五福使者などと表記することもある(台湾などで見られる)』とある。また、ウィキの「五瘟使者によれば、『五瘟使者(ごおんししゃ)は、中国に伝わる疫病をつかさどる神、鬼神。五方瘟神(ごほうおんしん)、五瘟大王(ごおんだいおう)、五福使者(ごふくししゃ)、五福大帝(ごふくたいてい)などとも言う』。『天界に存在する瘟部(おんぶ)に属するとされ、人々に流行病などをもたらしたりするとされた。「瘟」の字が縁起の悪い文字であるということから「福」という文字を用い、台湾などでは五福と表記することもある』。『五人の神によって構成されており、それぞれ』、東(春)を張元伯(東方青瘟)が、南(夏)を劉元達(南方赤瘟)が、西(秋)を趙公明(西方白瘟)が、北(冬)を鐘仕貴(北方黒瘟)が、中央を史文業(中央黄瘟)が『支配するとされる』。『支配下に五毒将軍(ごどくしょうぐん)が存在する』。中国の『南北朝時代』(北魏が華北を統一した四三九年から始まり、隋が中国を再び統一する五八九年までの中国の南北に王朝が並立していた時期)の『天師道』(「五斗米道(ごとべいどう)」に同じ。通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(或いは鵠鳴山とも。現在の大邑県)で起こした道教教団。二代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、三代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。ここはウィキの「五斗米道に拠った)『の書で鬼神のことについて記してある』「女青鬼律」の中にも、『張元伯・劉元達・趙公明・鐘仕貴・史文業は疫病に関する鬼たちを領している鬼主(五方鬼主)であると記されている』とある。実はウィキの「瘟鬼が典拠の一つとしている、澤田瑞穂氏の「修訂 地獄変」(一九九一年平河出版社刊)は所持しているのだが、今は書庫の底に沈んで見出せない。或いは、それでここに、よりよい注を附すことが出来るかも知れない。発掘し次第、追記する。

「空言(そらごと)」病人の譫言。

「生死(しやうじ)の品(しな)」回復や悪化といった病態。

「孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば」「論語」の「郷党篇」の「十之十」に、

   *

鄕人飮酒、杖者出、斯出矣。鄕人儺、朝服而立於阼階。

(鄕人(きやうひと)と酒を飮むに、杖者(ぢやうしや)出づれば斯(ここ)に出づ。鄕人の儺(だ)には、朝服して阼階(そかい)に立つ。)

   *

意味は、「故郷の村人と酒を飲み交わした時には、六十以上の年長者が退出されたなら、同時に退席する。故郷の村人が村の厄払いの追儺の式を成す時には、礼服を着て、客を迎えるべき東の階段に立ってそれを待つ。」の意。

「雄黃(をわう)」本邦では、毒性の強い硫化鉱物である雄黄(ゆうおう:orpiment)のことを指す。硫化砒素(arsenic sulfide:三硫化二砒素:As2S3)の塊りである。色調は黄色・褐黄色で、樹脂状の光沢を有する。但し、中国では同じ硫化鉱物で、同じく有毒な鶏冠石(realgar:四硫化四砒素:As4S4)を指し、対象が微妙に異なる(以上は製薬会社他の信頼出来る記載を複数確認した)。中国には、焼酎に少量の雄黄を入れた酒「雄黄酒」があり、解毒薬や厄払いのために端午の節句に飲んだり、室内に撒いたり、指にそれを附けて子どもの額に「王」の字を書いたりする(最後の習俗については、「人民中国」公式サイト内の丘桓興氏の「祭りの歳時記」の「端午節」に拠った)。

 

2乙(きんじゆつおつ)」(「1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」)「」の二字は恐らく造字と思われるが、不詳。そうした疱瘡除けの呪符を家の門口に貼る習慣が、本書が出版された寛文一二(一六七二)年以前にあったということは確認出来なかった。ただ、平成二〇(二〇〇八)年三弥井書店刊の三弥井民俗選書の大島建彦著「疫神と福神」の目次(リンク先は同書店公式サイト内の同書の広告)内に『「キシ乙」という呪符』とあり、ここを読めば、有効な注が附せそうであるが、私は所持しない。但し、太刀川論文『百物語評判』の意義長野県短期大学紀要一九七八十二発行)所収)PDF)に、この箇所について、本書の最後に附される「跋」の中で、本作の一部の実例が語り手の山岡元隣の死後のことであり、これは本作を整理・補筆をして貞享三(一六八六)年に板行した元隣の息子山岡元恕が、内容自体をも加筆しているのではないか、という読者の一人の疑問を提示しているのであるが、『これは例えば、「近頃家々に2乙といふ字を張りし」以下は『群談採余』の故事をひくところであるが、この2乙の守り札が天和貞享のころ』(元隣は寛文一二(一六七二)年没で、天和(てんな:一六八一年~一六八四年。寛文・延宝の次)『のことである確証が俟たれる』とあるから、この事実はメジャーに知られたものではないようだ。

「はりし」「貼りし」。門口に疱瘡除けの呪符を貼ったのである。

「群談採餘」明の倪綰(げいわん)撰。全十巻。一五九二年刊。よく判らぬが、邦人記事の抄録訳などを見ると、志怪が多く含まれているようである。原本には当たれなかった。原典を見たい気がする。

「さくる」「避くる」。

「元の末つかた」元(大元)が事実上、滅ぶのは一三六八年(本邦は南北朝期の正平二二/貞治六年)。

「浙江」これは本来は現在の浙江省を流れる銭塘江(せんとうこう)の旧称で、現行では杭州市市街の南を通り、東で東シナ海にそそぐ部分を銭塘江と呼ぶ(杭州市街を経た南上流で富春江となる)ので、舞台は杭州市街の南端辺りかも知れない。附近(グーグル・マップ・データ)。

「老僧」この人物の正体が知りたくなる。

「すはや」感動詞。「あっ!」。]

2018/10/27

古今百物語評判卷之四 第十一 黃石公が事 / 古今百物語評判卷之四~了

 

  第十一 黃石公が事

ある人のいはく、「なべて、人の存(ぞんじ)候、張良に一卷の書を授(さずけ)し老翁は、其(その)おきなの言葉に、『われ、黃石の精(せい)なり』と申されきと。さ候へば、石も劫(こう)を經ては、ばけ候やらん、いぶかしさよ」と云(いひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れは、石のばけたるにあらず。彼(かの)黃石公と申せし人は、其比(そのころ)、軍法(ぐうはう)の名人にて張良の師匠なる人なれば、則ち、智謀を用ゐたるなり。其故は、『我、世をのがれし者なるが、此書をたしなみをきたり[やぶちゃん注:ママ。]。汝に授けむ』など云はゞ、人の淺(あさ)まに[やぶちゃん注:「浅はかなに・軽薄に・いいかげんに」。]おもはむ事を思ひ、かくあやしくいひて、世の信仰をおこさしめむが爲なり。張長も其心をさとりて、後(のち)に黃石をまつりしなり。かやうの事、軍法におゐて、まゝある事なり」と語られき。

[やぶちゃん注:「張良」(?~紀元前一六八年)は漢の高祖の功臣。家柄は、代々、韓の宰相であった。韓が秦に滅ぼされると、その仇を報じようとして、巡幸中の始皇帝を博浪沙(河南省陽武県の南)で襲撃するも失敗し、秦の追捕を逃れて、下邳(かひ)(江蘇省邳県の南)に隠れた。この時、ここに出る不思議な黄石老人から、周の軍師として知られた太公望呂尚(りょしょう)の兵法書を授かったとされる。陳勝・呉広の挙兵に呼応して蜂起し、劉邦(後の高祖)に従って、その軍師となった。秦軍を破って関中に入り、秦都咸陽を陥落させ、かの「鴻門の会」では劉邦を危地から救い、さらに項羽を追撃し、自害へと追いやるまで、彼は常に劉邦の帷幕にあって奇謀をめぐらし、漢を勝利に導いた名臣であった。懐かしいね、漢文の授業が。ウィキの「張良の「下邳時代の逸話」も引いておこう。『ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある』。五『日後の朝にここに来い」と言った』。五『日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また』五『日後に来い」と言い残して去った』。五『日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「』五『日後に来い」と言い残して去って行った。次の』五『日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる』。十三『年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという』。『後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に墓に入れられたという』。『この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは考えられる』。『また、この下邳での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んできたので、これを匿まっている』。]

古今百物語評判卷之四 第十 雨師・風伯の事附殷の湯王・唐の太宗の事

 

  第十 雨師(うし)・風伯(ふうはく)の事殷の湯王・唐の太宗の事

一人の云(いはく)、「いろいろの事を思ひめぐらし候中に、雨・風ほど、不思議なる事、侍らず。雨の宮・風の宮など、神道にもあがめ候へば、神有(あり)て其事を司り給ふにや。又、唐土(もろこし)には雨師・風伯など申(まうす)よしを承り候。雨乞などいたして、其しるしの御座候も心得がたく存じ候ふまゝ、くはしく物語を承りたく侍る」と問(とひ)ければ、先生、答へて云ふ、「地の陰氣は、のぼりて、雲となり、陽氣は、くだりて、雨となれば、元より、陰陽のなす所にして、外につかさどる鬼神も有べきにあらず。されど、雲、行(ゆき)、雨、ほどこして、萬物のめぐみをうくるよりいへば、報恩の爲とて、唐土にも山川(さんせん)社稜(しやしよく)の祭(まつり)、國々に侍る。かくあるうへは、我が朝にも雨風の宮ある事、勿論の義なり。元より、風は天地の埃氣(あいき)と云(いひ)て、陰陽の氣の、動き發するところにて、形(かたち)有(ある)物に、あらず。東風(こち)の、氷をとき、水をぬるめ、花を開き、物をかはかすは、陽氣の所爲(しわざ)なれども、北風の、霜を結び、水を氷らし、葉をおとし、物をしめらすは、陰氣のなす處なり。かくてぞ、四季により、風の吹(ふき)やうも、ことなるべし。此雨風の神を、おそろしき形に刻み、袋など持たせたるは、神鳴の繪に太鼓を書(かけ)るごとく、それぞれの似合敷(しき)かたに、かたどれるなるべし。さて又、日でりに雨を乞(こひ)て其しるしある事は、さまざまの理(ことわり)侍る中(なか)に、一天下の旱(ひでり)ならば、天子の祈りに叶ひ、一國の旱には國主の求(もとめ)に應じ、一鄕(ひとさと)の日(ひ)でりには、其里の長(をさ)の願ひにかなふべし。其(その)銘々の司れる外(ほか)へは及ぶべからず。是れ、當然の理(ことわり)なり。猶も、自らなす事、覺束なき時は、身のけがれず、心のいさぎよき僧・覡(かんなぎ)を請じて、祈らしめたる例(ためし)多し。されども、自(みづか)ら祈れるにこそ、深き感應は侍らん。むかし、殷の湯王と申す聖人の御代に大旱(おほひでり)ありしに、湯王、自(みづか)ら庭に出で給ひ、其身を牲(いけにへ)として、身のあやまちを責(せめ)給ひしかば、こと葉(ば)の下に、忽ち、大雨ふりし、と云(いふ)事、「帝王世紀」に見えたり。又、唐の太宗といふ賢王の御代に、蝗(いなむし)といふ物、天下にみちみちて、民の害をなしければ、太宗のたまはく、『是れ、朕が政(まつりごと)のあしきにより、天より、わざはひをくだし給ひ、天下の蒼-生(たみ)をくるしむる事、其(それ)、いはれなし。もし、天、朕をあはれみ給はゞ、此蟲、東海へ去るべし。さなくば、朕を、害せよ』とて、其蝗をとりて吞(のみ)給ひしかば、その蟲、東海へ飛去(とびさ)りて、太宗にたゝりもなく、打繼(うちつづ)き豐年にして、斗米三錢(とべいさんせん)の(と)ざゝぬ御代になりける事、「貞觀政要(ぢやうぐわんせいえう)」に見えたり。是、その君(きみ)の、眞實に民をあはれみ給ふ心の感應なり。又、其外、一國一城の主(ぬし)の、德義ふかき故に、旱に雨を得、洪水に害なく、虎の、鄕を去り、いなむしの死(しに)し類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。これ、世界のうちに、人より貴(たつと[やぶちゃん注:ママ。])きはなく、人の内にて、心より上なるは、なければ、其心に感ずるところ、さまざまのしるしありて、天人一理(てんじにちり)の妙(めう)なる事、儒學の極意なり」とかたられき。

[やぶちゃん注:「雨師(うし)風伯(ふうはく)」中国神話に於ける雨の神である雨師萍翳(へいえい)と風の神風伯飛廉(ひれん)。軒轅(けんえん:後の黄帝)と蚩尤(しゆう)が涿鹿(たくろく)で戦った際、雨師と風伯は蚩尤側につき、軒轅を甚だ困らせたとされる。個人ブログ「プロメテウス黄帝を苦しめた中国神話最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師に詳しいが、それによれば、『この窮地を救ったのが』、『黄帝側についたキョンシーの祖先とも言われる旱魃という日照りの女神で』あった。『しかし、雨を止めるのは一筋縄ではいかなかったようで、雨師の降らせている雨を止めたはいいが加減ができなかったのか』、『戦後』、『長期にわたって涿鹿一体に雨が降らなくなり』、『乾燥した大地となってしま』ったとある。

「殷の湯王」殷王朝初代の王。紀元前十八世紀頃の人。「史記」によれば、始祖契 (せつ) から第十四世に当たるとし、甲骨文では「唐」又は「大乙」などと呼ばれる。文献では「天乙」或いは「成湯」とする。周囲の諸侯を協力させ、遂に夏を倒して殷を開いたとされる。古文献は、多く、明哲なる聖王として、その徳を讃えている。

「唐の太宗」(五九八年~六四九年/在位:六二六年~六四九年)は唐の第二代皇帝。諱は李世民。初代皇帝李淵(高祖)の第二子。隋末動乱の最中、太原方面の防衛を命ぜられた父に従って同地に赴き、李淵の側近や部下らとともに、父を促して挙兵に踏み切らせた、立国の功績は絶大。ウィキの「太宗(唐)によれば、六二六年のクーデター「玄武門の変」で、『皇太子李建成を打倒して皇帝に即位、群雄勢力を平定して天下を統一した』。『優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた』。『騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど』、『文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる』。

「雨の宮・風の宮」現行、雨宮神社・雨之宮神社は各地にあり、風宮(かぜのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮として知られ、春日大社や、やはり各地に風宮神社風宮神社がある。

「覡(かんなぎ)」既出既注。古くは「かむなき」。「神(かむ)和(なぎ)」の意とされる。ここは「神降ろし」をする呪術者(シャーマン)の男性を指す(「巫覡(ふげき)」と言った場合、「巫」が「巫女」で女の、「覡」が男のシャーマンを指す)。

「帝王世紀」晋の学者皇甫謐(こう ほいつ 二一五年~二八二年)が編纂した歴史書。三皇から漢・魏に至る帝王の事跡を記録したもので、原本は十巻あったとされるが、散逸し残っておらず、引用によって片鱗を偲ぶのみである。元隣が元にした引用が何であったは調べ得なかった。判り次第、追記する。

「唐の太宗といふ賢王の御代に、蝗(いなむし)といふ物、天下にみちみちて……」ウィキ中国蝗災史に、『中国では昔から、蝗災(蝗害)、水災(水害)、旱災(旱魃)が3大災害の扱いを受けている』。『そもそも』「蝗」『の字は』、『農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので』、『虫へんに皇と書くとする説がある』『ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた』「貞観政要」(唐の呉兢(ごきょう)の撰になる、唐の太宗と家臣たちとの政治上の議論を集大成して分類した書。全十巻。七二〇年以降に成立。治道の規範書として歴代皇帝の必読書とされ、日本でも広く読まれた)巻第八の「務農第三十」にある、『唐の太宗が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている』とある。

「斗米三錢(とべいさんせん)の(と)ざゝぬ御代」太宗の御代には、一斗(当時の一斗は五・九リットル)の米が僅か銀三銭という安さで、貧困のために民が去って家が閉ざされることなく、家はいつも開かれて栄えていたという、彼の仁政を讃える謂いであろう。

貴(たつと)き」私は「貴し」を「たふとし(とうとし)」と読み、「尊し」を「たつとし」と読むと、小さな頃から刷り込まれきた人間である。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鷑鳩(ぎうく) (謎の鳥「くろもず」(?))

 

Ryuukyuu

 

ぎうく     鵧鷑 駕犁

        載勝 烏臼

【音及九】

        鐡鸚鵡

        搾油郎

キッキウ

[やぶちゃん注:「鵧鷑」の「」は原典では「並」の左右の六・七画目が鈎(かぎ)状に四・五画に接した字であるが、これが表記出来ないこと、及び、東洋文庫訳やネット上の辞書類でこの鳥を示すのに「鵧鷑」が用いられていることから、これに代えた。]

 

本綱鳩狀小于烏能逐鳥其大如燕而黑色長尾有岐

頭上戴勝所巢之處其類不得再巢必相闘不已三月五

更輙鳴農人以爲候其聲曰架架格格至曙乃止故呼爲

搾油郞又能啄鷹鶻鳥鵲乃隼屬也

按此未知何鳥蓋搾油郞者油造家之搾郎也毎自五

更打槌其所業和漢不異

 

 

ぎうく     鵧鷑〔(へいりふ)〕

        駕犁〔(がり)〕

        載勝〔(たいしよう)〕

        烏臼〔(うきゆう)〕

【音及九】

        鐡鸚鵡〔(てつあうむ)〕

        搾油郎〔(さくゆらう)〕

キッキウ

 

「本綱」、鳩、狀、烏〔(からす)〕より小にして、能く鳥を逐ふ。其の大いさ、燕のごとくして、黑色。長き尾〔に〕、岐、有り。頭の上に「勝〔(しよう)〕」を戴す。巢〔(す)せ〕しむ處、其の類、再び、巢を得ず。必じ、相ひ闘ひて、已まず。三月〔の〕五更、輙〔(すなは)〕ち、鳴く。農人、以つて候と爲す。其の聲、「架架格格(キヤキヤ〔カクカク〕)」と曰ふ〔がごとし〕。曙に至りて、乃〔(すなは)〕ち、止む。故に呼んで、「搾油郞」と爲す。又、能く鷹・鶻鳥〔(はやぶさ)〕・鵲〔(かささぎ)〕を啄〔(ついば)〕む。乃ち、隼〔(はやぶさ)〕の屬なり。

按ずるに、此れ、未だ何鳥といふことを知らず。蓋し、「搾油郞」とは油造家(あぶらや)の搾-郎(しぼり〔て〕)なり。毎〔(つね)に〕、五更より槌〔(つち)〕を打つ。其の所-業(しわざ)〔は〕、和漢、異ならず。

[やぶちゃん注:読みの「ぎうく(現代仮名遣いは「ぎゅうく」か。東洋文庫訳はそうなっているのだ)」は頗る不審。この熟語を音読みするなら、「リウキユウ(リュウキュウ)」であるし、中国語音「lì jiū」(リィー・ヂ(ォ)ウ)を写したものか? いやいや、そんあことはどうでもいいのだ。ともかくも、遂に、良安が丸投げする、全く種不明の鳥が出現したのだ。諸異名でも中文サイトを調べてみたが、現在の種に同定比定した記事にぶつからない。

 しかし、捜しているうちに、清代の類書(百科事典)で、中国史上最大の巻数一万巻から成る、康熙帝が陳夢雷らに命じて作らせた「欽定古今図書集成」(一七二五年完成)の「博物彙編」の「禽蟲典」第四十九巻に載る、本種を描いた「鵧鷑圖」のパブリック・ドメインの画像をWikimedia Commonsのこちらで発見した。特殊な画像ファイルであったため、複数回のファイル変換とサイズ変更を行ったが、なかなかにいい絵なので、特にここに掲げることとする。

 

Gyuuku

 

 清代にかくもちゃんと描けるからには、今も実在する鳥と考えてよかろう(こんだけ他種にも強い鳥だとしたら、そう短時間に絶滅したとは思われないし、この鳥が人間にとって薬用・食用・装飾用等の何らかの強い需要を持っていて個体数が激減したり、絶滅してしまったとするなら、寧ろ、ネット上にその記載が複数登場しておかしくない。ということは、今もいるんだ。

 しかし、灯台下暗しで、試しに所持する大修館書店「大漢和辭典」の「」を引いたところが、そこには『鳩(きゅうきゅう)はくろもず』とあったのである。

 しかし、これ、「クロモズ」という種は、いないのである。

 それでも、ネット画像で調べてゆくと、モズ科 Urolestes 属シロクロオナガモズ Urolestes melanoleucus という種は、全身が黒く、尾が長くて二岐となっている点ではピッタシカンカンだ! と小躍りしたところが、残念なことに、この種はアフリカのサバンナ地帯にしか分布せず、中国にはいないのだ(英文ウィキの当該種の「Magpie shrikeと、その画像を見られたい)。

 「隼〔(はやぶさ)〕の屬」(ハヤブサ目 Falconiformes ハヤブサ科 Falconidae ハヤブサ亜科 Falconinae ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus)なんて言っているから(確かに強いもんな)、私の見当違いの、全然違う科の鳥なのかしらん?

 なんだか、今、鳩のとまっている樹の下まで来た感じがするんですけど!

 中国に棲息する、黒いモズの仲間で、この記載に合う種を御存じの方は、御教授願いたい。【18:15/追記】本日公開後、いつもお世話になっているT氏より、これではないかという指摘を戴いた。中文サイト「自然系圖鑑」の「台灣鳥類全圖鑑」の「大卷尾」で、そこには、『卷尾科 Dicruridae』『卷尾屬』で、学名は『Dicrurus macrocercus』とし、『鳴声は、『平時叫聲為粗啞的「呷啾、呷啾」,繁殖期鳴唱稍具旋律,夾雜若干破嗓的「呷啾」聲』とあり、別名を『黑卷尾、烏秋、卷尾、烏鶖(台語)』とし、古名に『鳩、鵧鷑』と出、『宋詞』に『批鵊鳥、批頰、祝鳩、烏臼鳥、鴉舅』とあるとある。また、体長は三十センチメートル、食性は節足動物(昆虫類らしい)とし、棲息地は樹林園・農園・開闊地(障害物も起伏もほとんどない野原)とあり、台湾では『留鳥』とする。単独で小さな群れを作り、飛翔能力や滞空能力は高く、素早く、飛行する空域は非常に低く、飛行中に停止して小さな角度で方向を変更することができると言ったようなことが書いてある(原文は『飛行:飛行能力強,速度快,飛行路徑呈很淺的坡浪狀,馭空能力很好,飛行中能急停及以小角度變換方向。』)リンク先の分布地図を見ると、南アジア及び東アジアで中国の南東部をカバーしていることが判る。幸い、邦文のウィキ「オウチュウ(烏秋)[やぶちゃん注:「チュウ」はママ。現代中国語烏」は「ウー)、qiū」(チ(ォ)ウである。]」に当該種の記載があり(これもT氏より御教授を受けた)、スズメ目オウチュウ科オウチュウ属オウチュウ Dicrurus macrocercus で、全長約二十八センチメートルで、『成鳥は全身が青みがかった黒色で、羽には光沢がある。尾は長く、先端が逆Y字に割れており、野外で本種を識別する際の特徴となっている。嘴と足も黒い』。『中国東部から台湾、東南アジア、インドに分布する。中国に生息する個体は、冬期には南方へ渡る』。『日本では数少ない旅鳥として、主に春に記録される。日本海の島部や南西諸島では比較的よく観察される』。『開けた森や田畑、市街地に生息する。浅く波を描くように』、『ふわふわと飛びながら、昆虫類を捕食する。「ジーッ」、「ジェー」など、やや濁った声で鳴く』とある。同ウィキには六つの亜種が挙げられており、その中で、

Dicrurus macrocercus cathoecus(中部・東部・南部中国からミャンマー東部・タイ北部・インドネシア北部)

Dicrurus macrocercus harterti(台湾)

の二種が、中国に分布していることが判った。古名と、その特徴的な二岐の尾、体色の黒さから、まず、「本草綱目」記載の「鳩」はこれと見て、間違いないように思われる。何時もながら、T氏に謝意を表するものである。同ウィキの画像は使用許諾画像であるので、貼付する。

 

Black_drongo_dicrurus_macrocercus_i

 

「勝〔(しよう)〕」婦人の髪飾り。華勝。

「巢〔(す)せ〕しむ處、其の類、再び、巢を得ず」ある鳩の個体が営巣したところには、同じ鳩の類は、営巣することは出来ない。

「五更」現在の広汎な夜明けの時間帯である、午前三時頃から五時頃。

「候」ここは田畑に入って本格的に行う農事の開始期を指している。

「「架架格格(キヤキヤ〔カクカク〕)」ピンインで「jià jià gē gē」(ヂィア・ヂィア・グゥー(ァ)・グゥー(ァ)」。これは意味よりも、同時間に鳴く鶏鳴と同じようなものなのかもしれない。

「搾油郞」「油造家(あぶらや)の搾-郎(しぼり〔て〕)」所謂、油を菜種などを叩き潰して採取する職人のこと。KAWASHIMA-YA公式サイト平出油屋さんの菜種油伝統が息づく日本の手仕事に製造過程が詳しく示されてある(動画も有り)。その圧搾過程を全くの人為でするとすれば、夜鍋仕事であることは想像に難くない。

「鷹」現行では、タカ目タカ科 Accipitridae に属する鳥の内でも比較的小さめのものを指す通称である。

「鶻鳥」先に示したハヤブサの異名。

「鵲」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica

「五更より槌〔(つち)〕を打つ。其の所-業(しわざ)〔は〕、和漢、異ならず」珍しくどうでもいいこと言ってお茶濁し。良安先生、流石に全然判らんというのが、気が引けたのかも知れんなぁ。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず) (モズ)

Mozu

もず    伯勞 伯鷯

      伯趙 博勞

      鴂【音决】

【音臭】

     【和名毛受】

チウ 【兼名苑又用鷭字

    日本紀用百舌鳥未詳】 

 

本綱鵙大如鳩黑色其飛也鬷斂足竦翅也以四月鳴其

鳴曰苦苦俗以爲婦被其姑苦死所化故又名姑惡人多

惡之或云尹吉甫信后妻之讒殺子伯奇后化爲此鳥故

其所鳴之家以爲凶【此二説共傳會之言】禮記五月鵙始鳴詩豳風

七月鳴鵙之義不合以四月爲準

小兒病取鵙毛帶之卽愈小兒語遲者鵙所踏樹枝鞭

之卽速語【病一名繼病母有娠乃兒病如瘧痢他日相

繼腹大或瘥或發他人有娠相近亦煩】

 万葉春されは鵙の草莖見えすとも我はみやらん君かあたりを

按鵙形似鳩而小頭背至尾黃褐色及眼觜顔容似小

 鷂眼邊黑眼上白條引頰觜黑而末曲頰臆白腹黃赤

 有黑橫彪翮白羽黑脛掌黑爪利而毎摯小鳥食之人

 畜之代鷹作遊獵耳其聲高喧如言奇異夏月鳴冬止

 其肉味似雀其氣臊常人不食之鵙皮硬而毛難脱三

 才圖會云鵙飛不能翺翔竦翅上下而已食肉不食穀

 鵙善制蛇【鳴卽蛇結】或曰金得鵙之血則昏【淮南子云伯勞血塗金人不敢

 取蓋於今世難甚信用】

もず    伯勞 伯鷯〔(はくれう)〕

      伯趙 博勞

      鴂【音、「决〔(ケツ)〕」。】

【音、「臭」。】

     【和名、「毛受」。】

チウ 【「兼名苑」に、又、「鷭」の字を用ひ、

     「日本紀」に「百舌鳥」を用ふ。未だ

    詳らかならず。】 

 

「本綱」、鵙、大いさ、鳩のごとく、黑色。其の飛ぶや、足を鬷-斂〔(あはせちぢ)めて〕、翅を竦(そばだ)つ。四月を以つて鳴き、其の鳴くこと、「苦苦(クウクウ)」と曰ふ。俗、以爲〔(おもへら)〕く、婦、其の姑〔(しうとめ)〕の苦を被〔(かふむ)りて〕死して化する所〔と〕。故に又、「姑惡」と名づく。人、多く、之れを惡〔(にく)〕む。或いは云はく、『尹吉甫〔(いんきつぽ)〕、后妻〔(ごさい)〕の讒〔(ざん)〕を信じ、子の伯奇を殺し、后〔(のち)〕、化して此の鳥と爲る〔と〕。故に、其れ、鳴く所の家、以つて凶と爲す』〔と〕【此の二説、共に傳會〔(いひつたへ)〕の言なり。】「禮記」、『五月に、鵙、始めて鳴く』〔と〕。「詩」の「豳風〔(ひんぷう)〕」に『七月鳴鵙〔七月 鵙 鳴き〕』の義〔あれども〕、合はず。四月を以つてと爲す。

小兒〔の〕「病(をとみしけ)」〔は〕、鵙の毛を取り、之れを帶〔ぶれば〕卽ち愈ゆ。小兒〔の〕語〔の〕遲〔き〕者〔は〕、鵙〔の〕踏〔める〕所の樹枝にて、之れを鞭〔(むちう)たば〕、卽ち速く語る【「病」、一名、「繼病〔(つぎのやまひ)〕」、母、娠〔(はらみ)〕有れば、乃〔(すなは)ち〕、兒、病〔みて〕、「瘧痢〔(ぎやくり)〕」のごとし。他日、相ひ繼ぎて、腹、大〔きく〕、或いは瘥〔(い)へ〕、或いは發〔(はつ)〕す。他人〔の〕娠〔(はらみ)〕有るにも、相ひ近〔づく〕も亦、煩ふ。】。

 「万葉」

   春されば鵙の草莖見えずとも

      我はみやらん君があたりを

按ずるに、鵙、形、鳩に似て小さく、頭・背〔より〕尾に至〔るまで〕黃褐色、及び、眼・觜・顔の容〔(かたち)〕、小さき鷂〔(はいたか)〕に似る。眼の邊り、黑く、眼上の白條〔は〕頰〔まで〕引く。觜、黑くして、末〔は〕曲る。頰・臆〔(むね)〕、白。腹、黃赤〔にして〕黑〔き〕橫〔の〕彪〔(とらふ)〕有り。翮〔(はねくき)〕は白く、羽は黑し。脛・掌、黑。爪、利にして毎〔(つね)〕に小鳥を摯〔(と)〕り、之れを食ふ。人、之れを畜〔(か)〕ひ、鷹の代〔はりとして〕遊獵を作〔(な)〕すのみ。其の聲、高く喧〔(かまびす)〕し。「奇異〔(キイ)〕」と言ふがごとし。夏月、鳴きて、冬、止む。其の肉味、雀に似〔るも〕、其の氣〔かざ〕、臊〔(なまぐさ)く〕、常の人〔は〕之れを食はず。鵙の皮〔は〕硬くして、毛、脱け難〔(にく)〕し。「三才圖會」に云はく、『鵙、飛〔ぶも〕翺翔〔(かうしやう)たる〕能はず、翅を竦〔(そばだ)てて〕上下するのみ。肉を食ふ』〔と〕。穀を食はず。鵙、善く蛇を制す【鳴かば、卽ち、蛇、結〔(けつ)〕す。】。或いは曰はく、『金〔(きん)〕、鵙の血を得ば、則ち昏〔(くら)〕し【「淮南子〔(えなんじ)〕」に云はく、『伯勞の血、金に塗らば、人、敢へて取らず』〔と〕。蓋し、今の世、甚だ、信用し難し。】。

[やぶちゃん注:私の好きな、スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。本邦ではほかに、アカモズ Lanius cristatus superciliosus(環境省レッドリストで絶滅危惧種(EN)指定)・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・オオモズ Lanius excubitor・チゴモズ Lanius tigrinus(同前絶滅寸前種(CR)指定)が見られる。以下、ウィキの「モズ」から引く。『日本、中国東部から南部、朝鮮半島、ロシア南東部(樺太南部含む)に分布している』。『模式標本』亜種モズ(Lanius bucephalus bucephalus『の産地(模式産地)は日本。日本の北海道、本州、四国、九州に分布している』。『中国東部や朝鮮半島、ウスリー南部、樺太で繁殖し、冬季になると』、『中国南部へ南下し』、『越冬する』。『日本では基亜種が周年生息(留鳥)するが、北部に分布する個体群や山地に生息する個体群は秋季になると南下したり』、『標高の低い場所へ移動し越冬する』。『南西諸島では渡りの途中に飛来(旅鳥)するか、冬季に越冬のため』、『飛来(冬鳥)する』。全長十九~二十センチメートル。『眼上部に入る眉状の筋模様(眉斑)、喉や頬は淡褐色』。『尾羽の色彩は黒褐色』。『翼の色彩も黒褐色で、雨覆や次列風切、三列風切の外縁(羽縁)は淡褐色』。『夏季は摩耗により頭頂から後頸が灰色の羽毛で被われる(夏羽)』。『オスは頭頂から後頸がオレンジ色の羽毛で被われる』。『体上面の羽衣が青灰色、体側面の羽衣はオレンジ色、体下面の羽衣は淡褐色』。『また』、『初列風切羽基部に白い斑紋が入る』。『嘴の基部から眼を通り後頭部へ続く筋状の斑紋(過眼線)は黒い』。『メスは頭頂から後頸が褐色の羽毛で被われる』。『体上面の羽衣は褐色、体下面の羽衣は淡褐色の羽毛で被われ』、『下面には褐色や黒褐色の横縞が入る』。『過眼線』(嘴の基部から眼の前後を通る線状模様)『は褐色や黒褐色』。『開けた森林や林縁、河畔林、農耕地などに生息』し、『食性は動物食で、昆虫』や甲殻類等の節足動物、『両生類、小型爬虫類、小型の鳥類、小型哺乳類などを食べる』。『樹上などの高所から』、『地表の獲物を探して襲いかかり、再び樹上に戻り』、『捕えた獲物を食べる』。『様々な鳥(百の鳥)の鳴き声を真似た、複雑な囀りを行うことが』、『和名の由来(も=百)』。二~八月に、『樹上や茂みの中などに』、『木の枝などを組み合わせた皿状の巣を雌雄で作り』、四~六『個の卵を産む』。『年に』二『回繁殖することもある。カッコウに托卵されることもある』。『メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十四~十六『日。雛は孵化してから約』十四『日で巣立つ』。特異な習性である「はやにえ」の項。『速贄と書く。モズは捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む行為を行う。秋に初めての獲物を生け贄として奉げたという言い伝えから「モズのはやにえ(早贄)」といわれた』。『稀に串刺しにされたばかりで生きて動いているものも見つかる。はやにえは本種のみならず、モズ類』(Laniidae)『がおこなう行動である』。『秋に最も頻繁に行われるが、何のために行われるかは、よく分かっていない。ワシやタカとは違いモズの足の力は弱く、獲物を掴んで食べる事ができない。そのため小枝や棘をフォークのように獲物を固定する手段として使用しているためではないかといわれている』。『また、空腹、満腹に関係なくモズは獲物を見つけると本能的に捕える習性があり、獲物を捕らえればとりあえずは突き刺し、空腹ならばそのまま食べ、満腹ならば残すという説もある』。『はやにえにしたものを後でやってきて食べることがあるため、冬の食料確保が目的とも考えられるが、そのまま放置することが多く、はやにえが後になって食べられることは割合少ない。また、はやにえが他の鳥に食べられてしまうこともある。近年の説では、モズの体が小さいために、一度獲物を固定した上で引きちぎって食べているのだが、その最中に敵が近づいてきた等で獲物をそのままにしてしまったのがはやにえである、というものもあるが、餌付けされたモズがわざわざ餌をはやにえにしに行くことが確認されているため、本能に基づいた行動であるという見解が一般的である』。『はやにえの位置は冬季の積雪量を占うことができるという風説もある。冬の食糧確保という点から、本能的に積雪量を感知しはやにえを雪に隠れない位置に造る、よって位置が低ければその冬は積雪量が少ない、とされるが、はやにえ自体の理由は不明である』。『秋から』十一『月頃にかけて「高鳴き」と呼ばれる』、『激しい鳴き声を出して』、『縄張り争いをする。縄張りを確保した個体は縄張りで単独で越冬する。

 なお、「早贄(はやにえ)」については、私自身、何度も串刺しの百足・蛙・蜥蜴・山椒魚・井守等を何度も現認(富山県高岡市伏木矢田新町奥の二上山麓内)した経験から、非常に興味を持っている。私の電子化では、「生物學講話 丘淺次郎 三 餌を作るもの~(1)」がよく、具体例では、まさに富山のケースである「譚海 卷之一 越中國もず巣をかくるをもて雪を占(うらなふ)事」、青森のケースの「谷の響 一の卷 十三 自串」も「はやにえ」に関連した面白い記事と思うので紹介しておく。

「鵙【音、「臭」。】」不審。この音表示は日本語のそれを示すのであるから、これではおかしい。「鵙」の音は呉音で「キヤク(キャク)」、漢音で「クヱキ(ケキ)」、慣用音でも「ゲキ」であるのに対し、「臭」は呉音で「ク・シユ(シュ)」、漢音で「キウ(キュウ)・シウ(シュウ)」で一致を見ないからである。現代中国語でも、「鵙」は二声でピンイン「」・ウェード式「chü」であるのに対し、「臭」は四声でピンイン「chòu」・ウェード式「ch'ou」であって、カタカナ音写をしてみても、前者は「ヂィー」、後者は「チォゥ」で、やはり異なるからである。因みに、旧来の中国の韻字から見ても、共通性はない。

「兼名苑」唐の釈遠年撰とされる字書体の語彙集であるが。現在は亡失して伝わらない。「本草和名」・「和名類聚鈔」・「類聚名義抄」に多く引用されてある。

「鷭」これは現行、本邦では、ツル目クイナ科 Gallinula 属バン Gallinula chloropus に当てられてしまっている。

「日本紀、「百舌鳥」を用ふ」「日本書紀」では、「仁德天皇四三年九月庚子朔」(三五五年)・「仁德天皇六七年十月丁酉」・「仁德天皇八七年十月己丑」・「履中天皇六年十月壬子」(四〇五年)・「大化二年三月辛巳」(六四六年)・「白雉五年十月壬子」(六五四年)に、地名・人名を含めて計七箇所、「百舌鳥」で出現する。

「鬷-斂〔(あはせちぢ)めて〕」音は「ソウレン」で、「鬷」は「集まる・蝟集する」、「斂」は同じく「集める」であるが「縮めて纏めるの意もある。訓は東洋文庫のこの部分の訳を参考に添えた。

「苦苦(クウクウ)」これは「苦」中国語の音。ピンイン「」(カタカナ音写「クゥー」)である。

「以爲〔(おもへら)〕く」思っていることには。言い伝えらて、そう考えられていることには。

「姑〔(しうとめ)〕の苦」義母の虐(いじ)め。

『故に又、「姑惡」と名づく。人、多く、之れを惡〔(にく)〕む』夫の母を怨んでの変化(へんげ)であり、孝の道義に反するからであろう。

「尹吉甫」周の宣王(紀元前八二八年~紀元前七八二年)の臣下で、中国北方及び西北方にいた異民族である玁狁(けんいん)を征伐したことで知られ、「詩経」の「大雅」中の幾つかの詩の作者としても知られる。ウィキの「尹吉甫」によれば、『尹吉甫の子の伯奇(はくき)が、継母の嘘によって家を追いだされた説話は多くの書物に引かれており、書物によってさまざまに話が変形している』。「風俗通義」の「正失篇」に『よれば、曽子が妻を失ったとき、「尹吉甫のように賢い人に伯奇のような孝行な子があっても(後妻のために)家を追放されることがある」と言って、再婚しなかったという』。また、劉向(りゅうきょう)の「説苑(ぜいえん)」の佚文(「漢書」の「馮奉世(ふうほうせい)伝」の「顔師古注」及び「後漢書」の「黄瓊(こうけい)伝」の「章懐太子注」に引かれている)に『よると、伯奇は前妻との子で、後妻との子に伯封がいた。後妻は伯封に後をつがせようとして、わざと衣の中に蜂を入れ、伯奇がそれを取ろうとする様子を見せて、伯奇が自分に欲情していると夫に思わせた。夫はそれを信じ』、『伯奇を追放したという』。但し、「説苑」では、『伯奇を尹吉甫の子ではなく』、『王子としている』。「水経注」の引く揚雄「琴清英」に『よると、尹吉甫の子の伯奇は継母の讒言によって追放された後、長江に身を投げた。伯奇は夢の中で水中の仙人に良薬をもらい、この薬で親を養いたいと思って』、『歎きの歌を歌った。船人は』、『その歌をまねた。吉甫は舟人の歌が伯奇のものに似ていると思って』、『琴で「子安之操」という曲を弾いた』とし、蔡邕(さいよう)は「琴操」の「履霜操」で、『この曲を』、『追い出された伯奇が作ったものとし、宣王がこの曲をきいて』、『孝子の歌詞であるといったため、尹吉甫はあやまちに気づ』き、『後妻を射殺したする』とある。また、『曹植「令禽悪鳥論」では、尹吉甫は伯奇を殺したことを後悔していたが、ある日』、『尹吉甫は伯労(モズ)が鳴くのを聞いて伯奇が伯労に生まれかわったと思って、後妻を射殺したと言う』ともある。

「禮記」「五月に、鵙、始めて鳴く」「礼記」「月令(がつりょう)」に、

   *

小暑至、螳蜋生。鵙始鳴、反舌無聲。

 (小暑、至れば、螳蜋(たうらう)生じ、鵙、始めて鳴き、反舌(うぐひす)、聲、無し)

   *

とある。「螳蜋」は「蟷螂」でカマキリのこと。

「詩」「豳風〔(ひんぷう)〕」「詩経」の「国風」の最後にある「豳風」は、ここまでの「国風」の詩が各地方の民謡を載せているのとは異なる。豳というのはは周王朝発祥の地であり、中でも、ここで示されている「七月」の詩篇は、周公旦(古伝では「豳風」は殆んどが周公旦の作とする)が先祖の代(西周が鎬京(こうけい)に都する、紀元前千百年頃前の周の草創期)の農事を偲んで詠じたものとされ、後代に於いては太平の世の農村の祝祭歌とされてきた。「七月」の第三連に(訓読は昭和三三(一九五八)年岩波書店刊の吉川幸次郎注「中國詩人選集 二 詩經國風 下」を参考にした。但し、私の趣味で従っていない部分もある)、

   *

 七月流火

 八月萑葦

 蠶月條桑

 取彼斧

 以伐遠揚

 猗彼女桑

 七月鳴鵙

 八月載績

 載玄載黃

 我朱孔陽

 爲公子裳

 

 (七月 流(くだ)る火あり

  八月 萑(よし)と葦(あし)とあり

  蠶(かひこ)の月 桑の條(えだ)

  彼(か)の斧と(ておの)とを取り

  以つて遠く揚がれるを伐(き)り

  彼の女 桑を猗(しご)けり

  七月 鳴く鵙(もず)

  八月 載(すなは)ち績(つむ)ぐ

  載ち玄(くろ)く 載ち黃なり

  我が朱は孔(はなは)だ陽(あざや)かにして

  公子の裳(も)と爲(な)す)

   *

とある。全篇の訓読と注raccoon21jpのブログ」こちらを一つリンクさせておく。

「小兒〔の〕病(をとみしけ)」これは所謂、「おとみづはり(おとみづわり)」「おとづわり」のことである(他に「おとむじり」「おとまけ」等)。小学館「日本国語大辞典」によれば、「弟見悪阻」で、『小児の病の名。乳児のある母が、次の子をみごもって、つわりを起したために、その乳児が乳離れ』させられた結果、その子に起る病気を言う(やや原記載に不満があるので、最後の個所を個人的に書き変えた)。別に、同辞典の「おとみ」(弟見)の条を見ると、『(弟を見るの意から)乳のみ児のいるうちに次の子を妊娠すること』とし、後の方言の項で『乳離れしない子が母親の懐妊によって陥る栄養不良』(採集地は青森県・宮城県・秋田県・飛騨・高知県)とし、他に「おとみまけ」(宮城県・新潟県)を、「おとみよわり」(飛騨)、「おとみわずらい」(富山)と記す。国語学者佐藤貴裕氏のサイト「ことばへの窓」内の「理由なく消える語」(『月刊日本語学』一九九九年九月号所収)で徹底的に考証されている。必読! しかし、何故、この症状が「鵙の毛を取り、之れを帶〔ぶれば〕卽ち愈ゆ」かは判らぬ。良安は後で「鵙の皮〔は〕硬くして、毛、脱け難〔(にく)〕し」と言っていることと関係するのかも知れぬが、判らぬ。私が考えたのは、先の伝承の伯奇(義兄)・伯封(義弟)との類感呪術の可能性であった。潔白なのに実の父から追放され、入水して死んだとなれば、その毛一本でも、弟を思わぬ兄の病いの戒めとなろうからである。

「小兒〔の〕語〔の〕遲〔き〕者〔は〕」言語遅滞。

「鵙〔の〕踏〔める〕所の樹枝にて、之れを鞭〔(むちう)たば〕、卽ち速く語る」これも明らかな類感呪術だが、最早、私の乏しい想像を超えている。何方か、お教え願いたい。

「瘧痢〔(ぎやくり)〕」「瘧」は間歇性熱性疾患で、概ねマラリアを指し、ここはそれに伴う激しい下痢症状をいう。

「他日、相ひ繼ぎて」激しい止瀉が治まった後、あい次いで。

「腹、大〔きく〕、或いは瘥〔(い)へ〕、或いは發〔(はつ)〕す」突如、腹部が膨満膨張する症状が現われたり、或いは病気がそのまま治ったり、或いはまた同じように激しい熱性下痢症状を再発したりする。

「他人〔の〕娠〔(はらみ)〕有るにも、相ひ近〔づく〕も亦、煩ふ」驚天動地、母が弟を妊娠していなくても、全くの他人で近くに妊娠した婦人がある場合でも、この病気を発症する、というのである。これは最早、類感・共感呪術の域を越えて、フロイト的な精神分析の領域という気がしてくる。

「万葉」「春されば鵙の草莖見えずとも我はみやらん君があたりを」「万葉集」巻第十の「春の相聞」歌群の中の一首(一八九七番)であるが、「草莖」は「草潛」の誤り

   *

    鳥に寄せたる

 春されば百舌鳥の草潛(くさぐ)き見えずともわれは見やらむ君の邊(あたり)をば

   *

「春されば」春が来ると。「百舌鳥の草潛き」「草ぐき」は動詞「草ぐく」の連用形で「草の中にくぐもれる・くぐり抜ける」というモズが草藪に潜り込んで身を隠して見えなくなること。以下の「見えず」を導く序詞である。

「翺翔〔(かうしやう)〕」鳥が空高く飛ぶこと。

「鳴かば、卽ち、蛇、結〔(けつ)〕す」鵙が鳴くだけで、蛇は忽ち、蜷局(とぐろ)を巻いて(=「結」)怖気(おじけ)て身を守ろうとする。

「金〔(きん)〕、鵙の血を得ば、則ち昏〔(くら)〕し」金にモズの血を塗り付けると、忽ちのうちに黄金の輝きを全く失ってしまう、というのである。

「淮南子〔(えなんじ)〕」前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王であった劉安(高祖の孫)が学者達を集めて編纂させた一種の百科全書的性格を備えた道家をメインに据えた哲学書(日本では昔からの読み慣わしとして呉音で「えなんじ」と読むが、そう読まねばならない理由は、実は、ない)。捜し方が悪いのか、「淮南子」の現行の本文には見出せないのだが、「欽定續通志」の巻一百七十九の一節に、

   *

伯勞、一名伯鷯、一名博勞、一名伯趙、一名鶪、一名鴂。形似鴝鵒。鴝鵒、喙黃、伯勞、喙黑。「月令」、『候時之鳥』。「左傳」云、『伯趙氏司至以夏至鳴冬至止。故以名主二至之官』。「淮南子」云、『伯勞之血、塗金、人不敢取』。

   *

と、確かにあるのを見つけた。]

2018/10/26

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳹(ひめ・しめ) (シメ)

Sime

ひめ      倭名抄云

今云しめ    鳹【比米】白喙鳥

        鵑【志米】小青雀

【音黔】

 

按鳹狀似桑而稍小頭淺黃赤肩背灰白翼黒中挾

[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

 白羽腹灰白觜大短而灰白眼下頤下正黒脛掌微黃

 常棲山林鳴聲似山雀而大春月囀出數品聲畜之食

 雜穀肉味有油臭氣不佳爲囮捕桑蓋鳹【本名比米俗誤

 曰志米】 鴲【和名抄所謂志米是也】小青雀也未詳形狀

 

 

ひめ 音は賢    「倭名抄」に云はく、

今、「しめ」と云ふ。 『鳹【「比米」。】、白き

           喙〔(くちばし)〕の鳥。

           鵑【「志米」。】、小〔さ

           き〕青雀』〔と〕。

【音、「黔〔(キン)〕」。】

 

按ずるに、鳹、狀、桑(まめまはし)に似て、稍〔(やや)〕小さく、頭、淺黃赤。肩・背、灰白。翼、黒〔の〕中に白羽を挾む。腹、灰白。觜、大きく短くして灰白。眼の下・頤〔(あご)〕の下、正黒。脛・掌、微黃。常に山林に棲む。鳴き聲、山雀〔(やまがら)〕似て大〔なり〕。春月、囀〔るに〕、數品〔(すひん)〕の聲を出だす。之れを畜〔(か)ふに〕、雜穀を食ふ。肉味、油臭〔き〕氣〔(かざ)〕有〔りて〕佳ならず。囮(をとり)と爲して桑〔(まめまはし)〕を捕れり。蓋し、鳹【本名、「比米」。俗、誤りて「志米」と曰ふ。】・鴲【「和名抄」の謂ふ所の「志米」〔とは〕是れなり。】、小さき青雀なりと〔いへども〕、未だ形狀を詳らかにせず。[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科 Carduelinae亜科シメ属シメ Coccothraustes coccothraustes「本草綱目」にないことから、標題部分の表記が今までにないものとなっている。しかし以下に示す通り。シメは分布から見ても中国にも棲息し、分布域も中国東部・北部をカバーしていて(ウィキの分布域地図を参照)、中文ウィキの「嘴雀」にも中国での異名として「鴲」「腊嘴雀」「老西子」「鉄嘴蜡子」等がある。最後の「鉄嘴蜡子」は前項桑鳲(まめどり・まめうまし・いかるが)(イカル)」の「鐵嘴鳥」の注で本種を有力な候補とした経緯があり、或いはそれが、本種なのではあるまいかとも思うのである(但し、「本草綱目」にはそれらしい鳥名が見当たらないのだけれも)。まずシメの分布から。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、『繁殖地はヨーロッパから東アジア』・『カムチャツカ半島に及ぶ。ヨーロッパや中央アジア』・『アムール川流域周辺では留鳥だが』、『ほかの繁殖地では夏鳥』で、『越冬には地中海地方や東アジア中部』・『南部へ渡る。繁殖するのは山地の森林だが』、『冬には公園や人家付近の高木によく飛来し』、『地上でも採食する。木の実』・『新芽などを主食とするが』、『夏季には昆虫類も多く食べる。日本には』十『月に冬鳥として渡来するものが多いが』、『北海道と本州北部の一部で繁殖もしている』とある。次にウィキの「シメ」を引く。『蝋嘴鳥(ろうしょうちょう)という異称がある。「シー」と聞こえる鳴き声と、鳥を意味する接尾語である「メ」が和名の由来となっている』。『全長約』十八センチメートルで、『スズメより大きく、ヒバリほどの大きさである』。『雄の成鳥は、頭の上部と耳羽が茶褐色、頸の後ろは灰色。嘴は鉛色、円錐で太く大きい。冬羽になると』、『肌色になる。風切羽は青黒色、背中は暗褐色、尾も暗褐色で、外側尾羽に白斑がある。目からくちばしの周りや』、『のどにかけて黒色で、胸以下の体下面は淡い茶褐色』。『雌は雄より全体的に色が淡く、風切羽の一部が灰色』。『コイカル』(アトリ科イカル属コイカル Eophona migratoria)『の雌と似ているが、コイカルのほうがずっと細身で尾も長い』。『平地から山地の落葉広葉樹林や雑木林に生息する。また、市街地の公園、人家の庭でも見ることができる』。『ムクノキ、エノキ、カエデなどの種子を主食とする。果肉の部分は摂取せず、太い嘴で硬い種子を割って中身を食べる』。『地鳴きは「チチッ」「ツイリリーッツー」。他のアトリ科の鳥と比べると鋭い声である』とある。

『「倭名抄」に云はく……』巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に、続けて、

   *

鳹 「陸詞切韻」云、『鳹』【音「黔」。又、音「琴」。「漢語抄」云『比米』。】、白喙鳥也。

鴲 「孫愐切韻」云、『鴲』【音「脂」。「漢語抄」云、『之女』】、小青雀也。

   *

と出る。

「桑(まめまはし)」前項のスズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata

「山雀〔(やまがら)〕」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius。この三十五項後に出る。

「小さき青雀なりと〔いへども〕、未だ形狀を詳らかにせず」珍しく良安は実際に本種を観察したことがないと述べている。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 桑鳲(まめどり・まめうまし・いかるが) (イカル)

Ikaru

まめどり   竊脂 青雀

まめうまし  蠟觜雀

いかるか

 

サンプウ

[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

 

本綱桑山林有之大如鴝鵒蒼色有黃斑點好食粟稻

其觜喙微曲而厚壯光瑩或淺黃淺白或淺青淺黑或淺

玄淺丹其類有九種皆以喙色別之非謂毛色也今俗多

畜其雛教作戯舞

三才圖會云蠟觜鳥似雀而大嘴如黃蠟色故名能歌舞

聽人曲調則以嘴啣紙糊瞼子搬演法戯移腔換套必按

音節又有一種鐵嘴鳥

                  宣高

 著聞集いかるかよ豆うましとは誰もさそひしりこきとは何を鳴くらん 

按桑狀小於鳩項黑腹背灰青色羽末黑有白斑嘴

 微曲而厚淺黃白色尾短好食豆粟故名豆甘美【俗以爲豆

 迥】常鳴春月能囀【如言比志利古木利】倭名抄鵤【伊加流加】斑鳩【同共誤也】

 

 

まめどり   竊脂〔(せつし)〕 青雀

まめうまし  蠟觜雀〔(らうしじやく)〕

いかるが

 

サンプウ

[やぶちゃん注:「」=(上)「戸」+(下)「鳥」。]

 

「本綱」、桑、山林に、之れ、有り。大いさ、鴝鵒(ひよどり)のごとし。蒼色にして黃斑點有り。好みて粟・稻を食ふ。其の觜-喙〔(くちばし)〕、微〔かに〕曲〔(きよく)〕にして、厚〔く〕壯〔(つよ)〕し。光瑩〔(くわうえい)あり〕。或いは淺黃・淺白、或いは淺青・淺黑、或いは淺玄〔(ぐろ)〕・淺丹〔(に)〕。其の類、九種有り、皆、喙の色を以つてす。之れを別かつに、毛色を謂ふには非ざるなり。今、俗、多く其の雛を畜〔(か)〕ひて、戯〔れの〕舞〔ひ〕を作〔(な)す〕を教ふ。

「三才圖會」に云はく、『蠟觜鳥は雀に似て大〔なり〕。嘴、黃蠟〔(わうらう)〕の色のごとし。故に名づく。能く歌舞す。人の曲調を聽くときは、則ち、嘴を以つて、紙を啣〔(ふく)〕み、瞼-子〔(ひとみ)〕を糊〔(のり)〕して、演法を搬〔(うつ)〕す。戯〔れに〕腔〔を〕移〔して〕套〔(たう)〕を換〔ふるも〕、必ず、音節を按ず。又、一種、有り、「鐵嘴鳥」〔といふ〕』〔と。〕

[やぶちゃん注:「三才図会」の後半部は訓点が殆んどない。悪意を以って言うと、良安は読めなかったのではないかとも思われる。訓読は全く私の力技に過ぎないので、ご注意あれ。]

 「〔古今〕著聞集」        定高

   いかるがよ豆うましとは誰〔(たれ)〕もさぞ

      ひじりこきとは何を鳴くらん 

按ずるに、桑、狀、鳩より小さく、項〔(うなじ)〕、黑。腹・背、灰青色。羽の末〔は〕黑〔くして〕白斑有り。嘴、微かに曲りて厚く、淺黃〔(あさぎ)の〕白色。尾、短し。好みて豆・粟を食ふ。故に「豆甘美(〔まめ〕うまし)」と名づく【俗に以つて爲「豆迥〔(まめまはし)〕」と爲す。】常に鳴く。春月、能く囀る【「比志利古木利〔(ひじりこきり)〕」と言ふがごとし。】。「倭名抄」に『鵤【伊加流加〔(いかるが)〕。】・斑鳩【同。】』〔とあれど〕、共に誤りなり。

[やぶちゃん注:最後の部分は「和名類聚鈔」を確認、最後の割注の「同」の後の部分は良安の評言が紛れ込んでいる。これは誤りではなく、原典を見ると、次の項との兼ね合いで字が詰まって空きがなくなってしまったことから、ここに押し込んだものと推定される。そういう訳で、注の外に出した。]

[やぶちゃん注:スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata。漢字表記では、現行、「鵤」「桑鳲」(「鳲」(音「シ」)はカッコウ科 Cuculidae 或いはカッコウ属 Cuculus のカッコウ類を広範に指す漢字で、本文の「」と類似する。この「」は中文サイトでも発見出来ないので、或いは良安の「尸」の転写ミスも考えられる)。ウィキの「イカル」を引く。『木の実を嘴(くちばし)で廻したり』、『転がしたりするため』、『古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため』、『「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。イカルという名の由来は奈良県の斑鳩とも鳴き声が「イカルコキー」と聞こえるからとも言われるが、定かではない。また』、『「イカルガ(斑鳩)」と呼ばれることもあるが』、『厳密には「斑鳩」の文字を使うのは誤用であり、「鵤」は角のように丈夫な嘴を持つ事に由来する』(太字下線やぶちゃん)。『ロシア東部の沿海州方面と日本で繁殖し、北方の個体は冬季に中国南部に渡り』、『越冬する』。『日本では北海道、本州、四国、九州の山林で繁殖するが』、『北日本の個体は』、『冬季は本州以南の暖地に移動する』。『全長は約』二十三センチメートル。『太くて大きい黄色い嘴を持つ。額から頭頂、顔前部、風切羽の一部が光沢のある濃い紺色で体の上面と』、『腹は灰褐色で下腹から下尾筒は白い。初列風切羽に白斑がある。雌雄同色である』。『主に樹上で生活するが、非繁殖期には地上で採食している姿もよく見かける。木の実や草の種子を採食する。時には、昆虫類も食べている』。『繁殖期はつがいで生活するが』、『巣の周囲の狭い範囲しか縄張りとせず、数つがいが隣接してコロニー状に営巣することが多い。木の枝の上に、枯れ枝や草の蔓を組み合わせて椀状の巣を作る。産卵期は』五~七月で、三、四個の『卵を産む。抱卵期間は約』十四『日。雛は孵化してから』十四『日程で巣立つ』。『非繁殖期は数羽から数十羽の群れを形成して生活する』、『波状に上下に揺れるように飛翔する』。『各地に様々な聞きなしが伝わ』り、例えば、『比志利古木利(ひしりこきり)』・『月日星(つきひほし)』とある。なお、後者のそれから、本種は「三光鳥」とも呼ばれるが、正式和名をそう持つ全くの別種のスズメ目カササギヒタキ科サンコウチョウ属サンコウチョウ Terpsiphone atrocaudata がいるので、注意が必要である。

「竊脂〔(せつし)〕」「蠟觜雀〔(らうしじやく)〕」はその嘴の色が標準的には太く大きな黄色を呈することから、「蝋(ろう/あぶら)を竊(ぬす)む」鳥、「三才図会」にあるように、「黃蠟〔(わうらう)〕の色の」よう、則ち、「蝋燭に用いる黄蝋の色の嘴を持った雀」というのであろう。

「いかるが」地名として奈良県生駒郡斑鳩町が知られるが、この「いかるが」という名の由来は定かではない。一説にはこの地に本種が群をなしていたため、また、聖徳太子が法隆寺の建立地を探していた際、このイカルの群れが集って空に舞い上がり、仏法興隆の聖地と指し示したとする伝承もある。他にも伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと:不詳。この斑鳩の地の古い産土神(うぶすながみ)か)が、この地の神として祀られていたからとする説もある。

「鴝鵒(ひよどり)」ここでは良安は、スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotisのつもりで、このルビを振っているようだが、これは「本草綱目」の記載で、これはヒヨドリではなく、スズメ目ムクドリ科ハッカチョウ(八哥鳥)属ハッカチョウ Acridotheres cristatellus を指すと考えねばならない。

「壯〔(つよ)〕し」東洋文庫版ルビに従った。

「光瑩〔(くわうえい)〕」滑らかで光沢があり、それが光り輝くこと。

「淺黑、或いは淺玄〔(ぐろ)〕」後者の「玄」は真黒ではなく、赤又は黄を含む黒色を指す。

「紙を啣〔(ふく)〕み」目的不明。

「糊〔(のり)〕して」閉じて。

「演法を搬〔(うつ)〕す」人の演奏した曲調をそのまま真似する。

「戯〔れに〕」飼っている人が主語。

「腔」中国の劇音楽の曲調に「腔調(こうちょう)」があるが、それを指すか?

「套」東洋文庫注に『曲の数調が連なったもの』とある。

「音節を按ず」人の演奏している、その音節にピッタリと合わせる。

「鐵嘴鳥」中文サイトのこちらに、『鐵嘴(行鳥)』とし、『Greater Sandplover』(英名)、『Charadrius leschenaultii』とある。しかしこれは、チドリ目チドリ科チドリ属オオメダイチドリ Charadrius leschenaultii で、本種とは縁遠い。しかし、次の独立項の、スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科 Carduelinae亜科シメ属シメ Coccothraustes coccothraustes 中文ウィキの「嘴雀を見ると、異名に「鉄嘴蜡子」があり、このシメはイカルに似ている。しかも「蜡」とは「蠟を塗る」の意なのだ。或いはこれではないか?

「〔古今〕著聞集」「定高」「いかるがよ豆うましとは誰〔(たれ)〕もさぞひじりこきとは何を鳴くらん」「宣高」と誤判読している(宣高などという人物は「古今著聞集」に登場しない。東洋文庫の訳者が原典にさえ当たって確認していないことが判る)。これは鎌倉中期に伊賀守橘成季によって編された説話集「古今著聞集」の「巻第二十二 魚虫禽獣」の「二條中納言定高、斑鳩を壬生(みぶの)家隆に贈るとて詠歌の事」に載る一首である。以下が原文全文。

   *

 二條中納言定高卿、斑鳩を家隆卿のもとへをくるとて、よみ侍ける、

  斑鳩よまめうましとはたれもさぞひじりうきとは何をなくらん

   *

「二条定高」(建久元(一一九〇)年~暦仁元(一二三八)年)は鎌倉前期の公卿。藤原北家勧修寺流九条家。参議九条光長の子。官位は正二位・権大納言、按察使。二条東洞院に邸宅を有していたため、「二条」と称された。参照したウィキの「二条定高」によれば、『葉室宗行から従四位下を譲られる程、親しかったが、承久の乱においては定高は兄・長房と共に後鳥羽上皇の挙兵に反対する立場に回り、宗行と運命を分けた。九条道家から信頼が厚く、特に承久の乱後にはその政治顧問の最上位を占めて』、『平経高らと道家を支えた。特に承久の乱での経緯から鎌倉幕府からは好意的に見られ、関東申次であった道家の下で実際の幕府との交渉を行っていたのは全て定高であったとされている。また、斎宮であった後鳥羽上皇の皇女・煕子』(きし)『内親王を深草の別邸で引き取ったことでも知られている』とある。新潮日本古典集成(西尾光一・小林保治校注)の「古今著聞集 下」の頭注訳に、『斑鳩よ、お前が「まめうまし」と啼くのは、豆がうまいということだと誰もそう考えているが、「ひじりうき」と啼くのは聖僧がつらいということなのか、どうしてそのように啼くのか』とある。「壬生家隆」は藤原定家と並び称された歌人藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)。従二位・宮内卿で「壬生二位」と号した。権中納言藤原光隆の次男。「新古今和歌集」の撰者の一人で、小倉百人一首では従二位家隆として「風そよぐ楢の小川の夕暮は御禊ぞ夏のしるしなりける」が載る。家集は「壬二(みに)集」。「古今著聞集」のこの前の二条も彼と鳥絡みの贈答の記事で、家隆が無類の鳥好きであったことが判る。

『「倭名抄」に『鵤【伊加流加〔(いかるが)〕。】・斑鳩【同。】』〔とあれど〕、共に誤りなり』「和名類聚鈔」の巻十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」には、

   *

鵤 崔禹錫「食經」云、『鵤』【胡岳反。和名「伊加流加」。】、貌似鴿而白喙者也。「兼名苑注」云、『斑鳩』【和名、上同。見「日本紀私記」。】、觜大尾短者也。

   *

とある。]

古今百物語評判卷之四 第九 舟幽靈附丹波の姥が火、津國仁光坊事

 

  第九 舟幽靈(ふなゆうれい)丹波の姥(うば)が火(び)、津國(つのくに)仁光坊(にくわうばう)事

 

Hunayuurei

 

或る人、とふて云(いふ)、「西國又は北國にても、海上の風あらく、浪はげしき折からは、必ず、波のうへに、火の見え、又は、人形(ひとかたち)などのあらはれ侍るをば、『舟幽靈』と申(まうし)ならはせり。舟をさ[やぶちゃん注:「舟長」。]どもの云(いへ)るは、『とわたる船[やぶちゃん注:「渡る船」であろう。「」は海流の複雑な難所たる瀬戸と読む。]、破損せし時、海中におぼれし人の魂魄の殘りしなり』と申し侍るは、秦(はだ[やぶちゃん注:原典のママ。])の武文(たけぶん)が怨靈、幷びに、越中の守護名越(なごや[やぶちゃん注:原典のママ。])遠江守、同修理亮、兵庫助などが妄執の事、おもひ出でられて、まことしく候が、さに侍らん」と問(とひ)ければ、先生、答へていはく、「其(その)海原に見え候ふ火は、水中の陰火とて、一通り[やぶちゃん注:普通に。]、ある物なり。是(これ)、高き山のいたゞきに、水、有(ある)がごとく、水中にも、火、あるなり。さはいへど、其(その)おぼれ死せし人のたましゐも、いかにも、火と見え、形もあらはれ侍るべし。其形は、底のみくづとなりて朽ちはて侍れど、その氣の殘りし處、現れまじきにあらず。彼(かの)武文・名越などにもかぎらず、だんの浦などのごとく、一度に大勢相果(あひはて)たるは、猶、その怨靈も、のこるべし。丹波のほうづ河[やぶちゃん注:桂川の中流域を呼ぶ保津川のこと。現行は「ほづ」と読む。]に『姥が火』とてあり。是れも、其所の者、申(まうし)ならはせしは、そのかみ、龜山[やぶちゃん注:現在の京都府亀岡市。ここ(グーグル・マップ・データ)。]のほとりに兒(ちご)かい[やぶちゃん注:ママ。]姥のさぶらひしが、あまたの人の子を、『肝(きも)煎(い)る』とて、其生(うみ)の親のかたよりは、金銀をとりて、おのれが物とし、其子[やぶちゃん注:の生き肝をを採った後の遺骸は。]は此河へながせしとかや。其みぎり、いまだ世も治まらざる比(ころ)なれば、さして其掟(おきて)[やぶちゃん注:処罰。]にもあはざりしが、天命のおそろしさは、洪水の出(いで)たる時、彼(かの)姥、おぼれてあがき死(じ)にしけるが、其より後(のち)、今に、ほうづ河に、夜每に火の丸(まる)がせ[やぶちゃん注:火の玉。]、見え候を、『姥が火』とかや申しならはせりと云(いへ)り。是、其捨てられし小兒の亡魂、または、其姥がくるしみの火の、靈たるべし。又、津の國『仁光坊の火』と云(いへ)るは、是は先年、攝州芥河(あくたがは)[やぶちゃん注:現在、主に大阪府高槻市を流れる淀川の支流。ここ(リンク先はサイト「川の名前を調べる地図」の地図)。]のあたりに、何がしとかや云(いふ)代官あり。それへ往來する眞言僧に仁光坊といひて、美僧ありしに、代官の女房、ふかく心をかけ、さまざま、くどきけれども、彼の僧、同心せず。女房、おもひけるは、『かく同心せぬうへからは、我れ、不義なることの、かへり聞こえむ[やぶちゃん注:却って訴え出るかも知れぬ。]もはかりがたし。然るうへは此僧を讒言(ざんげん)して、なき者にせん』と思ひ、「仁光坊、われに心をかけ、いろいろ、不義・空事、申(まうし)かけたり」と告げれば、其代官、はなはだ立腹して、とかくの沙汰に及ばず、彼の僧を斬罪におこなふ。其時、仁光坊、大きにうらみ、「此事は、かやうかやうの事奉るを、實否(じつふ[やぶちゃん注:原典のルビ。])のせんさくもなく、かく、うきめを見するからは、忽ち、おもひ知らせん」とて、目をいからし、齒をくひしばりて死にけるが、終(つゐ)に其一類、のこりなく取り殺して後(のち)、今に至るまで、其僧のからだを埋(うづ)みし處の山ぎはより、火の丸(まろ)がせ、出(いで)候が、其火の中(うち)に法師の首、ありありと見ゆる、と云へり。かやうの事、つねに十人なみに[やぶちゃん注:普通に。]ある事には侍らねども、たまたまは、ある道理にして、もろこしの書にも、おりおり、見え侍る」とかたられき。

[やぶちゃん注:原典は「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」の「古今百物語評判」(お茶の水大学図書館蔵本)の当該条を確認した。本話は問答形式の構造に変化はないが、短い文章の中に「舟幽霊」・「姥が火」・「仁光坊の火」の三つの知られた怪火の語りが無駄なく圧縮されていて、元隣の薀蓄もさして気にならず、本「古今百物語評判」の中では、所謂、「百物語怪談集中の三話早回し的回」となって、図らずも、上手く、正統な怪談噺しとして出来上がっていると言える。但し、例示されたものはかなりメジャーなものばかりで、それらを単独で語った諸怪談のホラー性には足元にも及んではいない。まず、「舟幽霊」は私の記事にもゴマンとあるが、特にお薦めなのは、「北越奇談 巻之四 怪談 其七(舟幽霊)」(以下総て私の電子化注記事)で、話柄のリアリズムと、添えられたかの葛飾北斎の絵のホラー度が群を抜いて優れているものである。三つ目の「仁光坊の火」は「宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事」が事件の詳細を文学的に仔細に語って強烈である。「姥が火」は同名の怪異が他にもある(例えば「諸國里人談卷之三 姥火」を見られたい)。怪火の総纏め的な「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」も参考になる。「柳田國男 うつぼ舟の話 一」の冒頭部分は短いが、民俗学的科学的視点から怪火について言及しているので一読の価値はあろう。

「秦(はだ)の武文(たけぶん)」生年未詳。元徳三(一三三一)年の「元弘の乱」の際、摂津国兵庫の海で死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻を守って入水したとされる忠臣秦武文(はたのたけぶん)。「はだ」と濁る読みもある。なお、彼は死後、ヘイケガニやカブトガニに変じたとする伝承があり、「平家蟹」には「武文蟹」の異名もある。私の『毛利梅園「梅園介譜」鬼蟹(ヘイケガニ)を見られたい。

「越中の守護名越(なごや[やぶちゃん注:原典のママ。])遠江守」北条(名越)時有(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)。ウィキの「北条時有」によれば、『従五位下左近将監、遠江守、越中守護』。『父は北条公時の子である公貞』(別に左近将監宣房の息ともいう)。『子に時兼。弟に有公、貞昭』。正応三(一二九〇)年、『越中国守護所として放生津城を築城する。正慶二/元弘三年に『隠岐から脱出し』、『鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり』、『気多社へ幽閉されている後醍醐の皇子・恒性皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され』、『北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた』第十四代執権『北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺させた』。『同年、新田義貞や足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり』、『六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公、甥の貞持と共に放生津城へ撤退するも、脱走する兵が相次いだ』。『放生津城の周りは、一万余騎に囲まれ』、『進退が行き詰った。時有は、妻子らを舟に乗せ奈呉の浦(現射水市)で入水させた。それを見届けた後、城に火を放ち』、『自刃している。一連の様子は、後に』「太平記」に『記されている』とある。因みに、彼は歌人としても知られた。以下、「太平記」巻第十一の「越中守護自害の事付けたり怨靈の事」を引く(参考底本には新潮日本古典集成を用いたが、恣意的に漢字を正字化し、一部の表記や読みを私が弄っている)。元隣がこの三名を引くのは、この末尾の怪異(太字部)に拠る

   *

 越中の守護名越(なごや)遠江守時有・舍弟修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)・甥の兵庫助(ひやうごのすけ)貞持三人は、出羽・越後の宮方(みやかた)、北陸道(ほくろくだう)を經て、京都へ攻め上るべしと聞えしかば、道にてこれを支へんとて、越中の二塚(ふたつづか)と云ふ所に陣を取つて、近國の勢どもをぞ相催(あひもよほ)しける。かかるところに、六波羅、すでに攻め落されて後(のち)、東國にも軍(いくさ)起つて、すでに鎌倉へ寄せけるなんど、樣々に聞えければ、催促に從ひて、ただ今まで馳せ集まりつる能登・越中の兵(つはもの)ども、放生津(はうじやうづ)に引き退いて、かへつて守護の陣へ押し寄せんとぞ企てける。これを見て、今まで身に代はり、命に代はらんと、義を存じ、忠を致しつる郞從も、時の間(ま)に落ち失せて、あまつさへ敵軍に加はり、朝(あした)に來たり、暮れに往きて、交はりを結び、情けを深うせし朋友も、忽ちに心變じて、かへつて害心をさしはさむ。今は、殘り留まりたる者とては、三族に遁(のが)れざる一家の輩(ともがら)、重恩をかうむりし譜代の侍、わづかに七十九人なり。

 五月十七日の午の刻に、敵、すでに一萬餘騎にて寄すると聞こへしかば、

「われ等、この小勢(せうせい)にて合戰をすとも、何ほどの事をかし出だすべき。なまじひなる軍(いくさ)して、言ふ甲斐無く敵の手に懸かり、縲紲(るゐせつ)[やぶちゃん注:罪人を黒い繩で縛ること。]の恥に及ばん事、後代(こうたい)までの嘲(あざけ)りたるべし。」

とて、敵の近付かぬ前(さき)に女性(によしよう)・をさなき人々をば舟に乘せて、沖に沈め、わが身は城の内にて自害をせんとぞ出で立ちける。

 遠江の守の女房は、偕老の契りを結んで、今年二十一年になれば、恩愛の懷(ふところ)の内に、二人の男子(なんし)をそだてたり。兄は九つ、弟(おとと)は七つにぞ成りける。

 修理亮有公(ありとも)が女房は、相馴(あひな)れて、すでに三年に餘りけるが、ただならぬ身[やぶちゃん注:身重の身。妊娠していた。]に成つて、早(はや)月頃[やぶちゃん注:数ヶ月。]過ぎにけり。

 兵庫助貞持が女房は、この四五日前(さき)に、京より迎へたりける上﨟女房にてぞありける。その昔、紅顏・翠黛(すゐたい)の世に類ひ無き有樣、ほのかに見初めし珠簾(たまだれ)の隙(ひま)もあらば、と心に懸けて、三年餘り戀ひ慕ひしが、とかく手立てを𢌞らして、盜み出だしてぞ迎へたりける。語ひ得て、わづかに昨日今日のほどなれば、逢ふに替はらんと歎き來(こ)し命も、今は惜しまれける。戀ひ悲しみし月日は、天(あま)の羽衣撫で盡くすらんほどよりも長く、相見て後の直路(ただち)は[やぶちゃん注:結ばれて後の時の経過は。]、春の夜の夢よりも、なほ短し。忽ちにこの悲しみに逢ひける契りのほどこそ哀れなれ。末の露、本(もと)の雫(しづく)、おくれ先立つ道をこそ、悲しきものと聞きつるに、浪の上、煙(けぶり)の底に、沈み焦がれん別れの憂さ、こはそもいかがすべきと、互ひに名殘(なごり)を惜をしみつつ、伏しまろびてぞ泣かれける。

 さるほどに、敵の早(はや)寄せ來るやらん、

「馬煙(うまけぶり)の東西に揚げて見へ候ふ。」

と騷げば、女房・をさなき人々は、泣く泣く、皆、舟に取り乘つて、遙かの沖に漕ぎ出だす。恨めしの追風や、しばしもやまで行く人を、浪路(なみぢ)遙かに吹き送る。情けなの引潮や、立ちも歸らで、漕ぐ舟を、浦より外(ほか)に誘ふらん。かの松浦佐用媛(まつらさよひめ)が、玉嶋山(たましまやま)に領布(ひれ)振りて、沖行く舟を招きしも、今の哀れに知られたり。水手(すゐしゆ)、櫓をかいて、舟を浪間に差し留めたれば、一人(いちにん)の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組んで、同じく身をぞ投げたりける。紅(くれなゐ)の衣(きぬ)、赤き袴(はかま)の、しばらく浪に漂ひしは、吉野・立田(たつた)の河水に、落花・紅葉(こうえふ)の散亂たる如くに見えけるが、寄せ來る浪に紛(まぎ)れて、次第に沈むを見果てて後(のち)、城に殘り留まりたる人々、上下七十九人、同時に腹を搔き切つて、兵火(へいくわ)の底にぞ燒け死にける。

 その幽魂・亡靈、なほも、この地に留まつて、夫婦執着(しふぢやく)の妄念を遺しけるにや、この頃、越後より上る舟人(ふなうど)、この浦を過ぎけるに、にはかに、風、向ひ、波、荒かりけるあひだ、碇(いかり)を下(おろ)して沖に舟を留(と)めたるに、夜更け、浪、靜まつて、松濤(しようたう)の風、蘆花(ろくわ)の月、旅泊の體(てい)、よろづ、心すごき折節、遙かの沖に女の聲して、泣き悲しむ音しけり。これを怪しと聞きゐたるところに、また渚(なぎさ)の方に男の聲して、

「その舟、ここへ寄せてたべ。」

と、聲々にぞ呼ばはりける。

 舟人止む事を得ずして、舟を渚に寄せたれば、いと淸げなる男、三人、

「あの沖まで便船申さん。」

とて、屋形(やかた)にぞ乘りたりける。

 舟人、これを乘せて、沖つ鹽合(しほあひ)に舟を差し留めたれば、この三人の男、舟より下(お)りて、漫々たる浪の上にぞ、立つたりける。

 暫くあれば、年、十六、七、二十ばかりなる女房の、色々の衣(きぬ)に、赤き袴、踏みくくみたるが、三人、浪の底より浮び出でて、その事となく、泣きしほれたる樣なり。

 男、よにむつましげなる氣色(けしき)にて、相互(あひたが)ひに寄り近付かんとするところに、猛火(みやうくわ)、にはかに燃え出でて、炎、男女の中を隔てければ、三人の女房は、妹背(いもせ)の山の中々に、思ひ焦がれたる體(てい)にて、浪の底に沈みぬ。

 男は、また、泣く泣く、浪の上を泳ぎ歸つて、二塚の方へぞ步み行きける。

 あまりの不思議さに、舟人(ふなうど)、この男の袖をひかへて、

「さるにても、たれ人(びと)にて御渡り候ふやらん」

と問ひたりければ、男、答へて云はく、

「我らは名越遠江守。」

「同じき修理亮。」

「竝びに兵庫助。」

と各々、名乘つて、搔き消すやうに、失せにけり。

 天竺(てんぢく)の術婆伽(じゆつばが)は后(きさき)を戀して、思ひの炎に身を焦がし、わが朝(てう)の宇治の橋姫は、夫を慕ひて、片敷く袖を波に浸(ひた)す。これ、皆、上古(しやうこ)の不思議、舊記に載するところなり。まのあたりかかる事の、現(うつつ)に見へたりける、妄念のほどこそ、罪、深けれ。

   *

以上を掲げたことで、この私の記事は相応の怪談と成った。「太平記」に感謝する。

「同修理亮」「兵庫助」上掲の「太平記」本文冒頭には時有の弟・甥とあるが、新潮日本古典集成山下宏明氏の頭注によれば、二人とも『系図の類には見えない』とあり、不詳である。]

三女アリス一周忌

 
Alice  

    塚も動け我が泣く聲は秋の風   芭蕉

 
 

2018/10/25

古今百物語評判卷之四 第八 西寺町墓の燃えし事

 

     第八 西寺町(にしてらまち)墓の燃えし事

一人の云(いは)く、「近き比(ころ)、西寺町のある寺に、切腹せし人を葬りしが、夜每に其墓より、火、もえ出(いで)候故、はじめは、小僧・同宿などの見たるのみにて、さだかにもなく候處に、後(のち)には、住持、きゝつけ、世にあやしき事におもひ、さまざま、經文などかきて弔ひけれども、其しるしなかりしに、此比は燃えず候ふよしを申し候ふが、其墓のもゆる程なる罪人にて、いろいろのとぶらひをうけても消えざるに、おのれと[やぶちゃん注:自然と。]靜まりたるも、あやしく存ぜられ候ふ。とかく此理(ことわり)、くはしく承らばや」と云ひければ、先生、答へていはく、「是(これ)、不思議る事に侍らず。其(その)埋(うづ)みしからだ、切腹せし人なれば、血、こぼれ出(い)でて、其血より、もえ出づる火なり。是を『燐火(りんくは)』と申し侍る。よる、見え候は、例の陰火なれば、なるべし。人の血のみにかぎらず、牛馬などを殺せし野原なども、其血のかたまり殘たる處は、かならず、もゆる物なり。さて、其(それ)靜りしは、彼(かの)血も久しくなれば、血の氣(き)つきて、土となる故、おのれと、やむ理なり。さるにより、其血の氣、つきざるうちは、其僧の教化を得ても、止み申さず。あやしき事に侍らず。元より、水火は天地陰陽の精氣にて、分(ぶん)[やぶちゃん注:性質。属性。]のたゞしき物なれば、其(その)有(ある)べき處にあたりては、あらずといふなく、なかるまじき所にあたりては有(ある)事なし。されども、鬼神幽冥の道理なれば、人、悉く其(その)理をわきまふるに及ばず。其(それ)、珍しきに附きて、或は、ばけ物と名附(なづけ)、不思議と云(いへ)り。世界に不思議なし、世界、皆、ふしぎなり」と評せられき。

[やぶちゃん注:俄か禅坊主みたようなこと言ってやがら……

「西寺町」京都府京都市左京区正往寺町にある西寺町通附近であろうか。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を見て戴けば判る通り、東西に寺が林立する。

「同宿」その寺で住持について修行している僧ら。

「住持、きゝつけ、世にあやしき事におもひ、さまざま、經文などかきて弔ひけれども、其しるしなかりし」とあるのだから、住持自身も、噂を聴いただけでなく、その怪火を現認したのである。]

古今百物語評判卷之四 第七 雪女の事幷雪の説

 

  第七 雪女の事雪の説

 

Yukionnna

 

某(それがし)いへらく、「此比(このごろ)、おほく、俳諧の發句に雪女と申(まうす)事、見え申(まうし)候ふが、いかゞ、此ものあるべき物に候ふや」と問(とひ)ければ、先生のいはく、「雪女といふ事、やまと・もろこしのふるき書にも見えず、又、俳諧などにするにも、かやうの事はたしかに見たるやうには、いたさぬが其法にて侍る。しかしながら、物、おほくつもれば、かならず、其中に生類(しやうるい)を生じ侍るなり。水ふかければ、魚を生じ、林茂れば、鳥を生ずるがごとし。されば、越路(こしぢ)の雪などには、此物、出でむも、はかりがたし。是れを雪女と云へるは、雪も陰の類、女も陰の類なればなるべし」。又、問(とふ)ていはく、「雪は元、雨にて侍るに、白きはいかなる道理にて候哉(や)。殊に霜とおなじ類(るい)にて候哉(や)」と問ければ、「いかにも。霜・雪ともに同じ類にて、皆、雨露(あめつゆ)のむすばうれたるなり[やぶちゃん注:ママ。「むすばうれ」はラ行下二段動詞「むすぼほる」(結ぼほる)で、「むすぼれる」に同じく、水気が凝集・凝固・氷結するの意。]。雪は『六出(ろくすい[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」のルビ。以下も同じ。雪の結晶の事六家系の稜を有することを指す。])』と云ひて、かならず、六(むつ)かど、侍る。霜は『三出(すい)』といひて、三つ、かどあり。是(これ)、雪は純陰の物なれば、老陰(らういん)の數(かず)、六なる故、かならず、六出あり。霜は、其(それ)、雪になかばせる物なれば、三出(みつかど[やぶちゃん注:同前。])なること、勿論の道理なり。さて、雨露(うろ[やぶちゃん注:同前。])のむすぼほりて、白くなる理(ことわり)は、凡そ、世界の物のかたまる事、皆、五行に配當して、金氣(きんき)のつかさどる處なり。金(かね)の色は、もつとも五色(ごしき)も候へども、白きが、則(すなはち)、西方(さいはう)のたゞしき色なり。此故に雨露(うろ)も、こりかたまりては、かならず、金(かね)の色をあらはして、白くなり侍る。況んや、大空(おほそら)は金氣淸明(きんきせいめい)の氣のつかさどるなれば、雨露(あめつゆ)のうちに、其色をふくみて、こりかたまりて降るものなるをや」。又、問(とふ)、「しからば、堅くこれる[やぶちゃん注:「凝(こ)れる」。]物は、皆、白くなり候哉」曰(いはく)、「大かた、しろく侍る。生類の骨は白く、草木(くさき)の根は白く、潮(うしほ)を煮かたむれば、しろく、土のかたまれる砂は、しろく侍らずや」と語られき。

[やぶちゃん注:これはちょっと、注をつけるのも阿呆臭い。私の電子化した中には雪女の良い怪談もさわにあるが、それをここにリンクするのも忌まわしい気がするのでやめる。]

 

古今百物語評判卷之四 第六 鬼門附周の武王往亡日に門出の事

 

  第六 鬼門周の武王往亡日(わうまうび)に門出(かどいで)の事

かたへより、問(とふ)ていはく、「世に鬼門だたりと申(まうし)候ひて、大樣(おほやう)の[やぶちゃん注:大方の。]人、忌(いみ)恐れ侍るが、邂逅(たまさか)にわすれても、おかし候へば、かならず、わざはひにあふ事多く御座候(さふらへ)ば、なにと、丑寅(うしとら)の方は人間のいむべき方にて候哉(や)、覺束なく候ふ」と問ければ、先生、答(こた)ていはく、「鬼門と云(いふ)事は東方朔(とうばうさく)が「神異經(しんいきやう)」に、『東方、度朔(どさく)の山に、大なる桃の木あり。其下(もと)に神あり、其名を神荼(しんと)・鬱壘(うつるい)と云(いひ)て、もろもろの惡鬼の人に害をなす物を、つかさどり給へり。故(かるがゆへ)に其山の方を鬼門といふ』と見えたり。かくはいへども、是、まさしき聖賢の書に出(いづ)るにもあらず、其うへ、その書にも鬼門をいむといふ事、みえ侍らず。元より、我が朝のならはしに、丑寅の方を、專ら、いむ事、何れの御時より、はじまれりとも、さだかならず。さて又、道理を以ておすに、東北の方をいむべき義、おぼつかなし。若(も)し、方角をもつていはゞ、乾(いぬゐ)の方はいみぬべし。その子細は、是れ、純陰の方にて、陽氣の、まさに(たえ)んとする處、萬物の既に死する地にて、尤も不吉の方角なり。是を忌まずして、丑とらの方を忌む事、いかなるいはれ共(とも)覺束なし。されども、今の世は、いみならはし侍れば、我、かしこげに『鬼門に害なし』といはむも、時にしたがふ、中庸の心に背(そむ)けり。大かたは、よけて然るべし。されども、たとひ、鬼門へむきても、善事をなさば、よかるべく、辰巳(たつみ)へ向ひても、惡事をなさば、あしかるべし。猶、鬼門にかぎらず、軍家(ぐんけ)にもてはやしはべる日取(ひどり)・時取(ときどり)のよしあしも、かくのごとし。惡日(あくにち)たりとも善をなせば、ゆくさき、目出度(めでたく)、善日たりとも惡をなさば、後々(のちのち)、わざはひ、あるべし。又、其家々にて用ひ來たれる吉例の日もある事に候。むかし、周の武王と申(まうす)聖人、天下の爲に殷の紂王(ちうわう)と申(まうす)惡人を討(うち)給ふに、其(その)首途(かどで)の日、往亡(わうまう)の日なりければ、群臣、いさめけるやう、『けふは、わうまう日とて、往きて亡ぶる日なれば、曆家(れきか)に、ふかく、いみ候ふ。さ候はゞ、御出陣、無用』のよし申上(まうしあげ)けるを、太公望、きかずしていはく、『往亡ならば、是、「ゆきてほろぼす」心にて、一段、めでたき日なり』とて、終に其日、陣だちして、尤(もつとも)紂王を討(うち)ほろぼし、周の世、八百年、治(おさま)りけり。此故に武王は往亡日をもて、さかへ、紂王は往亡日をもて、ほろびたり。同日にして、吉凶、かくのごとくなれば、名將の歌に、「時と日はみかたよければ敵もよしたゞ簡要は方角を知れ」とよみ給へるもおもひあはせられ、其人によりて、その日によらざる事、あきらけし。各(おのおの)、手前をつゝしみ給ふべきなり」。

[やぶちゃん注:「鬼門だたり」「鬼門祟り」。ウィキの「鬼門」を引く。鬼門とは、『北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としている。他の方位神とは異なり、鬼門は常に艮の方角にある。鬼門とは反対の、南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われる。南東(巽』(たつみ)『)を「風門」、北東(艮』(うしとら)『)を「鬼門」とした』。『陰陽道においては、北と西は陰、東と南は陽とされ、北東と南西は陰陽の境になるので、不安定になると説明される』。『中国から伝わったものとされるが、家相や鬼門に関しては諸説あるが、出典がなく』、『不整合なものばかりが一人歩きしている』。『鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想とは大きく違った思想になっている。なぜなら』、『風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべき』だからである。『現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」や「南天」、「万年青」を植えたり、鬼門から水回りや玄関を避けて家作りしたりと、根強い鬼門を恐れる思想がある』。『十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったりしたといわれている。代表的な例が、京都御所であるが、京都御所の北東角には軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がその方位だけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた説がある』(リンク先に写真有り)。『現在でも、家の中央から見て』、『鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。また、南西の方位を裏鬼門として、鬼門同様、水まわりや玄関を嫌う風習も根強く残っている。これは、京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてあることから、御所が鬼門を恐れ避けている、鬼門を除けていると考えられ、それから鬼門を避ける鬼門除けの手法とされてきた』。『また、都市計画においては、平城京では鬼門の方向に東大寺が、裏鬼門の方向に植槻八幡宮が、平安京では大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に石清水八幡宮が、鎌倉では幕府から鬼門の方向に荏柄天神社が、裏鬼門の方角に夷堂が、江戸では江戸城から鬼門の方向に東叡山寛永寺が、裏鬼門の方向に三縁山広度院増上寺が置かれたといわれている』(以下、続くが、同じことをだらだら述べているだけなので省略する)。

「邂逅(たまさか)にわすれても、おかし候へば」「偶(たま)さかに忘れても、犯し候へば」。

「東方朔(とうばうさく)」(通常は「とうはうさく(とうほうさく)」 紀元前一五四年頃~紀元前九三年頃)は前漢の文学者。滑稽と弁舌で武帝に侍した、日本で言う「御伽衆(おとぎしゅう)」的人物。梲(うだつ)の上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて「答客難」(客の難に答ふ)を書いた。同文は「水清ければ魚棲まず」の故事の原典として知られる(「水至淸則無魚。人至察則無徒。冕而前旒、所以蔽明。黈纊充耳、所以塞聰」(水、至つて淸ければ、則ち、魚、無し。人、至つて察(さつ)なれば、則ち、徒(と)[やぶちゃん注:仲間。]無し。冕(べん)して旒(りう)を前にするは[やぶちゃん注:冕(かんむり)を被ってその前後に玉飾を流れるように垂らすのは。]、明(めい)を蔽ふ所以なり。黈纊(とうかう)[やぶちゃん注:耳当て。]して耳を充すは、聡(そう)を塞ぐ所以なり)。また、彼は、自分は山林に世を避けるのではなく、朝廷にあって隠遁しているのだ、と主張したが、この「朝隠(ちよういん)」の思想は六朝人の関心を集め、例えば、彼の生き方を讃える後の西晋の政治家で文学者の夏侯湛(かこうたん 二四三年 二九一年)の「東方朔画賛」には王羲之の書が残ることで有名である。また、漢代の時点で既に彼に纏わる神仙伝説が発展しており、太白星の精で長寿を得たとされるほか、トリック・スターとして孫悟空の天宮を閙(さわ)がすといった物語のもとになる伝説も彼に付随する(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「神異經(しんいきやう)」東方朔の作とされる幻想的地誌。同種のバイブル的存在である「山海経(せんがいきょう)」の体裁と内容に倣っている。但し、以下の「東方(とうばう)、度朔(どさく)の山に、大なる桃の木あり。其下(もと)に神あり、其名を神荼鬱壘(しんとうつるい)と云(いひ)て、もろもろの惡鬼の人に害をなす物を、つかさどり給へり。故(かるがゆへ)に其山の方を鬼門といふ」というのは「神異経」に見られない。調べて見ると、「山海経」の佚文のようである。幾つかに引用があるが。例えば「太平御覧」の「果部四」の「桃」では、

   *

漢舊儀曰、「山海經」稱、東海擲晷度朔山、山上有大桃,屈蟠三千里。東北間、百鬼所出入也。上有二神人、一曰神荼、二曰郁壘、主領萬鬼。惡害之鬼、執以葦索、以食虎。黃帝乃立大桃人於門

   *

とある。これは「東海中にある度朔山には三千里[やぶちゃん注:当時の一里は四百メートル強であるから、約千二百キロメートル。]に亙って蟠(わだかま)る桃の大樹があり,その枝の東北の部分に隙間があり、そこをありとある魑魅魍魎が出入口する(これが文字通り「鬼門」ということになる)。その門には神荼(しんと)と鬱塁(うつるい)という二神があって、そこを通行するあらゆる鬼を監督し、悪害を成す鬼がいれば、捕えて葦の繩で縛りつけて、そのまま虎に食わせた。黄帝は、ために(鬼を制御するためにか)この鬼門の戸口にこの大いなる桃の木で製した人形を立て掛けた」といった意味であろうか。

と見えたり。かくはいへども、是、まさしき聖賢の書に出(いづ)るにもあらず、其うへ、「我が朝のならはしに、丑寅の方を、專ら、いむ事、何れの御時より、はじまれりとも、さだかならず」事実、今も決定的な原拠は判っていない。ただ言えることは、日本の「鬼」が虎のパンツと牛の角を持っているのは、如何にもな鬼門=「丑寅」=牛と虎という馬鹿げた垂直的思考の産物であり、それは恐らく、遅くとも平安の初期には私は形成されていたと考えている。

「乾(いぬゐ)」「是れ、純陰の方にて、陽氣の、まさに(たえ)んとする處」北西。陰陽説では北も西も陰だからであろう。何だかな~って感じ。

「よけて然るべし」「避(よ)けてしかるべし」。中庸とか言うてからに、結局、長いものには巻かれろでっしゃろ? 元隣先生?

「辰巳(たつみ)」巽。南西。多く火の神や竈神(かまどがみ)の荒神(こうじん)及び産土神を祀る方位とされはするから、方位としちゃあ、よかろうかい。

「日取(ひどり)・時取(ときどり)」何らかの事を行うに際して、それを行うに適した時日を占うこと。戦国武将どころか、あの「こゝろ」の学生の「私」だって、やってるぜ!

   *

 私は殆ど父の凡ても知り盡してゐた。もし父を離れるとすれば、情合の上に親子の心殘りがある丈であつた。先生の多くはまだ私に解つてゐなかつた。話すと約束された其人の過去もまだ聞く機會を得ずにゐた。要するに先生は私にとつて薄暗かつた。私は是非とも其處を通り越して、明るい所迄行かなければ氣が濟まなかつた。先生と關係のえるのは私にとつて大いな苦痛であつた。私は母に日を見て貰つて、東京へ立つ日取を極めた。

   *

(引用は私の真正シンクロ公開の『東京朝日新聞』大正3(1914)年6月5日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第四十四回より)。

「周の武王と申(まうす)聖人……」「孫子」の注釈書とか、やはり兵法書である「李衞公問対」(唐末から宋代にかけて李靖(りせい)の事績を知る者の手で編纂されたと推定される)等に盛んに載るが、元隣がもとにしたのが何であったかは、今、現在、調べ得なかった。一時間ばかりも無駄にしてちょっと悔しいので、向後も調査し、判り次第、追記する。

「往亡(わうまう)の日」軍を進めたり、遠出をすることを忌むとする。現代の暦注を見ても移転や婚礼なども凶とある。

「時と日はみかたよければ敵もよしたゞ簡要は方角を知れ」言わずもがな、「みかた」は「味方」。「名將」とあるが、作者不詳。識者の御教授を乞う。

「手前をつゝしみ給ふべきなり」「方位や占いなんぞに要らぬ心配をするより、まず何よりも自分自身の身を不断に慎まれ、誠実であられることこそがあるべきもので御座ろうぞ」。御説御尤も!]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり) (カッコウ)

Kakkou

ふふとり 布穀 獲穀

つつとり 郭公 

鳲鳩

     【和名布

      布止利】

スウキウ

 

本綱鳲鳩狀大如鳩而帶黃色啼鳴相呼而不相集不能

爲巢多居樹穴及空鵲巢中哺子朝自上下暮自下上也

二月穀雨后始鳴夏至后乃止其聲俗如呼阿公阿

麥挿禾脱却破袴之類布穀獲穀共因其鳴時可爲農候

故名之耳其脚脛骨令人夫妻相愛五月五日收帶之各

一男左女右云置水中自能相隨也禽經云仲春鷹化爲

鳩仲秋鳩復化爲鷹故鳩之目猶如鷹之目【所謂鷹者鷂鳩者卽鳲鳩】

三才圖會云鳲鳩牝牡飛鳴以翼相拂其聲曰家家撒穀

或家家脱袴或家家斵磨

按布穀鳥石州藝州多有之二月至五月有聲其鳴也

 如言豆豆豆豆田家此鳥鳴卽下雜穀種江東亦種豆

 【稱末女末木止利】俗以郭公爲杜鵑者甚謬也

肉【甘溫】安神定志

 

 

ふふどり 布穀 獲穀

つつどり 郭公〔(かつこう)〕

 〔(かつきく)〕

鳲鳩

     【和名、「布布止利」。】

スウキウ

 

「本綱」、鳲鳩、狀〔(かたち)〕・大いさ、鳩のごとくして黃色を帶ぶ。啼鳴〔(ていめい)して〕相ひ呼びて、而〔れども〕相ひ集〔(つど)〕はず。巢を爲〔(つく)〕ること能はず、多く樹の穴及び空〔(から)なる〕鵲〔(かささぎ)〕の巢の中に居て、子を哺〔(はぐく)〕む。朝、上より下〔(くだ)〕り、暮れには下より上る。二月、穀雨の后〔(のち)〕、始めて鳴き、夏至の后〔(のち)〕、乃〔(すなは)ち〕、止む。其の聲、俗に「阿公(アコン/ぢい[やぶちゃん注:後者は左ルビ。原典はカタカナ。次も同じ。])」・「阿(アボウ/ばゞ)」・「割麥(カツモツ)」・「挿禾(ツアツホウ)」「脱却(トツキヤツ)」・「破袴(ホウクワア)」の類〔ひと〕呼ぶ。「布穀」「獲穀」共に其の鳴く時に因つて農候を爲すべき故に、之れを名づくのみ。其の脚・脛〔の〕骨、人の夫妻をして相愛たらしむ。五月五日、收めて、之れを帶し、各々一つ〔づつ〕、男は左、女は右〔と〕。云はく、『水中に置〔かば〕、自〔(おのづか)ら〕能く相ひ隨ふなり』〔と〕。「禽經〔(きんけい)〕」に云はく、『仲春、鷹、化して鳩と爲り、仲秋、鳩、復た化して鷹と爲る。故に鳩の目、猶ほ、鷹の目のごとし』〔と〕【所謂、鷹とは鷂〔(はいたか)〕、鳩とは、卽ち、鳲鳩〔なり〕。】。

「三才圖會」に云はく、『鳲鳩、牝牡〔(めすおす)〕、飛びて鳴き、翼を以つて相ひ拂ふ。其の聲、「家家撒穀(キヤアキヤアサツコツ)」、或いは「家家脱袴(キヤアキヤアトツクワア)」、或いは「家家斵磨(キヤアキヤアリウモヲヽ)」と曰ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:中国語音のルビは原典では複数字のセットを「ヽ」一点で省略しているが、そこの部分は正字で示した。]

按ずるに、布穀鳥は石州・藝州に多く之れ有り。二月より五月に至り、聲、有り。其の鳴くや。「豆豆豆豆〔(つつ、つつ)〕」と言ふがごとし。田家〔(のうか)〕、此の鳥の鳴きて、卽ち、雜穀の種を下〔(おろ)〕す。江東も亦、豆を種(う)ふ。【「末女末木止利〔(まめまきどり)〕」と稱す。】俗に郭公を以つて杜鵑〔(ほととぎす)〕と爲すは、甚だ、謬〔(あやま)〕れり。

肉【甘、溫。】神を安〔んじて〕志〔(こころ)〕を定む。

[やぶちゃん注:カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorusウィキの「カッコウ」より引く。『ユーラシア大陸とアフリカで広く繁殖する。日本には夏鳥として』五『月ごろ飛来する』。『森林や草原に生息する。日本では主に山地に生息するが、寒冷地の場合平地にも生息する。和名はオスの鳴き声に由来し、他言語においてもオスの鳴き声が名前の由来になっていることが多い。属名Cuculusも本種の鳴き声に由来する。種小名canorusは「響く、音楽的」の意。本種だけではなくCuculus属は体温保持能力が低く、外気温や運動の有無によって体温が大きく変動する(測定例:日変動』摂氏二十九度から三十度『)ことが知られている』。『食性は動物食で昆虫類を始めとする節足動物等を食べる。主に毛虫を食べるとされる』。『本種は「托卵」を行う種として有名である。本種はオオヨシキリ』(スズメ目スズメ亜目ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus)。『ホオジロ』(スズメ目ホオジロ科ホオジロ属ホオジロ亜種ホオジロ Emberiza cioides ciopsis:本邦及びサハリン・千島列島に分布)、『モズ』(スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus)『等の巣に托卵する。近年ではオナガ』(スズメ目カラス科オナガ属オナガ Cyanopica cyana)『に対しても托卵を行うことが確認されている。托卵の際には巣の中にあった卵をひとつ持ち去って数を合わせる。本種のヒナは短期間(』十~十二『日程度)で孵化し、巣の持ち主のヒナより早く生まれることが多い。先に生まれた本種のヒナは巣の持ち主の卵やヒナを巣の外に放り出してしまい、自分だけを育てさせる。 ただし、托卵のタイミングが遅いと、先に孵化した巣の持ち主のヒナが重すぎて押し出せず、一緒に育つ場合もある』。『ある個体が巣に卵を産みつけた後、別の個体が同じ巣に卵を産むことがある』。二『つの卵がほぼ同時にかえった場合』、二『羽のヒナが落とし合いをする。敗れたほうには当然』、『死が待っている』。『また』、『本種の卵を見破って排除する鳥もいる。それに対抗し、カッコウもその鳥の卵に模様を似せるなど見破られないようにするための能力を発達させており、これは片利片害共進化の典型である』。『カッコウがなぜ托卵をするのかというのは未だ完全には解明されていない。が、他種に托卵(種間托卵)する鳥は体温変動が大きい傾向があるため、体温変動の少ない他種に抱卵してもらった方が繁殖に有利になりやすいのではないかという説が有力である』。『ちなみに同種の巣に卵を預ける種内托卵は、鳥類では多くの分類群で認められる行動である』。『さびれたさまのことを「閑古鳥が鳴く」というが、この閑古鳥とはカッコウのことである。古来、日本人はカッコウの鳴き声に物寂しさを感じていたようであり、松尾芭蕉の句にも』「うき我をさびしがらせよかんこどり」(元禄四(一六九一)年四十七歳の時、幻住庵での改作と思われる。元は元禄二年九月六日の「伊勢の國長島大智院に信宿ス」の前書を持つ「うきわれをさびしがらせよ秋の寺」である。因みに、これは「奥の細道」の掉尾「蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ」と同日に詠まれたものである。リンク先は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 掉尾 蛤のふたみへわかれ行く秋ぞ』)『というものがある』とある。

 さて、托卵であるが、ポート・ブログ・サイト「Noticeの「騙されるのには理由がある」及び、その冒頭のリンク記事が新しい学説が紹介されていて最適である(国立科学博物館研究官濱尾章二氏の講演の梗概のようである)。そこでは、大方の人々が疑問に思うことが語られてある。以下、長い引用になるが、お許し戴くと、それは『托卵をさせられてしまう宿主側にはメリット』がないのに、『なぜ托卵を受け入れてしまうのか』、また、『能動的に托卵鳥の卵や雛を拒絶する進化は起こらなかったのかという疑問で』ある。濱尾氏は、『この疑問に対して、幾つかの仮説が考えられてい』るとして、まず、以下の二説が示される。

仮説evolutionary lag hypothesis

『托卵の歴史が短く、宿主側の対抗手段がまだ進化していない。タイムラグが生じているという仮説』。

仮説evolutionary equilibrium hypothesis

『ホストが自分の卵を間違って捨ててしまうなど対抗手段にはコストがかかる。そのコストのバランスで完全には拒絶できないという仮説』。

である(以下、それぞれ仮説を補足する例の部分はリンク先を見られたい)。しかし、仮説については、『数十年単位で対抗手段が獲得できるのであれば、その形質を永遠に獲得するような進化がなぜ起こらないのかという疑問』が残り、また、仮説については、托卵される側の代表種の一つであるウグイス(スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone)の方でも『ウグイスなりのコストに見合った対抗戦略を持っているという説もあり』、『それは時間的エスケープ説といわれる説で、ウグイスの繁殖期は』三~七『月と、ホトトギスの』五月末~六『月という繁殖期に比べて長いことが分かって』おり、『つまり春先に一度繁殖してしまえば』、二『回目の繁殖で托卵されてもコストは比較的低いという事になり』、『またそれだけではなく、ウグイスの巣にホトトギスが近づくと激しくさえずり、ホトトギスを攻撃し』、『実験データではホトトギスに対して盛んに鳴くウグイスのメスは托卵されにくいという結果が出ている』という。『つまりウグイスもコストを計りながら対抗しているという事にな』るという事実があることである。そこに、近年、『新しい仮説が唱えられるようになって』、それが名も怖ろしげな、

仮説マフィア仮説

というのだそうである。それは、

   《箇条書部引用開始》

・托卵鳥は托卵後、托卵した巣の観察を続けている。

・托卵を拒絶した巣は捕食する。

・托卵を受け入れた巣はそのままにする。

・宿主は捕食されると困るので、托卵を受け入れるようになる。

   《箇条書部引用終了》

『このように非常に暴力的な托卵鳥の行動が、托卵という進化のバイアスとなったというのが「マフィア仮説」で』あるが、但し、残念ながら、『この仮説のデータとなる宿主と托卵鳥の関係は、日本のウグイスやオオヨシキリ』(スズメ目スズメ亜目ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus)『などの宿主とホトトギスやカッコウなどの托卵鳥との関係には当てはまらないそうで』、『それはこのデータとなった托卵の生態が、日本の托卵鳥のように宿主の卵や雛を排除するのではなく、宿主の卵と一緒に育つという生態を持つ鳥のデータだからだ』という。『しかしながら、進化の道筋としては非常に面白い考察で』、『この「マフィア仮説」が最初に論文としてまとまったのは』一九九五年の『スペインの研究グループによるもので』、研究対象試料種群は『ユーラシア大陸に広く分布し、日本にも吸収の一部で繁殖するカササギとそのカササギに托卵するマダラカンムリカッコウ』(カッコウ科カッコウ属マダラカンムリカッコウ Clamator glandarius)『の観察によって得られたデータによる論文で』あるとある。『それによれば、托卵を排除すれば他の雛や卵(托卵鳥は宿主の雛を排除しない)が何者かに捕食されると』し、『研究によれば』、『托卵を排除したカササギ雛の捕食率は』九『割にもおよび、托卵排除の巣の捕食率』二『割、托卵されていない巣の捕食率』二『割というデータから見ても、托卵を拒絶した場合』、『非常に際立って捕食されてしまうという結果になってい』る。但し、『この研究ではマダラカンムリカッコウが捕食したというデータは揃』わなかった。しかし、それでも、『托卵を受容した親鳥があまり捕食されないだけでなく、托卵をしてない巣が』二『割でも襲われるという結果からは、もしマダラカンムリカッコウが犯人ならば、雛を捕食し』、『親鳥に再び産卵を促すことが出来れば、托卵のチャンスが生じるというマダラカンムリカッコウのメリットが生じることにな』るのである(それを『farming戦略』と称するらしい)。さらに、『托卵された巣から托卵を取り除くという実験が行われ』たが、『その結果、人為的に托卵を排除したカササギでは、実に二十九例中、二十例で『捕食が行われ、托卵を排除しなかった巣に比べて捕食率に大きな差が出』た、『つまり』、『托卵を取り除くと捕食される確立が高まる』ことが明らかとなった。『マダラカンムリカッコウが、托卵を拒否したカササギに報復のように捕食行動を起こす、即ち』、『マフィア仮説が成立するためには、そのマダラカンムリカッコウの托卵を受け入れる方のカササギにもメリットがなければ習性として獲得され』ない。『一方的に托卵され続けるだけでは絶滅してしま』うからである。『つまり』、『托卵を受け入れる宿主も、托卵を受容するほうが得でなければならない』理由があるということになる。これに『ついてもデータが取られ』、『托卵を受容した場合、巣を放棄した』場合、『托卵を排除した場合の』三『つのケースについての』、『年間に巣立つ雛の数』を計測した。『それによれば、托卵を受容した場合は』年率〇・四、『巣を放棄した場合』で同じく年率〇・四、『托卵を排除した場合は』年率〇・三『という結果で』、これは『托卵を排除した場合は托卵鳥』(かどうかは不明であるが)『に襲われるので巣立つ雛の数は減』るものの、『巣を放棄した場合でも』、『再び巣を作らなければならないというコストを考えれば、托卵を受容したほうがメリットが生じることにな』るのである。

   《以下、「まとめ」部分の箇条書引用開始》

・托卵を宿主側が拒否しないことについて、托卵をする托卵鳥にくらべて宿主側の対抗手段が進化していない、つまりタイムラグが生じているという仮説(タイムラグ仮説)と、宿主がコストとのバランスで受容せざるを得ないのではないかという仮説(進化平衡仮説)がある。

・托卵鳥が托卵を拒絶すれば捕食してしまい、宿主は托卵を受け入れざるを得なくなるという「マフィア仮説」が考えられている。

・スペインのグループの研究では、托卵を拒否した場合、巣が捕食される確率が非常に高い(托卵鳥によって捕食されているかは不明)。

・托卵をしてない巣も襲うことで、托卵鳥が托卵をする機会を増やしているとも考えられる。

・宿主側も、捕食されるよりは托卵を受容したほうがメリットを生じるため、托卵を受容している。

   《「まとめ」部分の箇条書引用終了》

以下、『上記の仮説の弱点を補う研究が、つい昨年』(二〇〇七年)、『論文としてまとめられ』たとあって、研究梗概が続くが、試料種がカッコウやホトトギスとは異なるので)托卵鳥がコウウチョウ(香雨鳥:スズメ目ムクドリモドキ科 Molothrus 属コウウチョウ Molothrus ater)、被托卵鳥がオウゴンアメリカムシクイ(スズメ目アメリカムシクイ科 Protonotaria 属オウゴンアメリカムシクイ Protonotaria citrea))、省略し、その研究結果から引き出された『コウウチョウとムシクイでマフィア仮説の検証』結果のみを以下に示す。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部、句読点を変更・打点した。]

・卵消失は托卵鳥によって起こされる。

・托卵を拒否すると捕食されやすい。

・托卵を受容した宿主は拒否した宿主より多くの雛を残す。(←マフィア仮説の核!)

   《引用終了》

『この実験結果から』、

・捕食者は托卵鳥であるコウウチョウであること。

・托卵を拒否すると、托卵鳥であるコウウチョウに捕食される。

・宿主であるムシクイは托卵を受容したほうが、自分の子孫を多く残すことが出来る。

・コウウチョウは托卵を拒否した宿主の巣を捕食することで、托卵の受容を新たに促すことが可能になる。

という事実が明らかになり、以上を纏めると、

   《「後半のまとめ」箇条書部分引用開始》

・宿主の卵や雛の消失は、托卵鳥の捕食によって引き起こされる。

・托卵を排除した場合は、托卵鳥による捕食率が上がる。

・宿主は托卵を受容したほうが、托卵鳥による捕食を免れるために、子孫を多く残すことが出来る。つまりその習性が受け継がれていく。(宿主の需要行動の進化)

・托卵鳥は、托卵を拒否した巣、あるいは托卵していない巣を捕食することで、新規の托卵の機会を増加させる。(托卵鳥の報復行動の進化)

   《「後半のまとめ」箇条書部分引用終了》

という総括が示されてある。最後に行われた質疑応答も示されてあり、やはり非常に重要なポイントを指摘しているので引くと、

〈質問〉『なぜ自種と似ていない托卵鳥の卵・雛を拒絶しないのか?』

〈回答〉『卵は似ているのでなかなか見分けられないのが一点。また親は刷り込みによって「雛」というものを学習するので、もし最初の繁殖のときに托卵されたなら、刷り込みに寄って「雛」が拒絶できない』。

〈質問〉『托卵の進化プロセスは?』

〈回答〉『種内托卵が進化したものではないかと考えられている。同じ種の鳥に托卵するというケースは多く見られる』。

〈質問〉『宿主の排卵のタイミングと托卵鳥の排卵のタイミングが上手く合う理由は?』

〈回答〉『托卵鳥は常に宿主の巣を観察してるらしい。観察しているうちにホルモンバランスが変化し、タイミングよく卵を生むことが出来るのではないか』。

 以上、非常に興味深く読まさせて戴いたが、被托卵鳥が托卵を拒否した場合に、それを襲うのが確かに托卵鳥であるかどうかという点が本邦のケースでは、未だグレーなのは残念であるものの、一つの大きな有り得る可能性として、この「マフィア仮説」は極めて興味深い仮説であると言える。

 私は十年以上前に、被托卵鳥側が、実はそろそろ種全体として「私たちは騙されているのではないかしら?」と気づき始めており、その証拠に、被托卵鳥側の卵が托卵された卵の殻が明確に区別がつくような色と模様に変化し始めているという専門の研究者の話をテレビの番組で視聴し、托卵システムの進化については非常な興味を持ち続けてきた。

 また、実は三年前に、この「マフィア仮説」と同じ内容を耳にしており、その時は、托卵した後、有意な時間に亙って托卵鳥が被托卵鳥の行動を監視し続けるという点に疑問を持ったのだが、教え子から、そういう研究結果があると指摘されてもいたのである(その時に教え子が示して呉れたのは、信州大学教育学部教授中村浩志カッコウとオナガの闘い托卵に見る進化(「アットホーム株式会社」公式サイト内)であった。これも非常に面白いので必読である)。托卵のシステムと進化は、まだまだ目が離せない、面白さを持っている。

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica。樹高八メートル以上の高木に、木の枝や藁などを用いて直径六十センチから一メートルもの球状の巣を作り、金属製のハンガーや針金をも素材にすることで知られる。日本では北海道・新潟県・長野県・福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県で繁殖が記録されており、秋田県・山形県・神奈川県・福井県・兵庫県・鳥取県・島根県・宮崎県・鹿児島県、島嶼部では佐渡島・対馬で生息が確認されている(ここはウィキの「カササギ」に拠った)。カッコウはカササギにも托卵する(後述)。

「穀雨」二十四節気の第六で。通常は旧暦三月内。太陽暦では四月二十日頃。ウィキの「穀雨」によれば、『田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降る』頃、『穀物の成長を助ける雨』の時期の意。「暦便覧」(太玄斎著の暦の解説書。天明七(一七八七)年刊)には『「春雨降りて百穀を生化すればなり」と記されている』とある。

「夏至」二十四節気の第十。旧暦五月内。現在は六月二十一日頃。

「阿公(アコン/ぢい)」「ぢい」は「爺」。以下、現代中国語のピンインとカタカナ音写を示す。「ā gōng」(アー・ゴォン)。

「阿(アボウ/ばゞ)」「ばば」は「婆」。「」は「婆」の異体字であるので、「阿婆」で示すと、「ā pó」(アー・ポォー)。

「割麥(カツモツ)」「gē mài」(グゥー(ァ)・マァィ)。「麦の鞘を割って種を出せ」か。

「挿禾(ツアツホウ)」「chā hé」(チァー・フゥー(ァ))。「穀物を地に挿せ」か。

「脱却(トツキヤツ)」「tuō què」(トゥオ・チュエ)。「穀物の皮殻から、種子よ! 抜け出よ!」か。

「破袴(ホウクワア)」「pò kù」(ポォー・クゥー)。「穀物の『はかま』(皮殻)を、種子よ! 破って芽を出せ!」か。

「農候」各種の大切な農事を行う時期。

「其の脚・脛〔の〕骨、人の夫妻をして相愛たらしむ。……」以下の話はこの「本草綱目」の記載以外には私は知らない。呪術の「五月五日」の限定規定等、他に記されたものがあれば、御教授願いたい。類感呪術なのだろうが、肝心のカッコウの雌雄の睦まじさを知らぬ(後の「三才図会」の「翼を以つて相ひ拂ふ」というのもちっとも仲良くなさそうだし、そもそも托卵自体が母性すらも感じさせず、厭な感じじゃけ)ので不審。

「禽經〔(きんけい)〕」既出既注であるが、再掲しておく。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「仲春」陰暦二月。

「鷂〔(はいたか)〕」タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus

「家家撒穀(キヤアキヤアサツコツ)」先と同じく示す。「jiā jiā sā gǔ」(ヂィア・ヂィア・サァー・グゥー)。「さても! どの家も、穀物の種を撒け!」か。

「家家脱袴(キヤアキヤアトツクワア)」「jiā jiā tuō kù」(ヂィア・ヂィア・トゥオ・クゥー)。

「家家斵磨(キヤアキヤアリウモヲヽ)」「jiā jiā zhuó mó」(ヂィア・ヂィア・ヂゥオ・モォー)。「斵」(音「タク」)は「𣂪」「斲」と同字で、「斧などの大きく重い刃物で切る、又は、削る」の意であるから、「穀類の束を截り、そこから種子を磨り出せ!」と言う意味か。

「石州」「石見國」。

「藝州」「安藝國」。

「豆豆豆豆〔(つつ、つつ)〕」原典を見ると、二字目の「豆」の右手下に微かな小さな横棒が見えるように思われるので、読みでは、かく空けてみた。

「田家〔(のうか)〕」東洋文庫訳のルビを採用した。

「雜穀の種を下〔(おろ)〕す」「下す」は、鼠などに食われぬよう、高いところの保存して置いたものを取り出す、或いは、それを地面に蒔くの意であろう。

「江東」隅田川より東の意と採っておく。千葉は現在、落花生(マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連ラッカセイ属ラッカセイ Arachis hypogaea)の名産地であるが、ウィキの「ラッカセイ」によれば、『南米原産で東アジアを経由して、江戸時代に日本に持ち込まれたと言われている』。『日本には東アジア経由で』宝永三(一七〇六)『年にラッカセイが伝来し、「南京豆」と呼ばれた。ただし、現在の日本での栽培種はこの南京豆ではなく、明治維新以降に導入された品種である』とあり、「和漢三才図会」は正徳二 (一七一二) 年の成立で、この時、千葉で落花生栽培が盛んになっていたとは到底、思われないから、「江東」は単に江戸の東の江戸の穀類の需要を支える農村地帯を指し、「豆」は広義の穀類の種を言っているものと思う。

「俗に郭公を以つて杜鵑〔(ほととぎす)〕と爲すは、甚だ、謬〔(あやま)〕れり」言わず緒がなであるが、「杜鵑」はカッコウと同じ、カッコウ属で、種としては異なり、Cuculus poliocephalus である。但し、どちらも同じ初夏(五月頃)に本邦に渡って来ること、ホトトギスも托卵することなどの共通点は多い。しかし、同志社女子大学公式サイト内大学日本語日本文学科教授吉海(かい)直人ほととぎす」をめぐってにある通り、江戸よりも以前の人々の多くは両者を混同・誤認などはしていないのである(そもそもが、カッコウが江戸以前の都会人には馴染みのない鳥であることを考えれば、これは寧ろ、当たり前なのである)。以下、引用すると、『古典の世界では、「かっこう」と「ほととぎす」の混同など生じていません。少なくとも平安時代において、「かっこう」は文学に全く登場していないからです。要するに現代では「郭公」に二つの読み(意味)がありますが、古典では「ほととぎす」という読みしかなかったのです。というよりも、「ほととぎす」という鳥にはなんと二十を超す異名が存在します。それは「時鳥」「霍公鳥」「蜀魂」「無常鳥」「杜宇」「しでの田長」「早苗鳥」「田鵑」「勧農鳥」「夕影鳥」「黄昏鳥」「菖蒲鳥」「橘鳥」「卯月鳥」「妹背鳥」「うなゐ鳥」「魂迎鳥」「沓手鳥」「不如帰」「杜鵑」「子規」等です』とあり、また、ホトトギスは『中国の故事に由来するものは「死・魂・悲しみ」のイメージをひきずっているとされています。「しでの田長」は本来身分の低い「賎(しづ)の田長」だったようですが、それが「死出」に変化したことで、「田植え」のみならず冥界と往来するイメージまで付与されました』ともある。本条はホトトギスの項(「杜鵑」はここからまだ十一項後)ではないが、吉海先生のそれは判り易くまた、知的にも面白いので、特にリンクと引用をさせて戴いた。

「神を安〔んじて〕志〔(こころ)〕を定む」精神を安定させ、気持ちをしっかりとさせる。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 青䳡(やまばと) (アオバト)

Yamabato

 

やまばと  黃褐侯

【音錐】

      【俗云也

       末波止】

ツイン シユイ

 

本綱青鶴狀如鳩有白鳩綠鳩其聲如小兒吹竽今夏

月出一種糠鳩微帶紅色小而成群掌禹錫所謂青

化斑隹恐卽此也好食桑椹及半夏苗

按青居山林而不移村里故俗呼曰山鳩狀如斑鳩

 而項背深綠目前觜後至臆黃色臆有綠斑毛腹白有

 綠文羽尾黑啄蒼脛掌紅其聲如言比宇比宇宛然似

 小兒吹竽

 本朝天子有稱山鳩色御衣綠黃而象此鳩乎

 

 

やまばと  黃褐侯〔(くわうかつこう)〕

【音、「錐〔(スイ)〕」。】

      【俗に「也末波止」と云ふ。】

ツイン シユイ

 

「本綱」、青鶴、狀、鳩のごとく、白鳩・綠鳩、有り。其の聲、小兒の吹く竽(ふへ[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。今、夏月、一種「糠鳩(こばと)」を出だす。微〔(かすか)〕に紅色を帶ぶ。小にして群れを成す。掌禹錫が所謂、「青」〔は〕、秋、「斑隹〔(はんすい)〕」に化すといふ。恐くは、卽ち、此れなり。好んで桑の椹〔(み)〕及び半夏〔(はんげ)〕の苗を食ふ。

按ずるに、青〔は〕山林に居りて村里〔には〕移らず。故に、俗に呼んで「山鳩」と曰ふ。狀、斑鳩〔(はと)〕のごとくして項〔うなじ〕・背、深綠。目の前〔と〕觜の後〔ろより〕臆〔むね〕に至る〔まで〕黃色。臆に綠斑〔の〕毛有り。腹、白〔く〕綠文有り。羽・尾、黑。啄〔(くちばし)〕、蒼。脛・掌、紅なり。其の聲、「比宇比宇〔(ひうひう)〕」と言ふがごとし。宛-然(さながら)小兒の吹く竽〔(ふえ)〕に似たり。

 本朝の天子、「山鳩色」と稱へる御衣〔(ぎよい)〕有り。綠黃にして此の鳩を象(かたど)るか。

[やぶちゃん注:ハト科アオバト属アオバト Sphenurus sieboldii平塚市・大磯町をフィールドに持つアマチュア・バードウォッチングのグループサイト「こまたん」の「アオバトの形態」によれば、漢字名は「緑鳩」。『中国南東部・台湾・ベトナム北部に分布』し、『日本では留鳥、漂鳥として北海道から九州で繁殖し、北部のものは冬に南へ移動する。北海道では夏鳥、薩摩諸島、南西諸島では冬鳥』。『丘陵地から山地の林に生息し、群で行動することが多い。初夏から秋にかけて海岸に群をなして海水を飲みに来る習性があり、北海道小樽市張碓や神奈川県大磯、静岡県浜名湖などが有名な渡来地』。『記録は大隅諸島・伊豆諸島・小笠原諸島からもある』。『雌雄』、『ほぼ同色。成鳥雄では額と喉から胸は黄色ないし緑黄色。頭頂から背は緑灰色。中・小雨覆は赤紫で、大雨覆は緑褐色。腹からの体下面は淡い黄白色で、下尾筒は長く幅広い黒褐色の軸斑がある。成鳥雌は全体に雄より淡色で』、『中・小雨覆に赤紫色はない。嘴は柔らかく』、『青灰色。足はピンク。虹彩は外側が赤、内側が青』。『幼鳥は大雨覆の先端と次列風切の先端に淡黄色の部分が目立ち』、二『本の白い帯に見える。初期の頃は成鳥に比べて体全体が小さく』、『次列風切羽部分の翼の幅が狭く、嘴は青灰色ではなく、肉色である。飛んでいるとき尾羽は短く見える。雄の幼鳥は雨覆の赤紫の部分が』二~三『本の帯または』、『まだら模様に見える』。巣は『潅木・低木の小枝に薄っぺらい座(platform)を作』り、『白い』二『つの卵を抱く』。『繁殖期に』は『オーアオーアーーオーアオー』『などと鳴』き、『この他、早口でつぶやくように』『ポーポッポッポッポ』……『と鳴く』とある。

「其の聲、小兒の吹く竽(ふへ)のごとし」「竽」(ふえ)は「竿」ではない(たけかんむり)の下は「干」ではなく「于」である)ので注意。「笛」ではあるが、厳密には「竽(ウ)」と称する中国古代の管楽器を指す。形状は大きな「笙(しょう)」の笛といった感じで、音が低い。竹管全二十二本・十一本ずつの二列配置。戦国時代から宋まで使われたが、その後は使われなくなり、日本にも奈良時代に伝来したものの、平安時代には既に使われなくなった(ここはウィキの「楽器)に拠った)。さて、先に引用した「こまたん」の終りにも鳴き声が音写されてあるが、You Tube caabj209氏の「アオバトの鳴き声を聴いてみると、う~ん、投稿者の『近所のお年寄りの方は不吉な鳴き声と考えています』という言い添えが、残念ながら、腑に落ちる感じがした。

「糠鳩(こばと)」固有の種名ではない。先の本第四十二の巻頭の「林禽類 斑鳩(はと) (シラコバト・ジュズカケバト)」の標題部の下部にある割注に『其子曰鳩役鳩糠鳩』(其の子、鳩〔(ふきゆう)〕」「役鳩」「糠鳩〔(こうきゆう)〕」「卽皐〔(そくこう)〕」「辟皐〔(へきこう)〕」と曰ふとあったのを思い出されたい。なんのことはない、「子鳩」、アオバトの子の意である。

「掌禹錫」(しょううしゃく 九九二年~一〇六八年)宋代の官人で本草学者。官は尚書工部侍郞。「嘉祐補註本草」(別称「補註神農本草」)二十卷を撰した。ここに見るように、彼の諸記載はこの「本草綱目」にもしばしば引かれている。

「斑隹〔(はんすい)〕」時珍はこれが「糠鳩(こばと)」、アオバトの子を指しているというのである。因みに、実は良安は引いていないが、先の斑鳩」の「本草綱目」の「集解」の冒頭にも、時珍の引用で『禹錫曰、斑鳩、是處有之春分化爲黃褐侯、秋分化爲斑黃褐侯靑也』と同類のことを言っている。これはしかし、親が産んだ子の出現のニュアンスでは最早なく、事実は変化(メタモルフォーゼ)するの謂いとしか読めない点は注意しておく必要がある。

「椹〔(み)〕」この単漢字で「桑の実」の意がある。

「半夏〔(はんげ)〕」既出既注であるが、再掲しておく。ここでは、コルク層を除いた塊茎を生薬で「半夏」と呼ぶ、単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓)Pinellia ternata ととっておく。ウィキの「カラスビシャク」によれば、『鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他にホモゲンチジン酸を含む。またサポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。またかつては、つわりの生薬としても用られていた』。但し、『乾燥させず生の状態では』有毒劇物である『シュウ酸カルシウムを含んでおり』、『食用は不可能』とある。なお、真正和名が「半夏生」の双子葉植物綱コショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensis があるが、この記載は「本草綱目」なのでこれではない。

『俗に呼んで「山鳩」と曰ふ』現行では「山鳩」(ヤマバト)はキジバト属キジバト Streptopelia orientalis の異名であるので注意。

『「山鳩色」と稱へる御衣〔(ぎよい)〕』サイト「伝統色のいろはの「山鳩色で色を確認されたい。そこによれば、『山鳩の羽のような灰みの強い鈍い黄緑色のことです。山鳩とは青鳩のことで、色名はその羽の色に由来しています。「麹塵」や「青白橡」は同じ色であり、禁色(きんじき)における「青」をあらわす一般の使用が禁じられた色でした』。『ちなみに、天皇が平常着用された袍(ほう)の色で、「山鳩色の袍」または「麹塵の袍」「青白橡の袍」と呼ばれていたようです』とある。そこにも少し引かれているが、「平家物語」巻第十一の「先帝御入水(ごじゆすゐ)」での、安徳天皇の入水時の着衣である。一読、忘れ難いシークエンスであるので引いておく。底本はばらばらになるまで読んだ講談社文庫高橋貞一校注(昭和四七(一九七二)年刊)に拠ったが、漢字を恣意的に正字化し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂した。

   *

主上(しゆしやう)、あはれなる御有樣にて、

「抑(そもそも)尼前(あまぜ)、われをばいづちへ具して行かんとはするぞ。」

と仰せければ、二位殿、幼(いとけな)き君に向ひ參らせ、淚をはらはらと流いて、

「君は未だ知(しろ)し召され候(さぶら)はずや。先世(せんぜ)の十善戒行(かいぎやう)の御力(おんちから)によつて、今(いま)萬乘(ばんじよう)の主(あるじ)とは生れさせ給へども、惡緣に引かれて、御運、既に盡きさせ候ひ給ひぬ。先づ、東(ひんがし)に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させおはしまし、その後(のち)、西に向かはせ給ひて、西方淨土の來迎(らいかう)に預(あづか)らんと誓(ちか)はせおはしまして、御(おん)念佛候べし。この國は粟散邊土(ぞくさんへんど)[やぶちゃん注:小さな辺鄙な国。]と申して、ものうき境(さかひ)にて候。あの波の下にこそ、極樂淨土とて目出度き都の候。それへ具し參らせ候ふぞ。」

と、樣々に慰め參らせしかば、山鳩色の御衣(ぎよい)に、鬢(びんづら)結(ゆ)はせ給ひて、御淚(おんなみだ)におぼれ、小(ちひ)さう美しき御手(おんて)を合(あは)せ、先づ、東(ひんがし)に向はせ給ひて、伊勢大神宮・正八幡宮(しやうはちまんぐう)に、御暇申させおはしまし、その後(のち)、西に向はせ給ひて、御念佛ありしかば、二位殿、やがて抱き參らせて、

「波の底にも、都の候(さぶらふ)ぞ。」

と慰め參らせて、千尋(ちひろ)の底にぞ沈み給ふ。

 悲しき哉かな 、無常の春の風、忽ちに花の御姿をちらし、いたましきかな、分段(ぶんだん)の荒き波、玉體(ぎよくたい)を沈め奉る。殿(てん)をば「長生(ちやうせい)」と名づけて、長き住家(すみか)と定め、門をば「不老」と號して老いせぬ關(とざし)とは書きたれども、未だ十歳(じつさい)の内にして、底の水屑(みくづ)とならせ給ふ。十善(じふぜん)帝位の御果報、申すもなかなか愚かなり。雲上(うんしやう)の龍(りよう)降(くだ)つて海底(かいてい)の魚(うを)となり給ふ。大梵高臺(だいぼんかうだい)の閣の上、釋提喜見(しやくだいきけん)の宮(みや)の内(うち)[やぶちゃん注:大梵天王の居ます宮殿と帝釈天の居ます喜見城。宮城の比喩。]、古(いにしへ)は槐門棘路(くわいもんきよくろ)[やぶちゃん注:大臣・公卿。]の間(あひだ)に九族(きうぞく)[やぶちゃん注:一家一門。]を靡(なび)かし、今は船の中(うち)、浪の下に、御身を一時(いつし)に亡(ほろ)ぼし給ふこそ悲しけれ。

   *]

2018/10/24

和漢三才圖會第四十三 林禽類 孔雀鳩(くじやくばと) (クジャクバト)

Kujyakubato

くじやくはと

 

孔雀鳩

 

△按孔雀鳩形色似斑鳩尾異凡鳩尾皆十二此鳩尾有

 二十四雌雄交則共立其尾而如摺扇亦如立孔雀尾

 故俗名孔雀鳩近年自中華來畜之樊中生子以爲珍

 

 

くじやくばと

 

孔雀鳩

 

△按ずるに、孔雀鳩、形・色、斑-鳩〔(はと)〕に似て、尾、異なり。凡そ、鳩の尾、皆、十二〔なるに〕、此の鳩は、尾、二十四有り。雌雄交はるときは、則ち、共に其の尾を立てて、摺扇〔(せんす)〕のごとし。亦、孔雀の尾を立つるがごとし。故に、俗に「孔雀鳩」と名づく。近年、中華より來たる。之れを樊〔(かご)の〕中に畜ひ、子を生〔ませ〕、以つて珍と爲す。

[やぶちゃん注:複数回既出のハト目ハト科カワラバト属カワラバト Colombo livia var domesticaの一品種。サイト「動物」によれば、『カワラバトを品種改良して作』り『出された観賞用のハトで』、五『世紀以上前にインドで誕生したと』される。『通常のハトよりも尾羽の枚数が』二倍から三倍『ほど多く、その羽根を広げるとクジャクのような』感じに『なるため「クジャクバト」と名付けられ』たとある。所謂、「ファンテイル」=「fantail」で、幅広の扇(ファン)形をした尾を持つあれだ。「進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第三章 人の飼養する動植物の變異(3) 二 鳩の變種」の挿絵を見られれば、「ああ、あれか」と合点されるはずである。実際、白色の個体が多く、しばしば見かけるのであるが、私は何故か生理的に嫌いな鳩である。あの白い広げた尾羽に私は逆に異様な不潔感というか、卑猥な印象を感じてしまうのである。恐らくは、私自身を精神分析すれば、深層に驚くべき理由が何かありそうな気はするのだが。或いは、まさにここに書かれているような交尾シーンを幼少期に動物園かどこかで見てしまったトラウマなのかも知れぬ(しかし、それでは精神分析にはならぬ。何かの代償的な性的体験があってこそフロイト的である)。というわけで、これ以上、注する気にはなれぬ。悪しからず。]

和漢三才圖會第四十三 林禽類 目次・斑鳩(はと) (シラコバト・ジュズカケバト)

  

和漢三才圖會卷第四十三[やぶちゃん注:「目錄」の字が脱字。]

 

   林禽類

 

斑鳩(はと) 【つちくれ・としよりこい】

孔雀鳩(くじやくはと)

(やまはと)鳹(ひめ・しめ)

鳲鳩(ふふとり) 【つゝとり】

桑鳲(まめとり) 【いかるが・まめまはし[やぶちゃん注:ママ。「まめうまし」の誤記。]】)

鵙(もず)

鳩(きうく)

鸜鵒(くろつぐみ)

百舌鳥(つぐみ)

𪃹(しなひ) 【あかッぱら】

練鵲(をながどり)

連雀(れんじやく)

鶯(うぐひす)

杜鵑(ほととぎす)

蟲喰鳥(むしくひ)

加豆古宇鳥(かつこうどり)

慈烏(からす)

大觜烏(はしぶと)

燕烏(ひぜんからす)

山烏(やまからす)

鵲(かさゝぎ)

山鵲(やまかさゝき)

鶻嘲(あさなきとり)

(あふむ)

秦吉了(さるか)

烏鳳(三光どり)[やぶちゃん注:「烏」はママ。「鳥」の誤字。]

鵯(ひえとり) 【ひよとり】

島鵯(しまひよとり)

椋鳥(むくとり)

橿鳥(かしとり)

啄木鳥(てらつゝき)【きつゝき】

鸒(うそとり)

文鳥(ぶんちやう)

駒鳥(こまとり)

畫眉鳥(ほじろ)

頭鳥(かしらとり)

仙遊鳥(せんゆうとり)

鵐(しとゝ)

山雀(やまがら)

小雀(こから)

四十雀(しちうから[やぶちゃん注:ママ。])

日雀(ひから)

額鳥(ぬかとり)

鶸(ひわ)

惠奈加鳥(ゑながどり)

眼白鳥(めじろ)

菊戴鳥(きくいたゝき)

獦子鳥(あとり)

猿子鳥(ましこ)

伊須加鳥(いすかとり)

鶲(ひたき)

瑠璃鳥(るり)

深山鳥(みやまとり)

木鼠鳥(きねずみ)

(と)

𩿦(しと)
 

 

和漢三才圖會卷第四十三

      攝陽 城醫法橋寺島良安【尚順】編

  林禽頬Sirakobato

はと   錦鳩 斑隹

     鵓鳩 祝鳩

斑鳩

     【其子曰

      役鳩 糠鳩

パンキウ  卽皐 辟皐】

本綱斑鳩狀小而灰色及大而斑如梨花點者並不善鳴

【今云壤鳩雉鳩之類】惟項下斑如連珠者聲大能鳴可以作媒引鳩

【今云八幡鳩數珠懸】鳩性孝而拙於爲巢纔架數莖往往墮卵天

將雨卽逐其雌霽則呼而反之故曰鷦鷯巧而巢危鳩拙

而安或云雄呼晴雌呼雨

肉【甘平】主治明目助陰陽久病虛損補氣令人不噎

按斑鳩有數種俗云壤鳩八幡鳩南京鳩

壤鳩【豆知久礼波止】 鳩類中之最大者常棲山林而不近人家

 頭背灰黑色而有赤斑彪相交如錦胸腹柹赤色觜蒼

 脚淡赤尾本灰色末黑其聲短其味美九州之産最佳

 食以爲藥者是也

八幡鳩【止之與里古伊】 形小於壤鳩遍身柹白色頂下有蒼黑

 輪似懸數珠於頸者觜黑脚脛淡赤其尾本灰白末黑

 色常棲山林四時鳴秋月最甚其聲高亮如言老來也

 畜之極難馴經年亦放籠則再不還來其肉不美城州

 八幡山最多俗以爲神使好事者書八字彷彿鳩之雌

 雄八幡生土人誤食之則唇脹腫悶亂矣蓋此神與人

 相感令然者乎

南京鳩 項背紫青斑而頸有黑紋眼邊微紅頰臆青胸

 腹紫紅羽黑尾碧白嘴脚蒼近世來於中華甚賞玩之

 新六帖入日さす山下陰の村しはに鳩鳴かはす秋の夕暮 爲家

はと   錦鳩 斑隹〔(はんすい)〕

     鵓鳩〔(ぼつきゆう)〕 祝鳩

斑鳩

     【其の子、「鳩〔(ふきゆう)〕」

      「役鳩」「糠鳩〔(こうきゆう)〕」

      「卽皐〔(そくこう)〕」

パンキウ  「辟皐〔(へきこう)〕」と曰ふ。】

「本綱」、斑鳩、狀、小にして、灰色、及び大にして、斑〔(まだら)〕、梨花の點のごとき者は、並びに善く鳴かず。【今、云ふ、「壤鳩〔(つちくればと)〕」・「雉鳩〔(きじばと)〕」の類。】惟だ、項〔(うなじ)〕の下、斑にして連珠のごとき者〔は〕、聲、大にして能く鳴く。以つて媒(をとり)と作〔(な)〕して、鳩を引く【今、云ふ、「八幡鳩〔(はちまんばと)〕」・「數珠懸〔(じゆずかけ)〕」。】鳩の性、孝〔(すなほ)〕にして巢を爲〔(つく)〕るに拙〔まず)〕し。纔かに數莖を架〔(か)〕して、往往、卵を墮〔(おと)す〕。天、將に雨〔(あめふ)らんとせば〕、卽ち、其の雌を逐ふ。霽〔(は)る〕るときは、則ち、呼びて之れを反〔(かへ)〕す。故に曰ふ、『鷦鷯(みそさゞい)は巧みにして、而〔しかれど〕も、巢、危〔(あやふ)く〕、鳩は拙にして、而〔しかれど〕も安し』、或いは云ふ、『雄は晴〔(はれ)〕を呼び、雌は雨を呼ぶ』〔と〕。

肉【甘、平。】主治、目を明にし、陰陽を助け、久〔しき〕病〔による〕虛損、氣を補ひ、人をして噎〔(つかへ)〕ざらしむ。

按ずるに、斑鳩に數種有り、俗に云ふ、「壤鳩」・「八幡鳩」・「南京鳩」。

壤鳩【「豆知久礼波止〔(つちくればと)〕」。】 鳩類中の最大の者。常に山林に棲み、人家に近づかず。頭・背、灰黑色に赤斑の彪(ふ)有り。相ひ交りて、錦のごとし。胸・腹、柹赤色。觜、蒼。脚、淡赤。尾の本〔は〕灰色〔にして〕末〔は〕黑。其の聲、短し。其の味、美〔(よ)し〕。九州の産、最も佳なり。食ひて、以つて藥と爲〔(な)〕すは、是れなり。

八幡鳩【「止之與里古伊〔(としよりこい)〕」。】 形、壤鳩より小さく、遍身、柹白色。頂の下、蒼黑の輪、有りて、數珠を頸に懸くる者に似たり。觜、黑。脚・脛、淡赤。其の尾、本は灰白〔にして〕末〔は〕黑色。常に山林に棲み、四時、鳴く。秋月、最も甚〔しく〕、其の聲、高亮〔にして〕「老來(としよりこい)」と言ふがごときなり。之れを畜〔ふも〕、極めて馴れ難く、年を經ても亦、籠〔より〕放〔てば〕、則ち、再〔びは〕還り來らず。其の肉、美〔(よ)〕からず。城州八幡山〔(やはたやま)〕に最も多く、俗に以つて神使と爲す。好事の者、八の字を書きて鳩の雌雄に彷-彿(さもに)たり。八幡〔が〕生土(うぶすな)の人、誤りて之れを食ふときは、則ち、唇、脹腫し、悶亂す。蓋し、此れ、神と人と相ひ感じて然らしむる者か。

南京鳩 項・背、紫青斑にして、頸に黑紋有り。眼の邊り、微紅。頰・臆〔むね〕、青。胸・腹、紫紅。羽、黑。尾、碧白。嘴・脚、蒼し。近世、中華より來〔れるものにして〕、甚だ之れを賞玩す。

 「新六帖」

   入日さす山下陰の村しばに

      鳩鳴いかはす秋の夕暮 爲家

[やぶちゃん注:既に「原禽類 鴿(いへばと)」が出ていて、そこでは当該種を馴染みのハト目ハト科カワラバト属カワラバト Colombo livia var domestica として同定してしまっており(キジバト属キジバト Streptopelia orientalis も同定候補の一つとして出してしまっている)、また、「斑鳩」という標題種名(これは「いかるが」で、スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata の異名の一つとされることがあるが、完全な誤用で、イカルの漢字表記は「鵤」桑鳲」中国語名「黑頭蜡嘴雀」「桑鳲」「黃嘴雀」である)にも戸惑ったのだが、結論から言うと、後注するように、キジバトも混在しているものの、ここで言っている種は、基本、

ハト目ハト科キジバト属シラコバト Streptopelia decaocto

キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria

と思われる。後者はシラコバト(白子鳩)の飼養品種となったものとされ、そのジュズカケバトの白変種で、ギンバト(銀鳩)と呼ばれるものも存在する。ウィキの「シラコバト」によれば、『シラバト、ノバトなどとも呼ばれ』、全長は約三十三センチメートルで、『雌雄同色。全身が灰褐色で、背と尾は褐色みが増す』。『ユーラシア大陸や北アフリカ』に主に分布し、『日本に生息する個体は江戸時代に移入されたものが野生化したといわれるが、もともと生息していたという説もある。生息区域は、関東地方北東部(千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東部)である。一時期は埼玉県東部(越谷市)にまで狭められ』、昭和三一(一九五六)年一には『種として国の天然記念物に指定された。その成果もあり、最近は群馬県南部でも生息が確認された。これとは別に、山口県萩市の見島では朝鮮半島から飛来したと考えられる個体の観察記録が残る』とある。なお、現代中国語では「斑鳩」、俗に「灰鴿子」と呼ばれる。

 一方、ウィキの「ジュズカケバト」を見ると、『中央アフリカ原産のバライロシラコバト Streptopelia roseogrisea が原種とされる』。全長は二十五~三十センチメートルで、『全体的に淡い灰褐色』を呈し、『後頸部に半月状の黒輪がある』。『風切羽は黒褐色』、『嘴は暗褐色』。『シラコバトによく似ている』『が、背や翼の褐色がシラコバトよりも薄い。白変種をギンバト(銀鳩)といい』、『全身』、『白色で嘴と脚が紅色』である。『古くから世界中で飼育されて』おり、『一部の地域では野生化しており』、『アメリカのロサンゼルス、タンパ』(Tampa:フロリダ州中部のメキシコ湾側のタンパ湾奥部に位置する保養都市。ここ(グーグル・マップ・データ))『マイアミでは大群となっている』とある。

「壤鳩〔(つちくればと)〕」これは「土塊鳩」で「土鳩」、ドバトであり、ドバトはイコール、カワラバト属カワラバト Colombo livia var domestica であることは、既に「原禽類 鴿(いへばと)」で考証したので繰り返さない(私はそこで示した通り、「土鳩」は元は「堂鳩(鴿)」(どうばと)の約であろうと考えている)。

「雉鳩〔(きじばと)〕」キジバト属キジバト Streptopelia orientalis

「項〔(うなじ)〕の下、斑にして連珠のごとき者」「數珠懸〔(じゆずかけ)〕」キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria

「八幡鳩〔(はちまんばと)〕」「八幡鳩【「止之與里古伊〔(としよりこい)〕」。】」良安は別種として項立てしているが、個人ブログ「ながらの森(野鳥)」の「シラコバト(白子鳩 )」に、昭和七(一九三二)年『冨山房発刊「大言海」では「シラコバト」は記載されておりませんが、その代わり「ジュズカケバト(數珠掛鳩)」が有ります。その説明(2P899)は「ずずかけばと同ジ」とされ『山ニ多シ、形鳩ヨリ稍小サクシテ、羽ノ色、數十品アリ、皆、頸ニ白キ斑アリ、聲高クシテ、淸ム。又、八幡鳩、斑鳩』となっています』あり、黒田長禮(ながみち)著「旅と鳥」(一九五九年法政大学出版刊)で、『著者が興味を深い記事として』『紹介してい』るとして、小野蘭山の「重修本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)刊。蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理したもの)の「三十三林禽乃部」『には、『斑鳩は市へは稀に来る。山村には此鳥多く、その形状鴿(ドバト)に同じくして微小ク皆頸項に黒は斑文あり、数珠を掛けたる将(オサ)に似ている。鳴く声「年寄り来い」と云うが如し、京にて鳩「キジバト」を「トシヨリコイ」と云う。同名なり。然れども其声に小異あり。鳩は声濁りて「トシヨリコイ、トシヨリコイ」と鳴く。九州にて「与惣次コイコイ」と鳴くと聞いて、他与惣三バトと呼ぶ。奥州にては「テテイポウポウ・テテイポウポウ」と鳴くと聞える、皆後「コイコイ」重ね鳴く、斑鳩は声高く清みて、「年寄り来い」とのみ鳴、「来い来い」と重ねず』と文献を用いて異名・別名を紹介してくれています。この文中に出てくる斑鳩は、異名として「数珠掛鳩(じゅずかけばと)、斑鳩(じゅづばと)、八幡鳩、及び年寄来い」と名付けについて詳細に解説しています』と記しておられ、本「八幡鳩」「としよりこい」はジュズカケバトの異名であることが判る。

孝〔(すなほ)〕」東洋文庫訳のルビを採った。「」は「」「愨」とも書き、中国語の文語で「真面目である・誠実である」の意である。

「纔かに數莖を架〔(か)〕して」僅か数本の草木の枝葉を掛け渡して(しか巣を作らぬから)。

「鷦鷯(みそさゞい)は巧みにして、而〔しかれど〕も、巢、危〔(あやふ)く〕、鳩は拙にして、而〔しかれど〕も安し」「鷦鷯(みそさゞい)」はスズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes を指す(既に注したが、ウィキの「ミソサザイ」によれば、ミソサザイは森の中の崖地や大木の根元などに、苔類や獣毛等を使って壷型の巣を作るが、他の鳥と異なり、オスは自分の縄張りの中の二個以上の巣を作り、移動しながらさえずってメスを誘い、オスが作るのは巣の外側のみで実際の繁殖に使用されるものは、作られた巣の内の一個のみで、巣の内側はオスとつがいになったメスが完成させる。また、巣自体にも特徴があり、通常の壷巣は出入口が一つのみであるが、ミソサザイの巣は、入口と出口の双方がそれぞれ反対側に設計されおり、抱卵・育雛中の親鳥が外敵から襲われると、中にいる親鳥は入り口とは反対側の出口から脱出するといわれている。これは昔の人が見ても良く出来た巣だと思うであろう)。これについて、東洋文庫は以下のような注を附す。『『詩経』(國風、召南、鵠巣)に、鵲』(かささぎ:スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica:樹高八メートル以上の高木に、木の枝や藁などを用いて直径六十センチから一メートルもの球状の巣を作り金属製のハンガーや針金をも素材にすることで知られる)『は巣をつくるのが巧く、鳩は巣をつくるのが下手なので、鳩は鵲の知らぬ間に、鵲の巢に入り込む、とある。つまり鳩は他鳥の立派な巢にぬくぬくと入り込むので安全というのであろうか』。はて? そうだろうか? ふと私は不審に思った。何故かと言うと、前の「天、將に雨〔(あめふ)らんとせば〕、卽ち、其の雌を逐ふ。霽〔(は)る〕るときは、則ち、呼びて之れを反〔(かへ)〕す」のは何故だろう? と私は考えたからだ。これは、実は、巣がお粗末で雨を防げないから、雌を別なところへ避難させるのではないか? 晴れたら、戻っておいでと(その場合、しかし「雄は晴〔(はれ)〕を呼び、雌は雨を呼ぶ」というのは、雌が浮気性だからかしらん?)。そこでさらに考えた。精巧で完璧な巣は実は雨に弱くないか? 完全防水の巣の底は水が浸透せず、水浸しになってしまうか、或いは雨水を含んで重くなって膨張し、営巣場所から巣丸ごと落下してしまう危険が出てくるのではないか? 却って隙間だらけの鳩の巣は、水が抜けて、安全なのではなかろうか? 私の勝手な夢想である。

「噎〔(つかへ)〕ざらしむ」「噎」は音「イツ」で、咽喉が詰まったり、咽(むせ)んだり、閊(つか)えたりすることを指す。

「四時」一年中。

「高亮」高くはっきりしていること。東洋文庫訳による。

『「老來(としよりこい)」と言ふがごときなり』You Tube Birdlover.jpシラコバトのカワイイ鳴き声を聴いていると、不思議にそう聴こえてくる!

「城州八幡山〔(やはたやま)〕」現在の京都府八幡(やわた)市八幡高坊(やわたたかぼう)にある鳩ヶ峰の別名(男山とも呼ぶ)。標高百四十三メートル。山上に石清水八幡宮がある。(グーグル・マップ・データ)。

「好事の者、八の字を書きて鳩の雌雄に彷-彿(さもに)たり」八幡宮の額にはよくある。例えば、鶴岡八幡宮の「八幡宮寺額」(私の鎌倉攬勝考卷之二(幕文政一二(一八二九)年植田孟縉(うえだもうしん)著)より)。

Hatimannguuji

「八幡〔が〕生土(うぶすな)の人」その八幡宮の氏子。

「神と人と相ひ感じて然らしむる者か」わざわざ勿体附けて事大主義的な謂い方せんでもええんとちゃう? 良安先生? ただ普通に神罰が下ったんやて。

「南京鳩」小学館「日本国語大辞典」には『イエバトの一品種。羽色はジュズカケバトに似て、さらに小形のもの』とある。イエバトはカワラバト Colombo livia var domestica のこと。記載から見ると、かなり派手なんだが? よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

臆」と「胸」がどう違うのか、よく判らぬ。叙述から見ると、「頰」の後に続けているから胸の上部を「臆」と言っているように私には思われるのだが。識者の御教授を乞う。

「新六帖」鎌倉中期に成った類題和歌集「新撰六帖題和歌集」(全六巻)。藤原家良・藤原為家(定家の次男)・藤原知家・藤原信実・藤原光俊の五人が、仁治四・寛元(一二四三)年頃から翌年頃にかけて詠んだ和歌二千六百三十五首が収められてある。奇矯・特異な歌風を特徴とする(ここは東洋文庫版書名注に拠った)。当該和歌集は所持しないので校訂不能だが、日文研の「和歌データベース」(全ひらがな濁点なし)で同歌集を確認したところ、「第二 野」に相同で載る。

古今百物語評判卷之四 第五 鵼の事附弓に聖人の遺法ある事

 

  第五 鵼(ぬえ)の事弓に聖人の遺法ある事


Nue


又いはく、「鵼といふ物は深山(みやま)幽谷(ふかきたに)にすめる化鳥(けてう)なり。源三位賴政、あし手は虎のごとき獸(けだもの)のとび來たりしを射て、後(のち)、また、誠(まこと)の鵼を射し事、「平家物語」に見えたり。又、廣有(ひろあり)が怪鳥を射し事、「太平記」にあり。「徒然草」に鵺(ぬえ)のなく時、招魂の法を行ふ事、眞言宗の書にみえたるよしを云へり。いかさまにも妖怪をなすものならし。かやうのあやしきたぐひ、多(おほく)は蟇目(ひきめ)のおとに恐れ、又、しとむるも、かならず、弓箭(ゆみや)のわざなるは、古老の説に、凡そ、もろもろの器(うつはもの)は、聖人の手より始まるとは申せども、大やうは、其形、變じ、さまかはりて、觚(こ)も觚ならずのたぐひなるに、この弓ばかり、猶、いにしへの制法にたがはず、聖人の作爲(さくゐ)のまゝなる故、鵼にかぎらず、狐狸豺狼(こりさいらう)のるいまで、此音(おと)を恐るゝと見えたり」と申されき。

[やぶちゃん注:「平家物語」の「源三位(げんさんみ)賴政」の鵺(ぬえ)退治については、既に「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の私の注で原典を電子化し、詳細な注も附してあるのでそちらを見られたい。但し、そこでも注意を喚起したが、「平家物語」で語られる妖怪は、あくまで「鵺の声で鳴く」「得体の知れないもの」であって、名前はついていなかったことは知っておく必要がある(但し、百二十句本(平仮名本)「平家物語」のみに「五海女(ごかいじょ)」という不思議な名が記されてはある)。則ち、実在する鳥としての「ぬえ」(鳴き声から不吉な鳥とはされていたが、スズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma とするのが定説である。nagagutsukun2氏のYou Tube の音声)ではない、ハイブリッドのキマイラ的実体妖獣の名としての「鵼・鵺」は、この頼政が退治した時点では未だつけられていなかったということである。

『廣有(ひろあり)が怪鳥を射し事、「太平記」にあり』「太平記」巻第十二の「廣有、怪鳥を射る事」。以下に全文を示す(参考底本は新潮日本古典集成版。但し、漢字を恣意的に正字化した)。

   *

 元弘三年[やぶちゃん注:一三三三年。同年五月二十一日に鎌倉幕府は滅亡している。]七月に改元あつて建武に移さる。これは後漢の光武、王莽(わうまう)が亂を治めて再び漢の世を繼がれし佳例なりとて、漢朝の年號を模(うつ)されけるとかや。今年、天下に疫癘(えきれい)あつて、病死する者、はなはだ多し。これのみならず、その秋の頃より、紫宸殿の上に怪鳥(けてう)出で來たつて、「いつまで、いつまで」とぞ鳴きける。その聲、雲に響き、眠りを驚かす。聞く人、皆、忌み恐れずといふ事無し。すなはち、諸卿、相議(あひぎ)していはく、「異國の昔、堯(げう)の代に、九つの日、出でたりしを、羿(げい)といひける者、承つて、八(やつ)つの日を射落せり。我が朝のいにしへ、堀川(ほりかはの)院の御在位の時、變化(へんげ)の物あつて、君を惱ましたてまつりしをば、前(さきの)陸奧守義家、承つて、殿上の下口(したぐち)に候(こう)し、三度(さんど)、弦音(つるおと)を鳴らしてこれを鎭(しづ)む。また、近衞(このゑの)院の御在位の時、鵺(ぬえ)といふ鳥の雲中に翔(かけ)つて鳴きしをば、源三位(げんざんみ)賴政卿(きやう)、勅をかうむつて、射落したりし例あれば、源氏の中(なか)に誰(たれ)か射候ふべき者ある」と尋られけれども、射はづしたらば、生涯の恥辱と思ひけるにや、われ承らんと申す者、無かりけり。

「さらば、上北面(じやうほくめん)・諸庭(しよてい)の侍(さぶらひ)どもの中(ちゆう)にたれかさりぬべき者ある」と御尋ねありけるに、「二條(にでうの)關白左大臣殿の召し仕はれ候ふ隱岐(おきの)次郞左衞門廣有と申す者こそ、その器(き)に堪へたる者にて候へ」と申されければ、「やがてこれを召せ」とて、廣有をぞ召されける。廣有、勅定を承つて、「鈴の間」[やぶちゃん注:清涼殿の南の「天上の間」のこと。ここには蔵人が小舎人を呼び寄せるのに使用する鈴の繩が引き込まれていたことから呼称であろう。]の邊に候ひけるが、げにも、この鳥、蚊の睫(まつげ)に巢食ふなる蟭螟(せうめい)[やぶちゃん注:蚊の睫毛に巣を作り、そこで子を生むという想像上の微細な虫の名。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚊(か) 附 蚊母鳥(ヨタカ?)」を参照されたい。]の如く小さくて、矢も及ばず、虛空の外に翔(かけ)り飛ばば、叶ふまじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸かりならんずるに[やぶちゃん注:矢の届く範囲内にいるのであれば。]、何事ありとも射外はづすまじき物をと思ひければ、一義も申さず、畏つて領掌(りやうじやう)す。すなはち、下人に持たせたる弓と矢とをとり寄せて、孫廂(まごひさし)の陰に立ち隱れて、この鳥の有樣を伺ひ見るに、八月十七夜の月、殊に晴れわたつて、虛空、淸明たるに、大内山(おほうちやま)[やぶちゃん注:内裏の異名。]の上に黑雲(くろくも)一群(ひとむら)懸かつて、鳥鳴くこと、しきりなり。鳴く時、口より火炎を吐くかと覺えて、聲の内より、いなびかりして、その光、御簾(ぎよれん)の内へ散徹(さんてつ)す。廣有、この鳥の在所(ありか)をよくよく見おほせて、弓押し張り、弦(つる)くひしめして[やぶちゃん注:「喰ひ濕めして」。口に含んで唾で湿らせて伸びを良くさせ。]、流鏑矢(かぶらや)を差し番(つが)ひて立ち向へば、主上は南殿に出御成つて叡覽あり。關白殿下・左右(さう)の大將・大中納言・八座(はちざ)[やぶちゃん注:参議の異名。]・七辨[やぶちゃん注:太政官所属の弁官。実務級高官。]・八省輔(はつしやうふ)[やぶちゃん注:太政官に所属した八つの中央官庁の輔(すけ)。次官。]・諸家(しよけ)の侍、堂上(たうしやう)堂下(たうか)に袖を連ね、文武百官これを見て、『いかがあらんずらん』と固唾(かたづ)を呑うで手を拳(にぎ)る。廣有、すでに立ち向つて、弓を引かんとしけるが、いささか思案する樣(やう)ありげにて、流鏑(かぶら)にすげたる[やぶちゃん注:附けておいた。]雁股(かりまた)を拔いて打ち捨て、二人(ににん)張りに十二束(つか)二伏(ふたつぶせ)[やぶちゃん注:拳(こぶし)十二握りの幅に指三本の幅を加えた長さの矢。]、きりきりと引き絞りて、左右(さう)無く[やぶちゃん注:直ぐには。]これを放さず、鳥の鳴く聲を待ちたりける。この鳥、例より飛び下(さが)り、紫宸殿の上に二十丈許りが程に[やぶちゃん注:約六十メートル六十センチ上空。]鳴きけるところを聞きすまして、弦音(つるおと)高く「ひやう」ど放つ。鏑(かぶら)、紫宸殿の上を鳴り響かし、雲の間(ま)に手答へして、何とは知らず、大盤石(だいばんじやく)の落ちかかるが如く聞えて、仁壽殿(じじゆでん)の軒の上より、ふたへに[やぶちゃん注:二重に折れ曲がって。]竹臺(たけのだい)[やぶちゃん注:竹の囲いの意であるが、ここは仁寿殿の西、清涼殿との間に南北にある呉竹(北)か河竹(南)のそれである。]の前へぞ落ちたりける。堂上堂下一同に、「あ、射たり、あ、射たり」と感ずる聲、半時(はんじ)[やぶちゃん注:一時間。]許りののめいて[やぶちゃん注:騒ぎ立てて。]、しばしは言ひやまざけり。衞士(ゑじ)の司(つかさ)に松明(たいまつ)を高く捕らせてこれを御覽ずるに、頭(かしら)は人の如くして、身は蛇(じや)の形なり。嘴(くちばし)の先、曲つて、齒鋸の如く生(お)ひ違(ちが)ふ。兩の足に長きけづめあつて、利(と)きこと、劍(けん)の如し。羽先(はさき)を延べてこれを見れば、長さ、一丈六尺なり[やぶちゃん注:約四メートル八五センチメートル。]。

「さても廣有射ける時、にはかに雁俣を拔いて捨てつるは何ぞ」と御尋ねありければ、廣有、かしこまつて、「この鳥、御殿の上にあたつて鳴き候ひつるあひだ、つかまつて候はんずる矢の落ち候はん時、宮殿の上に立ち候はんずるがいまいましさに[やぶちゃん注:不都合かと存じ。]、雁俣をば拔いて捨てつるにて候ふ」と申しければ、主上、いよいよ叡感あつて、その夜、やがて、廣有を五位に成され、次の日、因幡國(いなばのくに)に大庄(だいしやう)二箇所、賜はりてんげり。弓矢取りの面目(めんぼく)、後代までの名譽なり。

   

『「徒然草」に鵺(ぬえ)のなく時、招魂の法を行ふ事、眞言宗の書にみえたるよしを云へり』「徒然草」第二百十段。

   *

「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」とばかり言ひて、いかなる鳥とも定(さだ)かに記せるものなし。或る眞言書(しんごんしよ)の中(うち)に、喚子鳥鳴く時、招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。万葉の長歌(ながうた)に、「霞立つ長き春日の」などつづけたり。ぬえ鳥もよぶこ鳥のことざまに通いて聞ゆ。

   *

・「いかなる鳥とも定(さだ)かに記せるものなし」「春のものなり」ならホトトギス(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)であるが、それならそうと書くであろう。これを真正の「郭公」(カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)とする説などもある。

・「招魂の法」死者の魂を呼ぶ密教の修法らしいが、兼好の言う「眞言書」が不明であるのでよく判らぬ。

・「ぬえ鳥もよぶこ鳥のことざまに通いて聞ゆ」とは「以上の歌を読んでみるに、これでは「鵺」も「喚子鳥」も同じ鳥を指している様子に聞こえる」の意。

・「万葉集」の長歌(ちょうか)とは、巻一の「雜歌(ざふか)」の一首(五番。六番の反歌と附帯する評語も添える)、

   *   *

   讚岐國安益郡(あやのこおり)に

   幸(いでま)しし時に、

   軍王(いくさのおおきみ)の、

   山を見て作れる歌

 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝(むらきも)の 心を痛み 鵺子鳥(ぬえこどり) うらなけ居(を)れば 玉襷(たまだすき) 懸けのよろしく 遠つ神 わご大王(おほきみ)の 行幸(いでまし)の 山越す風の 獨り居る わが衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へるわれも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網(あみ)の浦の 海處女(あまをとめ)らが 燒く鹽の 思ひそ燒くる わが下ごころ

    反歌

 山越しの風を時じみ寢(ね)る夜(よ)おちず家なる妹(いも)を懸けて偲(しの)ひつ

右、「日本書紀」を檢(かむが)ふるに、讚岐國に幸(いでま)すこと無し。また、軍王も未だ詳らかならず。但し、山上憶良大夫(まへつかさ)が「類聚歌林(るいじゆかりん)」に曰はく、「紀[やぶちゃん注:原文は「記」であるが、以下は「日本書紀」なので恣意的に訂した。]に曰はく、『天皇[やぶちゃん注:舒明天皇。]十一年己亥(きがい)冬十二月己巳(きし)の朔(つきたち)壬午(じんご)、伊豫の溫-湯(ゆ)[やぶちゃん注:現在の道後温泉。]の宮に幸(いでま)』といへり。一書(あるふみ)に云はく、『是の時、宮の前に二つの樹木、在ろ。この二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)の二つの鳥、さはに集まれり。時に勅(みことのり)して、多く稻穗を掛けてこれを養ひたまふ。すなはち、作れる歌』といへり」といへり。けだし、ここより便(すなは)ち幸ししか。

   *   *

以下、講談社文庫中西進氏の注を一部参考にして語注を附す。

・「讃岐國安益郡」現在の香川県綾歌郡の東部。その北の現在の高松市国分寺町に国府があった。

・「軍王」伝不詳。

・「わづきも知らず」何となく。

・「村肝(むらきも)の」「心」の枕詞。

・「鵺子鳥(ぬえこどり)」「うらなく」(自然に泣けてしまう)の形容であって、鵺子鳥が実際に鳴いているのではない。

・「玉襷(たまだすき)」「懸け」の枕詞。

・「懸けのよろしく」優しいことでも言いかけるように、口にするのも立派な。「遠つ神 わご大王(おほきみ)の」への尊称的形容であろう。

・「たづきを知らに」憂いを消す術(すべ)もなく。

・「網(あみ)の浦」香川県坂出市の海岸。

・「下ごころ」心の底。

・「時じみ」定まった時がないことで、常時の意。絶え間なく。

・「おちず」欠かさず。

・「斑鳩(いかるが)」スズメ亜目スズメ小目スズメ上科スズメ目アトリ科イカル属イカル Eophona personata

・「比米(ひめ)」アトリ科 Carduelinae 亜科 シメ属シメ Coccothraustes coccothraustes

   

「いかさまにも」どうみても。確かに。

「ならし」連語(断定の助動詞「なり」の未然形に推量の助動詞「らし」の付いた「なるらし」の転)で、近世文語では、本来の推量の意味が薄まり、断定を和らげた表現として用いる。「であるようである」。

「蟇目(ひきめ)」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注をも参照されたい。

「もろもろの器(うつはもの)」諸器具。諸道具。

「聖人」古えの聖王や創造神を指すか。因みに、本邦の古神道では弓は天照大神・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)が創造のルーツに挙げられるようである。

「大やうは」殆んどの物は。

「觚(こ)」古代中国に於いて儀式に用いられた大型の酒器。細い筒形の胴に朝顔状に開いた口縁と足とが附く。

「豺(さい)」山犬。凶暴な野犬。]

古今百物語評判卷之四 第四 梟の事附賈誼鵩鳥の賦の事

 

  第四 梟(ふくろ)の事賈誼(かぎ)鵩鳥(ふくてう)の賦(ふ)の事

先生、いへらく、「梟と申(まうす)も木兎(みゝづく)と同類にして、晝は目見えず、洞(ほら)にかくれ、木のまたにゐて、獵師とてもたやすく見る事なく、よるは眼(まなこ)の光(ひかり)、明鏡のごとくにして、木によりては、鳥をうかゞひ、池におりては蛙(かはづ)をつかみ、宅(いへ)に入りては、鼠をとれり。世の風説に、『何がしの屋の棟より、いつの頃、火の玉とびし』などいぶかりあへるも、此鳥の眼のひかりならし。猶、年長(としたけ)たる梟は其眼のひかりに映じて、滿身ともに光侍れば、彼(か)の靑鷺のごとくさながら、光り物のやうに見え侍るとかや。されども、かゝる妖怪ある家は、いつしか、ほろび、主(ぬし)、ゆるは何事ぞや。それ、梟は怪鳥(けてう)の最上にして、其德、さがなき物なり。かくてぞ、漢の賈誼と云(いへ)し人も、鵩(ふく)といふ鳥のとび來(きたり)て、座のすみにとゞまれるを見て、長沙(ちやうしや)の住居(すまひ)、いとものあぢきなくおもひて、占ひし詞(ことば)にも、『野鳥入ㇾ室主人將ㇾ去(野鳥 室(しつ)に入り/主人 將に去らんとす)』と見えけるに、「鵩鳥の賦」をつくりて、程なく、身まかりけるとなん。蓋(けだし)鵩鳥も梟の一類なり。おもふに、すべて、妖孽(ようげつ)[やぶちゃん注:妖しい災い。又は、不吉なことが起こる前兆を指す。妖怪や魔物及び災禍の意味もある。]ある故に、其家、ほろぶるにあらず。此家、ほろぶるが故に妖孽あるなるべし。猶、かやうの時にこそ、物の機(き)を知る君子は誠(まこと)をつくし、禮をまもりて、上(かみ)、天地(てんち)をあふぎ、下(しも)、人心(じんしん)を和(やはら)ぐれば、妖は德にかたずして、あやしみもやぶれ侍るとぞ。其ためし、あげてかぞふべからず。又、梟といふ物は、至りて不孝なる鳥にて、生まれて六十日なる時は、かならず、其母を喰(くら)ふ。故に、文字にも「鳥」の首を「木」にかけたる形容をもつて作れり。人のくびを獄門にかけしを「梟首(けうしゆ)」といふも其心(そのこころ)なり。されば、もろこしには、五月五日に此鳥をあつものにして、群臣に給ひて不孝をこらしめ給ふとかや。ありがたかりける政(まつりごと)なり」と語られき。

[やぶちゃん注:「梟」フクロウ目フクロウ科フクロウ属フクロウ Strix uralensis

「鵩鳥」フクロウとする邦人の記載が多いが、これは厳密にはミミズク(次注参照)を指す。「鵩」の(へん)は「服」。「鵬」の字とお間違えなきよう。

「木兎」フクロウ科 Strigidae に属する種の内、羽角(うかく:俗に「耳」と呼んでいる部分)がある種の総称。古名は「ツク」「ズク」。羽角は哺乳類の耳(耳介)のように突出した羽毛であって、「耳」とは呼ばれるが、ミミズクに限らず、鳥類に耳介は存在しない。この羽角の機能は現在でもよく判っていない。最も有力な説は、枝などに見立てて木に擬態する装置だとするもので、他にはこれを立てる事によって、後ろからの音を拾い易くしている(実際のミミズク類の耳は顔の横附近の羽毛の中に開孔している)とする説もあるらしい。

「靑鷺」ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物靑鷺の事」の注でも示したが、博物学的上のそれは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」、及び『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「あをさぎ」』を見られたい。

「さがなき物」「性無き物」で「意地悪で性格が悪い物」の意。フクロウ類は中国では古来より特に不吉な鳥とされてきた

「漢の賈誼と云(いへ)し人も、鵬(ふく)といふ鳥のとび來(きたり)て……」賈誼(紀元前二〇〇年~紀元前一六八年)は前漢の政治思想家で文章家。ウィキの「賈誼」によれば、『洛陽の出身』で、十八『歳にして詩経・書経を論じ、文章が優れていたために郡中で賞賛されていた。当時、河南郡守であった呉公はその才能を愛し、招いて門下にお』いた。『文帝が即位し、呉公が李斯と同郷で治績をあげていることを聞き』、『廷尉に任命されるに際し』、『賈誼が年少でありながらも諸家の書に通じていることを上申したために、博士として抜擢された』。『賈誼は、当時の博士の中で最も年少ではあったが、詔令の下るたびに真っ先に意見を具申することができたので、その年のうちに太中大夫に昇進』した。『漢の制度に関して、儒学と五行説にもとづいて「正朔を改め、服色をかえ、法度を制し、礼楽を興す」べきことを主張した。そうした賈誼を、文帝はさらに公卿にしようとしたが』、紀元前一七八年、『それを嫉んだ丞相絳侯周勃・東陽侯張相如・馮敬等の讒言により、長沙王の太傅』(たいふ:帝王を輔弼する高官)『として左遷させられてしま』った。『任地に赴く途中、屈原を弔った賦が』「文選」にも『収録されている「弔屈原文」である』。三『年余りにも』亙った『左遷生活であったが』紀元前一七四年、『文帝は賈誼のことを思い出し、長安に召して』、『鬼神のことを問う』た。『その答えが上意にかなうものだったため、ふたたび信任され、もっともかわいがっていた末子』であった『梁の懐王の太傅となった』。『ちょうどこのころ、漢朝にとって諸侯王国は大きな脅威となり、匈奴も辺境を侵略しつつあった。そうした多様な社会問題に対し、賈誼も対策を上奏している。今日「治安策」と呼ばれているのが、それである。第一に諸侯が強力であるのを抑制すべきであること、第二に蛮夷を侮らず』、『警戒すべきことなどを説いている』。紀元前一六九年、『梁の懐王が落馬して亡くなったことを悼み、その翌年』、『賈誼自身も憂死した。享年』三十三の若さであった。『彼の文章は議論と叙事が錯綜し、雄渾流麗、古来名文として名高い。代表的な韻文としては、他に長沙在任中の「鵩鳥賦(ふくちょうのふ)」があり、これも』「文選」に『収録されている。秦を批判する「過秦論」も著名であり、これらの散文をまとめたものとして』「新書」がある、とある。

   *

賈誼爲長沙王太傅、四月庚子日、有鵩鳥飛入其舍、止於坐隅、良久、乃去。誼發書占之、曰、「野鳥入室、主人將去。」。誼忌之、故作鵩鳥賦、齊死生而等禍福、以致命定志焉。

(賈誼、長沙王の太傅(たいふ)と爲る。四月庚子(かのえね)の日、鵩鳥、有り、其の舍に飛び入り、坐の隅に止まり、良(や)や久しくして、乃(の)ち、去る。誼、書を發(ひら)きて之れを占ふに、曰はく、「野鳥 室に入り 主人 將に去らんとす。」と。誼、之れを忌む。故に「鵩鳥賦」を作りて、死生齊しく而して禍福も等しければ、以つて、命(めい)に致(ち)し、志を定めんとせり。)

   *

以上の訓読は私の勝手流なので注意されたい。

「鵩鳥賦」原文総ては中文サイト「中文百花線」のこちらがよいように思われ、訓読ととても判り易い現代語訳はサイト「肝冷斎日録」のこちら(ここから全四回。但し、途中に一回休みが入る)がよい。

「占ひし詞(ことば)」「捜神記」は「發書占之」、原文も「發書占之兮、讖言其度」(書を発(ひら)きて之れを占ひ、其の度(ど)[やぶちゃん注:様子。]を讖言(しんげん)[やぶちゃん注:予言。]せんとす)で、占いの書を開いてその現象の意味を調べたのである。

「梟といふ物は、至りて不孝なる鳥にて、生まれて六十日なる時は、かならず、其母を喰(くら)ふ」、CEC」公式サイト内の「徒然野鳥記」の「フクロウに(行間は詰めた。衍字と思われる「る」一字を除去した。なお、この「徒然野鳥記」はなかなか凄い。和漢三才図会」電子化注でも、ごく最近、非常にお世話になった)、

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]国内でフクロウが、知的な尊敬の念を含めて好意的に受け止められてきたのは、実はごく最近のことで、明治維新以降、西欧文化の感化によるものと思われます。

 江戸時代以前のフクロウは、実は不吉であり、その声を聞いただけでも災いを呼ぶ恐ろしい鳥として理解されてきました。かの源氏物語では、再三、フクロウが気味悪いものの代名詞として登場します。「気色ある鳥の空声に鳴きたるも、『梟は、これにや』と、おぼゆ」(夕顔の巻)、「もとより荒れたりし宮の内、いとど、狐の住に処になりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を、朝夕に耳ならしつつ」(蓬生の巻)といった具合です。夕顔の巻の気色ある鳥とは、気味が悪い鳥の意味であり、蓬生の巻にいたっては、狐が住むようになるほど荒れ果てた屋敷の気味の悪い木立を更に強調するのがフクロウの声として使われています。

 江戸時代には、フクロウは自分の父母を食べる悪き鳥とまでその地位を落とします。「梟 一名不孝鳥 喰母故也」(類船集)[やぶちゃん注:俳諧付合(つけあい)語集。梅盛(ばいせい)著。延宝四(一六七六)年刊。見出し語二千七百余を「いろは」順に配列し、語の下に付合語を列挙、殆んどの項目に説明文を付してある。]と記載され、母殺しの汚名が着せられます。江戸時代の著名な愛鳥家であり、多くの野鳥を飼育したことで知られた滝沢馬琴でさえ、「フクロウは不孝の鳥なり。雛にして父母を喰わんとするの気ありといふ。和名フクロウとは、父母くらふにて、父を喰うの義ならんか。かかる悪鳥も、またその子を思ふことは、衆鳥にいやましたり。」(燕石雑誌)と語られるのです。どうも、平安から江戸時代までの大変に否定的なフクロウ観は、中国の動植物史観の影響が大きかったようです。その代表的な「本草綱目」で、フクロウは悪鳥で、父母を食べてしまう、夏至には磔にすると記載され、それゆえに磔の上に鳥を置いて、梟(フクロウ)と書くとされていたものを盲信したようです。

 しかし明治の時代に入り、西欧のフクロウ観が入って来ます。農業をもととした古代ギリシャでは、農耕に害をなすネズミを食べるフクロウは農業の女神アテネの従者と崇められるのです[やぶちゃん注:中略。]。時代は一挙に19世紀にすすみ、近代哲学の泰斗、ヘーゲルは、こう語ります。「ミネルヴァの梟は迫りくる黄昏に飛び立つ」(「法の哲学」序文)。ミネルヴァとは女神アテネのことであり、フクロウはここで農業の保護者であること以上に、歴史的な現状を深く認識できる女神の知的な補佐役、哲学の象徴としての役割を担っているのです。知的な象徴としてのフクロウはここに極まっています(このセンテンスの解釈には多くの説があるようです。私は近代哲学と近代そのものが、危機を迎えているとの警告だと考えています)[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「本草綱目」巻四十九「禽部 山禽類」の「鴞」には(和漢三才図会」電子化注は未だそこに至っていない。辿り着き次第、ここにリンクする)、

   *

梟長則食母、故古人夏至磔之、而其字從鳥首在木上。

   *

とある。上記引用では、『磔の上に鳥を置いて、梟(フクロウ)と書くとされていたものを盲信したよう』だとあるが、「廣漢和辭典」の「梟」の解字を見ると、『鳥を木の上につきさしたさまで、ふくろう・さらすの意。ふくろうは不孝の鳥であるから、これをさらし首にし、五月五日にそのスープを作り、みせしめに役人に飲ませたといわれる』と書いてあるので「盲信」とばかりは言えない。

「五月五日」端午の節句だが、恐らくは前の引用に出た旧暦の夏至の近日であるからであろうとも思われる。因みに、先の賈誼が「弔屈原文」を奉った、かの憂国の士屈原が汨羅に身を投じたのも紀元前二七八年の五月五日である。

「あつもの」「羹(あつもの)」「熱物(あつもの)」。魚鳥の肉や野菜を入れた熱いスープ。]

2018/10/23

和漢三才圖會第四十二 原禽類 𪇆𪄻(さやつきどり) (ヨシゴイ) / 第四十二 原禽類~了

Yosigoi

 

さやつきとり

      【和名佐夜

       豆木止里】

𪇆𪄻

      【今按蘆五

       位鷺乎】

よしごい

 

龢名抄載四聲字苑云𪇆𪄻黃色聲似舂者相杵也

按不言其形狀未知何鳥也蓋獨舂【本綱爲鶡異名字彙爲布殼異名】

 諸説未詳恐此俗云蘆五位鷺矣

蘆五位鷺【一名特牛鳥】 狀似水雞而稍大頭背腹皆柹赤色

 黑斑翅及觜灰黑色脚黃而帶青色在葦葭中其形小

 而聲大者無甚於此者宛然如牛吼故俗稱特牛鳥又

 似舂者下杵出力言愠愠也其飛行速而難捕肉味不

 美故不取之蓋是𪇆𪄻矣識者正之

 

 

 

さやつきどり

      【和名、「佐夜豆木止里」。】

𪇆𪄻

      【今、按ずるに、

       「蘆五位鷺(よし〔ごゐさぎ〕)」

       か。】

よしごい

 

「龢名抄」に「四聲字苑」を載せて云はく、『𪇆𪄻、黃色、聲、舂(うすつ)く者の相-杵(きうた)に似たり』となり。

按ずるに、其の形狀を言はず。未だ何の鳥といふことを知らざるなり。蓋し、「獨舂」【「本綱」は「鶡」の異名と爲し、「字彙」に〔は〕「布殼」の異名と爲す。】は諸説〔ありて〕、未だ詳らかならず。恐らくは、此れ、俗に云ふ「蘆五位(よしごゐ)」といふ鷺(さぎ)か。

蘆五位鷺【一名、「特牛鳥(こてい〔どり〕)」。】 狀〔(かた)〕ち、水雞(くいな)に似て稍〔(やや)〕大きく、頭・背・腹、皆、柹赤色。黑斑〔の〕翅、及び、觜、灰黑色。脚、黃にして青色を帶す。葦〔(あし)〕・葭〔(よし)〕の中に在りて、其の形、小さく、聲、大なることは、此れより甚だしき者、無し。宛然(さながら)、牛の吼(ほ)ゆるがごとし。故に俗に「特牛鳥(こていどり)」と稱す。又、舂(うすつ)く者、杵(きね)を下〔(おろ)すに、力を出だして「愠愠(ウンウン)」と言ふに似たり。其の飛〔び〕行〔くこと〕、速(はや)くして、捕へ難し。肉味、美ならず。故に、之れを取らず。蓋し、是れ、「𪇆𪄻」か。識る者、之れを正せ。

[やぶちゃん注:これが「原禽類」の掉尾である。いろいろな角度から検証してみて、最終的に私は良安の推定見解に賛同し、本種を、私の大好きな、

サギ亜目サギ科サンカノゴイ亜科ヨシゴイ属ヨシゴイ Ixobrychus sinensis

に比定同定するものである。ウィキの「ヨシゴイ」より引く。東アジア・東南アジア及び南洋諸島など、広く分布する。本邦には夏季、繁殖のために『飛来(夏鳥)するが、本州中部以南では越冬例もある』。全長三十一~三十八センチメートル、翼開長五十三センチメートル。『上面は褐色、下面は淡黄色の羽毛で覆われる。小雨覆や中雨覆、大雨覆の色彩は淡褐色、初列雨覆や風切羽の色彩は黒い』。『虹彩は黄色。嘴の色彩はオレンジがかった黄色』。『幼鳥は下面が白い羽毛で覆われ、全身に褐色の縦縞が入る。オスは額から頭頂にかけて青みがかった黒い羽毛で覆われる。また』、『頸部から胸部にかけて』、『不鮮明な淡褐色の縦縞が』一『本入る』。『メスは額から頭頂にかけて赤褐色の羽毛で覆われ、額に暗色の縦縞が入る個体もいる。また頸部から胸部にかけて不鮮明な褐色の縦縞が』五本、入っている。『湿原や湖、池沼、水田などに生息する。ヨシ原に生息することが和名の由来。単独もしくはペアで生活する。薄明薄暮性。開けた場所には現れず、ヨシ原を低空飛行し獲物を探す。危険を感じると上を見上げて頸部を伸ばし、静止したり左右に揺れる。これにより下面の斑紋がヨシの草と見分けづらくなり、擬態すると考えられている』(これは鳥の巧妙な擬態の典型例として知られる。私の幼い頃の鳥類図鑑にも載っていたのを懐かしく思い出す)。『食性は動物食で、魚類、両生類、昆虫、甲殻類などを食べる。水辺や植物の茎の間で獲物を待ち伏せし、通りかかった獲物を頸部を伸ばして捕食する。『繁殖形態は卵生。茎や葉を束ねた皿状の巣に』、本邦では五~八月三~七個の『卵を産む。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は』十七日から二十日。雛は孵化後、約十五日で巣立つ、とある。実は、以上は既に「水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」の項で引用している(そもそも本種も「水禽類」に入れるべき種である。尤もこれは時珍の「本草綱目」の混乱に原因があり、良安はにも拘らず、美事に正しい正解を引き出しているのである)ので、今回は、私の好きな「日本野鳥の会」会員(奈良支部)の今仲嶺雄氏のサイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「ヨシゴイ(ペリカン目サギ科)葭五位」から引用させて戴く。まず、属名『Ixobrychus(イクソブリュックス』は『ギリシャ語でヤドリギを食う』の意で、これは『ローマの伝承から』。『sinensis(シネンシス』)はよくある『中国産の』の意。英名は『Yellow(黄色い) Bittern(サンカノゴイ類』『雄牛のように大きなもの』の意とある。本種は『レッドリスト』で『準絶滅危惧種』に、『奈良県レッドリスト』では『絶滅危惧種』に指定されてしまっている。『東アジアから東南アジア・インドにかけてとミクロネシア西部・セーシェル諸島に分布』し、『日本には、夏鳥として全国に渡来し、アシ原、水田、湿地、湖沼、河川などに生息する。北海道では少ない。本州中部以南では越冬するものもいる。アシなどの葉を集めて皿型の巣を造る。草の上を低くすれすれに飛ぶことが多い』。その鳴き声は、特に『繁殖期の夜中に「オーオー」と繰り返し鳴く』のがよく知られる。『名の由来』は『葭原にすむゴイサギの意で、葦ゴイ(ヨシゴイ)』で、『江戸時代前期から「ヨシゴイ」の名で知られている。異名』は『「サヤツキドリ」「ヒメゴイ」「ボンノウサギ」』。『サギ類中最も小さ』く、『成鳥』は『額から後頭が青みのある黒色で、背、肩羽からの上面が茶褐色。喉から体下面は淡黄白色で、淡茶褐色の縦斑が中央にあるが』、『不明瞭。翼上面は淡褐色の大・中・小雨覆と黒褐色の風切や初列雨覆とのコントラストがあり、飛翔時は良く目立つ。嘴は淡黄色で、上嘴は黒っぽい。足は緑黄色。虹彩は黄色』。『』の『成鳥』は『に比し』て『全体的に淡色で、前頭の黒色部はないか、あっても縦斑で、後頭だけが青黒色。喉からの体下面は淡黄白色で、頸から胸にかけての褐色の縦斑が』五『本ある』。『幼鳥』は『』の『成鳥よりも体下面が白く、喉から腹や、頭部からの上面、翼などに褐色縦斑が密にある』とある。

「龢名抄」「和名類聚鈔」のこと。「龢」は「和」の異体字。同書の第十八巻の羽族名第二百三十一に、

   *

𪇆𪄻 「四声字苑」云、『𪇆𪄻【独舂二音「漢語抄」云、『独舂鳥、佐夜豆木土里』。】]鳥、黃色、声、似舂者相杵也。

   *

とある。言っておくが、「𪄻」の(つくり)は「春」ではなく、「舂」であるので要注意!

「四聲字苑」「和名類聚鈔」では「説文」に次いで百四十二も例をここから引く(引用元としては七番目に多い。これは宮澤俊雅氏の論文「倭名類聚抄諸本の出典について」(『北海道大學文學部紀要』一九九七年一月刊・PDF)に拠った)が、未詳の書物であると東洋文庫版書名注にある。

「舂(うすつ)く者の相-杵(きうた)に似たり」「相杵」とは、思うに、柄の両端に対称的に小杵をつけた「麦搗(むぎつ)き杵(きね)」のことではなかろうか。ヨシゴイの鳴き声が、臼(うす)をその麦搗き杵で舂(つ)く際の音に似ている、というのであろう。

「鶡」キジ目キジ科ミミキジ属ミミキジ Crossoptilon mantchuricum。前項「鶡(かつたん)(ミミキジ)」を参照。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)によって一六一五年に編纂された漢字字典。本文は十二支を当てた十二巻に分かれ、首巻と巻末を合わせて十四巻に二百十四部首の中に三万三千百七十九字を収める。

「布殼」前項「鶡(かつたん)(ミミキジ)」の「𪇆𪄻〔(さやつどり)〕」の注で示した通り、K'sBookshelf」の「臼部」の「𪄻」(ショウ・シュ)に「𪇆𪄻(しょくしょう)」はカッコウ(郭公)で、カッコウ科カッコウ属の鳥とし、「𪅖」「布穀鳥(ふこくちょう/ふふどり)」は同じ鳥の異名であるとする。則ち、カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus のことである。

「特牛鳥(こてい〔どり〕)」山口県下関市(旧豊北町)には特牛(こっとい)という地名がある。調べてみたが、「特牛」を「こてい」と読む由来は妖しげなものばかりで、載せる気にならなかったが、非常に面白く読ませるのは、hikoimasuブログ海峡24時」特牛は、なぜコットイと読む?である。それのよれば、「万葉集」や「日本書紀」にこの訓が見られるとある。

「水雞(くいな)」ツル目クイナ科クイナ属クイナ 亜種クイナ Rallus aquaticus indicus水禽類 水雞(クイナ・ヒクイナ)を参照。

「葦〔(あし)〕・葭〔(よし)〕」孰れも同一の単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。ウィキの「ヨシによれば、『もともとの呼び名は「アシ」であり、日本書紀に著れる『豊葦原(とよあしはら)の国』のように、およそ平安時代までは「アシ」と呼ばれていたようである。更級日記においても』、『関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書かれている』。八『世紀、日本で律令制が布かれて全国に及び、人名や土地の名前に縁起のよい漢字』二『字を用いる好字が一般化した。「アシ」についても「悪し」を想起させ連想させ』て『縁起が悪いとし、「悪し」の反対の意味の「良し」に変え、葦原が吉原になるなどし、「ヨシ」となった。このような経緯のため』、『「アシ」「ヨシ」の呼び方の違いは地域により変わるのではなく、新旧の違いでしか無い。現在も標準和名としては、ヨシが用いられる。これらの名はよく似た姿のイネ科にも流用され、クサヨシ』(イネ科イチゴツナギ亜科カラスムギ連クサヨシ属クサヨシ Phalaris arundinacea)・『アイアシ』(イネ科アイアシ属アイアシ Phacelurus latifolius)『など和名にも使われている』とある。

「蓋し、是れ、「𪇆𪄻」か。識る者、之れを正せ」東洋文庫訳は『果たしてこれが𪇆𪄻』なる鳥『なのかどうか、識者の御教示を乞う』と、あたかも、何時も私が最後に添えるようなことを良安は言っている。今まで電子化してきた「和漢三才図会」には一度も出なかった気弱な言葉で、私はちょっとびっくりしている。良安先生! ゼッタイ! 合ってます!!!

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶡鴠(かつたん) (ミミキジ)

Katutan

かつたん   盍旦【詩經】 䳚鴠

       寒號蟲

【曷旦】

       【方言爲獨舂

        按獨舂卽𪇆

 𪄻與此不同

乎】

アツウイヽ

 

本綱寒號蟲出北地今河東及五臺山諸山中甚多其狀

如小雞四足有肉翅不能遠飛夏月毛盛五色自鳴若曰

鳳凰不如我至冬毛落裸體晝夜鳴號曰得過旦過月令

云曷旦仲冬不鳴蓋冬至陽生漸暖故也屎曰五靈脂

――――――――――――――――――――――

五靈脂 曷旦屎也如凝脂而受五行之靈氣故名

    其屎恒集一處氣甚臊惡粒大如豆采之

 有如糊者有粘塊如餹者人亦以沙石襍而貨之凡用

 以餹心潤澤者爲眞【味甘溫】凡足厥陰肝經藥能治血病

 行血止血治諸痛【惡人參損人】

按五靈脂來於廣東舩

 

 

かつたん   盍旦〔(こふたん)〕【「詩經」。】

 䳚鴠〔(かつたん)〕

       寒號蟲

【〔[やぶちゃん注:「音」の欠字。]〕、「曷旦」。】

       【「方言」に「獨舂〔(どくしよう)〕」

        と爲す。按ずるに、「獨舂」は、

        卽ち、「𪇆𪄻〔(さやつどり)〕」、

        此れと同じからずや。】

アツウイヽ

 

「本綱」、寒號蟲、北地に出づ。今は河東及び五臺山〔が〕諸山〔の〕中に、甚だ多し。其の狀、小〔さき〕雞〔(にはとり)〕のごとく、四足にて、肉の翅、有り。遠く飛ぶこと能はず。夏月は、毛、盛んにして五色なり。自〔(おのづか)〕ら鳴く〔こと〕、「鳳凰不如我(アホンアハンプシユイコウ)」と曰ふがごとし。冬に至れば、毛、落ち、裸體(はだか)にて、晝夜、鳴き號(さけ)び、「得過旦過(テツコヲウツヱコヲウ)」と曰ふ〔がごとし〕。「月令〔(がつりやう)〕」に云はく、『曷旦、仲冬、鳴かず』〔と〕。蓋し、冬至より、陽、生じ、漸〔(やうや)〕く暖かなる故なり。屎〔(くそ)〕を「五靈脂」と曰ふ。

――――――――――――――――――――――

五靈脂(ごれいし) 曷旦の屎なり。凝りたる脂〔(あぶら)〕のごとくにして、五行の靈氣を受く。故〔に〕名づく。其の屎、恒〔(つね)〕に一處に集り、氣〔(かざ)〕、甚だ臊惡〔(なまぐさ)く〕、粒、大にして豆のごとく、之れを采るに、糊(のり)のごときなる者、有り、粘塊の餹(さたう)のごときなる者、有り。人、亦、沙石を以つて襍(まぜ)て、之れを貨(う)る。凡そ用ふるに、餹〔の〕心〔の〕潤澤なる者を以つて眞〔(しん)〕と爲す。【味、甘、溫。】凡そ足の厥陰肝經〔(けついんかんけい)〕の藥〔にして〕能く血病を治す。血を行(めぐ)らし、血を止め、諸痛を治す【人參を惡〔(い)〕み、人を損ず。】。

按ずるに、「五靈脂」は、廣東(かんとう[やぶちゃん注:ママ。])の舩より來たる。

[やぶちゃん注:中文サイトの「鶡」は「曷旦」と同じとする指示に従い、それで調べて行くと、キジ目キジ科ミミキジ属 Crossoptilon に行き当たった。ウィキに幸いにして「ミミキジ属」があり、それによれば、『模式種はシロミミキジ』(Crossoptilon crossoptilon)で、どう属の種群(他にアオミミキジ Crossoptilon auritum とミミキジ Crossoptilon mantchuricum がおり、『シロミミキジの亜種』とされる『チベットシロミミキジを』Crossoptilon harmani として、『独立種とする説もある』とある)はインド北部と中華人民共和国にのみ分布し、『メスよりもオスのほうが大型になる。頬から後方へ白い羽毛が伸長する。属名Crossoptilonは「房状の羽」の意で、頬から伸長する羽毛に由来する。また和名や英名earedは』、『この羽毛が耳のように見えることに由来する。尾羽の枚数は』二十~二十四枚で、『頭頂は黒い羽毛で被われ』、『顔には羽毛が無く、赤い肉垂れ状の皮膚が露出する。後肢の色彩は赤い』。『オスは肉垂がより大型で、後肢に蹴爪がある』。標高千三百~五千メートルに『ある森林や岩場、草原などに生息する』。『食性は雑食で、植物の根、果実、種子、昆虫、ミミズなどを食べる』。『木の根元などに窪みを掘って』、一回に四~七回の『卵を産む』。『開発による生息地の破壊、食用やペット、剥製目的の乱獲などにより』、『生息数が減少している種もいる』とあった。さらに、中文サイトや海外サイトを検索して行くと、どうも、この「鶡」=「曷旦」はミミキジ属の中でも特に、

ミミキジ Crossoptilon mantchuricum

を指し、中文サイトによれば、本種は中国固有種であると記されてあった。学名で画像を検索するうちに、画像も多数発見したが、京劇のメイクのような勇ましい顔立ちに、尾羽がこれまた、非常に装飾的に美しい鳥で(複数画像は英文サイトのこちらがよい)、黃平氏のブログ「julian2021 的部落格」の「大雪初候鳴」の写真のように、雪山で、もし、この鳥に出逢ったら、それはそれは夢のように素敵だろうと思った。

「盍旦〔(こふたん)〕【「詩經」。】」幾ら調べても、私の探し方が悪いのか、「詩経」に見当たらない。しかし「礼記」の「坊記」の一節に、

   *

子云、「天無二日、土無二王、家無二主、尊無二上、示民有君臣之別也。」。「春秋」、不稱楚越之王喪、禮君不稱天、大夫不稱君、恐民之惑也。「詩」云、「相彼盍旦、尚猶患之。」。

   *

とあるのは見つけた。また、明の焦紘(しようこう)の撰になる俗語の注釈書「俗書刊誤」(一六一〇年序)の四庫全書本巻八に、

   *

 渇旦「詩疏」、盍旦「禮記」、鶡旦「月令」、旦「鹽鐵論」。

   *

ともあった。私の微力ではここまでである。識者の御教授を乞う。

「方言」揚雄の著とされる漢代の方言辞典。正式には「輶軒(ゆうけん)使者絶代語釈別国方言」。現行本は全十三巻であるが、元は十五巻。現在のものは東晋の郭璞が注を附したものである。参照したウィキの「方言(辞典)」によれば、『本文の体裁は「爾雅」に似ており、同義語を』一つに纏め、『広い地域で行われている語を最後に置いている。その後に、それぞれの語が』、『どこの方言であるかを説明している』。『郭璞の注は郭璞当時の方言と比較しており、晋代の方言について知る上の貴重な資料となっている』とある。同書の、巻八に、

   *

䳚鴠、周魏齊宋楚之間謂之定甲、或謂之獨舂。自關而東謂之城旦、或謂之倒懸、或謂之鴠鴠。自關而西秦隴之内謂之鶡

   *

とあるのを指す。

「獨舂〔(どくしよう)〕」中文サイトに鶡の別名とある。

𪇆𪄻〔(さやつどり)〕」K'sBookshelf(この漢字辞書は驚くほど詳しく、時に所持する大冊の「廣漢和辭典」より使い勝手がよい「臼部」の「𪄻」(ショウ・シュ)によれば、「𪇆𪄻(しょくしょう)」はカッコウ(郭公)で、カッコウ科カッコウ属の鳥とし、「𪅖」「布穀鳥(ふこくちょう/ふふどり)」は同じ鳥の異名であるとする。これは知られた、全くの別種であるカッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus のことである。しかし、実はこの後(「原禽類」の掉尾)に「𪇆𪄻(さやつどり)」の項が待っており、最終的に私はこの次の「𪇆𪄻(さやつどり)」なるものを、良安と同じく、

サギ亜目サギ科サンカノゴイ亜科ヨシゴイ属ヨシゴイ Ixobrychus sinensis

 

に比定同定した(この後に電子化するそちらを参照されたい)。大方の御叱正を俟つが、良安が「𪇆𪄻此れと同じからずや」(これとは全く違う鳥ではなかろうか?)と言っているのは私はすこぶる正当であると考えるものである。

「河東」旧郡名に因む現在の山西省南部の広域呼称。

「五臺山〔が〕諸山」五台山は山西省東北部の五台県にある古くからの霊山で、別名を「清涼山」とも言う。標高は三千五十八メートルで、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めてきた。呼称から想像されるように、この山は五つの主要な峰によって構成されており、東台の望海峰、西台の掛月峰、南台の錦繡峰、北台を叶斗峰(ここが最高峰)、中台を翠岩峰と呼ぶ。(グーグル・マップ・データ)。

「肉の翅。有り」挿絵を見ると、それっぽく描いてあるが、実体は普通の雉と変わらない。

「鳳凰不如我(アホンアハンプシユイコウ)」良安が本文中に中国語をルビするのは極めて珍しい。「鳳凰は我に如(し)かず!」と鳴くというのである。「鳳凰不如我」を現代中国語でピンインと、そのカタカナ音写で示すと、

Fèng huáng bù rú wǒ

ファン・フアン・プゥー・ルゥー・ゥオ

である。

「得過旦過(テツコヲウツヱコヲウ)」意味不明。「過」は「過(あやま)ち」か? とすれば、零落するのだから「過ちを得て旦(あした)に過(ゆ)く」であろうか? なお、調べて見ると、「旦過」は「たんが」と読んで、「夕べに来て早朝に去る」の意とし、「禅宗で行脚僧が宿泊すること又はその宿泊所」或いは「禅宗で長期の修行に来た僧を数日定められた部屋で坐禅させること」の意があり、さらに「得過」は広東語では「~する価値がある」の意がある。とすると、「夕べに来て晨(あした)に行くだけの価値があろうか!?!」と叫んでいるいるのかも知れぬ。識者の御教授を乞う。前同様に現代中国語でピンインと、そのカタカナ音写で示すと、

De guō dàn guō

ドゥーァ・グゥオ・ダァン・グゥオ

である。

《注改稿》

「得過且過(テツコヲウツヱコヲウ)」公開直後に中国語に堪能な教え子がこの記事を読んで呉れ、これについて、

   *

先生。三番目の字を「且」とすると、現代中国語で「得過且過」de guo qie guo、ダーグオチエグオ。「その日暮らしをする」という意味の熟語です。何かご参考になればと思います。

   *

というメールが届いた。そこで原典を再度見直してみると、本文は確かに、

「得過且過」

となっていた。言い訳がましいが、これは実は、私のいい加減な見誤りなのでは、ない。私は既に「和漢三才図会」を十巻以上、電子化してきたが、良安は実は、高い確率で「旦」の字を「且」と書いてしまう癖があるため、ここも「且」とあるのを認めながら、「旦」としてしまったのである。この鳥の別名が「盍旦」であることもこの誤りを助長し、さらに、東洋文庫訳でも「旦」と翻刻していたため、私自身が私の認識に対し、全く無批判になってしまった結果の誤りである。教え子の行司で仕切り直す。「得過且過」は現代中国語により、「かくも! すってんてんの真っ裸! かくも悲惨な、その日暮らしとなっちまった!」で、まさに落魄れた我と我が身を呪っているのかも知れぬ。「得過且過」を現代中国語でピンインと、そのカタカナ音写で示すと、

De guō qiě guō

ドゥーァ・グゥオ・チィエ・グゥオ

である。

「月令〔(がつりやう)〕」「曷旦、仲冬、鳴かず」「月令」は「礼記」月令篇のこと。月令とは、一年の月毎の自然現象・行事・儀式・農作業などを記したものを指す。「礼記」のそれは「呂氏春秋」の「十二紀」から季節に関係する部分を抜き出したものである。同書に、

   *

冰益壯、地始坼。鶡旦不鳴、虎始交。

   *

とはある。「仲冬」は陰暦の冬三ヶ月の中の月である十一月の異名。

「五靈脂」残念ながら、現代の漢方医学では、このミミキジの糞ではなく、中国に生息するムササビ科(哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista項「鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)を参照)の一種などの乾燥した糞便である。石川県金沢市の「中屋彦十郎薬局公式サイト五霊脂によれば、『かつては』『オオコウモリの糞と考えられていたこともある』とあり、『ムササビは前後の足の間には飛膜があり、樹木の間を滑空する』。『夜行性で木の実や若い枝葉などを食べる』。『樹の穴に巣を作ったり、洞穴や岩の割れ目に巣を作り、洞穴の周囲には灰黒色の糞便が見られる』。『現在は主に中国の河北、山西、陜西省などで産する』。『霊脂塊は粒状糞が凝結した不規則な塊状のもので、霊脂米は細長い卵円形のものである』。『表面の色は褐色で軽くて砕けやすく、断面は黄褐色で繊維状である』。『味は塩辛くて苦味があり、臭いは殆どない』。『成分としてはビタミンA類、その他で』、『炒りながら』、『酢や酒を加え、乾燥したものがよく用いられ』、『かつては解毒薬として蛇、ムカデ、サソリ等に咬まれたときに外用した』とある。

「粘塊」粘りを持った塊り。

「餹(さたう)」砂糖。

「沙石を以つて襍(まぜ)て、之れを貨(う)る」分量を誤魔化すため? いやいや、そう悪く考えてはいけません、きっと生臭い臭いを吸収させるためでしょう。煎じれば、差石は問題ありませんから。

「餹〔の〕心〔の〕潤澤なる者」砂糖のような粒の芯、核の部分に、十全な潤いがあるもの。

「眞〔(しん)〕」正統な本物の生薬としての五霊脂。

「足の厥陰肝經〔(けついんかんけい)〕」ウィキの「足の厥陰肝経から引く。『経絡の一つ。肝経に属する足を流れる陰経の経絡である。肝臓と胆嚢は共に中国の五行(木、火、土、金、水)でいうと』、『木に属するため』、『密接な関係を持つ。また』、『肝臓はもとより、目のまわりを取り囲んでいるため』、『目の痛みにこの肝経の経穴を使うこともある』という。『足の第』一『指爪甲根部外側(大敦穴)に起こり、足背を通り中封穴に抵る。ついで』、『脛骨前面を上り、大腿内側を循って陰部に入り、生殖器を循ったのち』、『下腹に入り期門穴へ上り、胃を挾んで肝に属し、日月穴の部で胆を絡』(まと)う。『さらに横隔膜を貫いて側胸部に散布し、気管、喉頭の後を循り咽頭に出て、眼球のあたりに達し頭頂に出る。その支なるものは、眼球のあたりから』、『頬に出て』、『唇を循る。別の支なるものは、肝から分かれて横隔膜を貫き』、『肺に注ぎ、下行して中焦に至り、手の太陰肺経に連なる』とある。

「血病」血液とその循環に関わる諸病。

「血を行(めぐ)らし、血を止め」血行を良くし、悪しき血の滞留や対流を止める。

「人參を惡〔(い)〕み、人を損ず」人参(朝鮮人参)と甚だ相性が悪く、合わせて用いると人に重大な害が齎される、の意で採っておく。

「廣東(かんとう)」現在の中国南部の広東(かんとん)省。]

プリセスたちの悲劇

昨日、飯を食いながら、昼のワイド・ショーを見、二人のプリンセスの凄絶な姿を見て、思わず、涙が出たのだが、同時に、傍に居ながら、彼女たちを救えなかった宗像三女神を恨んだのであった――

2018/10/22

古今百物語評判卷之四 第三 野衾の事

 

  第三 野衾(のぶすま)の事

 

又、問(とふ)ていはく、「野ぶすまとは何ものぞや」。先生いへらく、「のぶすまは、あながち、化生(けしやう)の物にあらず、鼯(むさゝび)の事なり。此もの、上古には『獸(けだもの)なり』とかやいへども、「爾雅」に『鳥』と註し侍れば、「本草綱目」にも李時珍、「禽(とり)の部」に入(いれ)たり。されども、鳥のごとく、羽ありてかける物にあらず、尾をもつて、とべり。ひきく[やぶちゃん注:「低き」の意。]にはくだれども、高きにのぼる事、やすからずとぞ。其狀(かたち)、蝙蝠(かうふり[やぶちゃん注:ママ。])に似て、毛、生ひて、翅(つばさ)も、卽(すなはち)、肉なり。四つの足あれども、みじかく、爪、ながくして、木の實をも喰(くら)ひ、又は、火熖(くはゑん)をも、くへり。もと、山中(さんちう)に住(すめ)る物なれど、里へも來(く)る物なればにや、「萬葉集」にも、『ますらおがたかまと山にせめくれば里におちくるむささびの聲』など詠めり。此(この)鳥羽(とりばね)とおぼしき物をひろぐる時は、ちいさき[やぶちゃん注:ママ。]衾(ふすま)をのべたるやうに、みゆ。かくてぞ『野(の)ぶすま』とは、よばれけるにこそ。とびながら、子に乳(ち)をのませり。その子のなく事、人の聲に似たり。むべなるかな、和漢ともにあやしみおそるゝ事」。

[やぶちゃん注:「野衾」は現在の日本産固有種(「本草綱目」のものはムササビ属 Petauristaの別種)哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科Pteromyini 族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys、及び、同一種と誤解している方も今も多いと思われる(実際、江戸時代まで区別されていなかったし、夜行性で日常的にも馴染みのある動物でもないからしょうがない)、ムササビとは別種で形態は似ているが遙かに小さい、リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga のことである。詳しくは、ここで注するのが厭で、しゃかりきになってやっと本日公開出来た、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」の本文と私の迂遠な注を参照されたい。

「上古には『獸(けだもの)なり』とかやいへども」「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」の私の注で引用した「日本後記」(原典リンク有り)の前後にある禁猟動物が獣類であり(前が「葦鹿(あしか:アシカであろう)、後が「羆」(ヒグマ))、そこで「野衾」を指すと思われるのが「𤡂」という漢字であるのは、この字が「𤢹」と同じで「モモンガ(鼯鼠)」や「ムササビ(鼺鼠)」などを含むリス科の滑空する哺乳類「飛𤢹(ひるい)」を指すのであり、その漢字が「けものへん」であるのも、弘仁元(八一〇)年当時、人々は、彼らを「鳥」でなく、科学的も正しい「獣」と考えていた証左であろうと私は思う。

「爾雅」中国最古の辞書。著者未詳。全三巻。紀元前二百年頃成立。

『「本草綱目」にも李時珍、「禽(とり)の部」に入(いれ)たり』明の李時珍撰になる本草書のチャンピオン「本草綱目」の巻四十八の「禽之二 原禽類二十三」の一独立項「鼠」(ルイソ)として載る。上記リンク先本文(但し、抜粋)を参照。

「火熖(くはゑん)をも、くへり」これじゃ、ほんまに、かの「火鼠」になってしもうがね! 元隣センセ! 「本草綱目」のそれは「火烟」(ひけむり)でっせ!

「萬葉集」「ますらおがたかまと山にせめくれば里におちくるむささびの聲」「万葉集」巻第六の、「大伴坂上郎女の作れる歌一首」(一〇二八番)であるが、「ますらをの」誤り

   十一年己卯(ききぼう)、
   天皇(すめらみこと)の
   高圓(たかまど)の野に遊獵(みかり)し
   時に、小さき獸(けもの)都里(みやこ)
   の中に泄走(せつそう)す。
   是に適(たまたま)勇士(ますらを)に
   値(あ)ひて、生きながらに獲(え)ら
   れぬ。卽ち、此の獸を以ちて御在(おは
   しま)す所に獻上(たてまつ)るに、副
   へたる歌一首【獸の名は俗(よ)に「牟
   射佐妣(むざさび)」と曰ふ。】

 

 ますらをの高圓山に迫(せ)めたれば

    里に下(お)りける鼯鼠(むざさび)ぞこれ

「十一年」は天平一一(七三九)年。当時も「獸」であることに注目! 「天皇」は聖武天皇。「高圓野」奈良の東郊。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか) (ムササビ・モモンガ)

Musasabi

むささひ  鼺鼠 耳鼠

もみ    鼯鼠 夷由

のふすま  鴺 飛生鳥

ももか

      【和名毛美

       俗云無左々比

       今云野衾

       又云毛毛加】

ルイ チユイ

 

本綱鼠狀似蝙蝠大如鳶而肉翅四足翅尾項脇毛

皆紫赤色背上蒼腹下黃色喙頷襍白色脚短爪長尾長

三尺許其翅聯四足及尾與蝠同以尾飛而乳子子卽隨

母後聲如人呼食火烟能從高趣下不能從下上高喜夜

鳴取其皮毛與産婦臨産持之令易生【能飛而且産故寢其皮懷其爪皆能

催生】荀子云鼯鼠五技而窮謂能飛不能上屋能縁不能窮

木能遊不能渡谷能穴不能掩身能走不能先人雖多技

皆有窮極也【鼯鼠與螻蛄同名】 肉味【微溫有毒】

                 信實

 夫木むささひの聲遠近の山もとに里とほけなる森の一村

按鼯鼠擴肉翅於地如氈衾俗曰野衾關東曰毛毛加

 西國曰板折敷

一種 形色似鼯鼠【雄大如小狐雌小如鼬】大眼小耳肉翅四足五

 指尾如扇【縮則二三寸伸則等身長】以掩頭背如抱子時愛子甚故

 雖捕己嘗不欲去俗呼名飛鼺食小鳥及榧椎等乃能

 去其殼皮食蓋此鼯鼠之老者乎

 

 

むささび  鼺鼠〔(るいそ)〕 耳鼠

もみ    鼯鼠〔(ごそ)〕  夷由

のぶすま  鴺〔い〕 飛生鳥〔(ひせいてう)〕

ももが

      【和名、「毛美」、

       俗に「無左々比」と云ひ、

       今、「野衾〔(のぶすま)〕」云ふ。

       又、「毛毛加」と云ふ。】

ルイ チユイ

 

「本綱」、鼠、狀〔(かたち)〕、蝙蝠〔(かうもり)〕に似、大いさ、-鳶〔(とび)〕のごとくにして、肉の翅・四足あり。翅・尾・項〔(うなじ)〕・脇の毛、皆、紫赤色。背の上、蒼く。腹の下、黃色。喙〔(くちば)〕し・頷〔(あご)〕、襍白色〔(しうはくしよく)〕。脚、短く、爪、長し。尾の長さ、三尺許り。其の翅、四足及び尾に聯(つらな)り、蝠〔(かうもり)〕と同じ。尾を以つて飛びて、子を乳〔(ちち)〕す。子、卽ち、母の後〔(しり)〕へに隨ふ。聲、人の呼ぶがごとし。火烟〔(ひけむり)〕を食べ、能く高きより下に趣き〔けど〕、下より、高きに上ること、能はず。喜びて、夜、鳴く。其の皮毛を取りて、産婦に與〔(あた)〕ふ。産に臨みて、之れを持して〔せば〕、生〔むを〕易〔(やす)〕からしむ【能く飛びて、且つ、〔よく〕産む。故、其の皮に寢、其の爪を懷〔(ふところ)〕にして、皆、能く生〔(せい)〕を催す。】。「荀子」に云はく、『鼯鼠、五技あつて窮〔(きゆう)〕す』〔と〕。謂〔(いは)〕く、「能く飛べども、屋に上ること、能はず。能く縁(のぼ)れども、木を窮むる能はず。能く遊(をよ)げども、谷を渡ること、能はず。能く穴(あなほ)れども、身を掩〔(おほ)〕ふこと、能はず。能く走れども、先〔(さきだ)〕つこと、能はず。多技と雖も、皆、窮極有るなり」〔と〕【鼯鼠と螻蛄〔(けら)〕と名を同じくす。】。 肉味【微、溫。毒有り。】

「夫木」              信實

 むささびの聲遠近〔(をちこち)〕の山もとに里とほげなる森の一村〔(ひとむら)〕

按ずるに、鼯鼠、肉の翅を地に擴(ひろ)げて、氈(せん)〔の〕衾(ふすま)のごとし。俗に「野衾(のぶすま)」と曰ふ。關東に「毛毛加」と曰ふ。西國にて「板折敷〔(いたおしき)〕」と曰ふ。

一種 形・色、鼯鼠に似て【雄は大にして小狐のごとく、雌は小にして鼬〔(いたち)〕のごとし。】、大なる眼、小さき耳、肉の翅〔(つば)〕さ、四足、五〔(いつつ)〕の指、尾、扇のごとし【縮〔まば〕、則ち、二、三寸。伸〔ぶれば〕、則ち、身の長〔(たけ)〕に等し。】以つて、頭・背を掩ふ。如〔(も)〕そ子を抱〔(いだ)ける〕時は、子を愛すること、甚だしき故、己〔(こ)〕[やぶちゃん注:ママ。「子」のこと。]捕ふると雖も、嘗て去ることを欲せず。俗に呼びて、「飛鼺」と名づく。小鳥及び榧(かや)・椎(しい)等を食ふ。乃〔(すなは)ち〕、能く其の殼(から)・皮を去りて食ふ。蓋し、此れ、鼯鼠の老せる者か。

[やぶちゃん注:「蝙蝠」に続く古典的博物学の記載で、鳥類ではない、

哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista(全八種で東アジア・南アジア・東南アジアに分布)で、本邦に棲息するのは、日本産固有種ホオジロムササビ Petaurista leucogenys

であり、また、同一種と誤解している方も多い(寧ろ、江戸時代まで区別されていなかった。だからここにも和名が併記されてしまっている)と思うのだが、別種で形態は似ているが遙かに小さい、

リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga

である。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第五巻「哺乳類」(一九八八年平凡社刊)の「ムササビ・モモンガ」の項によれば(コンマ・ピリオドを句読点に代えた)、属名ペタウリスタは「跳躍台から飛び降るもの」の意である。また、漢名「鼺鼠」は「鼺」は「転がる」で「転がり落ちるネズミ」の意とし、『ムササビは飛んでも上昇することができず、ともすれば落下してしまう。そのこととネズミに似た形状にちなんだもの』とある。また、『和名のモモンガは古くはモミとよばれ、〈毛美〉〈毛朱〉と表記されることもあった。毛色の美しさを称したのかもしれない』。滝沢馬琴編の「兎園小説」に『よれば、モモンガとはモミの年老いて大きくなったものを指した特殊な名称で、もとモモンクヮァといった。すなわちモモンはモミの訛(なま)り、クヮァはそのなき声をあらわしているという』(所持するので確認したところ、これは「兎園小説」第二集(文政八(一八二五)年二月八日の「兎園会」での著作堂(馬琴の別号)発表の「『まみ穴』『まみ』といふ獸の和名考幷(ならび)に『ねこま』『いたち』和名考附(つけたり)奇病の事」の一節である)『なおムササビの和名由来についてはよくわからないが、一説に〈身細(みささび)〉の意味という。飛膜を広げたときの大きさに比べてその胴体がほっそりしていることによる』とある。

 まず、ウィキの「ムササビ」を引いておくと、『ノブスマ(野臥間、野衾)、バンドリ、オカツギ、ソバオシキ、モマなど多くの異名(地方名)がある』。『長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることができる。手首には針状軟骨という軟骨があり、普段は折りたたまれているこの軟骨を、滑空時に外側に張り出すことで、飛膜の面積を増やすことができる』。『長いふさふさとした尾は滑空時には舵の役割を果たす。頭胴長』二十七~四十九センチメートル、尾長二十八~四十一センチメートル、体重七百~千五百グラムと、近縁のモモンガ類に比べて大柄である(ホンドモモンガは頭胴長』十四~二十センチメートル、尾長十~十四センチメートル、体重百五十~二百二十グラムである)『のみならず、日本に生息するネズミ目としては、在来種内で最大級であり、移入種を含めても、本種を上回るものはヌートリア』(齧歯目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科ヌートリア科ヌートリア属ヌートリアMyocastor coypus:本邦へは軍隊防寒服用として昭和一四(一九三九)年にフランスから百五十頭が輸入されて飼育が奨励され、軍隊の「勝利」にかけて当時は「沼狸(しょうり)」と呼ばれた)『位しかいないとされる』。『ムササビは日本の固有種であり、本州、四国、九州に生息する』。『山地や平地の森林に生息する』。『特に、巣になる樹洞があり、滑空に利用できる高木の多い鎮守の森を好む』。『夜行性』の『完全な樹上生活者で、冬眠はしない』。百二十『メートル以上の滑空が可能で、その速度は秒速最大』十六『メートルにもなる』。『ケヤキやカエデなどの若葉、種子、ドングリ、カキの果実、芽、ツバキの花、樹皮など、季節に応じて』、『さまざまな樹上の食物を食べる』。『地上で採食はしない。大木の樹洞、人家の屋根裏などに巣を作る。メスは』一『ヘクタール程度の同性間のなわばりをもつ。オスは』二『ヘクタール程度の行動圏をもつが、特になわばりをもたず、同性同士の行動圏は互いに重なり合っている』。『冬と初夏の年』二『回発情期を迎える。発情期には交尾の順位をめぐり、オス同士が激しい喧嘩を繰り広げる。ムササビの陰茎は「コルク抜き」のような形状をしており、次に交尾しようとするオスは、陰茎を用いて交尾栓を取り除き、交尾を行っている。平均』七十四『日の妊娠期間を経て、春と秋に』一、二『匹の仔を生む』。『漢字表記の「鼯鼠」がムササビと同時にモモンガにも用いられるなど』、『両者は古くから混同されてきた。両者の相違点としては上述の個体の大きさが挙げられるが、それ以外の相違点としては飛膜の付き方が挙げられる。モモンガの飛膜は前肢と後肢の間だけにあるが、ムササビの飛膜は前肢と首、後肢と尾の間にもある』。『また、ムササビの頭部側面には、耳の直前から下顎にかけて、非常に目立つ白い帯がある』。『ムササビなど滑空性のリスと同様に飛膜をもち、滑空する哺乳類として、同じネズミ目に属するが科の異なるウロコオリス類』(齧歯目ウロコオリス形目 Anomaluromorpha ウロコオリス科 Anomaluridae:アフリカ大陸西部及び中部にのみ分布)、『フクロネズミ目(有袋類)のフクロモモンガ』(獣亜綱双前歯目フクロモモンガ上科フクロモモンガ科フクロモモンガ属フクロモモンガ Petaurus breviceps)、『ヒヨケザル目(皮翼目)のヒヨケザル』(真主齧上目真主獣類皮翼(ヒヨケザル(日避猿))目 Dermoptera「蝙蝠」の注で既出)『などが知られている』。『ムササビは、日本では古くから狩猟の対象であった』。『縄文時代では、青森県青森市に所在する三内丸山遺跡において、縄文集落に一般的なシカ・イノシシを上回るムササビ・ウサギが出土しており、巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していたことを示していると考えられている』。『時代によっては保護の対象ともなり』、「日本後紀」には、『ムササビの利用を禁ずるとする記述がある』(巻二十の弘仁元(八一〇)年九月乙丑(二十八日)の条の中で葦鹿(アシカ)・羆(ヒグマ)などとともに「𤡂」(この字は「𤢹」と同じで「モモンガ(鼯鼠)」や「ムササビ(鼺鼠)」などを含むリス科の滑空する哺乳類「飛𤢹(ひるい)」を指した)を禁断とする旨の記載がある。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの「国史大系」の「日本後記」の当該部分の画像)。『特に、保温性に優れたムササビの毛皮は防寒具として珍重され、第二次世界大戦では物資が不足する中で、ムササビ』一『匹の毛皮は、当時の学校教員の月給に匹敵するほどの値段となった』。『被毛は筆の材料としても利用され、他にはない粘りと毛先に独特の趣がある』。『現在の日本では、ムササビは鳥獣保護法において「非狩猟鳥獣」であるため、狩猟は不可能となっている』とある。 ウィキの「モモンガ」は記載が乏しく、以上で概ねカバー出来るが、荒俣氏の解説でも示した、「モモンガ」の名の由来について、当該項以下を引いておく。『モモンガは、平安時代にはムササビと区別されておらず、「モミ」または「ムササビ」と呼ばれていた。このうちの「モミ」が転じて「モモ」となり、江戸時代に「モモングァ(漢字の当て字は『摸摸具和』)」という語形が生まれ、「モモングァー」「モモンガー」を経て、最終的に「モモンガ」になったと推測されている。ちなみに、「モミ」から変化した「モモ」や「モマ」は今も各地に方言語形として残っているが、モモンガの意味で使用する地域は少なく、多くはムササビや化け物の意味で使用されている』。『漢字による表記では前述の「摸摸具和」以外に中国語風の「鼯鼠」が用いられることがあるが、中国語の鼯鼠とはモモンガ亜科の総称であり、ムササビ(白頬鼯鼠)も含む』。『本州では妖怪扱いされていた時代もあり、子供を脅かすときや、誰かの悪口を言ったりするときに、「ももんがあ」ということがある』。『北海道のアイヌ民族からはエゾモモンガ』(モモンガ属タイリクモモンガエゾモモンガ Pteromys volans orii)『が子守する神として知られていたという』とある。

-鳶〔(とび)〕」東洋文庫は「」に『きじ』とルビして「鳶」と分離するようにするが、採らない。中文サイトを検索すると「」を「鴟」(古代の大建築で大棟の両端につけた飾りの「しび」に当てるあの字)と同じとし、その後に「鳶鳥」とあるからである。

「襍白色〔(しうはくしよく)〕」「襍」は「混じる・交える」であるから、白い色に別の雑な色が混じっていることを指す。

「乳〔(ちち)〕す」乳を与えて育てる。これを知っていて、何故、「禽」部に入れるかなぁ、時珍先生!

「火烟〔(ひけむり)〕を食べ」火鼠や仙人じゃあるまいし! 死にますって、時珍先生!

「其の皮毛を取りて、産婦に與〔(あた)〕ふ。産に臨みて、之れを持して〔せば〕、生〔むを〕易〔(やす)〕からしむ」前の乳を与えて育む珍しい「鳥」だからか。所謂、フレイザーの類感呪術であろうか。

「生〔(せい)〕を催す」生気(精気)を活性化させる。

『「荀子」に云はく、『鼯鼠、五技あつて窮〔(きゆう)〕す。謂〔(いは)〕く、「能く飛べども、屋に上ること、能はず。能く縁(のぼ)れども、木を窮むる能はず。能く遊(をよ)げども、谷を渡ること、能はず。能く穴(あなほ)れども、身を掩〔(おほ)〕ふこと、能はず。能く走れども、先〔(さきだ)〕つこと、能はず。多技と雖も、皆、窮極有るなり」〔と〕』「荀子」の「勧学篇」に出る。

   *

螾無爪牙之利、筋骨之、上食埃土、下飮黃泉、用心一也。蟹八跪而二螯、非蛇蟺之穴、無可寄託者、用心躁也。是故無冥冥之志者、無昭昭之明。無惛惛之事者、無赫赫之功。行衢道者不至、事兩君者不容。目不能兩視而明、耳不能兩聽而聰。螣蛇無足而飛、鼫鼠五技而窮。「詩」曰、「尸鳩在桑、其子七兮。淑人君子、其儀一兮。其儀一兮、心如結兮。」。故君子結於一也。

   *

但し、所持する原本で本文を確認したが具体な「五技」は記さないから、これは後代の「荀子」の古注によるものであろう。この「鼫鼠」(元は「梧鼠」であるが、後代の注釈者によってかく訂された)、「爾雅」の郭璞の注には(岩波文庫の金谷治氏の訳注より引用)『大きさ鼠の如く頭は兎に似て尾に毛があり青黄色で好んで田中にあって粟豆を食う』とあり、確かにムササビかモモンガらしい。

「鼯鼠と螻蛄〔(けら)〕と名を同じくす」「螻蛄」は昆虫のあの、直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ類(「本草綱目」はここまで)、本邦産のそれはグリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis である。詳しくは私の和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螻蛄(ケラ)を参照されたい。実は「螻蛄之才」という語があり、「ケラ」は飛ぶ・木に登る・泳ぐ・穴を掘る・走るという五つの能力を持つものの、どれも場面の中での僅かな限定能力に過ぎないことから、諸技能の性質を持っているものの、どれ一つとして役に立つ技能がないことを指す語である。則ち、ここは「ムササビ(モモンガ)」と「ケラ」は孰れも五つの運動能力を持ちながら、そのどれもその技能を窮めていない(どころか殆んど役に立たない)という点での「有り難くない異名」を同じゅうしている、というのである。

「夫木」「信實」「むささびの聲遠近〔(をちこち)〕の山もとに里とほげなる森の一村〔(ひとむら)〕」た説話集「今物語」の作者で公卿で歌人にして絵にも秀でたとされる藤原信実(安元二(一一七六)年?~文永三(一二六六)年以降)であろうか。研」の「和歌データベース」は、夫木和歌抄」の「巻二七 雑九」に、

 むささひのこゑおちかたのやまもとにさととほけなるもりのひとむら

とあり、これだと、

 むささびの聲落ち方の山本(やまもと)に里遠(とほ)げなる森の一村

で(「村」は「叢」と同義で、一叢(ひとむら)のこんもりとした森があるのである)、二句目に異同があるが、東洋文庫版は誤りとしていない。ムササビを考えると、「落ち方」が正しいように私には思えるのだが。

「一種」以下の叙述を考えるなら、寧ろ、ここまでの主記載がモモンガで、より大きなムササビがこの「一種」と考える方が、叙述に適合するように思われる。

和漢三才圖會第四十二 原禽類 伏翼(かうもり) (コウモリ)

Kahahori

かうもり  蝙蝠 天鼠

かはほり  仙鼠 飛鼠

      夜燕

伏翼

      【和名加波保利

ホツ イ   今云加宇毛利】

 

本綱蝙蝠生山川谷及人家屋間形似鼠灰黑色有薄肉

翅連合四足及尾如一夏出冬蟄晝伏夜飛食蚊蚋自能

生育或云鼉虱化蝠鼠亦化蝠蝠又化蚶恐不盡然或云

燕避戊巳蝠伏庚申此理之不可曉者也

白蝙蝠 有純白如雪頭上有冠者仙經以爲服之千百

 歳令人不死者乃此方士誑言也唐陳子眞得白蝙蝠

 大如鴉者服之一夕大泄而死鳴呼書此足以破惑矣

肉【鹹微熱有毒】 去肉上毛爪腸炙入藥【古方多用然性能瀉人宜斟酌】

――――――――――――――――――――――

夜明砂

    天鼠屎 鼠法 石肝 黑砂星

    卽蝙蝠屎也采得以水洶去灰土惡氣取細

 砂晒乾妙用其炒乃蚊柄眼也【辛寒】主治小兒疳及目

 盲障醫【蝙蝠肉夜明砂共厥陰肝經血分藥】

                  慈鎭

 拾玉かうもりは夜も戸たてぬ古寺にうちそともなく飛まかふ也 

按伏翼身形色牙聲爪皆似鼠而有肉翅蓋老鼠化成

 故古寺院多有之性好山椒包椒於紙抛之則伏翼隨

 落竟捕之若所嚙手指則難放急以椒與之卽脱焉其

 爲鳥也最卑賤者故俚語云無鳥之鄕蝙蝠爲鳥王

 

 

かうもり  蝙蝠 天鼠

かはほり  仙鼠 飛鼠

      夜燕

伏翼

      【和名、「加波保利」、

ホツ イ   今、「加宇毛利」と云ふ。】

 

「本綱」、蝙蝠は山川・谷及び人家屋の間に生ず。形〔(かた)〕ち、鼠に似て灰黑色、薄き肉の翅、有り。四足及び尾を連合す。一つのごとし。夏、出で、冬、蟄す。晝は伏し、夜(よる)は飛びて蚊-蚋〔(か)〕を食ひ、自〔(おのづか)〕ら能く生育す。或いは云はく、『鼉虱、蝠〔(かうもり)〕に化して、鼠も亦、蝠に化して、蝠も又、蚶(あかゞい[やぶちゃん注:ママ。])に化す』〔とするも〕、恐らく盡〔(ことごと)〕く〔は〕然るにあらず。或いは云はく、『燕は戊巳〔(つちのとみ/キシ)〕を避け、蝠は庚申〔(かのえさる/コウシン)〕に伏す』と。此れ、理の曉〔(あきら)か〕ならざるなり。

白蝙蝠 純白にして雪のごとく、頭上に冠〔(さか)〕有る者、有り。「仙經〔(せんきやう)〕」に以爲〔(おもへ)〕らく、『之れを服〔さば〕、千百歳、人をして死せざらしむ』と。乃〔(すなは)〕ち此れ、方士の誑言〔(たぶらかしごと)〕なり。唐の陳子眞といふもの、白蝙蝠を得て、大いさ、鴉のごときなる者、之れを服して、一夕、大泄して死す。鳴呼(あゝ)、此れを書して、以つて惑ひを破るに足れり。

肉【鹹、微熱。毒有り。】 肉の上毛・爪・腸を去り、炙りて藥に入る【古方に多く用ふ。然れども、性、能く人を瀉〔せば〕、宜しく斟酌すべし。】。

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夜明砂〔(やめいしや)〕

    天鼠屎 鼠法 石肝 黑砂星

卽ち、蝙蝠の屎〔(くそ)〕なり。采〔(と)〕り得て、水を以つて洶(ゆ)り、灰土・惡氣を去りて、細き砂を取り、晒し乾し、炒りて用ふ。其砂、乃〔(すなは)〕ち、蚊-柄〔(か)〕の眼なり【辛、寒。】。小兒の疳及び目盲・障-醫〔(そこひ)〕を治することを主〔(つかさど)〕る【蝙蝠の肉、「夜明砂」と共に、厥陰肝經〔(けついんかんけい)〕の血分〔(けつぶん)〕の藥なり。】。

  「拾玉」            慈鎭

 かうもりは夜も戸たてぬ古寺にうちそともなく飛びまがふ也

按ずるに、伏翼(かうもり)、身・形・色・牙・聲・爪、皆、鼠に似て、肉の翅(つば)さ、有り。蓋し、老鼠の化して成る。故に古き寺院、多く、之れ、有り。性、山椒を好む。椒を紙に包みて、之れに抛(はふ)れるときは、則ち、伏翼、隨ひて落つ〔れば〕、竟〔つゐ〕に、之れを捕ふ。若〔(も)〕し、手の指を嚙まるるとき〔は〕、則ち、放(はな)ち難し。急に椒を以つて之れに與ふれば、卽ち、脱す。其の鳥爲〔(た)〕るや、最も卑賤なる者なり。故に俚語に云ふ、「鳥無きの鄕(さと)にて、蝙蝠、鳥の王と爲す」と。

[やぶちゃん注:彼らは「禽」類ではないが、こいうところが、寧ろ、古典博物学の面白さである。まずは本邦で最も一般的に我々に馴染みのそれは、

脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目小翼手亜(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属 Pipistrellus 亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus

である。何故なら、彼らだけが日本に棲息する中では、唯一の住家性、則ち、人の家屋のみを棲み家とするコウモリだからである。私は実際には小学校を卒業して富山の高岡市伏木に移り住んで初めて、夕暮れとともに飛び交うコウモリを初めて見た。それが、彼らであった。驚くべきことに、ウィキの「コウモリ」等によれば(下線太字やぶちゃん)、全世界で一千種或いは約九百八十種ほどが報告されているが、その種数は哺乳類全体の四分の一近くを占め、哺乳綱真主齧上目グリレス大目 Glires 齧歯(ネズミ)目 Rodentia に次ぐ大きな多種グループであり、『極地やツンドラ、高山、一部の大洋上の島々を除く世界中の地域に生息している』。日本でも形勢は全く同じで、移入された哺乳類種を除く、約百種の在来哺乳類の内、約三分の一に当たる、三十五種(但し、種数は分類説により、若干、変動する)をコウモリ類が占めており、約四分の一に当たるネズミ目(齧歯類)二十四種を抑え、最多種数を擁している。『また、近年は琉球列島の島々に固有種が発見されている』とあった。以下、「特徴」の項。『コウモリ目は翼をもち、完全な飛行ができる動物である。前肢が翼として飛行に特化する形に進化しており、多くの鳥類と同様、はばたくことによって飛行するが、コウモリの翼は鳥類の翼と大きく構造が異なっている。鳥類の翼は羽毛によって包まれているが、コウモリの翼は飛膜と呼ばれる伸縮性のある膜でできている。哺乳類では、他にもムササビ(本邦産は日本固有種リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys)・モモンガ(齧歯目リス科リス亜科モモンガ族モモンガ属モモンガ Pteromys momonga)・ヒヨケザル(真主齧上目真主獣類皮翼(ヒヨケザル(日避猿))目 Dermoptera:別名コウモリザル。東南アジアの熱帯地方に棲息するサルに先行する、キツネザルに似た頭部を持つサル様の動物。首から手足及び尾の先端にかけて「飛膜」を有し、百メートルほど滑空出来る)『などの飛膜を広げて滑空する種が知られているが、鳥類に匹敵するほどの完全な飛行能力を有するのはコウモリ目のみである』。『コウモリの前肢(前足)は、親指が普通の指の形で鉤爪あることをのぞけば、すべて細長く伸びている。飛膜はその人差し指以降の指の間から、後肢(後ろ足)の足首までを結んでいる。腕と指を伸ばせば』、『翼となって広がり、腕と指を曲げればこれを折りたたむことができる。さらに後ろ足と尾の間にも飛膜を持つものも多い。また、鳥と異なり、後ろ足は弱く、立つことができない。休息時は後ろ足でぶら下がる。前足の親指は爪があって、排泄時など、この指でぶら下がることもできる。また、場合によってはこの指と後ろ足で這い回ることができる』。『ココウモリ類』(小蝙蝠類:microbat:概ね、翼手目 Chiroptera から現生種の大翼手(オオコウモリ)亜目オオコウモリ上科オオコウモリ科 Pteropodidaeのオオコウモリ類を除いた種の総。小翼手類)『は超音波を用いた反響定位(エコーロケーション)を行うことでよく知られている。種によって異なるが、主に30kHzから100kHzの高周波を出し、その精度はかなり高く、ウオクイコウモリ』翼手目アシナガコウモリ科ウオクイコウモリ科  Yangochiroptera 亜目ウオクイコウモリ科ウオクイコウモリ属ウオクイコウモリ Noctilio leporinus。名前が示す通り、主に魚類を摂餌する。メキシコ・アルゼンチン・パラグアイ・ブラジル・小アンティル諸島に分布し、洞窟・岩の割れ目。樹洞などに棲む。爪で水面近くを泳いでいる全長二~八センチメートルほどの魚を捕える)『のように微細な水面の振動を感知し、水中の魚を捕らえるものまでいる。コウモリの存在する地域における夜行性の昆虫やカエルなどは反響定位対策となる器官や習性を持つものも多く、その生態系ニッチの大きさがうかがえる。ただし、大型のオオコウモリの仲間は反響定位を行わない種が多い』。『竹竿(和竿)の先に鳥黐を付け、それを振ってコウモリをおびき寄せ、接着させて捕獲することができる。しかし』、『コウモリは狂犬病をはじめとする様々な人獣共通感染症のキャリアとなりうるため』、『危険性』を認識しておく必要がある。他にも、日本脳炎・リッサウイルス感染症・ニパウイルス感染症・ヘンドラウイルス感染症・重症急性呼吸器症候群(SARS などの原因となるウイルスの保有が報告されており、『日本国内のコウモリから新種のアデノウイルスやヘルペスウイルスの発見も報告されている』。比較的知られた話としては、二〇一三年から二〇一六年にかけて、『ギニアをはじめとする西アフリカ諸国でエボラ出血熱が流行した』際も、『自然宿主の可能性が有るオオコウモリとの接触が原因となった可能性が指摘されている』。『熱帯においては、花の蜜や花粉を食べる種があるため、それに対する適応として花粉の媒介をコウモリに期待する、コウモリ媒の花がある』。『コウモリは目の前の獲物だけでなく、次の獲物の位置も先読みしながら』、『最適なルートを飛んでいる』。以下、「進化」の項。『恐竜の栄えた中生代において、飛行する脊椎動物の主流は恐竜に系統的に近い翼竜と恐竜の直系子孫である鳥類が占めていた。中生代の終結において、恐竜とともに翼竜は絶滅し、鳥類も現生の鳥類に繋がる新鳥類以外の系統が絶えた。これにより、飛行する脊椎動物という生態系ニッチには幾分か「空き」ができた。ここに進出する形で哺乳類から進化したのが』、『コウモリ類である。コウモリが飛行動物となった時点では、鳥類は既に確固とした生態系での地位を得ていたため、コウモリはその隙間を埋めるような形での生活圏を得た』。『コウモリの直系の祖先にあたる動物や、コウモリが飛行能力を獲得する進化の途上過程を示す化石は未だに発見されていない。恐らく彼等は樹上生活をする小さな哺乳類であり、前肢に飛膜を発達させることで、樹上間を飛び移るなど、活動範囲を広げていき、最終的に飛行能力を得たと思われる。確認される最古かつ原始的なコウモリはアメリカ合衆国ワイオミング州産のオニコニクテリスで、始新世初期』(約五千二百万年前)『の地層から化石が発見されている。この時期には既に前肢は(現生群に比べ短いなどの原始的特徴が目立つものの)翼となっており、飛行が可能になっていたことは明白である。化石から耳の構造を詳細に研究した結果、反響定位を持っていなかったことが判明し、コウモリは』、『まず』、『飛行能力を得たのちに、反響定位を行う能力を得たことが分かっている』。以下、「文化」の項。『一般にコウモリといえば』、『西洋では吸血鬼につながるイメージがあるが、実際には他の動物の血を吸う種』(翼手目ウオクイコウモリ下目ウオクイコウモリ上科チスイコウモリ科チスイコウモリ属ナミチスイコウモリDesmodus rotundus:一属一種。哺乳類の血を吸血するが、ヒトを襲うことは稀)『はごくわずかであり、たいていは植物(主に果実)や虫などの小動物を食べる。そもそも吸血性のコウモリは中央アメリカから南アメリカにかけてのみ分布し、旧大陸にそれについての知識が伝わったのも』、『吸血鬼との同一視も、ヨーロッパ人の新大陸進出後の』、『比較的新しい事象でしかない。東洋では歴史的にコウモリを嫌忌する伝統はない。むしろ、中国語で「蝙蝠」 (biānfú) の音が「福が偏り来る」を意味する「偏福」 (piānfú) に通じるため、幸運の象徴とされている。またキューバの絶滅した先住民タイノス(タイノ族)族はコウモリが健康、富、家族の団結などをもたらすと信じており、同地で創業した世界的ラム酒バカルディのロゴマークに採用されている』。『日本では蚊食鳥(カクイドリ)とも呼ばれ、かわほりの呼称とともに夏の季語である。蚊を食すため、その排泄物には難消化物の蚊の目玉が多く含まれており、それを使った料理が中国に存在するとされる』、とあるが、ウィキの「四川料理」によれば、『夜明砂は実在する生薬だが、夜明砂で作った四川料理は存在するかどうか疑問だ』とある。『「強者がいない場所でのみ幅を利かせる弱者」の意で、「鳥無き里の蝙蝠」という諺がある。また、織田信長はこれをもじって、四国を統一した土佐の大名、長宗我部元親を「鳥無き島の蝙蝠」と呼んだ』。『この「鳥無き島の蝙蝠」のフレーズは、古くは、「未木和歌抄」の『巻第二十七に平安末期の歌人和泉式部の歌に「人も無く 鳥も無からん 島にては このカハホリ(蝙蝠)も 君をたづねん」とあり、鎌倉期の』説話集「沙石集」の巻六「説教師ノ言(ことば)ノ賤(いやしき)事」にも『鳥無キ島のノカハホリニテ」と『あることから、少なくとも』十二『世紀には』よく知られて『いたものとわかる』。『沖縄の八重山人は蝙蝠の子孫を称していた(厳密には、クビワオオコウモリ』(オオコウモリ科オオコウモリ属クビワオオコウモリ Pteropus dasymallus)『の亜種であるヤエヤマオオコウモリ』(Pteropus dasymallus yayeyamae)『の子孫ということになる)。この他、琉球諸島の各島々の伝説では、人間以外の生物に起源を求めるものが多く、蝙蝠起源はその内の一つである。島民は自らの先祖である動物を敬い、大切にしたが、各島民が互いに悪口をいう際は、「○○の子孫が」といった風になったという』。『コウモリは分類学上は哺乳類であるが、鳥と同様に翼を持ち飛行することが可能である。これを参考にしたイソップ寓話「卑怯なコウモリ」がある。獣と鳥が争う中、コウモリはどっちにもいい顔をし、結果どちらからも嫌われてしまう童話であり、現在でもどっちつかず、八方美人的な人や行動を比喩する表現として「コウモリ」を使用することがある。しかし、イソップ寓話の原典に戻ると、鼬に捕まったときに自分は鳥ではなく鼠だと言って放免してもらい、鼠はみな仇敵だと言う別の鼬に捕まった時には、自分は鼠ではなく蝙蝠だと言ってまたも逃がしてもらうというエピソードを通じて、「状況に合わせて豹変する人は、しばしば絶体絶命の危機をも逃げおおせる、ということを弁えて、いつまでも同じところに留まっていてはならない」という見習うべき教訓を象徴する動物とされていることが分る』。『中国では、コウモリ(蝙蝠)の「蝠」の字が「福」に通ずることから、幸福を招く縁起物とされる。百年以上生きたネズミがコウモリになるという伝説もあり、長寿のシンボルとされている。そのため西洋の影響を受ける明治中期ごろまでは日本でも中国の影響で縁起の良い動物とされており、日本石油(現:JXTGエネルギー)では』一九八〇『年代初頭まで商標として用いられ』、『また』、『福山城のある蝙蝠山を由緒とする広島県福山市の市章の使用例や長崎のカステラ店福砂屋などはコウモリを商標としている。日本では、使用例は少ないが、コウモリの家紋も存在する』。『上記の通り』、『吸血種のみがクローズアップされて吸血鬼の眷属、あるいはその化身として描かれることもあり、また天使が背中に白い鳥の翼を持つとされるのに対し』、『悪魔は背中にこのコウモリの翼を生やしているとされる。日本では仮面ライダーシリーズに登場する蝙蝠男(蝙蝠系の怪人)がその例といえる。一方で、黄金バットやバットマンのように正義のヒーローのモチーフとして扱われることもある(大衆正義のスーパーマンに対し、バットマンは個人正義に例えられる)』とある。

 次に、身近なアブラコウモリ。和名が不審で調べて見たが、古くから、少なくとも(以下の引用では全国的とある)北九州でこのコウモリのことを「あぶらむし」と呼んでいたらしく、それを以下の通り、シーボルトが命名する際に用いたことからの和名らしい。しかし、何故「あぶら」なのかは調べ得なかった。アブラムシ同様、油で灯を灯す夕暮れ以降に活動を活発にさせるからか? 識者の御教授を乞うものである。やはりウィキの「アブラコウモリから引く(一部で先の引用と重なる)。『日本では人間にとって最も身近なコウモリであると言え』、住家性という『その習性から、イエコウモリ(家蝙蝠)の別名がある。史前帰化動物とする説もある』。『また、別名をアブラムシともいい、abramus という種小名はこれに由来する。アブラコウモリは、シーボルトが長崎で入手した標本によって西洋に紹介されたが、当時、九州北部で「アブラムシ」と呼んでいたために、その名称と共にヨーロッパへ渡ることとなった』。「日本動物誌」にも『Vespertilio abramus として記載されており、長崎の建物の屋根裏などに見られることなどとともに、"Son nom japonais est Abramusi (insecte du lard)"(日本名は Abramusi(脂の昆虫)という)と説明されている。江戸時代には、この呼称は全国的にも一般的であったとされる』。大きさは、前腕長 三十・三~三十五・五ミリメートル、頭胴長 三十八~六十ミリメートル、尾長二十九~四十五ミリメートル、体重五~十一グラム。歯を有する。『体毛は黒褐色から暗灰褐色。皮膜は灰褐色または明るい褐色。幼獣は黒っぽい。雄の場合は、多種と比べて長い陰茎が目立つ(陰茎骨は十~十一ミリメートルである)。『市街地を中心として、平野部に広く分布する。東京都心をはじめとする都市部の市街地にも数多く棲息し、夕刻の空に普通に見られる。人家のない山間部などには棲息せず、自然洞窟などでの記録は、まれにしかない』。一・五センチメートル『ほどの隙間があれば出入りすることができ、家屋の瓦の下、羽目板と壁の間、戸袋の中、天井裏、換気口など建物の隙間などを主な棲息場所(ねぐら)とする。都市部では、高層ビルの非常口裏などのほか、道路・鉄道等の高架や橋の下、大型倉庫内などもねぐらとなる』。『数頭の家族単位(雌と幼獣)で暮らすことが多いが、幼獣を含む雌の繁殖集団では』、五十~六十『頭、時には』二百『頭にもなる』が、『成獣の雄は』一『頭で暮らすことが比較的多い』。『夜行性で、昼間はねぐらで休み、日没近くから夜間に飛び回る。カ、ユスリカ、ヨコバイなどの小型昆虫類を主食とし、ウンカ、甲虫なども捕食する。活動は日没後』二『時間程度が最も活発。河川などの水面上や田畑・駐車場などのオープンスペース、あるいは街灯の近くなどを、ヒラヒラと不規則に飛び回り、飛翔昆虫を捕食する。都市部では、有機物量の多い汚濁河川から大量に発生するユスリカ』(昆虫綱双翅(ハエ)目糸角(長角・カ)亜目亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae)『が重要な食物となっていることが多い』。『日本では』、十一『月の中ごろから冬眠に入る。暖かい場所に多数が集まって冬越しをする』。三『月中下旬に冬眠から覚め、活動を開始する。冬眠期間中でも、暖かい日には飛翔する姿が見られることもある。近年、都市部では冬眠しないものも現れている』。『雌は満』一『歳から出産し』、七『月初旬に』一~四頭(通常は二、三頭)の『仔を産む』。三十日『程度で離乳して巣立つ』。十『月に入ると』、『交尾を行う。精子は雌の生殖器官に貯えられたまま冬を越す。冬眠あけの』四『月下旬になってから排卵が起こり、受精・妊娠する。寿命は雄で』三『年、雌で』五『年ほどと、他のコウモリと比べると短い。雄は』一『年以内に死んでしまうことが多い』。『シベリア東部からベトナム、台湾、日本。日本国内では、北海道道央部以北を除くほとんど全国に分布する。すなわち、北海道道南部、本州、四国、九州、壱岐島、対馬、口永良部島、口之島、宝島、奄美大島、徳之島、沖縄島、慶良間島、宮古島、伊良部島、西表島などである。ただし』、『伊豆諸島や南西諸島などには棲息の確認されていない島もある』。『日本に分布するものとアジア大陸に分布するものを別種とし、後者を Pipistrellus javanicus とする説もある。その場合、本種』(Pipistrellus abramus)『は日本固有種ということになる』。『人家周辺を飛ぶ蚊などの害虫を捕食するため、アブラコウモリには益獣としての側面がある。一方』、一『か所に暮らす個体数が多い場合、人家を住処とすることもあって、糞や尿による落下汚染とそれに伴う臭いやダニの発生、または夜間の騒音によっても、人間生活に被害とみなされる影響を与えることがある。近年、このような苦情は増加傾向にあり、忌避剤の使用やコウモリ駆除の依頼をする家庭もある』。『かつては、家に棲みついたり入ってきたりすると』、『縁起がよいとされたコウモリだが、伝統的なイメージが忘れ去られるとともに、現代では、単に気味が悪いという理由で嫌がる人もある。もともと東アジアでは、コウモリの漢語蝙蝠(へんぷく/ビェンフー)の「蝠」の字音である「ふく/フー」が「福」に通じるとして縁起のよい動物とされており、日本ではさらに、子宝に恵まれるというイメージもあって、めでたい動物として親しまれた。図柄としても好まれ、江戸後期には歌舞伎役者・七代目市川團十郎が蝙蝠の柄を流行らせたという記録も残っている。しかし、西洋の怪奇小説などに由来する「コウモリは不吉な動物」であるとの概念が浸透して、旧来の概念が薄れたのである』。『ヒートアイランド現象によって高い気温が保たれ、餌となる小型昆虫の多い都市部は、アブラコウモリにとって有利な生存環境であり、都市部では近年、その数が増加している。住宅街等でも容易に観察することのできる身近な哺乳動物として、貴重な存在と言える』とある。

「蚊蚋〔(か)〕」中国語ではこの二字で「蚊」(昆虫綱双翅(ハエ)目糸角(長角・カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidae)を意味する。

「自〔(おのづか)〕ら能く生育す」蚊のような微細な動物の摂餌であるにも拘らず、のニュアンスであろうか。

「鼉虱」不詳。「鼉」は鰐(爬虫綱双弓亜綱主竜型下綱ワニ形上目ワニ目 Crocodilia)の一種を指すが、「虱」と熟語になっており、ワニではないと思われる。識者の御教授を乞う。

「蚶(あかゞい)」」翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ Scapharca broughtonii

「燕は戊巳〔(つちのとみ/キシ)〕を避け」先行する「燕(つばめ)」を参照。因みに、東洋文庫版は「燕」でもここでも『戊己』とするのであるが、底本は「燕」では明らかに「戊巳」であり(本条は熟語記号と重なっているが、明らかに「己」ではなく、上には突き出て「已」か「巳」である)これはおかしい(東洋文庫版編者の誤判読)と思う。以下で「庚申」と対にしてあるからである。そもそもが「本草綱目」の原本を見ても「戊巳」なのである。

「仙經」固有書名ならば、長生不死の神仙術を説いた道教の書で、南北朝期の僧で中国浄土教の開祖とされる曇鸞(どんらん 四七六年?~五四二年?)大師は、陶弘景(とうこうけい 四五六年~五三六年:六朝時代の医学者・科学者で道教茅山派の開祖。「本草綱目」には彼の記載が多く引用される)から「仙経」十巻を授けられたとされている。単に「仙術を記した諸書」の一般名詞かも知れぬ。

「以爲〔(おもへ)〕らく」ここは「謂うことには」の意。

「方士」「道士」に同じい。

「誑言〔(たぶらかしごと)〕」読みは私が勝手に附した。音なら「キヨウゲン(キョウゲン)」。

「陳子眞といふもの、白蝙蝠を得て……」宋の李石撰の「続博物志」(江蘇巡撫採進本)の十巻に、

   *

摘其既云劉亮合仙丹得白蝙蝠服之立死。又云陳子眞得蝙蝠大如鴉。食之一夕大泄而死。乃更云丹水石穴。蝙蝠百歳者倒懸。得而服之。使人神仙。自相矛盾。

   *

とある。「陳子眞」なり人物は不詳。

「大泄」激しい下痢。

「此れを書して、以つて惑ひを破るに足れり」ここでも時珍は仙道の不老不死術への強い批判を示している。

「肉」ここでは薬用のみを記すが、御存じとは思うが、現在でもコウモリ食は世界各地にある。ウィキの「食用コウモリによれば、『アジア・オセアニア・アフリカなどで食されるポピュラーな食材のひとつである。食用は、大型のコウモリであるフルーツコウモリ(フルーツバット、いわゆるオオコウモリ)』(熱帯雨林に棲息するオオコウモリ上科オオコウモリ科 Pteropodidae の類。同類にはCynopterinae 亜科コバナフルーツコウモリ属 CynopterusEpomophorinae 亜科クビワフルーツコウモリ属 MyonycterisHarpiyonycterinae 亜科ケナシフルーツコウモリ属 Dobsoniaシタナガフルーツコウモリ亜科のシナダカフルーツコウモリ属 Macroglossus や同亜科のハナフルーツコウモリ属 SyconycterisNyctimeninae 亜科テングフルーツコウモリ属 Nyctimene など、実際に「フルーツコウモリ」を和名に持つものが多くいる)『がよく食される』。『多くの南の国や地域で、食用コウモリはレストラン、食堂、或いは屋台、そして家庭で利用されている。また、一部の地域では高級食材として扱われる。地域によっては、まるごと一頭の、串焼き、姿焼き、姿煮などで提供されるが、頭や内臓まで食べることができる』。『インドネシア・北スラウェシ州のミナハサ族には』「パニキ」(コウモリ)の『家庭料理(マナド料理)があ』り、『ミナハサ族の料理法で調理されたパニキは、毛を焼いてローストし、カレー風に仕上げたもので、骨付き肉である。また、ココナッツミルクや、ハーブや香辛料を用いて、カレーのようなスープ料理にもなる。肉の味は牛肉のようで、この民族の料理は、味付けに唐辛子を用いることもあり、辛い料理とされている』。『ラオスなどの東南アジアでは』、『屋台で売られるほど』に『ポピュラーで、おやつとして食されてもいる。毛が付いたまま串焼きをした屋台料理もある。カンボジアではライルオオコウモリ』(オオコウモリ科オオコウモリ属 Pteropus lylei)『や小型のコウモリが食され、野菜と一緒に煮込む料理がある。ほかに、小さく刻んだコウモリを煮て、エキスを滋養・強壮の薬として飲むこともある』。『ベトナムでは、かゆの中にコウモリを入れる家庭料理が伝わる。このさい、コウモリは毛を取って料理する』。『中国の南部にもフルーツコウモリが生息するため、その食文化があり、広東料理では高級食材として扱われる。台湾では屋台で焼いたコウモリが売られる』。『パラオやバヌアツでも食される。パラオでは、捌いたコウモリの肉をココナッツミルク、生姜、及び香辛料で煮込んだ料理が伝わる。一部のレストランでは、日本で客が魚を選ぶように、客が自らコウモリを選んで、さばいてもらえる店もある。 また、日本の中学校にもパラオで、食用コウモリを食す研修がある』。『バヌアツではラプラプ料理のひとつにフルーツコウモリも用いたものがある』。『グアム島やマリアナ諸島(サイパンなど)のマリアナオオコウモリ』(Pteropus mariannus)『も美味しいため、チャモロ料理となり、よく食べられた。現在は数が減ったため、別の場所からオオコウモリを輸入して、食文化が存続している。グアムで食用コウモリが激減して消費に追いつかなくなった際、オガサワラオオコウモリ』(Pteropus pselaphon)『やサモアオオコウモリ』(Pteropus samoensis)『のような他の場所のオオコウモリがグアムに輸入された。日本の小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれた歴史があるが、ちょうどその時代に島民がオガサワラオオコウモリを網などで捕獲していた』。『パプア・ニューギニアにもスープ料理がある。ここのカラン族(Karan)はコウモリ狩りをし、食する。肉はチキンのようで、スープの味付けはインドネシアとは異なり、淡泊であるという』。『オーストラリアのアボリジニーは伝統的にコウモリを食す。アボリジニーの伝統的な食材をブッシュ・タッカーといい、コウモリを食すなどの、ブッシュタッカーを体験するツアーも行われる。アボリジニーの神話に『ボッビ・ボッビ』(Bobbi-bobbi)というものがあり、アボリジニーがコウモリを食べるようになったわけや、ブーメランでコウモリを捕えるわけが伝承されている』。『アフリカのブルキナファソにコウモリを食する習慣がある。狩猟が行われ、銃や空気銃を用いたり、木の枝とゴムの、パチンコで撃ち落とす』。『また、インド洋のセーシェルでもフルーツコウモリを用いた、クレオール風のカレー料理がある』。『食用コウモリは養殖がされていないため、狩猟により捕獲する。食用コウモリがいる国や地域では、パチンコ(スリングショットなど)やブーメランのような簡単な道具や、銃や空気銃、または網、補虫網などを用いて狩猟をする。フィリピンのアエタ族(Aeta、又はアイタ族:Ayta)や、バヌアツのタンナ島の狩猟採集民ニャマル』『は弓矢を用いる。ニューカレドニア』『では観光客がハンティングを行える』。『コウモリを捕獲している地域では、コウモリが人を警戒し、人間に近寄らないが、捕獲していない地域では、コウモリは人間のことを気にしないとされている。そのため、オオコウモリを捕獲するのに森に入る場合がある。反対に、オオコウモリを捕獲しないスリランカ(の植物園)では、人のそばで、インドオオコウモリ』(Pteropus giganteus)『が大きなコロニーを形成していたりする』。『コウモリを食用とする地域がある一方、様々な国や地域でコウモリはタブー視され、食されない。キリスト教の影響の濃い欧州では、コウモリの売買と食肉を禁じる国際法まである』。『コウモリを食する文化の無い日本では、コウモリは鳥獣保護法の保護対象となっており、捕獲には許可が必要となっている』。『規制以前の小笠原では前述の通り』、『グアムへの輸出のために、網などで、オガサワラオオコウモリを捕獲したことがある』。『グアムではマリアナオオコウモリが食べられたが、グアムの幾つかの島で絶滅したり、絶滅寸前にまで追い込まれてしまい、その捕獲は制限され、現地の方が文化として食する程度である。日本の「コウモリの会」によると、グアムのマリアナオオコウモリの絶滅又は激減などのような現象は、主に観光客が興味本位にコウモリを食すことに由来し、現地人が一月に数回、食べる分にはコウモリ(資源)が減ることは無かったと主張している』。『フィリピンの一部地域に生息するネグロスケナシフルーツコウモリ』(オオコウモリ科ケナシフルーツコウモリ属ネグロスケナシフルーツコウモリ Dobsonia chapmani)『は、森林破壊や糞(グアノ)採取を目的とした騒乱、狩猟により生息数を急速に減らした。一時は絶滅と信じられていたほどである』。『中国では』、二〇〇二年から二〇〇三年に『重症急性呼吸器症候群(SARS、サーズ)が流行したが、食用コウモリが感染ルートとされている。SARSの原因となったSARSコロナウイルスは、コウモリを介して、人に伝播する感染ルートが知られている。そのため、コウモリを含む野生動物を食べないように注意喚起されることもあった』。二〇一四年の『西アフリカエボラ出血熱流行においてエボラ出血熱の発生源地域のひとつであるギニアのゲケドゥ県では、エボラウイルスの媒介動物であるウマヅラコウモリ』Epomophorinae 亜科ウマヅラコウモリ属ウマヅラコウモリ Hypsignathus monstrosus。私は本種の顔を見ると、思わず、鼻行類の飛翔型かと思ったりしたものだ。ウィキの「ウマヅラコウモリ」の図を見られたい。但し、実物はかなりモンストロムである。グーグル画像検索「Hypsignathus monstrosusをリンクさせておくが、首だけの画像もあり、ややエグいのでクリックは自己責任で)『とフランケオナシケンショウコウモリ』(Epomophorinae 亜科 Epomops Epomops franqueti)『の狩猟が盛んで』は『あった』(但し、エボラ出血の感染源については、未だ不明な点も多い)。『そのほか幾つかの感染症がコウモリ由来と考えられている』。『一方、日本にも食用になるフルーツコウモリが琉球諸島や小笠原諸島に生息するが、食する習慣は無い。そもそも日本のフルーツコウモリは生息数が極めて少なく、琉球・小笠原のいずれにおいても絶滅危惧種で捕獲も禁止されている』とある。

「性、能く人を瀉〔せば〕」よく人に下痢を発症させる性質があるので。

「斟酌」条件などを考え合わせて上で適切に処置すること。おぞましい首相のおかげで、この語、厭な言葉に変質してしまったのは、日本人として実に嘆かわしいことと思っている。

「夜明砂〔(やめいしや)〕」「株式会社ウチダ和漢薬」公式サイト内の神農子氏の書かれた「生薬の玉手箱」の「ヤミョウシャ(夜明砂)」(平成二六(二〇一四)年一月十日号より)より引用する(ピリオド・コンマを句読点に代えさせて貰った)。

   《引用開始》

基源:ヒナコウモリ科(Vespertilionidae)のユビナガコウモリMiniopterus schreibersi Kuhl,ヒナコウモリVespertilio superans Thomas、ウサギコウモリPlecotus auritus L.、又はキクガシラコウモリ科(Rhinolophidae)のキクガシラコウモリRhinolophus ferrumequinum Schreber 等の糞便を乾燥したもの

 音楽の都ウィーンを代表する作曲家,ヨハンシュトラウス世が作曲したオペレッタといえば,真っ先に「こうもり」が挙げられます。この作品は大晦日から元日にかけての出来事という設定のため、ドイツ語圏で年越しに良く上演されるそうです。今回はそんなコウモリから得られる生薬の話です。

 コウモリは唯一空を飛ぶことができる哺乳類(ムササビなどは滑空のみ)であり、世界中の極地を除く至る場所に分布しています。世界に4000種程度の哺乳類が知られていますが、そのうちのおよそ4分の1をコウモリの仲間(翼手目)が占め、ネズミなどの齧歯類(齧歯目)についで種数の多いグループです。日本では33種が確認されており、移入種を除けば哺乳類全体の約3分の1を占め、最も種数の多いグループを形成しています。このうち21種は環境省作成のレッドデータブックにおいて絶滅危惧種に指定されています。

 食虫性のコウモリは、昆虫やクモなどの節足動物を大量に補食することが分かっています。その量は、一晩に蚊を約500匹とも言われており、蚊食鳥との別名があるくらいです。これら節足動物の外皮は、主にムコ多糖の一種であるキチンで構成されています。コウモリの仲間にはキチンの分解酵素(キチナーゼ)があることが最近明らかになりました。キチンの分解によって得られる単糖やオリゴ糖は高効率でエネルギーへと変換することができるため、コウモリの栄養源となっていることが容易に推察できます。コウモリの糞であるヤミョウシャにもキチンやその分解産物が含有されている可能性が高いと考えられますが、ほとんど研究が行なわれていないため詳しいことはわかりません。一部資料には大量の尿素、尿酸を含むとの記載があり、コウモリの糞を主体とする資材がバットグアノという有機肥料として用いられていたのも頷けます。

 ところで、コウモリの仲間の中には狂犬病の原因となるウイルスを持つものが知られています。狂犬病はラブドウイルス科リッサウイルス属のウイルスに感染し潜伏期間を経た上で発病します。感染した動物に嚙まれ,その唾液と傷口が接触することで感染が起こります。これらのウイルスは乾燥や熱に弱いことが知られており、唾液中でも数時間程度のみ安定だとされています。乾燥などの工程を踏む生薬に加工されたヤミョウシャを介して感染する恐れはまず無いでしょう。

 ヤミョウシャは『神農本草経』の中品に天鼠屎の名で収載されており、また、コウモリ自体も上品に伏翼として収載されています。夜明砂の名は『日華子本草』に初めて認められます。性味は辛、寒で肝に入り、瘀血を発散させ血熱を清解します、そのため、肝熱による目の充血などに用いられるほか、小児疳積、打撲外傷などにも用いられます。また粉末を腋臭止めに用いることもあるそうです。主な処方としては決明夜霊散、明目柏葉丸などが知られていますが、現在日本では市場性はないようです。

 『和漢三才図会』には,夜明砂(やめいしや)の別名として天鼠屎、屎法、石肝、黒砂星などが挙げられており、この天鼠屎の天鼠はコウモリを指すものと考えられています。一方、弓道では、松脂を油で煮た薬練(くすね)を弓の弦に塗って補強して「手ぐすね引く」のですが、この薬練(くすね)には、天鼠や天鼠矢などの表記も認められます。くすねとコウモリとの関連性は不明であり当て字との説もありますが、昔からコウモリが身近な存在であったことをうかがわせます。日本や中国では古くから縁起の良い動物とされており、商標などに散見されます。コウモリの仲間の多くは個体数の減少が危惧されています。多様性を後世まで引き継いでいきたいものです。

   《引用終了》

アカデミズム礼賛でウィキの記載を軽蔑する方々も、これで文句は言えまい。

「洶(ゆ)り」漢和辞典では「湧く・水が涌き出る」或いは「騒ぐ・どよめく」とあるが、中国語辞典を引くと、「(粒状のものを器に入れて、水を加え、掻き混ぜたり、水の中で揺すったりして不純物を)流し取る・(米などを)研(と)ぐ・濯(すす)ぐ」とある。それである。

「目盲」良安はこれで「めくら」と読んでいるかも知れない。目が眩んで一時的に目が見えなくなる症状と採っておく。

「障-醫〔(そこひ)〕」東洋文庫訳のルビを採用した。「そこひ」は「底翳」「内障」などと書き、眼内乃至視神経より中枢側の原因によって視力障害(翳:くもり)を起こす状態を指す。角膜疾患の「上翳(うわひ)」に対応する語で、便利な言葉ではあるが、外観では区別できない種々の病態を含み、診断並びに病型分類の進歩した現在では医学的に曖昧な表現であるので使用すべきではない。現在の病名にも「緑内障」・「白内障」・「黒内障」の別名として残ってはいる(平凡社「世界大百科事典」を参考にした)。

「厥陰肝經〔(けついんかんけい)〕」十二経脈の一つで、肝臓と胆嚢及び目の周囲を掌る。

「血分〔(けつぶん)〕」東洋文庫訳の注に『重症の熱症で、臓器が傷つけられ、血が消耗する症状』とある。

「拾玉」「拾玉集」。歴史書「愚管抄」の作者として知られる、平安末から鎌倉初期の天台僧慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年:摂政関白藤原忠通の子で、摂政関白九条兼実は同母兄天台座主就任は四度に亙った。「慈鎭」(和尚)は諡号)の私家集。慈円の死後百年近く経った、鎌倉末から南北朝期の嘉暦三(一三二八)年から興国七/貞和二(一三四六)年の間に伏見天皇の皇子で青蓮院門跡・天台座主を務めた尊円法親王が編纂したもので、歌の他に散文も収める。一首の校訂は同書を所持しないので不能。

「性、山椒を好む」こういう習性は不詳。しかし、以下に細かに書くところを見ると、あるんだろうか? しかし、あの強烈な臭気をコウモリが好むとは私には思われない。寧ろ、その強烈さに嚙んだ口を開くのではあるまいか? コウモリ研究家の御教授を乞うものである。

「鳥無きの鄕(さと)にて、蝙蝠、鳥の王と爲す」先の冒頭のウィキの引用の下線太字部を参照。]

ブログ1150000アクセス突破記念第三弾(掉尾) 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 菊

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。なお、これが底本の「第一高等学校時代」パートの掉尾である。これを以って底本の「第一高等学校時代」パートの全電子化を終わる。

 本作はかなり知られた「今昔物語集」の巻二十四「百濟川成飛驒工挑語第五」(百濟川成(くだらのかはなり)と飛驒の工(たくみ)と挑む語(こと)第五」の後半の腕比べをダメ押しインスパイアした擬古文で、理智派芥川龍之介を髣髴とさせる仕掛けも用意されてはあるが、原話を知っていると、種明かしが平板にして常套的で今一つの感は拭えない。但し、この僅かな分量で以って、対立していた二人を童子を梃子に大団円させるという手法は、既にストーリー・テラーとしての彼が十分に熟成されていたものとも思われる。これが何時書かれたものか、もっと限定出来るとよいのだが。惜しい。

 老婆心乍ら、少し注しておくと、

・「長江天壍をへだてたる」の「長江天壍」は「ちやうこうてんざん(ちょうこうてんざん)」と読み、「壍」は「塹」に同じで、長江を天然の攻略不能な広大な塹壕、向うの見えない堀と譬える謂いで、ここは二つの対象の距離が想像を絶して隔たっていることを意味する。

・その直後の「おだしかりつれども」は「穩しかりつれども」である。

・「彭澤の陰士」は以下で「東籬の下に採るとも歌ひぬべき」と出るので判る通り、陶淵明のこと。ただ、「彭澤」(ほうたく)彼が最後に県令をしていた県で、私は彼のことを「彭澤の隱士」と呼ぶのを目にしたことはない。そもそもが、「吾、何ぞ五斗米の爲めに腰を折つて郷里の小兒に見(まみ)えんや」、即日、印綬を解いて去った彼をして、その「やってられるか!」の彭沢の「陰士」と呼ばれるのは、私なら厭だね、龍之介君。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第三弾掉尾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】] 

 

      

 

 百濟の川成、とある日、飛驒の匠に語りけるは、わざくらべしことこのごろ世の人々の口々にほめのゝしるをきゝぬ。まことに天が下ひろしとは云へ、われらの右に出でむものあるべしとも思はれずと云へば、心まがまがしく思ひ上れる匠、えせわらひして、わがわざ君のわざとの間には長江天壍をへだてたるにそを知り給はざる烏滸がましさよ。君はわがつくれる堂には彌勒の世までえこそは入り給ふまじけれども、われはふたゝび君が畫に欺かるゝことを爲さじとののしる。川成もと心ばへおだしかりつれども、流石に匠の人も無げなるが傍いたくいと興ざめければ、さらばいま一たび試みてむとおのが家がりともないゆきつ。折しも長月の末つがた樹々の梢ことごとく紅葉してさながら錦を張れるやうなるに、淸らかにはききよめたる庭の二ひら三ひら爛紅の霜、葉を落したるもゆかしく見ゆ。川成酒を置きて匠にすゝめつゝ、さてかなたの障子を指して問ひけるは「かしこに靑き甁に生けたる黃菊白菊各一もとあり、一はまことの菊、一はわが描ける菊なり、いづれがこれいづれがそれぞ」と云ふ。匠あはれ云ひあてて恥見せむと、あるは首をのべあるは眉をひそめ、あからめもせでしばしうちまもれど、たえて見わくべきすべも知らず、いづれも障子もにほはむばかりに露けくうちかたむきて、さきたる、彭澤の陰士ならましかば東籬の下に採るとも歌ひぬべき風情なれば、むげにほこりたかぶれる匠なれど遂に顏赤めて「得見分くべうもあらず、さきの過言をゆるし給へ」と云ふ。

 川成さこそとほくそ笑みて「君がわざとわがわざとの間には長江天を隔てたるにそを知り給はさる烏滸がましさよ」と匠が言眞似して嘲笑ふ。

 そのとき匠の召具したるわらはべの猿丸と云ふもの、川成のほこりがほなるをにくしとや見にけむ、すゝみ出で「やつがれこそ見分け候へ」と云ふ。川成しやつ何事をか云ふとばかりのけしきにて「さらばいづれぞ」と問へば「白菊こそ描きたりつれ」と答ふ。まことにこのわらはべの云ふ所に違はざりければ、川成いたく驚きて「何故にさはしりたる」と問へば、猿丸笑つぼに入りて「さきのほどより、こゝにありて見つるに虻二つ來りて障子のほとりをとびありく。此虻黃菊にはとゞまれども、白菊にはとゞまらず、さてこそ黃菊はまことの菊ならめと思ひ候、さるを此家の殿のわざと猿丸のわざとの間には長江天塑を隔てたるにそを知り給はざる烏滸がましさよ」としたりげに鼻をおごかす。飛驒の匠、思はず掌をうちて「我ほどのものも描きたる菊とまことの菊とを見分くることをえせず、川成ほどのものも三尺の童子の眼を欺くことをえせず、何を以てか人に誇らむや、向來共に誇をつゝしみひたすらにわざをはげみなむ」と云へば、川成も大によろこびてこれより後はますます親しく交りけるとなむ。 

ブログ1150000アクセス突破記念第二弾 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 梅花

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。一部の句読点なしの字空けはママ。擬古文の美文的創作のであるので、流れを絶たぬよう、若い読者が躓くであろう一部の語句の読みのみを文中で注した。終りの方の「嵯岈」は見かけない熟語であるが、「さが」と読んでおき、「高く突き出た」の意で採ってよかろうと思う。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第二弾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

    梅 花

 

 都をば霞と共に出でしより、志賀寺の鐘の音、忘れ難く、小夜千鳥聲こそ近く鳴海がた、三保の浦曲[やぶちゃん注:「うらわ」。]、田子の入江、淸見ケ關、不二の煙の春の色、空もひとつのむさし野の原、あやめ咲く淺香の沼、末の松山朝ぼらけ、合歡の花ちる象潟の雨の夕、碓氷のもみぢ、木曾のはゝ木、そゞろ杖をとゞめむ方ぞなきに、猶片枝さす麻生(をふ)の浦。梨ふく風を身にしめむとて、伊勢の海淸き渚の浪の音に、麻績[やぶちゃん注:「をみ(おみ)」。]の大君の昔を偲びつゝも、行く行く「にしふく山」と云ふに、梅の老木ありときゝて、深山の春こそゆかしかんめれと、きさらぎのはじめつ方、ひとりこの山にのぼる。若草の綠 路もせに萌え出でたるに、淡雪のあとほのかにのこりて 氷やとけし、谷川の水さらさらと岩間を下れば、鶯の聲のをちこちに、きこゆるもゆうなりや。西行もとより風流の法師なれば、山のかたち、水のながれのおもしろさに、松、柏の茂れる林をよぎり、靑蘿[やぶちゃん注:「せいら」。]のまつろへる巖を攣ぢ、谷をめぐり、峯を越え、梅やあるとたづぬれども、香をしめし春風の、そよと面をふくだにもあらず。しづ山がつのゆききさへえたるに、途、問はむよすがもなくて、なほ、日ねもす、おぼつかなき山のかひをたどりありく。道のゆくての、さがしきになづみて思はず日入りぬ。

 宵闇の夜のいと暗きに、伏木、岩角のこゞしければ、里に出でむたよりすら失ひて、如何にせむとゆきなやむを、谷ひとつへだてたる山ふところにともしびの光唯一つかすかに見ゆ。幸ありけりとよろこびて、落葉松葉のうづたかくつみたる木下かげを辿り辿り、やうやう至りつきて柴の扉[やぶちゃん注:「とぼそ」。]をほとほととおとなへば、「誰ぞ」となまめきたる聲にて答ふ。「遍參の僧、今宵ばかりの宿をかし給へ」と請ふに、髮のかゝりにほひやかに遠山ずりの色よき衣きて、花くはし櫻が枝の水にうつろひなせる面したる、はたちに足らぬをみなの紙燭かゝげつゝ、「笑止や、山里の春はなほ塞う候を。夜の衾の足らぬをも厭ひ給はずば、入らせ給へ。」扉をひらきてゐやまひ迎ふ。小さき草の屋の程なき庭さへ荒れたれど、細きともしびの光に黑棚のきらめくも床しく見ゆ。香の煙の淡く立ちのぼる傍には、琴、琵琶、各一張を立てたり。主は齡六旬(むそぢ)にや餘れる績麻(うみそ)に似たる髮をつかねたるに、ひはだの衣の淸げなるをまとひし翁なり。されば、さきのたをやめはこの翁がむすめにやありなむ。

 あはれにも、うれしく住みなしつるよと、そゞろ心にくきに、西行ゐやをなして問ふやう、「庵主の御人がら、あてなるわたりの御方と見奉るが、浦安の國久しく、四海の波しでかなる世を、何とてかくは天さかる都の山ずまひし給ふらむ。」翁ほゝえみて「否とよ、翁は山澤の一樵夫。おち方の高根の霞に、春の立てるを覺り、萩の下葉の露に秋のきたれるを知る。若し興あれば松のびゞきに、秋風の樂をたゝへ、水のせゝらぎに、流泉の曲をあやつるのみ。」とて、「客僧こそ、何とてかくゆき暮したまへる、」と問ふ。西行「さればこの山に年へし梅の名木ありときゝしより、いかにもして一見せばやと、そここゝをたづねありくに、思はず行きくらしてこそ候へ」と答ふれば、翁掌をうちて「やさしき御志に、候ものかな、さては世の常の法師にはおはしまさず、風流三昧の御行脚とこそ見奉れ。御僧のたづね給ふ、梅はこのほとりにぞあなる。今宵は此處にやどり給ひて、つとめて往きて見給ふべし、されば山家の梅を題に一首たまへ。」とて、傍のをみなを見かへれば、うちゑみつ、早く硯に色紙とりそへて、西行が前に推しすゝめつ。

 さすがにもだしがたくて、しばしうちかたむきて、やがてかくこそ書いつけける。

 柴の庵によるよる梅の匂ひ來て やさしき方もあるすまひかな  (山家集)

 翁、「あはれ、かうさくや」とて感ずる事大方ならず。高つき、平つきの淸らなるに、木の實、草果物などもりならべてすゝむる程に、むすめもまた筝の琴とり出でて、十三絃をめでたくうち彈じつゝ梢たちくゝのにほひある聲にて、

「ふゝめりと云ひし梅ケ枝今朝ふりし沫雪にあひて吹きぬらむかも(大伴宿禰村上)」とうたひすませば、西行いよいよ興に入りて、平つきの木の箕のまろやかに琥珀の色したるを、何氣なくとりて食ふに、甘く酸きこと齒牙にしみて、風の伽楠[やぶちゃん注:「きやら(きゃら)」。]を過ぎ、雨の薔薇にそゝぐやうなる香りの骨に徹るよと思へば、路の長手のつかれ、俄にいでて何時しか眠るともなく熟く[やぶちゃん注:「よく」。]寐ぬ。

 程へて、現なき心にも、寒かりければ、ふと目さめて起出づるに、身は若草の上にあり。夜ふけて月の夜にあらたまりつと覺えて、影玲瓏として至らぬ隈なけれど、ありし草の庵はいづち行きけむ、見えず。仰げば三更の空、ほの靑うかすみたるに、春の星夢よりも淡うまたゝけり。翁は如何にしつらむとかへり見れば、人は無くて梅の老樹の、めぐり七圍[やぶちゃん注:「しちまはり(しちまわり)」。]にあまりたるが苔むしたる幹を斜に嵯岈たる枝には雪よりも白き花にほやかに咲きみだして立ちぬ。そが傍には又紅梅の若木のやさしくもさきこぼれたる、大空の雲もにほはむばかりの香りに、西行且驚き且訝り、

「さてはよべの翁もをみなも共にこの梅の精にてありけり」と、しばし幹を撫して佇みけるに、琴の調べのなほ耳にある心地しければ、再一首の歌を高らかに誦し出でける。

 ひとりぬる草の枕のうつり香は 老木の梅のにほひなりけり (山家集)

 梅の精やめでたる、山風やふき出でたる、梢さはさはと動くと見れば、墨染の衣の袖に寒からぬ雪は、雲なき空よりこぼれ落ちぬ。

 

[やぶちゃん注:優れた複式夢幻能ではないか。]

ブログ1150000アクセス突破記念第一弾 《芥川龍之介未電子化掌品抄》 對米問題

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が第一高等学校時代(明治四三(一九一〇)年九月十三日入学~大正二(一九一三)年七月一日卒業)に書いたものという以外の書誌的情報はない。但し、冒頭にカリフォルニア州に於ける排日運動の問題が挙げられていることは、一つのヒントにはなろう(但し、執筆年を限定することは難しい)。ウィキの「排日運動」によれば、『アメリカにおける日本人移民排斥は,カリフォルニア州を中心とする太平洋岸に』四千『人程度の日本人が移住しているにすぎない』一八九〇『年代にすでに始まっていた』。『主な原因は、人種差別と経済的理由』であったとし、一八八二年に『東洋系移民に対する差別法の端緒』となる「中国人排斥法」の施行により、『アメリカへ入国できなくなった中国人に代わって、日本人移民が増え始め』たが、一九〇〇年には『カリフォルニア州で日系人の漁業禁止法が提案され』、一九〇四年には「中国人排斥法」に『日本人と韓国人を加えるよう』、『動議され』ている。一九〇五年に「日露戦争」が終結すると、『有色人種の東洋人である日本が西洋人に勝利したことにより、以前からくすぶっていた黄禍論が西洋社会を席巻』し、「アジア人排斥同盟」が結成されたりした。一九〇六年には『日本を仮想敵国とした』「オレンジ計画」(将来、起こり得る日本との戦争へ対処するためにアメリカ海軍が策定した戦争計画。「カラー・コード戦争計画」の一つであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅し、それぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別敵視していたわけではない。ここはウィキの「オレンジ計画」に拠った)が開始され、また、同年には『サンフランシスコ教育委員会が中国人と同様に、日本人と韓国人にも学生隔離命令(白人から離し、集中隔離する差別措置)を出』している。一九〇七年、『サンフランシスコで反日暴動』が発生、『日本人移住者が多かった同市とロサンゼルスは排日の本場となり』、「漁業禁止法」や『修学拒否など』、『さまざまな日系人排斥運動が勃発』、メキシコ・ハワイ・カナダ在住の『日本人のアメリカ本土入国』が『禁止』される。一九〇八年に交わされた「日米紳士協定」に『より、日本はごく少数を除き』、『米国への移民を禁止』する代わりに、『アメリカ側は排日法案を作らないことを約束』した。なお、『同年秋、世界一周を名目に、アメリカの海軍力を誇示するため』、『艦隊グレート・ホワイト・フリートで日本に来航し、威嚇』している。そうして、一九一三年にはアメリカは先の「紳士協定」を『破り』、「排日土地法」を『発令。日本人を帰化不能外国人と』してしまった。仮に最後の「排日土地法」の発令と同期させるとなると(一高卒業の年)、龍之介の口調はより具体的、よりきついものとなるはずであるから、本作は少なくとも一九一〇年九月から一九一二年の間(龍之介十八から二十歳)に書かれたものと考えてよかろうとは思う。また、「最吾人に近接せる文藝の方面」という部分からは、その前期をカットした閉区間をも考えてよいとも思っている。ともかくも何らかの授業の作文であったとしても、しっかりした個我を持った、自立した思想に基づく主張である。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に載るものに拠った。一部の語句に文中で簡単な注を附した。

 なお、本電子テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1150000アクセスを突破した記念の第一弾として公開した。【2018年10月22日 藪野直史】]

 

     對米問題

 

 對米問題は事案に於て、又對歐問題也。吾人は、過般來太平洋の封岸に於て行はれたる、急激なる排日運動の中に、單に日本對加州の問題に止らず、日本對全歐米の問題にすべき或物の伏在するを認めざる能はず。或は之を呼んで人種的偏見と云ひ、或は黃禍論的臆斷と云ふ。亦以て其一面を現すに足るものありと雖も、吾人は其啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]白人の偏見のみならず、黃人の國家的品位が、白人のそれに比して著しく下等なるも亦、此問題の根底に橫はる、大なる因數の一たるを信ぜざる能はず。

 吾人は到底、維新前後の捷夷家の如く、日本の神國たる所以を以て、世界の列國は當然我に劣る、霄壞[やぶちゃん注:「しやうじやう(しょうじょう)」は「天と地」、転じて天地のように大きな隔たりのあること、大差のあることの喩え。「雲泥」に同じい。]の差あるものと盲信する能はず。又、無邪氣なる帝國主義者の如く、我國に不利なるものは悉[やぶちゃん注:「ことごとく」。]人道に違反するものにして、我國に有利なるものは悉、天下の公道に一致するものなりとの盲斷を下す事を得ず。從つて對米問題に於ても亦、加州人士の運動が一面に於て甚無理なきを感ぜざる能はざる也。吾人は常に現代の日本を憐まざるを得ず。こは如何なる愛國的熱情を以てするも、到底認めざるを得ざる事實なり。經濟情態に於ても文化の程度に於ても日本の如く窮迫せられ、日本の如く貧窮なる國家は、恐らく他に類を見ざる所なる可し。

 金融の逼迫せるは猶忍ぶ可し。文化の幼稚なるも亦已むを得ざるものあらむ。されど日本をして最も列國の嗤笑[やぶちゃん注:「しせう(ししょう)」。嘲(あざけ)り笑うこと。]を招かしむるものは、日本の社會を通じて一般人士の道德的意識が極めて低き水準を保ちつゝあるの一事に存するものの如し。是亦吾人が認むるを喜ばざる、しかも遂に認めざるを得ざる事實也。其實例を求めむ乎、吾人は殆之を指摘するの繁に堪へざらむとすと雖も、試に最吾人に近接せる文藝の方面を一瞥せよ。吾人は隨所に、何等内部の衝動を感ぜずして低級なる享樂に耽溺せる者を見む。是等の和製デカダンは、泰西文明の輸入より來れる生活欲の膨漲が、本來の道義欲を破壞したる好個の實例にして、同時に又、自己内心の要求に耳を傾くるの餘裕なく、遽々然[やぶちゃん注:「きよきよぜん(きょきょぜん)」。俄かに。急に。突如。]として遲れざらむ事を維[やぶちゃん注:「これ」。強調。]努むる輕薄皮相なり。日本の文明が、僅に産出し得たる、憫笑すべき動物也。

 既に對米問題が實は對白人問題なるを云ひ、對白人問題の根底に存するものが白人の偏見以外に、日本の社會的缺陷(經濟上及道德上)なるを云ふ。吾人は此問題に對する解決の決して區々たる[やぶちゃん注:取るに足りないさま。]權利義務の問題に存せざるを信ぜざる能はず。何となれば、對米問題を惹起せるは死したる紛爭にあらずして、生ける白人對日本の國家品位の差異にあるを以て也。吾人が各人個々の修養によりて向上の一路を辿らざる可らざるは單に個人人格の陶冶の爲のみならず、又實に國家としての日本をして、其權利を主張するを得しむべき、唯一不二の手段也。吾人は徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]劍を舞はして倣語[やぶちゃん注:「はうご(ほうご)」。誰かの真似事を言いつらうこと。]する壯士の愚を學ぶ能はず、又策士の妄に[やぶちゃん注:「みだりに」。]舌を弄し計[やぶちゃん注:「はかりごと」。]を用ふるを陋なり[やぶちゃん注:賤しい。]とす。啻に是等の爲す所を卑むのみならず、其[やぶちゃん注:「それ」。以下同じ。]途に爲す無きを信ずる也。其遂に爲す無きを信ずるのみならず、其反て[やぶちゃん注:「かへつて(かへって)」。]國家に大害を與へむを惧るゝ也。

 吾人豈、太平洋對岸の同胞に同情する、人後に落る者ならむや。豈加州排日案の凌辱に憤らざらむ者ならむや。然れども、吾人は深く、其救濟を爲すの、道德的水準を[やぶちゃん注:底本ではここに編者葛巻氏の『〔この間原稿欠〕』という注がある。]る外に道なきを信ず。願くは默して爲すべきを爲さん。

 

2018/10/21

和漢三才圖會第四十二 原禽類 土燕(つちつばめ)・石燕(いしつばめ) (多種を同定候補とし、最終的にアナツバメ類とショウドウツバメに比定した)

 

Tutitubame

つちつはめ 石燕

土燕

 

本綱石燕在乳石石洞中形似蝙蝠口方食石乳汁冬月

采之堪食餘月止可治病其肉【甘暖】爲補益藥【非石部之石燕】

 

 

つちつばめ 石燕〔(いしつばめ)〕

土燕

 

「本綱」、石燕、乳石〔の〕石洞〔の〕中に在り。形、蝙蝠(かはもり)に似て、口、方(けた)に〔して〕石乳〔(せきにゆう)〕の汁を食ふ。冬の月、之れを采〔(と)り〕て食ふに堪へたり。餘月は、止(たゞ)、病を治すべし。其の肉【甘、暖。】、補益の藥と爲す【「石部」の「石燕〔(いしつばめ)〕」に非ず】。

[やぶちゃん注:どうせ、南方熊楠の英文論文「燕石考」(The Origin Of The Swallow-Stone Myth,c.1899-1903:明治三十三年~同三十六年執筆。ロンドン留学時代末期に構想が立てられ、熊野那智時代に補筆・完成されたもので、学術雑誌『Nature』及び『Notes and Queries』の二誌に寄稿したものの、不掲載に終ったが、南方の英文論文の一つの頂点を成す名論文である)で知られた、謎と神秘の妖しげな〈パワー・ストーン〉「燕石」(その代表的正体の一つは、動物界真正後生動物亜界冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda の嘴殻亜門嘴殻綱スピリファー目 Spiriferida の貝状の腕足類の化石や二枚貝の化石である。グーグル画像検索「Spiriferidaをご覧あれ。全く知らない方はその形状で納得が行かれるであろう)辺りだろう、などと思った方も多かろうが(私も当初はそう思った)、それは最後に美事に時珍と良安双方によって否定されているのである。「本草綱目」はもとより、「和漢三才図会」の巻第六十一に「石燕(いしつばめ)」として、しっかり図入りで示されてある方が、「それ」、モノホンの「石の燕」なのだ。

 私は「和漢三才図会」の「石部」全部を電子化する積りは、今のところ、ない(しかし、あり得ないと思っていた動物の部分の完全電子化は恐らく、来年には終われそうだ。今、しゃかりきになって「禽部」をやっている中・長期的な一つの理由は、そこにある。短期的には? 私の公開を順に読んでゆけば――「今に判るよ、権藤さん。」――(黒澤明「天国と地獄」の山崎努演ずる竹内銀次郎の声で)。さればこそ、この際、ここで「本草綱目」も含めて、「石燕」をやらかしちまうのも、これ、一興だ。以下に示す。まず「本草綱目」の「金石之四」の「石燕」(セキエン)。下線部はそちらで時珍が附言した、鳥の「石燕」の言及部である。但し、最後の膨大な量の「附方」(各病態に対する処方箋羅列)は電子化しても私にはさっぱり判らぬので略した。

   *

石燕【「唐本草」。】

集解李勣曰、石燕出零陵。恭曰、永州祁陽縣西北一十里有土岡上、掘深丈餘取之。形似蚶而小、堅重如石也。俗云、因雷雨則自石穴中出、隨雨飛隋者、妄也。頌曰、祁陽縣江畔沙灘上有之、或云、生洞中、凝僵似石者佳、采無時。宗奭曰、石燕如蜆蛤之狀、色如土、堅重如石。既無羽翼、焉能飛出。其言近妄。時珍曰、石燕有二、一種是此、乃石類也。狀類燕而有文、圓大者爲雄、長小者爲雌。一種是鍾乳穴中石燕、似蝙蝠者、食乳汁能飛、乃禽類也、見禽部禽石燕食乳、食之補助、與鍾乳同功、故方書助陽藥多用之。俗人不知、往往用此石爲助陽藥、刋于方冊、誤矣。

氣味甘、涼、無毒。

主治淋疾、煮汁飮之。婦人難産、兩手各把一枚、立驗【「唐本」。】。療眼目障、瞖諸般淋瀝、久患消渇、臟腑頻瀉、腸風痔、瘻年久不瘥、靣色虛黃、飮食無味、婦人月水湛濁、赤白帶下多年者、每日磨汁飮之。一枚用三日、以此爲準。亦可爲末、水飛過、每日服半錢至一錢、米飮服。至一月、諸疾悉平【時珍。】

發明時珍曰、石燕性凉、乃利竅行濕熱之物。宋人修本草、以食鍾乳、禽石燕、混收入此石燕下。故世俗誤傳此石能助陽、不知其正相反也。

   *

以下、「和漢三才図会」の「石燕」。やはり、下線部は「禽部」の「石燕(いしつばめ)」への言及部。

   *

Sekibuisitubame

いしつばめ

石燕

 

シッヱン

 

本綱石燕永州祁陽縣有之狀如蜆蛤之状色如土堅重

如石圓大者爲雄長小者爲雌此乃石類也

一種生鍾乳穴中石燕狀似蝙蝠而食乳汁能飛乃禽類

 也見禽部

五雜組云雲陵石燕相傳能飛飛卽風雨然石質無能飛

[やぶちゃん注:「雲陵」は祁陽県にある「零陵」の誤字なので訓読では訂した。]

之理爲烈日所暴忽有驟雨過石卽衝起徃徃墜地蓋寒

熱相激而迸落非眞能飛也

石燕【甘涼】 治淋病【煮汁飮之】婦人難産兩手各把一枚立驗

又治拳毛倒睫石燕【雌雄各一】磨水點𣘻眼先以鑷子摘去

拳毛乃點藥後以黃連水洗之

按阿波讃岐有石蛤其狀恰似蛤而閉口如土堅重如

 石俗傳云弘法大師所符也蓋此石燕之類兒女不知

 其本設奇説耳相州足柄山又有此類

 奧州米澤有山名甲蠃山其山小石多形如甲蠃子而

 黃白色帶微赤甲蠃【和名豆比俗云豆不】似海螺小貝也

 

 

いしつばめ

石燕

 

シッヱン

 

「本綱」、石燕、永州]祁陽〔(きよう)〕縣[やぶちゃん注:現在の湖南省国永州市祁陽県。ここ(グーグル・マップ・データ)。]之れ有り。狀〔(かたち)〕、蜆〔(しじみ)〕・蛤〔(はまぐり)〕の状のごとく、色、土のごとく、堅重にして石のごとし。圓く大なる者を雄と爲し、長く小さき者を雌と爲す。此れ、乃〔(すなは)〕ち、石類なり。

一種は、鍾乳穴〔の〕中に生ずる石燕あり。狀、蝙蝠に似て、乳汁〔(ちじる)〕を食ふ。能く飛ぶといふ。乃ち、禽類なり。「禽部」を見たり。

「五雜組」[やぶちゃん注:明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。]に云はく、『零陵に石燕あり。相ひ傳ふ、「能く飛ぶ。飛ぶときは、卽ち、風雨あり』と。然れども、石質にして、能く飛ぶの理〔(り)〕、無し。烈日の爲に暴(さら)されて、忽ち、驟雨(ゆふだち)の過ぐること有〔りて〕、石、卽ち衝〔(た)ち〕起り、徃徃〔にして〕地に墜つ〔るあり〕。蓋し、寒熱、相ひ激(さへぎ)りて[やぶちゃん注:せめぎ合って。]、迸〔(ほとばし)り〕落〔つるにして〕、眞〔(しん)〕に能く飛ぶに非ず。

石燕【甘、涼、】 淋病を治す。【汁に煮、之れを飮む。】婦人の難産、兩の手に各〔(おのおの)〕一枚を把〔(にぎ)〕れば、立ところに驗〔あり〕。又、拳---睫(さかさまつげ)治す。石燕【雌雄各一つ。】、水に磨(す)り、眼に點-𣘻〔(てんさ)〕す[やぶちゃん注:点眼する。]。先づ、鑷子(けぬき)を以つて拳-毛〔(さかげ)〕を摘(つ)み去(さ)り、乃〔(の)ち〕、藥を點じ、後、黃連水〔(わうれんすい)〕を以つて之れを洗ふ。[やぶちゃん注:「クラシエ」公式サイト内の「漢方 抑肝散加芍薬黄連錠」の成分解説に、ブクリョウ・カンゾウ・サイコ・センキュウ・ソウジュツ・チョウトウコウ・トウキ・シャクヤク・オウレンから抽出したとあり、これら或いは幾つかを溶かしたものと思われる。因みに服用による対応症としては、『神経のたかぶりが強く、怒りやすい、イライラなどがあるものの次の諸症』とし、『神経症、不眠症、小児夜泣き、小児疳症(神経過敏)、歯ぎしり、更年期障害、血の道症』『(月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状)』を挙げてある。]

按ずるに、阿波・讃岐に石蛤〔(いしはまぐり)〕有り。其の狀、恰〔(あたか)〕も蛤に似て、口を閉〔(ふさ)〕げば土のごとく、堅重にして石のごとし。俗に傳へて云はく、『弘法大師、符〔(ふ)〕する所なり』[やぶちゃん注:弘法大師がとある謂われあって蛤に呪文をかけてこうなったものだ。]となり。蓋し、此れ、石燕の類〔(たぐひ)なり〕。兒女、其の本〔(ほん)〕[やぶちゃん注:貝の化石化したものという実際の真相。]を知らずして、奇説を設くるのみ。相州足柄山、又、此の類〔ひ〕有り。

[やぶちゃん注:ここに紹介されてある弘法大師が蛤に呪術をかけて石と化したとするそれは、私の「諸國里人談卷之五 石蛤」の本文及び注を参照されたい。]

奧州米澤に山有り、「甲蠃山(つぶやま)」と名づく。其の山、小石、多く、形、甲蠃子〔(つぶ)〕のごとくにして黃白色、微赤を帶ぶ。甲蠃〔(カウラ)〕【和名、「豆比〔(つび)〕」、俗に「豆不〔(つぶ)〕」と云ふ。】、海-螺(ばい)に似たる小貝なり。

[やぶちゃん注:「甲蠃山」不詳。「つぶやま」という呼称は現在では廃れているかと思われる。現在の米沢市内だけに限っても、主だったピークは数多くあり、それらを一々検証することは私には出来ない。「栂峰」辺りは発音は近いかと思うが、ただの感触に過ぎぬ。地元の方の御教授を乞うものである。貝類フリークの私としては、判らぬのはかなり気持ちが悪いのである。

   *

 話をこの鳥の「石燕」に戻す。

 さても、今回も前項「ツバメ」でコシアカツバメの存在を教えて下さった、CEC公式サイト内の「徒然野鳥記」の「ツバメ」が力となった。そこで筆者は『日本に渡ってくるツバメの仲間は』、ツバメ属ツバメ Hirundo rustica『以外に、コシアカツバメ(漢名 胡燕)』(Hirundo daurica)、『イワツバメ(漢名 石燕)、ショウドウツバメ(漢名 土燕)』、『そして』、『沖縄諸島にだけ生息するリュウキュウツバメ』(Hirundo tahitica:本種についてはウィキの「リュウキュウツバメ」を見られたい)がいる、と記しておられるからである。

 まず、イワツバメ、漢名「石燕」から見よう。和名漢字表記は「岩燕」である。この種は、

ツバメ亜科 Delichon 属イワツバメ Delichon urbica

であるが、以下に見るように、本邦に飛来するのは、

イワツバメ亜種イワツバメ Delichon urbica dasypus

ウィキの「イワツバメ」によれば、分布はアフリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本・フィリピンで、『夏季にアフリカ大陸北部やユーラシア大陸で繁殖し、冬季になると』、『アフリカ大陸やインド北部、東南アジアへ南下し』、『越冬する。中華人民共和国南部などでは周年』、『生息する。日本には』、『亜種イワツバメが』、『繁殖のために九州以北に飛来(夏鳥)するが、西日本では渡来地は局地的である。温暖な地域では越冬することもある』。全長十三~十五センチメートル。『尾羽はアルファベットの「V」字状』(無論、燕尾状の、である)を呈する。『嘴の色彩は黒い。趾は白い羽毛で覆われる』。亜種イワツバメ Delichon urbica dasypusは、全長十三センチメートルで、『体形は細い。尾羽の切りこみが浅い。上面は光沢のある黒褐色、下面が汚白色の羽毛で覆われる。腰が白い羽毛で覆われる』。他に亜種シベリアイワツバメ Delichon urbica lagopoda がおり、こちらはやや大きく全長十五センチメートルで、『体形は太い。尾羽の切りこみが深い。上面は光沢のある暗青色、下面が白い羽毛で覆われる。背中後部、腰、尾羽基部の上面(上尾筒)が白い羽毛で覆われる』。但し。『亜種イワツバメを独立種とする説もあり、その場合には種』Delichon urbica『の和名はニシイワツバメになる』。『平地から山地にかけて』棲息し、『動物食で、昆虫を食べる。群れで飛行しながら』、『口を大きく開けて獲物を捕食する』。『海岸や山地の岩場に泥と枯れ草を使って』、『上部に穴の空いた球状の巣を作り、日本では』四~八月に、一回に三~四個の『卵を産む。岩場に営巣することが和名の由来。集団で営巣する』。『昔から山間部の旅館や山小屋などに営巣する例は知られていたが、第二次世界大戦後はコンクリート製の大規模な建造物が増加するとともに、本種もそれらに営巣するようになった。近年は市街地付近の橋桁やコンクリート製の建物の軒下などに集団営巣する例が増えており、本種の分布の拡大につながっている』とある。

 次に、ショウドウツバメ、漢名「土燕」を見る。和名の漢字は表記まさに「小洞燕」である。

ツバメ亜科 Riparia 属ショウドウツバメ Riparia riparia

ウィキの「ショウドウツバメ」から引く。分布はアフリカ大陸・北アメリカ大陸・南アメリカ大陸・ユーラシア大陸・アイルランド・キューバ・ジャマイカ・シンガポール・スリランカ・ドミニカ共和国・日本・ハイチ・マダガスカル・マレーシアと、『ツバメと並び』、『ツバメ科内では最も広い分布域(渡り)を持つ。夏季は北アメリカ大陸北部やユーラシア大陸北部で繁殖し、冬季(北半球)はアフリカ大陸や南アメリカ大陸、ユーラシア大陸南部で越冬する。日本には夏季に北海道、本州(東北地方以北)に繁殖のため』、『夏鳥として飛来するが、その他の地域では渡りの途中で飛来する旅鳥である』。全長十三センチメートル、体重九~十五グラム。『背面の羽衣は暗褐色、腹面の羽衣は白い。尾羽は短い。胸部に暗褐色の横帯が入る』。『幼鳥は体上面の羽毛の外縁(羽縁)が淡褐色で鱗状に見える』。『海岸や川辺の草原、農耕地などに生息する。渡りの際は大規模な群れを形成し、夜間はアシ原などで休む』。『食性は動物食で、主に昆虫(ハエやカゲロウ)を食べる。飛翔しながら口を大きく開けて獲物を捕食する』。『集団で営巣』し、『河川や湖の岸辺や海岸の砂泥質の崖に雌雄共に』五~十日をかけて』、直径五~十センチメートル、長さ二十センチメートルから一メートルほどの『穴を掘って集団で繁殖する』『(この小さな巣穴を掘る習性から小洞燕の和名がついた)。過去に使用していた巣穴には崩落や寄生虫がいる可能性があるため、通常は繁殖ごとに新しく穴を掘る。日本では』五『月に渡来し』、五月下旬から七月上旬にかけて、四~五個の『卵を産む。雌雄共に抱卵し、抱卵期間は』十二~十六日で、『雛は孵化してから約』十九『日で巣立つ。生後』一『年で性成熟する』。『河川改修等により営巣場所が減少している。そのため』、『工事現場や採掘場等で営巣することがある』とある。

 さて、まず同定比定するには、

「本草綱目」の鳥類とする「石燕」

と、

良安が本邦にも棲息すると考えた(そうは言っていないが、本邦にはいないとは言っていないし、そうした本邦に棲息しないことがはっきりしており、良安の想像の外にあるような、則ち、近縁種を想起出来ぬような種で「本草綱目」に載るもの(ゴマンといる)は良安は多く始めから採用していない)と仮定した場合の「石燕」

の二つを厳然と分けて考える必要がある。まず、前者であるが、これは、時珍の「集解」記載が貧困である。これは私は時珍が本種を見たことがないことを意味しているように思えてならないのである(他の項でも「本草綱目」ではしばしば見られることである)。しかして内容も鐘「乳石〔の〕石」のぶら下がった鍾乳「洞〔の〕中に」棲んでいて、「形」は「蝙蝠」(こうもり)「に似て」いて」、「口」ときた日にゃ、尖っておらず「方(けた)」=四角であって、その異様な嘴を以って鍾乳「石」から滴り落ちる「乳」「の汁」のみを吸って生きている、なんていう鳥がいようはずがないわけだ。しかしいるからこそ、「冬の」間はこれを捕獲し、食用に当てるのには、まあ何とか食える。但し、他の時期は捕えても、食べることはせず、漢方薬として「補益」(体内の諸作用の不足を補い、益を与えること)に用いるばかりである、というんだから、確かにいるのだ。だとすれば、

イワツバメ Delichon urbica

ショウドウツバメ Riparia riparia

のどっちでもよかろうかいと思うのだが、彼らはこんなツバメらしからぬコウモリみたような恰好なんぞ、してないわけだ。そこで考えたのだ。こりゃ、別にツバメ類である必要性はちっともない、ということだ。そうしてピンとくるのは(大方の方の頭には既にピンときているだろう)、高級広東料理の定番「燕巣」(ツバメのスープ)の「ツバメ」だ。あれは、燕じゃないのは御存じだろう、「ツバメ」を名に含むが、全然、縁遠い「穴燕」類(アナツバメ族 Collocaliiniで、中でもその巣が高級品として珍重されるのは、

鳥綱アマツバメ目アマツバメ科アナツバメ族 Aerodramus 属ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphaga 及びオオアナツバメ Aerodramus maxima

である。ウィキの「アナツバメ」によれば(下線太字やぶちゃん)、アナツバメ類は、全長十~十五センチメートルで、『南アジア・東南アジア・熱帯太平洋、オーストラリア北部の海岸や島に分布する。最大の生息地は、ボルネオの大鍾乳洞群地帯』である(中国にはまずいないことが判る)。『岸壁に開いた洞穴内に集団で営巣する。他のアマツバメ科の鳥同様、羽毛など空中で得られるの浮遊物を飛翔しながら集めて巣材とし、これを唾液腺から分泌される粘着質の分泌物で固めた巣を作る。この点が類縁の遠いツバメが泥を地表で採取して巣財にするのと』、『大きく異なる』。この内、上記のジャワアナツバメとオオアナツバメの二種の『巣は空中から集めた巣材をわずかしか使わず、ほとんど全てが唾液腺の分泌物でできており、中華料理の高級食材である燕の巣として利用される』とある。また、『Aerodramusに属する種は、真っ暗な洞穴内でエコロケーション』(echolocation:反響定位:音の反響を受け止め、それによって周囲の状況を知ること。コウモリは超音波であるが、この場合は鳥の可聴域を利用している)『をする。鳥類でエコロケーションをするのは、アナツバメとアブラヨタカ』(ヨタカ目アブラヨタカ科 Steatornis 属アブラヨタカ Steatornis caripensis『だけである』ともあって、バッキバキの洞窟・鍾乳洞順応で、エコロケーションまでやっちまうなんざ、まさに「蝙蝠に似て」にバッチグーじゃねえか! しかも、彼らの嘴はずんぐりとして短いものが多く、まさに「方」なんだっつーの!

 かくして、私は「本草綱目」の「石燕」「土燕」は「穴燕」類(アナツバメ族 Collocaliini)であると比定するものである。

 では、良安の考えたそれは何か? これは本邦での分布から見ると、良安が見そうなのは、

イワツバメ Delichon urbica

だけれど、穴はコンパクトだけれど、その習性から見るなら、

ショウドウツバメ Riparia riparia

の方が、遙かにしっくりくる。「小洞」だし、巣穴はまさに「土」の穴で「土燕」だもの! 大方の御叱正を俟つものではある。

2018/10/20

和漢三才圖會第四十二 原禽類 燕(つばめ) (ツバメ)

Tubakurame

つばくらめ   乙鳥 玄鳥

つばめ     鷙鳥 鷾鴯

        游波 天女

【鷙同】

      【和名豆波久良安

ヱン      俗云豆波久良

        又云豆婆女】

 

本綱燕大如雀而身長口豐頷布翅岐尾背飛向宿其

鳴自呼曰乙營巢避戊巳日春社日來秋社日去其來也

啣泥巢於屋宇之下其去也伏氣蟄於窟穴之中或謂其

渡海者謬談也【和俗亦燕謂徃來於常盤國者皆非】燕巢有艾則不居凡狐

貉皮毛見燕則毛脱鷹鷂食燕則死蛟龍嗜燕【物理使然】

越燕 紫胸輕小者【此常之燕】

胡燕 斑黑而聲大者其作窠長能容二匹絹者令人家

 富也按胡燕【和名阿萬止里】俗云深山燕也

白燕 京房云人見白燕主生貴女故燕名天女

燕肉【酸平】 有毒損人神氣不可食如食燕人不可入水蛟

 龍好燕故爲所吞矣祈禱家用燕召龍亦一理也

                    爲家

 夫木きさらきのなかはに成と知かほに早くも來けるつはくらめかな

按燕玄衣白頸赤黃頷春來秋去與雁鳬爲表裏其飛

 翔也甚捷直翻仰亦能飛所他鳥不能故鷹鷂不敢敵

 往來于人家求窠處人覺之束藁徑三四寸許如盤豫

 作巢形縋於家内棟下而與之則燕喜營巢凡一營巢

 之家歳歳不忘失而來其窠固密不可言用泥和髮毛

 或稈心宛如堊塗其智勝于巧婦鳥矣雌雄交代啣餌

 來哺之其雛稍長則出巢端可落而不落潜視之有髮

 毛繫雛脚又經日至當飛去時則母鳥斷所繫毛亦奇

 也既飛去後復皆來頡頏廻旋如謝禮狀而去

 有一窠無故雛皆死於是見其口中有麥禾松刺等蓋

 此母鳥死後母鳥所爲也徃徃見如此者

 有蛇吞燕雛復來將吞而却蛇堕巢下腹裂斃閲之有

 一縫針倒鋒樹巢口燕之智堪恠而其針獲於何處乎

 

 

つばくらめ   乙鳥〔(いつてう)〕 玄鳥

つばめ     鷙鳥〔(してう)〕

        鷾鴯〔(いじ)〕

        游波 天女

【鷙も同じ。】

      【和名、「豆波久良安」。

ヱン      俗に「豆波久良」と云ひ、

        又、「豆婆女」とも云ふ。】

 

「本綱」、燕は、大いさ、雀のごとくにして、身、長く、(はさ)める口、豐かなる頷〔(あご)〕、布〔(し)〕く翅〔(つば)〕さ、岐〔(また)〕の尾、背(あふのけ)に飛びて、向宿〔(かうしゆく)〕す。其の鳴くこと、自〔(みづか)〕ら呼びて「乙(イツ)」と曰ふ。巢を營(つく)るや、戊巳〔(つちのえみ/キシ)〕の日を避く。春の社〔(しや)〕の日に來りて、秋の社の日に去(い)ぬる。其れ、來〔(きた)〕ることや、泥を啣(ふく)んで屋宇の下に巢(すく)ふ。其れ、去るや、氣を伏して、窟穴〔(いはあな)〕の中に蟄(すごも)る。或いは、『其れ、海を渡る』と謂ふは謬-談(あやまり)なり【和俗も亦、『燕、常盤國〔(とこよのくに)〕を徃來する』と謂ふも、皆、非なり。】。燕の巢に、艾〔(よもぎ)〕有れば、則ち、居らず。凡そ狐・貉(むじな)の皮の毛、燕を見るときは、則ち、毛、脱〔(だつ)〕す。鷹・鷂〔(はいたか)〕、燕を食へば、則ち、死す。蛟龍〔(こうりよう)〕は燕を嗜(す)く【物の理、然(しか)らしむるなり。】。

越燕 紫の胸、輕く小なる者【此れ、常〔(つね)〕の燕。】。

胡燕(みやまつばめ) 斑〔(まだ)〕ら、黑くして、聲、大なる者。其の窠〔(す)〕を作る〔や〕長〔くして〕、能く二匹の絹を容(い)るゝ。人家をして富ましむるなり。按ずるに、「胡燕」【和名、「阿萬止里〔(あまどり)〕」。】は、俗に云ふ「深山燕」なり。

白燕 京房が云ふ、『人、白き燕を見るときは、貴女を生ずることを主〔(つかさど)〕る。故に、燕を「天女」と名づく』〔と〕。

燕の肉【酸、平。】 毒、有り、人の神氣を損ず。食ふべからず。如〔(も)〕し、燕を食ひたる人は、水に入るべからず。蛟龍、燕を好(す)く故、爲めに吞まれる〔なればなり〕。祈禱家に燕を用ひて龍を召す〔は〕亦、一理〔ある〕なり。

 「夫木」

                   爲家

 きさらぎのなかばに成ると知りがほに早くも來けるつばくらめかな

按ずるに、燕は、玄き衣、白き頸(くぢすぢ)、赤黃の頷(をとがひ)〔にして〕、春、來り、秋、去(い)ぬる。雁〔(がん)〕・鳬(かも)と表裏爲〔(た)〕り。其の飛び翔(かけ)るや、甚だ捷(はや)く、直〔(ただち)〕に翻(かへ)り、仰(あをむ)きても亦、能く飛ぶ。他鳥の能はざる所なり。故に、鷹・鷂、敢へて敵せず。人家に往來して、窠(すづく)る處を求む。人、之れを覺(さと)り、藁を束(つか)ね、徑〔(わた)〕り三、四寸許り、盤(さら)のごとくにして、豫(あらかじ)め、巢の形(なり)に作り、家内の棟の下に縋(つりさ)げて、之れを與〔(あた)〕ふ。則ち、燕、喜んで、巢を營(つく)える。凡そ、一たび、巢を營るの家は、歳歳〔(としどし)〕、忘失せずして、來たる。其の窠の固く密なること、言ふべからず。泥を用ひて髮の毛或いは稈-心(〔わら〕しべ)を和〔(ま)〕ぜ、宛(さなが)ら、堊塗(しつくい)のごとし。其の智、巧婦鳥(みそさゞい)に勝れり。雌雄、交代(かはるがはる)、餌を啣(ふく)み、來たりて之れを哺(〔は〕ぐく)むる。其の雛、稍〔(やや)〕長ずれば、則ち、巢の端に出でて、落つべくして、而〔も〕、落ちず。潜〔(ひそか)〕に之れを視るに、髮毛、有り、雛の脚を繫ぐ。又、日を經て、當に飛び去るべき時に至れば、則ち、母鳥、繫ぐ所の毛を斷つ。亦た、奇なり。既に飛び去りて後、復(ま)た、皆、來りて、頡(とびあが)り、頏(とびさが))り、廻-旋(めぐ)りて謝禮する狀〔(かたち)〕のごとくにして去る。

一つの窠、故〔(ゆゑ)〕無くして、雛、皆、死す有り。是〔(ここ)〕於いて、其の口の中を見るに、麥の禾(のぎ)・松の刺(はり)等、有り。蓋し、此れ、母鳥、死して、後の母鳥の所-爲(しわざ)なり。徃徃〔(わうわう)〕、此くのごとくなる者を見る、と云云〔(うんぬん)〕。

 蛇、有り、燕の雛を吞む。復た來りて、將に吞まんとして、却つて、蛇、巢の下に堕ち、腹、裂けて斃〔(し)〕す。之れを閲〔(けみ)す〕るに、一〔(いつ)〕の縫針(ものぬひばり)、有り。鋒(さき)を倒〔(さかさ)〕にして、巢の口に樹(た)つ。燕が智、恠〔(あや)〕しむに堪へたり。而も、其の針、何〔(いづく)〕の處より獲〔(え)〕たるや。

[やぶちゃん注:スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica。古名「つばくらめ」「つばくろ」は、「土食(つちく)み」からとも、「光沢のある照り輝く黒い鳥」を意味する「土喰黒女(つばくらめ)」(「つば」が「光沢のあること」、「クラ」が「黒」、「め」が「すずめ」「かもめ」などの「群れる鳥」を指す接尾語)ともするようだが、よく判らぬ。漢字の「燕」はツバメの飛翔する様を象った象形文字である。以下、ウィキの「スズメ」より引く。『北半球の広い範囲で繁殖する。日本では沖縄県でも繁殖する。日本で繁殖するツバメの主な越冬地は台湾、フィリピン、ボルネオ島北部、マレー半島、ジャワ島などである』。全長は約十七センチメートル、翼開長は約三十二センチメートル。『背は光沢のある藍黒色で、喉と額が赤い。腹は白く、胸に黒い横帯がある。尾は長く切れ込みの深い二股形』を呈する。『翼が大きく、飛行に適した細長い体型である。脚は短く歩行には不向きで、巣材の泥を求めるとき以外は地面に降りることはめったにない』。『鳴管が発達しており、繁殖期になると』、オスは「チュビチュビチュビチュルルルル」と『比較的大きなさえずり声で鳴く。日本語ではその生態を反映して「土食て虫食て口渋い」などと聞きなしされる。さえずりは日中よりも早朝から午前中にかけて耳にする機会が多い』。『飛翔する昆虫などを空中で捕食する。また、水面上を飛行しながら』、『水を飲む』。『一部、日本国内で越冬する個体があり、しばしば「越冬ツバメ」と呼ばれる。特に中日本から西日本各地で越冬し、そのような場合、多くは集団で民家内や軒下などで就塒(しゅうじ)する。日本で越冬している個体が日本で繁殖したものであるのか、それともシベリアなど』、『日本より北方で夏に繁殖したものであるのかはよく分かっていない』。『泥と枯草を唾液で固めて巣を造る。ほとんど人工物に造巣し、民家の軒先など人が住む環境と同じ場所で繁殖する傾向が顕著である。これは、天敵であるカラスなどが近寄りにくいからだと考えられている』。『民家に巣を作る鳥は他にスズメ等がいるが、あえて人間が多い場所に見えるように作る点で』、『他の鳥と大きな差異が見られる』。『巣は通常は新しく作るが、古い巣を修復して使用することもある。産卵期は』四~七月頃で、一腹卵数は三~七。『主にメスが抱卵する。抱卵日数は』十三~十七日で、『その後の巣内での育雛日数は』二十~二十四日。一『回目の繁殖の巣立ち率は概ね』五十%『程度と推定される』。一『回目繁殖に成功したつがいあるいは失敗したつがいのうち、詳細は不明であるが、相当数のつがいがその後』二『回目』、或いは、『やり直しの繁殖をする。雛(ヒナ)を育てている間に親鳥のうちどちらか一方が何らかの理由で欠けると、つがい外のツバメがやってきて育てているヒナを巣から落して殺してしまう行動が観察されている』バードリサーチのツバメかんさつ全国ネットワークのブログ「ツバメブログ2」の「6. ツバメの子殺し」に詳しい。そこには後から孵化した巣に来た別の若いツバメが雛を皆殺しにするショッキングな動画へのリンクがある。自然界ではハヌマンラングールのにも見られる、それほどレアなことではないが、実際に見ると私でも昨今の児童虐待がオーバー・ラップしてしまい、鬱々となった。視認はくれぐれも自己責任で)。『一方で、つがいの内メスが欠けた場合なのかどこからともなく複数の他のツバメが集まり、その中から選ばれたように一羽ツバメが新たなつがい相手となって、子育てを継続するさまも観察されている』。『巣立ちを終えたヒナと親鳥は』、『河川敷や溜池(ためいけ)の葦原(よしはら)などに集まり、数千羽から数万羽の集団ねぐらを形成する。小規模ではあるが、繁殖前や繁殖に参加していない成鳥も集団ねぐらを形成する』。『日本においては、水稲栽培において穀物を食べず害虫を食べてくれる益鳥として古くから大切にされ、ツバメを殺したり巣や雛に悪戯をする事を慣習的に禁じ、農村部を中心に大切に扱われてきた。江戸時代にはツバメの糞は雑草の駆除に役立つと考えられていた。「人が住む環境に営巣する」という習性から、地方によっては、人の出入りの多い家、商家の参考となり、商売繁盛の印ともなっている。また、ツバメの巣のある家は安全であるという言い伝えもあり、巣立っていった後の巣を大切に残しておくことも多い』とある。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ツバメ」によれば(ピリオド・コンマを句読点亥代えた)、英語の「swallow」はドイツ語のツバメを表わす「Rauchshwalbe」の「shwalbe」『シュワルベと同語源で、この鳥を指す古英語 swalwe による』とあり、『スカンディナビアの伝説によると、ツバメはキリスト臨終のさいに、〈Swala! Swala!(慰めよ! 慰めよ!)〉と叫びながら、十字架の周囲を飛びまわった。そこでこの鳥に swalow(慰めの鳥の意)の名がついたという』とある。

「鷙鳥〔(してう)〕」前記の荒俣氏の「世界博物大図鑑」の「ツバメ」によれば、『鷙鳥(しちょう)は荒々しい鳥を示すが、これは』本文にあるように、『タカがこの鳥を食べると死ぬとか、クマタカ』(タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis。因みに日本はクマタカの最北の分布域で、北海道から九州に留鳥として棲息し、森林生態系の頂点に位置して「森の王者」とも呼ばれる)『を制するといわれたことによる』とある。

「游波」同じく荒俣氏のそこに『波を立て』、『雨を祈るとされた能力』をツバメが持つと信じられたことによるとある。後で出る通り、和名にも「あまどり」があるが、これも「天鳥」(荒俣氏は『天に棲む鳥という説もある』とされる)というよりも、『この鳥が鳴きながら飛ぶと』、『雨が降ることから雨を占う鳥と解するのが有力である』とある。

(はさ)める口」物を挟むのに都合よく出来た嘴。

「布〔(し)〕く翅〔(つば)〕さ」布を綺麗に敷き延ばしたような翼。

「向宿〔(かうしゆく)〕す」自分の塒(ねぐら)へ向かって、スマートに素早く飛び帰って行く。

「戊巳〔(つちのえみ/キシ)〕の日を避く」「本草綱目」の記載なので如何とも謂い難いが、巳は五行の「土」であることと彼らが土を捏ねた泥で営巣することと何か関係があるかも知れない。次の「社日」との関連からも「土」地神や産「土」神(うぶすな)との連関性が感じられもする。さらに、この日は弁才天の縁日とされるが、弁財天の使者は「蛇」であるから、これは大いに忌む可能性があるやも知れぬ。

「春の社〔(しや)〕の日」ウィキの「社日」によれば、社日(しゃにち)は雑節の一つで産土神(うぶすな:生まれた土地の守護神)を祀る日で、春と秋にあり、それぞれかく呼ぶ。起原は古代中国に由来し、「社」は「土地神」の意である。春分又は秋分に最も近い「戊(つちのえ)の日」が社日となる。但し、戊と戊の、丁度、中間に春分日・秋分日が来る場合(つまり、春分日・秋分日が癸(みずのと)の日となる場合)は、春分・秋分の瞬間が午前中ならば、前の戊の日、午後ならば、後の戊の日とする。またこのような場合は、前の戊の日とする決め方もあるという。『この日は産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝する。また、春の社日に酒を呑むと耳が良くなるという風習があり、これを治聾酒(じろうしゅ)という。島根県安来市社日町などが地名として残っている』とある。則ち、春のそれは立春後の第五番目の戊(つちのえ)の日となる。今年二〇一八年は三月十七日であった。

「秋の社の日」立秋後の第五番目の戊(つちのえ)の日。今年二〇一八年は九月二十三日であった。

「屋宇」屋根。

「氣を伏して」活動の生気を抑制して。

「其れ、海を渡る」残念ながら、正しいのです、時珍先生。

「常盤國〔(とこよのくに)〕」「常世の国。東洋文庫版は同義の『ときわのくに』とルビ。

「燕の巢に、艾〔(よもぎ)〕有れば、則ち、居らず」ヨモギの薬効成分(葉や枝先を乾燥したものを生薬で「艾葉(ガイヨウ)」と称する。味は苦・辛で、性は温。葉には精油が含まれ、その主成分はシネオール(cineol)・ツヨン(α-thujone)など。主に女性の不正出血・月経過多・痔の出血・皮下出血などに効能があるとされる。一方、外用として灸に用いられえう「もぐさ」はヨモギの葉の裏の綿毛を集めたもので、成分は蠟分・トリコサノール(tricosanol)・カプリン酸(capric acid)・パルミチン酸(palmitic acid)・ステアリン酸(stearic acid)などの脂肪酸の混合物が知られる。ここは「武田薬報web」のこちらの記載を参照した)を燕が嫌うんでしょうが、しかし、誰が置くんすか? 時珍先生?

「貉(むじな)」「本草綱目」の記載であるから、哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマMeles leucurus。本邦でも「貉(むじな)」は概ねアナグマを指が、本邦産種は固有種ニホンアナグマ Meles anakuma となる。中国の狐や貉が燕を視認してしまうと、忽ち前身の毛が脱毛するというのには、何らかの理由があったはずだが、不詳。識者の御教授を乞う。知られた出典としては、唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)の「続集」の第十六巻「広動植之一」に、

   *

燕、凡狐白貉鼠之類、燕見之則毛脱。或言燕蟄於水(一曰「月」)底。舊説燕不入室、是井之虛也。取桐爲男女各一、投井中、燕必來。胸班黑、聲大、名胡燕。其巢有容匹素練者。

   *

である。これを見るに、強力な呪力を持つ鳥と考えられていたことが判る。以下の鷹(現行ではタカ目タカ科 Accipitridae に属する鳥の内でも比較的小さめのものを指す通称)・鷂(はいたか:タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus。ハイタカは「鷹」に含まれる)の必死のケースも同じ。

「蛟龍〔(こうりよう)〕」中国の想像上の龍のプレ形態で、未だ竜にならない蛟(みずち)を指す。水中に潜み、時を得て、雲や雨に遇うことで、天上に昇って龍になるとされる。

「物の理、然(しか)らしむるなり」万物の道理のしからしむるところである、って、どこが、どう? 時珍先生?

「胡燕(みやまつばめ)」良安が『和名、「阿萬止里〔(あまどり)〕』と言っているから、普通のツバメの個体変異であろうと最初は思った(実は後の本文の『俗に云ふ「深山燕」なり』は「本草綱目」にはないので、どうもここは割注を誤ったもので、これも良安の附言のようである)のだが、CEC公式サイトの「徒然野鳥記の「ツバメ」でちゃんと別種として存在することが判った。これはツバメ属コシアカツバメ(腰赤燕)Hirundo daurica である。ウィキの「コシアカツバメより引く。アフリカ大陸中部・ユーラシア大陸・スリランカ・日本・フィリピンに分布し、夏季にヨーロッパ南部・中央アジア・ウスリー『などで繁殖し、冬季になると』、『東南アジアやインド』。『中華人民共和国南部へ南下し』、『越冬する』。『日本では』、『夏季に』、『繁殖のため』に『九州以北(主に本州中部以西)に飛来する(夏鳥)』。『日本国内の繁殖地は北へ拡大傾向にあ』り、『四国や九州で越冬する個体もいる』。全長は十七~二十センチメートル、翼開長は三十三センチメートル。『最外側尾羽が非常に長い(燕尾型)』。『上面は光沢がある黒い羽毛で被われる』。『腰は赤褐色』『やオレンジ色』『で、和名の由来になっている』。『下面は羽軸に沿って黒褐色の斑紋(軸斑)が入る白や淡褐色を帯びた白い羽毛で被われ、縦縞が入っているように見える』。『下腹は赤褐色』『や淡いオレンジ色、尾羽下面の基部を被う羽毛(下尾筒)は黒い』。『嘴は黒い』。『後肢の色彩は褐色』。『幼鳥は尾羽が短く、上面の羽毛の外縁が淡色』。十一もの亜種に分かれるとある。『市街地』『や農耕地などに生息する』。『繁殖地ではねぐらを作らず、繁殖後も渡りの時期まで巣をねぐらとして用いる』。『食性は動物食で、主に昆虫を食べる』。『集団営巣する傾向がある』。『崖や民家の軒下、橋桁などに土と枯れ草で固めた出入り口が細長い徳利や壺状の巣を作る』。『このため』、『トックリツバメと呼ばれている地方もある』。『日本では』五~八月に四~五個の『卵を産む』。『抱卵期間は』十四~二十日で、『雛は孵化してから』二十三~二十五『日で巣立つ』とある。

「二匹の絹を容(い)るゝ」「匹」は日本の「疋」の元で、古代中国に於いて使われた長さの単位。一匹は約九・四メートル。ちょっと大き過ぎや、しませんか? 時珍先生?(ここれは「本草綱目」の「集解」に出るのである)

「白燕」不詳。ツバメのアルビノであろう。

「京房」東洋文庫では訳本文に『京房(易占)』とし、巻末の書名注に「京房(けいぼう)易占」として『『隋書』経籍志にある『周易』か。十二巻。漢の京房撰。易学の解説書。京房には『京房易伝』三巻があるが、現存のものは『漢書』五行志に数多く引用される『京房易伝』とは文が一致しないといわれる』とある。

「貴女を生ずることを主〔(つかさど)〕る」世に貴女が生まれることを予兆する。

「人の神氣」ヒトの精神力と採っておく。

「夫木」「爲家」「きさらぎのなかばに成ると知りがほに早くも來けるつばくらめかな」定家の次男藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)の一首で「巻三 春三」にある。「日文研」の「和歌データベース」で校合し、濁点や送り仮名は東洋文庫版を参考にした。

「堊塗(しつくい)」漆喰。消石灰に海藻のフノリやツノマタなどの粘着性物質と、麻糸などの繊維を加え、水でよく練り合わせたもの。砂や粘土を加えることもある。壁や天井などを塗る。但し、「しつくい」は「石灰」の唐音であり、「漆喰」は当て字である。

「巧婦鳥(みそさゞい)」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes前項を見よ。

「髮毛、有り、雛の脚を繫ぐ。又、日を經て、當に飛び去るべき時に至れば、則ち、母鳥、繫ぐ所の毛を斷つ」一応、調べたが、このような巧みな習性はない。実際に雛はしばしば落下する。

「既に飛び去りて後、復(ま)た、皆、來りて、頡(とびあが)り、頏(とびさが))り、廻-旋(めぐ)りて謝禮する狀〔(かたち)〕のごとくにして去る」良安先生? 何だか、この「燕」の項、とても楽しそう書いてません? いえいえ! 最後の蛇退治といい、すこぶる民俗学的叙述で、トッテもいいです!!!

「一つの窠、故〔(ゆゑ)〕無くして、雛、皆、死す有り。是〔(ここ)〕於いて、其の口の中を見るに、麥の禾(のぎ)・松の刺(はり)等、有り。蓋し、此れ、母鳥死して、後の母鳥の所-爲(しわざ)なり」古典の好きな継子いじめ譚であるが、継母というのは誤りであるものの、後釜のが殺害する(動画を見たが、突き殺した上で引きずり出して落としている)ことは、既に引用の中間部に示した。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 巧婦鳥(みそさざい) (ミソサザイ)

Misosazai

みそさゝい      鷦鷯 女匠

たくみどり      桃蟲【詩經】 蒙鳩

ささき        黃脰雀 襪雀

巧婦鳥

           【和名太久美止里又云佐佐木】

キヤウフウニヤ

 

本綱生蒿木間居藩籬上狀似黃雀而小灰色有斑聲如

吹噓其喙如利錐取茅葦毛毳爲巢大如雞卵而繫之以

麻髮至爲精密懸於樹上或一房二房故曰巢林不過一

枝毎食不過數粒小人畜馴教其作戲也

按鷦鷯形狀如上説而脚黑微赤其窠以髮繫之以麻

 之精密如刺襪然故有襪雀巧婦等之名而和名抄

 鷦鷯【佐佐木】巧婦鳥【太久美止里】如爲二物者非也【今俗云美曽佐佐伊】

 仁德天皇諱號大鷦鷯【降誕日此鳥以入於宮殿】和州洞籠川山中

 多出雛城州岩間攝州有馬亦有之今人家養之形極

 小而聲大也性畏寒難育

肉【甘溫】 炙食甚美令人聽明

巢 燒灰酒服治膈噎神驗

 

 

みそさゞい      鷦鷯〔(せうれう)〕

たくみどり      女匠

さざき        桃蟲【「詩經」。】

           蒙鳩

           黃脰雀〔(かうとうじやく)〕

           襪雀〔(ばつじやく)〕

巧婦鳥

           【和名、「太久美止里」、

            又、「佐佐木」と云ふ。】

キヤウフウニヤ

 

「本綱」、『蒿木〔(こうぼく)〕の間に生じ、藩-籬(まがき)の上に居〔(きよ)〕す。狀、黃雀(あくち〔すずめ〕)に似て小さし。灰色にして斑有り。聲、吹-噓〔(くちぶえ)〕のごとく、其の喙〔(くちばし)〕、利き錐(きり)のごとく、茅(かや)・葦(よし)の毛-毳〔(にこげ)〕を取りて巢を爲〔(つく)〕る。巢、大いさ、雞卵のごとくにして、之れを繫(つな)ぐに、麻〔(を)〕・髮を以つてし、至つて精密と爲〔(つく)〕り、樹の上に懸く。或いは、「一房・二房〔なれば〕、故に林に巢〔つくれども〕一枝に過ぎず」と曰ふ。毎〔(つね)〕は食〔ひても〕、數粒に過ぎず。小人、畜(か)ひ馴(な)れて、其の戲〔(ぎ)〕をして作〔(な)〕さしむるなり』〔と〕。

按ずるに、鷦鷯、形狀、上説のごとくにして、脚、黑く、微赤。其の窠、髮を以つて之れを繫(つな)ぎ、麻(を)を以つて之れを〔(ぬ)ふ〕。精密なりこと、襪(たび)を刺(さ)すがごとく、然り。故、「襪雀」「巧婦」等の名、有り。而るに「和名抄」に「鷦鷯(さゞき)」【「佐佐木」。】「巧婦鳥(たくみどり)」【「太久美止里」。】二物と爲〔(す)〕るがごときは、非なり【今、俗に「美曽佐佐伊」と云ふ。】。仁德天皇の諱〔いみな)〕を「大鷦鷯(〔おほ〕さざき)と號(がう)す【降誕の日、此の鳥、宮殿に入るを以つてなり。】。和州洞籠(どろう)川の山中に、多く、雛を出だす。城州の岩間・攝州の有馬にも亦、之れ有り。今、人家に之れを養ふ。形、極めて小さくして、聲、大なり。性、寒を畏れて、育(そだ)て難し。

肉【甘、溫。】 炙り食ふ。甚だ美〔なり〕。人をして聽明ならしむ。

巢 灰に燒き、酒にて服す。膈噎〔(かくいつ)〕を治す〔こと〕、神驗あり。

[やぶちゃん注:スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes。現行、本邦でも「鷦鷯」と漢字表記する。ウィキの「ミソサザイ」によれば(下線太字やぶちゃん)、ヨーロッパ・アフリカ北部・西アジア・中央アジアからロシア極東部・東南アジア北部・中国・台湾・朝鮮半島・日本・北アメリカ西部及び東部で『繁殖し、北方で繁殖した個体は冬季南方へ渡る』。『日本では留鳥として、大隅諸島以北に周年』、『生息している。亜高山帯〜高山帯で繁殖するとされているが、亜高山帯には属さない宮崎県の御池野鳥の森では繁殖期にも観察されており、繁殖していると思われる』。『繁殖期の一部の個体は、秋〜春先にかけては低山帯や平地に降りて越冬する(漂鳥)』。全長は約十一センチメートル、翼開長でも約十六センチメートルで、体重も七~十三グラムしかない。和名は『溝(谷側)の些細』な『鳥が訛ってミソサザイと呼ばれるようになったとする説がある』。『全身は茶褐色で、体の上面と翼に黒褐色の横斑が、体の下面には黒色と白色の波状横斑がある』(雌雄同色)。『体つきは丸みを帯びており、尾は短い。よく短い尾羽を上に立てた姿勢をとる』。『日本の野鳥の中でも、キクイタダキ』(スズメ目キクイタダキ科 Regulidae キクイタダキ属キクイタダキ Regulus regulus)『と共に最小種のひとつ』で、『常に短い尾羽を立てて、上下左右に小刻みに震わせている。属名、種小名troglodytesは「岩の割れ目に住むもの」を意味する』。『茂った薄暗い森林の中に生息し、特に渓流の近辺に多い』。『単独か番いで生活し、群れを形成することはない。繁殖期以外は単独で生活する』。『早春の』二『月くらいから囀り始める習性があり、平地や里山などでも』二『月頃に』、『その美しい囀りを耳にすることができる。小さな体の割には声が大きく、高音の大変に良く響く声で「チリリリリ」とさえずる』引用で音声が聴ける。私は彼の囀りが好きだ)。また、『地鳴きで「チャッチャッ」とも鳴く』。『同じような地鳴きをするものにウグイス』(スズメ目ウグイス科 Cettiidae ウグイス属ウグイス Horornis diphone)『がいるが、ウグイスの地鳴きと比べ』、『明らかに金属的な鋭い声で「ジジッ」と聞こえる』。『ミソサザイの地鳴きを聞いたことがある人なら、聞き間違えることはないほどの相違点がある。秋〜早春、場所によっては両種が同じ環境で生活しているため、初めて聞く人にとって、両種の特定には注意が必要である』。『食性は動物食で、昆虫、クモ類を食べる』。『繁殖期は』五~八月で、四個から六個の『卵を産む。抱卵日数は』十四~十五日で、十六~十七日『で雛は巣立つ。一夫多妻制』『でオスは営巣のみを行い、抱卵、育雛はメスが行う』。『ミソサザイは、森の中のがけ地や大木の根元などにコケ類や獣毛等を使って壷型の巣を作るが』、『他の鳥と異なり、オスは自分の縄張りの中の』二『個以上の巣を作り、移動しながら』、『さえずってメスを誘う』。但し、『オスが作るのは巣の外側のみで』、『実際の繁殖に使用されるものは、作られた巣の内の』一『個のみであり、巣の内側はオスとつがいになったメスが完成させる』。『また、巣自体にも特徴があり、通常の壷巣は出入口が』一『つのみであるが、ミソサザイの巣は、入口と出口の双方がそれぞれ反対側に設計されている。抱卵・育雛中の親鳥が外敵から襲われると、中にいる親鳥は』、『入り口とは反対側の出口から脱出するといわれている』とある。『日本では古くから知られている鳥で、古事記・日本書紀にも登場する』。『なお、古くは「ササキ」であったが』、『時代が下』ると、『「サザキ」または「ササギ」「ミソササギ」等と言った。冬の季語とされている』。『江戸時代の俳人小林一茶が』文化元(一八〇四)年に詠んだ句に、

 みそさゞいちつというても日の暮(くる)る(「文化句帖」)

 みそさゞちゝといふても日が暮る(「文政版一茶発句集」)

 みそさゞちゝといふても日は暮る(「版本題叢」)

がある(「文化句帖」の「いう」はママ。ここは岩波文庫「小林一茶句集」を参考に独自に異形句をも表記をした)。また、宝永七(一七一〇)年の『蘇生堂主人による鳥の飼育書』である「喚子鳥」』(よぶこどり)『にもミソサザイの描写があるされている』。『西欧各国の民間伝承においてはしばしば「鳥の王」とされ』、『各国語における呼称も君主や王の意を含んだ単語が用いられる。グリム童話の』「みそさざいと熊」では『「鳥の王さま」と呼ばれていた』。『また、ヨーロッパコマドリ』(スズメ目ヒタキ科(ツグミ科とも)ヨーロッパコマドリ属ヨーロッパコマドリ Erithacus rubecula)『と対になって現れることも多い。かつては、ヨーロッパコマドリがオス、ミソサザイがメスだと考えられており、「神の雄鳥」「神の雌鳥」として伝承中では夫婦とされていた。また、イギリスではヨーロッパコマドリが新年の魂を、ミソサザイが旧年の魂を宿しているとして、クリスマスや翌』十二月二十六日の「聖ステファノの日」(St. Stephen's DayFeast of Saint Stephen:キリスト教で最初の殉教者(protomartyr)とされる彼聖ステファノを記念するもの)『に「ミソサザイ狩り」が行われていた』。『森の王に立候補したミソサザイが、森の王者イノシシの耳の中に飛び込んで、見事にイノシシを倒したものの、だれも小さなミソサザイを森の王とは認めなかったという寓話が有名である』。『また、ミソサザイはアイヌの伝承の中にも登場する。人間を食い殺すクマを退治するために、ツルやワシも尻込みする中でミソサザイが先陣を切ってクマの耳に飛び込んで攻撃をし、その姿に励まされた他の鳥たちも後に続く。最終的には』アイヌの英雄神サマイクルも『参戦して荒クマを倒すという内容のもので、この伝承の中では小さいけれども立派な働きをしたと、サマイクルによってミソサザイが讃えられている』とある。

「蒿木〔(こうぼく)〕」東洋文庫版はこれに『あれくさ』とルビする。確かに「木」を高い意味に採ればもしゃもしゃに荒れて生え茂った叢の意となろうが、そもそもは「蒿」は「高く茂った草」の意であるから、これはやはり文字通り、「高く茂った草の茂みや林」の意であろう。以下の叙述やミソサザイの習性からもそう採るべきと私は思う。

「藩-籬(まがき)」人工的に作った垣根・囲い。「藩」にはその意味がある。

「黃雀」「黃雀(あくち〔すずめ〕)」読みは先行する「雀」に良安が振った者に従った。そこで注したように、これは特定の雀種を指すのではないと思われる。「あくち」とは、雀に限らず、鳥の雛の嘴の付け根の黄色い部分を指す(「日葡辞書」に掲載。語源説は「粟口」「開口」「赤口」等。開いた口中は赤く見えるから、孰れも腑には落ちる)から、ここは雀(或いはその近縁種)の雛の意であろう。

「吹-噓〔(くちぶえ)〕」中国で詩を、口を尖らして口笛を吹くように、声を長く引いて詠むことを「嘯」(音「セウ(ショウ)」「長嘯」と呼び、それを本邦では「嘯(うそぶ)く」と訓ずることは周知の通りだが、まさに中国語のそれも、まさにこう別表記出来るというのは、私には意外であった。今日の勉強の一つとなった。

「毛-毳〔(にこげ)〕」現行では専ら、鳥獣や人や乳児の柔らかい産毛(うぶげ)を指すが、広義に柔らかな毛をも指す。

「麻〔(を)〕・髮」後の「髮」はミソサザイの実際の棲息域を考えれば、「人の髪の毛」と限定するものではなく、「獣の毛髪」と考えるべきであろうから、「麻」も人工的に製した繊維のそれではなく、アサの茎の皮の植物繊維を突き出したものと採るべきかと思う。

「一房・二房〔なれば〕、故に林に巢〔つくれども〕一枝に過ぎず」注冒頭の引用後半の下線太字部を読むに、彼らが林の中で巣を使用しない他巣を含め複数作ることから考えると、実際の巣(或いはその他の未使用の巣をも含めた)を中心としたテリトリーを広範に持っている可能性が考えられ、さすれば、この「本草綱目」の謂いは、実は至極当たっているのではないかと思った。

「毎〔(つね)〕は食〔ひても〕、數粒に過ぎず」引用の通り、ミソサザイの『食性は動物食で、昆虫、クモ類を食べる』とあるから、単品の穀類を食べないのは当たり前である。

「小人、畜(か)ひ馴(な)れて、其の戲〔(ぎ)〕をして作〔(な)〕さしむるなり」子どもが駕籠で飼い馴らして、芸を覚えさせて遊んだりする。

「襪(たび)を刺(さ)す」「襪」は和訓で「しとうず」と読み、絹や錦の二枚の足形の布を縫い合わせて作られた靴下である。足袋のような底や「こはぜ」はなく、上方につけた二本の紐で結び合わせる。奈良から平安時代の礼服(らいふく)・朝服などに各種の沓(くつ)とともに用いられた。中国唐代の「襪(べつ)」が伝わり、これを「シタクツ」と呼んだが、それが「シタグツ」(下沓)の音便で「シタウズ」から「シトウズ」となった。「和名類聚鈔」には『襪 和名「之太久豆」。足衣也』とある(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。但し、ここは良安の謂いで「たび」とルビしているのだから、「足袋を縫い製する」の意でよい。

『「和名抄」に「鷦鷯(さゞき)」【「佐佐木」。】「巧婦鳥(たくみどり)」【「太久美止里」。】二物と爲〔(す)〕る』「和名類聚鈔」の「巻十八 羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に続けて、

    *

巧婦 兼名苑注云巧婦【和名太久美止里】好割葦皮食中虫故亦名蘆虎

鷦鷯 文選鷦鷯賦云鷦鷯【焦遼二音和名佐々木】小鳥也生於蒿萊之間長於藩籬之下

    *

とある。

「仁德天皇の諱〔いみな)〕を「大鷦鷯(〔おほ〕さざき)と號(がう)す【降誕の日、此の鳥、宮殿に入るを以つてなり。】」「日本書紀」の仁德天皇元(三一三)年正月の条に、

   *

元年春正月丁丑朔己卯。大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。卽宮垣・室屋弗堊色也。桶・梁・柱・楹弗藻飾也。茅茨之蓋弗割齊也。此不以私曲之故、留耕績之時者也。』初天皇生日。木菟入于産殿。明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰。語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日、臣妻産時。鷦鷯入于産屋。是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子與大臣之子、同日共産。竝有瑞。是天之表焉。以爲、取其鳥名。各相易名子。爲後葉之契也。則取鷦鷯名。以名太子。曰大鷦鷯皇子。取木菟名號大臣之子。曰木菟宿禰。是平群臣之始祖也。是年也。太歳癸酉。

   *

とある。IKUOサイト「自然フォトエッセイ」の「ミソサザイ」でこの命名を考察されておられる。写真やミソサザイの解説も素敵だ。必見。

「和州洞籠(どろう)川」現在の奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)。(グーグル・マップ・データ)。大峯山・山上ヶ岳・女人大峯・稲村ヶ岳の登山口で、標高約八百二十メートルの高地の冷涼な山里。

「城州の岩間」現在の京都府福知山市岩間。(グーグル・マップ・データ)。由良川右岸の丘陵地。

「膈噎〔(かくいつ)〕」漢方では「噎」は「食物が喉を下りにくい症状」を指し、「膈」は「飲食物を嚥下出来ないこと」「一度は喉を通っても後で再び嘔吐する症状」を指す。精神的な嚥下不能から喉の炎症、アカラシア(achalasia:食道アカラシア。食道の機能障害の一種で、食道噴門部の開閉障害若しくは食道蠕動運動の障害或いはその両方によって飲食物の食道通過が困難となる疾患)や咽頭ポリープによるもの、更には食道狭窄症や逆流性食道炎、重いものでは咽頭癌・食道癌や噴門部癌や胃癌も含まれると思われる。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鵐(のじこ) (ノジコ)

Nojiko

のじこ  草雀

野鵐

    【俗云乃之古

     蓋野鵐和訓

     下畧而

     通用乎】

 

△按野鵐似青鵐而小頭青黄色淡而鮮明翅全似青鵐

 而有黄赤與黑縱斑觜黃白脚細而淡赤黃色性安靜

 

 

のじこ  草雀

野鵐

    【俗に「乃之古」と云ふ。

     蓋し、「野鵐〔(のしとと)〕」の

     和訓を下畧して通用せるか。】

 

△按ずるに、野鵐は青鵐〔(あをじ)〕に似て小さく、頭、青黄色にて、淡くして鮮明なり。翅は全く青鵐(あをじ)に似て、黄赤と黑との縱斑有り。觜、黃白〔きじろ)〕く、脚、細くして淡赤黃色。性、安靜なり。

[やぶちゃん注:ノジコ Emberiza sulphurata。和名の漢字表記は「野路子」「野地子」「野鵐」で、現在の中国語の漢名は「硫黃鵐」「野鵐」「繡眼鵐」。ウィキの「ノジコによれば(太字下線やぶちゃん)、分布は中華人民共和国南東部・台湾・日本・フィリピン北部で、『夏季に本州北部で繁殖(夏鳥)し、冬季になると』、『中華人民共和国南東部、フィリピン北部へ南下し』、『越冬する』。日本の『本州西部以南では越冬する個体もいる』。『日本のみで繁殖する』。全長十三・五~十五センチメートル、翼開長は二十一センチメートル。『体上面には暗褐色、体側面には褐色』『や灰緑色の縦縞が入る』。『尾羽の色彩は黒褐色で、外側から』二『枚ずつの尾羽には白い斑紋が入る』。『中央尾羽の色彩は淡赤褐色で、羽軸に沿って黒褐色の斑紋(軸斑)が入る』。『翼の色彩は黒褐色で、羽毛の外縁(羽縁)は淡褐色。中雨覆や大雨覆の先端には白い斑紋が入り、静止時には』二『本の白い筋模様(翼帯)に見える』。『眼の上下に白い輪模様(アイリング)がある』。『嘴の色彩は青みがかった灰色』。『後肢の色彩は淡黄褐色』。『オスは頭部や体上面は黄緑色や灰緑色の羽毛で被われ』、『下面は黄色い羽毛で被われ』ている。『眼先は黒い』。『メスは頭部や体上面が淡褐色、下面が淡黄色の羽毛で被われ、眼先は淡褐色』。『アオジと非常に良く似ており、素人では見分けが困難である』。『繁殖期には標高』四百~千五百メートルにある、『開けた森林に生息する』。『食性は雑食で、昆虫、種子などを食べる』。『夏季は樹上で主に昆虫を、冬季は地表で主に種子を採食する』。『草の根元や地表から』二メートル『以下の高さにある低木の樹上に植物の茎や枯れ葉などを組み合わせたお椀状の巣を作り』、五~七月に、一回に二~五個(標準は四個)の『卵を産む』。『雌雄交代で抱卵し』、『抱卵期間は約』十四『日。雛は孵化してから』七~八『日で巣立つ』。『分布が限定的で』、『生息数も少ないと考えられて』おり、現在は絶滅危惧II類(VU)指定である。

「野鵐〔(のしとと)〕」の読みは蒿雀(あをじ)(アオジ)の私の「鵐〔(しとと)〕」の注を参照されたい。]

2018/10/19

和漢三才圖會第四十二 原禽類 蒿雀(あをじ) (アオジ)

Aoji

 

あをじ  青鵐【俗稱】

蒿雀

     【俗云阿乎之】

ハアウツヨッ

 

本綱蒿雀似雀青黑色在蒿間塞外彌多食之美於諸雀

草雀 三才圖會云似蒿雀身微綠色謂之草雀

【蒿者草之高者也郭璞曰春時各

 有種名至秌老成皆通呼爲蒿矣】

按蒿雀似鵐而帶青黃色故俗呼曰青鵐【阿乎之止止畧曰阿乎之】

 常棲山中秋冬出原野蒿篁間大如鵐及雀而頭青黃

 有縱紫斑眉頰稍黃白色上嘴眼邊眞黑胸脇淡黃有

 黑斑翅有黃赤與黑縱斑紋腹淡黃脚脛赤指爪淡白

 性急聲亦短小【鵐見下林禽】

[やぶちゃん注:「」=「馬」+「喿」。]

肉【甘溫】 燒存性能止血有神効又能解毒治食傷

 

 

あをじ  青鵐〔(せいふ)〕【俗稱。】

蒿雀

     【俗に「阿乎之」と云ふ。】

ハアウツヨッ

 

「本綱」、蒿雀は雀に似て、青黑色。蒿間(くさむら)に在〔(あ)〕り、塞の外(そと)には彌(いよいよ)多し。之を食ふに諸雀よりも美なり。

草雀 「三才圖會」に云はく、『蒿雀に似て、身、微〔(すこ)〕し綠色。之れを「草雀」と謂ふ』〔と〕。

【「蒿〔(カウ)〕」とは、草の高き者なり。郭璞〔(かくはく)〕が曰はく、『春の時は、各〔(おのおの)〕種名有〔るも〕、秌〔(あき)〕に至りて老成〔せば〕、皆、通〔じて〕呼びて「蒿」と爲す』〔と〕。】

按ずるに、蒿雀は鵐〔(しとと)〕に似て、青黃色を帶ぶ。故に、俗、呼んで「青鵐〔(あをじ)〕」と曰ふ【「阿乎之止止〔(あをのしとど)〕」、畧して「阿乎之」と曰ふ。】。常に山中に棲み、秋冬、原野の蒿篁〔(くさむら)〕の間に出づ。大いさ、鵐及び雀のごとくにして、頭、青黃〔に〕縱の紫斑有り。眉・頰、稍〔(やや)〕黃白色。上嘴(うはくちばし)・眼の邊り、眞黑。胸・脇、淡黃〔に〕黑斑有り。翅、黃赤と黑との縱斑の紋、有り。腹、淡黃。脚・脛、赤く、指・爪、淡白。性、急-(さはがし)く、聲も亦、短く小さし【「鵐」は「林禽」下を見よ。[やぶちゃん注::「」=「馬」+「喿」。最後の割注は「下」の位置が不審で、ここに限り、勝手な訓読を行った。]】

肉【甘、溫。】 燒きて、性を存〔(そん)〕ぜし〔は〕、能く血を止む〔るに〕神効有り。又、能く毒を解し、食傷を治す。

[やぶちゃん注:本邦で普通に見かけるのは、スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ亜種アオジ Emberiza podocephala personata。漢字表記は「青鵐」「蒿鵐」「蒿雀」。中文サイトでは漢名を「灰頭鳥」とし、異名として「黑臉鵐」「青頭雀」「蓬鵐」「青頭鬼兒」等がある。「ウィキの「アオジ」によれば、インド北部・中華人民共和国・台湾・朝鮮民主主義人民共和国・日本・ネパール・ブータン・ロシア南東部に分布し、夏季に中華人民共和国・ロシア南東部・朝鮮半島北部で『繁殖し、冬季になると』、中華人民共和国南部・台湾・『インドシナ半島などへ南下し』、『越冬する。日本では亜種アオジが北海道や本州中部以北で繁殖し、中部以西で越冬する。また』、『少数ながら』、『基亜種』シベリアアオジEmberiza spodocephala spodocepha『が越冬(冬鳥)や渡りの途中(旅鳥)のため、主に本州の日本海側や九州に飛来する』。全長十四~十六・五センチメートル。体重十六~二十五グラム。『上面は褐色の羽毛で覆われ、黒い縦縞が入る。中央部』二『枚の尾羽は赤褐色。外側の左右』五『枚ずつは黒褐色で、最も外側の左右』二『枚ずつは白い』。『上嘴は暗褐色、下嘴の色彩は淡褐色。後肢の色彩は淡褐色』。『オスは眼先や喉が黒い』。本邦の亜種アオジは『下面が黄色い羽毛で覆われ、喉が黄色い。オスの成鳥は頭部は緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い』。『和名のアオは緑も含めた古い意味での青の意でオスの色彩に由来する』。『青色の鳥類の和名にはオオルリ、ルリビタキなどのように瑠璃色が用いられている』。『漢字表記の「蒿」はヨモギの意。メスの成鳥は緑褐色の羽毛で覆われ、上面が緑褐色の羽毛で覆われる。色合いなどはノジコ』(ホオジロ属ノジコ Emberiza sulphurata。次に独立項「野鵐」として出る)『に似ており、素人では見分けが困難である』。基亜種のシベリアアオジEmberiza spodocephala spodocepha は、『下面が淡黄色の羽毛で覆われる。オスの成鳥は頭部と胸部が暗灰色の羽毛で覆われる。メスの成鳥は灰褐色の羽毛で覆われ、上面が灰色がかった緑褐色の羽毛で覆われる』。『開けた森林や林縁に生息する。非繁殖期には藪地などにも生息する。非繁殖期には群れを形成することもあるが、単独でいることが多い。用心深い性質で、草むらの中などに身を潜める』。『植物の種子や昆虫類を食べる。地上で採食する』。『地表や低木の樹上に植物の茎や葉を組み合わせたお椀状の巣を作り』、五~七月に一回に三~五個の『卵を産む。抱卵期間は』十四~十五日で、『雌が抱卵し、雛は孵化してから』十二~十三日で『巣立つ』。『雄は繁殖期に縄張りをもち、高木の上などの高所でさえずる』とある。私はアオジの鳴き声が好きだ。toriotomo氏のYou Tube の「アオジ゙のさえずり」の動画をリンクさせておく。

「蒿間(くさむら)」『「蒿」とは、草の高き者なり』とするのでそれでよいと思うが、「蒿」は別に狭義にキク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii をも指す。因みに同種は現代中国語では「魁蒿」と漢名する。但し、後注下線太字部も参照。

「塞の外」国境の外。特に中国では「万里の長城」の北側を指し、本種が北方系種であることを考えると腑に落ちる。

「草雀」「蒿雀に似て、身、微〔(すこ)〕し綠色」ではお手上げ。上記のウィキの引用で判る通り、素人にはノジコ Emberiza sulphurata との見分けさえ困難であるとする。しかも述べた通り、次に「野鵐」として出る以上、これをノジコに同定比定するのは気が引け、寧ろ、基亜種シベリアアオジ Emberiza spodocephala spodocepha とする方がよかろうか、などと思案していたところが、次項の異名をふと見れば、「草雀」とある。良安先生、どういう料簡?

「郭璞が曰はく……」以下は「爾雅注疏」(全十一巻。西晋・東晋の学者郭璞(二七六年~三二四年)が注し、北宋の刑昺(けいへい)の疏(注に附けた更なる注釈のこと)に「爾雅」(漢代に成立した中国最古の字書。著者不詳)の注釈書。非常に優れたもので、後世、注疏の手本とされた)の巻八「釋草第十三」からの引用。中文ウィキソースで確認出来る。なお、同書の他の部分を「蒿」を検索して戴くと判るが、「蓬、蒿也」とする「説文」を引きつつも、「蒿」をヨモギに限定するのは誤りであり、丈の高い草を指すといった注がなされいるようだ。確かに「通〔じて〕呼びて「蒿」と爲す」はそれに相応しい。

「鵐〔(しとと)〕」「しとと」「しとど」はホオジロ属Emberiza のうち、本邦で普通にみられる幾種かに、限定的に古くからつけられた一般的な地方名。「シトト」或いは「シトド」と称する鳥について、「日本鳥学会」が定めた和名に当てはめてみると、「ホオジロ」(Emberiza cioides)・「アオジ」・「クロジ」(Emberiza variabilis)・「カシラダカ」(Emberiza rustica)が該当する。「シトド」と発音するケースは東北地方に多く、そのほかの地方では「シトト」が多い。次いで「アオジ」・「クロジ」「ノジコ」など、肉眼での野外識別が困難な個体を総称して「アオシトド」あるいは「アオシトト」とよぶ地方があり、「ホオジロ」を「アカシトト」、「クロジ」を「クロシトト」、「ミヤマホオジロ」(Emberiza elegans)を「ヤマシトト」と呼ぶ地方もあると、小学館「日本大百科全書」にあった。良安は「蒿雀」とこの「鵐」を別種としているのは、古い悪しき博物学の分類嗜好癖によるものである。

「性を存〔(そん)〕ぜし〔は〕」慎重に炙り焼いて、本来の蒿雀の肉の持つ漢方成分を破壊しないようにすれば、の意。]

古今百物語評判卷之四 第二 河太郞附丁初が物語の事

 

Gawatarou

  第二 河太郞(がはたらう)丁初(ていしよ)が物語の事

一人のいはく、「河太郞とはいかなるものを申(まうし)候哉(や)。某(それがし)が女房の在所、江州野州河(やすがは)の近所にて候が、その河邊(かはべ)に、子供の水をよぎ[やぶちゃん注:ママ。]して居申(ゐまうし)候内(うち)に、折々はみえ申さぬ事御座候を、河太郞のしはざのやうに申しならはし侍る。自らも、おぼれてながれ候はんと存候が、いかなるやらむ」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「河太郞も河瀨(かはをそ)の劫(こう)を經たるなるべし。河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つにして、よく、魚をとる獸(けだもの)なり。狀(かたち)、ちいさき狗(いのこ)のごとく、四足(しそく)、みぢかく、毛色は、うす靑ぐろく、はだへは、蝙蝠(かうふり[やぶちゃん注:本巻は「早稲田大学図書館古典総合データベース」にある二種では欠損していて、原典を確認出来ないので、国文学研究資料館公式サイト内電子資料館」古今百物語評判」(お茶大学図書館本)当該頁を視認したが、確かにこうなっている。])のごとしと云へり。此物、變化(へんげ)せしこと、もろこしにもあり。丁初と云(いひ)し者、長塘湖(ちやうとうこ)の堤(つゝみ)を行(ゆき)しに、後(うしろ)より、しきりによぶ聲のおそろしく、身の毛よだちければ、あやしくかへり見るに、容顏(ようがん)たへなる女房、二八(にはち)[やぶちゃん注:十六歳。]あまりにして、靑ききる物を着て、靑き絹がさを、きたり。『いかさまにも變化の物ならん』と、足ばやに逃去(にげさ)りて、猶も、かへり見れば、彼(かの)女房、沼のなかにとび入(いり)て、大きなる河獺となれり。さて、絹がさや、きる物とみしは、蓮(はす)の葉にして、やぶれ散りたると、「太平廣記」にのせたり。これ、獺(をそ)のばけにしためしなれば、太郞も其一門なるべし。太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ」と評せられき。

[やぶちゃん注:「河太郎」=河童も、私はかなりのフリークであるので、諸記事は雌河童にキスされた河童の嘴のように腐るほどある。私の電子化した怪奇談記事で最も古い(私の記事で、である)ものでは、「耳囊 卷之一 河童の事」で(「耳囊」には面白い(前のリンクのそれは残念ながら平凡)河童の話がわんさか載る)、変わり種では老女河童みたような報告である「谷の響 一の卷 四 河媼」(「谷の響(ひびき)」も河童関連が多い)、「怪奇大作戦」じゃないが、水棲人間ばりの「譚海 卷之二 下總國利根川水中に住居せし男の事」、水死体の凄絶リアリズムの「北越奇談 巻之一 河伯」などがある。纏まったものでは、「柴田宵曲 妖異博物館」のそれがよい。柴田も河童フリークで、特異的に実に同書で四章を河童に裂いている。「河童の力」「河童の藥」「河童の執念」「海の河童」で、これを通読すれば、まずは君も即席の河童研究家にはなれよう。他にも私は、芥川龍之介の「河童」のオリジナル・マニアック注釈芥川龍之介「河童」決定稿自筆原稿の電子化本文版火野葦平の単行豪華本「河童曼陀羅」の全電子化注など、数え上げれば、枚挙に暇がない。

「江州野州河(やすがは)」滋賀県を流れる一級河川野洲川。琵琶湖南端に南東方向から流れ込む。琵琶湖へ流入する河川の中では最長の長さを持ち、さても「近江太郎」の通称を持つ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「自らも」問うている話者自身。懐疑主義者であるらしい。勝手に自分で溺れたものと存じますが、と続けている。

「河瀨(かはをそ)」哺乳綱食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon 及び北海道産亜種Lutra lutra whileleyi。前者は昭和二九(一九五四)年頃までに絶滅(推定)後者も、昭和三〇(一九五五)年の捕獲を最後に絶滅(推定)した。河童が「河瀨の劫を經たる」ものが成った(獺を妖獣とする認識自体が古くからあり、棲息域の親和性の強さから、事実、獺変じて河童となるとする伝承は多い)のだとすれば、カワウソをヒトが絶滅させたことが明白な今、河童は、もう、いない。というより、河童を滅ぼしたのもヒトであるということだ。

「河獺は正月に天を祭る事七十二候の一つ」太陽の運行を元にした「二十四節気」(中国の戦国時代に季節のずれる太陰暦とは無関係に、季節を春夏秋冬の四等区分する暦のようなものとして考案された区分手法の一つ。太陽が移動する天球上の道である「黄道(こうどう)」を二十四等分したものである。黄道を「夏至」と「冬至」の「二至」で二等分し、さらに「春分」と「秋分」の「二分」で四等分し、それぞれの中間に「立春」・「立夏」・「立秋」。「立冬」の「四立(しりゅう)」を挟んで「八節」とすると、一節は四十五日となり、これを十五日ずつの三等分にすることで「二十四節気」とした)を、さらに約五日ずつで三等分して時候を表したものを「七十二候」と呼び、それをまた、五日ずつで分けて、「初侯」・「次候」・「末候」としたが、さて、「二十四節気」の第二である「雨水(うすい)」(陽気は地上に発して、雪から雨に変わり、根雪が溶け始めるが原義(実際には未だ積雪の只中であるが、『この時節から寒さも峠を越え、衰退し始める』とする解説が参考にしたウィキの「雨水」にはある。形式上の春の兆しのプレ・ポイントで、古くから農耕の準備を始める目安とされてきた)は正月中(通常は旧暦一月の内。現行では二月十九日頃)に始まり、期間としては次の節気である「啓蟄」前日までに当たる。その「雨水」の「初候」は同ウィキによれば、『土脉潤起(つちのしょう うるおい おこる):雨が降って土が湿り気を含む(日本)』とあり、その下に、古来、中国では『獺祭魚(かわうそ うおを まつる):獺が捕らえた魚を並べて食べる』とされたことを指す。所謂、「獺祭(だっさい)」で、これは寧ろ、人農耕開始の予祝行事として祖霊や神を祀って物を並べ供える様子を、獺が捕らえた魚を川岸に並べて祭りをしている見えたことに逆比喩(多くの解説はその逆を言っているのはヒトより永く生き、ヒトに滅ぼされた獺に対し、頗る失礼であると私は真面目に思うのである)した節気象徴の名である。

「狗(いのこ)」元隣は先行でもこのルビをこの漢字にしていて、厄介だ。「狗」なら「犬」、「いのこ」な「猪」。まあ、ここは獺の大きさと牙がないことから、犬或いは「い」ぬ「のこ」の意で採っておく。

「蝙蝠(かうふり)」「かはほり」「かうほり」が普通。近世初期以前には「こうぶり」とも呼んだようである。本邦で、最も一般的に我々に馴染みのそれは、

脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目小翼手亜(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科 Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属 Pipistrellus 亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus

である。何故なら、日本に棲息する中では唯一の住家性、人の家屋のみを棲み家とするコウモリだからである。私は実際には小学校を卒業して富山の高岡市伏木に移り住んで初めて、夕暮れとともに飛び交うコウモリを初めて見た。それが、彼らであった。

「丁初と云(いひ)し者……」「太平廣記」(小説集。宋の李昉 (りぼう) らの編。全五〇〇巻。九七八年成立)の巻第四百六十八の「水族五」の「丁初」に、

   *

呉郡無錫有上湖大陂、陂吏丁初、天每大雨、輒循堤防。春盛雨、初出行塘、日暮間、顧後有小婦人、上下靑衣、戴靑傘。追後呼、「初掾待我。」初時悵然、意欲留伺之、復疑本不見此、今忽有婦人冒陰雨行、恐必鬼物。初便疾行、顧見婦人、追之亦速。初因急走、去之轉遠。顧視婦人、乃自投陂中、汜然作聲、衣蓋飛散。視是大蒼獺、衣傘皆荷葉也。此獺化爲人形、數媚年少者也。【出「搜神記」。】

   *

とあるが、これはそこにある通り、東晋(三一七年~四二〇年)の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の第十八巻が原典である。丁初は「陂吏」とあるから、堤防を管理する下役人で、「天每大雨、輒循堤防」とある通り、物見遊山で歩いていたのではなく、大雨の際の巡視をしていたのである。

「長塘湖」元隣はこれを湖の固有名のように使用しているが、原文の「上湖大陂」は無錫(むしゃく:現在の江蘇省無錫市)にあった上湖(位置や現在の名称(現存すれば)は不明)という湖の大きな「陂」=「塘」=堤(つつみ)の意である。

「絹がさ」「絹傘」。

「太郞といふは河邊に長(ちやう)じたる稱にこそ」太郎が長男の称であることに掛け、年を経たことを暗示させ、さらに彼らが川辺水中での生活に「長じ」ていた、抜きん出ていたことを添えるものであろう。]

2018/10/18

和漢三才圖會第四十二 原禽類 突厥雀 (サケイ)

Tadori

たとり  鳩 

突厥雀

     【和名多止利】

 

テッキユッツヨッ

 

本綱突厥雀生北方沙漠池大如鴿形似雌雉鼠脚無後

距岐尾羣飛飛則雌前雄後隨其行止此鳥從北來則大

唐當有賊莊周云此鳥愛其子忘其母

按切韻云小鳥似雉蓋突厥者韃靼之名彼地之鳥

 乎然和名抄既載和名則昔有之乎不知

 

 

たどり  鳩〔(たつきゆう)〕

 雉〔(こうち)〕

突厥雀

     【和名、「多止利」。】

 

テッキユッツヨッ

 

「本綱」、突厥雀は北方沙漠の池に生ず。大いさ、鴿〔(はと)〕のごとく、形、雌の雉〔(きじ)〕に似て、鼠〔(ねづみ)〕の脚、後〔(うしろ)の〕距〔(けづめ)〕、無し。岐なる尾。羣飛す。飛ぶときは、則ち、雌は前、雄は後。其の行-止(ふるま)に隨ふ。此の鳥、北より來るときは、則ち、大唐、當に、賊、有るべし〔と〕。莊周、云はく、「此の鳥、其の子を愛して、其の母を忘る」と。

按ずるに、「切韻」に云はく、『は小鳥にして、雉に似たり』〔と〕。蓋し、突厥(とつけつ)とは韃靼〔(だつたん)〕の名なり。彼の地の鳥か。然れども、「和名抄」に既に和名を載するときは、則ち、昔〔(むか)〕し、之れ、有りつるや、知らず。

[やぶちゃん注:中文ウィキを調べると、サケイ(沙鶏)目サケイ科サケイ属サケイ Syrrhaptes paradoxus(漢名「毛腿沙鶏」)の俗名に「沙鶏」「突厥雀」「寇雉」とある。ウィキの「サケイ」によれば、『中国北部から、モンゴル、中央アジアのカスピ海東岸までの内陸に生息する』。『通常は渡りをしないが、個体数が増えたときは』、『遠方まで飛ぶことがあり』、一九〇六年には『ヨーロッパに大群が訪れた。日本では迷鳥で』、十『例ほどの観察記録がある』。全長約三十八センチメートルで、『体は太り気味で』、『足が短い。翼は長く、先がとがっている。顔は澄褐色、体はやや灰色がかっている』。昭和四五(一九七〇)年に『南三陸町で保護され、その数日後に死亡した個体の標本を志津川愛鳥会親交会が所蔵していた。この標本は、山階鳥類研究所への寄贈が決まり』、二〇一一年四月『以降に移動させる予定だったが、東日本大震災で失われた』とある……津波に流された砂漠好きのの沙鷄よ……お前は今、一体……どこを渡っているのだい……

「池」東洋文庫版現代語訳では『地』とあるが、原典及び別版本で「池」とした。

『莊周、云はく、「此の鳥、其の子を愛して、其の母を忘る」と』

「切韻」隋の韻書。全五巻。六〇一年成立。反切(はんせつ:ある漢字の字音を示すのに、別の漢字二字の音を以ってする方法。上の字の頭子音(声母)と下の字の頭子音を除いた部分(韻母)とを合わせて一音を構成するもの。例えば、「東」の子音は「徳紅切」で「徳」の声母[t]と「紅」の韻母[]とによって[toŋ]とする類)によって漢字の音を表わし、百九十三韻を「平声(ひょうしょう)」・「上声(じょうしょう)」・「去声(きょしょう)」。「入声(にっしょう)」の四声に分類した書。陸法言・劉臻(りゅうしん)・顔之推・盧思道・魏彦淵・李若・蕭該・辛徳源・薛道衡(せつどうこう)の九人が、古今各地の韻書について議論した結果を、陸法言が系統的に整理した。原本は早く失われたが、敦煌から一部が発見されている。唐代、他の韻書を圧倒して、詩の押韻の基準に用いられ、その後、王仁昫(おうじんく)の「刊謬補欠切韻」、孫愐(そんめん)の「唐韻」等により増補し、北宋の陳彭年の「広韻」によって集大成された。これらは〈切韻系韻書〉と呼ばれ、中上古の中国語の体系や音韻を推定するための貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここに出るように、辞書としての役割も持つ。

「蓋し」そもそもが。

「突厥(とつけつ)とは韃靼〔(だつたん)〕の名なり」「突厥」は、六世紀中頃から八世紀中頃まで、モンゴル・中央アジアを支配したチュルク族阿史那(あしな)氏の建てた遊牧国家。もとは柔然(じゅうぜん:四~六世紀、モンゴル高原に栄えたモンゴル系遊牧民族及びその国家。族長の社崘(しゃろん)が君主の称号である「可汗」を名乗った五世紀前半が最盛期。北魏と対立し、五五五年に、この突厥に滅ぼされた)の支配下にあったが、阿史那氏に土門(伊利可汗)が出るに及んで、強大となり、鉄勒諸部を従え、柔然から独立した。第三代の木杆可汗(もくかんかがん)に至って、柔然を滅ぼし,契丹・キルギスを破り、また西方ではエフタルをも破った。突厥の国家は中央部を大カガンが支配するほか、多くの小カガンが分立していたが、五八三年、西部を支配した西面可汗達頭は大カガンから独立、突厥は東西に分裂した。東突厥は暫くは強勢を誇ったが、その支配下にあった鉄勒諸部の反乱を受け、六三〇年に唐に帰属して一時消滅し、西突厥も、七世紀末に内紛で滅んだ。東突厥は七世紀末に阿史那骨咄禄(あしなこっとつろく)が出て、復興、自らイルテリシュ・カガンと称した。以後、数代にわたってモンゴルを支配したが、内紛を生じ、七四四年に鉄勒の一部であるウイグルに滅ぼされた(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。一方、「韃靼」は、本来は、モンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称である。タタールは十一~十二世紀に於いて、モンゴリアでは最も有力な集団の一つであり、また、モンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため、宋人はタタールを「韃靼」と呼んだが、それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。十二世紀末から十三世紀初めに、モンゴルにチンギス・ハーンが出現、モンゴル帝国が出現するに及んで、タタール集団の力は衰えた。従って、厳密には「突厥」はイコール「韃靼」であるわけではない

『「和名抄」に既に和名を載する』「和名類聚鈔」には「突厥雀」ではなく、巻第十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に、「鵽鳥」(標題の異名に挙がっている「鵽鳩」の最初の漢字と一致)として、

   *

鵽鳥(タトリ) 陸詞が「切韻」云はく、『鵽』は【「古」「活」の反。和名「多土利」。】、小鳥にして雉に似たり。

  *

とある。「多土利」は古本では「多止利」なので、これである。

「昔〔(むか)〕し、之れ、有りつるや、知らず」「昔からこの鳥は本邦に(「和名類聚鈔」が載せる以上は、そう理解するのがまずは自然)いた(と考えられていた)のであろうか。よく判らない」の意。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 紅雀 (ベニスズメ)

Benisuzume

べにすゝめ

 

紅雀

 

紅雀狀小於雀全身嘴脚皆紅而頭頸與腹畧黑翅羽亦

黑而有白點尾亦深黑其聲清而幽艷近世自外國來畜

之以爲奇而難育雌雄於樊中爲孕生卵亦一異也

白雀 本綱云有白雀緯書以爲瑞應所感

日本紀孝德天皇時白雀見田庄又自大唐使者持

 三足烏來又於麻山獲白雉獻之皆休祥也仍年號改

 爲白雉元年蓋白雀今不爲奇珍然純白者稀也柹白

 斑者間有之而畜之不時眩暈卒倒焉如人之癲癇然

 蓋白雀乃病乎

 墨客揮犀云雀出殼未羽時以蜜和飯飼之爲白雀

 

 

べにすゞめ

 

紅雀

 

紅雀、狀、雀より小さし。全身・嘴・脚、皆、紅にして、頭、頸と腹と、畧ぼ黑く、翅羽も亦、黑くして、白點、有り。尾も亦、深き黑。其の聲、清くして幽艷〔なり〕。近世、外國より來りて、之れを畜〔(か)〕ひ、以つて奇と爲す。而れども、育ち難〔(にく)〕し。雌雄、樊〔(かご)の〕中に於いて孕〔(はら)み〕を爲して、卵を生むも亦、一異なり。

白雀 「本綱」に云はく、『白雀、有り。緯書(いしよ)に「以つて瑞應を感ずる所なり」と爲す』と。

按ずるに、「日本紀」に、孝德天皇の時、白雀、田庄に見る。又、大唐より、使者、三足の烏〔(からす)〕を持ちて來れり。又、麻山〔(をのやま)〕に於いて白雉〔(しろきじ)〕を獲りて、之れを獻ずれば、皆、休祥(よきさが)なり。仍(より)て年號を改め、「白雉元年」と爲す。蓋し、白雀、今、奇珍と爲(せ)ず。然れども、純白なる者、稀なり。柹〔(かき)〕・白斑〔(まだら)〕の者、間(まゝ)、之れ、有り。而れども、之れを畜(か)ふに不時〔(ふじ)〕に、眩暈(げんうん)卒倒す。人の癲癇〔(てんかん)〕のごとく、然り。蓋し、白雀は、乃〔(すなは)〕ち、病ひか。

 「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」に云はく、『雀、殼(から)を出でて、未だ、羽〔(はね)〕あらざる時、蜜を以つて飯〔(めし)〕に和〔(あへ)〕て之れを飼へば、白雀と爲る』〔と〕。

[やぶちゃん注:残念なことに、私は見たことがないが、かなり鮮やかな紅色と独特の斑模様を有する(これ。ウィキの「ベニスズメ」のもの)、スズメ目カエデチョウ科ベニスズメ属ベニスズメ Amandava amandava である。ウィキの「ベニスズメ」によれば、『広大な範囲に分布する汎存種で、北アフリカから中東を経てインド、中国南部を含む東南アジア全域にまで及んでいる』。『日本ではかご抜けした個体が野生化したものが定着している。日本以外にイベリア半島、フィリピン、ブルネイ、フィジー、プエルトリコ、およびハワイ諸島に移入され』、『定着している』とある。『メジロより一回り小さい。おそらく日本で流通している』、洋鳥としてのフィンチ(finch)類(外国産ベニスズメ・キンカチョウなどの小鳥類の総称)『のなかで最小と思われる』。『雌雄で体色が異なり、オスの生殖羽は頭部と胸腹面が鮮やかな鮮紅色で、背中から翼にかけては暗赤色。翼と尾は暗褐色で、体側から翼にかけて円形の白い点紋がある。ただし』、『このオスの生殖羽の鮮やかな赤い色彩は、飼育下においては年月を経る毎に黒化する傾向がある。繁殖期のオスは複雑な美しい声でよくさえずる』。『若鳥とメスは背面が暗褐色、胸腹面はクリーム色に近く、腰から上尾筒にかけて紅色がさす。雌雄ともに目からクチバシにかけて黒線がよぎり、クチバシは暗赤色、脚は黄紅色である』。『非繁殖期のオスは特徴的な鮮紅色が色褪せ』、『くすんだ感じになるので、販売されている個体には人工的に赤い着色を施したものが』、『時おり』、『見られる。オスだけでなく、メスや若鳥にも紅や緑といった無関係な人工着色を施すこともある』。『原産地では草原や水田が主な住みかであるが、日本で野生化したものは』、『主に河川敷のアシ原を』棲み家と『する留鳥である。原産地では雨季が繁殖期だが、飼育下においてはエサが足りていれば』、『いつでも繁殖する』。『日本において野生化した個体は、春から秋にかけ』て、『ススキやチガヤといった丈の高い草に営巣し』、『繁殖する。成鳥は単子葉植物の種子を主食とするが、繁殖期には昆虫を捕らえてヒナに与える。また冬には大群を形成する』。姿や鳴き声が美しいことから、十八世紀(一七〇一年は元禄十四年、一八〇〇年は寛政十二年)から、輸入されて飼われてきたとある。『日本で野外における繁殖が確認されたのは高度経済成長がはじまった』一九六〇年『頃からで』、一九七〇年代から一九八〇年代『頃には日本各地で繁殖が確認されたが、近年は激減したようである』。『野生では熱帯にしか分布しないが、寒さに対しても強いので』、『飼いやすい鳥である。なお』、『飼育下での繁殖が難しいのと、原産地で穀物害鳥として駆除されていることもあり、鳥インフルエンザで鳥類の生体輸入が原則禁止される以前は、日本で流通している個体はほぼ全て野生個体を捕獲したものであった』。『エサはブンチョウ、ジュウシマツに用いる四種混合でもよいが、アワ以外はあまり食べないので、アワをかなり多めに入れるとよい』。『つがいで飼うと』、『頻繁に産卵するが、抱卵期にメスが非常に神経質になり』、『オスを追い立てるので、狭いかごでの』巣引き(累代飼育のこと)は、『まず間違いなく』、『失敗する。ジュウシマツを仮親とする方法も』、『ヒナの口が小さすぎて』、『給餌がうまくゆかず』、『無理で、ケージでの巣引きも』、『育雛期にはヒナの小さな口に合う昆虫といった生餌や、強いすり餌を必要とするため』、『エサの選択に神経を使う。アワなどの背の高いイネ科植物を植えた屋外の禽舎の中で飼育するのが、自ら植物を利用して巣づくりをし、生餌も禽舎の中で自然発生したものを利用できるので、繁殖環境としては最も望ましい。いずれにしても』、『巣引きが難しい鳥である』。『かつては多くの個体が大量かつ安価に輸入・流通していたが、鳥インフルエンザの影響を受け東南アジアからの野鳥の輸入が途絶えたため、他のアジアンフィンチ同様』、『現在』、『ほとんど見ることができない。ヨーロッパでは飼い鳥として累代飼育もされているが、ヨーロッパの多くの国からも鳥の生体輸入が禁止されているため、近年』、『ペットショップなどで稀に売り出されるのは生体輸入が禁止されていないスペインもしくはベルギーで累代飼育された個体にほぼ限られており、価格も』『高級フィンチすら超える高価な飼い鳥になっている』とある。

「雌雄、樊〔(かご)の〕中に於いて孕〔(はら)み〕を爲して、卵を生むも亦、一異なり」当時、あらゆる鳥籠で飼育をした鳥好きの趣味人は、実は類題飼育を試みる者が殆どいなかったことを物語る感想と言える。

「白雀」ここに入れるべきではあるまい。スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus(本邦のそれは亜種スズメPasser montanus saturatus)やスズメ属ニュウナイスズメ Passer rutilans、或いは、スズメに似た形・色・大きさ及び生態を持った小鳥類のアルビノ(albino)である。動物学上は、メラニン (melanin:体表に存在する黒褐色又は黒色の色素で、哺乳類・鳥類・節足動物ではクチクラ層の内部に浸潤している)の生合成に関わる遺伝情報の欠損により、先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患がある個体を指す。良安の最後の「蓋し、白雀は、乃〔(すなは)〕ち、病ひか」は正しいわけであるが、って言うか! 良安はここから後半全部を、本邦に於ける鳥類のアルビノ個体の解説に変質させてしまっている! これは、掟破りでっショウ! 先生!

「緯書」中国古代の聖賢の教えを述べた儒教経典である「四書」・「五経」・「十三経」(「易経」・「書経」・「詩経」/「礼記」「周礼」・「儀礼」/「春秋左氏伝」・「春秋公羊伝」・「春秋穀梁伝」/「論語」・「孝経」・「爾雅」・「孟子」)を経書(けいしょ)と呼ぶのに対するもので、本来は経書を説明するために作られた解釈書類を指すのであるが、その内容は経書の内容に附会させた、かなり怪しげな吉凶禍福や未来に対する予言の類いが頗る多い。前漢末から流行し、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」「楽記」「孝経」に各一緯があり、それらを合せて「七緯」と称するものの、現在に伝わるものは、総て、完本ではない。

「瑞應を感ずる所なり」吉兆であることを現わす目出度い証しである。

『「日本紀」に、孝德天皇の時、白雀、田庄に見る……』先行する原禽類 白雉(しらきじ)の本文及び私の注を参照。白雉元(六五〇)年(事実は大化六(六五〇)年)二月の条(但し、改元は大化六年二月十五日(ユリウス暦六五〇年三月二十二日)である)に(下線太字やぶちゃん)、

   *

二月庚午朔戊寅。穴戸國司草壁連醜經、献白雉曰。國造首之同族贄。正月九日、於麻山獲焉。於是問諸百済君。百濟君曰。後漢明帝永平十一年。白雉在所見焉、云云。又問沙門等。沙門對曰。耳所未聞。目所未覩。宜赦天下、使悦民心。道登法師曰。昔高麗欲營伽藍。無地不覽。便於一所白鹿徐行。遂於此地營造伽藍。名白鹿薗寺。住持佛法。又白雀見于一寺田庄。國人僉曰。休祥。

   *

と出る。「田庄」(でんしょう)は荘園の異名。

「大唐より、使者、三足の烏〔(からす)〕を持ちて來れり」上の引用に続いて、

   *

又遣大唐使者。持死三足烏來。國人亦曰。休祥。斯等雖微。尚謂祥物。況復白雉。

   *

とある。

「麻山」東洋文庫版割注に『山口県美彌郡か』とある。現在の山口県美祢市附近。(グーグル・マップ・データ)。

「休祥(よきさが)」「休」には「良い」の意がある。「さが」は「性(さが)」と同源で、良い兆し。吉兆の意である。

「不時に」思いがけないさま。

「眩暈(げんうん)」めまい。

「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」宋の彭乗撰になる詩話や遺聞を載せたもの。全十巻。巻二に、

   *

雀有色純白者有。尾白者搆巢人家多爲祥瑞、余曾見賃藥老人育白雀數枚、問何從得之、荅云雀方出殻未羽時以蜜和飯飼之乃然。

   *

とある。]

古今百物語評判卷之四 第一 攝州稻野小笹附呉隱之が事

 

 百物語評判卷之四

 

  第一 攝州稻野小笹(いなのおざゝ)呉隱之が事

某(それがし)たづね侍るは、「攝州伊丹(いたみ)と神崎(かんざき)とのあはいの、いなのと申す處に、方(はう)四、五間[やぶちゃん注:約七~九メートル四方。]なる笹原あり。是れ、和歌に詠ぜし『いなのさゝ原』の名殘(なごり)なるよしにて、其所の者、まうせしは、『たとへば、誰(たれ)にてものあれ、その竹をきりとる者候へば、たちまち、狂氣になりし事、數をしらず。其故、たゞ今は、其まはりに堀をほりをきて[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、人のよらぬやうにいたし置きつ。「これ、『いでそよ』の歌、名歌なる故にや」と、人々、申しき』と、かたり侍る。此事、先年、有馬へ湯治仕りし時、うけ給はり候(さふらふ)て、今に不審に存じ候ふが、いかなる事にて候ふや」と問(とひ)ければ、先生のいへらく、「それがしも過(すぎ)にし比(ころ)、其所を通りしに、皆人、さやうに申(まうし)き。樣子をくはしく尋(たづぬ)れば、此地、むかし、『いなの寺(でら)』と申(まうす)古跡のよしにて候へば、伊丹はことに近き比まで、荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)、戰場となりし故、何とぞ、其さくの邊(へん)に剛(がうきやう)なる侍の墓など候ゆへ、その氣、殘りて、不思議をなし候が、又、其邊に歸る狐など、住(すま)ゐして、かく、人をおそふなるべし。又は、何事もなき事なるを、古跡なれば、その竹をたやさじとて、かしこき人の申(まうし)をきしを、愚(おろか)なる土民などの折りたる時、かたへより、皆人、寄會(よりあひ)て、『汝、かのさゝをおりたるや、すは、狂氣ならん』などいはむ時に、もとより、おろかなる心ゆへ、自(おのづか)ら、其詞(ことば)にひかされて、血あがり、氣くるふ事、あるべし。たゞしき人の、いらで叶はぬときに折りとらんに、何の子細か候ふべき。もろこしにも、是に似たる事のあり。荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。「貪」には「タン」の音もある。])といふ水あり。此水をのめば、必ず、人毎(ごと)に、むさぼる心出來(いでき)て、慾心、ふかふなるよし、いひしかば、呉隱之といふ賢人、こゝろみに吞みしに、いよいよ心淸かりけり、とみえたり。『いなのお笹』もさる事にや侍らん」と評せられき。

[やぶちゃん注:「攝州伊丹稻野小笹」山本俊夫氏のブログ「我が町伊丹.jp」の「27 猪名野笹原」(地図有り)によれば、現在の伊丹市東有岡五丁目にある「東洋リノリューム株式会社」敷地内附近に比定される「猪名野笹原(いなののささはら)」である。山本氏が「説明プレート」を電子化されておられるので、以下に引用させて戴く(一部の表記の誤りとしか思えない部分については、bittercup氏のサイト「摂津名所図会」のこちら(後に出す「摂津名所図会」の「いなのさゝはら」の絵図のトリミング彩色画像もある)で電子化されている本文と校合して訂し、一部の行空けを省略、最後のクレジット以下は上に引き上げて示した)。

   《引用開始》

猪名野笹原旧蹟

 

   有馬山 ゐなの笹原風吹けば

    いでそよ人を忘れやはする

        小倉百人一首 大貳三位

 

   しなが鳥 猪名野を来れば有馬山

    夕霧たちぬ 宿りはなくて

        万葉集 巻七

 

万葉の時代からこの地一帯は猪名野と呼ばれ、笹の原野が拡がり、風にそよぐ笹原の風情は古くから旅人の詩情をかもしていたとみえ、数多くの古歌が残されています。

その後、荒涼とした笹の原野が次第に開墾されていく中で、一画の笹原が残され、人びとに猪名の笹原の旧蹟として伝えられてきたようで、正保二年(西暦1645年)頃の摂津国絵図の中にこの地が「いなの小笹」と記され、寛政十年(西暦1798年)頃の摂津名所図会には「猪名笹原」とあります。(図の左半分に小さく示されています)

今この庭にある笹は、学名ネザサと呼ばれ、植物学者室井 綽氏の御説により往時の笹を偲ぶよすがとして弊社が植付けたものです。

左側に植えられた笹は学名オカメザサと呼ばれるものです。有馬山の歌の笹をオカメザサとする学者もおられますので、御参考のため、併せて植えることにいたしました。

ところで、当地には明治二十四年から大正八年まで、綿糸に稲わら繊維を用い経糸に綿糸を用いた平敷織物である由多加織の工場がありましたが、現在ではこれを継承進展した東洋リノリューム株式会社が操業いたしております。

敷地の中には猪名の笹原に祭られていたお社を継承したといわれる笹原稲荷や(黄)金塚があり、弊社によって保存されています。

 平成元年121日 創業70周年記念日 造園

        東洋リノリューム株式会社

   《引用終了》

・本文でも「『いでそよ』の歌」と指し、ここで最初に掲げられている一首は「小倉百人一首」の五十八番歌で、出典は「後拾遺和歌集」巻十二 恋」(七〇九番)。

   かれがれになる男(をとこ)の、

   「おぼつかなく」などいひたるに

   よめる

 有馬山猪名(ゐな)の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

作者大貳三位(だいにのさんみ)は紫式部と藤原宣孝(婚姻後三年で死去)の娘である藤原賢子(かたいこ 長保元(九九九)年頃~永保二(一〇八二)年頃)。

・二首目は「万葉集」巻第七の「攝津((つのくに)にして作れる歌」(よみびと知らず)の冒頭の一首、

 しなが鳥猪名野を來れば有馬山夕霧たちぬ宿(やどり)はなくて

「しなが鳥」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis の古名かとされる。雌雄連れる相愛の鳥とされた。

・「摂津名所図会」「猪名笹原」は(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)。電子化しておく。

   *

猪名笹原 昆陽寺(こやでら)の東、田圃(でんぽ)の中にあり。此(この)小篠[やぶちゃん注:「篠」はママ。後も同じ。](をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす。或人曰く、此篠(をざゝ)はむかし佐藤繼信(つぐのぶ)箆竹(のだけ)をこゝに立て置きしが、枝葉(しえふ)繁茂すとなり。此人の苗孫(べうそん)今に昆陽村にあり。

   *

ここに出る「佐藤繼信」(保元三(一一五八)年~文治元(一一八五)年)は義経の忠臣として知られる武士。陸奥湯の荘司元治の子で、狐忠信の伝承で知られる彼の兄。源義経が藤原秀衡のもとにいた頃から弟忠信とともに義経に仕え、鎌田盛政・光政とともに「四天王」と称された。「屋島の戦い」で義経を庇って、平教経の矢面(やおもて)に立ち、討死にした。「箆竹(のだけ)」は「矢竹」、タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica のこと。茎の節と節との間が長いことから、古くから良質の矢柄として利用された。

 但し、先行する別項に「猪名笹原」の項もあり(電子化する)、

   *

猪名笹原(いなのさゝはら) 伊丹の南、街道の東に、方三間許の篠原あり。舊蹟の印に遺せしものならん。猪名野笹原、猪名野の惣號なり。

   *

とあり(ここ(同前))、絵図も附す()。位置的には、この後者の方がより現在位置にはしっくりくる。位置的には昆陽寺の東ではあるが、「摂津名所図会」の筆者が確信犯で別々に挙げている以上は、二つあると考えねばならぬ。結界とされる神聖性からは前者であるが、現行の比定地との関係と古跡として指示されてあるという点では、圧倒的に後者の方が自然である。

・「メザサ」は単子葉植物綱タケ亜科メダケ属アズマネザサ変種ネザサ Pleioblastus chino var. viridis。植物学的にはKatou氏のサイト「三河の植物観察」の「ネザサ」に詳しい。

・「オカメザサ」はタケ亜科オカメザサ属オカメザサ Shibataea kumasacaウィキの「オカメザサ」によれば、『日本原産であるが、野生種の発見は難しい。各地で栽培されている』とある。写真は、よしゆき氏のサイト「松江の花図鑑」の「オカメザサ」がよい。

「呉隱之」(?~四一三年)は東晋(三一七年~四二〇年)の名臣。永一直人氏の中国史愛好サイト「枕流亭」の「中国史人物事典」のこちらによれば、『字は処黙。濮陽郡鄄城の人。容姿が美しく、談論をよくし、文史に通じ、清廉で孝行なことで名声があった。韓康伯に引き立てられて、輔国功曹に任ぜられ、参征虜軍事に転じた。桓温に賞されて晋陵太守に累進し、中書侍郎・御史中丞・著作郎に上った。元興元』(四〇二)年、『広州刺史に任ぜられた。赴任途中に貪泉を過ぎ、そこで水を飲み、詩を賦して志を明らかにした。それが「酌貪泉賦詩」である。州にあってもますます清廉で、時弊を改めるのに力を尽くした』。同三年には、『盧循が広州を攻めたが、百日にわたって守り通した。城が破れて捕らえられたが、のちに釈放された。京師にもどって、度支尚書となり、中領軍に進んだ』とある。

「神崎」位置的に見て、伊丹の南東四キロ半ほどの位置にある現在の兵庫県尼崎市神崎町附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いなの寺(でら)」「摂津名所図会」のこちら(同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に(視認電子化)、

   *

猪名寺(ゐなでら) 猪名寺村にあり。法園寺(ほふをんじ)といふ。古(いにしへ)は伽藍巍々たり。今(いま)古礎(こそ)あり。其中に方一間(けん)餘(あまり)の石あり。土人云ふ、大塔の礎(いしづゑ)なりとぞ。

 本尊藥師佛 行基の作。座像。長(たけ)二尺。初(はじめ)法道仙人大化年中に開創し、其後(そのゝち)行基こゝに止住(しぜう)して、諸堂莊麗たり。天正の荒木が兵火に罹(かゝ)りて灰燼(くわいじん)となり。今(いま)小堂一宇に天王祠(てんわうのほこら)あり。これを生土神(うぶすな)とす。

   *

ここに出る「法道」は本邦に伝わる伝説上の仙人僧天竺(インド)に生まれたが、紫雲にのって唐・百済を経て、日本に渡来し、播磨の法華山に棲んで、「法華経」を読誦し、密教の灌頂を修し、十一面観音信仰を伝え、孝徳天皇の病気を治したとされる。また、「飛鉢(ひばち)の法」を駆使して供物を集めたことから「空鉢(からはち)仙人」とも呼ばれた。さても、この寺、現在、真言宗猪名野山法園寺として、兵庫県尼崎市猪名寺にある。ウィキの「法園寺(尼崎市猪名寺)」によれば、『本尊は秘仏・薬師如来像で、平安時代後期の作』。『寺伝によると』、大化元(六四五)年、『インドの僧・法道が開創』、天平一三(七四一)年に『行基が中興し、孝徳天皇が七堂伽藍三廊四門を建立し』、『寺領八百八町を下賜したと伝えられる』。元亨元(一三二一)年の「元弘の乱」では『兵火に遭い、寺領・伽藍を失うも』、『再興』した。しかし、天正六(一五七七)年の『荒木村重と織田信長の戦いで』『完全に焼失した。その後、本尊が池から発見され』、宝暦七(一七五六)年、『小堂を再興、翌年』、本堂が建立されているとあるから、「摂津名所図会」のなんとなく侘しいそれは、これであることが判る。その後、明治六(一八七三)年、『無住のため』、『廃寺とな』ったが、明治十一年、『檀家の努力で再興された』とある。なお、『上記の寺伝や』「摂陽群談」によれば、『北隣にあったとされる大寺院・猪名寺と同一であったと思われる記述も見られる』ともある。

「荒木一亂(いちらん)の刻(きざ)み」「刻み」は「折り」。荒木村重(天文四(一五三〇五)年~天正一四(一五八六)年:利休七哲の一人で摂津伊丹(有岡)城主。池田氏から三好氏に属し、天正元(一五七三)年に織田信長に仕えた。同二年に伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めた。しかし、同六年、突如、信長に叛き、攻められ、翌年、居城を逃れて毛利氏を頼った。後、剃髪して道薫・道董を号し、豊臣秀吉に茶人として仕えて、おぞましくも命脈を保った)が信長に謀反を起こしたことに端を発する、「有岡城の戦い」。天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日まで続いた籠城戦。城に残った荒木一族と重臣や家臣の妻子他、実に約六百七十名が凄惨に処刑されたことでも知られる。

「其邊に歸る狐」やや不自然。「人をおそふ」とあるから、「その辺り」を永(なが)の棲み家として「帰る」、年経る妖「狐」、の意で採っておく。

「たやさじ」「やさじ」。先の「摂津名所図会」の「猪名笹原」に「此小篠(をざゝ)を每歳正月元旦に、開山行基像開扉(かいひ)の用具とす」とあるのには、これは、よく適合する解釈である。

「いらで叶はぬときに」「要(い)らで」は」「叶はぬ時に」で、無くては済まされぬ、どうしても必要な折りに。

「何の子細か候ふべき」反語。何の差し障りなど、あろうはずが、ない。

「荊州(けいしう)に貪泉(たんせん[やぶちゃん注:ママ。])といふ水あり。……」「晉書」巻九十の「良吏傳」の「呉隱之傳」に、

   *

廣州包帶山海、珍異所出、一篋之寶、可資數世、然多瘴疫、人情憚焉。唯貧窶不能自立者、求補長史、故前後刺史皆多黷貨。朝廷欲革嶺南之弊、隆安中、以隱之爲龍驤將軍、廣州刺史、假節、領平越中郎將。未至州二十里、地名石門、有水曰貪泉、飮者懷無厭之欲。隱之既至、語其親人曰、「不見可欲、使心不亂。越嶺喪淸、吾知之矣。」。乃至泉所、酌而飮之、因賦詩曰、「古人云此水、一歃懷千金。試使夷齊飮、終當不易心。」。及在州、淸操踰厲、常食不過菜及乾魚而已、帷帳器服皆付外庫、時人頗謂其矯、然亦終始不易。帳下人進魚、每剔去骨存肉、隱之覺其用意、罰而黜焉。元興初、詔曰、「夫孝行篤於閨門、淸節厲乎風霜、實立人之所難、而君子之美致也。龍驤將軍、廣州刺史呉隱之孝友過人、祿均九族、菲己潔素、儉愈魚飧。夫處可欲之地、而能不改其操、饗惟錯之富、而家人不易其服、革奢務嗇、南域改觀、朕有嘉焉。可進號前將軍、賜錢五十萬、穀千斛。」。

   *

とあり、他の中文サイトの異なる書物のそれを調べても、皆、「廣州」であるから、「荊州」は元隣の誤認であろう。全文は気が重いので、太字部分だけを力技で訓読してみる。

   *

 未だ州に至らざること、二十里、地、ありて、「石門」と名づく。水、有りて、「貪泉(たんせん)」と曰ふ。飮む者は無厭(むえん)[やぶちゃん注:飽きることがない。]の欲(よく)を懷くとす。隱之、既に至りて、其の親しき人[やぶちゃん注:同行の付き人であろう。]に語りて曰はく、「欲せんとすべきものを見ざれば、心をして亂らざらしめん。『嶺を越さば、淸を喪ふ』とは、吾も之を知れり。」と。乃(すなは)ち、泉所に至り、酌みて之れを飮み、因りて、詩を賦して曰はく、

 古人云ふ 『此の水

 一(ひと)たび歃(すす)らば 千金を懷(いだ)く』と

 試みに 夷(い)・齊(せい)に飮ましむるとも

 終(つゐ)に當(まさ)に 心(こころ)易(か)はらざるべし

と。

   *

「夷・齊」は言わずもがな、「史記」列伝の巻頭を飾る、殷末の孤竹国の王子にして高名な礼節の隠者兄弟、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)のこと。]

古今百物語評判卷之三 第八 徒然草猫またよやの事附觀敎法印の事 / 古今百物語評判卷之三~了

 

 

 

  第八 「徒然草」『猫またよや』の事觀敎(くわんげう)法印の事

 

かたへの人の云はく、「『徒然草』に『ねこまた』といふ物あるよし、しるされたり。其外、此比(このごろ)にいたり、『彼(かし)こにもばけたり』『爰(ここ)にもおそろしき事ありし』など、風說、おほし。猫の化(ばく)る事の候ふやらん、不審(いぶかし)」と云ひければ、先生、いへらく、「古(いにしへ)は『ねこまた』と云へり。『ねこ』と云へるは、下を略し、『こま』と云へるは、上を略したるなるべし。『ねこまた』とは其(その)經(へ)あがりたる名なり。陰獸にして、虎と類せり。其故に『手飼(てがひ)のとら』などゝも云(いへ)り。唐土(もろこし)にても、猫のばけて、其主人を殺せし事、多くしるせり。其(その)むまれつきを見るに、智あるにもあらず、德あるにもあらず、其さま、膝にふし、はだへに馴れ、身を人にまかすか、と思へば、よぶ時は心よく來らず、繩(つな[やぶちゃん注:ルビはママ。])を以て引(ひく)時は、必ず、しりぞく。あながち、人にさかふとにもあらざめれど、自ら、ひがみ疑ふ心あり。女の性(しやう)に似たり。宜(むべ)なる哉(かな)、化(ばけ)て老女と成(なり)て人をたぶらかすと云(いへ)る事、猶、其肉の能(のう)は狸(たぬき)と通用せり。瞳の、十二時にかはりて、大小あるも、氣味わろし。況や、身の後(のち)だに皮(かは)の聲(こゑ)すらも、雅樂(たゞしきがく)をみだる調子あり。心すべき物にこそ。其うへ、常の猫にてさへ、鼠をとらしめむ爲に畜(か)ひをけども[やぶちゃん注:ママ。]、又、鼠より、さまたげある事、多し。たゞ飼はざらんにはしかじ。且、又、「著聞集」に、觀敎法印、嵯峨の山庄(さんしやう)にて、から猫を飼ひしに、よく、玉(たま)を取りければ、祕藏の守刀(まもりがたな)を取出(とりいだし)て玉にとらせけるに、件(くだん)の刀をくはへて、何地(いづち)やらん、逃げ失せぬ。人々、尋求(たづねもとむ)れども、行きがた、知られずなりにき。此れ、『猫魔の變化(へんげ)なり』と、人々、沙汰し侍り、としるせり。兎角、怖しき物にこそ」。

[やぶちゃん注:『「徒然草」『猫またよや』の事』知られ過ぎた「徒然草」の第八十九段。

   *

 「奧山に、猫またといふものありて、人を食(くら)ふなる。」

と、人の言ひけるに、

「山ならねども、これらにも、猫の經(へ)あがりて、猫またになりて、人とる事はあなるものを。」

と言ふ者ありけるを、何(なに)阿彌陀佛とかや、連歌しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)の邊(へん)にありけるが、聞きて、

『ひとり步かん身は、心すべきことにこそ。』

と思ひけるころしも、ある所にて、夜(よ)ふくるまで連歌して、ただひとり、歸りけるに、小川(こがは)の端(はた)にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へ、ふと寄り來て、やがて[やぶちゃん注:いきなり。]、かきつくままに、頸(くび)のほどを、食はんとす。膽心(きもこころ)も失せて、防がんとするに、力もなく、足も立たず、小川へ轉び入りて、

「助けよや、猫また、よやよや[やぶちゃん注:感動詞。強く呼びかける際に発する語。「おおい! おおい!」]。」

と叫べば、家々より、松どもともして、走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。

「かは如何に。」

とて、川の中より抱(いだ)き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など、懷に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有(けう)にして助かりたるさまにて、はふはふ[やぶちゃん注:這うようにして。]、家に入りにけり。

 飼ひける犬の、暗けれど主(ぬし)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

   *

因みに、私はこれを中学二年の国語の授業で読まされたのを覚えている。その時、この糞擬似怪談を書いて悦に入っている兼好という男は、つくづくつまらぬ男だな、と思ったことを思い出す。私は第七段の「あだし野の露」の絶対無常観の辛気臭い表明(しかし兼好はそんなこと微塵も信じていなかったことは請け合う)や、百三十七段の「花は盛りに」の「大路みたるこそ、祭見たるにてはあれ」に例外的にシンパシーを持った以外には、糞知れ顔のそれを、笑ったことも、感心したこともない。寧ろ、同じ頃に、手にした芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中に、

   *

       つれづれ草

 わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでしせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛讀したことはない。正直な所を白狀すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中學程度の敎科書に便利であることは認めるにもしろ。

   *

を読んで、快哉を叫んだものだった。当時の私は既にフロイトの「精神分析学入門」や「夢判断」を耽読しており、こうしたあまりに単純な心理錯誤は、既にして、退屈の極みだったのである。

「猫又」については藤原定家の日記「明月記」の天福元(一二三三)年八月二日の条にも以下のように出る(国立国会図書館デジタルコレクションの「明月記」(版本)の画像のここを視認して起した)。

   *

夜前、自南京方來使者小童云、當時南都云猫跨獸出來、一夜噉七八人、死者多、或又打殺件獸、目如猫、其體如犬長云々。

(夜前、南京の方より、使者の小童、來たりて云ふ、「當時、南都に、猫跨(ねこまた)と云ふ獸(けもの)出で來て、一夜に、七、八人を噉(くら)ひ、死する者、多し、或るは又、件(くだん)の獸を打ち殺すに、目は猫のごとく、其の體は犬の長(たけ)のごとし」と云々。)

   *

「『ねこ』と云へるは、下を略し、『こま』と云へるは、上を略したるなるべし」源順の「和名類聚鈔」には「猫(ネコマ)」「祢古萬」とし、ネコの古名として掲げる。「こま」は小学館「日本国語大辞典」に、猫の『古名「ねこま」の略』とし、さらに、『猫の愛称としても用いられた』とする。また、千葉県の方言として『飼い猫につける』通用『名』ともある。ウィキの「猫又」も引いておこう。『猫又、猫股(ねこまた)は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの』二種がある。『中国では』、『日本より古く』、隋代には『「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては』先に示した定家の「明月記」の記事『が、猫又が文献上に登場した初出とされており、猫又は山中の獣として語られていた』。但し、以上の「明月記」の猫又の形態は、果たして猫の『化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという』記述も別にあることから、『狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』という。『江戸時代の怪談集である「宿直草」や「曽呂利物語」でも、『猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり』(私の「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」を参照。後者は、その私の注で先行する類話として指示した「曾呂里物語」の巻三の五「ねこまたの事」である)、『民間伝承においても山間部の猫又の話は多い』。『山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり』、貞享二(一六八五)年の「新著聞集」で『紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり』、安永四(一七七五)年の「倭訓栞(わくんのしおり)」では、『猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている』文化六(一八〇九)年の「寓意草」で『犬をくわえていたという猫又は』全長九尺五寸(約二・八メートル)とする。『越中国』『で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津』『で猫又が人間に化けて人をたぶらかしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もある』。『猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている』。『江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった』。『江戸中期の有職家・伊勢貞丈による』「安斎随筆」には『「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる。また』、『江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでも』、『こうしたネコの怪異が報じられていた』。『一般に、猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もある』。『老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり』、『分かれているように見えることが由来との説もある』。『ネコはその眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと』七『代までたたられるなどと恐れられており、そうした俗信が背景となって』、『猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。『また、ネコと死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある』。『また、日本のネコの妖怪として知られているものに化け猫があるが、猫又もネコが化けた妖怪に違いないため、猫又と化け猫はしばしば混同される』。『江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている』。元文二(一七三七)年刊の「百怪図巻」など『では、人間女性の身なりをした猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている』、『もしくは一種の皮肉などと解釈されている』。『芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある』。また、安永五(一七七六)年刊の鳥山石燕の「画図百鬼夜行」では(リンク先に画像有り)、『向かって左に障子から顔を出したネコ、向かって右には頭に手ぬぐいを乗せて縁側に手をついたネコ、中央には同じく手ぬぐいをかぶって』二『本脚で立ったネコが描かれており、それぞれ、普通のネコ、年季がたりないために』二『本脚で立つことが困難なネコ、さらに年を経て完全に』二『本脚で立つことのできたネコとして、普通のネコが年とともに猫又へ変化していく過程を描いたとものとも見られている』とある。

「『ねこまた』とは其(その)經(へ)あがりたる名なり」猫が年経て、妖獣となったとするものの名。

「唐土(もろこし)にても、猫のばけて、其主人を殺せし事、多くしるせり」確かにあると思うし、読んだ記憶あるが、即座にこれと示せない。思い出したら、追記する。まんず、私の「柴田宵曲 妖異博物館 ものいふ猫」でもお茶濁しにリンクさせておこう。やや不満ながら、清初の文人褚人穫(ちょじんかく)の随筆「堅瓠集(けんこしゅう)」に載る、それぞれ男に雌のそれが、女に雄のそれが憑いた場合は助からぬとある、浙江省金華(ハムで有名なあそこ)地方の妖猫怪「金華貓(きんかびょう)」は一つ、候補か。

   *

 金華貓精

聽、金華貓、畜之三年後、每於中宵、蹲踞屋土、伸口對月、吸其精華。久而成怪、入深山幽谷、朝伏匿、暮出魅人、逢婦則變美男、逢男則變美女。每至人家、先溺於水中[やぶちゃん注:小便をし。]、人飮之、則莫見其形。凡遇怪者、來時如人、日久成疾。夜以靑衣覆被土、遲明視之、若有毛、必潛約獵徒。牽數大至家捕貓、剝皮炙肉。以食病者方愈。若男病而獲雄、女病而獲雌、則不治矣。府庠張廣文有女、年十八、殊色也。爲怪所侵、發盡落、後捕雄貓始瘳。

   *

Masahiro Aibaraサイト「幻想世界神話辞典に最後の部分を除いて、訳が載る。

「其肉の能(のう)は狸(たぬき)と通用せり」薬餌としての漢方の公的なそれはよく判らぬが、ウィキの「猫食文化」によれば、『中国の両広(広東省および広西チワン族自治区)とベトナム北部では、冬にネコの肉を食べると身体が温まると考える人々がおり、特に高齢者の間で』猫食は『多い』。『中国では年に』四百『万匹の猫が食べられており、猫の消費は増加傾向にある』。『食べられる部位は胃腸とモモ肉で、後者は肉団子にして汁物に入れる。頭部と残りの身は捨てる。広東料理にはヘビを竜、ネコを虎、鶏を鳳凰に見立てた龍虎鳳(中国語版)という料理があり、強壮効果があると信じられている』。『現地の動物保護に詳しい弁護士によると、中国国内の猫肉取引は禁じられており』、二〇〇七『年の法律でも「国内で通常食されない食物」の取引には特別な許可が必要としている』が、『華南の飯店で出される猫肉は主に、許可を得たブローカーが安徽省や江蘇省から仕入れたものである』とある。但し、『中国ではペットとしてのネコの飼育が増えるにつれ、猫食文化への風当たりが強まり、抗議行動も起こるようになって』おり、『犬食や猫食に対する抗議運動』も増えているという。『日本では幕末までネコが食されることもあった』。『沖縄県では肋膜炎、気管支炎、肺病、痔に効果があるとされ、汁物仕立てにしたマヤーのウシルなどが食べられていた』。『朝鮮では、茹で肉から』、『神経痛や関節炎に効く強壮剤がつくられた』。『ベトナムではネコ肉を「幸運を呼ぶ」として提供する食堂があり、中国などからの密輸が増えている』とある。

「瞳の、十二時にかはりて、大小ある」サイト「子猫の部屋」の「猫の文化」の「猫の都市伝説」にある「猫の目を見れば時間がわかる」が、出典確認から検証まで完璧に行っておられ、必見要保存! 原拠は唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる「酉陽雜爼」(八六〇年頃成立)の「續集」の第八卷「支動」の以下。

   *

貓、目睛旦暮圓、及午豎斂如糸延。其鼻端常冷、唯夏至一日暖。其毛不容蚤虱。黑者暗中逆循其毛、卽若火星。俗言貓洗面過耳則客至。楚州謝陽出貓有褐花者。靈武有紅叱撥及靑驄色者。貓一名蒙貴、一名烏員。平陵城、古譚國也、城中有一貓、常帶金鎖、有錢飛若蛺蝶、士人往往見之。

(貓(ねこ)、目晴(もくせい)、旦(あさあ)けと暮れは圓(まろ)く、午(ひる)に及びて、堅く斂(おさ)まりて、糸を延ばすがごとし。其の鼻の端は常に冷え、唯だ夏至一日のみ暖かし。其の毛、蚤・虱(しらみ)を容(い)れず。黑きは、暗中、其の毛を逆さに循(な)づれば、卽ち、火の星のごとし。俗に言ふ、「貓、面(かほ)を洗ひて耳を過ぐれば、則ち、客、至る」と。楚州謝陽、褐花(かくわ)の有る猫、出づ。靈武に紅叱撥(こうしつはつ)、及び、靑驄(せいそう)の色の者、有り。貓、一名、「蒙貴(まうき)」、一名、「烏員(ういん)」。平陵城は古への譚國(たんこく)たり。城中、一貓(びやう)有り、常に金の鎖を帶び、錢(ぜに)有りて、蛺蝶(きようてふ)のごとく飛ぶ。士人、往往、之れを見たり。)

   *

・「目晴」眼晴。眸。

・「黑きは」黑き貓は。

・「火の星のごとし」火花のようなものを発する。静電気か?

・「楚州謝陽」現在の江蘇省淮安(わいあん)。

・「褐花」「紅叱撥」「靑驄」よく判らぬが、毛の色と、そこに現れた模様、或いは、特異な形態を含んだ一種の異種総称名のように思われる。

・「靈武」現在の寧夏回族自治区霊武県の西北に相当。

・「平陵城」は春秋時代の斉(せい)の邑(ゆう)。古城は現在の山東省歴城県の東にある。

・「譚」周代の国名。春秋時代に斉に滅ぼされた。

・「蛺蝶」立羽蝶(現行分類では鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科Nymphalidae)。この猫、背に羽を持っていて飛ぶように見えたのであろう。先の引用にも、背の皮が剥けて後ろに垂れ下がるケースが出たが、私も、背部に奇形があり、まさペガサスの翼のようになった個体の動画を見たことはある。

・「皮(かは)の聲(こゑ)」言わずもがな、三味線の皮となって、あの俗なる音を出すこと。

『「著聞集」に、觀敎法印、嵯峨の山庄(さんしやう)にて、から猫を飼ひしに……」「老媼茶話巻之弐 猫魔怪」の私の注で電子化しているので、そちらを見られたい。なお、私の電子化したものの中の妖猫譚は枚挙に暇がない。他にも比較的長い話柄では「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」等がある。しかし、猫の報恩譚もあり、私はそちらの方が好きだ。特にお薦めは、「耳囊 卷之九 猫忠死の事」の私の真正現代語大阪弁訳版である。未読の方は、是非、どうぞ! 関西弁ネイティヴの教え子の校閲も経たものである。]

2018/10/17

和漢三才圖會第四十二 原禽類 雀 (スズメ・ニュウナイスズメ)

 

Suzume

すゝめ   瓦雀 賓雀

      嘉賓

【音】

      【和名須須女】

ツヨッ

本綱雀小鳥羽毛斑褐頷觜皆黑頭如顆蒜目如擘椒尾

短而長二寸許故字從小隹隹【音錐短尾】爪距黃白色躍而不

步栖宿簷瓦之間馴近階除之際如賓客然故曰瓦雀賓

雀其視驚瞿其目夜盲其卵有斑其性最淫八九月群飛

田間體肥背有脂如披綿性味皆同可以炙食老而斑

者呼爲麻雀【末太良雀】小而黃口者爲黃雀【安久知雀】九月雀入大

水爲蛤雀不入水國多淫泆【若家雀則未常變化也】南海有黃雀魚

常以六月化爲黃雀十月入海爲魚則所謂雀化蛤者蓋

此類

肉【甘溫】正月以前十月以後宜食之【服白朮人忌之不可合李食之】

白丁香【苦溫微毒】雀屎也其屎底坐尖在上是雄兩頭圓者

 是雌屎臘月來得修治以可入藥【男子用雌屎女人用雄屎

 今試白丁香以屎形辨雌雄者未精

 凡雀起而屎則上尖居而屎則平圓】

  夫木ねやの上に雀の聲そすたくなる出立ちかたに夜やなりぬらん

按三才圖會云雀目昏盲故有人至昏不見物者謂之

 雀瞀凡雀貪食易捕老者狡黠難取性不能巢穿屋居

 之故謂之瓦雀

饒奈雀【正字名義未詳】 形小於雀也二分其頭背赤柹色腹白

 觜脚灰色其雌者頭背黄灰色腹嘴脚皆雄與同

すゞめ   瓦雀〔(ぐわじやく)〕

      賓雀〔(ひんじやく)〕

      嘉賓〔(かひん)〕

【音、[やぶちゃん注:欠字。]】

      【和名、「須須女」。】

ツヨッ

「本綱」、雀は小鳥にして、羽毛、斑〔(まだら)〕にして褐。頷〔(あご)〕・觜、皆、黑し。頭は顆蒜〔(くわさん)〕のごとく、目〔は〕擘椒〔(はくしやう)〕のごとく、尾、短くして、長さ二寸許り。故に、字、「小隹」に從ふ。「隹」【音、「錐〔(スイ)〕」。短き尾なり。】。爪距〔(けづめ)〕、黃白色。躍りて步せず。宿の簷(のき)の瓦の間に栖み、階除〔(かいじよ)〕の際に馴れ近づき、賓客のごとく、然る故に「瓦雀」「賓雀」と曰ふ。其れ、視〔るに〕、驚瞿〔(きやうく)〕し、其の目、夜〔(よ)〕る、盲(みへ[やぶちゃん注:ママ。])ず。其の卵、斑、有り。其の性、最も淫なり。八、九月、田間に群飛す。體、して肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、背に、脂〔(あぶら)〕有ること、綿を披〔(ひろ)ぐる〕がごとし。性・味、皆、同じ。以つて炙り食ふべし。老いて斑の者を呼んで「麻雀(まだら〔すずめ〕)」と爲す【「末太良雀」。】小にして黃なる口の者、「黃雀(あくち〔すずめ〕)」と爲す【「安久知雀」。】。九月、雀、大水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲〔(な)〕る。雀、水に入らざれば、國に、淫泆〔(いんいつ)〕、多し【家雀のごときは、則ち、未だ常に變化せざるなり。】。南海に「黃雀魚」有りて、常に六月を以つて化して「黃雀」と爲る。十月、海に入りて、魚を爲るときは、則と、所謂〔(いはゆ)〕る、雀、蛤に化する者、蓋し、此の類なり。

肉【甘、溫。】正月以前、十月以後、之れ、食ふべし【白朮〔(びやくじゆつ)〕を服する人、之れを忌む。李〔(すもも)〕を合せて之を食ふべからず。】。

白丁香〔(はくていかう)〕【苦、溫。微毒。】雀の屎〔(くそ)〕なり。其の屎〔の〕底、坐〔(すわ)〕り、尖〔(とがり)〕は上に在り。是れ、雄なり。兩頭、圓き者、是れ、雌の屎なり。臘月に來たり得て、修治して、以つて藥に入るべし。【男子には雌の屎を用ひて、女人には雄の屎を用ふ。今、試みに、白丁香、屎の形を以つて雌雄を辨ずとは、未だ精〔(くは)し〕からず。凡そ、雀、起ちて屎すれば、則ち、上、尖る。居〔(すは)り〕て屎すれば、則ち、平圓〔なれば〕なり。】。

 「夫木」

   ねやの上に雀の聲ぞすだくなる

      出で立ちがたに夜やなりぬらん

ずるに、「三才圖會」に云はく、『雀の目、昏〔(ゆふぐれ)〕には盲(め)しいる。故に、有人、昏に至りて者を見ざる者、有り、之れを「雀瞀(とりめ)」と謂ふ。凡そ、雀、食を貪り、捕へ易し。老(ひね)たる者は、狡-黠(こざか)しくして取り難し。性、巢(すづく)ること、能はず。屋を穿ちて、之れに居〔(を)〕る。故に之れを「瓦雀」と謂ふ。

饒奈雀(にようない〔すずめ〕[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は正しくは「ねうないすずめ」。])【正字・名義、未だ詳かならず。】 形、雀より小さし。二分ばかり。其の頭・背は赤柹色、腹、白く、觜・脚、灰色。其の雌なる者は、頭・背、黄灰色、腹・嘴・脚、皆、雄と同じ。

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ科スズメ属スズメ Passer montanus(本邦のそれは亜種スズメPasser montanus saturatus)。余りに身近な鳥なので、引用はウィキの「スズメ」の分布域ににのみ留める。生態等、詳しくはリンク先を。『西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布する』。但し、『北はあまり寒い地方にはおらず、北緯で言えば』六十『数度が北限である。またインドにはほとんどいない。ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島などの熱帯または亜熱帯の地域にも分布域がある』とある。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「スズメ」の項によれば(コンマを読点に代えた)、属名 Passer(パスセル)は『小さな鳥一般を示し、ひいてはスズメそのものを指すようになった』とあり、『スズメという和名は、もとススミ(須々美)と』称し、それは、その『習性が〈おどり、すすみ行く〉ので、そうよばれたという(《日本釈名》)』(「日本釈名」江戸中期の語源辞書。貝原益軒著で元禄一二(一六九九)年成立(刊行は翌年)。後漢の劉熙の「釈名」に倣い、和語を二十三項目に分類して五十音順に配列し、語源を解説したもの)。また、『別の説に、スズメとは〈ササ(小さい)〉、またメはカモメやツバクラメ(ツバメ)と同じく鳥を示す古俗のよび方で、小さな鳥このことだという(《東雅》)』とある(「東雅」は江戸中期の語学書。新井白石著で享保二(一七一七)年成立。中国古代の字書「爾雅」に倣って、国語の名詞を十五の部門に分けて語源的解釈を施したもの)。

「顆蒜〔(くわさん)〕」東洋文庫版現代語訳では『つぶにんにく』とある。お馴染みの、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属ニンニク Allium sativum の根茎である。

「擘椒〔(はくしやう)〕」不詳。東洋文庫版現代語訳では『はくしょう』とルビするのみ。「擘」は「裂く」の意であるから、前の「顆蒜」に徴するならば、双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum の実を裂いて出した山椒の種子のことではあるまいか。

「尾、短くして、長さ二寸許り。故に、字、「小隹」に從ふ。「隹」【音、「錐〔(スイ)〕」。短き尾なり。】」「小」=「少」で、「隹」は割注にある通り、原義は「尾の短い鳥の総称」である。

「階除〔(かいじよ)〕」階段。庭から屋敷に上るそれ。

「驚瞿〔(きやうく)〕」驚いたよう様子を見せること。「瞿」には「驚く」の意の他に「懼れる」の意もあるが、ここは人懐っこい性格を考えて、かく採っておく。

「其の卵、斑、有り」スズメの卵は全体が暗い灰白色で、紫褐色・灰色・黒褐色の斑がある。ウィキの「スズメ」の卵の画像をリンクさせておく。

して肥へ」驚くほどまるまると太って。

「性・味、皆、同じ」東洋文庫版訳では『どこにいるのも』と添えてある。

「麻雀(まだら〔すずめ〕)」原義は「斑点模様のある小鳥」の総称となるが、現代中国語ではまさにスズメを指す。中文ウィキの「麻雀」(種としてのスズメのページ)を見られたい。なお、遊戯としての麻雀は中国語でもそう言いはするが、「麻將」の方が主流のようである(私はマージャンは全く知らないのでこれ以上、脱線する気にはならない。悪しからず)。

「黃雀(あくち〔すずめ〕)」「あくち」とは、雀に限らず、鳥の雛の嘴の付け根の黄色い部分を指す(「日葡辞書」に掲載)。語源説は「粟口」「開口」「赤口」等。開いた口中は赤く見えるから、孰れも腑には落ちる。

「雀、大水に入りて蛤〔(はまぐり)〕と爲〔(な)〕る」最も知られた化生説である。中国の本草書由来かと思うと、どうもさにあらずで、「日本書紀」の齊明天皇四(六五八)年の条に、

   *

出雲國言。於北海濱魚死而積。厚三尺許。其大如鮐。雀喙針鱗。鱗長數寸。俗曰。雀入於海化而爲魚。名曰雀魚。

(出雲國より言へらく、北海の浜に、魚、死して積めり。厚さ、三尺許り。其の大いさ、鮐(ふぐ)のごとくにして、雀の喙(くち)・針の鱗(いろこ)あり。鱗の長さ、数寸。俗の曰へらく、「雀、海に入りて、化して魚と爲る。名づけて『雀魚』と曰ふ」と。)

   *

とあり、以下に「或本云。至庚申年七月。百濟遣使奏言。大唐・新羅幷力伐我。既以義慈王・王后・太子爲虜而去。由是國家以兵士甲卒陣西北畔。繕修城柵斷塞山川之兆也」と続いて、この二年後の夏、唐・新羅の連合軍が新羅(百済)を攻め、百済王義慈や皇后・皇太子を捕虜として拉し去るという(これを以って百済は滅亡した)事件が起き、そのため、斉明天皇は本邦の西北(北九州)に軍兵を布陣して、城柵を築き、城塞を建造したが、この二年前の異魚出現をその凶兆と解釈していることが判る。これは「蛤」ではなく「魚」であるが、当代にあっては海産生物は一緒くたであり、蛤の貝殻の紋様は頗る雀のそれに似るし、蛤は縄文の古えから食物とされたから、これが一種の中国と日本の平行進化的産物であるとしても、不自然ではない。なお、良安の蛤の記載は、私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部 寺島良安」の「はまぐり 文蛤」を参照されたい。

「淫泆〔(いんいつ)〕」怠けて遊興にふけること。また、男女関係が猥(みだ)らなこと。

「家雀のごときは、則ち、未だ常に變化せざるなり」これは「本草綱目」の時珍の補説。「私が普通に見かける人家に巣を作るような雀は、未だ嘗て、全く、そのように変化した個体を見たことはない」と見解を述べているのである。いいね! 時珍先生! フィールド・ワークが大事です!

「黃雀魚」林昇漢氏の中文サイト「世界魚類圖鑑」の同種のページによって、現在、中国名「黃雀鯛」の俗名として現存し、当該種は条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科ソラスズメダイ属ネッタイスズメダイ Pomacentrus moluccensis であることが判明した。無論、時珍が指しているそれが、本種である可能性はかなり低い気はするが、一応、掲げておく(それでも正直、これって文字通り、黄色系のスズメダイ科 Pomacentridae の仲間のような気は確かにするわ)。WEB魚図鑑」の当該種のページによれば、『体色は一様に黄色で鮮やか。幼魚も成魚とほぼ同じ色彩だが、黄色みはさらに強い。体長』五センチメートルほどの『小型種』で、琉球列島及び西部太平洋の水深一~十四メートルの『珊瑚礁にすむ』。『珊瑚礁域のごく浅所に見られる普通種』で、『枝状サンゴをすみかとし、その周辺に小さな群れで、もしくは他のスズメダイの群れに混ざ』って棲息する。『鮮やかな黄色が美しく観賞魚として知られるが』、『性格が強く注意が必要』とある。まあ、単色ながら、派手で一目見れば忘れないスズメダイではある。以下の部分、「本草綱目」の「雀」の「集解」では、こうなっている。

   *

「臨海異物志」云、『南海有黃雀魚、常以六月化爲黄雀、十月入海爲魚則所謂雀化蛤』者、蓋此類。若家雀則未常變化也。[やぶちゃん注:最後の一文が先の注の部分。]

   *

「臨海異物志」は「臨海水土異物志」で、三国時代の呉の武将沈瑩(しんえい ?~二八〇年)の撰になる博物学的地誌。

「白朮」(びゃくじゅつ)はキク目キク科オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。健胃・利尿効果がある。

「白丁香」しっかり、漢方薬として現在も使われている。

「其の屎〔の〕底、坐〔(すわ)〕り、尖〔(とがり)〕は上に在り」これは糞の底の部分が地面に対してべったりと軟化して附着しており、上部が尖った形になっている雀の糞で、それがの糞だというのである。反対に孰れの末端もころんとして丸く、タブレット状になた糞は雌だというのである。

「臘月」陰暦十二月の異称。

「來たり得て」なってから採取し。

「修治」漢方医学に於いて、動植物・鉱物の天然薬材料に対し、医薬品としての価値を高め、臨床応用に合致するよう行なう加工作業過程のこと。

「今、試みに、白丁香、屎の形を以つて雌雄を辨ずとは、未だ精〔(くは)し〕からず。凡そ、雀、起ちて屎すれば、則ち、上、尖る。居〔(すは)り〕て屎すれば、則ち、平圓〔なれば〕なり」この部分は「本草綱目」にはない。或いは良安が補填したものか。すこぶる穏当な見解で、「以上は、今、仮に、「白丁香」の糞の形状を以ってそのひり出した個体が雀の雌であるのか、雌であるのかを弁別する、というのであるが、どうもそれに就いては、私は明確に区別することは出来ないのである。そもそもが、雌雄に限らず、雀が後肢で立って糞をすれば、それは、上が尖った形になる。しかし、雀が後肢を立てずにしゃがんで糞をすれば、そのくそは地面に則して平たく、丸い円筒状のものとなるからである」というのである。

「夫木」「ねやの上に雀の聲ぞすだくなる出で立ちがたに夜やなりぬらん」これは平安中期の歌人曽禰好忠(そねのよしただ 生没年不詳)の一首で、幸いにして妻の所持する明治書院の「私家集大成 第一巻 中古」で調べることが出来たのだが、表記に大きな誤りがある。これは「好忠集」の天理図書館蔵本では、

   三月中

 ねやのうへにすゝめのこゑそすたくなる

    出たちかたに子やなりるらん

で、整序すると、

 閨の上に雀の聲ぞすだくなる出で立ちがたに子やなりぬらむ

で、「寝所の上で、雀らの囀りが、いや盛(さか)になってきたぞ。そうか、子雀らが巣立ちする時期になったのだろうなあ」といった意味であろう。

「雀瞀(とりめ)」鳥目。夜盲症(「瞀」には「目が眩(くら)む」の意がある)。遺伝性の先天性夜盲症と、後天性のビタミンAの欠乏による夜盲症(暗部の視覚を担当する成分はロドプシンであるが、ロドプシンはビタミンAと補体から成る)、及び、難病指定されている網膜色素変性症の初期症状としてある。

「狡-黠(こざか)しく」この「狡黠」は「ずるく悪賢いこと」の意の「狡猾」と同じい(但し、歴史的仮名遣では「狡黠」は「かうかつ」であるのに対し、「狡猾」は「かうくかつ」となる)。「小賢しく」。

「饒奈雀(にようない〔すずめ〕)」通常のスズメが市街地で見かけることが多いのに対して、林や森を主な棲息地とし、頬に黒い斑点を持たない、スズメ目スズメ科スズメ属ニュウナイスズメ Passer rutilans。この種の存在を知らない方もいると思われるので、ウィキのニュウナイスズメから引いておく。『民家近くに生息するスズメとは対照的に、林や森などを好む。黄雀(こうじゃく、おうじゃく、きすずめ)ともいう』。全長約十四センチメートルでスズメと有意な差はない。『雄はスズメに似ているが』、『頬に黒点がなく、頭部と背面はスズメよりもあざやかな栗色をしている。雌は薄茶色で、太い黄土色の眉斑が目立つ。『北はロシア、東は日本、南はインド、西はアフガニスタンまで、東アジア、東南アジア、南アジア、中央アジアに広く分布する』。『日本では主に北海道の平地の林や本州中部以北の山地で』五月から七月に『かけて繁殖し、関東地方以南の暖地で越冬する』。『繁殖期以外はニュウナイスズメ単独種で群れをつくるが、少数の場合はスズメの群れに混じる』。『台湾やヒマラヤの山奥にあるスズメが進出していない村落では、スズメに代わって人家に営巣していることがある』。『本種の和名の由来については以下の三説が有名である』。『スズメに見られる頬の黒斑を欠くことから、ほくろの古名であるにふ(斑)が無い雀、ということで斑無雀』とするもの。『新嘗雀(にいなめすずめ)がなまったものであるとする柳田國男の説』。『平安時代に陸奥守として東北地方に左遷され、現地で恨みを抱いたまま死去した貴族、藤原実方が本種に転生して宮中に入り込み、納税された米を食い荒らしたという伝説があ』り、『宮中(内廷)に入る雀、ということで入内雀』というものである。『後ろの二説にも関連するが、長い間』、『本種は晩夏から初秋にかけて田に大群で押し寄せ、イネの未熟果を食い荒らす大害鳥と信じられていた。目にする機会が少ないにもかかわらず、鳥獣保護法でスズメと共に狩猟鳥に指定されているのはそれゆえである』とある。なお、ウィキの「スズメには、『夏から秋にかけては稲に対する食害も起こす。しかし、農村地帯で繁殖するスズメは、稲にとっての害虫も食べるため、コメ農家にとっては総合的に益鳥の面が大きいともされる』。『一方』、『ニュウナイスズメ』『は、繁殖期には森林または北方で繁殖し、夏の終わりから秋にかけて農村地帯に現れる。益鳥としての働きをしないので』、『害鳥としての面が強いといわれている。この稲を食害するニュウナイスズメとスズメが、スズメとして一緒にくくられることで、スズメが必要以上に害鳥扱いされた可能性もある(ただし、理由はわかっていないが、ニュウナイスズメが大規模に農村地帯に出現することは現在ではほとんどなくなった)』とあるから、現時点ではもう、スズメもニュウナイスズメも、稲を啄む害鳥というのは冤罪ということになることは言い添えておこう。]

古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事

 

  第七 叡山中堂油盜人(あぶらぬすびと)と云(いふ)ばけ物靑鷺の事

Aburanusubito

 

[やぶちゃん注:本条は挿絵を含め、既に本話の梗概を中で紹介した『柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」』の注で電子化してあるが、今回は底本が異なり、零から総てやり直し、挿絵も改めて清拭した。

 比「叡山」の「中堂」は天台宗開祖最澄が延暦七(七八八)年に創建し、自ら刻んだ薬師如来像が安置されている。ここは、初期原型の最澄創建になる三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置したことから、薬師堂を「中堂」と呼ぶようになったが、この三堂が後に一つの伽藍に纏められたため、「中堂」という伽藍名が残ったものとされる。比叡山延暦寺の中心であることから「根本中堂」と称し、比叡山では「東塔」という名の公域区域の中心的建築物である。元亀二(一五七一)年に織田信長の焼き打ちで灰燼に帰したが、後、徳川家光が慈眼大師天海の進言を受け、八年をかけて寛永一九(一六四一)年に現在の姿に再建した。創建以来、千二百年、不断に灯もり続ける「不滅の法灯」は、焼き打ち前に分灯されていた火が移され、僧侶が毎日、油を足し、現在も輝き続けている。

 「靑鷺」博物学的上のそれは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」、及び『森立之立案・服部雪斎画「華鳥譜」より「あをさぎ」』を見られたい。最後に本条の類話を示すために、再注する。

 「坂本兩社權現」これは本来、狭義には、現在の滋賀県大津市坂本にある日吉大社(通称「山王権現」)の身体山である牛尾山(八王子山)山頂にある牛尾宮と三宮を指すものと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「日吉大社」によれば、文献では、「古事記」に「大山咋神(おほやまくひのかみ)、亦の名を山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。此の神は近淡海國(たかつあふみのくに)の日枝の山に坐(ま)し」と『あるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである』。『日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇』七『年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという』。『また、日吉大社の東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ』二『社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇』七『年に創祀されたものとも伝えられている。なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である』とある。『最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬し』、『中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した』神輿は『日吉大社のものである。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建され、現代の天台教学が成立するまでに、与えた影響は大きいとされる』。『織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在』の『建造物は安土桃山時代以降』、天正十四(一五八六)年から『再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した』。『これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから』(山王権現は猿を神使とする)、『当社を特別な神社と考えたためである』とある。]

 

かたへの人の云(いはく)、「坂本兩社權現の某坊(それがしばう)と云(いへ)る人の物語に、そのかみ、叡山全盛のみぎり、中堂の油料とて壹萬石ばかり知行ありしを、東近江の住人、此油料を司りて、家、富(とみ)けるに、其後(そののち)、世かはり、時移りて、此知行、退轉[やぶちゃん注:ここは「次第に衰えること」及び「中断すること」の両意であろう。]せしかば、此東近江の住人、世にほい[やぶちゃん注:「本意」。]なき事に思ひ、明けくれ、嘆きかなしみしが、終(つゐ)に此事を思ひ死(じに)にして死(しに)にけり。其後、夜每に、此者の在所より、ひかり物、出(い)でて、中堂の方へ來(たり

て、彼(かの)油火のかたへ行(ゆく)とみえしが、其さますさまじかりし故、あながち、油を盜むにもあらざれど、皆人、『油盜人』と名付たり。はやりおの[やぶちゃん注:ママ。「逸り男(を)の」。血気盛んの。]若者共、是を聞(きき)て、『如何樣にも其者の執心、油にはなれざる故、今に來(きた)るなるべし。しとめて見ばや』とて、弓矢・鐵砲をもちて、飛來(とびきた)る火の玉を待(まち)かけたり。あんのごとく、其時節になりて、黑雲一叢(くろくもひとむら)、出づる、と見えし。その中に彼(かの)光り物、あり。『すはや』といふ内に、其若者共の上へ來りしかば、何れも、『あつ』といふばかりにて、弓矢も更に手につかず。中にも、たしか成(なる)者[やぶちゃん注:気丈な者。]ありて、見とめしかば、怒れる坊主の首、火熖を吹きて來たれる姿、ありありと見えたり。是、百年ばかり以前の事[やぶちゃん注:元隣の没年は寛文一二(一六七二)年であるから、ここを起点限界とすれば、百年前は元亀三(一五七二)年よりも前となる。信長の比叡山焼打はまさに元亀二(一五七一)年であるから、この直前と見ると、何やらん、怨霊めいて面白いではないか。話者もその確信犯で「百年前」と言っているように思われる。]にてさぶらひしが、その後はに來(きたり)て、只今も、雨の夜などには、其光物、折々、出申(いでまうし)候を、湖水邊(へん)の在所の者は、坂本の者にかぎらず、何れも見申候。此事、かくあるべきにや[やぶちゃん注:有り得るもんでしょうか? やや反語的疑問の感じがする。]」と問(とひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「人の怨靈の來(きた)る事、何かの事に附(つけ)て申ごとく、邂逅にはあるべき道理にて侍る故、其『油盜人』も有(ある)まじきにあらず。しかしながら、年經て消(きゆ)る道理は、『うぶめ』の下(した)にて、くはしく申せし通(とほり)なり。其(その)死ぬる人の精魂(せいこん)の多少によりて、亡魂の殘れるにも遠近(ゑんきん)のたがひ[やぶちゃん注:現世との心理(怨念・遺恨・心残り等の)的距離感によって、化けて出易い場合と、出難い場合があるというのであろう。]、あるべし。また、只今にいたりて、其物に似たりし光り物有(ある)は、疑ふらくは靑鷺なるべし。其仔細は江州高島の郡(こほり)などに、別して、あるよしを申侍る。靑鷺の年を經しは、よる、飛ぶときは、必ず、其羽、ひかり候故、目のひかりと相(あひ)應じ、くちばし、とがりて、すさまじく見ゆる事、度々なり、と申しき。されば、其ひかり物も、今に至りて見ゆるは、靑鷺にや侍らん」。

[やぶちゃん注:「年經て消(きゆ)る道理は、『うぶめ』の下(した)にて、くはしく申せし通(とほり)なり」卷之二 第五 うぶめの事幽靈の事」で、彼は「其氣のとゞこほりて、或は形をなし、又は聲を生(しやうず)る物を『幽靈』といふなれど、猶、此『ゆうれい』も、程ふるに及(および)て、其とゞこほりたる氣の散ずるに隨(したがひ)て消(きえ)うするなり。又、哲人名僧などの教化(けうけ)によりて消えうするは、もとより、妖は德にかたざる道理なれば、其の教化によりて、其氣、忽(たちまち)に散ずればなるべし」と述べている。

「江州高島の郡」ほぼ現在の滋賀県高島市(琵琶湖北西岸)に相当する地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 さて鷺類、特に五位鷺(博物学的には私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」を参照されたい)と怪異は実は親和性が強い(私には彼らは時に隠者か哲人の後ろ姿にさえ見えるのであるが)。但し、それは寧ろ、元隣の言うような擬似的発光現象に絡む擬似怪談として記されているものが優位に多い。五位鷺の典型例は「諸國百物語卷之五 十七 靏のうぐめのばけ物の事(私の電子化注)や「耳囊 卷之七 幽靈を煮て食し事(私の電子化訳注)であろう。青鷺らしきものでは、私の推定であるが、「谷の響 一の卷 五 怪獸」(私の電子化注)がある。実は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」で私は「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」とある本文に以下のような引用注を附した。

   *

 これはサギの鳥体が夜間に青白く発光するもので、江戸時代から妖怪或いは怪異現象として「青鷺火(あおさぎび)」「五位の火(ごいのひ)」などと呼ばれている。ウィキの「青鷺火」より引く。『「青鷺」とあるが、これはアオサギではなく』、『ゴイサギを指すとされる』。『江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕』の「今昔畫圖續百鬼」や「繪本百物語」などにも『取り上げられ、江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる。また江戸後期の戯作者』桜川慈悲功作・歌川豊国画の「變化物春遊(ばけものはるあそび)」(寛政五(一七九三)年刊)にも、大和国で『光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩』、一『人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている』(原典の当該箇所を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る)。『新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという』。『ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家』更科公護の論文「光る鳥・人魂・火柱」(『茨城の民俗』昭和五六(一九八一)年十二月)にも、昭和三(一九二八)年頃に『茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など』、『青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている』。『サギは火の玉になるともいう』。『火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある』。『また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう』。『科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある』とある。

   *

私は自身の複数の経験から、発光細菌やバクテリア説は退けたい(そういう派手に発光する陸上や空中での現象(海上・海中では発光クラゲ・クシクラゲ類・夜光虫・ウミホタル・ホタルイカ等で多数見たが)を私は六十一年の生涯の中で一度も経験したことがないからである)。胸元の白い毛の錯覚説を強く支持するものである。

2018/10/16

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鴿(いへばと) (カワラバト)

 

Ihebato

 

いへはと   鵓鴿 飛奴

鴿【音閤】

       【和名以倍八止】

コツ

 

本綱鴿處處人家畜之名品雖多大要毛羽不過靑白皁

綠鵲斑數色眼有大小黃赤綠色而已惟白鴿入藥

肉【鹹平】解諸藥毒凡鳥皆雄乘雌此獨雌乘雄其性最淫

 而易合故名鴿鶉者其聲也張九齡以鴿傳書目爲飛

 奴其屎皆左盤故名之左盤龍用治諸瘡【野鴿屎最良】

  友雀我かいへはとの陰しめて竹を諍ふ夕暮の聲

△按鴿有數品頸短而有小冠胸隆脹脚脛亦短今家家

 畜之頸有斑文者名暹羅鴿頭背灰黑色腹灰白有鷹

 彪者名朝鮮鴿背上有金紗者名金鴿有黑白柹三色

 鮮明美者最珍也並觜短眼金色爲上品價貴争養之

 【暹羅朝鮮二種は小於常鴿】皆能馴雞犬相伴屋上構棲局局開窓

 而出入各居匹偶拒不入他鴿可謂貞節者矣其生卵

 也先生一雄卵隔一兩日出一雌子【共是匹偶】二十日而孚

 毎日從午至酉雄鴿伏之從酉迄午雌鴿伏之十日許

 止羽翅未備而不能自求食母亦觜甚短不能哺之故

 人嚙碎蕪菁子以竹箆開雛觜令食之如此經二三日

 乃自開口受餌人安餌於舌頭哺之大抵兩月一産毎

 二卵也上品者一歳不過二産四卵而多難伏育是不

 惟鴿草木亦人所重者子稀諺所謂椑柹之核多可笑

 矣凡鴿終夜鳴聲如曰偶偶

野鴿【一名堂鴿】 與家鴿同類異種也多灰色無冠爲異能飛

 舞常棲堂社寺樓故俗呼曰堂鴿畜鴿之家亦必畜堂

 鴿如鴿去不歸則使堂鴿若干飛舞誘歸之也堂鴿肉

 味甘有泥氣人不食之

 

 

いへばと   鵓鴿〔(ぼつこふ)〕

       飛奴〔(ひぬ)〕

鴿【音、「閤〔コフ〕」】

       【和名、「以倍八止〔(いへばと)〕」。】

コツ

 

「本綱」、鴿は、處處、人家に之れを畜〔(か)〕ふ。名品多しと雖も、大要、毛羽、靑・白・皁〔(くろ)〕・綠・鵲斑〔(せきはん)〕の數色に過ぎず。眼、大小〔と〕、黃・赤・綠色、有るのみ。惟だ白鴿〔(しろばと)〕〔のみ〕藥に入る。

肉【鹹、平。】諸藥〔の〕毒を解す。凡そ、鳥、皆、雄(をどり)、雌に乘る。此れ、獨り、雌、雄に乘る。其の性、最も淫にして合し易し。故に「鴿」と名づく。「鶉(ボツ)」とは其の聲なり。張九齡、鴿を以つて書を傳〔(つた)〕ふ。目(なづ)けて「飛奴」と爲す。其の屎〔(くそ)〕、皆、左に盤〔(くね)〕る。故に之れを「左盤龍」と名づく。用ひて諸瘡を治す【野鴿の屎、最も良し。】。

  友雀我がいへばとの陰しめて竹を諍(あらそ)ふ夕暮の聲

△按ずるに、鴿、數品〔(すひん)〕有り。頸、短くして、小さき冠(さか)有り。胸、隆(たか)く脹〔(ふく)〕れ、脚の脛も亦、短し。今、家家、之れを畜ふ。頸に斑文有る者を「暹羅鴿(シヤム〔ばと〕」と名づく。頭・背、灰黑色〔にして〕、腹、灰白〔にて〕鷹彪〔(たかのふ)〕有る者を「朝鮮鴿」と名づく。背の上に金紗〔(きんしや)〕有る者を「金鴿〔(きんばと)〕」と名づく。黑・白・柹〔(かき)〕の三色有り。鮮明に美なる者、最も珍なり。並びに、觜〔(くちばし)〕、短く、眼、金色なるを、上品と爲し、價〔(あたひ)〕、貴〔(たか)〕く、争いて[やぶちゃん注:漢字表記も送り仮名もママ。]之れを養ふ。【「暹羅」・「朝鮮」の二種は常の鴿より小さし。】。皆、能く馴(な)れて、雞〔(にはとり)〕・犬と相ひ伴なふ。屋の上〔に〕棲〔(すみか)〕を構へ、局局〔(つぼつぼ)〕、窓を開きて、出入りす。各々、匹-偶(めをと)と居〔(を)〕ること、拒(こば)みて、他の鴿を入れざるは、貞節なる者なりと謂ひつべし。其の卵を生むことや、先づ、一〔つの〕雄卵を生みて、一兩日を隔てて一〔つの〕雌〔の〕子[やぶちゃん注:卵。]を出だす【共に是れ、匹偶〔(めをと)〕なり。】。二十日にして孚(かへ)る。毎日、午〔(うま)〕より酉に至るまで、雄鴿、之れを伏〔(ふく)〕し、酉より午迄、雌鴿、之れを伏す。十日許〔(ばかり)〕にして止〔(や)〕む。羽翅、未だ備はらして自〔(みづか)〕ら求-食(あさ)ること能はず、母も亦、觜、甚だ短くして之れに哺(〔は〕ぐゝ)むること能はず。故に、人、蕪菁子(なたね)を嚙み碎きて、竹箆〔(たけべら)〕を以つて、雛の觜を開きて、之れを食はしむ。此くのごとくなること、二、三日を經て、乃〔(すなは)〕ち、自〔(みづか〕ら口を開き、餌を受く。人、餌を舌頭に安〔(やす)んじ〕、之れを哺める。大抵、兩月に一産、毎二卵なり。上品なる者、一歳に二産、四卵に過ぎず。而〔(しか)〕も、多くは伏育〔(ふくいく)〕し難し。是れ、惟だ鴿のみならず、草木も亦、人、重ずる所の者は、子、稀なり。諺に所謂〔(いはゆ)〕る、「椑柹(しぶがき)の核〔(たね)〕多し」と。笑ふべし。凡そ、鴿、終夜鳴く。聲、「偶偶〔(ぐうぐう)〕」と曰ふがごとし。

野鴿〔(のばと)〕【一名、「堂鴿〔(だうばと)〕」。】 家鴿と同類異種なり。多くは灰色、冠〔(さか)〕無きを異と爲す。能く飛び、舞ふ。常に堂社・寺樓に棲む。故に俗に呼んで、「堂鴿」と曰ふ。鴿を畜ふの家、亦、必ず、堂鴿を畜ふ。如〔(も)〕し、鴿、去つて歸らざれば、則ち、堂鴿をして、若干(そこばく)、飛び舞はして、之れを誘ひ歸らしむなり。堂鴿の肉味、甘〔なれど〕泥〔の〕氣〔(かざ)〕有り、人、之れを食はず。

[やぶちゃん注:「いへばと」は「家鴿(家鳩)」であるが、これは我々が最も目にする機会の多い、正式種名はハト目ハト科カワラバト属カワラバト Colombo livia var domestica である。ウィキの「カワラバト」によれば、本種を『指し示す言葉として、室町時代から「たうばと(塔鳩)」、これに加え、安土桃山時代には「だうばと(堂鳩)」が使われている。「ドバト(土鳩)」という語が登場するのは江戸時代である。日本語のカワラバト・家鳩・塔鳩・堂鳩・土鳩・ドバトという言葉の間の線引きは曖昧である。「ドバト害防除に関する基礎的研究」(山階鳥類研究所)は、 広義の「ドバト」はカワラバト』『の飼養品種の総称であるとしている』。『また、「家禽化された」カワラバトのうち「再野生化」した個体(feral pigeon)を狭義のドバトとする場合もある』。なお、「日本鳥類目録 改訂第七版」(Check-list of Japanese birds. 2012・日本鳥学会目録編集委員会編・日本鳥学会二〇一二年刊)に於ける『表記は「カワラバト(ドバト)」である』。本種は本来は『ヨーロッパ、中央アジア、北アフリカなどの乾燥地帯に生息する鳥だったが、人に馴れやすいため』、『家禽化され、食用や伝令用として利用されたほか、愛玩用の品種も多数作られた。カワラバトは』、『日本ではかつて狩猟対象だったが、伝書鳩を撃ってしまう危険性がある等の理由から、本種はその対象から外された経緯がある(飼鳥を射殺すると動物愛護法に触れる)。なお、日本でカワラバトの次によく見かけるキジバト』(ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis。異名を「ヤマバト」(山鳩)とも呼ぶ。最後に問題にする)『は現在でも狩猟対象である』。『ユーラシア大陸、ヨーロッパを中心に留鳥として世界的に広く分布』し、『日本では』『全土で普通に見ることができる。しかし、日本の在来種ではないと考えられている。日本にいつ渡来したかは定かではないが、一説には飛鳥時代、残存する記録では平安時代に「いへばと(鴿)」の語が見られ、「やまばと(鳩)」』(現在のキジバト)『とは区別されていた。従って、今から』一千年以上前には、『すでに身近に存在していたものと考えられる』。『長らく』、『人間と関わってきた本種は、人間にとても密接した鳥』と言える。『主翼と尾翼は全て、副翼は毎年一枚が翼端へ向かって、一枚ずつ順番に抜け替わる。このため、年齢は副翼を見ると推定できる。羽色は栗・栗ゴマ・灰・灰ゴマ・黒・黒ゴマ・白・白黒・モザイク・グリズル・バイオレット・ブラチナ・赤・緑・黄色・橙など多彩である。栗二引き』(「二引き」とは翼に二本の線のあるものを指し、それが栗色のものである。こちらの画像のが典型)『と呼ばれる色彩パターンがカワラバトの祖先の一般的な羽装であると考えられている』。『また、首周辺の羽に構造色を持ち、角度により緑あるいは紫に変わるように見える』。『一方、キジバトは羽のウロコ模様が特徴的であり、本種との識別は容易である』。『基本的に草食性であるが、昆虫なども食べることがある』。『種子・穀物・果実・漿果等植物性のものが主食である』。通常は二『個の卵を産む』。『孵化までは』十六~二十日『で、育雛期間は』二十八~二十五日『程度』。『他の鳩類と同じく親鳥は蛋白質に富んだピジョンミルクと呼ばれるミルク状の乳を口移しに雛に与える』。『親鳥は育雛をしている最中に次の産卵をすることもあり、時に育雛と抱卵を同時期に行う』。『このため』、『年間』五、六回の『繁殖が可能である』(言わずもがなであるが、本条の解釈で、良安がまことしやかに詳述している多くのトンデモ生態部分は総て誤りである。あまりに馬鹿馬鹿しいのでそれは各個注は示さない)。『この繁殖能力の高さと、天敵である猛禽類の減少が個体数増加の原因となっていたが、近年ではワシントン条約による絶滅危惧種として厚く保護された猛禽類が、カラスほどではないにせよ』、『都市部でも目撃されており、カワラバトを含め』、彼らの餌となる野鳥の捕食圧が高まっているという意見もあるらしい。『因果関係が完全に証明された訳ではないが、猛禽類は黒いカラスを襲わないため、カワラバトも黒い個体が多く生き残った結果だという。野生種のカワラバトは本来、岸壁の割れ目などの高い場所に営巣していた鳥なので』、『その習性から市街地においてはマンション等の人工建造物が営巣場所となることもあり、糞害が問題になることがある』。『カワラバトは体内時計や太陽コンパス・目の瞬膜の偏光作用などを使って、方向判定と位置測定を行っていると考えられている。この他に』、『地磁気を鋭敏に感知できる生体磁石の能力も持っているといわれており、研究対象になっている。ある研究によれば、嘴の皮膚内に磁鉄鉱を含む微粒子が局在しており、これが磁場の変化を感知する上で重要な役割を果たしている可能性があるという』。『カワラバトから長年にわたり』、『品種改良された伝書鳩を使って行われる鳩レースでは』、『分速や帰還率が評価されるが、これらは天候のほか太陽風や黒点活動、磁気嵐の影響を受けるといわれる』。『訓練されたカワラバトは、初めて見る絵の上手い下手を判別したり、クラシック音楽と現代音楽を聞き分けることでも知られている。このため』、『認知科学の実験に応用されることがある』。『鳥類には嗅覚が殆どない、又は、あっても重要性は低いと』、一九五〇年代頃までは『考えられてきた。しかし、近年、さまざまな科学的実験によって、通説は覆りつつある。中でもカワラバトの場合、地磁気と視覚と嗅覚が複合的に神経連動されている点がクローズアップされている。カワラバトは、上記の磁気データにあわせ視覚的データ、そして、嗅覚のデータを脳で統合し、あたかもひとつの感覚として感じとり、飛行した地形図として記憶している可能性が高いことが明らかになりつつある』。『カワラバトは通信手段として先史時代から家禽化されてきたと考えられ』、紀元前三千年頃の『エジプトでも伝書鳩を利用していた記録が残っている。これ以外に肉や卵を食料にするため、中東などでは崖のくぼみなどに住み着く性質を利用し、内部がうつろで壁に数か所』の『穴がある搭のようなものを作り、そこに鳩を集め』た『ことがあり、古代ユダヤではヘロデ王がこれを建設させたので、こうした鳩を「ヘロデの鳩」とミシュナー』(フリーム或いはタナイームと呼ばれたユダヤ教指導者(ラビ)群のトーラー(旧約聖書の「モーセ五書」に関する註解書群)『の中で呼んでいた』。『また、その帰巣性の高さから』、『軍隊での通信手段としても盛んに用いられてきた。イギリス軍は第一次世界大戦で約』十『万羽、第二次世界大戦に至っては』五十『万羽以上もの』、『軍用鳩を用いた。戦闘で大火傷を負いながらも友軍に辿り着き、勲章を授けられたものさえ存在した』。日本に『カワラバトが渡来したのは今から』千五百『年程前(飛鳥時代)であったと考えられる。カワラバトは』、『古来より』、『八百万神のお使い神と神社で尊ばれ、殺生はご法度、同じく仏閣でも古から魚・鳥等を野に放すことである放生会やエサやりが生類を哀れむ功徳とされ、その対象として長年』、『保護され』、『親しまれてきた。「鳩に三枝の礼あり(仔鳩が親の恩を感じ』、『三つ下の枝に止まる故事より、礼儀を重んじることの重要性)」「鳩に豆鉄砲=鳩が豆鉄砲を食ったよう(突然の出来事に呆気にとられる様子)」「鳩を憎み豆を作らぬ(些細なことに拘って肝心なことが疎かになる愚かしさや弊害)」等、昔からの諺でもお馴染みである』。天明三(一七八三)年には、『大阪の相場師・相模屋又市が投機目的のため』、『米相場の情報伝達にカワラバトを利用したとされ、処罰されたという記録が残って』おり、『また、ほぼ同時期の』(文化二 (一八〇五)年跋)の小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」の中に、『カワラバトの帰巣性について』、

   *

鴿は主人の家をよく覺へ[やぶちゃん注:ママ。]をる者ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]遠方に行くと雖ども放つ寸(とき)は必(かならず)その家に還る故に、張九齡「以ㇾ鴿傳ㇾ書」ことを釋名[やぶちゃん注:「本草綱目」の項内小目。]の下に載す。

   *

『の記述が見られる』(以上は私が国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像を視認してカタカナを平仮名に直して示したものである)。『幕末に神奈川に滞在したアメリカの』女性宣教師マーガレット・テイト・キンニア・バラ(Margaret Tate Kinnear Ballagh:来日宣教師ジェームス・ハミルトン・バラ(James Hamilton Ballagh)の妻)は『著書「古き日本の瞥見」』(Glimpses of Old Japan, 1861-1866.)の中で、文久二(一八六二)年『の手紙に』、『神奈川の寺にはカワラバトが多く住んでおり、寺の外だけでなく』、『寺の中にまで住んでいることを記載している。さらにカワラバトに与えるための餌を紙袋に入れて売る売店があることも記載している。このことから、江戸時代には既に庶民がハトに餌をやる慣習があったことがわかる』。『明治時代以降、カワラバトから長年にわたって品種改良された伝書鳩が欧米より輸入され、新聞社などで利用された。また軍部でも日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦から本格的に伝書鳩の研究を開始し、第二次世界大戦では多くの伝書鳩が使われた』。『戦後復興期には、伝書鳩を使った鳩レースを行うための協会が設立された』。『高度成長時代には伝書鳩の飼育が若年層を中心としてブームとなった』。昭和三九(一九六四)年に『開催された東京オリンピックの開会式では、セレモニーの一部として伝書鳩達の空に舞い上がる姿が華々しくカラーテレビ中継され、前年開通した衛星中継により世界中に配信された』。昭和四四(一九六九)年に『ピークを迎える飼鳩ブームの火付け役となった出来事と伝えられている』。『しかし』、一九七〇年代も『後半になると』、『ブームは収束し、伝書鳩の飼育数は減少に転じた。以降、漸減傾向が続いている』。『カワラバトはその他にも、海難犠牲者を発見させる訓練などが行われている』。『歴史的建造物の汚損などが深刻な問題になることがある。尿(糞の白い部分)は、金属の腐食を促進させる作用がある。またカビの一種であるクリプトコッカス・ネオホルマンス』(菌界担子菌門異型担子菌綱シロキクラゲ目シロキクラゲ科クリプトコッカス属クリプトコッカス・ネオホルマンス Cryptococcus neoformans)『が堆積した糞の中で繁殖し、HIV感染者や臓器移植手術のため免疫抑制剤の投与によって免疫力の落ちた人間が吸い込むと』、クリプトコッカス症』日和見感染症(通常であれば、当該個体の免疫力によって増殖が抑えられている病原性の低い常在細菌が、免疫抑制状態の中で異常に増殖し、その結果として病気を引き起こすもの)の一つ。百万人当たり年間二~九人の患者発生率で致命率は約十二%。アメリカ合衆国では発症患者の八十五%がHIV感染者である。病原体を吸い込み、肺で感染することが多いが、不顕性感染(感染が成立していながら、臨床的に確認し得る症状を示さない感染様態のこと。本人が発症しなかったとしても、感染源として気づかぬうちに病原体を他個体に拡げてしまう虞れがある、所謂「キャリア」である)の場合もある。鼻汁の排泄に始まり、鼻孔に肉芽腫が出来たり、病原体が肺から移動して髄膜炎や脳炎を惹き起こす。クリプトコッカス性髄膜炎の症状は頭痛・発熱・無気力・昏睡・人格変容・記憶障害等である)『にかかる症例が報告されている』。『カワラバトは人に馴れやすく、群れで繁殖する鳥である。このため』、『古くから公園などで鳩に餌を与えることが当たり前のように行われている。繁殖能力が高い鳩は栄養状態に恵まれると』、『年に幾度も繁殖を繰り返し』、『増加し続ける。このため、近年では鳩に餌を与えることを防止するよう呼びかけている地域もあり、荒川区など』、『一部自治体では条例で禁止している』とある。

「以倍八止」「倍」は音では「ベ」であるが、通用で「へ」にも当てる。

「鵲斑」カササギ(スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica)に見られるような色紋。カササギの羽毛の色は腹と背中に近い羽(肩羽)と、翼を広げた際に見える羽先が白い。後は概ね、頭から腿までは烏羽(からすば)色であるが、羽や尾羽の先には光沢があり、黒というよりも青或いは緑に見えることが多いから、こうした視覚上の見かけのグラデーションを指して言っているのであろう。

「張九齡」(六七三年~七四〇年)盛唐の詩人で政治家。玄宗の宰相となって、安禄山の「狼子野心」を見抜き、「誅を下して後患をて」と玄宗に諫言したことでも知られるが、悪名高い李林甫や楊国忠らと対立して荊州(湖北省)に左遷された。官を辞した後は故郷に帰り、閑適の世界に生きた。詩の復古運動に尽くしたことでも知られ、文集に「曲江集」がある。以下の「照鏡見白髮」は唐詩の定番の名品。

   照鏡見白髮

 宿昔靑雲志

 蹉跎白髮年

 誰知明鏡裏

 形影自相憐

    鏡に照らして白髪を見る

  宿昔 靑雲の志

  蹉跎(さた)たり 白髮の年

  誰(たれ)か知らん 明鏡の裏(うち)

  形影 自ら相ひ憐まんとは

彼と鳩の話は、五代の王仁裕撰の「開元天寶遺事」の巻一に、

   *

張九齡少年時家養群鴿、每與親知書信往來、只以書系鴿足上、依所寄之處飛往投之。九齡目之爲「飛奴」。時人無不愛説。

   *

と出る。

「友雀我がいへばとの陰しめて竹を諍(あらそ)ふ夕暮の聲」「友雀」は仲良く群れになって遊んでいるかのように見える雀たちのこと。「我がいへばとの陰しめて」がよく判らぬが、これはまさに我が家で飼っている家鳩が縄張りを占めている、その蔭の方の竹林の中で、という謂いであろうか。作者も不詳である。

「冠(さか)」とさか。良安がこう言っているのは、上嘴の付け根を覆う肉質の白い楕円体に盛り上がって見える、鼻孔を覆っている「鼻瘤(はなこぶ/びりゅう)」或いは「蠟膜(ろうまく)」と呼ばれる部分のことである。

「暹羅鴿(シヤム〔ばと〕」サイト「孤島国JAPAN」の「日本の基底文化を考える」の中の「鳥崇拝時代のノスタルジー42-鳩は鬱々-の記載に、『鹿子鳩(斑鳩鳩, 真珠鳩/暹羅鳩/咬𠺕吧鳩)カノコバト』とあった。ハト科キジバト属カノコバト Streptopelia chinensis である。ウィキの「カノコバト」によれば、『インド、スリランカから中国南部と東南アジアまでの南アジアに生息する。北アメリカやオーストラリア、ニュージーランドなどにも移入種として生息している。オーストラリアには』一八六〇『年代に導入され、在来種のハトに替わり広がった』とある。

「朝鮮鴿」不詳。なお、「百人」氏のサイト「おやじ小屋から」の『郷土の方言「鳥」編 (高橋八十八著「わたしの落穂拾い集」<第4集>より)』という頁に、奥越後松代(現在の新潟県十日町市)に住む高橋氏の記載からとして、『【ブッポウソウ】生家の裏山のブナ林で初夏の候となるとチョウセンバトがやってきて、いくつがいが巣をかけ「グェケーッケッケケケケ」と鳴きながら翔び交わす。外国から来る意の朝鮮鳩であるが、隣の山平地区では翼の下面に紋があるので、この鳥をモンツキ(紋付)といっている』とあった。これは、所謂、姿の「仏法僧」である、ブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis なのであるが、「頭・背、灰黑色〔にして〕、腹、灰白〔にて〕鷹彪〔(たかのふ)〕有る者」ではないし、凡そブッポウソウはカワラバトとは似ても似つかぬから違う。識者の御教授を乞う。

「金鴿〔(きんばと)〕」ハト科 Chalcophaps 属キンバト Chalcophaps indicaウィキの「キンバトによれば、『種小名indicaは「インドの」の意』。棲息地は『インド、インドネシア、オーストラリア(クリスマス島、ノーフォーク島含む)、カンボジア、シンガポール、スリランカ、タイ、中華人民共和国、台湾、ネパール、バヌアツ、パプアニューギニア、バングラデシュ、フィリピン、ブータン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス』。『日本では、宮古島以南の南西諸島に留鳥として分布する。他の地域での観察記録はほとんどない』。但し、日本の八重山列島の固有亜種として、キンバト Chalcophaps indica yamashinai が棲息する。全長二十五センチメートルとカワラバトより小さく、『頭部から背面にかけては青味がかった灰色、背面と雨覆は光沢のある緑色、腹面は褐色の羽毛で覆われる』。『嘴や後肢は赤い』。『オスは額から眼上部の羽毛が白いが、メスは灰色』とある。

「局局〔(つぼつぼ)〕」私の当て読み。それぞれの割り当てられた巣。

「匹-偶(めをと)」夫婦。

「居〔(を)〕ること」「にて」ぐらいの送り仮名を追加で附すべきか。

「貞節なる者なりと謂ひつべし」良安はハト好きだったのではあるまいか。「本草綱目」の「其の性、最も淫」というのには我慢ならなかったからこそ、かく記したような気がしてならない。

「共に是れ、匹偶〔(めをと)〕なり」それでは兄妹の近親交雑で瞬く間に子孫が出来なくなるような気がしますが? 良安先生?

「午」午前十二時。

「酉」午後六時。

「午」翌日の正午のこと。抱卵時間割り当てはは六時間、は十八時間ということになる。但し、こんな役割分担は、多分、ない。総てであろう。

「蕪菁子(なたね)」狭義に「なたね」と言ったら、「菜種」で、アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ rapa 変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera の菜種油を採る種子だが,

通常、「蕪菁子」(音「ブセイシ」)と書いたら、漢方でカブ(ラパ rapa 変種カブ(アジア系)Brassica rapa var. glabra)の塊根と種子のことである。

「野鴿〔(のばと)〕【一名、「堂鴿〔(だうばと)〕」。】」「家鴿と同類異種なり」冒頭引用で見る通り、これが現行の「ドバト」なら(次注参照)異種ではなく、全くの同種である。なお、私は現行の「ドバト(土鳩)」という語を無批判に使っていたが、室町期の「塔鳩(たうばと)」(=当時の口語推定発音「ばと」)、安土桃山時代の「堂鳩(だうばと)」(=当時の口語推定発音「ばと」)の後、全く先行する呼称と無関係、江戸時代になって「土鳩(どばと)」という呼称が出現したと考える方が不自然で、私は「土」を当てるのは後附けに過ぎず、これは先行する「とうばと」「どうばと」が短縮化したものと採るべきではないかと考えている。

「冠〔(さか)〕無きを異と爲す」どうも変だ。先に言った鼻瘤が、カワラバト=ドバトのように白く盛り上がったりせず、至って目立たないというのは、実は、

ハト科キジバト属キジバト Streptopelia orientalis

の特徴であるからだ。しかし、「鴿を畜ふの家、亦、必ず、堂鴿を畜ふ。如〔(も)〕し、鴿、去つて歸らざれば、則ち、堂鴿をして、若干(そこばく)、飛び舞はして、之れを誘ひ歸らしむなり」というのはどうだろう? こんな習性がカワラバトとキジバトの間に成立するとは思われないのだか?]

古今百物語評判卷之三 第六 山姥の事附一休物語幷狂歌の事

 

  第六 山姥(やまむば)の事一休物語狂歌の事

又、問(とふ)ていはく、「世に、山姥(やまうば)といふ物ありて、人をとるよし、又は、人の女房にばけたる物語なども候ふ、實(まこと)の女ににて候ふや、不審(いぶかし)さよ」と云(いひ)けるに、先生、評していはく、「山姥といふは深山幽谷の鬼魅(きみ)の精たるべし。此世界あれば、此人あり。此水あれば、此魚、生ず。其氣のあつまる所にては鬼魅の精靈、あるまじきにあらず。併しながら、其(その)姥(うば)といへるは、『龍田姫(たつたびめ)』・『山姫(やまひめ)』などの日本の云ひならはしなるべし。其名に付きて、しづはたのたくみにかゝずらひ、苧(を)うみ、絲(いと)つむぐやうに、謠(うたひ)の曲舞(くせまひ)にも諷(うた)ふなるべし。さて又、此曲舞を、一休和尚、作り給へる時、『佛あれば、衆生あり、衆生あれば、山姥もあり』と作りて、此間(このあひだ)の詞(ことば)を如何(いかゞ)とおもへる時、螺河(にながは)新右衞門、來たりて、『「柳(やなぎ)は綠、花は紅(くれなゐ)の色々」と候はゞ、あとさき、相應して侍らむと付けられし、と申(まうし)ならはせり。又、過ぎし頃、某(それがし)、『ばけ物』を題にして、『戀(こひ)』の狂歌、讀みしに、『山姥』をよみしは、

 とち程(ほど)な泪(なみだ)を袖にとゞめかね

     聲をあけ路(ろ)の山にふしぬる

 春さればこなたのことや忘るらん

     花をたづねて山めぐりして」

[やぶちゃん注:「山姥」の標題の「やまむば」と本文の「やまうば」(本文は総てこれ)のルビの相違は原典のママ。妖怪「山姥」については、「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の本文及び私の注を参照されたい。

「此世界あれば、此人あり。此水あれば、此魚、生ず。其氣のあつまる所にては鬼魅の精靈、あるまじきにあらず」化生説である。

「龍田姫」ウィキの「竜田姫」を引く。『日本の秋の神。立田姫と表記されることもある。別称・龍田比売神。竜田山の神霊で元々は風神。秋の季語』。『五行説では西は秋に通じ、平城京の西に位置する竜田山(現在の奈良県生駒郡三郷町の西方)の神霊が秋の女神としての神格を持ったもの。龍田比古龍田比売神社』(たつたひこたつたひめじんじゃ:奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)龍田にある龍田神社の旧正式名。ここ(グーグル・マップ・データ)。「延喜式神名帳」にもこの社名で記載されており、小社に列している。しかし、後に龍田大社(奈良県生駒郡三郷町立野南)から天御柱命・國御柱命の二神を勧請したため、本来の祭神は忘れられてしまった。現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀している)『に祭られる龍田比古神が夫神であり、鮮やかな緋色や黄金の秋の草木の錦を纏った妙齢の女性として想像される』。「竜」が「裁つ」に『音が似ているため裁縫の神としても信仰される。また』、『竜田山を彩る紅葉の美しさから、紅葉を赤く染める女神として染色が得意ともされた』。「源氏物語」の「帚木(ははきぎ)」の、知られた「雨夜の品定め」の場面には左馬頭のかつての妻が染色が巧みであったことを龍田姫になぞらえている。当時、染めものが得意であることは』、『良き妻の条件の最たるものだった』。『春を司る佐保山の佐保姫と東西・春秋の一対の女神として知られ、他にも夏を司る「筒姫」、冬を司る「宇津田姫」(白姫・黒姫とされることも)が四季それぞれに配される』とある。

「山姫」原初的には山の守り神たる女神を指したが、後に山中の妖怪に変質し、人の血を吸って死に至らしめるなどの言い伝えが、全国各地に広く残っている。以前は先の「龍田姫」と同じであったに相違ないが、零落するに従って「山女(やまおんな)」「山母(やまはは)」「山女郎(やまじょろう)」「山姥(やまうば/やまんば)」果ては「鬼婆(おにばば)」などへと変容するとともに、若くて抜けるような白い肌を持った美女から、醜悪な老婆へと変じて蔑称となってゆくのは実に皮肉で憐れを誘う。「谷の響 一の卷 三 山婦(やまおみな)」の本文及び私の注、及び私の「宿直草卷三 第五 山姫の事」も参照されたい。

「しづはたのたくみにかゝずらひ」「賤機の巧み」であろうか。機織りは女性の専業であるから女の意に転じ、賤しい女の巧みな誘惑に心を惹かれ。無論、文学的情緒的比喩としてである。

「苧(を)うみ」「苧を績(う)む」「苧」は「そ」とも読む。麻(あさ)や苧(からむし)の繊維を長く縒(よ)り合わせて糸にすることを指す。

「謠(うたひ)の曲舞(くせまひ)」ウィキの「曲舞」によれば、『中世に端を発する日本の踊り芸能のひとつで、南北朝時代から室町時代にかけて流行した。単に「舞」と称することもあり、「久世舞」「九世舞」などとも表記する』。『幸若舞の母体になった舞である』。その『起源は不詳であるが』、十五世紀末から十六世紀『初頭にかけて成立したとみられる』「七十一番職人歌合」には『白拍子と対にして描かれており、両者の服装や囃子などの共通点から、平安時代末期に成立した白拍子舞に源流を求める見解がある』。『曲舞は、ストーリーをともなう物語に韻律を付して、節と伴奏をともなう歌舞であり、踊り手には稚児と男があった』。稚児舞は『水干、大口、立烏帽子の服装、男舞は水干にかわって直垂を着用して、扇を手にもつスタイルを基本とした』。『また、男装した女性による女曲舞もあった』。謡曲の「山姥(やまんば)」や「百万」(ひゃくまん:観阿弥原作・世阿弥改作になる狂女物の代表作。実在の鎌倉時代の女舞い手百万をモデルとする主人公「百万」の芸が披露されるとともに、失った子を探す母の母性が描かれる。前の「山姥」は、ツレとして曲舞の名女舞い手芸名「百万山姥」が登場し、本作との親和性が強い)は『古来の曲舞の様相を現代に伝えるとの評がある』『一方、室町時代の中期以降は、特にその一流派であ』った『幸若というスタイルで継承されてゆくこととなった』とある。謡曲の「山姥」は世阿弥作で、都の曲舞の名手の遊女が山で迷い、山姥に助けられ、山姥は境涯を語り、山巡りの舞を見せて消える。詳しくはサイト「the能.com」の「山姥」及び次注のリンク先を見られたい。

「此曲舞を、一休和尚、作り給へる時」「銕仙会」公式サイトの「能楽事典」の「山姥」の中野顕正氏の解説によれば、『本作のクライマックスとなってい』る『場面では、〈仏法と世俗〉〈悟りと煩悩〉〈仏と人間〉といったこの世のあらゆる存在が、本来は二項対立的に存在するものではなく、ひとつの真理の異なる現れ方に過ぎないのだと述べられており、その中で「人間も山姥も、本来は同じ存在なのだ」と主張されています。こうした「邪正一如」という仏法の理を、禅の言葉などを多用しながら綴っているところに、本作の特色はあるといえましょう』。『現在では、本作の作者が世阿弥であることは資料上から明らかとなっていますが、かつては、このような難解な作品を書いたのはきっと僧侶に違いないと考えられていた時期もあり、本作は室町時代の有名な禅僧・一休宗純の作だと考えられていました。一休の死後にその事績をまとめた『一休和尚年譜』では、本作や《江口》は一休の作であるとされ、以前はこうした理解がなされていたのでした。それほど、本作では深遠な禅の理法が説かれ、輪廻を逃れ得ぬ鬼女の身でありながらこの世の真理をきわめた存在として、本作のシテは描かれていたといえましょう』とあり、この元隣の言っている意味が判然とする。謡曲「山姥」の上記のクライマックス・シークエンスで、元隣の引く「佛あれば、衆生あり、衆生あれば、山姥もあり」という詞章の出るのは以下(新潮日本古典集成「謡曲集 下」(伊藤正義校注・一九八八年刊)を参考にし、漢字を恣意的に正字化した。太字下線は本条のために私が施したもの)。

   *

【クリ】

シテ〽「それ山といつぱ 塵泥より起こつて 天雲掛かる千丈の峰

地謠〽「海は苔の露より滴(しただ)りて 波濤を疊む萬水たり

【サシ】

シテ〽「一洞(いつとう)空しき谷の聲 梢に響く山彦の

地謠〽「無聲音(むしやうをん)を聞く便りとなり 聲に響かぬ谷もがなと 望みしもげにかくやらん

シテ〽「殊にわが住む山家(さんか)の景色 山高うして海近く 谷深うして水遠し

地謠〽「前には海水瀼々(じやうじやう)として 月(つき)眞如の光を揭げ 後(うしろ)には嶺松(れいしよう)巍々(ぎぎ)として風(かぜ)常樂の夢を破る

シテ〽「刑鞭(けいべん)蒲(かま)朽ちて螢空しく去る

地謠〽「諫鼓(かんこ)苔深うして 鳥驚かずとも言ひつべし

【クセ】

地謠〽「遠近(をちこい)の たづきも知らぬ山中(やまなか)に おぼつかなくも呼子鳥の 聲凄き折々に 拔木丁々(とうとう)として 山さらにかすかなり 法性(ほつしやう)峯聳えては 上求(じやうぐ)菩提を現はし 無明(むみやう)谷(たに)深き粧ひは 下化(げけ)衆生を表(ひやう)して金輪際に及べり そもそも山姥は 生所(しやうじよ)も知らず宿(やど)もなし ただ雲水(くもみづ)を便りにて 至らぬ山の奧もなし

シテ〽「しかれば人間にあらずとて

地謠〽「隔つる雲の身を變へ 假に自性(じしやう)を變化(へんげ)して 一念化生(けしやう)の鬼女となつて 目前に來れども 邪正一如(じやしやういちによ)と見る時は 色卽是空そのままに 佛法あれば世法(せはう)あり 煩惱あれば菩提あり 佛(ほとけ)あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり 柳は綠 花は紅(くれなゐ)の色々

地謠〽「さて人間に遊ぶこと ある時は山賤(やまがつ)の 樵路(せうろ)に通ふ花の蔭 休む重荷に肩を貸し 月もろともに山を出で 里まで送る折りもあり またある時は織姫の 五百機(いをはた)立つる窓に入つて 枝の鶯絲繰り 紡績(ほうせき)の宿に身を置き 人を助くる業(わざ)をのみ 賤(しづ)のめに見えぬ 鬼とや人の言ふらん

シテ〽「世を空蟬の唐衣(からころも)

地謠〽「拂はぬ袖に置く霜は 夜寒(よさむ)の月に埋(うづ)もれ 打ちすさむ人の間にも 千聲萬聲(せんせいばんせい)の 砧(きぬた)に聲のしで打つは ただ山姥が業なれや 都に歸りて世語りにせさせ給へと 思ふはなほも妄執か ただうち捨てよ何事も よしあしびきの山姥が 山𢌞りするぞ苦しき

シテ〽「あしびきの

地謠〽「山𢌞り

   *

「此間(このあひだ)の詞(ことば)を如何(いかゞ)とおもへる」この詞章の意味するものは如何なる意味かと考えていた。

「螺河(にながは)新右衞門」不詳。元隣の友人の俳諧師かと思ったが、ウィキの「蜷川氏」を見たところ、『室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて』三『代目の蜷川親当(後の智蘊)の頃より政所代を世襲することとなった。室町時代末期、主君である将軍足利義輝を失った蜷川親世は零落し、出羽国村山郡で没した。嫡子蜷川親長を始めとする一族の多くは、土佐国の長宗我部元親のもとへ落ちのびた(元親室石谷氏が親長の従兄弟。石谷氏は、明智光秀重臣の斎藤利三の妹)』。『また、蜷川氏は丹波国船井郡を所領としていたことと、伊勢貞興が明智光秀の家臣にとなったこともあり、蜷川貞栄・蜷川貞房父子等の一族が光秀に仕えた。山崎の戦いで明智氏が滅亡した後は、元親のもとへ落ちのびた一族もおり、丹波で暮らし続けた一族もいる』。『長宗我部氏滅亡後、親長は徳川家康の御伽衆として仕えた。その後蜷川氏は旗本として続き、明治維新に至る』とし、さらに『蜷川氏の当主は代々』、『新右衛門と名乗っている』とある。更に『蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ』「一休さん」(一九七五年~一九八二年)に『足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場するが、モデルとなった』蜷川親当(ちかとも ?~文安五(一四四八)年:出家後に智蘊(ちうん)と称した。室町中期の元幕府官僚で連歌師)『が仕えたのは足利義教であり、そもそも室町幕府に寺社奉行はなく、実際のところ一休宗純と師弟関係があったのも』、『親当が出家して智蘊と名乗ってからのことであり、ほとんど架空の人物である。ただ、親当の嫡子蜷川親元が記した』「親元日記」や、一休の「狂雲集」には『蜷川親当(智蘊)と一休の交流(禅問答など)が綴られており、これをスタッフがアニメ制作の参考にしたのではないかとみられる』とある。ウィキの「智蘊」によれば、『法名は五峰』とあり、『室町幕府の政所代を世襲する蜷川氏の出身で、蜷川親俊の次子。子に親元、岩松明純室がいる。一休宗純との親交により広く知られる』。『応安(およそ』一三七〇『年代前半)の頃まで越中国太田庄にあった。足利義教の政所公役を務めたが、義教の死後出家、智蘊と号した。和歌を正徹に学ぶ。正徹の』「正徹物語」下巻の『「清巌茶話」は彼の聞書きとされている』。『連歌では』、永享五(一四三三)年の『「永享五年北野社一日一万句連歌」を初出として、多くの連歌会に参加。宗砌と共に連歌中興の祖と呼ばれた。連歌集に』「親当句集」、他にも「竹林抄」や「新撰菟玖波集」に『入集している。宗祇が選んだ連歌七賢の一人』とある。無論、元隣が当時の蜷川氏当主と親しかったのかも知れないが、或いは、この部分、元隣の創作の可能性もあるのではないか、と感じた。則ち、彼の元にやってきたのは、実在する「螺河(にながは)新右衞門」ではなく、二百数十年前の蜷川新右衛門親当(智蘊)の霊という設定であり、彼が歌合せ風に詠んだとして掲げる二首の狂歌は、実は元隣の作ではないか、という疑いである。大方の御叱正を俟つ。

「柳(やなぎ)は綠、花は紅(くれなゐ)の色々」前掲の謡曲「山姥」の詞章の引用(太字下線部)。新潮日本古典集成「謡曲集 下」の注の指示する謡曲「芭蕉」の「柳は綠 花は紅と知ることも ただそのままの色香の 草木(さうもく)も成佛の國土ぞ」という詞章の頭注に、『〈柳は緑、花は紅」に、それぞれあるがままの姿が仏の体だと知ってみれば、それはとりもなおさず』、『色香を保つ草木のままで成仏している仏国土なのだ〉。「柳緑花紅真面目」は蘇東坡の詩と伝えられているが』、『元拠不詳。元来』、『禅語らしいが「世間相常住」の例証として流布し、天台本覚論』(平安後期に始まり、中世に盛行した天台宗の現実や欲望を肯定的に捉える理論。本覚の解釈を拡大して、現実の世界や人間の心がそのまま真理であり、本覚そのものの姿であると説き、煩悩と菩提を同一のものとし、修行を軽視する傾向をもつ。ここは三省堂「大辞林」に拠った)の『中にも説かれる』とある。

「あとさき、相應して侍らむと付けられし」謡曲「山姥」の当該箇所、「邪正一如と見る時は 色卽是空そのままに 佛法あれば世法あり 煩惱あれば菩提あり」に続けて「佛あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり」とした後に、「柳は綠 花は紅(くれなゐ)の色々」と、論理的に相応しく、詞章を繫げたことを指す。

「とち程(ほど)な泪(なみだ)を袖にとゞめかね聲をあけ路(ろ)の山にふしぬる」底本は「あげ路」とする。「ろ」の読みは原典に拠った。「とちほどの」は「栃程の淚」で、栃の実ぐらいの、大粒の涙(これは子供っぽい無垢さ、山姥の中の少女(姫)性を含ませるか)の意。「あけ路(ろ)」はまず、底本の「あげ路」で「上げ路」、山へ登る道で、それに己が宿命に声を「あげろ」(上げていること)を掛けるか。或いは「あけろ」で「明け路」、一夜泣き叫ぶうちに「朝明けを迎える山路」にやっと僅かな眠りを持つ、の謂いか? よく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「春さればこなたのことや忘るらん花をたづねて山めぐりして」「されば」は「来れば」の意。単品ではどうということはないつまらぬ一首だが、左の悲壮な一首と合わせ読むと、なにか胸を撃つものがある。この歌は何かの元歌がありそうだが、和歌嫌いの私には判らぬ。同じく識者の御教授を乞うものである。]

2018/10/15

古今百物語評判卷之三 第五 貧乏神幷韓退之送窮の文、范文正公物語の事

 

 

  第五 貧乏神韓退之送窮の文(ぶん)、范文正公物語の事

 

Binbougami

 

[やぶちゃん注:入れ子の会話文が多いので、特異的に改行・字下げ及びその他の記号を施して読み易くしてみた。]

 

 ある人の云(いはく)、

――去(さる)物語たりに云へるは、河西(かはにし)あたりの、きはめてまづしき者、何事も『左(ひだり)ずまふ』をとるがごとく、くる年も侘しく、明くる年も心にかなはねば、

「とやせん、かくやらむ。」

と、身のをき所さへ案じくらす折ふし、何かは知らず、肩の上より、五寸ばかり成(なる)物、落ちたり。

 取りあげ見れば、人形(ひとかたち)にて、目・鼻・口・舌も、そろひたり。

 彼(かの)貧者、おどろきて、

「汝、何者なれば、我が肩より落ちたる。」

と云へば、答(こたへ)て云く、

「我、世に、いはゆる、貧乏神にて、日頃、こなたの身に住(すま)ゐせし者なり。」

と云へば、貧者、よろこび、妻子を呼(よび)て云ふやう、

「扨々、嬉しきこと哉(かな)。此日比(このひごろ)、此者、我につきまとへばこそ、汝等にも、からき目を見せつれ、向後(けうかう[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「きやうこう」。])よりは、手前もなをり、物每(ものごと)、潤澤なるべし。打ち殺しても捨(すつ)べきなれども、いぬると云へば、其まゝにてたすけやるべし。」

と云へるに、貧乏神、わらつていふやう、

「御悅(おんよろこび)は御尤(ごもつとも)なれども、我、そなたの身をはなるゝに非ず。こなたの身のうへ、頂(いたゞき)より、足のつまさき迄、ひしと、諸方の貧乏神、つきまとひたるうへに、此比(このごろ)、また、新しき神どもの、遠方よりつどひ來たりし故、おり所なく誤(あやまり)て落ち侍る。」

といへば、彼者、興さめて、あきれはてたり、と申す事の候が、若(もし)、此神候哉(や)、左(さ)候はゞ、萬(よろづ)のばけ物よりもおそろしき者にて御座候。――

と問(とひ)ければ、先生、評していはく、

――此神を『窮鬼(きうき)』[やぶちゃん注:貧乏神。]と名附たり。

 夫(それ)、人の貧富は、天命の禀受(ひんじゆ)[やぶちゃん注:授かり受けること。]の、あつき・薄きによれば、聖賢君子の、德義正しく、智慮ふかしといへども、如何ともする事、なし。孔子・顏淵・曽參(そしん)・原憲(げんけん)の類(るい)、あげてかぞふべからず。

 然るを、愚なる者は(しい)て貧(まづしき)を去り、富を求めむとして、其身をくだし、名をはづかしめ、後には刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:刑罰に処すること。死刑に処すること。]に落ちゐる[やぶちゃん注:ママ。]たぐひ、此れ、天命を知らずして、幸(さいはひ)を願ふがゆへ成(なる)べし。

 常體(つねてい)の者は、天命の說も、ことむつかしければ、佛家(ぶつけ)に、いはゆる、三世(さんぜ)の說を立てゝ、過去の宿業(しゆくごふ)と云へるも、害あるにあらず。

 かく、天運によるなれば、神(かみ)有(あり)て司(つかさどれ)るにもあらざめれど、唐の韓退之と申せし大儒も、正月・晦日(つごもり)に酒肉をのせて、文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひしかど、一生が間、不仕合(ふしあはせ)のみ、打續(うちつづき)候故、宋の陳簡齋(ちんかんさい)といふ詩人の詩にも、「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」(韓愈 窮を推せども窮去らず  樂天 富みを待てども 富み來らず)と作りしとかや。

 又、宋の范文正公と云(いへ)るは、宋朝一人の人品(じんひん)にて、學問才藝は更にもいはじ、好むで、人に施し給ふ。後に饒州(ぜうしう)の守護職に成(なり)給ひて、家、富み、門、榮(さかえ)たり。

 然(しかる)に、其友に、きはめてまづしき浪人ありて、渡世のたつきなかりければ、范文正公と舊友なるによつて、

『合力(かうりよく)に預らばや。』

と思ひて、遙々、饒州にいたりて、此事を嘆きしかば、文正公、もとより、人に物ををしまぬ心なれば、大守たりといへども、一錢のたくはへ、なし。

 折節、六月の頃なれば、文正公、仰せけるは、

「當夏(とうなつ)の税(みつぎもの)に麥を數萬石(すうまんごく)おさめしを、せがれ某(それがし)をして、慰みがてら、奉行にそへて、賣りに遣したり。此者、歸らば、此金をあたふべし。」

とて、待(まち)給ふに、子息、歸りて申さるゝは、

「むぎをそれぞれに賣(うら)せける所に、古鄕(ふるさと)を通りしかば、親類どもの、まづしく候ふ者に、のこらず、あたへて歸り候ふ。」

と申されし故、文正公も、彼の友だちも、力をおとしぬ。

 さて、其後(のち)、文正公、仰出(おほせいで)らるゝは、

「此州に晉(しん)の王義之の石碑あり。是を石ずりにうつ時は、壹枚を黃金(わうごん)一斤(いつきん)には賣れ、やすかるべし。されども、平人(へいにん)の是をうつ事、あたはず。我、幸(さいはひ)、守護なれば、心易し。」

とて、則(すなはち)、其石摺り百枚をうち給ふべき紙硯(かみすゞり)をとゝのへ給ひ、

「既に、いついつの日、打ち給ふべき。」

とて、其(その)近邊に仰付けられ、既に明日はその所へ文正公も諸共(もろとも)に出で給ふべきと定(さだま)りたる今夜、俄に、土民ども、來たりて申(まうす)やう、

「今夕、俄に夕立して、雷(いかづち)、その石碑へ落(おち)候が、雨晴れて後、見候へば、石碑、微塵にくだけ、いづちへ飛びしやらん、行(ゆき)がたを存ぜず。」

と申(まうし)けり。

 その友、とかうすべきやうもなくて、手をむなしくして、かへり侍りぬ。

 誠にけつかう[やぶちゃん注:ママ。「結構」。]なる文正公を友達にもち、かく念比(ねんごろ)に預(あづか)れども、其數(すう)のきはまりには、是非にも及ばぬ事ならずや。東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りしは、此事なり。――

とかたられき。

[やぶちゃん注:「河西(かはにし)」よく判らぬ。辞書では、京都市の西洞院川又は堀川の西、下京二条通り以南の一帯。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に職人・小商人が多く住んでいたとし、別に京の賀茂川の西の遊所。陰間茶屋が並んでいた、とはある。

「左(ひだり)ずまふ」「左相撲」であろうが、不詳。「左前」と同じなら、「運が傾くこと・経済的に苦しくなること」で腑には落ちる。

「顏淵」孔子第一の高弟顔回の字(あざな)子淵からの呼称。

「曾參」孔子の弟子曾子の諱(いみな)。

「原憲」孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる弟子。

「三世(さんぜ)」前世・現世・後世(ごぜ)。

「韓退之」中唐の詩人で唐宋八大家の一人、文学者・政治家でもあった韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。才気煥発であったが、監察御史の時、京兆尹(いん)李実を弾劾し、却って連州陽山県(広東省)令に左遷され、後に中央に復帰し、刑部侍郎となったが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたことに反対したため、再び、潮州(広東省)刺史に左遷された。後に憲宗が死去して穆宗(ぼくそう)が即位すると、再び召され、国子祭酒から兵部侍郎・吏部侍郎を歴任するなど、政治家としては波乱に満ちた生涯であった。

「文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひし」八一一年、韓愈四十四歳の折り、正月に作った「送窮文」(窮を送る文)を指す。「結柳作車、縛草爲船」(柳を結びて車と作(な)し、草を縛りて船と爲し」て、窮鬼を送り出す祀り(貧乏神送りの儀式。唐・宋以来、年越し前に広く行われていた年中行事の一つ)を述べたもの。この文で彼は行事に託して「窮鬼」と自分との架空の対話を述べている。「紀頌之の中国詩文研究のサイト」の「韓愈の生涯」の「第五章 中央朝廷へ復帰」の「送窮」がよい。梗概を彼が陥れられた冤罪を含め、解説と評を交えて語られており、原文も後に示されてある。

「陳簡齋」(一〇九一年~一一三九年)は南宋初期の詩人で政治家の陳与義の号。開徳府教授から太学博士・符寶郎となるが、左遷されたりした。しかし、一一三八年には参知政事となり、大いに朝廷の綱紀を粛正した。詩に優れた。人格的にも非常に厳格で、濫りに笑わなかったという。

「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」陳与義の以下の詩の冒頭二句であるが、「韓愈」は「退之」の誤り。本名を詠み込むのは礼を失している。訓読は歯が立たないのでやめる。悪しからず。

   寄若拙弟兼呈二十家叔

 退之送窮窮不去

 樂天待富富不來

 政須靑山映白髮

 顧著皂蓋爭黃埃

 何如父子共一壑

 龐家活計良不惡

 阿奴況自不碌碌

 白鷗之盟可同諾

 三間瓦屋亦易求

 著子東頭我西頭

 中間共作老萊戲

 世上樂複有此不

 問夢膏肓應已瘳

 歸來歸來無久留

 竹林步兵非俗流

 爲道此意思同遊

「范文正公」北宋の政治家范仲淹(はんちゅうえん 九八九年~一〇五二年)の諡(おくりな)。欧陽脩の推薦によって枢密副使・参知政事となった。彼は君子の正道を論じて十策に及ぶ施政改革を訴えた。散文にも優れ、著名な「岳陽楼記」の中の「天下を以つて己が任となし、天下の憂いに先んじて憂へ、天下の楽しみに後(おく)れて樂しむ」という「先憂後楽」(後楽園の由来)、儒学を人格形成の実学に高めた人物として知られる(主にウィキの「范仲淹」に拠る)。

「饒州(ぜうしう)」(現代仮名遣「じょうしゅう」)は江西省に嘗て設置されていた州。現在の上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。仁宗の親政の時、范仲淹は中央で採用されて吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡に抗論して、饒州に左遷されている(後に欧陽脩の推輓により中央に復帰)。

「古鄕(ふるさと)」范仲淹は蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身。

「王義之」東晋の政治家で書家として「書聖」と謳われる王羲之(三〇三年~三六一年)。

「石ずりにうつ」石摺りに叩いて拓本として採ること。

「一斤」宋代のそれは五百九十六・八二グラム。

「やすかるべし」それで生活を安んずることが出来よう。

「念比(ねんごろ)に預(あづか)れども」非常な好意に預かったにも拘わらず。

「其數(すう)のきはまり」その浪人の貧として生まれつきの宿命として規定されたその限り。

『東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りし』中文サイトを判らぬながら、いろいろ調べて見たが、蘇軾の「窮措大」(「貧乏学者」の意)という詩の一句らしいところまでしか判らなかった。また、以上の後半部の王義之の碑に纏わるこの不幸譚は、例えば、宋の恵洪(えこう)の詩話集「冷齋夜話」という書に、

   *

範文正守鄱陽。有書生獻詩甚工。文正延禮之。書生自言、平生未嘗得飽。天下之至寒餓者。無出其右。時盛習歐陽率更字。薦福寺碑墨本直千錢。文正爲具紙墨打千本。使售于京師。紙墨已具。一夕雷撃碎其碑。故時人語曰、有客打碑來薦福。無人騎鶴上揚州。東坡作窮措大詩、有一夕雷轟薦福碑句。

   *

と載る。また……いろいろ検索しているうちに、『薦福寺碑  僧人大雅又集王羲之行書刻成之「興福寺碑」』というページを見つけましたが、これがそれかどうかは、もう疲れました、勘弁して下さい、悪しからず。

古今百物語評判卷之三 第四 錢神の事附省陌の事

 

  第四 錢神(ぜにがみ)の事省陌(せいはく)の事

かたへより、問(とふ)て云(いはく)、「世に錢神といふものありて、たぞかれ時に薄雲のやうなる物の氣、一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]、其聲をなして、人家(ひとのいへ)の軒だけを、ざゝめきわたれり。見る人、刀をぬきて切りとむれば、錢多くこぼれ落つる、と云へり。然れども、誰(たれ)得たりといふ者を聞かず候。あるべきものにや」と問(とひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れ、世界の錢の精、空中に靡(たなび)く物なりけらし。何にても、其物、あつまれば、其精、必ず、生ず。陽の精は日となり、陰の精は月と也(なり)、金石(きんせき)の精は星となれば、錢、もと、人爲(じんゐ)にいづる物なれども、その集(あつま)るに及(および)ては、其精、なきにしもあらじ」。又、問て云く、「『子母錢(しぼせん)』と申すもの御座候よし。如何成(なる)事にて候ふや」。云く、「是れ、仙術のひとつにして、昔より申(まうし)ならはし侍る。其法は『靑蚨(せいふ)』といふ蟬と似たる蟲の、かいこのごとくなる子を、草村(くさむら)に生じをけるを、とれば、其母、必(かならず)、たづね來れるを、とりて、母の血をしぼり、八十一の錢にぬり、子の血をも、又、八十一の錢にぬりて、その一方の錢を以て市(いち)に出(いで)て物を買へば、子母(しぼ)の契り、淺からぬ故に、其錢、飛歸(とびかへ)るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、常に、へる事、なしといへり。『子母錢成(なつて)豈患ㇾ貧(あにひんをうれへんや)』と唐の人の作りしも此事に侍る。されど、我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず。そも錢の起りは、外(そと)の圓(まる)きは天になぞらへ、内の方(けた)なるは、地にかたどりて、もろこしにては女媧氏(ぢよかし)の、世に、作り出(いだ)せり。本朝にては聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや。其文(もん)は『開基』・『太平』・『萬年勝寶』・『元寶通寶』など也。猶、後にはもろこしにても、年號を加へて、其名とせり。開元・淸和(せいわ)の類(るい)、是れなり。むかしより、新しき錢出(いで)來ては、古きはすたりし時もあり、又、新舊ともに用ひらるゝ政(まつりごと)も、あり。皆、其時のよろしきに隨(したがへ)り。猶、此銅錢どのは、いかなる心よしやらん、智のあるも、をろかなる[やぶちゃん注:ママ。]も、ちかづかまほしく思へり。され共、類(たぐひ)[やぶちゃん注:ここは「るい」の方が判りがいい。]を思ふ物にて、其多き所には、まねかざれども、集(あつま)り、すくなき所には、たまたま至れども、一夜(いちや)の宿(やど)をも、かる事なし。就ㇾ中(なかんづく)和漢ともに私(わたくし)に鑄る事は、つよき禁制なり。金錢・銀錢は名高き物なれど、私にも鑄るならはしも侍るは、何事ぞや。銅錢は通用の寶(たから)にして、金銀は私の寶なればならん。それ、人の富饒(ふねう)・貧乏は天命のなせる分(ぶん)也。縱逸(ほしいまま)に通寶を鑄ば、誰(たれ)か貧しからん。もし、人の力(ちから)をもつて、貧富を自在にせば、人、よく天に勝(かて)るなり。豈(あに)よく天に勝たむや。又、錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし。唐土(もろこし)にても、時と所により、九十文、或は、八十文、五十七文なるもあり。これを『省陌』と云ふよし、明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」に見えたり」。

[やぶちゃん注:「錢神」という妖怪・怪異は私は他に聴いたことがない。ウィキに「金霊」があり、そこでは「金霊」「金玉」が挙げられ、「かねだま」或いは「かなだま」と読むとあるものの、『金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある』とする。私はこれらと、この「銭神」なるものは、ルーツは同じであろうが、属性や様態に致命的な変質が起こって、肝心の部分(善人限定・家業繁栄・幸運招来等々)が、皆、抜け落ちてしまい、出来(しゅったい)の謂れも脱落し、それこそ、神から零落して妖怪に堕してしまったもののように思われる。まず、「金霊」であるが、『鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)に『よれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている』(所持する刊本の原典画像で以下は補正した。返り点「二」はないが、挿入し、句読点・鍵括弧を打った。リンク先に原画像もある)。

   *

 金靈(かねだま)

金(かね)だまは金氣(きんき)也。唐詩に「不ㇾ貪夜識金銀氣(むさぼらずして よる きんぎんのきをしる)」といへり。又、「論語」にも「冨貴在ㇾ天(ふうきてんにあり)」と見えたり。人、善事(ぜんじ)を成せば、天より福をあたふる事、必然の理(り)也。

   *

以下、私が独自に示す。この「不貪夜識金銀氣」は「唐詩選」にある杜甫の七律「題張氏隱居」の五句目である。

  題張氏隠居

 春山無伴獨相求

 伐木丁丁山更幽

 澗道餘寒歷冰雪

 石門斜日到林丘

 不貪夜識金銀氣

 遠害朝看麋鹿遊

 乘興杳然迷出處

 對君疑是泛虛舟

    張氏の隱居に題す

  春山 伴(とも)無く 獨り相ひ求む

  伐木 丁丁(ちようちよう) 山 更に幽なり

  澗道(かんだう)の餘寒 冰雪(ひようせつ)を歴(へ)

  石門の斜日(しやじつ) 林丘に到る

  貪らずして 夜(よ) 金銀の氣を識り

  害に遠ざかつて 朝(あした)に麋鹿(びろく)の遊ぶを看る

  興に乘じては 杳然(ようぜん)として出處に迷ひ

  君(きみ)に對し 疑ふらくは 是れ 虛舟を泛(うか)べしかと

最終句は、「荘子」の「山木篇」の「方舟而濟於河、有虛船、來觸舟、雖有惼心之人不怒」(舟を方(なら)べて河を濟(わた)るに、虛船有り、來たりて舟に觸るれど、惼心(へんしん)の人有りと雖も怒らず:舟で川を渡ろうとした折り、人の乗っていない舟が流れ来たってその人の舟に衝突したとしても、どんなに短気な人であっても腹の立てようはない。)という話に基づき、張氏の無心さを譬えている(以下、引用に戻る)。

『からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。また』(以下、私が補填した)「冨貴在天」は「論語」の「顔淵第十二」の「司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我獨亡。子夏曰、商聞之矣、死生有命、冨貴在天。君子敬而無失、與人恭有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。」(司馬牛、憂へて曰はく、「人は皆、兄弟(けいてい)有り、我に獨り亡(な)し。子夏、曰はく、「商(しよう)、之れを聞く。死生(しせい)、命(めい)有り。冨貴(ふうき)、天に在り。君子、敬して失ふ無く、人と與(まぢ)はるに恭(うやうや)しくして禮有らば、四海の内、皆、兄弟なり。君子、何ぞ兄弟無きを患へんや。:「商」は子夏の名。)『からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから』、『石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている』。『同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている』。享和三(一八〇三)年の『山東京伝による草双紙』「怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)」では『「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている』。『昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという』。『東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば』、『幸運になれるといわれている』(以下に本書の本条の梗概が紹介されているが、略す)。以下、「金玉」の項。『その名の通り』、『玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという』。『東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい』、『千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている』。『静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると』、『手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし』、『金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり』、『傷つけたりすると、家は滅びてしまう』。滝沢馬琴編の都市伝説集「兎園小説」では、文政八(一八二五)年の『房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという』。そこでは、『では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく』、『金玉の方を語った話だと述べている』また、『同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している』。『東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている』とある。最後の部分は「兎園小説第七集」の、文政八(一八二五)年乙酉七月一日の「兎園会」での「文寶堂」(薬種商。詳細事蹟不詳)の報告の一つである「金靈(かねだま)幷(ならびに)鰹舟(かつをぶね)の事」(読みは推定)であり、私は既に「柴田宵曲 妖異博物館 異玉」で原文を電子化しているので見られたい。

「子母錢(しぼせん)」ここにある通り、青蚨(せいふ)というセミに似た虫(以下に注する)の母と子の血を、それぞれ、別の銭に塗ると、一方を使った際、残った他方を慕って飛んで帰って来るとある故事(以下に原典を示す)であるが、そこから、世に回り回って流通するところの普通の「銭(ぜに)の異名」となった。また、別に「子銭(利息)と母銭(元金)」の意もあるので注意されたい。さて、故事の元は干宝の「捜神記」の「巻十三」に載る以下である。

   *

南方有蟲、名「𧑒𧍪(とんぐ)」、一名「𧍡蠋(そくしよく)」、又名「靑蚨」。形似蟬而稍大、味辛美、可食。生子必依草葉、大如蠶子、取其子、母卽飛來、不以遠近、雖潛取其子、母必知處。以母血塗錢八十一文、以子血塗錢八十一文、每市物。或先用母錢、或先用子錢、皆復飛歸。輪轉無已。故「淮南子」術以之還錢、名曰、「青蚨。」。

   *

「靑蚨(せいふ)」私は既に「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 青蚨」の注で、迂遠な考証をし、その結果として、これは蟬の類ではなく、所謂、俗に呼んでいる広義の「蜉蝣(かげろう)」類であろうと推定比定した。広義のそれとは、真正の「カゲロウ」類である、

有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間

に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「蜉蝣」である、

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類

及び、

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類

を加えたものである(この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽 命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい)。しかも、この拡大比定は、実は、まさにここで書かれてある草の中に産みつけられる「靑蚨」の卵と「錢神」の親和性が強いように思われる点でも都合がいいように思われるのである。「捜神記」でも「靑蚨」は卵を草の中に産むとあり、「和漢三才図会」の中でも「多く蒲(がま)の葉の上に集まる。春、子を蒲の上に生ず。八つ・八つ、行〔(れつ)〕を爲し、或いは九つ・九つ、行を爲す」(これは実は真正カゲロウでは説明がつかない)の部分が、クサカゲロウの卵である、見るからに目を引くところの不思議な形の「優曇華(うどんげ)の華」で説明をつけることが可能だからである。そうして、どうだろう? 「優曇華の華」の先端の楕円円筒体の卵はそれこそ私は銭っぽく見えないだろうか? そうだ! これは

フレーザーの謂う類感呪術なのではあるまいか?

「かいこのごとくなる子」カゲロウ類のそれは、まあ、蠶のようだと言えば、そうも見えなくはないが……ちとムズい気もする。

『「子母錢成豈患貧」と唐の人の作りし』晩唐の詩人許渾(きょこん 七九一年~八五四年?)

の七律「贈王山人」の一節。後の訓読は私の暴虎馮河の力技で訓じた。

   *

   贈王山人

 貰酒攜琴訪我頻

 始知城市有閑人

 君臣藥在寧憂病

 子母錢成豈患貧

 年長每勞推甲子

 夜寒初共守庚申

 近來聞燒丹處

 玉洞桃花萬樹春

 (  王山人に贈る

  酒を貰(か)り 琴を携へ 我れを訪ふこと 頻りなり

  始めて知る 城郭にも閑人有るを

  君臣の藥 在らば 寧(いか)んぞ病ひを憂へん

  子母の錢 成りて 豈(あ)に貧を患はん

  年(とし)長(た)けて 每(つね)に甲子(かつし)を推(お)すに勞(らう)し

  夜(よ)寒くして 初めて共に庚申(かうしん)を守る

  近來 聞説(きくなら)く 燒丹(しやうたん)の處

  玉洞 桃花 萬樹の春)

   *

なお、この詩は「和漢朗詠集」巻下に、頸聯が「年長けては每に勞(いたは)しく甲子を推す 夜寒うしては初めて共に庚申(かうじん)を守る」と訓じて引かれて(原詩句古点)、菅原道真が「己酉年終冬日少 庚申夜半曉光遲 菅」として「己酉(きいう)年(とし)終(を)へて冬の日少なし 庚申の夜(よ)半ばにして曉(あかつき)の光(ひかり)遲し」(古点)と訓じて、庚申の夜の所懐を詠じている。

「我朝にては誰(たれ)心見(こころみ)しとも聞(きき)侍らず」青蚨の術が目的語。

「女媧氏」古代中国神話の女神。天地を補修し、人類を創造した造物主とされる。「淮南子(えなんじ)」によれば、太古に天を支えていた四本の柱が折れると、大地はずたずたに裂け、至る所に大火災が発生し、洪水が大地を覆い、さらに猛獣や怪鳥が横行して、人々を苦しめたという。そこで女媧は、五色に輝く石を溶かして天の欠けた部分に流し込み、これを補い、大亀の足を切り取って天と地を支え直したので、地上には再び平安が甦ったとする。一方、後漢末の「風俗通義」では、女媧が人間を創造したという物語が見え、それによれば、彼女は初め、黄土を人の形に捏ね上げて、人間を丁寧に一人ずつ、創っていたが、作業に骨が折れ過ぎ、休む暇もないのに業(ごう)を煮やし、遂に繩を泥中に浸してそれを引き上げ、その際に繩から飛び散った泥の滴(しずく)が、総て、人間に成ったとする。こうした創造神としての伝承はやがて変化し、女は三皇の一人となったり、また、男性神でる伏羲(ふっき)と夫婦とも考えられるようになった。しかし、上半身は人間だが、下半身が蛇形に描かれた伏羲と女媧が、互いの尾を絡み合わせて並んでいる姿が石などに残されており、寧ろ、こうした蛇身の姿こそ、本来の女媧に近いものと思われる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。女媧は錬金的創造を行っており、手に「規(コンパス)」を持つ姿で描かれることから、金を最初に作ったというのも、頷ける気はする。

「聖武皇帝の時に鑄初(ゐはじめ)けるとかや」聖武天皇(大宝元(七〇一)年~天平勝宝八(七五六)年/在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)。和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)であるが、日本で最初の流通貨幣と言われる和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)は和銅元(七〇八)年に鋳造・発行されたもので、これは、聖武の二代前の女帝元明天皇が慶雲五年一月十一日(七〇八年二月七日)に武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたことから、元号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させたというのが正しいウィキの「和同開珎」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四ミリメートル『前後の円形で、中央には一辺が約』七ミリメートル『の正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は』、六二一年に『発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である』一『文として通用した。当初は』一『文で米』二キログラム『が買えたと言われ、また新成人』一『日分の労働力に相当したとされる』。『現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある』。『唐に倣』う『目的もあった』。七〇八年五月には『銀銭が発行され』、七『月には銅銭の鋳造が始まり』、八『月に発行されたことが』「続日本紀」に『記されている。銀銭が先行して発行した背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して』、『私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要であったからと言われている。しかし、銀銭は翌年』八『月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い』。『当時の日本は』、『まだ』、『米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いて』、『あまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において』、『大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。更に地方財政(国衙財政)が一貫して穎稲を基本として組まれている』『ことから、律令国家は農本思想の観点から通貨の流通を都と畿内に限定して』、『地方に流れた通貨は中央へ回収させる方針であったとする説もある』。『それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている』。『発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間で』は『なかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するため』、『税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど』、『様々な手を打ち』、和銅四(七一一)年には『蓄銭叙位令が発布された』。『これは、従六位以下のものが十貫(』一『万枚)以上蓄銭した場合には位を』一『階、二十貫以上の場合には』二『階』、『進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため』、延暦一九(八〇〇)年にはこの法令は廃止されている。『政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し』、『律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった』。天平宝字四(七六〇)年には『万年通宝が発行され、和同開珎』十『枚と万年通宝』一『枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後』、宝亀一〇(七七九)年に『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭は、同一価を持つものとされ、以後』、『通貨として混用された』。『その後』、延暦一五(七九六)年に四年後をめどに』、『和同開珎、万年通宝、神功開宝の』三『銭の流通を停止する詔が出された』『ものの、実際に停止できたのは』大同二(八〇七)年の『ことであり、それも翌年には取り消された』。また、延暦十五年の『詔では全ての貨幣を隆平永宝に統一する方針が出され、そのための材料として回収された』三『銭が鋳潰された。和同開珎が流通から姿を消したのは』九『世紀半ば』『と推定されている』。『「わどうかいほう」と読む説が主流であるが、「わどうかいちん」と読む説が一部にある』。『「ほう」と読む説は、「珎」は「寳」の異体字であり、「天平勝寳四年」を「天平勝珎四年」と表記している事例のほか』、「東大寺献物帳」には『「寳」の意で「珎」を用いている事例があることや、「寳」は「貨幣」の意であることによる。そもそも和同開珎は』六二一年に初鋳されて三百年以上に『わたり』、『唐および周辺諸国で広く流通した開元通寳を模倣しており、和同開珎の「開珎」は開元通寳を略したものと推察されること、引き続き鋳造された萬年通寳をはじめ、皇朝十二銭、その後流通した宋銭、元銭、明銭および江戸時代の銅銭の全てが「寳」であることなどを根拠にしている』。『「ちん」と読む説は、「珎」は「珍」の異体字であり』、『「国家珍寳」を「国家珎寳」と表記していると考えられる事例があること、などを根拠にしている』。また、『上下右左に「和開同珎」という読み順の可能性を指摘する説もある』。他にも、『「和同」とは官民が互いに納得して取引が出来るように願いを込めた名称であるとする説もある』。『和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭と富本銭が知られて』おり、一九九九年には、『奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在のところ、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている』とある。

「文(もん)」以下の列挙からこれは一文銭ではなく、広義の貨幣の意。

「開基」天平宝字四(七六〇)年に初めて試鋳された日本最初の金貨である開基勝宝のことウィキの「開基勝宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、『太政大臣である恵美押勝(藤原仲麻呂)』(慶雲三(七〇六)年~天平宝字八(七六四)年)『の命により鋳造されたが、鋳造数は極少数であり、質量のばらつきが大きな貴金属貨幣であることから』、『計数貨幣としては不適格であり、流通目的ではなく』、『萬年通寳』百『枚で金貨一枚と価格設定することにより、銅銭の価値を高める狙いがあったとする説がある』。『円形に方孔が開き、文字「開基勝寳」は吉備真備の筆と伝わる』が、現存するものは三十二枚しかない、とある。

「太平」前の開基通宝と同時に発行された銀銭太平元宝。ウィキの「太平元宝」によれば、発光に際して『出された詔には』、『同時に発行された貨幣との交換比率が示され、大平元宝』十『枚で開基勝宝(金銭)』一『枚分』、『また、大平元宝』一『枚は万年通宝(銅貨)』十『枚分に当てると定められた。これらの貨幣の発行権は前年に太政大臣に任ぜられた藤原仲麻呂(恵美押勝)に専制的に与えられた』。しかし、『大平元宝が発掘調査で見つかった事例は報告されておらず、大正時代には某家』から、昭和三(一九二八)年に『唐招提寺で宝蔵から発見され伝わる』二『品が現存していた』(三『品が伝存するとする説もある』)。『現在はその』二『品の拓本が伝わるのみで、現品は行方不明となっている。しかし』、『拓本によれば』、何れも、「続日本紀」に『記された「大平元寳」ではなく「太平元寳」と表記されており、贋物説さえ囁かれていた』。『一方で』、『「大平」は「太平」と同じく天下太平を表す吉語であり、淳仁天皇の治世が太平であることを願ったものともされる』。『現存が僅少である、また確認されていないということは』、『当時一般流通がなかったものと推定され、新規発行の万年通宝』一『枚を従来の和同開珎』十『枚分と』、『高額に設定するために、銀貨の』十分の一『に相当する価値の高いものであることを示す目的の見せ金であったとする説もある』。また、『和同開珎』百『枚分の価値に相当することから』、『私鋳銭が現れることは必至であり、このことによる貨幣経済の混乱を避けるため、大平元宝を流通に投じることはなかったとする説もある』。『現存していない理由として、奈良国立博物館列品室長の吉澤悟は、淳仁天皇や藤原仲麻呂の事績を打ち消したい称徳天皇が回収させて銀壺(現在は正倉院宝物)に鋳直させ、東大寺に奉納したとの説を』二〇一七年に『唱えた』とある。なお、「太平通寶」というのが存在するが、これは太平興国元(九七六)年、北宋の第二代皇帝太宗の時代に鋳造された銅銭で、銭貨が不足していた日本に輸出され、渡来銭としても利用されたもので、和銭ではない

「萬年勝寶」天平宝字四(七六〇)年に鋳造・発行された銭貨。ウィキの「万年通宝」によれば(下線太字やぶちゃん)、直径二十四~二十五ミリメートル『前後の円形で、中央には正方形の孔が開いている。銭文(貨幣に記された文字)は、時計回りに回読で萬年通寳と表記されている。裏は無紋である。量目(重量)』三グラムから四グラム『程度の青銅鋳造貨』。先に引用した通り、和銅元(七〇八)年以来、五十年以上、『通用していた和同開珎に替わる通貨として発行されたが、万年通宝』一『枚に対し』、『和同開珎』十『枚の交換比率が設定されたため、貨幣流通が混乱した。不評のためか』、『わずか』五『年で鋳造は中止された。また、万年通宝発行が藤原仲麻呂(恵美押勝)が推進した政策であり、恵美押勝の乱で仲麻呂が反逆者として殺されたことも中止の原因であったと考えられている』。この時、『同時に金銭開基勝宝、銀銭太平元宝も同時に発行された。その交換比率は金銭』一枚に対して、銀銭十枚、銀銭一枚に対し、万年通宝十枚で『あったが、これらの発行は流通させることを目的としていなかったといわれる。銀銭に至っては現存しない』とある。

「元寶通寶」これもおかしい。唐代以降の中国の通貨の用例に「元宝」・「通宝」の両方の例があり、本邦の発行通貨にはない。これは前に示した「太平元宝」と「万年通宝」を混同した誤りではあるまいか。私は貨幣には疎いので誤りがあるかも知れない。

「開元」開元通宝。唐代において六二一年に初鋳され、唐代のみならず、五代十国時代まで約三百年に亙って流通した貨幣。但し、これが創られたのは武徳四年(唐の高祖李淵の治世に行われた年号で唐朝最初の年号)で、開元は後の玄宗の治世の前半で七一三年から七四一年であるウィキの「開元通宝」によれば、唐代の開元二六(七三八)年に『出版された』「唐六典」には、「武德中、悉く五銖(しゆ)を除き、再(あら)ためて開通元寳を鑄る」と『記述しており』、『一方で』、『詔勅文としては』「旧唐書」の中に「仍令天下置鑪之処並鑄開元通寳錢」と『記述している。唐代には「開元」という元号が存在するが、これは約』百『年後のことであり、これ以降に開元通寳と呼ばれるようになったという説も捨てきれない』とある。

「淸和」不詳。中国の元号には「淸和」はない。或いは、北宋の第八代皇帝徽宗(きそう)が大観五年に政和と改元して政和元(一一一一)年に銭文を「政和通寶」として銭を鋳造している(「政和重寶」銭も発行している)から、それを誤ったものか。

「此銅錢どの」人が惹きつけられることに洒落て、人称の尊敬語を附したものか。

「心よし」「心由」も考えたが、前の擬人化を考えると、「心良し」で「気立てがよいこと」の意であろうか。

「錢の數(かず)を九十六文にせし事、いづれの時より定(さだまれ)りとも覺束なし」個人サイト「雑木林」の「96文=100文」には、江戸時代、一文銭九十六枚は百文として使えたとあり、『この数え方を「九六銭」、「省銭」、「省百」などと呼』び、その起源は、六『世紀頃の中国にさかのぼる』らしい。中国では「百文」相当を七十枚・八十枚・九十枚など、『いろいろな数え方があったのに対して、江戸時代の日本ではだいたいが』九十六『枚で共通してい』るとある。『なぜこのような数え方になったのかについての定説は』ないとされつつも、百『文分を数えて、藁の紐に通す手間賃として』、四『文を差し引いた』とする説、『金貨の単位は』一両=四分=十六朱という四進法であったが、十六で『割り切れる』九十六『の方が何かと便利』であったからという説、百『文で仕入れて』、十『文ずつ』十『人に売ると、それだけで』四『文の儲けになる』からという説を掲げておられる。

「省陌」短陌とも呼んだ。ウィキの「短陌」によれば、『近代以前の東アジア地域で行われてきた商慣習で』、百『枚以下の一定枚数によって構成された銅銭の束(陌)を銅銭』百枚(=〇・一貫)と『同一の価値として扱う事。中国で発生した慣習とされ、日本で行われていた九六銭(くろくせん)と呼ばれる慣習もその』一『つである』。『短陌の慣例の由来については不明な点もあるが、少なくとも前漢の時代には存在しなかった。これは紀元前』一七五『年に書かれた賈誼の上奏文によれば、当時四銖半両(四銖銭の半両銭)』百『銭の重さが』一斤十六銖(=四百銖)が『基準とされ、それより軽い場合には』、『それに何枚か足して』一斤十六銖分『にしてそれを』百『銭分としたこと、反対に』、『それよりも重い場合には』百『枚に満たないことを理由に通用しなかったことが書かれていることによる』(「漢書」『食貨志)。これは裏を返せば、銭』百『枚分の重量があっても、実際の枚数がともなわなければ通用しなかったことを示しており、銭』百『枚以下を』百『枚として通用させる短陌の慣例は』、『まだ存在しなかったことを示している』。『東晋の葛洪によって書かれた』「抱朴子」(三一七年完成)には、『「人の長銭を取り、人に短陌を還す」の言葉があり(内篇』六『微旨)、この時期に既に短陌の慣行があったことが知られる。梁の時代に経済的混乱から』、『短陌が問題視されたことが知られている。この当時、国の東側では銭』八十『枚を』一『陌として「東銭」と称し、西側では銭』七十『枚を』一『陌として「西銭」と称し、首都の建康でも銭』九十『枚を』一『陌として「長銭」と称した。このため、大同元』(五四六)年『には、短陌を禁じる詔が出されたが』、『効果はなく、梁朝末期には銭』三十五『枚を』一『陌とするようになったという』(「隋書」『食貨志)。この習慣は梁と対立関係にあった北周にも伝わり、甄鸞』(けんらん)『が著した数学書』「五曹算経」には『短陌に関する問題が登場している』。『唐代以後、中国王朝が発行する銅銭は高い信用価値をもって通用されて』、『日本をはじめとする周辺諸国においても』、『自国通貨に代わって用いられるようになった』。『だが』、『中国の銅の生産能力は決して高いとは言えない上に、経済の急速な発展から』、『銅銭の需要が銅銭発行量を上回るペースで高まったために、結果的には市中に流通する銅銭が慢性的に不足すると言う銭荒現象が生じるようになった』。『そのため、銅銭の実際の価値が公定の価格以上に上昇して経済的に大きな影響を与えるようになった。そのため、唐代末期以後に銅銭の穴に紐をとおして纏めた束(陌)一差しに一定枚数があれば』、『それをもって』、百『枚と見なすという短陌の慣習が形成されるようになった。これは、実質上の通貨の切り上げになると同時に』、『銅銭を多く取り扱う大商人に有利な制度として定着した。これに対して、短陌を用いずに銅銭』百『枚をもって支払うことを』、『中国では「足銭」、日本では「長銭(丁銭・調銭)」・「調陌」と呼ぶ』。『短陌そのものの規制もしくは公定のレートを定める動きは唐の時代から存在したが、五代十国の一つである後漢の宰相であった王章は、乾祐年間に』七十七『枚をもって銅銭』百『枚として見なす事を公的に定めた』『きまりが定着し、宋以後の王朝でも採用された。「省陌」の異名は特に公定のレートもしくは』、『それに基づく陌に対して用いられることが多い。なお、王章の時には民間より政府への納入は』八十『枚をもって』百『枚としてみなしており、納税時の短陌を政府に有利にする方法が用いられていたが、北宋の太平興国』二(九七七)年に『至って』、『この仕組みが廃止されて』七十七『枚に統一された』。『だが、公式なレートによって短陌のレートを統一することは出来ず、民間では更に少ない枚数での短陌が行われ、政府にとっては民間よりも高い陌の価値を利用した物資調達における有利さを得たに過ぎなかった。民間では』、『更に少ない枚数での短陌レートが設けられていた。孟元老の』「東京夢華録」巻三の『「都市銭陌」においては、官用』七十七『・街市使用』七十五『・魚肉菜』七十二『・金銀』七十四『など、官が使うレートと民間のレートが異なり、更に業種によっては』、『それらとも異なる業界独自のレートが存在したことが記されている』。『短陌が社会に定着すると、陌及び陌』十『束分で構成される「貫」と文(銅銭』一『枚)は同じ貨幣を用いながら、別の体系を有する貨幣単位として機能するようになり、陌を構成する実際の枚数が多少異なっていても公定のレートである省陌から大きく離れたものでなければ、同一単位の陌(』百『枚相当)として認められる慣例も生じた』。『短陌は銅銭不足であった当時の経済状況に合わせた慣習であり、銅銭の輸送の不便さを軽減する上では歓迎された。だが、銅銭を多く保有して多額の取引を行う大商人には』、『実質上の資産価値の増大に繋がる一方、短陌を外してしまうと』、『銅銭本来の公定価値に戻ってしまう(宋代の公定価値を元にすると、短陌を外した銅銭を全て合わせても』七十七『枚分の価値しか有しないために』、二十三『枚分の損となる)ために、日常生活において小額の取引がほとんどである庶民にとっては大変不利な制度でもあった。更に明・清においては』、『悪質な銭を用いた取引に対する良質な銭の使用レートを指す例も現れた』。『なお、近年においては、調銭(』百『枚単位)が本来の通貨流通のあり方であることを前提とした通説を批判して、日常生活や取引の場面において銀や商品の相場との関係などを理由として』、百『枚以下の枚数(』九十六『枚や』七十七『枚など)で束を作った方が使い勝手が良かった場合もあり』、百『枚以下の銭束は』、『その枚数分が必要であった(銭』八十『枚分が相場であった商品を買うために』八十『枚の銭束を作ることが広く行われていた)ケースも含まれている可能性もあるとして、短陌はそれ程広くは行われてはいなかったのではないかとする説も出されている』。以下、「日本」の項(下線太字やぶちゃん)。『日本においては、鎌倉時代後期から室町時代にかけて銅銭』九十七『枚をもって』百『枚とみなす商慣習があったと言われている。その頃には差額の』三『枚分は目銭(めぜに)と称し、長銭(』百『枚)揃っているものを加目銭(かもくせん)・目足(めたり)、省陌(』九十七『枚)のものを目引(めびき)と称した。江戸時代に銅銭』九十六枚(=九十六文)の束をもって銭百文と『見なした慣習も短陌の一つと見なされるが、その慣習は戦国時代初期の』永正二(一五〇五)年の『室町幕府による撰銭令の中において、(銅銭』九十六『枚を』百『文とすることを前提として)』百文の三分の一を三十二文として『換算する規定が見られ』るとある。また、『江戸時代初期の数学書である』「塵劫記」第十四「銭売買の事」にも、九十六枚を百文として『計算する問題が提示されている。こうした慣行を九六銭または省銭とも呼び、これに対して』、銅銭百『枚を』百『文とするものを調銭(長銭・丁銭)と称した』九十七『銭が』九十六『銭になった理由については、江戸時代の』「地方落穂集」が『示した計算上の便宜を図る(』九十六『枚であれば』、三・四・六・八などで『割り切れる)とする説が有力である。また、これとは別に独自の短陌を設けている地方があり、周防・長門・土佐では』八十『枚、伊予では』七十五『枚をもって』百『文とみなす慣習があった。明治維新後の』明治五(一八七二)年、『大蔵省は貨幣の計数貨幣化を推し進めるため、九六銭などの短陌・省陌の慣習を禁止した』とある。

『明の楊升庵(やうしようあん)が「丹鉛總錄」』明代の文人学者楊慎(一四八八年~一五五九年)。升庵は号。一五一一年に進士に及第して翰林修撰となったが、後に世宗嘉靖帝が即位した際、その亡父の処遇について、帝に反対したために怒りを買い、平民として雲南永昌衛に流され、約三十五年間、配所で過して没した。若き日より、神童と称えられ、詩文をよくし、博学であった。雲南にあって奔放な生活を送りながら、多くの著述を残し、その研究は詩曲・小説を含め、多方面に亙るが、特に雲南に関する見聞・研究は貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。「丹鉛總錄」は一五五四年の序がある彼の代表作の一つで、諸対象を考証した一種の博物学書と思われる。]

2018/10/14

和漢三才圖會第四十二 原禽類 白頭翁(せぐろせきれい) (セキレイ)

Sekirei

はくとうをう

 せぐろせきれい 脊黒鶺鴒

白頭翁

 

ペツテ◦ウフヲン

 

三才圖會云白頭翁形似鶺鴒其飛似燕頡頏頭上有

白毛身蒼色宋魏野有白頭翁

△按有脊黑鶺鴒者頭腹白而背黑有原野池沼水禽

 鶺鴒屬也疑所謂白頭翁是乎

 

 

はくとうをう   

 せぐろせきれい 脊黒鶺鴒(セグロセキレイ)

白頭翁

 

ペツテウフヲン

 

「三才圖會」に云はく、『白頭翁は、形、鶺鴒に似て、其の飛ぶこと、燕の頡頏(とびあがりとびさがる)に似る。頭の上、白毛有り。身、蒼色。宋・魏〔の〕野に、白頭翁、有り』〔と〕。

△按ずるに、脊黑鶺鴒(せぐろ〔せきれい〕)といふ有り。頭・腹、白くして、背、黑く、原野・池沼に有り。乃〔(すなは)〕ち、水禽〔の〕鶺鴒の屬のなり。疑ふらくは、所謂、白頭翁、是れか。

[やぶちゃん注:良安は珍しくちょっと困った感じで記しているが、本邦種として知られる、

スズメ目セキレイ科セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ Motacilla alba lugens(北海道及び東日本中心)

同亜種ホオジロハクセキレイ Motacilla alba leucopsis(西日本)

セキレイ属セグロセキレイ Motacilla grandis

セキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea(九州以北)

の四種はぱっと見では似ているから、寧ろ、ここで一緒くたにして記載しているのも無理はないと言えそうだ(そうでなくても、「本草綱目」や「三才図会」記載の鳥類は日本に棲息しないものも多いし、これから後に出るように、実在しない架空の鳥さえも含まれているのであるからして、良安の同定比定の苦労は我々の想像を絶するものがあるのである)。亡き三女のアリスが大好きだった(決して脅かさなかったが、見つけると、いつも静かに後を追った)ハクセキレイから(
ウィキの「ハクセキレイを引く)。『世界中に広く分布するタイリクハクセキレイ(学名 Motacilla alba)の一亜種』。『英名では、タイリクハクセキレイ各亜種を総称して』White Wagtail『と呼ばれるとともに、特に』本邦のハクセキレイ『を指す際には』Japanese (Kamchatka) Pied Wagtail』或いは『Black-backed Wagtail』『と呼ばれる』(後で出すセグロセキレイは、単に Japanese Wagtail)。『ロシア沿海地方・ハバロフスク地方の沿岸部、カムチャツカ半島、千島列島、樺太、日本列島(北海道、本州)および中国東北部に分布する留鳥または漂鳥。冬場の積雪地でも観察される』。『日本では、かつては北海道や東北地方など北部でのみ』、『繁殖が観察されていたが』、二十『世紀後半より』、『繁殖地を関東・中部などへと拡げ、現在は東日本では普通種になっている』(うちの裏山にもゴマンといる)。『また、西日本ではタイリクハクセキレイに容姿が似る』、『ホオジロハクセキレイ』『も観察される』。体長二十一センチメートルほどで、『ムクドリよりやや小さめで細身。他のタイリクハクセキレイ亜種より』も『大型になる』。『頭から肩、背にかけてが黒色または灰色、腹部は白色だが胸部が黒くなるのが特徴的である。顔は白く、黒い過眼線が入る。セグロセキレイと類似するが、本種は眼下部が白いことで判別できる』。『セグロセキレイやキセキレイと同様、尾羽を上下に振る姿が特徴的である』。『主に水辺に棲むが、水辺が近くにある場所ならば』、『畑や市街地などでもよく観察される』。『河川の下流域など比較的低地を好む傾向があり、セグロセキレイやキセキレイとは、夏場は概ね棲み分けている』。『冬場は単独で、夏場は番いで縄張り分散する。縄張り意識が強く、特に冬場は同種のほか、セグロセキレイ、キセキレイと生活圏が競合する場合があり、その際には追いかけ回して縄張り争いをする様子もよく観察される』。『食性は雑食で、一旦高いところに留まって採食に適した場所を探し、水辺や畑などに降りて歩きながら』、『水中や岩陰、土中などに潜む昆虫類やクモ、ミミズなどを主に捕えて食べる。ただし』、『本種は都市部などの乾燥した環境にも適応しており、分布域の広がった近年ではパン屑などの人間のこぼした食べ物を食べる様子も観察されている。また郊外の工場などで小型の蛾を捕食することもある。壁面に留まっている蛾をホバリングして捕まえる』。『寒冷地では年』一『回、暖地では年』二『回繁殖する。地上で羽を広げて求愛ダンスを行う。地上の窪みや人家の隙間などに、枯れ草や植物の根を使って皿状の巣を作り、日本では』五~七月に一腹四~五個の『卵を産む。抱卵期間は』十二~十五日で、『主に雌が抱卵する。雛は』十三~十六日で『巣立ちする。巣立ち後も親鳥と行動を共にし』、三、四羽『程度の集団で行動することもある』。『足を交互に出して素早く歩く。人間のそばにも比較的近く(』三メートル『程度の距離)まで寄ってくる。歩行者を振り返りながら』、『斜めに歩く。夜は近隣の森などにねぐらを取るが、市街地では建築物などに取る様子も観察される。秋になると』、『照明近くの街路樹に集団を作ることがある』。『地鳴きは「チュチン、チュチン」、飛翔時は「チチッ、チチチッ」と鳴く。巣立ち後の幼鳥は独り言或いはつぶやきともとれる長めの鳴き方をすることがある。ごく希であるが』、『成鳥が縄張宣伝で長め(』三『秒程度)の鳴き方をすることがあり、とても美しい声である』。

 次に、ウィキの「セグロセキレイ」を引く。『主に水辺に棲む』。体長は二十~二十二センチメートル、翼開長約三十センチメートル、体重二十六~三十五グラムで、『ハクセキレイと同大』。『頭から肩、背にかけてが濃い黒色で、腹部が白色で胸部は黒色。ハクセキレイと見分けがつきにくい場合があるが、本種は眼から頬・肩・背にかけて黒い部分がつながるところで判別できる』(リンク先に比較画像有り)『またハクセキレイやキセキレイと同様に尾羽を上下に振る姿が特徴的である。雌雄ほぼ同色だが、雌は背中が雄に比べると灰色みがかっている。幼鳥は頭から背中まで灰色である。ただし、ハクセキレイの様々な亜種に似ている部分白化個体の観察例もあるので』、『ハクセキレイとの識別には注意を要する。本種の地鳴き、「ジュジュッ、ジュジュッ」に対し、ハクセキレイでは、「チュチュッ、チュチュッ」と聞こえるので、声による識別は可能である』。『日本(北海道、本州、四国、九州)では普通に見られる留鳥または漂鳥。積雪地でも越冬する場合が多い』。『日本の固有種として扱われることが多いが、ロシア沿海地方沿岸部、朝鮮半島、台湾、中国北部沿岸部など日本周辺地域での観察記録もあり、まれに繁殖の記録もある。韓国では西海岸地域を除く河川で留鳥(局地的)に生息しているとの報告もある』。『水辺に住むが、水辺が近くにある場所ならば』、『畑や市街地などでも観察される。好む地形はハクセキレイに近いが、比較的河川の中流域などを好む傾向がある。瀬戸内海の大きな河川の少ない地域では、海岸沿いの堤防・波消しブロック上、干潟・砂浜で見られることも多い。ハクセキレイやキセキレイとは』、『概ね』、『棲み分けている。 ただし』、『最近では主にハクセキレイの分布拡大により』、『生息地が重なるようになって』きている。『一年を通し、単独または番いで縄張り分散する。縄張り意識がとても強く、同種のほかハクセキレイ、キセキレイと生活圏が競合する場合には』、『追いかけ回して縄張り争いをする様子がよく観察される。なお、他のセキレイと競合した場合に本種が強い傾向がある』。『食性は雑食で、採食方法などもハクセキレイに似るが、本種は水辺の環境に依存しており、畑など乾いた場所での採食行動はあまり見られない。夜は近隣の森などに塒を取る』。繁殖は通常は年一回であるが、二回の場合も『ある。川岸の植物や岩の下、崖地の陰などに枯草などを用いて椀状の巣を作り』、三~七月に四~六卵を『産む。抱卵期間は』十一~十三日で、『主に雌が抱卵する。雛は』十四『日ほどで巣立つ』。『飛翔時に鳴き、地鳴きは「ジュビッ、ジュビッ」などでハクセキレイに似るが』、『濁るところで判別できる。 さえずりも同様に少々濁って聞こえる』。『本種はタイリクハクセキレイ』『の近縁種であるものの、かつては地理的に分離された日本(北海道、本州、四国、九州)の固有種であったと考えられている』『近年、ハクセキレイ』『およびホオジロハクセキレイ』『が日本へと分布を拡げる反面、本種の分布域はハクセキレイに押されるように縮小しているとの指摘がされていた。それを受けて日本野鳥の会が 』一九八〇『年に全国調査を行い、その傾向が明確に記録されている』。『一方、本種も少数ではあるが』、『朝鮮半島・台湾・中国へと渡りをするものが観察されており(それらの地域では冬鳥)、また』、『ロシア沿海地方などでは繁殖も観察されている。そのため』、『飛翔能力などが劣るとは考えられていないが、本種は水辺の環境に強く依存しており、川原で過ごす時間がハクセキレイより明らかに長い(ハクセキレイは畑などでも採食し、市街地の建築物などにも塒を取る様子がよく観察される)ことなどから、都市化が進む環境に適応できずに』、『勢力を狭めているものと考えられている』。『なお、ハクセキレイと本種は近縁種であるが、今のところ』、『概ね』、『交雑することなく』、『棲み分けていると考えられている。また、本種の生息適地においてはハクセキレイよりも本種の方が強い傾向にあるが、離島などにおいてはハクセキレイの侵入により本種が姿を消した地域があるとも指摘されている』とある。

 荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「セキレイ」によれば、属名「モタキラ」(Motacilla)は造語で「小さな動くもの」を意味したが、ローマの学者がこれを「尾が動くもの」と誤って説明して以来、誤解されて wagtail(「尾振り」)などの名称が生じてしまい、それだけでなく、属名末尾の指小接尾辞に過ぎなかった「-cilla」も「尾」の意味として通用するようになってしまったという驚くべきことが記されてある。しかし本邦は或いは確信犯の罪作りで、「日本書紀」にある通り、伊耶那岐・伊耶那美が「みとのまぐあひ」の仕方を知らなかったのを、セキレイが飛んできて尾を上下するのを見て知ったという異伝を載せるのだから、驚くべきは寧ろ、身内にか。]

古今百物語評判卷之三 第三 天狗の沙汰附淺間嶽求聞持の事

 

  第三 天狗の沙汰淺間嶽(あさまだけ)求聞持(ぐもんじ)の事

 

Tengu

 

[やぶちゃん注:戸惑う人もあろうかと思うので、最初に注しておくと、この通称「朝熊山」、正式名「淺間が嶽」とは、三重県伊勢市(山頂は同市朝熊町(あさまちょう))・鳥羽市にある「朝熊ヶ岳(あさまがたけ)」である(ここ(グーグル・マップ・データ))。山頂の少し南東に臨済宗勝峰山(しょうほうざん)兜率院(とそついん)金剛證寺(こんごうしょうじ)があり、この寺を「朝熊山」と呼ぶ場合もある。この山はこの地方の最高峰であり、古くから山岳信仰の対象となっていた。ウィキの「金剛證寺」によれば、創建は六『世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。平安時代の』天長二(八二五)年に『空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお』、『鳥羽市河内町丸山』『の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。金剛證寺はその後』、『衰退したが』、南北朝期の末年に当たる明徳三(一三九二)年に、『鎌倉建長寺』五『世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより』『東岳文昱』(ぶんいく)『を開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗』、『禅宗寺院となった』。『室町時代には神仏習合から伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった』。「関ヶ原の戦い」から『敗走したのちに答志島(現・鳥羽市)で自刃した九鬼嘉隆のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い』、『金剛證寺に出家し、金剛證寺第』十二『世となった』。『江戸時代には徳川幕府が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した』とある。]

 

一人の云(いはく)、「天狗といふ物は、今の世に、誰(たれ)か、さだかに、其形を見たるといふ者なけれども、いにしへより、其すがたを繪にも書(かき)、又、おそろしき物語ども、多く御座候うへ、就中(なかんづく)近き頃、たしかにおそろしき事の御座候(さふらふ)は、伊勢山田に檜垣氏某(ひがきうぢそれがし)、たしかに物語いたされ候は、周防(すはう)の國、智遁(ちとん)といふ出家、淺間が嶽に來りて、『求聞持(ぐもんぢ)の法を行ひたき』よし、望みけるに、『此所は魔所なるゆへ、其法、成就しがたき』よし、申し候へ共、『たつて』と望みて、其法を修しけるに、三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日目。]にあたる比(ころ)、俄に大風吹き來(きた)ると見えしが、彼(かの)求聞持くりたる僧[やぶちゃん注:「繰りたる」で順に呪法の文句を続けていた、の意味であろう。]、いづかたへ行きしやらん、見えざりければ、『今にはじめぬ事[やぶちゃん注:謂いとしては逆接であろう。「今に始まったことではないが、忽然と消失してしまったのは、のニュアンスであろう。]、不思議の至り』と思ふ所に、兩月(りやうげつ)[やぶちゃん注:二た月。]ばかりありて、周防より、『彼(かの)僧、いついつの比、忽然として來りしが、今に人心(ひとごこ)ちなき』と申しこせしに、其日ざし[やぶちゃん注:「日指(ひざ)し」で、伝えられたところのその月日の意である。]、伊勢にてうせし日と同(おなじ)日なり。幾百里の道を、一日(いちにち)が内に送りしも、おそろし。又、其古鄕(こきやう)の寺へとゞけたるも、あやし。此事、更にうきたる[やぶちゃん注:「浮きたる」。根拠のないいい加減な。]事に、あらず。其外、爰元(こゝもと)にても[やぶちゃん注:話者の住む辺りでも、の謂いであろう。]、礫打(つぶてうち)し事、度々あり。いかなる術を得しものに候哉(や)、兎角、心得がたく侍る」といへば、先生、云へらく、「天狗といふ名はもろこしには見えず。『(くはん)』と云ふ獸(けもの)の異名に『天狗』と侍れど、此類(たぐひ)にあらず。又、星の名に『天狗星(てんぐせい)』といふ、ほし、「史記 天官書(てんぐはんしよ)」・「天文志」等に見え候へども、いかなる星とも、はかりがたし。只、『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし。是れ、皆、深山幽谷にすむ魑魅の類(るい)なり。國々所々にあり。尤(もつとも)、多年多力なる物にして、其ふしぎをなす事、狐に百倍せり。木を折り、岩をまろばし、風雨を自在にし、大小の身を現(あらは)せり。順[やぶちゃん注:源順(みなもとのしたごう)。]が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり。おもふに、此もの、天竺・唐土(もろこし)の魔の類(たぐひ)と一所にもあらざめれど、所々の山谷(やまたに)の氣より生ずる所のものなるべし。其かたちをさだかに見ざるは、此もの、もとより、變化(へんげ)の物なればなるべし。世俗に『太郞坊』『次郞坊』など云ひて、山伏のやうに云(いひ)なせるは、其住む所、愛宕(あたご)・ひえの山・鞍馬などいひて、出家の住(すむ)所なればなるべし。『日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する』といふは、人間とても怒れる氣につれて、瞋恚(しんい)[やぶちゃん注:原典は『しんるい』であるが、訂した。「しんに」でもよい。怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪の感情。]のほむらをもやせば、熱丸をのむにひとしければ、其いかれる心を、たとへて、いふなるべし。さて、此妖怪、かならず、人倫[やぶちゃん注:これは単に「人里」の意。]遠き所にあるは、是れ、純陰の處より生ずるなれば、人家など多くつゞきて、たゞしき氣のあつまる處には、其術も、うすらぐ心にや侍らん。されば、淺間の嶽のふしぎも、さもありなんかし。又、『天狗礫』と云ふ事、多くは、狸のしわざなるよし、古き文(ふみ)に見えたり。狸を殺し、煮(に)えくらひて[やぶちゃん注:ママ。]、こらしめ詈(のゝしり)などすれば、其事、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、やむよし、「著聞集」に見えたり。孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば、かやうの類(たぐひ)に似たる沙汰も候はねど、たゞ人道をおさむれば、其怪しき事も、おのづから、消えうするにこそ侍れ」と語られき。

[やぶちゃん注:「智遁」不詳。

「求聞持(ぐもんぢ)の法」虚空蔵求聞法。密教で虚空蔵菩薩を本尊として行うもので、記憶力増進のための修法として知られる。

(くはん)」「本草綱目」の「獣部 獣類」に「」として出る。

【「食物」。

釋名音歡。天狗。時珍曰、又作貆。亦狀其肥鈍之貎。蜀人呼爲天狗。

集解汪頴曰、狗處處山野有之、穴土而居。形如家狗、而脚短、食果實。有數種相似。其肉味甚甘美、皮可爲裘。時珍曰、貒猪也、也、二種相似而畧、殊狗似小狗而肥、尖喙矮足、短尾深毛、褐色。皮可爲裘領。亦食蟲蟻爪果。又遼東女直地面有海皮、可供衣裘、亦此類也。

氣味甘、酸、平、無毒。

主治補中益氣、宜人【汪頴。】小兒疳瘦、殺蛔蟲、宜噉之【蘇頌。】。功與貒同【時珍。】。

   *

とあり、確かに異名を「天狗」とするが、これはどう見ても実在する動物で、調べて見りゃ、現代中国語では、哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ヨーロッパアナグマ Meles meles に種同定されていた。

天狗星(てんぐせい)」音を立てて落下したり、地上に落ちて燃えたりする、大きな流星のこと。

「史記 天官書(てんぐはんしよ)」「史記」の中の「天官書」(てんかんしょ)。司馬遷が書いた当時の星の運行や雲気について詳細に書き記されているが、「天人相関説」に則り、星座を官階に比して「天官」とし、北極を中心とした「中官」と、「二十八宿」を七宿ずつに分けて東・西・南・北の四官に区分した星座群として記録されてあるが、そこに、

   *

天狗、狀如大奔星、有聲、其下止地、類狗。所墮及、望之如火光炎炎沖天。其下圜如數頃田處、上兌者則有黃色、千里破軍殺將。

   *

とある。天狗星の形は大きな流星のよう、激しい音がし、地上に落ちると、それは丁度、犬のようなものに見える。落下する際に観察すると、強烈に耀く火の光が(後の描写からは火柱のようである)めらめらと燃え上って、中天を突き抜くようである。その流星が流れ落ちた下方の地は、丸く数頃(漢代であるので三万三千坪ほどか)の耕作地の表面はまっ黄色になり(熱で焼けることか)、その一帯の千里に於いては、戦敗や将軍が殺される、という意味か。

「天文志」特に「漢書」と「晋書」にある「天文志」のことであろうか。

「『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし」これで、上手くジョイントしないのを誤魔化したつもりですか、元隣先生?

『順が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり』同書の獣の部(巻十八「毛群」)を懸命に探して見たが、遂に出てこない。識者の御教授を乞う。

「日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する」面白いね! 天狗には宿命的な持病があって、毎日服用しなきゃいけなっかった! 「三熱」というのは、一般には仏教で竜蛇などが受けるとされる三つの苦悩で、「熱風・熱砂に身を焼かれること」・「悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること」「金翅鳥(こんじちょう)に食われることであるが、薬を服用する以上は、内憂で「熱丸」とあるからには、やっぱり最初の熱病だろうなぁ。

『「著聞集」に見えたり』巻第十七の「三條前右大臣實親の白川亭に、古狸、飛礫を打つ事」を指す。

   *

 三條の前(さき)の右の大臣(おとど)の白川[やぶちゃん注:鴨川の東一帯の広い範囲を指す呼称。後の叙述からロケーションは現在の東山区五軒町(ちょう)附近である。(グーグル・マップ・データ)。]の亭に、いづこよりともなくて、飛礫をうちけること、たびたびになりにける、人々、あやしみ、おどろけども、なにのしはざといふことを、知らず。次第にうちはやりて、一日一夜に、二盥(たらひ)ばかりなど、うちけり。蔀(しとみ)・遣(やりど)をうちとをせども、その跡、なし。さりけれども、人にあたる事はなかりけり。

「このことを、いかにしてとゞむべき。」

と、人々、さまざまに議すれども、しいだしたる事もなきに、或る田舍侍の申しけるは、

「此事、とゞめん、いとやすきことなり。殿原(とのばら)、面々に、狸を、あつめたまへ。

又、酒を用意せよ。」

といひければ、このぬしは田舍だちのものなれば、『さだめてやうありてこそいふらめ』と思ひて、おのおの、いふがごとくに、まうけてけり。

 その時、この男、侍の[やぶちゃん注:侍の詰所の。]たたみを、北の對(たい)の東の庭にしきて、火をおびたゝしくをこして、そこにて、この狸を、さまざま、調じて、おのおの、よく食ひてけり。さけのみ、のゝしりて、いふやう、

「いかでか、おのれほどのやつめは、大臣家をば、かたじけなく打まいらせけるぞ。かゝるしれ事する物ども、かやうにためすぞ[やぶちゃん注:味見してやるぞ!]。」

と、よくよくねぎかけて[やぶちゃん注:「ねぎかく」は「祈ぎ懸く」で、原義は「神仏に祈願をかける」であるが、ここは叱責・脅迫を闡明することを指す。]、その北は勝菩提院なれば、そのふる築地(ついぢ)のうへへ、骨、なげあげなどして、よく、のみくひてけり。

「今は、よも別(べち)のこと、候はじ。」

といひけるにあはせて、そののち、ながく、つぶてうつこと、なかりけり。

 これ、さらにうけることにあらず[やぶちゃん注:根も葉もないいい加減な作り話なのではなく。]、近きふしぎなり。うたがひなき、たぬきのしわざ、なりけり。

   *

「孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば」「論語」の「述而第七」に出る、君子たる者の在り方の一つ。

   *

子不語怪力亂神。

(「子は怪・力(りき)・亂(らん)・神(しん)を語らず。」と。)

「怪」怪奇・怪異なこと。「力」腕に恃んだ暴力的な武勇。暴虎馮河。「亂」背徳行為。道を乱す無秩序な様態を指す。「神」鬼神や魑魅魍魎に関わること。しかし、孔子がわざわざこれを言わなければならなかったほどに、中国人は、古えより、怪奇談が大好きな証しと言える。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)

Hibari_2

 

ひばり 告天子 噪天

    叫天子 天鸙

【音溜】

    雲雀

    【和名比波里】

 

三才圖會云告天子似鶉而小褐色海上叢草中多有之

黎明時遇天晴霽則且飛且鳴直上雲端其聲連綿不已

常熟縣志云噪天麥熟時有之亦名告天子

郭璞云鷚【一名天鸙】大如鷃雀色似鶉好高飛作聲

△按和名抄云雲雀似雀而大【和名比波里】或用鶬鶊字【鶬鶊者鸎

 之異名也】爲鷚之訓者非也

 鷚有數種大抵似雀而大頭背黧色黑斑不鮮明眼傍

 頷白胸腹灰色脚脛細長爪亦長有距故瘦人譬鷚也

 飛翔鳴時起頭毛其聲圓亮而連綿不休晴日高飛戾

 天舞鳴倦則飛下入叢草中夏月伏卵於麥圃中頡頏

 而直不下于棲先下數十步外而疾步入常宿故能避

 網擌六七月易毛改舊俗呼稱練雲雀至冬鳥肥羽老

 脛弱故捕之者多其味甘脆骨軟而脚共可食以具上

 饌甚賞之或畜樊籠但脛掌細弱易折故籠中盛砂布

 艾以備之好黍食

田雲雀【一名伊乃比】狀類雲雀稍小在田澤流水間鳴聲飛

 舞共稍劣其距亦短頭背翅皆灰色帶黑胸前白黃有

 黑斑尾白與黑襍

鬼雲雀 是乃鷚中之大者頡頏鳴囀勝於常雲雀然難

 多獲之 夫木 春深き夕日の邊の下風に鳴きて上る夕ひはりかな 慈鎭

 

 

ひばり 告天子 噪天〔(さうてん)〕

    叫天子 天鸙〔(てんやく)〕

【音。「溜(リウ)」。】

    雲雀

    【和名、「比波里」】

 

「三才圖會」に云はく、告天子は鶉〔(うづら)〕に似て小さく、褐色。海上・叢草の中に多く之れ有り。黎明の時、天の晴霽〔(せいせい)〕に遇へば、則ち、且つ、飛び、且つ、鳴き、直ちに雲端に上がる。其の聲、連綿〔として〕已まず。』〔と〕。「常熟縣志」に云はく、『噪-天(ひばり)、麥、熟する時、之れ有り。亦、告天子と名づく』〔と〕。

郭璞が云はく、『鷚【一名、「天鸙」。】大いさ、鷃-雀(かやくき)のごとく、色、鶉に似て、好く高く飛び、聲を作〔(な)〕す。』〔と。〕

△按ずるに、「和名抄」に云はく、『雲雀は雀に似て大なり【和名、「比波里」。】。』〔と〕。或いは「鶬鶊」の字を用ふ【「鶬鶊」は「鸎〔(うぐひす)〕」の異名なり。】。鷚(ひばり)の訓を爲〔(な)〕すは、非なり。

鷚、數種有り。大抵、雀に似て大なりと。頭・背の黧(くろき[やぶちゃん注:「黒黄」の意。])色。黑斑、鮮明(あざや)かならず。眼の傍〔(かたはら)〕・頷〔(あご)〕、白く、胸・腹、灰色。脚・脛、細長く、爪も亦、長くして、距(けづめ)有り。故に瘦(や)せたる人を鷚に譬(たと)ふなり。飛び翔(か)けり〔て〕鳴く時、頭〔(かしら)〕の毛を起つ。其の聲、圓亮〔(ゑんりやう)〕にして連綿〔として〕休(や)まず。晴れたる日、高く飛びて天に戾(いた)り[やぶちゃん注:思うに「至」の誤りであろう。]、舞ひ鳴きす。倦(くたび)れては、則ち、飛び下りて、叢草(くさむら)の中に入る。夏月、卵を麥圃(むぎばたけ)の中に伏〔(ぶく)〕す。頡頏(とびあがりとびさが)りして、直ぐに〔は〕棲(すみか)に下らず。先す、數十步の外に下りて、疾(と)く步み、常宿に入る。故に能く網・擌(はご)を避く。六、七月、毛を易(か)へて、舊きを改む。俗、呼んで「練(ねり)雲雀」と稱す。冬に至り、鳥、肥へ[やぶちゃん注:ママ。]、羽、老いて、脛(あしのくき)、弱し。故に之れを捕ふる者、多し。其の味、甘く脆く、骨、軟〔(やはら)か〕にして、脚、共に食ふべし。以つて上饌に具〔(そな)〕へて甚だ之れを賞す。或いは、樊-籠〔(かご)〕に畜〔(か)〕ふ。但し、脛・掌、細弱〔にして〕折(くじ)け易し。故に籠中に砂を盛り、艾〔(よもぎ)〕を布〔(し)〕きて以つて之れに備ふ。黍〔(きび)〕を好(すき)て、食ふ。

田雲雀〔(たひばり)〕【一名、「伊乃比〔(いのひ)〕」。】狀、雲雀に類して稍〔(やや)〕小さく、田・澤・流水の間に在り、鳴き聲・飛〔び〕舞〔ふこと〕、共に稍〔(やや)〕劣れり。其の距〔(けづめ)〕も亦、短し。頭・背・翅、皆、灰色〔に〕黑を帶〔(たい)〕す。胸の前、白黃にして、黑斑、有り。尾は白と黑と襍(まじ)れる。

鬼雲雀〔(おにひばり)〕 是、乃ち[やぶちゃん注:送り仮名は「イ」であるが、私には読めないので「(すなは)ち」に読み変えた。]鷚の中の大なる者。頡頏(とびあがりとびさが)り、鳴き囀(さへづ)ること、常の雲雀より勝れり。然れども、多く之れを獲るは難し。

「夫木」[やぶちゃん注:以下の歌はママ。後注参照。]

 春深き夕日の邊〔(のべ)〕の下風に鳴きて上〔(あが)〕る夕ひばりかな 慈鎭

 

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。属名 Alauda(アラウダ)は、荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ヒバリ」によれば、ラテン語でヒバリを指すが、『ケルト語では〈偉大な歌姫〉を意味する』とある。以下、参照したウィキの「ヒバリ」を引く。『春を告げる鳥として』、古えより、『洋の東西を問わず』、『親しまれている。『古来から人の目に触れる機会が多い種であるため多くの地方名がある。主なものは、告天子(こうてんし、こくてんし、ひばり)』、『叫天子(きょうてんし)、天雀(てんじゃく)、姫雛鳥(ひめひなどり)、噪天(そうてん)、日晴鳥(ひばり)』『など』。分布は『アフリカ大陸北部、ユーラシア大陸、イギリス、日本』。全長は約十七センチメートル、翼開長は約三十二センチメートルで、『後頭の羽毛は伸長(冠羽)する』。『上面の羽衣は褐色で、羽軸に黒褐色の斑紋(軸斑)が入る』。『下面の羽衣は白く、側頸から胸部にかけて黒褐色の縦縞が入る』。『胸部から体側面にかけての羽衣は褐色』、『外側尾羽の色彩は白い』。『初列風切は長く突出』し、『次列風切後端が白い』。『嘴は黄褐色で、先端が黒い』。『後肢はピンクがかった褐色』。『卵の殻は灰白色で、灰色や暗褐色の斑点が入る』。『オスは頭部の冠羽をよく立てるが、メスはオスほどは立てない』。『草原や河原、農耕地などに生息する』。『種小名 arvensis は「野原の、農耕地の」の意』。『しかしながら』、『近年』、『大雪山の標高』二千『メートル付近の高山帯をはじめ、北海道、本州の山岳地帯でも生息が確認されている』。『食性は植物食傾向の強い雑食で、主に種子を食べるが昆虫、クモなども食べる』。『地表を徘徊しながら』、『採食を行う』。『上空を長時間停空飛翔したり』、『草や石の上などに止まりながら囀る』。『繁殖期が始まると』、『オスが囀りながら』、『高く上がって行く「揚げ雲雀」と呼ばれる縄張り宣言の行動は古くから親しまれている』。『和名は晴れた日(日晴り』(ひばり)『)に囀ることに由来する説や、囀りの音に由来する説もある』。『地表(主に草の根元)に窪みを掘り植物の葉や根を組み合わせたお椀状の巣をメスが作り』、一回に三~五個の卵を産む』。『抱卵期間は』十一~十二日で、『雛は孵化してから』九~十日で『巣立つ』。『繁殖期にはつがいで生活し、非繁殖期には小さな群れで生活する』。大伴家持は「万葉集」で(巻第十九の掉尾。四二九二番)、

   二十五日に、作れる歌一首、

 うらうらに照れる春日に雲雀上がり情(こころ)悲しも獨りし思へば

   春日遲々として、鶬鶊(ひばり)、

   正(まさ)に鳴く。悽惆(せいちう)

   の意(こころ)は歌にあらずは

   撥(はら)ひ難し。よりて、こ

   の歌を作り、式(も)もちて、

   締(むすぼ)れし緒(こころ)を

   展(の)ぶ。

と詠い、また、松尾芭蕉が(貞享四(一六八七)年の作)、

   草菴を訪(とひ)ける比(ころ)

 永き日も囀(さへづり)たらぬひばり哉(かな)

(別本、

   雲雀ふたつ

 永き日を囀りたらぬひばりかな

とする。私は断然、「も」の前者を支持する。この累加の係助詞の作用によって、本句がまさに家持の心情を遠くしかもダイレクトに響かせていることが判るからである

と詠み、他にも『与謝蕪村などの句で、のどかな日本の田園風景の春の風物詩として多数詠われており』、『春の季語ともなっている。囀りを日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「日一分、日一分、利取る、利取る、月二朱、月二朱」というものがあり、この聞きなしと』、『飛翔しながら囀る生態から』、『太陽に金貸しをしているという民話もある』。『春季に縄張りを主張するために鳴き声を挙げることから』、『春の風物詩とされることもあ』る。本邦では、『飼い慣らしたヒバリを放ち、そのさえずりと高さを競わせる「揚げ雲雀」と呼ばれる遊びがあった』が、『現在は鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律によりヒバリの愛玩目的の飼育は認められていない』。『近年、世界的に減少傾向にあり』、『ヨーロッパでは春播き小麦から秋播き小麦への転換で草丈が高くなることによる生息適地の減少や年間繁殖回数の減少、また』、『農耕の大規模化にともなう環境の均質化が原因として考えられている』。『東京では、畑地面積が大きく減少しており、畑地の小面積化も進んで』おり、『作付け作物もヒバリにとっての生息適地となる麦から野菜へと変化しており、このような畑地の減少と質的な変化が』、『ヒバリの減少に大きく影響していると考えられている』とある。私はヒバリの鳴き声が好きだ。飛び立つ際にまず、「ビルッ」と鳴き、上空に至って「ピーチュル、ピーチュル」などと、長く複雑に囀り続ける。「ヒバリの鳴き声 Alauda arvensis 雲雀」(於・蒲郡)と、解説がよい、Gaiapress Channel 氏の「ヒバリ」をリンク(孰れもYou Tubeさせておく。そうして、私は思い出す……自死した原民喜が、その最期に、最後に愛した女性祖田祐子さん(当時は丸の内の貿易会社に勤める英文タイピストであった)に宛てて送った遺書である(底本は所持する青土社「原民喜全集Ⅲ」(一九七八年刊)に拠った)。

   *

 祐子さま

 とうとう僕は雲雀になつて消えて行きます 僕は消えてしまひますが あなたはいつまでも お元気で生きて行つて下さい

 この僕の荒凉とした人生の晩年に あなたのやうな美しい優しいひとと知りあひになれたことは奇蹟のやうでした

 あなたとご一緒にすごした時間はほんとに懐しく清らかな素晴らしい時間でした

 あなたにはまだまだ娯しいことが一ぱいやつて来るでせう いつも美しく元気で立派に生きてゐて下さい

 あなたを祝福する心で一杯のまま お別れ致します

 お母さんにもよろしくお伝へ下さい

   *

この遺書には詩篇「悲歌」が同封された。ここに添える。

   *

 

  悲 歌

 

濠端の柳にはや緑さしぐみ

雨靄につつまれて頰笑む空の下

 

水ははつきりと たたずまひ

私のなかに悲歌をもとめる

 

すべての別離がさりげなく とりかはされ

すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ

祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

 

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ

透明のなかに 永遠のかなたに

 

   *

この雲雀は、自死(昭和二六(一九五一)年三月十三日午後十一時三十一分、吉祥寺・荻窪間の鉄路に身を横たえて自殺した)の前年の早春、遠藤周作と祐子さんの従妹とハイキングに行った多摩川でボートで遊んだ日の思い出に基づくものである。私の偏愛する、遠藤の至高にして痛恨の原民喜の追懐「原民喜」(『新潮』昭和三九(一九六四)年五月)に(青土社「原民喜全集 別巻」(一九七九年刊)に拠った)、

   *

 ぼくはね、ヒバリです。とその時、彼は急に言った。ヒバリになっていつか空に行きますと呟いた。

   *

とあるのである……

 

「三才圖會」は「鳥獣二巻」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該原刊行版本の頁画像)。標題は「鷚」ではなく「告天子」で、目次及び本文では「告天」となっている。御覧の通り、先にも言った通り、厳密な転写引用でないことが判る。試みに並べてみる。

   *   *

 告天子

告天褐色似鶉而小海上叢草中多有之黎明時遇天晴霽則且飛且鳴直上雲端其聲連綿不已一云叫天子(原「三才図会」)

   *

告天子似鶉而小褐色海上叢草中多有之黎明時遇天晴霽則且飛且鳴直上雲端其聲連綿不已(良安の「和漢三才図会」の引用)

   *   *

冒頭の生息域と形態を逆転させているのは、本書が名にし負わず、「三才図会」よりも遙かに主参考として引用している「本草綱目」の引用表示(これも実はものによっては甚だしい抜粋で、順列変更甚だしく、時には原本に書かれている重要な箇所を恣意的に除去しもいる。但し、「本草綱目」自体に、時に相反する内容の併置引用等があるので、良安の恣意的作業の謂いは実はかなり酌めるものがある。今まで取り立てて述べていないので、ここで明らかにしておく)に合わせたものであり、「一(い)つに「叫天子」と云ふ」がカットされているのは、標題下の異名列挙で既に示してあるからである。

「常熟縣志」東洋文庫版の書名注に『十三巻。明の鄧韍(とうふつ)撰。江蘇省常熱県の県志』とある。常熱県は現在の江蘇省蘇州市常熟市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鷃-雀(かやくき)」本邦産種としては、スズメ目スズメ小目スズメ亜目スズメ上科イワヒバリ科カヤクグリ(茅潜・萱潜)属カヤクグリ Prunella rubida を指す。前項「鷃(かやくき)(カヤクグリ)」参照。

「鸎〔(うぐひす)〕」「鶯」に同じい。スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone

「鷚(ひばり)の訓を爲〔(な)〕すは、非なり」良安先生、無風流なことを仰しゃる。じゃあ、なんて訓ずればよろしいか?!?

「距(けづめ)」「蹴爪」。

「圓亮」良安はしばしば用いる。東洋文庫版では『まろやかではっきりして』いることとする。

「舞ひ鳴きす」飛び交いながら鳴く。

「擌(はご)」「はが」「はか」とも読み、「黐」とも漢字表記することから判る通り、竹や木の枝に鳥黐(とりもち)をつけて、囮(おと)りを置いておいて小鳥を捕える罠。

「練(ねり)雲雀」「練る」は生絹(きぎぬ)を灰汁(あく)などで煮て、しなやかに上質のものにすることを指す(転じて「さらによいものにするために手を加えること」の意ともなった)から、これは腑に落ちる謂いである。

「樊-籠〔(かご)〕」既出既注。「樊」(音「ハン」)には「籠・鳥籠」の意がある。

「艾〔(よもぎ)〕」キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii

「田雲雀〔(たひばり)〕」スズメ目スズメ亜目スズメ上科セキレイ科タヒバリ属タヒバリ Anthus spinoletta。鳴き声と飛翔時の様子が似ているが、ヒバリとは相対的には縁遠い種である。ユーラシア大陸東部の亜寒帯地方やサハリン・千島列島・アラスカ・北アメリカのツンドラ地帯等で繁殖し、冬季は北アメリカ南部・朝鮮半島・日本(本州以南。北海道では春秋の渡りの時期に通過する旅鳥)に渡って越冬する。胸から腹に斑模様があり、全長は十六センチメートルほどで、スズメより細身である。積雪が少ない地域の河川や農耕地に飛来し、「ピッピィー」「チッチチー」などと細い声で鳴く。異名「伊乃比〔(いのひ)〕」については、サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「タヒバリスズメ目セキレイ科田雲雀に、『江戸時代前期から「タヒバリ」「イヌヒバリ」の名で知られている。異名』は『「タトリ」「イヌヒ」「イノヒ」「ミゾヒバリ」』とある。「イヌ」は「犬」だろうか?

「鬼雲雀〔(おにひばり)〕」不詳。識者の御教授を乞う。

「夫木」「春深き夕日の邊〔(のべ)〕の下風に鳴きて上〔(あが)〕る夕ひばりかな 慈鎭」これは引用に重大な誤りがある。東洋文庫版でも訂されてあるが、今回、吉岡生夫氏のブログ「狂歌徒然草」の「夫木和歌抄の森を歩く(第7回)」で、幸いにして「夫木和歌抄」から掲載歌形を別に確認出来た(前項で述べた通り、私は同歌集を所持せず、唯一の頼みの綱の何時も表記確認に用いている日文研の「和歌データベース」が休止中、しかもそのデータを迂闊にも保存していなかったという不運続きがあった【2019年1月21日追記】遅まきながら、復活した「和歌データベース」で校合、以下の通りで正しい)。これは、「夫木和歌抄」の一八四九番歌で、

   六百番歌合(うたあはせ)、ひばり

 春深き野邊(のべ)の霞(かすみ)の下風にふかれてあがる夕ひばりかな   慈鎭

が正しい。慈鎮(和尚)は諡号で、歴史書「愚管抄」の作者として知られる、平安末から鎌倉初期の天台僧慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年:摂政関白藤原忠通の子で、摂政関白九条兼実は同母兄天台座主就任は四度に亙った)のことである。吉岡氏は、『上句「霞の下風」は霞の下を吹く風、地上近くの風に乗って』、『霞の中に消えていく』、『夕雲雀』、且つ、『揚雲雀ということになる。ア段の音が要所で交響するせいか、伸びやかな印象を受ける』と鑑賞されておられるあの「雲雀揚がる」の雰囲気を、春の大気の実際のリアルな状態を添えて美事に表わすとともに、音韻上での響きも雲雀の囀りを字背に感じさせて非常によく、和歌嫌いの私でも(実は大の雲雀好きなので)、これはいい歌だと思う。]

2018/10/13

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷃(かやくき) (カヤクグリ)

Kayakuki

かやくき  鴽【音如】

 【音寧】

      鵪【音】

【音晏】

      【和名加夜久木】

 

アン

 

本綱鷃者鶉之屬而候鳥也常晨鳴如雞趨民收麥行者

以爲候形狀與鶉相似俱黑色但無斑者爲鷃也三月田

鼠化爲鴽八月鴽化爲田鼠故無斑而夏有冬無焉鶉則

始由蝦蟇海魚所化終卽自卵生故有斑而四時常有焉

鶉與鴽爲兩物明矣

「夫木」置く霜に枯も果てなてかやくきのいかて尾花の末に鳴くらん經家

 

 

かやくき  鴽〔(じよ)〕【音、「如」。】

 〔(でい)〕【音、「寧〔(デイ)〕」。】

      鵪【音[やぶちゃん注:欠字。]】

【音、「晏〔(アン)〕」。】

      【和名、「加夜久木」。】

 

アン

 

「本綱」、鷃は鶉〔(うづら)〕の屬にして、候鳥なり。常に晨(あし)たに鳴きて、雞〔(にはとり)〕のごとし。民を趨〔(うなが)して〕、麥を收〔めし〕む。行く者、以つて候と爲す。形狀、鶉と相ひ似たり。俱に黑色、但し、斑〔(まだ)〕ら無き者、鷃と爲すなり。三月に、田鼠〔(うごろもち)〕、化して鴽(かやくき)と爲〔(な)〕り、八月に、鴽、化して田鼠と爲る。故に、斑、無くして、夏は有り、冬は無し。鶉は則ち、始め、蝦蟇〔(がま)〕・海魚の化する所に由〔(より)〕て、終〔(つひ)〕に、卽ち、自〔(みづか)〕ら卵生す。故に、斑、有りて、四時、常に有り。鶉と鴽と、兩物〔(りやうぶつ)〕爲〔(た)〕ること明〔(あきら)〕けし。

「夫木」

 置く霜に枯れも果てなでかやくきの

   いかで尾花の末に鳴くらん 經家

 

[やぶちゃん注:本邦産種は、スズメ目スズメ小目スズメ亜目スズメ上科イワヒバリ科カヤクグリ(茅潜・萱潜)属カヤクグリ Prunella rubida。但し、本文は「本草綱目」の引用であるから、中国には産しないそれではなく、近縁種であるカヤクグリ属のイワヒバリ Prunella collaris・ヤマヒバリ Prunella montanella・ウスヤマヒバリ Prunella fulvescens・シロハライワヒバリ Prunella koslowi・クリイロイワヒバリ Prunella immaculata 等であろうかと推測する。ウィキの「カヤクグリ」によれば、『日本(北海道、本州中部以北、四国、九州)、ロシア(南千島)に分布する』。『漂鳥で』、『夏季に四国の剣山や本州中部以北、南千島などで繁殖し、冬季になると低地』『や本州、四国、九州の暖地へ南下して越冬する』。『九州では冬鳥』。全長は約十四センチメートル、翼開長は約二十一センチメートルで、『スズメほどの大きさ』であり、体重は十五~二十三グラム。『目立つ模様』はなく、『色彩は地味』である。『雌雄同色で、頭部の羽衣は暗褐色』、『体上面の羽衣は赤褐色で、暗褐色の縦縞が入る』。『胸と腹は灰褐色で』、『体側面から尾羽基部の下面(下尾筒)にかけての褐色の縦縞が入る』。『頬の辺りに薄い黄褐色の斑点模様がある』。『風切羽は暗褐色で外縁は茶色っぽい』。『大雨覆』(おおあまおおい:部位は越智伸二氏のサイト「Nature Photo Galleryの「鳥類各部の名称」を参照されたい)『と中雨覆先端に黄色の斑がある』。『尾羽は暗褐色』。『虹彩は茶褐色』で『眼の周囲に小さな白斑がある』。『嘴は細く黒色』、『足は橙褐色』。『亜高山帯から高山帯にかけてのウラジロナナカマド、ハイマツなどの林や岩場に生息する』。『林の中にいることが多く』、同属の『イワヒバリほどは岩場にで出てこない』。『繁殖期にはハイマツの枝上』『などの明るい場所に出てきてさえずったり、採食をする』。『冬季には平地から低山地の林、灌木林、山間部の沢沿いの藪、集落の庭の藪、林縁などの標高の低い場所へ移動し』、『単独もしくは数羽からなる小規模な群れを形成し』、『ひっそりと生活する』。『繁殖期には「チリチリチリ」や「チーチーリリリ」』『とさえずり、地鳴きは「ツリリリ」』『で、ヤマヒバリの鳴き声に似ている』。『食性は雑食で、灌木を縫うように移動しながら』、『小型の昆虫、幼虫類、クモ、草や木の種子などを食べる』。『夏季は昆虫、冬季は種子を主に食べる。樹上でも地上』『でも採食を行う』。『繁殖期になると』、『オスとメスそれぞれ数羽からなる小規模な群れを形成し、オスとメスともに複数とかかわり』、『繁殖する』。『一妻二夫で繁殖するとも考えられている』。『形成した群れでは』、『オス間に順位があると見られている』。『メスがオオシラビソ』・『キャラボク』・『ダケカンバ』・『ハイマツ』『などの高さ』一メートル『ほどの樹上に』、『枯草や苔などを組み合わせた』、『お椀状の巣を作る』。『メスが猫背になって尾羽を水平に伸ばし、細かく振動させてオスに対して求愛行動をする』。六~九月に一日一個ずつ、一腹二~四『個の卵を早朝に産む』。『巣によっては』、『同じ群れのオスが巣で抱卵中のメスに給餌を行う』。『和名は冬季に藪地(カヤ』・『ススキなどの総称)に潜むように生活し、なかなか姿を見せず』、『藪の下を潜ることに由来する』。『藪の中を好み』、『体色がミソサザイ』(スズメ小目キバシリ上科ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes)『に似ていることから』、『江戸時代には、「おおみそさざい」、「やまさざい」と呼ばれていた』。『「しばもぐり」、「ちゃやどり」の異名をもつ』。『和名は夏の季語』である。属名のPrunella 「プルネラ」は「褐色の」の意で、種小名rubida も「赤い・赤みがかった」の意で全体が色由来である。

「鷃は鶉〔(うづら)〕の屬」誤り。前項の鶉はキジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica で全く縁の遠い別種である。

「候鳥」時節を限って出現する鳥。季節により住地を変える渡り鳥のこと。

「行く者、以つて候と爲す」当該の渡りの時期に南北に旅する者に、時節の推移を自ずと知らせるから。

「三月に、田鼠〔(うごろもち)〕、化して鴽(かやくき)と爲〔(な)〕り、八月に、鴽、化して田鼠と爲る」「田鼠」の読みは前項に従った。脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae のモグラ類のこと。またしてもトンデモ化生説であるが、既に前項の鶉に、「蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て、鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り、而れども、盡くは爾(しか)らず。蓋し、始め、化に成りて、終〔(つひ)〕に卵を以つて生ず。故に、四時、常に、之れ、有り。鴽(かやくき)は、則ち、始め、田鼠(うごろもち)、化して、終に復た、鼠と爲る。故に、夏は有りて、冬は無し」と出て来てしまっているので、読んでいる我々もだんだん馴れっ子になって無批判になりがちなのがキョワい。しかもここでは、「故に、斑、無くして、夏は有り、冬は無し。鶉は則ち、始め、蝦蟇〔(がま)〕・海魚の化する所に由〔(より)〕て、終〔(つひ)〕に、卽ち、自〔(みづか)〕ら卵生す。故に、斑、有りて、四時、常に有り。鶉と鴽と、兩物〔(りやうぶつ)〕爲〔(た)〕ること明〔(あきら)〕けし」と続けることで、出現時期の差を、ライフ・サイクルが、「鶉」=「鴽(かやくき)」は化生しか出来ないから、冬はいない、更に斑紋の有無がその識別は容易とすることで、両者は別個な種である、とやらかされると、ゲーデルの不確定性原理ではないが、この化生肯定世界の閉じられた系の中では、「御説御尤も」と頷いてしまいそうになるではないか。

「置く霜に枯れも果てなでかやくきのいかで尾花の末に鳴くらん 經家」「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に載る一首(「日文研」「和歌データベース」で校合済み)であるが、実は藤原経家なる人物は二人(藤原経家(久安五(一一四九)年~承元三(一二〇九)年:藤原重家の子。正三位・非参議)と、右近中将経家(生没年不詳:藤原基家の子)おり(これは「夫木和歌抄の森を歩く」という連載をされておられる吉岡生夫氏のブログ「狂歌徒然草」の、このブログ内検索で判明した)、「夫木和歌抄」にはその孰れもの歌が採られているため、私にはこの一首の作者がどちらであるかは判らぬ。悪しからず。]

古今百物語評判卷之三 第二 道陸神の發明の事

 

  第二 道陸神(だうろくじん)の發明の事

先生の云へらく、「世人(よのひと)の、いはゆる『道陸神』と申すは、『道祖神』とも、又は『祖道』とも云(いへ)り。旅路のつゝがなからん事を祈る神なり。「左傳」に祖(そ)すと云るも、此神を祭り侍る。和歌には『ちふりの神』など、よめり。「袖中抄(しうちゆうせう)」に云(いふ)『みちぶりの神』と云る心なり。貫之が歌に、『わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん』と讀めり。隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』といふ所に、『わたつみの宮』といふ神おはしますと云り。「古今」の序に『逢坂山(あふさかやま)に手向(たむけ)を祈る』と侍るも此事なり。もろこしには、黃帝の子累祖(るいそ)と云へる人、遠遊(ゑんいう)を好みて、道に死(しに)給ひしを、後の世に、まつりて、行路神(かうろじん)とせり。かく云(いへ)ばとて、あながち、黃帝の子を、我朝にも祭るとにはあらざるべけれど、和漢ともに、其わざの通ずるなるべし。然るを、今の世に、田舍も京も女童部(をんなわらんべ)の云ひならはし侍るは、道路に捨てたる石佛(いしぼとけ)、さまざまの妖怪をなし、人を欺(あざむ)き、世を驚(おどろか)すと云り。つらつら、案ずるに、中昔(なかむかし)のころ、なき人のしるしの石をたつとては、必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり。今の、石塔每に名號をゑりつくるがごとし。その法名などは星霜ふるに隨(したがひ)て、石とても消えうせ侍るに、佛體計(ばかり)は、鼻、かけ、唇、かけながら、のこりけるを、聞傳(ききつた)ふるばかりの末々(すゑずゑ)も、はかなくなりうせて、道に捨(すて)られ、岐(ちまた)にはふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり。思ふに、佛は拔苦與樂(ばつくよらく)の本願、六波羅密(ろくはらみつ)の行體(げうたい[やぶちゃん注:原典のルビ。])なり。菩薩常不經(ぼさつじやうふきやう)の法身(ほうしん)を具し給へば、まして、佛體におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、人に捨てられ、世に用られずとて、かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや。其妖をなせる物は、石佛(いしぼとけ)には、あらず。其とぶらはるべき子孫も、なき亡者の亡念によりて、天地の間に流轉せる亡魂、時に乘じ、氣につれて、或は瘧(おこり)の鬼(おに)となり、又は疫(えやみ)の神(かみ)ともなりて、人をなやまし侍るなるべし。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、世に瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)はやり侍る時は、道端に捨(すて)られたる石塔を、繩もてしばり、或は牛馬の枯骨(かれぼね)を門のにかけて、其惡鬼をおどし侍るまじなひあり」。或人の云(いは)く、「その、佛をしばりて病(やまひ)のいゆる事、如何」。云く、「是れ、佛をしばるにあらず、其石塔に屬する所の亡魂をいましめこらすなり」。云く、「しからば、卽(すなはち)、其石塔にきざまれたる亡魂、其病者(やむひと)を知りて、なやませるにや」。云く、「さにあらず。天地(てんち)の間(あひだ)、多く、善惡の二氣なり。それゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、爰(こゝ)の惡鬼をしりぞくれば、彼(かしこ)の惡鬼も退(しりぞ)くなり。是、一佛を供養すれば、三世諸佛の本懷にかなふと云る心なり」。又、云(いはく)、「瘧(おこり)は、もと、脾胃の虛より生ずる所なり。其故に諸病と、かはり、おこれるにも、其時、必(かならず)、定(さだま)り侍るは、脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして、五常の『信』にあたり侍れば、其おこれる時節のたがはぬも『信』なり。勿論、其病(やまひ)をうくる所は脾胃なり。病は件(くだん)の、惡氣の世上(せじやう)の邪氣にくみして、人をなやまし侍るなり。さればにや、諸病とかはり、此二病(ふたつのやまひ)は醫書にも、まじなひ侍るなり。又、云く、「しばれるほどなる石佛(いしぼとけ)ならば、いえて後(のち)も、其繩をゆるし、また、香花をそなへ、供養する事、如何」。云く、「われに災(わざはひ)をなせば、邪氣なり。そも又、退(しりぞけ)る時は、邪氣にあらず。兼ては又、我が願ふ所に應ずる物、などかは、手向のなかるべき。其上、佛體に寓(ぐう)する邪氣なれば、にくみはつべき、いはれなし」。又、云(いはく)、「既(すでに)其理(ことわり)は聞(きき)き。其理を知りたる人の、まじなひて、いゆるは、勿論なり。其理をしらざる人も、まじなへば、いゆる事、如何」。云く、「萬(よろづ)のまじなひ事、其理を知りたる人のみ、せるにあらず、たゞ其傳(つた)へと信仰とによりて、其しるしは侍るなり。その功は作者にあり、其德は無窮にのこれる物なるべし」。

[やぶちゃん注:まず、小学館「日本大百科全書」の「道祖神」より引く。「道祖神」「塞(さえ)の神」・「塞の大神(さえのおおかみ)」・「賽(さい)の神」・「衢(ちまた)の神」」・「岐(くなど)の神」・「道(みち)の神」・「道六神(どうろくじん)」(道に通ずる「陸」(くが・おか)が原型であろう。別に「陸」には「六」の意味があり、その方が庶民の認識が容易である)「祖道」(これには同様の予祝の意味を含んだ「旅の餞(はなむけ)の宴」の意が中国での原義)などと呼ばれたりし、猿田彦命や伊弉諾・伊弉冉尊などにも付会されて伝承されていることもある。『境の神、道の神とされているが、防塞(ぼうさい)、除災、縁結び、夫婦和合などの神ともされている。一集落あるいは一地域において』、道祖神・塞の神・道陸神などを『別々の神として祀』『っている所もあり、地域性が濃い。、村境、分かれ道、辻(つじ)などに祀られているが、神社に祀られていることもある』(下線太字やぶちゃん。以下同じ。後の「古今和歌集仮名序」の「逢坂山」は峠に当たる。但し、明治以後の合祀により強制移動で庚申塔などと一緒に集積されただけのものも多いので注意が必要)。『神体は石であることが多く、自然石や丸石、陰陽石などのほか、神名や神像を刻んだものもある。中部地方を中心にして男女二体の神像を刻んだものがあり、これは、山梨県を中心にした丸石、伊豆地方の単体丸彫りの像とともに、道祖神碑の代表的なものである。また、藁(わら)でつくった巨大な人形や、木でつくった人形を神体とする所もある。これらは』、『地域や集落の境に置いて、外からやってくる疫病、悪霊など災いをなすものを遮ろうとするものである。古典などにもしばしば登場し、平安時代に京都の辻に祀られたのは男女二体の木の人形であった。神像を祀っていなくても、旅人や通行人はや村境などでは幣(ぬさ)を手向けたり、柴(しば)を折って供えたりする風習も古くからあった。境は地理的なものだけではなく、この世とあの世の境界とも考えられ、地蔵信仰とも結び付いている』。『道祖神の祭りは、集落や小地域ごとに日待ち』(旧暦一・五・九月の十五日又は農事の暇な日に、組織された特定集団である「講」の構成員が「頭屋(とうや)」(当屋とも書く。祭礼や講で行事を主宰する人やその家)に集まり、斎戒して神を祀り、徹宵して日の出を待つ行事。「待ち」とは、本来、神の傍に伺候して夜明しすることを意味し、類似した月の出を待つ「月待」や十干十二支の特定の日に物忌する「庚申講」・「甲子(きのえね)講」などを総称して「待ちごと」と称する)『や講などで行われることもあるが、小(こ)正月の火祭りと習合し、子供組によって祭られることが多い。また、信越地方では』、『家ごとに木で小さな人形を一対つくり、神棚に祀ったあと』、『道祖神碑の前に送ったり、火祭りに』して『燃したりする所もある。このほか』、二月八日或いは十二月十五日に『藁馬を曳(ひ)いてお参りに行く所もある。これらの祭りには、厄神の去来とその防御、道祖神の去来など、祭りの由来についての説話が伝えられていることがある。また』、『中部地方や九州地方などで、祭祀』『の起源を近親相姦』『と結び付けて語る所もある』。

 次にウィキの「道祖神」を、なるべくダブらぬように部分的に引く(リンク先には多彩な道祖神現存像の写真有り)。『道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられており、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。中国では紀元前から祀られていた道の神「道祖」と、日本古来の邪悪をさえぎる「みちの神」が融合したものといわれる』。『全国的に広い分布をしているが、出雲神話の故郷である島根県には少ない。甲信越地方や関東地方に多く、中世まで遡り』、『本小松石の産業が盛んな神奈川県真鶴町や、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野市では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い』。『各地で様々な呼び名が存在』し、上記以外にも、「障(さい/さえ)の神」「幸の神(さい/さえのかみ)」「手向(たむ)けの神」などがあり、『秋田県湯沢市付近では仁王さん(におうさん)の名で呼ばれる』。『道祖神の起源は不明であるが』、「平安遺文」に収録されている八世紀半ばの『文書には』、『地名・姓としての「道祖」が見られ』、「続日本紀」(菅野真道らが平安初期の延暦一六(七九七)年に完成させた)の文武天皇天平勝宝八(七五六)年の条には』、『人名としての「道祖王」が見られる』。『神名としての初見史料は』、平安中期の承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう)によって編纂された辞書「和名類聚抄」で、『「道祖」という言葉が出て』『おり、そこでは「さへのかみ(塞の神)」という音があてられ、外部からの侵入者を防ぐ神であると考えられている』。また、長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に比叡山横川中堂首楞厳院(しゅりょうごんいん)の鎮源の著した「大日本国法華験記」には、『「紀伊国美奈倍道祖神」(訓は不詳)の説話が記されていおり』、平安末に成立した「今昔物語集」にも、『同じ内容の説話が記され、「サイノカミ」と読ませている』。十三世紀前半に成った「宇治拾遺物語」に至って、「道祖神」が「だうそじん」と訓じられている。『後に松尾芭蕉の』「奥の細道」の『序文で書かれることで有名になる。しかし、芭蕉自身は道祖神のルーツには、何ら興味を示してはいない』(「道岨神のまねきにあひて取もの手につかず」(芭蕉真筆本)。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅0 草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉』より)。『道祖神が数多く作られるようになったのは』十八『世紀から』十九『世紀で、新田開発や水路整備が活発に行われていた時期である』。『神奈川県真鶴町では特産の本小松石を江戸に運ぶために』、『村の男性たちが海にくり出しており、皆が』海路の安全の『祈りをこめて道祖神が作られている』。『初期は百太夫』(ももだゆう/ひゃくだゆう:傀儡師や遊女が信仰する神で、特に西日本各地の神社の末社として祀られる。一般に男神とされ、多数の木像を刻んで祀る。広く道祖神や疱瘡除けの神としても信仰された)『信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の神である岐の神と習合した』。また、『岐の神と同神とされる猿田彦神と習合したり』、『猿田彦神および彼の妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし、神仏混合で、地蔵信仰とも習合したりしている。集落から村外へ出ていく人の安全を願ったり、悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神として信仰されてきたが、五穀豊穣のほか、夫婦和合・子孫繁栄・縁結びなど「性の神」としても信仰を集めた』。『また、ときに風邪の神、足の神などとして子供を守る役割をしてきたことから、道祖神のお祭りは、どの地域でも子供が中心となってきた』。『道祖神はまた、集落と神域(常世や黄泉の国)を分かち、過って迷い込まない、禍を招き入れないための結界とされている』。『道祖神は様々な役割を持った神であり、決まった形はない。材質は石で作られたものが多いが、石で作られたものであっても自然石や加工されたもの、玉石など形状は様々である』。『像の種類も、男神と女神の祝事像や、握手・抱擁・接吻などが描写された像などの双体像、酒気の像、男根石、文字碑など個性的でバラエティに富む』。『双体道祖神は一組の人像を並列させた道祖神』『の呼称』。『双体道祖神は中部・関東地方の長野県・山梨県・群馬県・静岡県・神奈川県に多く分布し、東北地方においても見られる』。『山間部において濃密に分布する一方で』、『平野・海浜地域では希薄になり、地域的な流行も存在することが指摘される』。『伊藤堅吉は』昭和三六(一九六一)年の時点で全国に約三千基を報告しており』、『紀年銘が確認される中で最古の像は』、『江戸時代初期のものとしている』。『道祖神は日本各地に残されており、なかでも長野県や群馬県で多く見られ、特に長野県の安曇野は道祖神が多い土地でよく知られている』。『長野県安曇野市には約』四百『体の石像道祖神があり、市町村単位での数が日本一である。同じく長野県松本市でも旧農村部に約』三百七十『体の石像道祖神があるが、対して』、『旧城下は木像道祖神が中心であった。ほか、長野県辰野町沢底地区には日本最古のものとされる道祖神がある(異説あり)。奈良県明日香村にある飛鳥の石造物(石人像)は飛鳥時代の石造物であるが、道祖神とも呼ばれており、国の重要文化財となっている』(t-katsuhiko氏のサイト「飛鳥の石造物」のこちらのアルバムで飛鳥資料館蔵の現物が見られる)。『道祖神を祭神としている神社としては、愛知県名古屋市にある洲崎神社が挙げられる。小正月の道祖神祭礼には、かつて甲斐国(現在の山梨県に相当)で行われていた甲府道祖神祭礼や、現在も行われている神奈川県真鶴町(道祖神 (真鶴町))、長野県野沢温泉村の道祖神祭り(国の重要無形民俗文化財に指定されている日本三大火祭りのひとつ)などがある』とある。

『「左傳」に祖(そ)すと云る』「春秋左氏伝」の昭公七(紀元前五三五)年の、「三月、公如楚」(公、楚に如く)の注部。

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公將往。夢襄公祖。祖、祭道神。梓愼曰、君不果行。襄公之適楚也、夢周公祖而行。今襄公實祖。君其不行。子服惠伯曰、行。先君未嘗適楚。故周公祖以道之。襄公適楚矣。而祖以道君。不行何之。【杜注。祖、祭道神。】。

(公、將に往かんとす。夢みらく、『[やぶちゃん注:先王の。]襄公、祖(そ)す』と。祖は、道神を祭るなり。梓愼(ししん)曰く、「君、行くことを果たさじ。襄公の楚に適(ゆ)きしや、『周公、祖す』と夢みて、行きぬ。今、襄公、實(じつ)に祖す。君、其れ、行かざらん。」と。子服惠伯、曰く、「行かん。先君は未だ嘗つて楚に適かず。故に、周公、祖して以つて之れを道(みちび)きぬ。襄公は楚に適けり。而れば、祖して以つて君を道く。行かずして何に之(ゆ)かん。」と。【杜注:「祖」は「道神を祭る」なり。】)

「杜」は三国末期から西晋の政治家・将軍で学者であった杜預(とよ/どよ 二二二年~二八四年)。「春秋左氏伝」は杜家の家学で、これは彼自らが施したもの。

「ちふりの神」「道觸の神」。「ちぶりのかみ」とも。陸路・海路の旅の安全を守る神。知られた和歌での古い用例は後に出る「土佐日記」のものであるようだ。後の「みちぶりの神」も同じい。因みに、「日本国語大辞典」で「みちぶり」を引くと、「みちゆきぶり」(道行触・道行振)の略とし、赤染衛門集から、

 みちふりのたより計(ばかり)はまともせんとけては見えじ雪の下草

の歌を示すので、「みちゆきぶり」を引くと、『①道で行き会うこと。道中でのすれちがい』として、「万葉集」の巻第十一に載る一首(二六〇五番)、

 玉桙(たまほこ)の道行きぶりに思はぬに妹を相見て戀ふる頃かも

を例示する(この一首は、男女が道で行き逢ってすれ違っただけで思はぬ片思いの恋に落ちてしまうことを指している)。これは物理的な交差ではなく、魂の接触(或いは「魂振(たまふ)り」的運動)を意味し、異界である異国や旅路の逢魔が時のそれに於いては、すれ違うものは人とは限らず、神霊や魑魅魍魎であることを考えれば、既にしてこの「みちゆきぶり」の語には民俗的な神概念が起原に存在すると考えてよいように私には思われる。

「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)は歌学書。全二十巻。顕昭(大治五(一一三〇)年頃~承元三 (一二〇九)年頃:平安末から鎌倉初期の歌人で歌学者。藤原顕輔の養子。義兄清輔とともに六条家歌学を大成した)著で、文治年間(一一八五年~一一九〇年)頃の成立。「万葉集」から「堀河百首」辺りまでの歌集・歌合(うたあわせ)から約三百の難解な歌語を抄出して解釈したもの。同書の「十九」に、

 行く今日も歸らん時も玉鉾(たまぼこ)のちぶりの神を祈れとぞ思ふ

と出る、と「日本国語大辞典」の「ちぶりのかみ【道触神】」の用例に出る。新潮日本古典集成の「土佐日記 貫之集」(木村正中校注)の注に、「袖中抄」に、

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「ちふりの神」とは、「みちふりの神」といふにや、海路のもよめり。

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とあると記す。

「貫之が歌」「わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひかぜやまずもふかなん」「土佐日記」の以下(事実に即せば、承平四(九三四)年の二月二十六日となる)。

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廿六日。まことにやあらむ、「海賊追ふ」といへば、夜(よ)なかばかりより、船をいだして漕ぎくる途(みち)に、手向けする所あり。楫取りして、幣(ぬさ)たいまつらする[やぶちゃん注:「奉らする」のイ音便。これはくだけた口調で、軽い気持ちで水主(かこ)に奉幣させたことを指す。]に、幣の東(ひむがし)へちれば、楫取りの申し奉ることは[やぶちゃん注:主人公の気持ちとは正反対の水主の厳粛な気持ちを表わす。]、

「この幣の散るかたに、御船(みふね)速かに漕がしめ給へ。」

と申して奉る。

 これを聞きて、ある女(め)の童(わらは)のよめる、

  わたつみのちふりの神に手向けする

    幣の追風(おひかぜ)やまず吹かなむ

とぞ詠める。

 この間(あひだ)に、風のよければ、楫取り、いたく誇りて、船に帆上げなど、喜ぶ。その音を聞きて、童も媼(おうな)も『いつしか』[やぶちゃん注:早く早く。]とし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。

 このなかに、『淡路の專女(たうめ)』[やぶちゃん注:淡路の老女の意。]といふ人のよめる歌、

  追風の吹きぬる時はゆく船の

    帆手(ほて)うちてこそうれしかりけれ

とぞ。

 天氣(ていけ)のことにつけて、祈る。

   *

「隱岐の國『知夫利(ちぶり)の崎(さき)』「わたつみの宮」島根県隠岐郡知夫村(ちぶむら)島津島にある渡津神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「Islander's diary~離島ライフ~」の「知夫里島ジオツアー 後書き」に、「土佐日記」の前掲歌を示された上で、先の「袖中抄」に、

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岐の國にて知夫利崎といふに、「わたすの宮」といふ神おはすなり。舟いだすとて其神に奉幣してわたすを祈るとぞ

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という歌があるとされ、

   《引用開始》[やぶちゃん注:改行部を繋げさせて貰った。]

『ちぶりの神』とは漢字で書くと『道触神』。全国で広く信仰されている、旅の安全を守る道祖神です。知夫里島は隠岐諸島の中で一番本土に近い島。本土から来た船にとっては、隠岐の国の玄関口であり、反対に、隠岐からは本土への出発点であったところ。ここ渡津海岸に航海の無事を祈って『道触神』が祀られるのも当然です。そしてその神様の名がそのまま知夫里島の名前になったとしてもなんの不思議もありません。新潟にも『道触神』が由来ではないかと考えられている地名があるそうです。神島という名前の島もあるし、なんだか神様に囲まれてるというか、神様だらけ(言葉が悪いけど)の場所に住んでる気分になります[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

『「古今」の序に『逢坂山に手向(たむけ)を祈る』と侍る』「古今和歌集仮名序」の後半部に出る一節。岩波の新日本古典文学大系を基礎底本として、一部に手を加え、漢字を正字化して示す。

   *

 かゝるに、今、皇(すべらぎ)の天(あめ)の下(した)知ろしめすこと、四つの時、九囘(こゝのかへり)になむ、成りぬる。遍(あまね)き御慈(おほむうつくし)みの浪、八州の外(ほか)まで流れ、廣き御惠みのかげ、筑波山の麓よりも繁くおはしまして、萬(よろづ)の政(まつりごと)を聞(きこ)し召す暇(いとま)、もろもろの事を捨給はぬ餘りに、古(いにしへ)の事をも忘れじ、古(ふ)りにしことをも興(こ)し給ふとて、今も見そなはし、後の世にも傳はれとて、延喜五年[やぶちゃん注:九〇五年。]四月十八日に、大内記紀友則・御書所預(ごしよのところのあづかり)紀貫之・前甲斐少目宮(さきのかひのさうくわん)凡河内躬恒(おふしかふちのみつね)・右衛門府生(うゑもんのふのさう)壬生忠岑(みぶのただみね)らに仰せられて、「万葉集」に入らぬ古き歌、自(みづか)らのをも、奉らしめ給ひてなむ。

 それが中(なか)に、梅(むめ)を插頭(かざ)すより始めて、郭公(ほとゝぎす)を聞き、紅葉(もみぢ)を折り、雪を見るにいたるまで、又、鶴・龜に付けて、君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩・夏草を見て、妻を戀ひ、逢坂山(あふさかやま)に至りて、手向けを祈り、或(ある)は、春(はる)・夏・秋・冬にも入らぬ、種々(くさぐさ)の歌をなむ、選ばせ給ひける。統(す)べて、千歌(うた)二十卷(はたまき)、名付けて「古今和歌集」 と言ふ。

   *

「黃帝の子累祖(るいそ)」平凡社「世界大百科事典」の道祖神には、「漢書」「十三王伝」の臨江王栄の伝において、顔師古は、後人が黄帝の子累祖を行神に当てたと注してある。しかし、中文サイトでは圧倒的に黄帝の子ではなく、妻とする。個人ブログらしき「プロメテウス」の「祖:古代中国神話中で絹を発明した黄帝の正妃」によれば、祖(れいそは、別名を「累祖」とも称し、『古代中国の神話中に出てくる女性です。西陵氏の娘で、黄帝軒轅の妃でした。祖は養蚕を発明したことから、祖は養蚕の始祖と言われています』。『祖は黄帝との間に玄』(げんごう)と『昌意の二子を儲けています。玄の子は蟜極と言い、蟜極の子は五帝の一人である帝嚳です。一方の昌意は蜀山氏の娘を娶り、高陽を生み高陽は帝位を継承し』、『五帝の一人の帝顓頊として即位しました』。『司馬遷の史記の五帝本紀には』「黄帝は軒轅の丘に住み、西陵の娘を娶り祖となした。祖は黄帝の正妃で二人の子を産み、その後は両者とも、天下を治めた。その一人を玄と言い、青陽と為し、青陽に降り、江水に住んだ。二人目は昌意と言い、降って若水に住んだ。」『とあります』。祖については、「山海経」の「海内経」にも『記載が見られ』、「黄帝の妻である雷祖(祖とも。)は昌意を生んだ。昌意は自ら天に上り降り、若水に到り住み、韓流を生んだ。韓流は長い頭を持っており、小さな耳、人面で豚の長い口、麒麟の体、ぐるりと丸い二本の足、子豚の蹄で淖子族の阿女を妻として娶り帝顓頊を生んだ」と『あります』。『神話中では祖は養蚕と絹による縫製の創造者となっています。北周以降には』「先蚕」、所謂、『蚕神として祀られるようになりました。祖が絹糸を創り出す物語が以下のように伝わっています』とあって、以下に詳しい養蚕神伝承が記されてあるので、リンク先を見られたい。顔師古の謂いからみても、玄昌意の二氏のこととも思えない。私のネット探求はここまでである。

「遠遊」故郷を離れて遊学すること、或いは、単に遠出の旅。

「妖怪」怪異。

「たつ」「建つ」。

「必(かならず)、佛體をきざみて、其下に亡者の法名をしるせり」これはおかしい。江戸前期の元隣の言う「中昔」とは鎌倉・室町時代であろうが、当時のそれは圧倒的に供養塔であって、下に遺骸や骨が埋まっているわけではなく、また必ずしも法名は刻まれていないない。元隣が「はふらかされて、何れの人のしるしとも、覺束なし。たゞ石佛(いしぼとけ)とのみ、みな人、おもへり」と言っているのは、知ったかぶりの大間違いの感じが強い。彼は総ての名もない廃石仏が総て墓標だと暗に脅しているのである。

「岐(ちまた)」分かれ道。分岐する道は村落の辺縁に存在し、民俗社会では複数の外界からの気が流れ来たって、ぶつかり、澱む場所であって、イコール、異界への通路と見做された。さればこそ、そこに墓や異界に去ったはずの死者の霊を供養するものとして供養塔が置かれたと考えられ、これは或いは荒ぶるかも知れぬそうした御霊(ごりょう)を、そこに祀り置くことによって、村落への外部からの邪気の侵入を防防禦機構としても機能した。そうしたものとして、道祖神以下の集合信仰を捉えることが出来ると私は考えている。

「拔苦與樂」仏・菩薩が、その慈悲を以って、衆生の苦を取り除き、楽を与えること。

「六波羅密の行體」仏教に於ける六つの修行様態。布施(見返りを求めずに施しを行うこと)・持戒(身を慎んで傲(おご)りの心を持たぬこと)・忍辱(にんにく:広い心で苦難に耐えること)・精進(純粋な心を以って努力を惜しまないこと)・禅定(ぜんじょう:精神を鍛えて真の平常心を持つこと)・智慧(正法(しょうぼう)を見極める力を持つこと)。

「菩薩常不經の法身」不詳。これは思うに、法華経に登場する菩薩である「常不輕菩薩」(じょうふきょうぼさつ)を指す誤りではなかろうか? ウィキの「常不軽菩薩」によれば、「法華経」の「常不軽菩薩品」に『説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる』。『釈尊の前世、むかし』、『威音王如来という同じ名前をもつ』二『万億の仏が次々と出世された。その最初の威音王仏が入滅した後の像法の世で、増上慢の比丘など四衆(僧俗男女)が多い中に』、『この常不軽菩薩が出現したとされる。常不軽菩薩は出家・在家を問わず』、「我深く汝等(なんだち)を敬ふ。敢へて輕慢(きやうまん)せず。所以は何(いか)ん、汝等、皆、菩薩の道(だう)を行(ぎやう)じて、當(まさ)に作佛することを得べしと。」『と礼拝したが、四衆は悪口罵詈(あっくめり)し、杖や枝、瓦石をもって彼を迫害した』。『常不軽菩薩は臨終が迫った時、虚空の中において、威音王仏が先に説いた法華経の』二十『千万億の偈を聞き、六根の清浄を得て』、二『万億那由他』(なゆた)『という永い寿命を得て、広く人のために』「法華経」を『説いた。これを聞いた増上慢の四衆たちは、その所説を聞き、みな信じ伏し』、『随従した。常不軽菩薩は命終して、同名である』二『千億の日月燈明如来という仏に値遇し、また同名である』二『千億の雲自在燈王如来という仏にも値遇し』、「法華経」を『説き続け、諸々の善根を植え、さらにまた』、『千万億の仏に遇い』、さらに「法華経」を『説いて功徳を成就し』、『最終的に彼も仏と作(な)ることができたという』。『常不軽菩薩は自身が誹謗され』、『迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず』、『教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される』とある。ここで元隣が紹介するに最も相応しい菩薩の法身(仏陀の究極の本体。仏陀の姿を三種に分類した三身(さんしん:後の二つは「報身(ほうじん:単なる永遠の真理でも、無常の人格でもなく、真理を悟った力を持った人格的な仏身を指す)・応身(おうじん:衆生救済のために真理により現世に多様な姿を仮に現した仏身を指す)の内の一つで、「仏陀は真理そのものである」として、真理を本体の仏陀の身体とする捉え方を指す)と私は思う

「かゝる災(わざはひ)をなし給ふべきや」反語。

「瘧(おこり)の鬼(おに)」「瘧」は狭義にはマラリアを指す。重篤な熱病の疫鬼(えきき)。

「疫(えやみ)の神(かみ)」流行り病いの邪神。

「瘧-疾(おこり)疫癘(えきれい)」同前二つの総称。

「いましめこらすなり」「縛(いまし)め懲らす」。

「三世諸佛」こう言った場合の「三世」(さんぜ)は時間軸のそれ。過去・現在・未来の各世(せい)。

「脾胃」漢方では広く胃腸・消化器系を指す語。

「虛」「脾胃」の虚証は消化器系の働きが著しく低下した下痢などの症状を指す。

「おこれる」瘧が発症すること。

「脾胃は五行の配當に『土(つち)』にして」五行説に於いて「五臓」は「肝」に「木」を、

「心包(しんぼう:心)」の「火」を、「脾胃」に「土」を、「肺」に「金」を、「腎」に「水」をそれぞれ配する。

「五常の『信』」五常は五徳で儒教で説く五つの徳目。五行説では「仁」に「木」を、「礼」に「火」を、「信」に「土」を、「義」に「金」を、「智」に「水」をそれぞれ配する。

「其おこれる時節のたがはぬも『信』なり」判ったような判らぬ謂いである。他の臓器の疾病でも発生時期が極めて限定的なものはゴマンとある。

「此二病」瘧と流行り病い。

「まじなひ侍るなり」「封じるためのそれに特化した呪文があるのである。」。これもまた、判ったような判らぬ謂いである。他の臓器に発生する病気に就いて呪文染みた記載は李時珍「本草綱目」の「附方」にはゴマンとありますがね、元隣センセ?

「寓(ぐう)する」仮にそこにとり憑いていただけの。

「にくみはつべきいはれなし」「憎み果つべき謂はれ、無し」。憎み通すような理由は全く以って、ない。

「作者」呪(まじな)いを最初に考案作成し、実際に効験を示し得た人物。]

2018/10/12

和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)

Uzura

うつら   【鶉之子】

      羅鶉【鶉卵初生】

      早秋【至秌初者】

      白唐【中秋已後者】

【音純】

      【和名宇豆良】

トヲン

 

本綱鶉大如雞雛頭細而無尾毛有斑點甚肥雄者足高

雌者足𤰞性畏寒在田野夜則羣飛晝則草伏人能以

聲呼取之畜令闘搏其性淳不越橫草竄伏淺草無常居

而有常匹隨地而安其行遇小草卽旋避之亦可謂醇矣

蝦蟇得爪爲鶉又南海有黃魚九月變爲鶉而盡不爾蓋

始化成終以卵生故四時常有之鴽則始田鼠化終復爲

鼠故夏有冬無

肉【甘平】炙食甚美【四月以前未堪食】和小豆生姜煑食治小兒疳

 痢大人皷脹【合菌子食發痔或云忌山椒】

 新古今住みなれし我か古鄕は此頃や淺茅か原に鶉なくらん

△按鶉處處原野多有之甲州信州下野最多畿内之産

 亦勝矣色有黃赤而黑白斑彪如有珍彪者人甚賞之

 其聲如曰知地快【今如此聲者希有而不好】有數品【帳吉古吉幾利快幾比快勅快

 等聲皆不佳】嘩嘩快爲上【聲轉而永引大圓亮爲珍】毎早旦日午夕暮鳴

 凡春二三月始鳴至芒種止聲六月又更發聲至中秋

 止聲人養之其籠最美麗而此與鶯相並弄之其雌者

 小足卑不囀【呼曰阿以布】如雄鶉未發聲則置雌籠於側則

 發聲

 

 

うづら   〔(ぶん)〕【鶉の子。】

      羅鶉〔(らじゆん)〕【鶉の

      卵〔の〕初生。】

      早秋【秌〔(あき)〕初め

      に至〔れる〕者。】

      白唐【中秋已後の者。】

【音、「純」。】

      【和名「宇豆良」。】

トヲン

 

「本綱」、鶉、大いさ、雞〔(にはとり)〕の雛のごとく、頭、細くして、尾、無し。毛に斑點有り。甚だ肥たり。雄は、足、高く、雌は、足、𤰞(ひき)し。其の性〔(しやう)〕、寒を畏る。田野に在り。夜、則ち、羣飛し、晝は、則ち、草に伏す。人、能く聲を以つて呼びて之れを取る。畜〔(か)ひ〕て闘〔ひ〕搏〔(う)た〕せしむ。其の性、淳(すなを[やぶちゃん注:ママ。])にして、橫〔(よこた)ふ〕草を越へず。淺〔き〕草に竄(かく)れ伏す。常〔なる〕居〔(きよ)は〕無くして、常に匹〔(つれそひ)〕と有り。地に隨ひて安ず。其の行(ゆく)とき、小〔さき〕草に遇へば、卽ち、旋〔(や)〕や、之を避くる。亦た、醇(すなほ)と謂ひつべし。蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て、鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り、而れども、盡くは爾(しか)らず。蓋し、始め、化に成りて、終〔(つひ)〕に卵を以つて生ず。故に、四時、常に、之れ、有り。鴽(かやくき)は、則ち、始め、田鼠(うごろもち)、化して、終に復た、鼠と爲る。故に、夏は有りて、冬は無し。

肉【甘、平。】。炙り食ふ。甚だ美なり【四月以前は未だ食ふに堪へず。】。小豆・生姜に和(あゑ)て、煑〔(に)〕、食ふ。小兒の疳痢・大人の皷脹〔(こちやう)〕を治す【菌子〔(きのこ)〕と合せて食へば、痔を發す。或いは云ふ、山椒を忌むと。】

「新古今」

 住みなれし我が古鄕は此頃や淺茅が原に鶉なくらん

△按ずるに、鶉は處處の原野に多く之れ有り。甲州・信州・下野、最も多し。畿内の産、亦た、勝れり。色、黃赤にして黑白の斑彪(まだらふ)有り。如(も)し、珍〔しき〕彪〔(ふ)〕の者有れば、人、甚だ之れを賞す。其の聲、「知地快〔(ちちくわい)〕」と曰ふがごとし【今、此くのごとき聲なる者、希に有り。好まれず。】。數品〔(すひん)〕、有り【「帳吉古〔(ちやうきつこ)〕」・「吉幾利快〔(ききりくわい)〕」・「幾比快〔(きひくわい)〕」・「勅快(ちよくくわい)」等の聲へ[やぶちゃん注:ママ。]、皆、佳からざるなり。】「嘩嘩快〔(くはくはくわい)〕」を上と爲す【聲、轉(ころば)せて、永く引き、大〔いに〕圓〔(まどか)にして〕亮〔(りやう)なる〕を珍と爲す。】毎〔(まい)〕早-旦(あさ)・日-午(ひる)・夕暮に鳴く。凡そ、春、二、三月、始めて鳴き、芒種〔(ぼうしゆ)〕に至りて聲を止む。六月、又、更に聲を發し、中秋に至りて聲を止む。人、之れを養ふ。其の籠〔(かご)〕は、最も美麗にして、此れと鶯と、相ひ並べて之れを弄〔(もてあそ)〕ぶ。其の雌は小さく、足、卑(ひく)く、囀(さへづら)ざる[やぶちゃん注:ママ。]【呼びて「阿以布〔(あいふ)〕」と曰ふ。】。如〔(も)〕し、雄の鶉、未だ、聲を發せずば、則ち、雌の籠を側〔(そば)〕に置くときは、則ち、聲を發す。

 

[やぶちゃん注:キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonicaウィキの「ウズラ」を引く(下線太字やぶちゃん)。インド北東部・タイ王国・大韓民国・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国・日本・ブータン・ベトナム。ミャンマー・モンゴル国・ラオス・ロシア東部に分布するが、『日本(主に本州中部以北)、モンゴル、朝鮮半島、シベリア南部、中華人民共和国北東部などで繁殖し、冬季になると』、『日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し越冬する』。『日本国内の標識調査の例では』、『北海道・青森県で繁殖した個体は主に関東地方・東海地方・紀伊半島・四国などの太平洋岸で越冬し、九州で越冬する個体は主に朝鮮半島で繁殖した個体とされる(朝鮮半島で繁殖して四国・山陽地方・東海地方へ飛来する個体もいる)』。全長は約二十センチメートルで、翼長九・一~十・四センチメートル』、『上面の羽衣は淡褐色』。『繁殖期のオスは顔や喉』及び『体側面の羽衣が赤褐色』で、『希に全体が白色羽毛で散在的に野性型羽毛をもつ個体が生じるが、劣性遺伝により発現するとされている』。『以前は旧ウズラCoturnix coturnix(現ヨーロッパウズラ)の亜種とされていたが、独立種として分割された』。『低地にある草原・農耕地などに生息』し、『秋季から冬季にかけて』、五~五十『羽の小規模から中規模の群れを形成することもある』。『和名は「蹲る(うずくまる)」「埋る(うずる)」のウズに接尾語「ら」を付け加えたものとする説がある』。『種子、昆虫などを食べる』。『配偶様式は一夫一妻だが』、『一夫多妻の例もある』。『繁殖期は』五~九月で、『植物の根元や地面の窪みに枯れ草を敷いた巣を作る』。七~十二『個の卵を産むが』、十八個の『卵を産んだ例もある』。『抱卵期間は』十六~二十一日で、『メスのみが抱卵する』。『雛は孵化してから』二十『日で飛翔できるようになり』、一~二ヶ月で『独立』し、『生後』一『年以内に成熟する』。『孵化後』六『週令で産卵を開始する』。『卵には通常』、『黒い斑点があるが、希に白色の卵も産む』。『雌の平均寿命は』通常は二『年に満たない』。『卵殼表面には褐色のまだら模様があるが、これは卵を外敵から守るカモフラージュの効果がある。模様は』、『卵を作る器官に由来し、個体差があるものの』、『個体ごとに決まった模様がつくため』、一『羽のメスが産む卵は同じ様な模様をしている』。『この模様の元となる色素は産卵開始時刻の約』三『時間前から分泌が始まり、子宮壁の伸縮、卵の回転に伴い』、『卵殼表面に拡がり』、『斑紋を形成するとする研究がある』。『古くから歌に詠まれ』、「古事記」「万葉集」「千載和歌集」などにも、『本種のことを詠んだ歌がある』。『食用とされることもある。日本では平安時代に本種の調理法について記した書物がある』。『明治時代中期から採卵用の飼養が本格的に進められるようになり』、昭和一六(一九四一)年には飼養数は約』二百万羽に『達した』。『当時は』、『本種の卵が』、『肺病や心臓病の薬になると信じられ』て『珍重されたが、販売経路が限られることや』、『原価が高いことから下火となった』。『第二次世界大戦により』、『本種の飼養は壊滅的な状況に陥ったものの』、昭和四〇(一九六五)年には飼養数が再び』、約二百万羽にまで『増加した』。一九七〇年代『以降は主に愛知県(日本の飼養数のうち約』六十五%『を占める)』、『なかでも豊橋市を中心に養殖がおこなわれている』。昭和五九(一九八四)年に約八百五十万羽と『ピークを迎えたが』、平成二一(二〇〇九)年に『豊橋市でトリインフルエンザが確認されたことにより』、約百六十万羽が『殺処分された』。『調理法として水炊き、焼き鳥、肉団子などがあり、雑煮の出汁に用いられることもある』。生後六十日ほどで『成熟し、オスは精肉用、メスは採卵用となる』。法的制限内に於いて『狩猟の対象とされたこともあったが、平成二五(二〇一三)年に『狩猟鳥獣』『から除外されたことにより、日本で本種を狩猟することは違法となった』。『日本では草地開発や河川敷の樹林化・レクリーエション利用などにより』『生息数は減少して』おり、「環境省レッドリスト」では絶滅危惧 VU)に指定されている。『ペットとして飼育されることもある。日本では室町時代には籠を用いて本種を飼育されていたとされ』、「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)に記載がある。『江戸時代には武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長』(一五九六年~一六一五年)『から寛永』(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)『をピークに大正時代まで行われた』。『一方で』、『鳴き声を日本語に置き換えた表現(聞きなし)として「御吉兆」などがあり、珍重されることもあった』。『小型で飼育スペースを取らないこと、世代交代が早い事から実験動物として用いられることもある』。なお、『近親交配による退行が発現しやすく』、三『世代で系統の維持が困難になり』、五『世代を経ると』、『次の世代の作出が困難になったとする研究がある』とある。鳴き声の動画を複数聴いたが、売られている卵を孵化させた、ゲージの中の、ノイロっているような殺伐とした哀れなそれが多く、視聴しているだけで甚だ憂鬱になってしまったので、ダウン・ロード再生方式であるが、自然にいるウズラの声を採った、「サントリー世界愛鳥基金」公式サイト内のウズラをリンクさせておくに留める。自然のウズラのそれは、なんと、長閑なことであろう……古歌にも詠まれた自然の中の鶉の祝祭の声を失った日本人は、一体、どこへ行こうというのだろう……

「初生」生れたての幼鳥。

「秌」「龝」=「秋」の異体字。

𤰞(ひき)し」低い。短い。

「闘〔ひ〕搏〔た〕せしむ」闘鶏のように鶉同志を羽を搏(打)たさせて闘わせることを指す。

「淳(すなを)にして、橫〔(よこた)ふ〕草を越へず」中国文学の載道派的叙述で、廉直にして素直なればこそ、横向きに靡き曲がった草をよしとしないというのであろう。

「匹〔(つれそひ)〕」愛する配偶者。これも「淳」の正統なる属性である。

「地に隨ひて安ず」どのような場所であっても、自身らに相応しい場所を探し出して、そこで安静に生活する。これも前に続いて「淳」なる品格なればこそである。

「小〔さき〕草に遇へば、卽ち、旋〔(や)〕や、之を避くる。亦た、醇(すなほ)と謂ひつべし」未だ懸命に生え初めたばかりの小さな野草に逢うと、直ちに立ち止まって、そこを避けて少し迂回して踏まずに行く、これもまた前と同じく「素直」な品性によるものと讃えるべきべきものである、というのである。

「蝦蟇〔(がま)〕、爪を得て鶉と爲る。又、南海に、黃魚といふもの有り、九月、變じて鶉と爲り」トンデモ化生説である。これは李時珍の「本草綱目」の「鶉」の「集解」の「崔禹錫食經」からの引用(蝦蟇の件)と「交州記」からの引用(黄魚)の叙述であるが、わざわざ良安がこれを引いたのは、残念ながら、良安自身もそうしたトンデモ化生(以下の本文にある通り(「蓋し、始め、化に成りて、終〔(つひ)〕に卵を以つて生ず」)、突如としてある生物が無性的に出現し、後に雌雄が生じて卵を生むとするのである。これは本「和漢三才圖會」の「蟲類」の部等で(例えば「蝨」(シラミ))、既に何度も良安が自身の言葉で主張している例があるのである)が実際にある、と考えていたからなのである(今まであまり指摘していないが、「本草綱目」の引用は、原典のかなり恣意的な抜粋であり、表記の一部も書き換えられてある。特に次の注で述べるが、この引用には時珍が全く書いていないことがこの後に出るのである。但し、全然、別種のところで類似したことを時珍が書いている可能性はあり、それを援用した可能性は、無論、あるなお、荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ウズラ」の項を見ると、『中国の民俗では』、『古来ウズラはガマの化身だとみなされ』、『〈万畢術〉には〈蝦蟇(がま)が瓜(くわ)を食うと鶉になる〉とある』とある。この「万畢術」とは前漢の文帝期から武帝期にかけて生きた淮南王劉安が全国から学者や方士たちを招致して製作した著作の一つと伝えられる「淮南萬畢術」で、これは宋の李昉らの撰になる「太平御覽」の「巻第九百二十四」の「羽族部十一」の「鶉」の条に、

   *

莊子曰田化爲鶉。淮南萬畢術曰蝦蟇得瓜平時爲鶉【注云取瓜去辨置生蝦蟇其中敎鶉以血塗瓜堅塞之埋東垣北角深三尺其平日發出之矣爲鶉矣】。

   *

と出るのを発見出来た。はてさて?――本文の「蝦蟇得爪爲鶉」の「爪」(つめ)と――この「蝦蟇得瓜平時爲鶉」の「瓜」(カ/うり)と――ヤバくね? 因みに、荒俣氏はこの後、江戸時代の趣味の鶉飼いのフリーキーな様子が、喜多村信節(のぶよ)の「嬉遊笑覽」(文政一三 (一八三〇)年刊)の「鶉合(うづらあはせ)」から引かれ(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像の当該頁。左の最後から次頁まで)、間に本「和漢三才圖會」最終部(「其の籠〔(かご)〕は、最も美麗にして、此れと鶯と、相ひ並べて之れを弄〔(もてあそ)〕ぶ。其の雌は小さく、足、卑(ひく)く、囀(さへづら)ざる【呼びて「阿以布〔(あいふ)〕」と曰ふ。】。如〔(も)〕し、雄の鶉、未だ、聲を發せずば、則ち、雌の籠を側〔(そば)〕に置くときは、則ち、聲を發す」)を挟んで、「飼鳥必用」(「鳥賞案子」の別名。享和二(一八〇二)年序)には「巾着鶉(きんちゃくうずら)」と称して、鶉を袋に入れて腰にぶら下げて持ち歩き、座敷で袋から取り出して鳴かせるという可哀想な飼い方も記されてあるとある。また、「奥州波奈志」(私の好きな女流国学者只野真葛(ただのまくず 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)の晩年の優れた伝説物語集)から、『伊達政宗が京にのぼったとき』、『小鳥屋のウズラを気にいって』、『値ぶみしたところ』が、五十『両をふっかけられた』。そこで、

 立よりてきけば鶉の音(ね)はたかし

  さてもよくにはふけるものかな

『とよむと』、『小鳥屋は』、流石に『恥じて』、『その鳥を進呈したという話がみえ』、当時流行した鶉飼いに便乗した『ウズラ商がかなり強気な商売をしていたこともうかがえ』ると記しておられる。

「而れども、盡くは爾(しか)らず」この一文は少なくとも「本草綱目」の「鶉」の中には書かれていない。寧ろ、その「發明」の条では、時珍は「按鶉乃蛙化氣性相同蛙與蝦蟇」とそうした化生のサイクルを積極的に肯定しているのである。則ち、ここは時珍の言葉ではなく、良安の化生説に対する限定的疑義(見解)がさりげなく挟み込まれてあるのだと私は思うのである。

「故に、四時、常に、之れ、有り」化生説の擬似論理的説明である。こうした偉そうな謂いは、周年生活環(ライフ・サイクル)を人間にしか擬え得ない、人間第一主義の悲しさを今となっては感じるものである。

「鴽(かやくき)」東洋文庫版は『ふなしうずら』と訳ルビしてある。既出であるが、再掲しておくと、フナシウズラは現行では「鶕」で、鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名(各タクソンを見れば判る通り、本ウズラとは全く縁遠い種であるので注意されたい)。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみである。されば、ここで良安が「かやくき」と和名表記したそれは、種としてのフナシウズラではないと言える。「かやくき」は調べてみると、「鷃」の漢字を当ててあり、これはウズラとは無関係な(この漢字を「うずら」と読ませているケースはあるが)、

スズメ目スズメ亜目イワヒバリ科カヤクグリ属カヤクグリ Prunella rubida

の異名であることが、小学館「日本国語大辞典」で判明した。実は次の項が「鷃(かやくき)」なのであった(但し、そこには『鷃者鶉之屬』(「本草綱目」引用)とはある)。

「田鼠(うごろもち)」脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱トガリネズミ形目モグラ科 Talpidae のモグラ類のこと。

「鼠」これは恐らく「復た」とあるから、「田鼠」の「田」の脱字であろう(化生説の両奉方向サイクルである)。東洋文庫版も本文に『(田)鼠』としてある。

「疳痢」「疳」とは漢方医学で「脾疳(ひかん)」で、乳児の腹部膨満や異常食欲などを称したから、そうした乳幼児のそれを原因とするとされた、下痢症状を指すものと思われる。

「皷脹〔(こちやう)〕」東洋文庫版割注に『腸内発行がはげしく』、『腹部が膨張する病』とある。病的な腹部膨満である。

「新古今」和歌集の以下の歌は、「巻之十七」の「雑歌中」の大僧正行尊(天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年:平安後期の天台僧で歌人。平等院大僧正。平安中期の公卿で三条天皇の第一皇子敦明(あつあきら)親王の子源基平の子。近江園城寺(おんじょうじ:=三井寺)で出家し、各地を行脚した。祈禱に優れ、鳥羽天皇の護持僧となり、園城寺長吏・四天王寺別当・天台座主を歴任した)の一首(一六八〇番歌)、

   三井寺燒けてのち、住み侍りける房を

   思ひやりてよめる

 住みなれし我がふる里はこのごろや淺茅(あさぢ)が原(はら)にうづら鳴くらん

「三井寺燒けてのち」保安二(一一二一)年閏五月、三井寺僧徒による延暦寺修行僧の殺害を発端に、山徒が三井寺の塔堂を焼き、三井寺は廃墟と化した。「淺茅が原」丈の低い茅(ちがや:単子葉類植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica:初夏に細長い円柱形の穂を出し、葉よりも高く伸び上がってほぼ真っ直ぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれてよく目立ち、「茅花(つばな)」と呼ぶ)の茂る野原。「鶉」はこの頃には既に秋の淋しい野良を象徴する鳴き声として定着していた。

「數品〔(すひん)〕、有り」以下の割注(総てオノマトペイア。目出度い意味を連想させるような漢字を選んで組み合わせていることが判る)で判る通り、鳴き声に数種がある、の意。

「聲、轉(ころば)せて、永く引き、大〔いに〕圓〔(まどか)にして〕亮〔(りやう)なる〕を珍と爲す」東洋文庫版訳では、『声は転(ころが)って永く引き、大へんまろやかで明快なのを珍重する』とある。

「芒種」二十四節気の第九。五月節で旧暦の四月後半から五月前半。陽暦では六月六日頃。「芒」(のぎ:イネ科植物の果実を包む穎(えい)にある棘状突起)を持った植物の「種」を播く頃の意で、西日本の梅雨入りの頃に当たる。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 竹雞 (コジュケイ)

Tikukei

ちくけい 山菌子

     雞頭鶻

     泥滑滑

竹雞

 

チョッキイ

 

本綱多居竹林狀如小雞無尾形比鷓鴣差小褐色多斑

赤文其性好啼見其儔必闘捕者以媒誘其闘因而網之

諺云家有竹雞啼白蟻化爲泥蓋好食蟻也其肉味美如

菌又能食半夏苗

杉雞 常居杉樹下頭上有長黃毛冠頰正青色如埀縷

亦食之味如竹雞閩越之地有之

 

 

ちくけい 山菌子〔(さんきんし)〕

     雞頭鶻〔(けいとうこつ)〕

     泥滑滑〔(でいこつこつ)〕

竹雞

 

チョッキイ

 

「本綱」、多く竹林に居〔(を)〕り。狀、小〔さき〕雞〔(にはとり)〕のごとく、尾、無し。形、鷓鴣〔(しやこ)〕に比すと、差〔(やや)〕小なり。褐色、斑〔の〕赤文、多し。其の性〔(しやう)〕、好んで啼く。其の儔(とも)を見ては、必ず、闘ふ。捕ふる者、媒(をとり)を以つて其の闘ひを誘ひ、因りて之れを網〔(あみ)〕す。諺〔(ことわざ)〕に云はく、「家竹雞の啼くこと有れば、白蟻〔(しろあり)〕、化して泥と爲る」〔と〕。蓋し、好んで蟻(あり)を食へる〔なれば〕なり。其の肉味、美なること、菌〔(きのこ)〕のごとし。又、能く、半夏〔(はんげ)〕の苗を食ふ。

杉雞〔(さんけい)〕 常に杉の樹の下に居〔(を)〕る。頭の上(〔う〕へ)に、長き黃なる毛冠、有り。頰、正青色。埀〔(た)るる〕縷〔(いと)〕のごとし。亦、之れを食ふ。味、竹雞のごとし。閩越〔(びんえつ)〕の地、之れ、有り。

 

[やぶちゃん注:これは叙述全体と、信頼出来る中文サイトの鳥類記事の同定比定から見ても、

キジ目キジ科コジュケイ属コジュケイ(小綬鶏)Bambusicola thoracicus thoracicus

(中国南部原産。日本(北陸地方以北を除く本州・四国・九州)に移入されて定着)、及び、

コジュケイ属タイワンコジュケイ(テッケイ:竹鶏)Bambusicola thoracicus sonorivox

(台湾原産。日本には当初、神戸市周辺に移入されて定着)である。同種中文ウィキによれば、この二種は「灰胸竹鶏」と漢字表記し、俗に「華南竹鷓鴣」「泥滑滑」「山菌子」「竹鷓鴣」「普通竹鶏」の別称を今も持つことが判る。現行では、少なくとも本邦ではタイワンコジュケイの方に狭義に「竹鶏」の漢名が与えられているようであるが、これは寧ろ誤った和名漢名であるように私には思われる

 コジュケイは国南部原産であるが、北陸地方以北を除く本州・四国・九州に移入して定着し、私の家の裏山にもさわにいて、私の大好きな鳴き声「チョットコイ、チョットコイ」で知られるあの子らである。属名 Bambusicola(バンブシコラ)は「竹林に住むもの」、thoracicus(トラキクス)は「胸に特徴ある」の意。英名も Formosan Bamboo-PartridgeFormosan は「台湾の」(但し、語源はポルトガル語の「美しい」)、知られた「バンブー」は元 bambu でマレー語、「パートリッジ」は鷓鴣(しゃこ:キジ科 Phasianidaeの鳥の一群の総称で、キジとウズラの中間の体形を持つものの俗称であって分類学上の区分ではない)を指し、ギリシャ語 peldoix(ペルディクス)由来)で「美しい竹鷓鴣」である。ウィキの「コジュケイ」によれば、本邦には『ペットとして移入され』、『狩猟用に基亜種が』大正八(一九一九)年に『東京都や神奈川県で(』大正四(一九一五)年『には既に脱走していたとされる』)『放鳥された』とある。全長は二十七センチメートル』、『和名はジュケイ』(キジ科ジュケイ属ジュケイ Tragopan caboti)『に似ているが、より小型であることに由来する』。『額から眼上部にかけて灰色の眉状の筋模様(眉斑)が入る』。『背に暗褐色や灰色の虫食い状の斑紋が入る』。『下面の羽衣は黄褐色で、胸部に赤褐色の斑紋が入る』。『尾羽は濃赤褐色』。『虹彩は灰褐色』で、『嘴は黒』く、『後肢は暗灰黄色』。コジュケイは『前頸から胸部にかけての羽衣は灰色』を呈し、『喉から頬、頸部側面の羽衣が赤褐色』で、『背の羽衣が暗黄色』であるのに対し、タイワンコジュケイの方は、『顔から前頸にかけての羽衣は灰色』を呈し、『喉の羽衣が赤褐色』で『背の羽衣が赤褐色』と微妙に異なる。『基亜種は標高』一千メートル以下、亜種テッケイは標高』三百~千二百『メートルの草原、森林、竹林、農耕地などに生息する』。『秋季から翌年の春季にかけて』、『小規模な群れを形成する』。『身体に似合わぬ大きな声で鳴き、それが「チョットコイ、チョットコイ」と聞こえることから、「警官鳥」と俗称されることがあった』。『食性は雑食で、種子、果実、昆虫、クモなどを食べる』。『年に』二『回繁殖』し、四~六月、『地面の窪みに枯れ草を敷いた巣に』、七~八『個の卵を産む』。『メスのみが抱卵し、抱卵期間は』十七~十九日で、『雛は孵化直後に巣立つ』。『雌雄共に育雛を行う』。『生後』一『年で成熟する』とある。

「菌〔(きのこ)〕」茸。

「半夏〔(はんげ)〕」ここでは、コルク層を除いた塊茎を生薬で「半夏」と呼ぶ、単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク(烏柄杓)Pinellia ternata ととっておく。ウィキの「カラスビシャク」によれば、『鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯(はんげとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などの漢方方剤に配合される。他にホモゲンチジン酸を含む。またサポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。またかつては、つわりの生薬としても用られていた』。但し、『乾燥させず生の状態では』有毒劇物である『シュウ酸カルシウムを含んでおり』、『食用は不可能』とある。他に、真正和名が「半夏生」の双子葉植物綱コショウ目ドクダミ科ハンゲショウ属ハンゲショウ Saururus chinensis があるが、本文は「本草綱目」の記載であるからこれではない。なお、本邦産のそれは毒にも薬にもならない。

「杉雞」確かに中国の諸書に出る名ではあるが、不詳。杉林をテリトリーとし、頭の上に長い黄色の毛冠を有し、頬が鮮やかな青色を呈していて、そこはあたかも美しい青糸を垂らしたように見え、食用とし味は「竹雞」に同じく、「閩越」(現在の福建省)産の鳥、というのだから、これはもう特徴的なのだが? 識者の御教授を乞うものである。]

2018/10/11

和漢三才圖會第四十二 原禽類 英雞 (ウンナンコジュケイ)

Eikei

ゑいけい

英雞

 

インキイ

 

本綱英雞出澤州有石英處常食碎石英狀如雞而雉尾

體熱無毛腹下毛赤飛翔不遠腹中有石英肉甘温人食

之取石英之功也今人以石英不飼之取卵食終不及此

 

 

ゑいけい

英雞

 

インキイ

 

「本綱」、英雞、澤州に出づ。石英、有る處〔にありて〕常に碎〔ける〕石英を食ふ。狀、雞〔(にはとり)〕のごとくして、雉の尾。體、熱〔く〕して、毛、無し。腹の下の毛、赤くして、飛〔び〕翔(かけ)ること、遠からず。腹の中に、石英、有り。肉、甘・温なり。人、之れを食ひて、石英の功を取るなり。今の人、石英を以つて之れを飼はず、卵を取りて食ふ。終〔(つひ)〕に此れに及ばず。

[やぶちゃん注:いろいろ調べてみるに、これは、

キジ目キジ科キジ亜科コジュケイ属ウンナンコジュケイ Bambusicola fytchii

に同定比定してよいように思われる。雲南省からミャンマー・タイ・ラオス周辺の標高の高い地域に棲息する。参照した個人ブログ鳥好きFPのつれづれ日記2の「【北Thai#29】ウンナンコジュケイ(Mountain Bamboo Partridgeの写真がよい。この写真を見ると、「腹の下の毛、赤くして」というのを「頸部から胸の上部の毛」と読み変えると腑に落ち、全体に亙る非常にセンスのいい斑紋は、遠くから見ると、非常に滑らかに感じられ、しかもその色が灰色のグラデーションも持つため、或いは「毛、無し」という錯覚も生じておかしくないようにも思われる。「熱〔く〕して」という意味がよく判らぬが、或いはこの全体の色模様を以って「火」を連想したものかも知れない。しかも鉱石である石英の粉砕片粒を摂餌する(と信じられた)という点からは、私は陰陽五行説の相剋の「火剋金(かこくごん)」(「火」は「金」属を熔かす)のセオリーをも連想されたのである。

「澤州」現在の山西省晋城(しんじょう)市一帯。

「人、之れを食ひて、石英の功を取るなり」人はこの英雞を食用にすることで、その英雞が食した石英の持つ漢方としての効能をも採り入れることが出来るというわけである、の意。

「此れに及ばず」主食である石英を食べていたかつての英雞の本体を食べる効果には、到底及ばない。]

古今百物語評判卷之三  第一 參州加茂郡長興寺門前の松童子にばけたる事

 

百物語評判卷之三

 

 

  第一 參州加茂郡(かものごほり)長興寺門前の松童子にばけたる事

 

Doujimatu

 

[やぶちゃん注:漢詩は前後を空け、完全な分かち書きとし(原典は二段組)、後に訓読文を附した。]

かたへの人のいはく、「某(それがし)、生國は三河にて御座候(さふらふ)が、國元にてふしぎなる事侍りしは、加茂郡に長興寺と申す寺あり、門前に、むかしより、松二本、御座候ふが、龍のかたちにつくりなしをき[やぶちゃん注:ママ。]候ふ故、人みな、此松を『二龍(じりやう)松』とも申し候ふ。此松、大木にて、いづれの時より植(うゑ)をきしともさだかならず。あるとき、其寺へ、童子二人、來たりて云ふやう、『われは此邊(このあたり)の者にて候が、少し樣子[やぶちゃん注:わけ。]の侍れば、硯をかし給へ』といふ。則(すなはち)、硯に料紙をそへて出(いだ)し奉れば、一首の絶句をかきつけたり。

 

 客路三川風露秋

 袈裟一角事勝遊

 二龍松樹千年寺

 古殿苔深僧白頭

  客路(かくろ)三川(さんせん) 風露(ふうろ)の秋

  袈裟(けさ)一角(いつかく) 勝遊(しやうゆう)を事(こと)とす

  二龍松樹(じりやうしやうじゅ) 千年の寺

  古殿 苔(こけ)深くして 僧 白頭(はくとう)

 

此詩をかき置(おき)て歸りければ、寺僧、あやしみて、其ゆくさきを見るに、彼の門前の松の木陰に行(ゆく)と見えて、跡かたなくなりければ、皆人、『松の精の、童子となりたる』と申し侍るは、さも候ふやらん」と問(とひ)ければ、先生、評していはく、「此事、既に『こだまの事』[やぶちゃん注:古今百物語評判卷之一 第五 こだま彭侯と云ふ獸狄仁傑の事を指す。]に付きて、其ためしをかたりき。猶も、非情の有情(うじやう)は化(か)する事は、化生(けしやう)と申しならはして、目前に、まゝある事なり。朽ちたる木の蝶となり、くされる草の螢に變ずる事、何れも見給ふ通りなり。殊更、松は衆木の長(をさ)にて、年久しき物なるゆへ、君子の德に比(たぐ)らべて[やぶちゃん注原典のルビ。]候ふ。其童子になりけんも、さも、あらんかし。既に童子となりたるうへは、寺のほとりに住むものなれば、詩をつくるべからざるにはあらず。古き桐の木の人に變じ來たりしを、智通と云(いひ)し出家のたいらげし事、もろこしの書にも見えたり」。

[やぶちゃん注:「參州加茂郡(かものごほり)長興寺」現在の愛知県豊田市長興寺にある臨済宗集雲山長興寺。(グーグル・マップ・データ)。

「客路」旅路。人間の短い生涯が辿る永い時間の「流れ」を象徴するか。

「三川」は濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三つの川を指すか。二本の松は龍の形をしているから、川とは親和性が強く、「風」と雨「露」も龍の守備属性である。

「袈裟一角」不詳。「角」の龍との親和性で思ったのは袈裟の様態の一つである「僧綱領(そうごうえり)」で、僧綱の位にある僧が衣の襟(えり)を折り返さずに、背部の後ろで立てたままにし、頭を隠すように着るそれで、あれなら、角のようには見える。孰れにしても、この漢詩はこの寺への永代祝祭の言祝ぎの献詩と感じられる。

「古き桐の木の人に變じ來たりしを、智通と云(いひ)し出家のたいらげし事」これは晩唐の学者段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる、荒唐無稽な怪異記事を集録した「酉陽雑爼」(八六〇年頃成立)の「續集」巻一の「支諾皋(しだくこう)上」の以下。

   *

臨瀨(一作湍)西北有寺、寺僧智通、常持「法華經」入禪。每晏坐、必求寒林靜境、殆非人所至。經數年、忽夜有人環其院呼智通、至曉聲方息。歷三夜、聲侵、智通不耐、應曰、「汝呼我何事。可人來言也。」。有物長六尺餘、皂衣靑面、張目巨吻、見僧初亦合手。智通熟視良久、謂曰、「爾寒乎。就是向火。」。物亦就坐、智通但念經。至五更、物爲火所醉、因閉目開口、據爐而鼾。智通睹之、乃以香匙舉灰火置其口中。物大呼起走、至閫若蹶聲。其寺背山、智通及明視蹶處、得木皮一片。登山尋之、數里、見大靑桐、樹稍已童矣、其下凹根若新缺然。僧以木皮附之、合無蹤隙。其半有薪者創成一蹬、深六寸餘、蓋魅之口、灰火滿其中、火猶熒熒。智通以焚之、其怪自

   *

老媼茶話 酉陽雜俎曰(樹怪)がよく原文を訓読している。また、柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」ではよく現代語訳している(孰れのリンク先も私の電子化注)。なお、岡本綺堂も訳編「支那怪奇小説集」の中で「怪物の口」として訳出している。ここでは、同書の昭和一〇(一九三五)年サイレン社刊の正字版を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認底本として電子化して示す。新字の怪談集なんて、それだけで、怖くなくなる。但し、読みは振れるもののにみ限った。

   *

 

   ◇怪物の口◇

 

 臨湍寺(りんたんじ)の僧智通は常に法華經をたすさへてゐた。彼は人跡稀なる寒林(かんりん)に小院をかまへて、一心に經文讀誦(どくじゆ)を怠らなかつた。

 ある年、夜半にその院をめぐつて、彼の名を呼ぶ者があつた。

『智通、智通。』

 内ではなんの返事もしないと、外では夜(よ)のあけるまで呼びつゞけてゐた。かういふ事が三晚も止まないばかりか、その聲が院内までひゞき渡るので、智通も堪へられなくなつて答へた。

『どうも騷々しいな。用があるなら遠慮なしに這入(はい)つてくれ。』

 やがて這入つて來た物がある。身のたけ六尺ばかりで、黑い衣(きもの)をきて、靑い面(かほ)をしてゐた。彼は大きい目をみはつて、大きい息をついてゐる。要するに、一種の怪物である。而も彼は僧にむかつて先づ尋常に合掌した。

『おまえは寒いか。』と、智通は訊いた。『寒ければ、この火にあたれ。』

 怪物は無言で火にあたつていゐた。智通はそのまゝにして、法華經を讀みつゞけてゐると、夜も五更(かう)[やぶちゃん注:現在の午前三時から午前五時、又は、午前四時から午前六時頃。]に至る頃、怪物は火に醉つたとみえて、大きい目を閉じ、大きい口をあいて、爐(ろ)に倚(よ)りかゝつて高鼾(たかいびき)で寢入つてしまつた。智通はそれを觀て、香(かう)を掬(すく)ふ匙(さじ)を把(と)つて、爐の火と灰を怪物の口へ浚(さら)ひ込むと、かれは驚き叫んで飛び起きて、門の外へ駈け出したが、物につまずき倒れるやうな音がきこえて、それぎり鎭まつた。

 夜(よ)があけてから、智通が表へ出てみると、彼がゆうべ倒れたらしい所に一片の木の皮が落ちてゐた。寺のうしろは山であるので、彼はその山へ登つてゆくと、數里[やぶちゃん注:唐代の一里は五百五十九・八メートル。六掛けだと、三キロ半弱。]の奧に大きな靑桐の木があつた。梢(こずゑ)は已に枯れかゝつて、その根の窪(くぼみ)に新しく缺けたらしい所があるので、試みに彼(か)の木の皮をあてゝみると、恰(あたか)も貼付(はりつ)けたやうに合つた。又その根の半分枯れたところに洞(うつろ)があつて、深さ六七寸、それが怪物の口であらう。ゆうべの灰と火がまだ消えもせずに殘つてゐた。

 智通はその木を焚(やい)てしまつた。

   *]

古今百物語評判卷之二 第七 雪隱のばけ物附唐の李赤が事 / 古今百物語評判卷之二~了

 

 

  第七 雪隱(せつゐん)のばけ物唐(とう)の李赤(りせき)が事

 

一人のいはく、「世に『雪隱のばけ物』といふものゝあるよしをいひ、又、あら神(がみ)なるよしをも云へり。其たゝりにあへる者、歸るさに、ころべる時は、病(やまひ)の品(しな)、瘟疫(はやりやまひ)の樣にて、日(ひ)あらずして、身まかるとかや。此事、いかなる神にか、覺束なく侍る」と申(まうせ)しかば、先生のいへらく、「其神にあへる時は、其まゝ、帶をとき、歸るがまじなひなるよしを申傳(まうしつた)へたれども、さだかならず。又、唐(もろこし)にも厠(かはや)の神を『紫姑神(しこしん)』といへりとかや。むかし、壽陽の李景といふ人、萊陽(らいやう)の何麗卿(かけいけい)と云(いへ)る女をむかへて、思ひものとせしかば、本妻、深くねたみて、正月十五日に厠の中にて殺せしに、彼(か)の何麗卿、たゝりをなせしかば、其後、正月每にまつりて、厠の神と、いはひし事あれども、これらを眞體(しんたい)なりとも、いふべからず。又、佛家(ぶつけ)には烏瑟沙磨明王(うづさまめうわう)といふを雪隱の神なりと云(いへ)り。猶、此明王にも、火熖(くはゑん)ありて、惡魔をはらひ、塵垢(ぢんこ)を淸め給ふ功德(くどく)ましましけるとぞ。伽藍のかずにかぞふるには、前に此明王をゑがきて、つねに香花(かうげ)をそなへをきて、法師たる者、厠に行(ゆく)時は禮をなし、咒(じゆ)を唱へて、そこにて三衣(さんえ)をぬぎける法なりとかや。されども、今の世の人、たまたまあへるばけものは、其不淨の氣のつもれる所の、れい[やぶちゃん注:「靈」。「すだま」。下等な精霊、魑魅魍魎の意。]、たるべし。猶、柳子厚(りうしこう)が書(かけ)る李赤が傳には、『唐(とう)の代(よ)に李赤といふ者あり。「李白の詩作におとらず」とて、自(みづから)、名をつきたるとかや。然(しか)るに、李赤、其友だちとつれだちて、田舍へ下りしに、さきのひと屋にて、其友にいふやう、「我、去(さる)方へ、むこいりをいたさむとて、既に、けいやく[やぶちゃん注:「契約」。]、仕りしまゝ、此狀(じやう)を古鄕(ふるさと)へ送り給はれ」といふ。其友、云ふやう、「其方(そのはう)は古鄕に妻子あり。何事をの給ふぞ」といへども、「はや、今宵、其かたへ、おもむく」といひて、いづ地(ち)へやらん、行(ゆき)て、見えざりければ、其友だち、あやしみて尋(たづね)けるに、厠の中へいりて、其壺(つぼ)の中(うち)へ、首をさし入れたり。おどろき、つれて歸りて、「汝(なんぢ)、厠の鬼(おに)に犯(おかさ)れたり」と云へば、李赤、申すやう、「しうとの方へ行て、大かた、ちかづきに成(なり)たるに、何しに、つれてもどり給ふぞや」と云(いふ)。其友、うれへて、巫覡(かんなぎ)を呼びて、さまざま、はらへなどさせて、番(ばん)の者、きびしく附置(つけおき)たるに、夜更(よふけ)がたになりて、番のもの、少し、おこたりぬる隙(ひま)に、又、李赤、見えざりければ、「すはや」と尋ぬるに、今度は、身をなかば、糞穢(ふんゑ)の中におとしめたり。其友、漸々(やうやう)につれて歸り、湯などあびせければ、李赤、云(いふ)やう、「親類どもと、のこらず盃(さかづき)をしておりし所を、情なくも引きはなち給ひし物哉(ものかな)」とて淚ぐみたり。「是れ、只事にあらず」とて、其友、夜の明(あく)るをまたずして、「所をかへん」とて、人、數多(あまた)まもらせて、夜中より出でて、二、三十里、打(うち)こえて、さきの宿にとまりたり。『いかにも爰にてはよもや』と思ひて、氣を附(つけ)ざりしかば、李赤、終(つゐ)に厠の中(うち)に落入(おちいり)て、むなしくなりたり』と、しるせり。是、をろかなる[やぶちゃん注:ママ]。者の、わざはひを幸(さいはひ)と心得て、其身をほろぼすたとへにて、實(じつ)に此事ありとも覺(おぼえ)ね共、其類(るい)を以てかたりつ」と申されき。

[やぶちゃん注:これを以って「古今百物語評判卷之二」は終わっている。

「瘟疫」音「ウンエキ」で、熱を発する流行(はや)り病のこと。「瘟」は「疫」と同義で「えやみ」で悪性の流行病を指す。

「紫姑神」文字からお判りの通り、厠の女神。予言や幸運を授けるとして、古代の聖王である帝嚳(こく)の娘ともされるが、一般にはここに記されたような別説が伝わる。則天武后の垂拱(すいきょう)年間(六八五年~六八八年)のこと、山東省生まれの何媚(かび)、字(あざな)を麗卿(れいきょう)という絶世の美少女を、山西省寿陽県の県知事が見初めて、その側妾(そくしょう)としたが、その溺愛振りに嫉妬した本妻の曹氏が主人の留守中の、正月十五日、厠の中で彼女を殺害してしまった。玉皇大帝(ぎょくこうたいてい:道教に於ける事実上の最高神)はそれを憐れみ、厠の神としたという。中国では既に五世紀頃、正月十五日の元宵節に紫姑神を迎え、農作・養蚕その他の事柄を占う習慣が行われていたという(以上は主に所持する実吉達郎著「中国妖怪人物事典」(一九九六年講談社刊)及び平凡社「世界大百科事典」に拠った)。これとは別に中国では、便所で死んだ者は便所に地縛された幽霊となるが、誰かを便所の中でとり殺すことが出来れば、その霊は浮かばれるとも考えられていた。

「眞體」雪隠(せっちん)の化け物のルーツ。

「烏瑟沙磨明王」密教に於ける明王の一尊で、「烏樞沙摩明王」(「烏樞瑟摩」「烏芻沙摩」「烏瑟娑摩」「烏樞沙摩」等とも表記される)。ウィキの「烏枢沙摩明王によれば、『真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では五大明王の一尊である。日蓮宗では「烏芻沙摩明王」の表記を用い、火神・厠の神として信仰される』。「大威力烏樞瑟摩明王經」等の『密教経典(金剛乗経典)に説かれる』。『人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう』、『聖なる炎によって』、『煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を』、『何としても救わんとする慈悲の怒りを以て』、『人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる』。『烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより』、『日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた』。『不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い』。『また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた』。『静岡県伊豆市の明徳寺などでは、烏枢沙摩明王が下半身の病に霊験あらたかであるとの信仰がある』(この寺は近くの温泉宿「嵯峨沢館」に嘗てよく泊まった関係上、何度かお参りしたことがある)。「穢跡金剛霊要門」(「えしゃくこんごうりょうようもん」と読むか)」では、『釈尊が涅槃に入ろうとした時、諸大衆諸天鬼神が集まり』、『悲嘆している中、蠡髻梵王』(「れいけつぼんおう」と読んでおく)『のみが天女との遊びにふけっていた。そこで大衆が神仙を使って彼を呼んだが、慢心を起こした蠡髻梵王は汚物で城壁を作っていたので近づくことが出来なかった。そこで釈尊は神力を使って不壞金剛』(ふえこんごう)『を出現させた。金剛は汚物をたちまちに大地と変えて蠡髻梵王を引き連れてきた。そこで大衆は大力士と讃えた』。『烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が一面六臂であったり』、『三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い』とある。

「伽藍のかずにかぞふるには」烏瑟沙磨明王を正式に祀った場所として称するためには。

「三衣」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣のことであろう。

「柳子厚(りうしこう)が書(かけ)る李赤が傳」「柳子厚」はかの中唐の優れた文学者で政治家の柳宗元(七七三年~八一九年)の字(あざな)。以下は、彼の書いた唐代伝奇として知られる「李赤傳」。

   *

 李赤、江湖浪人也。嘗曰、「吾善爲歌詩、詩類李白。」、故自號曰李赤。

 遊宣州、館人館之。其友與俱遊者有姻焉。間累日、乃從之館。赤方與婦人言、其友戲之。赤曰、

「是媒我也、吾將娶乎是。」

友大駭、曰、

「足下妻固無恙、太夫人在堂、安得有是。豈狂易病惑耶。」

取絳雪[やぶちゃん注:「こうせつ」は反魂丹のような薬の名。]餌之、赤不肯。

 有間、婦人至、又與赤言。卽取巾經其脰、赤兩手助之、舌盡出。其友號而救之、婦人解其巾走去。赤怒曰、

「法無道、吾將從吾妻、汝何爲者。」

 赤乃就牖間爲書、輾而圓封之。又爲書、博而封之。訖、如廁久、其友從之、見赤軒廁抱甕、詭笑而倒視、勢且下入。乃倒曳得之。又大怒曰、

「吾已升堂面吾妻。吾妻之容、世固無有、堂宇之飾、宏大富麗、椒蘭之氣、油然而起。顧視汝之世猶溷廁也。而吾妻之居、與帝居鈞天・淸都[やぶちゃん注:孰れも天帝の都の名。]無以異、若何苦余至此哉。」

然後其友知赤之所遭、乃廁鬼也。

 聚僕謀曰、

「亟[やぶちゃん注:「すみやかに」。]去是廁。」

遂行宿三十里。夜、赤又如廁久、從之、且復入矣。持出、洗其汙、眾環之以至旦。

 去抵他縣、縣之吏方宴、赤拜揖跪起無異者。酒行、友未及言、飮已而顧赤、則已去矣。走從之、赤入廁、舉其床捍門、門堅不可入、其友叫且言之。衆發牆以入、赤之面陷不潔者半矣。又出洗之。

 縣之吏更召巫師善咒術者守赤、赤自若也。

 夜半、守者怠、皆睡。及覺、更呼而求之、見其足於廁外、赤死久矣、獨得屍歸其家。

 取其所封書讀之、蓋與其母妻訣、其言辭猶人也。

 柳先生曰、「李赤之傳不誣矣。是其病心而爲是耶。抑故有廁鬼也。赤之名聞江湖間、其始爲士、無以異於人也。一惑於怪、而所爲若是、乃反以世爲溷、溷爲帝居淸都、其屬意明白。今世皆知笑赤之惑也。及至是非取與向背決不爲赤者、幾何人耶。反修而身、無以欲利好惡遷其神而不返、則幸耳、又何暇赤之笑哉。

   *

最後の部分、流石に私の愛する名詩人なればこそ、柳宗元は、李赤の状態を、ほぼ精神病と判断していることが判る。幻覚性の激しい統合失調症か、脳梅毒による進行性麻痺かも知れぬ。

「巫覡(かんなぎ)」音「フゲキ」。ここは男の祈禱師。

「はらへ」「祓」。

「すはや」感動詞。「あっ!」。

「二、三十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルしかないので、十二~十六キロメートル八百メートル弱。但し、原文は「三十里」。

「實(じつ)に此事ありとも覺ね共」元隣さんよ! 柳先生は「李赤之傳不誣矣」(李赤のこの伝に嘘はなかろう)と仰しゃってるんだぜ?! あんたこそが、「私の詩は李白の詩に似ている」と嘯いた李赤の同類にして不遜だろうが!

古今百物語評判卷之二 第六 垢ねぶりの事

 

  第六 垢ねぶりの事

一人のいはく、「『垢ねぶり』といふ物は、ふるき風呂屋にすむばけものゝよし、申せり。尤(もつとも)、あれたる屋敷などにはあるべく聞え候へども、其名の心得がたく侍る」といへば、先生、いへらく、「此名、尤なる義なるべし。凡(およそ)一切の物、其生ずる所の物をくらふ事、たとへば、魚の、水より生じて水をはみ、しらみの、けがれより生じて其けがれをくらふがごとし。されば『垢ねぶり』も、其塵垢(ぢんこ)の氣のつもれる所より化生(けしやう)し、出づる物なる故に、あかをねぶりて身命(しんみやう)をつぐ、必然の理(ことわり)たるべし」と答へられき。

[やぶちゃん注:「垢ねぶり」「垢舐(ねぶ)り」は、かなりメジャーな妖怪(無論、その功労者は水木しげる氏である)「垢嘗(あかなめ)」のこと。ウィキの「垢嘗によれば、安永五(一七七六)年刊の鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」(本「古今百物語評判」は貞享三(一六八六)年刊であるから、九十年後のもの)等に出、『風呂桶や風呂にたまった垢を嘗め喰うとされる』。『古典の妖怪画の画図では、足に鉤爪を持つ』、『ざんぎり頭の童子が、風呂場のそばで長い舌を出した姿で描かれている』(リンク先に石燕のそれと、江戸末期の歌川芳員の「百種怪談妖物雙六」の「底闇谷の垢嘗」の二種の画像と、境港市の商店街の「水木しげるロード」に設置されている「あかなめ」のブロンズ像の写真が有る)。『解説文が一切ないため、どのような妖怪を意図して描かれたものかは推測の域を出ないが』、本書「古今百物語評判」には『「垢ねぶり」という妖怪の記述があり、垢嘗はこの垢ねぶりを描いたものと推測されて』おり(以下、本条の梗概訳)、『垢ねぶりとは古い風呂屋に棲む化物であり、荒れた屋敷などに潜んでいるといわれる。当時の科学知識によれば、魚が水から生まれて水を口にし、シラミが汚れから生じてその汚れを食べるように、あらゆる生物はそれが生じた場所にあるものを食べることから、垢ねぶりは塵や垢の気が集まった場所から変化して生まれたものであり、垢を嘗めて生きるものとされている』。『昭和・平成以降の妖怪関連の書籍では、垢嘗もこの垢ねぶりと同様に解釈されている。その解釈によれば、垢嘗は古びた風呂屋や荒れた屋敷に棲む妖怪であり』、『人が寝静まった夜に侵入して』、『風呂場や風呂桶などに付着した垢を長い舌で嘗めるとされる』。『垢を嘗める以外には何もしないが、当時の人々は妖怪が現れるだけでも気持ち悪く感じるので、垢嘗が風呂場に来ないよう、普段から風呂場や風呂桶をきれいに洗い、垢をためないように心がけていたという』。『垢嘗の正体を見た者はいないが、名前の「垢(あか)」からの連想で赤い顔』、『または』、『全身が赤いともいわれる』。『また、「垢」には心の穢れや煩悩、余分なものという意味もあることから、風呂を清潔にしておくというだけではなく、穢れを身に溜めこんではいけないという教訓も含まれているとの説もある』とある。

 本条で元隣は、またしてもトンデモ化生説をぶち上げている。まず、彼の「凡(およそ)一切の物、其生ずる所の物をくらふ事、たとへば、魚の、水より生じて水をはみ」という部分で、この前の部分を好意的に、卵生の魚類が、その生れ出た水中に於いて水(に含まれたプランクトンや雑魚)を食い、と正当に解釈することも可能であるが、魚類は卵生でありながら、彼はこれを「化生」(魚の大元は何もない水中に突如出現する)と認識していることが見てとれ、それは併置された虱(しらみ)が、「けがれより生じて其けがれをくらふ」としている点で、好意的解釈は無化されてしまう。魚類が化生ではなく、雌雄が存在して生ずるところの卵生であるという認識は当時としても、かなり当たり前(但し、鰻が山芋から化生したりするというような化生認識はあった。しかし、元隣先生は、恐らく、それらを否定するのではるまいかとも思われる)のことである。ただ、卵生であるという見かけ上の認識がありながら、それでも「けがれ」(穢れ)から突如、化生するのが虱だというトンデモ認識は、実は、かの「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年頃の完成。本「古今百物語評判」から二十六年後)を書いた博物学者で医師の寺島良安にさえあったことは事実である。詳しくは私の和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蝨(シラミの項)を見られたいが、そこで良安は『虱、始め、氣化に由りて生じ、後には乃ち、卵を遺し、蟣(きささ)を出だす』とあるからである。「蟣」は、「和名類聚抄」に出る、古語としての「虱の卵」のことである。則ち、良安はまず、何もない、汚れた場所に於いて、「氣化に由りて」(気が変ずることによって)、まず、突如、虱の親が「生じ」、而して後には、おもむろに卵を産むのだ、だから「化生」だと考えているのである。]

古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事

 

  第五 うぶめの事幽靈の事

 

Ubume

 

[やぶちゃん注:これもやや長いので、特異的に改行や字下げを施して読み易くし、注も本文中或いは当該段落末に添えた。個人的に「うぶめ」には強いシンパシーを感じるので、かなり念入りに「叢書江戸文庫」の画像を清拭して掲げた。]

 又、問(とふ)ていはく、

「世にかたり傳ふる『うぶめ』と申す物こそ、心得候はね。其物がたりに云へるは、産(さん)のうへにて、身まかりたりし女、其執心、此ものとなれり。其かたち、腰より下は血にそみて、其聲、をばれう、をばれうとなくと申しならはせり。人、死して後、他の物に變じて來(きた)る道理(だうり)候はゞ、地獄の事も疑はしく存ぜられ候。如何に候ふやらん。」

[やぶちゃん注:「うぶめ」怪談集の定番で、私の電子化注でも既に多くの例が出来している。本文もさることながら、私の注としては、「宿直草卷五 第一 うぶめの事」及び『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)の二本を挙げておけば、ここに改めて注する必要はないと存ずる。そちらを参照されたいが、総論的「うぶめ」伝承について、一応、小学館「日本大百科全書」から引いておく。ここに述べられている通り、『産死した産婦の霊の妖怪』化したものと思われているもので、『身重のまま死んだ産婦を分身せずに埋めると産女で現れるとも伝える。道の辻』『などに現れ』、『通行人に赤子を預ける。赤子は徐々に重くなるが』、『耐えていると、帰ってきた産女は礼に大力や財宝を授けて去る、という伝説。死んだ産婦の墓から生まれる「子育て幽霊」も産女が飴』『で育てた昔話』や、また、『海難者の亡霊やさすらう磯女(いそおんな)をウグメ、ウブメとよぶ地方もあるが、妖怪譚』『の内容は類似している。「取付く引付く」系の財宝発見の昔話「うばりよん」は外出中の男に化け物が「負(ば)れたかったら負(ば)れろ」というと』、『背が急に重くなり、それを耐えて帰宅すると』、『いっぱいの黄金であったという筋で、趣向は同じである。山形県の伝説で、宿直に登城中の武士が妖女に赤子を預けられ重さに耐えていると、帰ってきた女が実は山中の氏神で礼に大力を授けられたという類もある。いずれも胆力ある者が試練を通過して長者などの好結果を得る型で』、「今昔物語集」の巻第二十七の「賴光郎等平季武値産女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郎等(らうどう)平季武(すゑたけ)、産女(うぶめ)に値(あ)ひし語(こと)第四十三)は、源頼光『四天王の卜部季武(うらべすえたけ)が産女に遭遇する説話だが、この場合は』、『返さなかった赤子が木の葉と化している。同じような伝説は各地にあって、無縁仏の供養や母子神信仰につながってもてはやされた文芸であろう』とある。

をばれう」前注に出るように、「負はりよう」で「背負うておくれよ!」の意。

と云へば、先生のいへらく、

「迚(とて)もの事に、かたり侍らん。まづ、『うぶめ』と申すは、もろこしにも『姑獲鳥(こかくてう)』又は『夜行遊女(やかうゆうぢよ)』など云(いへ)り。「玄中記」には、『此鳥、鬼神の類(るい)なり。毛を着(き)て、飛鳥(ひてう)となり、毛をぬぎて、女人(によにん)となれり。是、産婦の死して後(のち)、なる所なり。此故に、ふたつの乳(ち)あり。このみて、人の子をとりて、己(おのれ)が子となせり。凡そ、小兒の衣類など、夜は外にをく[やぶちゃん注:ママ。]べからず。此鳥、來(きたり)て、血を付(つけ)て、しるしとしぬれば、其兒、驚癇(きやうかん)をやめり。荊州に多くあり』といへり。又、「本草」の説には、『此鳥に雄なし。七、八月の頃、夜出でて人を害すと云へり。

[やぶちゃん注:「迚(とて)もの事に」「この際だから、まず、序でのこととして、一つ」の意。

「玄中記」西晋(二六五年~三一六年)の郭璞(かくはく)の著わした博物誌であるが、散佚。諸書の引用を纏めた「中國哲學書電子化計劃」の「玄中記」に、

   *

姑獲鳥夜飛晝藏、蓋鬼神類。衣毛爲飛鳥、毛爲女人。二句北錄引在豫章男子句上一名天帝少女、一名夜行游女、御覽引作名曰帝少女、一名夜游、今依北錄引補一名鉤星、御覽一引作釣星、一名隱飛。鳥無子、喜取人子養之、以爲子。今時小兒之衣不欲夜露者、爲此物愛以血點其衣爲志、卽取小兒也。今時至此已上荊楚時記注引、作有小兒之家卽以血點其衣。爲志御覽引、作人養小兒不可露其衣此鳥度卽取兒也。經史証類本草十九引、作今時人小兒衣不欲夜露者爲此也。今依北錄引補故世人名爲鬼鳥、荊楚時記注引有此句、荊州爲多。昔豫章男子、見田中有六七女人、不知是鳥、匍匐往,先得其毛衣、取藏之、卽往就諸鳥。諸鳥各去就毛衣、衣之飛去。一鳥獨不得去、男子取以爲婦。生三女。其母後使女問父、知衣在積稻下、得之、衣而飛去。後以衣迎三女、三女兒得衣亦飛去。今謂之鬼車。

   *

とある。なお、後半部の本邦の羽衣伝説に酷似した部分は、後の東晋の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の巻十四にも、

   *

豫章新縣男子、見田中有六七女、皆衣毛衣、不知是鳥。匍匐往得其一女所解毛衣、取藏之、卽往就諸鳥。諸鳥各飛去、一鳥獨不得去。男子取以爲婦。生三女。其母後使女問父、知衣在積稻下得之、衣而飛去、後復以迎三女、女亦得飛去。

   *

とほぼ同文が出る。

「驚癇」癲癇(てんかん)或いは「ひきつけ」。

「荊州」現在の湖北省一帯に置かれた州。

「本草」明の李時珍の本草書のチャンピオン、「本草綱目」。その「禽之四」に、

   *

姑獲鳥【「拾遺」。】

釋名乳母鳥【「中記」】。夜行遊女【同。】。天帝少女【同。】。無辜鳥【同。】。隠飛。【「玄中記」】、鬼鳥【「拾遺」】。譩譆【「杜預左傳注」】。鉤星【「時記」時珍曰、昔人言此鳥産婦所化、陰慝爲妖、故有諸名。】。

集解藏器曰、姑獲能收人魂魄。「中記」云、姑獲鳥、鬼神類也。衣毛爲飛鳥、毛爲女人。云是産婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子養爲己子。凡有小兒家、不可夜露衣物。此鳥夜飛、以血之爲誌。兒輒病驚癇及疳疾、謂之無辜疳也。州多有之。亦謂之鬼鳥。「周禮」庭氏『以救日之弓、救月之矢、射矢鳥』、即此也。時珍曰、此鳥純雌無雄、七八月夜飛、害人尤毒。

   *

とあるのを指す。]

 本朝にては、いつ、出(いづ)るといふ事も侍らねど、かく申(まうし)ならはし、又、もろこしの文にも、くはしく書きつけたるうへは、思(お)もふに、此物なきにあらじ。其はじめ、産婦の死(しせ)しからだより、此もの、ふと、生じて、後には、其類(るい)を以て生(しやうず)るなるべし。もと、生(しやうず)る所の氣、産婦なれば、鳥となりても、其わざをなせるにこそ侍れ。或は、くされる魚鳥(うをとり)より、蟲のわき出(いで)、又は、馬の尾の蜂になり申(まうす)類(たぐひ)、眼前に、其物より、他の物、わき出(いづ)れば、産婦のかばねより、此鳥、わき申(まうす)まじとも申(まうし)がたし。是れ、形(かたち)より、形を生ずれば、さもあるべし。地獄の沙汰とは、なぞらへがたし。氣化(きくわ)・形化(けいくわ)の名義は、おのおの、かねて知り給へばかたるにおよばず。」

[やぶちゃん注:おやおや! 玄隣先生、やらかしちゃいましたね、理窟のつかない存在は化生(けしょう)説(四生(ししょう)の一つ。母胎や卵などからでなく、論理的因果関係なしに忽然として生まれるもの。天界・地獄・中有の衆生の類)ですかい?! まずかないですか? そいつは専ら、先生の大嫌いな仏教の発生説ですぜ?!

「氣化・形化」陰陽五行説の、それぞれの気と形態の見かけ上の相互影響による変容の意か。北宋の周敦頤(しゅうとんい 一〇一七年~一〇七三年)が一〇七〇年に著した、陰陽を表わす図を儒教の解釈によって説いた「太極圖説(たいきょくずせつ)」に基づき、朱熹が著わした「太極圖」では、『乾男坤女、氣化する者を以て言ふ也。各(おのおの)其の性を一にして、男女一太極なり』とか、『萬物化生、形化する者を以つて言ふなり。各其の性を一にして、萬物一太極なり』といったキャプションがある。]

 又、問ふていはく、

「然らば、凡(およそ)人間のこんぱく[やぶちゃん注:魂魄。]は此(この)形、死(しし)候へば、とかく消(きえ)うせ候(さふらふ)物と仰せせらるゝぞならば、或は戰場の跡などに、人のなきさけぶ聲のきこへ[やぶちゃん注:ママ。]候ふ事など、たゞしき書物にもみえ、又、「左傳」[やぶちゃん注:「春秋左氏傳」。]にも、彭生(ほうせい)と申(まうす)者の幽靈、きたりて、死(しした)る後に、怨(うらみ)をむくひし事など、書(かき)のせし由、承りおよび候。是れは儒書にて候ふが、其説、おぼつかなく候ふ。」

[やぶちゃん注:「春秋左氏傳」の「莊公八年」(紀元前六八六年)の条に出る以下。

   *

冬十二月、齊侯游于姑棼、遂田于貝丘。見大豕、從者曰、「公子彭生也。」。公怒曰、「彭生敢見。」。射之、豕人立而啼。公懼、墜于車、傷足喪屨。

(冬十二月、齊侯(せいこう)、姑棼(こふん)に游び、遂(つい)で貝丘(ばいきう)に田(か)りし、大豕(たいし)[やぶちゃん注:大きな豚。]を見る。從者曰く、「公子彭生なり。」と。公、怒りて曰く、「彭生敢へて見(まみ)えんや。」と、之れを射る。豕(ゐのこ)、人のごとく立ちて啼く。公、懼(おそ)れて、車より隊(お)ち、足を傷(やぶ)り、屨(くつ)を喪へり。)

   *

ウィキの「襄公(斉)によれば、紀元前六九四年一月、斉侯襄公は魯の桓公と会合し、桓公夫妻が斉にやって来た。実は襄公は以前に魯の桓公夫人(自分の異母妹・文姜)と私通したことがあったが、今回もまた密通し、桓公にそれを知られてしまう。そこで襄公は同年四月に再び魯の桓公と酒を飲み、彼が酔っている隙に乗じて、自身の公子彭生に命じて彼を殺害した。これを魯の国人が責めてきたが、襄公は実行犯であった彭生に総ての責任を押しつけ、彭生を処刑して陳謝した(襄公はこの後もたびたび文姜との密通をし続けている)という事実を亡き彭生は「怨」とするのである)。因みに、「左氏傳」では上記の後に襄公がこの後に王宮に戻り、従者に履いていた靴を出すように命ずるも見つからず、従者が激しく鞭打たれて、たまらず、王宮を逃げ出んとしたところ、門のところで、襄公の冷遇に切れた襄公の従弟である公孫無知らのクーデターと出逢い、カメラが換わって、その公孫無知らが王宮に侵入、隠れていた襄公が弑されるカタストロフ・シーンへと雪崩込んでいるのが、なんとも、早回しで、「怨」の力を感じさせて興味深い。]

といへば、先生、いへらく、

「生死有無(しやうじうむ)の論は、出類(しゆつるい)[やぶちゃん注:出類抜萃。人に抜きんでて才能が優れていること。]の見識ある人ならでは、かたりも聞かせがたく侍る。すべて世の中の事に、『常(つね)』と『變(へん)』と御座候(ござさふらふ)が、人、死(しし)てたましゐのちりうするといふは『常』なり。萬古(ばんこ)[やぶちゃん注:太古より。]、かくのごとし。其氣の殘りて、彰生がごとくなるは『變』なり。萬分の一なり。『變』とは、常(つね)にあらずしてたまたまある、をいふ。たとへば、[やぶちゃん注:「たとへば」は底本にナシ。原典で補った。]人の氣、おとろえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、形、つかれて、病死する人は、火の、おのづからきえて、其灰にも、あたゝかなる氣のなきがごとし。或は、うらみ死(じに)にしぬるか、又は、劍戟(けんげき)のうへにて死(しす)る者は、其氣も形もおとろえざるに、俄にしするなれば、いまだ、もゆる火に水をかけてきやせる[やぶちゃん注:ママ。「消えさする」。]時は、其あたゝかなる氣、しばしは、のこるが如し。されば、其人の、がうきやう[やぶちゃん注:「」。]なる次第によりて、其氣の、のこる事も、淺深厚薄(せんしんこうはく)あるべし。」

 又、問ていはく、

「其氣の殘る事は承りつ。其氣の、のこりて、形の生(しやう)ずる事は、いかんぞや。」

 云く、

「天地(てんち)の間(あひだ)に生(しやうず)る物は、みな、氣よりおこれり。氣のとゞこほるによつて、形を生ず。たとへば、煙のすゝになるがごとし。煙にてみたる時は、かたちなく、手にもとられずといへども、其(それ)、つもりてすゝになりたる時は、手にとらるゝなり。是、氣は質(かたち)の始(はじめ)なる所なり。

 されば、其氣のとゞこほりて、或は形をなし、又は聲(こゑ)を生(しやうず)る物を『幽靈』といふなれど、猶、此『ゆうれい』も、程(ほど)ふるに及(および)て、其とゞこほりたる氣の散ずるに隨(したがひ)て消(きえ)うするなり。又、哲人名僧などの教化(けうけ)によりて消えうするは、もとより、妖は德にかたざる道理なれば、其の教化によりて、其氣、忽(たちまち)に散ずればなるべし。

 されば、中昔(なかむかし)、平將軍(へいしやうぐん)[やぶちゃん注:「將門」を誤ってかく附してしまったものであろう。]まさかどと云ひし逆臣、俵藤太(たはらとうだ)に討れて、其くびをあぎとにかけられしかども、三年にあまるまで、此首、死せずして、眼をひらき、とこしなへにいかれる姿をあらはせしに、往來の人、

『將かどは米かみよりぞきられける俵藤太がはかり事にて』

とよみければ、一首の狂歌に鬱憤を散じ、眼をとぢ、形をしぼめて、髑髏(どくろ)となり侍る、など申し傳へけるも此理(ことわり)にや。

[やぶちゃん注:「くびをあぎとにかけられ」所謂、後の獄門首として曝されることを指すが、どうもこの表現は重語で躓く。「首を掛ける」と「顎門・顎・鰓」=『「あぎと」を掛ける』は同じだからである(「あぎ」は「あご」で、「と」は「所・門」で「区分された箇所」という部分を指すものであろう)。

「將かどは米かみよりぞきられける俵藤太がはかり事にて」これは「太平記」巻第十六の「日本朝敵の事」の一節に出るのが知られている。

   *

朱雀院(しゆじやくゐん)の御宇承平五年[やぶちゃん注:九三五年。]に、將門と言ひける者、東國に下つて、相馬郡(さうまのこほり)に都を立て、百官を召し仕うて、みづから「平親王(へいしんわう)」と號す。官軍、舉(こぞ)つてこれを討たんとせしかども、その身、皆、鐡身(てつしん)にて、矢石(しせき)にも傷(やぶ)られず、剣戟にも痛まざりしかば、諸卿、僉議(せんぎ)あつて、にはかに鐡(くろがね)の四天を鋳(い)奉つて、比叡山に安置し、四天合行(してんがふぎやう)の法を行はせらる、ゆゑに、天より白羽の矢一筋降つて、将門が眉間(みけん)に立ちければ、遂に俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)に首を取られてけり。その首、獄門に懸けて曝すに、三月(みつき)まで色変ぜず、眼(まなこ)をも塞(ふさ)がず、常に牙(きば)を嚙みて、

「斬られし我が五體、いづれの所にか有るらん、ここに來たれ、首繼(つ)いで、今一軍(ひといくさ)せん。」

と、夜な夜な、呼ばはりける間(あひだ)、聞く人、これを恐れずといふ事、なし。時に、道過(みちす)ぐる人、これを聞きて、

  將門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀(はかりごと)にて

と詠みたりければ、この首、からからと笑ひけるが、眼(まなこ)、たちまちに塞がつて、その尸(かばね)、遂に枯れにけり。

   *

「四天合行の法」四天王合行法。密教で四天王を本尊として同一の壇で行う修法。災厄を祓い、福徳を招き、国土安穏を祈る。なお、この戯れ歌はそれ以前の「平治物語」にも載り、そこでは藤六という歌詠みが詠み掛けたとされてある。この戯れ歌はそれ以前の「平治物語」にも載り、そこでは藤六という歌詠みが詠み掛けたとされている。一首は、

 將門は顳顬(こめかみ)よりぞ斬られける俵藤太が謀り事にて

で、「こめかみ」が「顳顬」(耳と目の間にある、物を嚙むと動く部分)と「米」の掛詞となっていて、「俵」と、恐らくは「はかり」(年貢米の計量)が「米」の縁語として洒落になるようになっているものと私は思う。]

 畢竟、聖賢神佛の靈(たま)の、今にのこりて、罰利生(ばつりしやう)の正しきは、是れ、よき『幽靈』なり。然し、世の常の人は生きています時だに、よろしき事はまれにして、さがなき事[やぶちゃん注:性悪なこと。]のみ、おほき身なれば、せめてはわすれ[やぶちゃん注:ただただ自身の悪しきを忘れてしまい。]、てかへして[やぶちゃん注:掌を返すように。]、其執(しう)をとゞめざらぬには、しかざるべきわざにこそ。」

 

2018/10/10

古今百物語評判卷之二 第四 箱根の地獄幷富士の山三尊來迎の事

 

  第四 箱根の地獄富士の山三尊來迎の事

 

Hakoneraigou

 

[やぶちゃん注:やや長いので、特異的に改行や字下げを施して読み易くし、注も当該段落末に添えた。]

 又、問(とふ)ていはく、

「はこね山には地ごく有(ある)よし、申(まうし)ならはし侍りて、人のよみがへりたる者などの物がたりにも、まことしき事あり。其うへ、そのよみがへりたる人の身などに紫色なる所など出來候ふを、訶責[やぶちゃん注:「呵責」。]にあひし跡なりと申は、結城(ゆふき)入道がいにしへも思ひ出でられて、實(げ)にも、らしく、聞え侍り。又、富士の山へのぼりたる人は、朝日にかゞやきて三尊來迎(さんぞんらいがう)の姿、おがまれ給ふ事、諸人の申し侍るは、何(なに)の道理ぞや。」

[やぶちゃん注:「結城入道がいにしへ」鎌倉後期から南北朝初期の武将で白河結城氏第二代当主結城宗広(文永三(一二六六)年~延元三/暦応元(一三三九)年)の伝承。ウィキの「結城宗広」によれば、『当初は鎌倉幕府の忠実な家臣として陸奥国南部方面の政務を任された』。元弘元(一三三一)年九月の「元弘の乱」に『際して、北条高時の命によって畿内へ派遣された討伐軍に「結城上野入道」の名があるが』、『これを宗広に比定』する学者がいる。しかし、元弘三/正慶二(一三三三)年、『後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると後醍醐天皇側に寝返って、新田義貞と共に 鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼした』。『その功績により、後醍醐天皇から厚い信任を受けて』、『北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された』。建武三(一三三六)年、足利尊氏が京都に攻め入り』、『一時』、『支配下に置くと、顕家と共に軍を率いて足利軍を攻め、朝廷軍の京都奪還で大功を挙げた』。同年三月には『後醍醐天皇に謁見し』、『宝刀鬼丸を授けられ』ている。『九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共に足利軍と懸命に戦ったが』延元三/暦応元(一三三八)年に『顕家が高師直と戦って敗死したため』、『軍は壊滅し、宗広は命からがら後醍醐天皇がいる吉野へと逃れた。その後、宗広は南朝方再起のために、義良親王を奉じ』、『伊勢より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難して伊勢国安濃津で立往生し、間もなく同地で発病して病死した』。『津市には遭難した海岸に結城神社が有り、梅祭りで有名である』「太平記」巻二十の掉尾「結城入道地獄に堕つる事」では、『宗広の死に関して、常に死人の首を見ないと気持ちが晴れないと言って、僧尼男女を問わず』、毎日、二、三人の『首を切って』、『わざわざ目の前に縣けせるほど、生来』、『暴虐な人物で狼藉が多かったため、その報いを受けて塗炭の苦しみを味わい』、『地獄に堕ちるという凄惨な描写をしている。宮城県多賀城市の多賀城神社に祀られている』。『宗広は南朝に最後まで忠実な武将であったが、その息子・親朝が北朝に通じて親房を攻めるという皮肉な事態が発生する事になった。なお、家督は当初親朝が分家していたため』、『親朝の子・顕朝を後継者としていたが、宗広の死後に顕朝が白河結城氏の家督と所領を父に献じたために親朝が継承している』とある。「太平記」のそれは面白いであるが、やや長い。santalab氏のブログ「Santa Lab's Blogの『「太平記」結城入道堕地獄事(その1)』から九回に分けて原文と現代語訳が載るので、そちらを参照されたい。

 先生、いへらく、

「是れ、又、人の氣の前に見る幻容(げんよう)なるべし。くはしく、論じ侍らん。かく申とて、我、ゆめゆめ、佛道をそしるにあらず。各々、御存(ごぞんじ)のごとく、佛・菩薩をも、うやまひ侍れども、根元佛道の本意(ほに)は別に佛身をたつるにあらず。たゞ是れ、自性(じしゃう)の正覺(しやうがく)を本有(ほんう)の佛心とみたて侍る事、佛道第一の眼目にて御座候ふ。されば、其佛道に似て、『つゐへの侍る[やぶちゃん注:ママ。「潰(つひ)え」であろう。]』と、愚(おろか)なる人のまよひて、賣僧(まいす)にたぶらかさるゝをうれへ侍るのみ。

[やぶちゃん注:「自性」あらゆる存在そのものが、本来、備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。

「正覺」「無上正等覚・三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)」の略。正しい仏の悟りのこと。

「本有」連声(れんじょう)で「ほんぬ」とも読む。本来的な存在。初めから有ること。]

 それ、地獄の事は鬼の事に付(つき)ても、あらあら、申し侍れども、又、かたり申さん。

 彼(か)の佛家(ぶつけ)に、ときをき[やぶちゃん注:ママ。]給ひし地ごくの沙汰は、是れ、愚(おろかなる)人の奸惡(かんあく)をなして、『何とぞ、上(かみ)の刑罰をまぬがれん』として、恥(はづ)る事なき者の爲に、しばらく、まうけて教へをたつるのみ。いかでか、人、死し、かたち、つゐえて[やぶちゃん注:ママ。]後、更にくるしみをうくる事、あらんや。しからば、我朝にいふ所の箱根山、および越中のしら山・たて山、皆、硫黃(ゆわう)のせいより、さまざまわき出(いづ)るを申しならはしたるにて侍るべし。

[やぶちゃん注:「越中のしら山・たて山」言いがおかしい。「しら山」は越前の白山である。もろこしにも、かく名付たる所あり。「一統志」「湖廣總志」などにみえたり。

「硫黃(ゆわう)」前条「第三 有馬山地ごく谷・ざたう谷の事」で既出既注。硫黄(いおう)の古名。

「一統志」「大明一統志」。明の英宗の勅撰地理書(但し、先行する景泰帝の命じた一四五六年完成の「寰宇通志」の改訂版)。一四六一年に完成。全九十巻。最終の二巻は「外夷」(朝鮮国・女直・日本国・琉球国他)に当てられているが、説明は沿革・風俗・山川・土産のみで、簡略である。

「湖廣總志」「萬歷湖廣總志」明の徐學謨撰になる湖南省の地誌。全九十八巻。一五九一年成立。]

 さある處に、我朝に、人のよみがへりたる後(のち)、或は、『はこねへゆきし』、又は』『それぞれの責めをうけし』など、まざまざ申事有(ある)は、是れ、日比(ひごろ)に『かく有べき』と思ひきはめたる氣の、前(さき)の病氣をうけて、既に半ばも死(しに)いれども、よみがへる者なれば、其本心は、しなざるにより、晝、おもひし事を、夢に見る理(ことわ)りなれば、此病氣の中に、すゞろ事(ごと)どもを、日比に思ひしごとくにみるを、かく申すなり。

[やぶちゃん注:「すゞろ事」これといった根拠や理由のないこと。ここは他愛もないさまざまな地獄の説。]

 さて、また、紫色などのつきしは、ねつ氣などのさかんにして、とゞこほりて、色の變りしなり。『はやくさ』などにて相果(あひはて)る小兒を見れば、皆、むらさき色なり。是れ、たゞ積(つもれる)毒のあらはるゝにて、さらに訶責の跡にあらず。

[やぶちゃん注:「はやくさ」「早瘡」で、母体感染した小児性梅毒のことかと思われる。]

 其うへ、司馬溫公の發明にも、人の蘇生して後、地ごくへ行き、閻魔王殿にあひしなどいふも、佛法わたりて後に、哲人、かく申せり。是、まよひ故なり。

[やぶちゃん注:「司馬溫公」北宋代の儒学者で歴史家・政治家としても知られる司馬光(一〇一九年~一〇八六年)のこと。彼は温国公の爵位を贈られており、それによって「司馬温公」「司馬文正公」と呼ばれることが多い。例の、子どもの頃、大きな水瓶に落ちた友人を、躊躇なく瓶に石をぶち当てて破って助けた話で知られる人物である(それを私は小学二年生の時、学校の道徳の授業で音読させられたのを何故か未だによく覚えている)。

「發明」物事の意味や道理を明らかにすることを目的として書かれた書という一般名詞であろが、以下の話は何に出るのか、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。]

 もし、『實(じつ)にある事ぞ』ならば、いかんぞ、佛法わたらざるさきに、いくたりも、蘇生の者侍れども、一人も、かやうの事あらざるやと申給(まうしたまひ)し事、千載不易の論なればこそ、文公「小學」にものせ給ひけり。

[やぶちゃん注:御説、御尤も!

『文公「小學」』初学者のために南宋の大儒、朱熹(一一三〇年~一二〇〇年:謚は文公)が編纂した宋代の修身・作法書。全六巻。一一八七年成立。]

 或は、したしき親・なれたる妻などの死(しし)て、物每(ものごと)、かなしき折から、出家などのわたりて、そこそこを通りしに、『其死人(しびと)より、かたみをおくり給(たまひ)し』などいひて、死人(しにん)に着せやりたる着物の袖・つまなどを持ち來たる事、多し。是れ、皆、手だてある事のやうに覺え侍る。何れも、さしもの學者たちなれば、大かたは推察し給ふべし。

[やぶちゃん注:最後の一文は、集って元隣に問い、話を聴いている諸人を指すか。しかし、「さしもの學者たち」とし、尊敬語まで用いているのは不審である。かといって、朱熹に代表される学者たちと採るには文脈上は困難である。]

 さて、富士の山三尊來迎の事は、朝日の光にて、雲の色あひ、其かたちに似たるを、日の光のまぶきまぎれに、其如く思ふなるべし。程子、石佛(いしぼとけ)の光をとゞめ給

ふ事、思ひあはせ給ふべし。

 むかし、和國の山川は、其國の神をまつりけれども、中むかし、いつの時よりならん、名ある大山(たいさん)・大川(たいせん)、ことごとく佛者の爲に領せられし事にこそ侍れ。」

[やぶちゃん注:元隣が大の仏教嫌いの神道復古派であることが、如実に伝わってくる。]

譚海 卷之三 靈社號の事

 

靈社號の事

○凡(およそ)人も卒去して神に祭る時は、其の靈社と稱し、その人歸依の神の番屋に祭る事也。靈社號は吉田殿より免許ある事也、宮號は敕許の外ならぬ事也といへり。

[やぶちゃん注:「吉田家」前条吉田家神代文字の私の引用注を参照されたい。]

譚海 卷之三 吉田家神代文字

 

吉田家神代文字

○吉田家に神代の文字といふ物を藏む。是は日向國霧島ケ嶽の絶頂の谷中に天の瓊矛(あめのぬぼこ)と云(いふ)物有(あり)て、夫(それ)に鏤刻(るこく)し有(ある)所の文字也といへり。一とせ其國の惠比須の宮の神主遠遊を好み、霧島ケ嶽にのぼりたるに、言傳ふる所の瓊矛なるもの谷中に有。全く華物(からもの[やぶちゃん注:私の勝手な当て読み。])の華表の如き物にして、ゑり付ある所の花文古筆めづらしきもの也。それにしるし付(つき)て有(ある)文字を摺寫(すりうつ)し、上京致し吉田殿へ持參し、引合見(ひきあはせみ)たき由願(ねがひ)けると人のかたりぬ。

[やぶちゃん注:「吉田家」卜部(うらべ)氏の流れを汲む公家。ウィキの「吉田家より引く。『京都室町小路にあった自宅の敷地を足利義満に譲った事で知られる家祖・吉田兼煕は、吉田神社の社務である事に因んで家名を「吉田」とした。この兼煕は神祇大副や侍従を務め、卜部氏として始めて公卿に昇った』。五代『兼倶は唯一神道を創始、既存の伊勢神宮系の神職と激しく対立しながら、後土御門天皇を信者に得て』、『勢力を拡大し』、『「神祇管領長上」という新称号を自称した。以後神祇伯の白川家を駆逐して全国の神社に対する支配を広げていった』。九代兼見(かねみ)に至って、『織田信長の推挙により』、『堂上家の家格を獲得した。近衛前久に家礼として仕え、明智光秀と深い親交のあった兼見の日記』「兼見卿記」は『織豊政権期の研究に必須の一級史料となっている。神職における吉田家の優位は江戸時代になって』、寛文五(一六六五)年の『諸社禰宜神主法度で確定』し、『歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は』七百六十『石。明治維新後は良義が子爵に叙せられた。分家として、江戸時代初期に萩原家が出ている』とある。白河家の私の白川伯王家の引用注も参照されたい。

「天の瓊矛」元来は日本神話に登場する聖具「あめのぬぼこ」で、「古事記」では「天沼矛」、「日本書紀」では「天之瓊矛」或いは「天瓊戈」と表記されており、「古事記」によれば、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神が別天津神(ことあまつかみ:天地開闢時に出現した五柱の神)らに、漂っていた大地の完成を命ぜられ、この「天沼矛」を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、この矛を渾沌とした大地に突き刺して掻き混ぜたところ、その矛から滴り落ちたものが積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」となったとする(二神はこの島で「みとのまぐはひ」(交合)をして大八島と神々を生む。総てが判り易いフロイト的性的象徴であることは言うまでもない)。「日本書紀」本文には、「瓊」は「玉」のこと」とする注釈があり、そこでは「天之瓊矛」は「玉で飾られた矛」の意となる。但し、笨条のそれは、「日向國霧島ケ嶽の絶頂」に立つそれとあり、これは「天逆鉾(あめのさかほこ)」のことである。ウィキの「天逆鉾によれば、『日本の中世神話に登場する矛で』、『一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰山頂部(宮崎県西諸県郡高原町)に突き立てられているものが有名である』。これは前に注した「天沼矛」「天之瓊矛」が、『中世に到』って、『仏教の影響のもと』に『様々な解釈が生み出され』、その性質が変容したものである。仏教及び修験道の立場から書かれた神道書「大和葛城宝山記」(巻末に天平一七(七四五)年のクレジットと「興福寺の仁宗が之を記し傳ふ」と書かれているが、実際には鎌倉後期の真言系の僧によって書かれたとするのが通説)によると、『天沼矛を天地開闢の際に発生した霊物であり』、『大梵天王を化生したとし、独鈷杵と見なされ』、『魔を打ち返す働きを持つとして別名を天魔反戈』(あまのまがえしのほこ)『というとされている。更に天孫降臨した邇邇芸命』(ににぎのみこと:「日本書紀」では瓊瓊杵尊)『を瓊(宝石)で飾られた杵(金剛杵)の神と解し、「杵」を武器に地上平定する天杵尊』(あめのき(せ)のみこと)、別名、杵独王(きどくおう)としている。『一方で両部神道の』中世に書かれた神道書「天地麗気府録」では、『オノゴロ島に立てられた金剛杵であるとされ、これらの影響を受けた』「仙宮院秘文」では『皇孫尊は天沼矛を神宝として天下ったとされた。このため天沼矛=天逆鉾は地上にあると考えられるようになった』。『天逆鉾の所在については』「大和葛城宝山記」では『天魔反戈は内宮滝祭宮』(たきまつりのみや)『にあるとされている。伊勢神道(度会神道)の神道書』「神皇実録」では、『サルタヒコの宮処の璽(しるし)とされており』、「倭姫命世記」では、『天照大神が天から天逆鉾を伊勢に投げ下ろしたとし内宮御酒殿に保管されているとした。いずれも、伊勢神宮に保管されていると説く。なお』南北朝期に北畠親房が著した「神皇正統記」の中では、『オノゴロ島である宝山にあると結論づけている』。『一方で天逆鉾が、大国主神を通してニニギに譲り渡されて国家平定に役立てられ、その後、国家の安定を願い矛が二度と振るわれることのないように』、『との願いをこめて』、『高千穂峰に突き立てたという伝承があ』り、『この天逆鉾は霧島六社権現の一社・霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町鎮座)の社宝』というが、『この矛の由来は不明である』。『古来、天逆鉾を詳しく調べようとした者はいなかったが、坂本龍馬が高千穂峰を訪れた際、何を思ったか』、『引き抜いて見せたというエピソードがある。このエピソードは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存している。なお、この天逆鉾は』、『のちに火山の噴火で折れてしまい、現在残っているものはレプリカである。オリジナルは柄の部分は地中に残っており、刃の部分は回収され、島津家に献上され、近くの荒武神社(都城市吉之元町)に奉納されたが、その後も様々な人手を転々と渡って現在は行方不明となっている』。歴史学者喜田貞吉は、「神皇正統記」などに触発され、『霧島山降臨の話を作り出した修験者が高千穂峰の山頂に逆鉾を置いたと推察している』。『兵庫県高砂市の生石神社では境内の石の宝殿を、天逆鉾、鹽竈神社の塩竈とともに「日本三奇」と称している』とある。

「神代文字」(じんだいもじ)は鎌倉時代中期以来、しばしば、日本に漢字が渡来する以前から存在したと主張されてきた文字。神字(かんな)とも称する。特に江戸中期から国学者の中で、その存在を強く主張する者が多く現れた。対馬に伝わる日文(ひふみ)を支持した平田篤胤 の「神字日文傳」などが有名であるが、現在では、その存在は否定されており、その多くは、朝鮮のハングルをもとにして 十五世紀以後つくられたものとされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。私も全く信じない。]

譚海 卷之三 白河家

 

白河家

○白河家尋常には源姓を稱す、神祇伯に拜せらるゝ時は姓を捨て某王(なにがしわう)と稱する也。内侍所御神樂には白河殿歌をうたはるゝ也。神事の庭に座せらるゝに木偶人(でく)の如く、うたふ時に至りて聲を發せらるれば、はじめて其人なる事を知るといへり。

[やぶちゃん注:「白河家」とあるが、これは花山源氏を出自とする堂上家の白川伯王家(しらかわはくおうけ:単に白川家とも)のことであろう。ウィキの「白川伯王家」によれば、『花山天皇の皇孫の延信王』(のぶざねおう)『(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元』。『花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り』、『臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯』(じんぎはく/かみ(かん)づかさのかみ:律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁としての神祇官の長官)『に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた』。『白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗ったことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない』。『非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である』。延信王は万寿二(一〇二五)年に『源姓を賜り』、『臣籍降下し』、寛徳三(一〇四六)年に『神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが』、『この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実、先の四名の間に大中臣氏が補任されている』。『顕広王は本来は源氏であり、神祇伯就任とともに王氏に復し、退任後に源氏に戻る最初の例となっており』、『以下に示す経過により、顕広王の王氏復帰をもって白川家の成立とみなすことが多い』。『顕広王の王氏復帰の背景には、神祇、すなわち』、『神を祀るという、朝廷にとって最も重要な行為を行う神祇官の長官である「神祇伯」という職務の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏の源顕房の猶子となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の業資王(源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王が急死して弟の資宗王(源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏に復し、これらが先例となり、以後、白川家による神祇伯の世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである』。なお、『「白川」の呼称は』十三『世紀中期以降、資邦王の代から見られるようになる』。『室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称し』、『吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』。『家格は半家、代々の当主は近衛中将を経て神祇伯になった』。『江戸時代の家禄は』二百『石。他に神祇領・神事料』百『石』であった。『明治時代になると王号を返上し、白川家の当主の資訓は子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄(北白川宮能久親王の庶子)の男子の久雄を養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶』した。]

甲子夜話卷之五 26 大坂の松飾

 

5-26 大坂の松飾

嚮に門松のことを云たり。後聞く、大阪は門松なし。町家はじめ繩を戸口に張るなり。因て七草迄の間を松の内とは云はで、しめの内と云ふ。又松を飾るも、小枝を戸口の柱に釘にて打つけ置くばかりと云。

■やぶちゃんの呟き

「嚮に」「さきに」。甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事を指す。私の家は、私の記憶する限り、松飾りは小枝を玄関や扉の柱に附けおくばかりである。

甲子夜話卷之五 25 神尾若狹守、堀江荒四郎を擧る事

 

5-25 神尾若狹守、堀江荒四郎を擧る事

神尾若狹守春央は、享保中の勘定奉行にて、人となり才智ありて威嚴なりければ、國用を辨ずるにおひては功績多かりしとなん。一年諸國を巡見せることありしに、その威名を聞傳へて、いかなる苛刻の事もあらんやと、土民ども安き心も無りしに、道すがら輿中より見渡したる計にして經過せり。然るに隱田ある所は、自ら訴へ出、沃土の免低かりしは、自ら免を上げて申出けるにぞ、多くの國益とはなりける。若州曾て堀江荒四郞を薦て、これにも所所巡察せしめ、賦税を增益せること多かりしとかや。其頃中國にてかくぞ落首しける。

    

 東からかんの若狹が飛で來て

    神尾                四郞

      野をも山をも堀江荒しろ

此荒四郞は農民より出て御徒組に入、遂に御旗本に列せしと云。

■やぶちゃんの呟き

「神尾若狹守春央」(かんを(かんお) はるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)は旗本で勘定奉行。ウィキの「神尾によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』。『下嶋為政の次男として』生まれた。『母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』った。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元』(一七三六)年、『勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行とな』った。『時に』八『代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元』(一七四四)年には、『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十年を通じて、『収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三(一七四六)年九月、『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため、影響力は大きく低下した』。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として広く知られている(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極』(ほりえ あらしろう/ただとう)『と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある。

「擧る」「あぐる」。

「苛刻」「苛酷」に同じい。

「輿中」「こしなか」。

「計」「ばかり」。

「隱田」「かくしだ」。

「沃土」地味の肥えた土壌・土地

「免」石高や収穫高に対する年貢高の割合。

「自ら」配下の担当者を介さずに彼が直接に。

「堀江荒四郞」堀江芳極(ただとう 元禄一四(一七〇一)年~宝暦九(一七五九)年)は上記の通り、当時、勘定組頭(後、吟味役)であった。父は成芳、母は水戸家侍女某氏の養女。開幕当初からの代官の家筋であった。勘定から勘定組頭を経て、延享二(一七四五)年閏十二月に勘定吟味役へ昇進、勘定奉行神尾春央の下で、「享保の改革」後半に於ける、年貢増徴政策の実務担当者として活躍した。勘定組頭時代の延享元年には、神尾とともに上方・西国巡見に赴いた際には例の落首が伝えられるように、西国の農民たちに恐れられた。寛延元(一七四八)年閏十月に罷免されて小普請になり、出仕を停止されたが、間もなく許されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「薦て」「すすめて」。

「若狹が飛で來て」「わかさ」は「未熟な野郎」を掛けるか。或いはこれを「神尾(の配下の)若さ(若い衆・子分)」として堀江四郎と読むことも可能であろう。但し、当時、堀江も既に四十三だから「若い衆」ではないけれど。

「荒しろ」「荒し」て米一粒だに残らぬという謂いであろう。

甲子夜話卷之五 24 九鬼松翁、享保殿中の物語

 

5-24 九鬼松翁、享保殿中の物語

享保の頃は、大廣間一同御禮のとき、隆暑祁寒などの折は、御大聲にて時氣の御諚ありて、いづれもさはりは無きやなどゝありしとぞ。今の九鬼泉州【隆國】の祖父松翁【長門守、隆邑】、九十一歳にて去々年終りしが、その人などは玉音を承りしとて語れりとなん。御晚年西城にて薨御の後、本城へ御機嫌伺登城のとき、殿中の靜なること人無きやうにありしとぞ。これ出仕の人々御德を仰慕して哀悼に堪ず、聲を出すものも無りし故なりしと。これも九十翁の物語なりときゝぬ。

■やぶちゃんの呟き

「大廣間」「おほびろま」。江戸城内最大の書院で、将軍宣下の儀式・武家諸法度追加法令の発布・年頭拝賀の式等の公的行事を行う最も格式の高い御殿。将軍が坐す「上段之間」以下、「中段之間」・「下段之間」・「二之間」・「三之間」・「四之間」・「五之間」・「納戸」が中庭を囲んで、合わせて五百畳で構成されていた。参照したブログ大江戸歴史散歩を楽しむ会の「江戸城表・大広間・控之間・松之廊下がよい。

「祁寒」「きかん」。厳しい寒さのこと。「祁」は「盛ん」の意。

「御諚」「ごぢやう」主君の仰せ。御言葉。ここは無論、徳川吉宗の時候のそれ。

「九鬼泉州【隆國】」摂津三田藩第十代藩主九鬼隆国(くきたかくに 天明元(一七八一)年~嘉永五(一八五三)年)。和泉守から後に長門守。静山より二十一歳歳下。

「祖父松翁【長門守、隆邑】」摂津三田藩第八代藩主九鬼隆邑(たかむら 享保一二(一七二七)年~文政三(一八二〇)年)。「去々年」(おととし)とあるから、珍しく、本条は文政五(一八二二)年の執筆であることが明確に判る記事である。ウィキの「九鬼隆邑」によれば、『官位は従五位下。長門守。号は松翁』。寛保三(一七四三)年、『兄で先代藩主の隆由』(たかより)『の死去に際し、その養嗣子として跡を継いだ』。天明五(一七八五)年十一月十四日、長男の隆張』(たかはる)『に家督を譲って隠居し』ている。『九鬼家に伝えられていた起倒流柔術を兄・九鬼隆由から学び、隆由の死後は鈴木邦教(滝野遊軒の弟子)から同流の柔術を学んだ』。『その後、長男の九鬼隆張に起倒流を伝え、以降は九鬼隆輝まで伝承が続いた。この、九鬼家の家伝となった起倒流の系統は起倒流九鬼派と呼ばれた』とあり、また、『隆邑(松翁)は、歴代藩主の中でも最も長命な人物であり』、文政二(一八一九)年正月十九日には九十歳の『祝賀が行われた。代々』、『三田藩の家老を務めた澤野氏により』、『明治初期に編纂された「九鬼史」(個人蔵)には』、「松翁樣九十歳御年賀御祝ニ付隆國公ヨリ白銀拾枚鯣壱折御祝被進之 松翁樣ヨリ御壽物トシテ御大小一腰被進其外夫々御壽物被進之 右ニ付家中一統ヘ御祝下賜夫々組合ヲ以御祝物獻之 御領下餠被下置 廿五廿六日御能拜見被仰付家中男女出頭ス老公ヨリ御染筆ノ石摺一枚ツゝ下賜」『とあり、領民には餅が配られ』、二『日間にわたり』、『能が演じられ』、『家中一同の観能が許された。なお、三田藩にかかる記録類において、能・狂言に関する記載は当該条文のみである。また、当該祝賀の実施場所については、藩主である九鬼隆国が』文政元(一八一八)年五月十九日に『三田に帰国し』、同三(一八二〇)年三月二十四日に『参府のため』、『三田を出立しているので、三田城陣屋の藩庁、もしくは三田城陣屋郭内の隆邑の隠居所であった御下屋敷の広間か』、『書院で行われたと考えられる』とあり、『九鬼松翁により「富貴是長命」と揮毫された長寿を寿ぐ書軸が今日に伝わっている』として、その『九鬼隆邑筆一行書「冨貴是長命」』画像(転載不可)がこちらで見られる

「西城にて薨御」吉宗は将軍引退から六年が経った寛延四(一七五一)年六月二十日に死去した。享年六十八(満六十六歳没)。死因は再発性脳卒中とされる(ここはウィキの「徳川吉宗」に拠った)。

2018/10/09

大和本草卷之十三 魚之上 ヒビ (ボラ)

 

【和品】

ヒヾ 琵琶湖ニアリ長六七寸形色似鯔魚只鱗細キ

 ノミ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ヒビ 琵琶湖にあり。長さ、六、七寸。形・色、鯔魚〔(ボラ)〕に似る。只〔(ただ)〕、鱗、細きのみ。

[やぶちゃん注:これは困った。琵琶湖産の魚類で「ヒビ」という名を持つ或いは持っていた魚で、体長十八~二十一センチメートルほどで、形も色もボラに似ているが、鱗がボラよりも細い(ボラは鱗の一枚がずんぐりとして大きい)というのだ。幾ら調べても、出てこない。全くの『不詳』として掲げるしかないと思ったが、ここで最後の切り札として――実はこれはなかなかに丈夫で、河川の中流域にまで遡上することもある、ボラそのものなのではないか?――という過激なことを考えて検索をかけてみた。すると! サイト「雑魚の水辺」の「ボラ」に驚くべきことが記されてあったのだ! 『河口や汽水域ではごくごく普通に見られ個体数はかなり多い。若魚はたまに河川の中流域でも見られる。汚染の進んだ都市河川にも多い』とか、『春や夏になると』、『ボラの若魚ハクやオボコが河口浅瀬に群れたり、集団で河川を遡上して河川支流に進入したり』するとあるのは納得として、『海でよく見られる魚であるが、幼魚や若魚は川を数十』キロメートル『も遡り、完全な淡水でも暮らすことができる。ダムや堰堤がなかったころは、淀川、宇治川を遡り』、『琵琶湖まで遡上した記録があるというから驚きだ』(下線太字やぶちゃん。以下も同じ)という文字通り、驚きの記載に出くわしたのだ! あゆの店きむら」のサイト「琵琶湖と鮒寿しのWEBマガジン」の「琵琶湖の話」にも、『本当の意味で琵琶湖は海と繋がっていた時代があった。江戸時代、チヌ』(スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii の異名。ウィキの「クロダイによれば、『河口の汽水域にもよく進入』し、『さらに河川の淡水域まで遡上することもあるため、能登地方では川鯛とも呼ばれる』とある)『やボラなど海水魚が琵琶湖で捕れたという記録が残っている。淀川を遡上してきたのである』とはっきり書いてある。現在、ボラが淀川水系でどれくらい上流まで遡上しているを調べてみると、これがちゃんとあった! 龍谷大学公式サイト内「ダムの魚道は機能しているのか?」理工学部山中裕樹講師らが生き物に配慮した河川整備に貢献する魚類調査手法を開発という記事の中にそれがあったのだ! これは『水中を漂う魚類のDNAを回収・分析することで生息する魚種やその生息量を推定する、いわゆる「環境DNA分析」の技術』による調査なのだが、それによれば、『淀川には下流側から、淀川大堰、天ヶ瀬ダム、瀬田川洗堰という3つの大規模な河川横断構造物がありますが、これらのうち、魚道が設置されているのは淀川大堰のみです。淀川河口から琵琶湖に至る15地点で月毎の採水調査(1地点あたり2リットル)を1年間実施した結果、対象としていた海産魚であるスズキとボラは淀川大堰を通過して、河口からおよそ36kmの京都市伏見区付近まで遡上していることが確認されました』とあるのだ!(記事の下方右にある「環境DNA分析」によるボラの地図データを見られよ!) さすれば! これは、正真正銘の、

琵琶湖に遡上してきた条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の幼魚

なのではあるまいか? であってみれば、形も色も成魚のボラに似ているが、まだ幼年であるが故に、鱗の大きさがデカくないというのも腑に落ちるではないか?! 大方の御叱正を俟つものではある。]

古今百物語評判卷之二 第三 有馬山地ごく谷・ざたう谷の事

 

  第三 有馬山(ありまやま)地ごく谷・ざたう谷の事

又、問(とふ)ていはく、「有馬山に『地獄谷』といふ所あり。『鼓(つゞみ)が瀧(たき)』の近所にて御座候が、五尺四方ばかりの、ちいさき穴なり[やぶちゃん注:ママ。]。所の者、申候(まうしさふらふ)は、『此穴へ、何にても、生(しやう)ある物、入(いり)候へば、たちまち死し、又、其土をとりて、たむしなどにつくれば、其まゝ、なをり候[やぶちゃん注:ママ。]。是れ、地獄にて候ゆへ、かくのごとし』と申侍る。又、『ざたう谷』と申(まうす)は、むかし、盲目ありて、道をふみまよひて、此處(このところ)に死せし故、其たましい[やぶちゃん注:ママ。原典は『たましゐ』。]、變じて、大石(だいせき)となりて、此谷にのこれりとて、其たけ、一丈ばかりなる石、ざたうのごとくにみえて、今にあり。此事、いかんぞや」。先生、いへらく、「是、覺束なき名に侍る。其『地獄谷』といふは、もと、湯のわき出(いづ)る山なれば、硫黃(ゆわう[やぶちゃん注:原典のルビ。硫黄(いおう)の古名。])のせい、其下にさかんなる所へ、水のながれ、出(いづ)れば、其水、へんじて溫湯(あつゆ)となる事、もろこしの地理の書(ふみ)どもに、みえたり。されば、有馬も硫黃山(ゆわうやま)なれば、其『地獄谷』の近所も、『ゆわう』有(ある)べし。水すじ[やぶちゃん注:ママ。]なき故、湯、わかねども、湯黃(ゆわう)の氣によりて、其穴へ入(いり)たるむしの類(たぐひ)、死するなるべし。又、『ざたう谷』の事は、唐土(もろこし)にても、『望夫石(ばうふせき)』の故事と相似(あひにた)り。是、たまたま、其石の、人がたちに似たるを以て名付(なづけ)たるべし。疑ひ給ふべからず」。

[やぶちゃん注:標題「ざたう谷」はママ。「座頭谷」であるから、「ざとう」が正しい。実は有馬温泉の怪奇談は枚挙に暇がないほどあり、私も電子化で手掛けたその総てを挙げることが出来ないほどである。「諸國里人談卷之四 皷瀧【蛛滝 有明櫻 屏風岩 高塚淸水】」及び「諸國里人談卷之四 有馬毒水」の本文及び私の注が、ここでは「地獄谷」・「座頭谷」・「皷が瀧」等が調べてあるのでかなり有効であるから、まずはそちらを参照されたい(ここでは改めてそれらは注しない)。「座頭谷」は宝塚から有馬温泉に向かう有馬街道の途中にある蓬莱峡の一部で、ウィキの「蓬莱峡」に『座頭谷は、その昔、ここを通りかかったひとりの座頭が道に迷い、ついには行き倒れになったという言い伝えから名づけられたものである』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。本格怪談話としては、「諸國百物語卷之一 二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事」や、御伽百物語卷之四 有馬富士」が印象に残る。

「たむし」「田蟲」。白癬の一種で、皮膚に小さな丸い斑点が生じ、それが次第に周囲に向かって円状(銭状)に広がって、中央部の赤みが薄れて輪状の発疹となる。痒みが激しい。股間に生ずるものは特に陰金田虫(いんきんたむし)という。銭田虫。

「望夫石」中国では湖北省武昌の北の山の上にある岩を指し、昔、貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、悲しみのあまり、そのままそこで岩となってしまったとする伝承がある。本邦でも同様の伝承は各地に散在し、その中でも肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)に伝わる松浦佐用姫(まつらさよひめ)の話は有名。彼女は百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾(ひれ:肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具)を振って別れを惜しんだが、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部(かべ)島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている。

「人がたち」「人形」で人の姿の意。心霊写真などに見られるシミュラクラであると一蹴する元隣は、流石、って感じ。]

古今百物語評判卷之二 第二 狸の事明の鄒智幷齋藤助康手柄の事

 

  第二 狸の事明(みん)の鄒智(すうち)齋藤助康手柄の事

 

Sukeyasu

 

先生のいへらく、「狸も狐のごとくに奇妙なる事はなけれども、ばくる事は、おさおさ、おとらず。人を害するわざ、却(かへつ)て、ふかし。其若(わか)だに、そら死(じに)・そらねゐりをして、人をあざむけば、其劫經(こうへ)たる、いかでか、人をまよはさざらん。世に、いはゆる、ばけ物といふは、おふやう、此物のしわざならし。たゞ此方(このほう)の一心さへたゞしければ、わざはひにあふべからず。或は武勇のさぶらひは、其の武勇ゆへ、心、うごかず。博學の學者は、其博學ゆへ、内(うち)、あきらかなり。戒律の出家は、其戒律によつて、邪魔(じやま)、きたらず。其道、おなじからねども、みな、内にまもりあれば、妖怪のものも害をなす事、あたはざるなるべし。其ためし、かぞへもつくすべからず。こと新しくいふも、くだくだしけれど、ひとつ、ふたつ、かたり侍らん。近比(ちかきころ)、大明(だいみん)の代(よ)に、鄒智とて、博識の人ありしが、夜更(よふく)るまで書物をよみゐられしに、其窻(まど)さきより、大きなる手を出(いだ)して、鄒智が顏を、なでんとす。鄒智、あやしく思ひながら、『さだめて狐狸のわざなるべし』と推(すい)して、朱筆(しゆふで)のありけるにて、其手の中に『花』といふ字を書付(かきつけ)て、また、もとのごとくに書物をよむ。始(はじめ)は、其(それ)、むきなりしが[やぶちゃん注:「無鬼なりしが」か。「怪異は起こらなかったが」の意で解しておく。]、夜(よ)の明(あけ)がたにおよびて、彼(かの)大きなる手、しきりになきさけびて、『書きつけし「花」の字、おとし給へ』といふ。鄒智、猶も、かへり見ず。彼(かの)物、いふやう、『我は此邊(このへん)に住(すみ)申(まうす)ふる狸にさふらふが、あやまつて學者をおかせしに、君、さきに何心(なにごころ)なく、文字をかきつけ給ふゆへ、われ、ばくる術は候へども、其たゞしき心にてかき給ふ文字をおとすべき術(じゆつ)なし。此文字、きえ申さず候(さふらふ)内は、歸る事、かなはず。されば、夜の明(あけ)候はゞ、人のよりあひて、我を殺(ころさ)ん事のかなしく候へば、御慈悲に、おとして給はれ』と云(いひ)しかば、鄒智、きゝて、『其儀ならば』と云ひて、硯の水にてあらひしかば、よろこびたる體(てい)にて、きえうせしといふ事、「皇明通紀(くはうみんつうき)」にのせたり。又、むかし、齋藤左衞門助康、丹波國へくだりしに、日暮(ひぐれ)て、人やど、遠かりければ、古(ふるき)堂のありけるに、入りて、あかさんとす。其あたりの者、申(まうす)やう、『此堂には、むかしより、人とる物の候へば、御無用』といひけるを、助康、『何程の事かあらん』とて、とまりけり。折ふし、其夜、雪ふり、風吹きて、聞きしにたがはず、物すさまじかりければ、正面の柱によりそひてゐたりしに、庭のかたより、物の、きおひたるやうにみえければ[やぶちゃん注:「競(きほ)ふ」は「負けまいとして先を争う・張り合う・競争する」の意。]、しやうじのやぶれより、のぞきけるに、何かはしらず、堂の軒にひとしき物、來て、彼(かの)やぶれより、大きなる手をいれて、助康をつかまんとす。助康、もとより、覺悟なれば、其手を『むず』と、とる。とられて引返(ひきかへ)さんとしけれども、助康、大力(だいりき)なれば、はなたず、しばし、からかひける程に、あいの障子、引(ひき)はなちたり。其障子を中にへだてゝ、うへに乘(のり)しかば、軒とひとしうみえつれども、障子の下に成(なり)ては、むげにちいさし。手もまた、細くなりければ、いとゞかつにのりて、おさへしに、『きゝ』と、なきけり。其時、下人をよびて、火をうたせて見れば、ふる狸にてありしを、打殺(うちころ)しけり。其後は其堂に人どりする事なし、と云へる事、「著聞集」に見えたり」。

[やぶちゃん注:「鄒智」(一四六六年~一四九一年)は四川省重慶府合州(現在の重慶市合川(ごうせん))出身の明朝の翰林学士(翰林院は唐の玄宗の以来、高名な儒学者・学士を召して詔勅の起草などに当たらせた役所)。一四八六年に試に同格し、翌年、進士となって翰林院に入った旨、中文ウィキの「鄒智」にある。岩波文庫「江戸怪談集 下」の高田衛氏の注によれば、『気魄溢れる詩文を作り、常に正論を持しゆずらなかった義人』とある。

「齋藤助康」「齋藤左衞門助康」この話は鎌倉中期の説話集で橘成季著(跋文によれば建長六 (一二五四) 年成立)の「古今著聞集」の「巻第十七」の「齋藤助康、丹波國へ下向し、古狸を生捕る事」に載る(後に原文を示す)。新潮日本古典集成「古今著聞集 下」(西尾光一・小林保治校注・昭和六一(一九八六)年刊)の「左衞門」の注によれば、『左衛門府の三等官。「助康」は左衛門尉助頼』(調べて見たが、不詳)『の子か。とすれば、帯刀助村、検非違使・筑後守助兼、刑部丞助久ら六人の兄弟がみな左衛門尉という侍一族の一員』とある。

「皇明通紀」は元末の至正年間から正徳年間までの明朝前半期、約百七十年間を扱った編年体の通史で、臨江府学教授等を務めた陳建が致仕後に編纂した。前編「皇明啓運錄」(全八巻)と後編「皇明歷朝資治通紀」(全三十四巻)から成る。明代の一五五五年に完成したが、一五七一年に禁書とされてしまった。禁書となった理由は、新宮学氏の論文「陳建『皇明資治通紀』の禁書とその続編出版(一)」(PDF山形大学学術機関リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)によれば、『退職した地方官僚が「国史」を勝手に編纂するという「自用自專の罪」を犯したことが問題にされ』、『しかも一人の見聞によって、二百年間、万里を超える時空をカヴァーするのは到底不可能であるとし、その人物批評は衆を惑わすものであると批判』されたこと、『「内に伝聞の真を失するもの多し」という評価』が下されたりした結果であるらしい。幾つかの中文の電子化サイトを調べて見たが、以上の原話は残念ながら見出し得なかった。原文を探し当てられた方はお教え下さると嬉しい。

「其手の中に『花』といふ字を書付て」何故、この「花」の文字が怪異を封じ、妖怪狸を呪縛する強力な呪力を持つのかは不明。識者の御教授を乞う。

 以下、「古今著聞集」の「巻第十七」の「齋藤助康、丹波國へ下向し、古狸を生捕る事」を示す。斉藤助康は藤原助頼の子。元隣が、化け狸を下人らが食べてしまったという部分をカットしてしまったのは、惜しい気が私はする。

   *

 齋藤左衞門尉助康、丹波國へ下向したりけるに、かりをして日暮れたりけるに、ふるき堂のありけるにうち入りて、夜をあかさんとしけるを、其邊の子細しりたる物、

「この堂には、人とりするものゝ侍るに、さうなく御とゞまりはいかゞ。」

といひけるを、

「何事のあらんぞ。」

とて、猶、とどまりぬ。

 雪降り、風吹きて、聞きつるにあはせて、世の中[やぶちゃん注:辺りの雰囲気。]、けむつかしくおぼえて、正面の間(ま)に、柱によりかゝりてゐたりけるに、庭のかたより、ものの競(きほ)ひきたるやうにしければ、明障子(あかりしやうじ)のやぶれより、きと[やぶちゃん注:素早く。]見れば、庭には雪降りて、しらみわたりたるに、堂の軒とひとしき法師の、くろぐろとしてみえけり。

 さりながら、さだかにはみえず。

 さる程に、明障子のやれより、毛、むくむくとおひたるほそかひな[やぶちゃん注:「細腕」。]をさし入れて、助康がかほを、なでくだしけり。

 その折り、きと[やぶちゃん注:さっと。]居直れば、引き入れけり[やぶちゃん注:相手は腕を引っ込めた。]。

 其後、明障子のかたにむかひて、かたまりに[やぶちゃん注:体を丸めて。]ねてまつほどに、また、さきのごとく、手をいれてなでける手を、

「むず。」

と取りてけり。

 とられてひきかへしけれども、もとより、すくやかなる者[やぶちゃん注:力の勝れている者。]なれば、つよくとりて、はなたず。

 しばし、とりからかひけるほどに[やぶちゃん注:手を摑んだままに争い合っていたところが。]、明障子、ひきはなちて[やぶちゃん注:引き外して。]、廣庇(ひろびさし)へいでぬ。

 障子を中に隔てて、うへに乘りゐにけり。

 軒とひとしうみえつれど、障子のしたになりては、むげに、ちいさし。

 手も、又、ほそくなりにければ、いとど、かつに乘りて[やぶちゃん注:ますます勢いに乗じて押さえつけて。]、へし伏せてをるに、細ごゑをいだして、

「きき。」

となきけり。

 その時、下人を呼びて、火をうたせて[やぶちゃん注:火打ち石を打ち出させて。]、ともして見れば、古狸なりけり。

「あした、村人に見せむ。」

とて、下人にあづけたりけるを、下人ども、いふかひなく[やぶちゃん注:とんでもないことに。]燒きくらひてけり。

 次日、おきて、たづねければ、かしらばかりをのこしたりけり。

 正體(しやうたい)[やぶちゃん注:胴体。]なくて、その頭(かしら)をぞ、村人にみせける。

 そののちは、ながく、この堂に人とりする事なかりけり。

   *]

2018/10/08

古今百物語評判卷之二 第一 狐の沙汰附百丈禪師の事

 

百物語評判卷之二

 

  第一 狐の沙汰百丈禪師の事

 

 

Toranoi

一人の云(いは)く、「狐と申すけものこそ、我朝にては、さまざまのふしぎ、多し。高麗・もろこしの書物にも其理(ことわり)や侍らん。『しのだ妻』の草紙に云へるも、さだかなる事にや」と問ひしかば、先生、云(い)へらく、「狐は妖獸(ばけもの)の長(をさ)にて、三德をそなへたり。され共、物を疑ふ性(しやう)深き故、己(おのれ)が類(るい)と、むらがる事、なし。水をわたるにも、厚き氷のはりたるを、尾を以て、幾度も叩(たたき)て後(のち)、步むと云(いへ)り。唐土(もろこし)にては、百歳の狐、北斗を禮(らい)して美女となり、千歳にして、其尾、われて、媱婦(たはれめ)となれりとかや。宋の王欽若(わうきんじやく)と云(いふ)者、其むまれつき、ねぢけて、何共(なんとも)心得がたきを以て、『九尾狐(きうびこ)』と名付けし事、「宋史」に見えたり。かくあるうへは、『しのだ妻』も去(さる)事[やぶちゃん注:「然る事」の当て字で、有り得ること、の意。]にや侍らん。最(もつとも)長生(ながいき)をして、至(いたつ)て、智あるものなり。昔も狐の類、虎を恐(おそれ)て、『如何にせん』と云(いひ)しに、其中の老狐、分別し、出て、虎にかたりて云(いはく)、『汝、我をぶくする事なかれ。我、もろもろの獸(けもの)の長(をさ)なれば、何(いづ)れもわれを恐るるなり。若(もし)うたがひ給(たまは)ば、汝、我跡につきて見よ』と云しかば、虎、『げにも』と思ひ、狐のあとより行きしに、もろもろの獸、恐て、ふしたり。それより、虎だに、きつねをくらはず、といふ。是、狐に恐るゝあらず、其跡より來(く)る虎を恐るゝなり。かくして、虎をあざむけるにこそ、狐は虎の威をかると云(いふ)。かく、智ある獣なれば、我朝にても、幾春秋をふる狐、稻荷の鳥居を打(うち)こして、神異の術をなせりとかや。是れ、世に云(いは)ゆる『いなり狐』なり。其外、國々所々の宮居(みやゐ)社塔につき隨(したが)て、『多くは神のつかはしめなり』と云(いへ)り。ある人のいはく、『狐、よくばくるにあらず、見る人のおもひなせる所によりて、女とも見え、老僧ともなり、あらぬ物にもみゆる』といへり。是れ、淺きりようけん[やぶちゃん注:ママ。]にて、あたれりといふべからず。誠に狐に變化(へんげ)する術あり。若(もし)又、おもひなせる所のみならば、其(それ)見る人の思ひなしに、とりどり、かはりあるべし。百千人の目に美女とみゆる狐、などや、百千人ともにおなじく美女と思ひなしぬべき。そのうへ、むかし、百丈禪師の説法せられし時、日每(ひごと)に、一人の僧、來たりて、聞く。ある時、聽衆の跡にのこりて、禪師にむかつていふやう、『我、人間にあらず、此山に住み候ふ老狐(ふるぎつね)なり。其(その)しさいは、それがし、過去生(くはこしやう)の時、此山に住(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])して法(はう)を説きしに、人、來たりて、問ひていはく、「知識は因果におつるや」と。我、答へて曰く、「博學多才の知識は不ㇾ落因果(因果に落ちず)」とこたえたり[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。其答のあやまりしによつて、五百生(しやう)が間(あひだ)、野狐身(やこしん)に墮し、かくて、今に此山に住みくらし候ふ。其迷ひの、何とぞ、はれ申すべきやうにしめし給はれ』と云ひければ、禪師、聞(きき)て、『やすき事なり。其方、我にむかつて問ふべし』とあれば、僧、問ひて云く、『知識は因果に落(おつ)るや』と。禪師、こたえてのたまはく、『知識たりとも、何ぞ因果に落ちざらん、たゞ、不ㇾ昧因果(因果に昧(くら)からず)』と答へ給ひしかば、僧、言下(ごんか)にさとりて、『われ、かたじけなくも、禪師の一言(いちごん)によつて、畜生道のくるしみをまぬがれたり』云へりとかや。是れ、禪學のふかき話則(わそく)[やぶちゃん注:公案等に用いられる教訓的寓話。]にして、然(しか)も、其(その)百丈禪師の狐を僧と見給ひしは、など、思ひなしの迷ひ侍るべき。是れ、其變化(へんげ)の術(てだて)ある事、あきらけし。『哲人は狐にばかされず』といはゞ、よし。『哲人の前には狐もばけず』といはゞ、よからず。是れ、『眞人(しんじん)は火に入りてもやけず』といはゞ、よし。『眞人の前には火ももえず』と云はゞ、非なるがごとし。『もゆる』は火の性(しやう)、『やけぬ』は眞人の德、『ばくる』は狐の術(じゆつ)、『ばかされぬ』は哲人の德なり。かゝる智あるものなれど、わなにかゝりて身をうしなふは何事ぞや。餌にほださるゝ慾あればなり。此故に、古今(ここん)に通(つうず)る博士も僞朝(ぎてう)につかへ、そのほうろくをむさぼりて、身をほろぼし、名をくだせし類(たぐひ)、多し。況んや、狐におゐてをや[やぶちゃん注:ママ。]。又、世に『狐つき』といふもの、あり。其(その)『つく』しさいは知りがたけれども、『つかるゝゆえん[やぶちゃん注:ママ。]』は知りぬべし。内(うち)、虛(きよ)する時は、外邪(ぐはいじや)、そのひまをうかがふ道理なれば、人の喜怒哀樂の七情(しちじやう)ひとつにても、過ぎて、心の主(しゆ)、人外にはなるゝか、又は、其心の過分にうつけたる者には、其隙(ひま)をうかゞひて、狐のをそふなるべし[やぶちゃん注:ママ。]。されば、本心のたゞしき人は、千歳の狐も、たぶらかす事、なし。さて又、狐と螢(ほたる)は、おなじく、身をもて、夜を照らす物なれども、螢の火は『物』なり。狐の火は『神(しん)』なり。此故に、螢は、心のまゝに火をかくすこと、あたはず。狐は、其火の、ともし・けし、おのれが心にまかす、とみえたり。世俗には牛馬のほねをくはへて、口にて、火をともせり、といへども、もろこしの書には、『尾をうちて、火を出し、やんごとなき珠(たま)を持(もち)たる獸』としるし侍る。さればにや、陰陽師(をんやうじ[やぶちゃん注:原典のルビ。])は『福の神』といひなし、繪かきは、尾さきに如意寶珠(によゐほうじゆ[やぶちゃん注:原典のルビ。])を書(かき)けるも、これらの故實(こじつ)にてや侍らん」とかたられき。

[やぶちゃん注:「しのだ妻」「信田妻」。異類婚姻譚として、また、安倍晴明の出生奇譚として著名な「信田妻(しのだづま)」の伝承。小学館「日本大百科全書」から引くと、古浄瑠璃として知られるものが著名な文芸作品で、全五段から成る(作者不詳)。延宝二(一六七四)年の鶴屋版の板本が最も古い。陰陽博士(おんみょう)安倍晴明の説話に、妖狐譚である狂言「こんくわい」(「釣狐(つりぎつね)」)が結合し、仮名草子「鶴のさうし」が転用されたものらしい。村上天皇の御代、摂津阿部野在住の阿部保明の子保名(やすな)は、父を石川悪右衛門に殺されて、その仇(かたき)を討ち、キツネと結婚し、信田の森近くに住む。夫婦の子の阿部童子に、母はその正体を知られ、「戀しくば尋ね來て見よ和泉(いづみ)なる信田の森のうらみ葛の葉」の歌を残して、消える。後、童子は阿部晴明と名乗り、一方、陰陽博士蘆屋道満は弟である悪右衛門の仇であった保名を殺すが、晴明は父を蘇生させ、二人して禁裏へ参内、道満は首を刎(は)ねられる。晴明は天文博士として出世し、末代まで栄えるという筋立てである。後、五説経の一つにもなったが、説経浄瑠璃の正本は残っていない。変化に富んだ名作で、後、竹田出雲作の名作浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(おおうちかがみ)」を生む原動力になった。ウィキの「葛の葉」もコンパクトによく纏めてあるので参照されるとよい。また、「想山著聞奇集 卷の壹 狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」の私の拘りの注で示した、「日本靈異記」の上巻の「狐爲妻令生子緣第二」(狐を妻と爲して子を生ましむる緣第二)などが、この類伝承の最も古い濫觴の一つであると思う。未見の方は、是非、読まれたい。なお、岩波文庫「穢土怪談集 下」の注で高田衛氏は「『しのだ妻』の草紙」は寛文(一六六一年~一六七三年)頃に刊行された「安倍晴明物語」を指すとする。

「三德」儒学で唱えられるのは「智」・「仁」・「勇」の三徳目であるが、ここは仏教の法身(仏如来の本性(身)は常住不変不滅の法性(ほっしょう)であるとする認識)・般若(仏如来はこの世の本質をあるがままに覚知すること)・解脱(仏如来は一切の煩悩・繋縛を遠く離れて自在であること)か。それらを認識する智を持ちながら、増長して魔道に堕ちているというのであろう。因みに、元隣は本条を書くのに、「本草綱目」の「獸之二」の「狐」の「集解」の後半部をかなり利用しているように思われる(下線太字やぶちゃん)。

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許慎云妖獸、鬼所乘也。有三德其色中和、小前大後、死則首丘。或云狐知上伏、不度阡陌。或云狐善聽冰。或云狐有媚珠。或云狐至百歳、禮北斗而變化爲男・女・淫婦以惑人。又能擊尾出火。或云狐魅畏狗。千年老狐、惟以千年枯木燃照、則見眞形。或云犀角置穴、狐不敢歸。「山海經」云靑丘之山、有鼎曰狐魅之狀、見人或叉手有禮、或祗揖無度、或靜處獨語、或裸形見人也。

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「媱婦(たはれめ)」淫売婦。

「宋の王欽若」王欽若(九六二年~一〇二五年)は北宋初期の政治家。ウィキの「王欽若」によれば、『真宗の元で執政となり』「澶淵の盟」(せんえんのめい:一〇〇四年に北宋と遼の間で結ばれた盟約。国境の現状維持・不戦・宋が遼を弟とすること・宋から遼に対して年間絹二十万匹と銀十万両を送ることなどが決められた)『に於いては南遷論を唱え』、『宰相の寇準と対立した』。九九二年に進士となり、亳州(はくしゅう)『(現安徽省亳州市)の防禦推官』『となり、秘書省秘書部・西川安撫使などを経て』、一〇〇一年に『参知政事(執政。副宰相)となった』。一〇〇四年、『北の遼(契丹)の聖宗と摂政承天太后が親征軍を以て南下してきた。朝廷ではこれに対してどうあたるかが協議され、王欽若は金陵(南京)遷都を提案したが、同平章事(宰相)の寇準は真宗の親征を主張し、これが容れられて遼との間で和約を結ぶに至った(澶淵の盟)』。『自らの面目をつぶされた王欽若は真宗に対して「澶淵の盟は城下の盟』」と『説いて寇準を失脚させ』た。一〇〇八年には、『天書という天からの手紙と称する物が見つかり、これに乗じて真宗に封禅の儀を行わせた。一〇一九年には『皇太子(後の仁宗)の師となるが、丁謂により』、『失脚させられる』。しかし、一〇二三年には『再び宰相に返り咲』いた。死去に際して、『文穆の諡と太師・中書令の職を送られ』ている。『後世、寇準に対する讒言や封禅に使った莫大な財貨は強く批判された。寇準との争いは江南出身の王欽若と華北出身の寇準との争いであるという見方もあり、王欽若は宋開国以来、その経済力に比べて政治的には不遇であった南人官僚の進出の嚆矢という考えも出来る』とある。中文ウィキソースの「宋史演義の「第二十四回 孫待制空言阻西幸 劉美人徼寵繼中宮」の王欽若についての記載の中に、『素性姦媚』、『綽號九尾狐』とある。

「宋史」宋の史書で正史の一つ。元のトクト(脱脱)らの奉勅撰。一三四三年に執筆を開始して、二年後に成った。


「汝、我をぶくする事なかれ。……」「ぶく」は「服」。言わずもがなであるが、ここは「支配する」ではなく、「喰らう」の意。以下は誰もが高校の漢文で習った、「戦国策」の「楚策」に出る、「虎の威を借る狐」の譬え話である。懐かしいから引いておく。

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虎求百獸而食之、得狐。狐曰、「子無敢食我也。天帝使我長百獸。今子食我、是逆天帝命也。子以我爲不信、吾爲子先行。子隨我後觀。百獸之見我、而敢不走乎。」。虎以爲「然。」。故與之行。獸見之皆走。虎不知獣畏己而走也。以爲畏狐也。

(虎、百獣を求めて、之れを食らひ、狐を得たり。狐、曰く、「子敢へて我を食らふこと無かれ。天帝、我をして、百獣に長(ちやう)たらしむ。今、子(し)、我を食らはば、是れ、天帝の命(めい)に逆らふなり。子、我を以つて信ならずと爲(な)さば、吾れ、子の爲に先行(せんかう)せん。子、我が後に隨ひて觀よ。百獸の我を見て、敢へて走らざらんや。」と。虎、以つて、「然り。」と爲す。故に遂に之れと行く。獸、之れを見て、皆、走る虎の己(おのれ)を畏れて走るを知らざるなり。以つて狐を畏ると爲すなり。)

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この現実の戦国時代の背景と力学は、メルマガ「故事成語で見る中国史(34)虎の威を借る狐」がよく書かれてある。話者は魏の使者で遊説家の「江乙(こういつ)」で、話している相手は楚の「宣王」でこれが「虎」(厳密には宣王の強大な軍事力)、「百獣」は北方の「戦国の七雄」の内、南方一帯を手にしていた楚を除いた「秦・魏・韓・斉・趙・燕」。「狐」は当時の楚で絶大な権力を有していた宰相「昭奚恤(しょうけいじゅつ)」である。しかし、この場合、江乙が魏の意を汲んで楚の昭奚恤の権力を殺ぐために遊説しているのは明らかで、少し下がって全体を見渡せば、実際の「狐」は魏と楚の宣王双方にとり入ってその力学関係を梃子に自身の遊説家としての立場を温存しようと目論んでいる江乙自身と言うべきであろう。

「幾春秋をふる狐」「ふる」に「經る」と「古」を掛けていると見た。

「稻荷の鳥居を打(うち)こして」神として祀られているのに満足していればよいのに、増長して出しゃばり、そこを飛び出して。

「つかはしめ」使者。

「りようけん」「料簡・了見」。正しくは「れうけん」。考え・認識。

「百丈禪師の説法せられし時、……」この話は「百丈野狐」の名で非常に知られたもので、やや変形した類型譚も多い。私の「無門關 二 百丈野狐」がオーソドックスなものである。ただ、この元隣のそれの内、百丈和尚の「知識たりとも、何ぞ因果に落ちざらん、たゞ、因果に昧(くら)からず」という答え、禅問答の公案に対する答えとしては、とんでもなく「智」に堕した、甚だ退屈な凡論理に堕(お)ちたもので、私だったら、「チリン」と鈴を鳴らして、もう一度、考えてこい、というレベルのものである。無論、公案の答えは、実は正解はないから、「落ちない」でも「落ちる」でもいいのだが、但し書き附きのそれは、まず、絶対に正答ではないし、「因果に昧(くら)からず」という命題は「知識は因果に落つるや」という公案の答えとして成っていないし、そんな附帯条件のレスポンスなんてものは絶対に落第なのである。さらに言えば、元隣がダメなのは、この印象的な話柄を「其(その)百丈禪師の狐を僧と見給ひしは、など、思ひなしの迷ひ侍るべき。是れ、其變化(へんげ)の術(てだて)ある事、あきらけし。」という物理的に狐が誰が見ても同一の人物に化けられるクソ例示として示しているに過ぎないという点である。これには私は大いに呆れ果てていると言ってよい。

「眞人(しんじん)」私の認識しているそれは、道家思想に於いて究極の理想とされる、「無為自然」の「道(タオ)」を体得した人で、「荘子」の「大宗師篇」では、無心に天命に随順し、総てを自然としてそのまま受け取り、一切の総体的差別や対立を離れ、「万物斉同」の境地に生きている人を指す。後に神仙の意味にも用いられるし、ここでは寧ろ、その意味、仙人、或いは、仏教の正法(しょうぼう) を悟った人としての仏陀や阿羅漢といった存在を考えた方が判りが良いであろう。

「かゝる智あるものなれど、わなにかゝりて身をうしなふは何事ぞや。餌にほださるゝ慾あればなり」というのは私は、元隣の面白くも可笑しくもない誤った平凡過ぎる解釈、「了見」だと思う。さればこそ、続く〈博士の誤謬〉、愚昧佞臣の蔓延る政権に仕えて身を滅ぼし、「名を下せし」後世の評判を致命的に落してしまうような連中も多い、という例示も実につまらんのである。なお、私は智慧のある狐狸が自身の死を免れないのは、仏教的な意味に於いて、或いは、天命として決められた宿命として、既にこの世に生を享けた時に定まって持っているのだとした方が遙かに腑に落ちるのである。元隣のような論理は、殉教者や人種的に迫害されて滅亡させられた民族等は、その死因が捨てるべき欲にあったのだと言っているのと同じであり、自己責任に帰結させるところの、それこそ権力者の都合のいい理窟、それこそ現在の安倍政権とそれと同じなのである。私は「想山著聞奇集 卷の四 古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」の狸の化けた青年と老婆とのしみじみとした話を思い出すのである。青年は、明日、罠に掛かって死ぬとして暇乞いをしに来る。

   *

……夜(よ)に入りて罠に懸りて死す。此時は免るべからず。」

と語る故、老婆問ひて曰く、

「夫程、未前を能く知る通力有りて、形をも人と變じ、言語(ごんご)も人に替る事なき變化(へんくわ)自由の身を持ちて、其罠に懸る事を止め樣(やう)はなき歟(か)。又、たとへ、罠に懸りたりとも、助かるべき術(てだて)はなきか。夫れほどしり居(ゐ)ながら、其罠に懸りて死ねばならぬといふ事、我等には合點(がてん)行かず。」

といへば、

「天運の盡くる所は、如何とも是非に及ばざる事にて、兼て罠に懸るとは知居(しりゐ)ても、其期(そのご)に至りては、心、恍惚として覺えなく、縊(くく)りて死せん事、鏡にかけたる如く、知居れども、遁るゝに所なし。」

   *

と答えるのだ。辛気臭い元隣は、妖術を操る故の応報とでも何でも言うだろうが、この世には悪どいことを好き勝手放題して、生き長らえている糞野郎どもがゴマンといるぞ?! いやさ、元隣! お前さんの言ってることは、俺には判らねえな!!!

「しさい」「仔細」。

「七情」人の持つ七つの感情。儒家では「喜・怒・哀・懼(く:恐れ)・愛・悪(お:憎むこと)・欲」。仏教では「喜・怒・憂・懼・愛・憎・欲」を挙げる。]

「心の主(しゆ)」心の内にあるべき本来の自分の安定した心。

「うつけたる」ある感情のバランスが崩れて、過剰になって、心=精神が馬鹿になってしまった、空ろな空隙が出来てしまった結果。

「をそふ」「襲ふ」。

「神(しん)」この場合は広義の、正邪・善悪・神聖不浄等の区別に基づかない超自然の存在を指す。

「ともし・けし」「燈し・消し」。古文ではこの動詞の名詞形の並列はかなり珍しいと思う。

「ほねをくはへて」「骨を銜へて」。唐の「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」巻十五の「諾皋記(だくこうき)下」では、紫狐(しこ)という野狐が化ける際に、人の髑髏を頭に載せ、北斗七星の方向へ辞儀するなどと出、これは本邦でも輸入されて、よく絵に描かれている。

「尾をうちて、火を出し、やんごとなき珠(たま)を持(もち)たる獸」先の注の「本草綱目」の引用を参照されたい。

「如意寶珠」はサンスクリット語の「チンターマニ」(「チンター」は「思考」、「マニ」は「珠」の意)の漢音写で、仏教で霊験を表わすとされる宝の珠(たま)で「意のままに願いを叶える霊宝」の意。これを尾先に持った妖狐の絵も定番。]

古今百物語評判卷之一  第八 神鳴附雷斧・零墨の事 / 古今百物語評判卷之一~了

 

  第八 神鳴雷斧・零墨の事

Narukami

一人の云(いはく[やぶちゃん注:原典のルビ。])、「世におそろしき物の中にて、神鳴(かみなり)程(ほど)なるは、なし。何方(いづかた)へ落(おつ)べき共(とも)覺束(おぼつか)なく、『生類(しやうるい)にあらざるか』とおもへば、形あるに似たり。いかさまにも、委(くはしき)道理の侍らん。承らばや」と云ふ。先生の云(いふ)、「雷(いかづち)の本説は周易に見えり。唐土(もろこし)にも、さまざま説きたり。雷州といふ所にては二月の始(はじめ)つかた、山にこもりゐし神鳴ども、來たりて、火をこふよしを記せり。「國史補」には、『其狀(かたち)、狗(いぬ)のごとし』とも書けり。かやうの説、多しといへ共、正説に非ず。詳(つまびらか)に、「性理大全(しやうりだいぜん)」に宋朝の儒者の論を載(のせ)たり。荒々(あらあら)かたり侍らん。夫(それ)れ、雷(いかづち)は、陰陽、相せまる聲なり。蟄(ちつ)せる蟲も是れより出(いで)、根に歸る。草木も、是れより萌出(もえづ)るなれば、天地(てんち)の間になくても叶ふべからず。さは云へど、其(その)はげしきは、天の怒(いかり)なり。此故に孔子も迅(とき)雷(いかづち)には、必(かならず)、形を變じ給へり。是れ、努(ゆめゆめ)、おそれさせ給ふにあらず、天の怒をつゝしみ給へるなり。はるかに轟(とゞろく)處を云(いは)ば、天地(てんち)の陽氣、夏は天にあり、時に陰雲、雨をもよほさむとて、江湖(ごうこ)の水氣(すいき)をのせて、濕風(しつふう)にいざなはれて、彼(か)の空にある陽氣を、つゝめり。もとより、陰陽は相剋(そうこくす)るなれば、陽はうごいて、陰を出(いだ)さんとす。かくてぞ、天地(てんち)にひゞき、山谷(やまたに)をうごかせり。其(それ)、落(おつ)るといふは、陰の氣、陽にかつ時は、其聲、しづかなり。陰・陽ひとしき時は、おつるにおよばず。陽の氣、陰に勝つときは、其(その)あまる處、あるひは中空にさがり、又は地にくだりて、かならず、積惡の家に落(おち)て、惡人を災(わざは)ひせり。されども、雷に、心ありて、かくあるにはあらざるべけれど、其つもれる惡と、いかれる氣の感ずる所なりけらし。唐土にても、むかし、樊光(はんくはう)と云(いひ)し者、所の奉行になりて訟(うつた)へを聞きしに、非公事(ひくじ)のかたより賄(まひなひ)をつかひて賴みしかば、さまざま、理(り)かたの者をなやましめ、猶も土木(どぼく)の責(せめ)にあはしめしかば、其もの、苦しみにたえずして、『我れ、すじ[やぶちゃん注:ママ。]なき事を申(まうし)かけたり』と、僞りて、罪をおふによりて、非公事のかた、勝ちたり。其後、天、俄にかき曇り、雷電、しきりにして、終に樊光がうへに落ちて、其報(むくひ)をはうじ[やぶちゃん注:ママ。]給ひしとかや。此類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。又、さもなき人の、つよくおそるゝあり。是れは、其(その)むまれつき[やぶちゃん注:ママ。]、精神元氣のうすきなるべし。人參一味(いちみ)を煎湯(せんとう[やぶちゃん注:原典のママ。])にして、雷をおそるゝ者にあたふれば、曾て、おそるゝ事なしと、醫書にも見えたり。昔、大舜(だいしゆん)の德をかきしにも、『烈風雷雨にもまよはず』といふを、ひとつにかき出せしかば、其(それ)、おそれざるも、聖賢の德になぞらふべし。猶、佛家(ぶつけ)にも、おもき災難のひとつとして、法衣(はうゑ[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「はふえ」。])を着し、香花(かうはな[やぶちゃん注:原典のルビ。])をそなへ、經をよみ、陀羅尼(だらに)を誦(じゆ)し、佛力(ぶつりき)をたのみたてまつれり。されば、我朝のむかし、延喜の御代、延長年中に、淸涼殿にいかずちふるひて、藤原淸貫(ふじはらのきよつら)、右中辨希世(うちうべんまれよ)その外、殿上人、ひとりふたり、身まかりにけり。世の人、申(まうし)ならはし侍るは、菅丞相(かんしやうぜう[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「くわんしようじやう」。])の御靈のわざにこそと。かゝるおそろしきためしによりけるにや、雷の聲、三たび、高たか)なりし侍れば、近衞の大將・次將まで、弓箭(ゆみや)を帶して、御殿の孫(まご)びさしに候(こう)し、御門(みかど)を守護し、將監(しやうげん)より以下の官人、いづれも簑かさにて、南殿(なんでん)の前庭(ぜんてい)に侍るを、『神鳴陣(かんなりぢん)』と申(まうす)とかや。されば、其(その)おそはれ死する人は、皮肉は損せずして、骨のとろくる事は、雷(いかづち)はもと陰火なれば、やはらかき物を破る事、あたはず、かたきをくだく道理なり。其うへ、落(おち)たるあとを見るに、あたかも、鬼形(きぎやう)のつめがたに似る事あるに付けて、いかさまにも、獸、そひて、落つるやうに、京童部(きやうわらはべ)のいひならはすれど、さにあらず。又、一説に、『陰陽のなす處といへども、又、神ありて、其所をつかさどり給へり。鬼神幽微(きしんゆうび)の道、きはめがたし』など唐土(もろこし)の書に侍れども、程子・朱子の説には、陰陽の外(ほか)をかたるに、およばず。又、「雷(いかづち)の槌(つち)」・「雷(いかづち)の斧(をの)」・「雷(いかづち)の墨(すみ)」などいふ物、其(その)落(おち)たるあとに、まことに、有(ある)物のよし。其(その)重み・長さ・色あひ・能毒(のうどく)まで、書物に侍るめれど、はかりがたし。猶、星、おちて、石となるたぐひにて、雷(いかづち)ごとには、あるべからず」と評せられしかば、おのおの、申しけるは、「此(この)説をうけ給はりて、少しおそるゝ心、やみさふらひぬ」ともうしき[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:以上で「古今百物語評判卷之一」は終わっている。

「周易」「易経」の別名。周の文王が創ったとされることに由る呼称であるが、現行のそれは後に孔子が編集・完成させたものである。

「雷州」現在の広東省湛江市の県級市である雷州市一帯。唐代、雷が多い地方であることから、かく名付けられた。同地には雷神を司る神を祀る「雷祖祠(廟)」が現存し、これは唐の六四二年の創建で、後梁の九一二年に現在の場所に再建された。但し、この雷祖は現地出身の実在の人物で、唐代の雷州刺史にして雷州の名付親でもある陳文玉(五七〇年~六三八年)であることが、ブログ「アジアの街並-東南アジア旧市街・中国古鎮・日本昔町川野明正の研究室」の「雷州の雷祖廟の石狗雷神さまのたまごを見つけた九耳狗の伝説 (広東省雷州市雷祖廟)」で判った。犬が彼の眷属で、現地には多くに石狗(犬の石造)が数多く見られることが、他のネット記事でも確認出来るが川野氏によれば、明の荘元貞の書いた「雷祖志」によれば、『陳鉷(ちんこう)という猟師が九耳の狗を飼っていて、ここ掘れワンワンというと、大きな卵が出てきて、翌日』、『黒雲が立ちこめ、雷電あい混じる風雨中に雷が落ち、割れた卵から陳文玉が誕生したとあ』るとされ、『この時、誕生した陳文玉は、左手に「雷」、右手に「州」と書いてあり、雷祖と縁深い九耳の狗が登場』するとある(明の万暦年間(一五七三年~一六二〇年)に書かれた「雷州府志」の巻十七「郷賢志」にも同様の記載あると注記されておられる)。『この九耳の狗について、往年の雷祖廟では、「九耳呈祥」の匾額が掛』けられてあったとあり、『「九」の発音と、「狗」の発音は、ともに「ガウ」(雷州方言・広東方言ともに)で』あるから、『雷神信仰と深く結びついた形で、犬の信仰が雷州半島にあるのだとはいえると思』と述べておられる。『犬と雷との関係は、たぶん調べればもっといろいろ深い関係が見つかること』と思われるが、『石狗にも、胴に大きな渦巻きの線刻があるものもあり、これは、巻き毛というより、雷紋の表現といわれてい』ともある。因みに、ネットの雷州を観光で訪れた方の記事を二本見たが、雷神の眷属として崇敬されている一方で、当地では犬料理が今も名物であることが確認出来る。

『二月の始(はじめ)つかた、山にこもりゐし神鳴ども、來たりて、火をこふよしを記せり。「國史補」には、『其狀(かたち)、狗(いぬ)のごとし』とも書けり』唐の李肇(りちょう)の撰になる唐代の事物の逸話集「唐國史補」。但し、同書の「巻下」には、

   *

或曰、雷州春夏多雷、無日無之。雷公秋冬則伏地中、人取而食之、其狀類彘。又與黃魚同食者、人皆震死。亦有收得雷斧、雷墨者、以爲禁藥。

   *

とあり、前の二月云々は別な伝承を記したものからの引用と思われ(出典不詳だが、どうも唐代伝奇かその断片ではなかろうか? 識者の御教授を乞う)、しかも、「唐國史補」のそれは「狗」(犬)ではなく、「彘」(音「テイ」)でこれは豚のことである(面白いのは地中に伏して居る秋冬の頃の、ブタのようなその「雷獣」を、人は掘り起こして食べるとあることである。豚であるが、雷祖の眷属が「犬」であり、現在の雷州市が「犬料理」が盛んなのを考えると、これは私は、雷祖の使者たる「犬」を畏れ多くも当時から美味いから食べており、それを憚って李肇或いはその話を伝えた雷州の人が「彘」と偽ったとも思われるようにも感じられたのであった。

「性理大全(しやうりだいぜん)」(現行では「性理」は「せいり」と読む)宋の性理学=朱子学説を分類集大成して編んだ書。全七十巻。一四一五年完成。胡広らが王命によって撰した。「四書大全」・「五経大全」とともに「永楽三大全」と称される。巻一から巻二十五までは、原書を収め、巻二十六以下は項目を立てて、理気・鬼神・性理・道統・聖賢・諸儒・学・諸子・歴代・君道・治道・詩・文の十三目を立てて、それぞれについての諸家の説を程子(二程子。北宋の思想家。程顥(けい)と頤(こう)の兄弟。思想傾向が近いことから、一緒に論じられることが多い。彼らの学は「程学」とも称され、北宋道学の中心に位置し、宋学の集大成者朱子への道を開いた。天地万物と人間を生成調和という原理で一貫されているところに特徴がある)・朱子(朱熹(しゅき 一一三〇年~一二〇〇年:南宋の地方官で儒学者。宋以降の中国及び本邦の思想界に圧倒的な影響を及ぼした。彼は北宋道学を集大成し、宇宙論・人性論・道徳論の総ての領域に亙る理気の思想を完成させた)の説を中心として収録してある。中文サイト「中國哲學書電子化計劃」で同書を調べてみたが、恐らくは「巻五」のこの辺りが元隣の要約の冒頭の謂いのようである。

「天地(てんち)の間になくても叶ふべからず」動植物の生命活動の発動を促すものであるから、この現実世界になくてはならないものである。

「形を變じ給へり」威儀を正されては、その怒りの対象を厳重に考察なされた。

「相剋」以前に注した「相生」の対概念。陰陽五行説のフィフ・スエレメント、木・火・土・金・水の五つの元素が、特定元素をうち滅ぼす「陰」の関係性を言う。「木剋土(もっこくど)」(木は根を地中に張って土を締めつけ、その養分を吸い取っては土地を痩せさせてしまう)・「土剋水」(土は水を濁らし、吸い取り、常に溢れんとする水を堤防や土塁等によって堰き止めてしまう)・「水剋火」(水は火を消してしまう)・「火剋金(かこくごん)」(火は金属を熔かしてしまう)・「金剋木(ごんこくもく)」(金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒してしまう)という関係と判り易過ぎる比喩で説明される。参照したウィキの「五行思想」によれば、もともとは「相勝(そうしょう)」であったが、先の対概念である「相生(そうしょう)」と『音が重なってしまうため、「相克」』から『「相剋」となった。「克」には戦って勝つという意味がある。「剋」は「克」にある戦いの意味を強調するために刃物である「刂」を「克」に付加した文字である。同様に克に武器を意味する「寸」を加えた』「尅」の字を用いることもある、とある。

「樊光(はんくはう)と云(いひ)し者……」これは「太平廣記」の「報應二十三 冤報」の「報應錄」からの引用とする「樊光」であろう。

   *

交趾郡廂虞候樊光者。在廨宇視事、亭午間、風雷忽作、光及男並所養一黃犬並震死。其妻於霆擊之際、欻見一道士、撮置其身於別所、遂得免。人問其故、妻云、「嘗有二百姓相論訟、同繫牢獄。無理者納賂於光。光即出之、有理者大被栲掠、抑令款伏。所送飮食。光悉奪與男並犬食之、其囚饑餓將死間、於獄内被髮訴天、不數日、光等有此報。」。

   *

とあるのを簡略したもののように思われる。

「非公事(ひくじ)のかたより」公事(訴訟)の被告である人物から。

「理(り)かたの者」道理に則って訴訟を起こしている原告の人物を。

「土木の責」不詳。先の「相剋」五行の土・木(から雷電で焼け死ぬ「火」)を考えたが、どうも違う。「其もの、苦しみにたえずして」とあるからには、土中に埋めたり、木に吊るしたりする拷問のことを指すようだ。

「おふ」「負ふ」。

「さもなき人の、つよくおそるゝあり」見た感じ、偉丈夫と感じられる人物で、ひどく雷を怖がる人がいる。

「煎湯」湯で煎り出す、煎じることであろう。

「大舜」中国神話に登場する五帝の一人で、聖王とされる舜の尊称。

「『烈風雷雨にもまよはず』といふを、ひとつにかき出せしかば」迷わされることがない対象三つ烈しい「風」・「雷」・「雨」の三つの内の一つに書き出して掲げてあるのから見れば。

「陀羅尼」サンスクリット語(梵語)の漢音写。以前には「総持」と漢訳されたように、本来は「保持する」という意。現行では漢訳・和訳しない現サンスクリットそのままに似せて音写した呪文のこと。原始仏教教団に於いては呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典の中にも取り入れられ、「孔雀明王経」「護諸童子陀羅尼経」などは呪文だけによって構成されている経典である。これらの呪文は「真言」(マントラ)と呼ばれ、真言としての陀羅尼は密教で特に重要視され、「陀羅尼」といえば、専ら「呪文」を表わすようになった。

「延喜の御代、延長年中」「延喜」は九〇一年から九二三年まで。この時代は形式的ながらも、醍醐天皇による天皇親政が行われ、後にそれを「延喜の治」と呼んだことによる表現であろう。「延長」は延喜の次の年号で、九二三年から九三一年までで、以下に記された「清涼殿への落雷事件は、延長八年六月二十六日(ユリウス暦九三〇年七月二十四日)に発生した。ウィキの「清涼殿落雷事件」によれば、『この年、平安京周辺は干害に見舞われており』、六月二十六日に『雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが』、午後一時頃より、『愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくし』、『雷雨が降り注』いで、『それから凡そ』一『時間半後』、突如、『清涼殿の南西の第一柱』を『落雷が直撃した』。『この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から』、『車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包』(みぬのただかね)『が髪を焼かれて死亡』、紀蔭連連(きのかげつら)『は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁』(あずみそうにん)『は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も』二『名死亡し』ている。『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来』、『宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため』、大混乱に陥った。『穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、三『ヶ月後に崩御することとなる』。『天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が』、『かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり』、『雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い』、『落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった』。「日本紀略」の「一醍醐」によれば、

   *

延長八年六月廿六日戊午、諸卿侍殿上、各議請雨之事、午三刻從愛宕山上黑雲起、急有陰澤、俄而雷聲大鳴、堕淸涼殿坤第一柱上、有霹靂神火、侍殿上之者、大納言正三位兼行民部卿藤原朝臣淸貫、衣燒胸裂夭亡(年六十四)又從四位下行右中弁兼内藏頭平朝臣希世、顏燒而臥、又登紫宸殿者、右兵衞佐美努忠包、髮燒死亡、紀蔭連、腹燔悶亂、安曇宗仁膝燒而臥。

   *

とあり、「扶桑略記」の二十四」の裏書の「醍醐」によれば、

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延長八年六月廿六日戊午、是日申一刻、雲薄雷鳴、諸衞立陣、左大臣以下群卿等、起陣侍淸涼殿、殿上近習十餘人連膝、但左丞相近御前、同三刻、旱天曀々、蔭雨濛々、疾雷風烈、閃電照臨、卽大納言淸貫卿、右中弁平希世朝臣震死、傍人不仰瞻、眼眩魂迷、或呼或走云々、先是登殿之上舎人等、倶於淸涼殿南簷、右近衞茂景獨撲滅、申四刻雨晴雷止、臥故淸貫卿於蔀上、數人肩舁、出式乾門、載車還家、又荷希世修明門外車將去、上下之人、觀如堵檣、如此騷動、未嘗有矣。

   *

とある。以上の二種の資料はリンク先にあるものを、恣意的に正字化して示した。

「藤原淸貫」(貞観九(八六七)年~延長八(九三〇)年)のは公卿。名地方官として知られた藤原南家の参議藤原保則の四男。ウィキの「清貫によれば、『讃岐権大掾・中判事・兵部少丞を経て』、寛平九(八九七)年、『醍醐天皇の即位に伴い』、『六位蔵人に任ぜられ、翌昌泰元』(八九八)年、『従五位下に叙せられる』。『五位蔵人に右少弁を兼ねて醍醐天皇の身近に仕えるが』、延喜五(九〇五)年には『右衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられ、史上初めて三事兼帯となる。その後も弁官を務めながら急速に昇進し』、延喜九(九〇九)年には『従四位下・蔵人頭、翌延喜』十年には『参議兼右大弁に叙任され』、『公卿に列す。この間、藤原時平政権に参加し』、延喜五年に『開始された延喜式の編纂や』、昌泰四(九〇一)年に発生した「昌泰の変」『(右大臣・菅原道真の追放)などに関わったとされる。宇佐八幡宮への使者に任じられた折には、道真の見舞いを名目に大宰府を訪れ、帰京後に道真の動向を醍醐天皇や藤原時平に報告している』。『その後の忠平政権下でも』、延喜一三(九一三)年に従三位権中納言、翌年に中納言、延喜二十一年には『三位・大納言と順調に昇進し、太政官において、執政の左大臣・藤原忠平、天皇の外戚である右大臣・藤原定方に次ぐ地位を占めた』。しかし、この時、『清涼殿において落雷の直撃を受け』、『清貫は衣服を焼損し』、『胸部を裂かれた状態で』、『陽明門から自邸に搬出されたものの、即死状態で』、『人々は清貫が菅原道真の追放に関与したために、その怨霊によって報いを受けたと噂したという』とある。

「右中辨希世」(?~延長八(九三〇)年)は『仁明天皇の第五皇子本康親王の子である左馬頭・雅望王の子。官位は従四位下・右中弁』で、勅撰歌人でもあった(「後撰和歌集」「玉葉和歌集」に一首ずつ採録されてある)。『平朝臣姓を与えられ、臣籍降下』し、延喜一一(九一一)年に、『宇多上皇の主催で亭子院で開かれた酒合戦に酒豪として招聘され』、『参加』、『大量に飲んで』、『門外に倒れた』、『右兵衛佐・内蔵権佐・五位蔵人を経て』、『右中弁に任ぜられ、右馬頭を兼任する』。延長元(九二三)年には『内蔵頭に任ぜられ』、延長三年、『左近衛少将を兼任』、延長六年、『従四位下に叙され』た。しかし、この清涼殿への落雷は『希世の顔に直撃』、『重傷を負い、修明門から外で運び出されるも、ほどなく卒去』した。『最終官位は従四位下行右中弁兼内蔵頭』であった。『この落雷事件で、共に落雷の直撃を受け薨じた大納言・藤原清貫』が「昌泰の変」に関与していた『ため、菅原道真の怨霊により』、『清貫は報いを受けたと人々は噂したが、一方の希世と道真との関係や』、「昌泰の変」に『希世が関与していたかどうかは不明である』とある。

「將監」近衛府判官(じょう)。従六位相当の第三等官。

「南殿(なんでん)」私は「なでん」と読みたくなる。紫宸殿の別名。

「前庭」左右の衛府の官人が諸種の儀式の際、この場の左右に控えたことから、そこに植えられた「左近の桜」・「右近の橘」がよく知られる。

「神鳴陣(かんなりぢん)」「枕草子」に、

   *

言葉なめげなるもの[やぶちゃん注:言葉から乱暴で汚ない感じを受ける不快なもの。]。宮のべの祭文(さいもん)讀む人。舟漕ぐ者ども。雷鳴(かんなり)の陣の舍人(とねり)。相撲(すもひ)。

   *

「宮のべ」は「宮咩(みやのめ)の祭り」のこと。平安以降、不吉を避け、幸福を祈願して、正月と十二月の初午(はつうま)の日に高皇産霊神(たかみむすびのかみ)以下六柱の神を祭ったそれを指す。その祭文は卑俗で滑稽な文句を並べていた。「雷鳴(かんなり)の陣」角川文庫石田穣二氏の注に「西宮記」よりの引用として、「大聲三度以上、大將以下帶弓箭、候御前孫庇。」とあり、新潮日本古典集成の萩谷朴氏の注によれば、『雷鳴の時』、大きな雷音が三度以上鳴った際には、『大将以下近衛中少将等が弓箭(きゅうぜん)を帯びて清涼殿の孫廂(まごびさし)に候し、将監(しょうげん)以下のこのえの舎人(とねり)』(将監以下、将曹・番長・近衛の官人の総称)『は蓑笠(みのかさ)を着けて東庭に東向きに立って、主上を警護する。その際、兵衛は』紫宸殿『の南庭、衛門は后宮を警護するが、雷鳴の中で呼び交す近衛舎人の声が大きく乱暴になるの』を清少納言は嫌ったのである。なお、「孫庇」とは、寝殿造りで母屋から出ている庇の外側に、さらに継いで添えた庇のこと。また、同じ「枕草子」のこの後にある、

   *

神のいたう鳴るをりに、「神鳴の陣」こそ、いみじう恐ろしけれ。左右の大將・中・少將などの、御格子(みかうし)のもとに侍(さぶら)ひ給ふ、いと、いとほし。鳴り果てぬるをり、大將、仰せて、「おり。」と、のたまふ。

   *

ともある。「御格子」は清涼殿の東廂と孫廂との境。「いと、いとほし」は「たいそう、お気の毒だわ!」の意。「おり」は「孫廂から庭面(にわも)に降りて「神鳴の陣」は解散!」という命令を指す。

「されば」これは漠然と以上の掲げた資料と事例を指し、まとめに入るための発語の辞。

「皮肉は損せずして、骨のとろくる事」皮膚や筋肉及び内臓は損傷を受けずに、人体を支える骨だけが溶けるのは。後者は雷撃のショックによって、心停止や脳損傷が起こり、完全にぐったりなることをかく言っているものと思われる。雷撃は電圧にして二百万から一億ボルト、電流にして一千から二十万アンペアという想像を絶するもの、外部損傷が無くとも、心臓や脳が感電して即死することもある(体内の流電経路によっては、無論、助かるケースもある)。但し、実際には電流の入口と出口に傷が開き(本文の「鬼形(きぎやう)のつめがたに似る事ある」というのに彷彿とした雷撃を受けた人体の入射痕跡の写真を見たこともあるが、この元隣の言っている噂好きの京童部のそれは、或いは、雷撃を受けた樹木・家屋・地面のことを指しているのかも知れぬ)、皮膚の表面に広汎に蚯蚓腫れや特殊な樹状模様の赤黒変が広がることがあることが、ネット上の「雷撃痕」の画像検索で判る。かなり強烈なのでリンクは張らない。私は、私の家のすぐ近くの玉繩城址にある清泉女学院で、女生徒がテニス中に雷撃を受けて即死したという昔の話を知っているのが唯一の身近なそれで、その時はベルトのバックルに落ちたと聞いている。

「幽微」ナリ ごくかすかでであること。神秘的で微妙にして知りがたいこと。

「唐土の書に侍れ」これは思うに、直後に出る、雷(撃)の物体化したとされる、明の李時珍の本草書のチャンピオン、「本草綱目」の「金石之三」の「霹靂砧(へきれきちん)」(雷楔(らいけつ))の解説によるのではないろうかとも思われる(「砧」は訓「きぬた」で、布地などを打つときに使う堅い台の意。雷撃の後から発見されるなどとされる堅い石)。その「集解」の最後に、『必太虛中有神物使然也。陳時蘇紹雷錘重九斤。宋時沈括於震木之下得雷楔、似斧而無孔。鬼神之道幽微、誠不可究極』とあるからである。

『「雷(いかづち)の槌(つち)」・「雷(いかづち)の斧(をの)」・「雷(いかづち)の墨(すみ)」などいふ物、其(その)落(おち)たるあとに、まことに、有(ある)物のよし』読んだ当初は、落雷場所からたまたま出土した古代人の石棒・石斧や加工された黒曜石の大きな鏃ではないかと思ったのだが、調べてみると、落雷の際に強い電流によって珪砂(石英(二酸化ケイ素 SiO)を主成分とする砂)が溶解し、塊状になって出来る「雷石」=「ファルグライト(fulgurite)」=「閃電岩」=「雷管石」というのが実在することが判った。ウィキの「閃電岩によれば、英名は『ラテン語の fulgur 「雷」から』で、『珪砂に落雷したあとにできる、ニンジンに似た形状の天然のガラス管である。ちょうどよい成分の砂が高温に熱せられることで、雷の経路にそった形の石英ガラスを形成する。「雷の化石」とも呼ばれることがある。形成されたガラスはルシャトリエライト』(Lechatelierite)『と呼ばれるが、これは隕石の落下や火山噴火でも生成される』。『管の直径は数センチメートルで、長さは数メートルになる。色は元の砂の成分により黒や褐色から緑・半透明白色のものがある。内面は通常はなめらかか、または細かい泡がある。外側は一般に粗い砂粒で覆われている。外見は木の根に似て、しばしば枝分かれや小さな穴がある。時には閃電岩は岩の表面に形成されることがある(exogenic fulgurite と呼ばれる』『)』。『閃電岩はとても稀少で』、『ニュージャージー州サウス・アンボイで採取された大きな標本は長さがほぼ』九『フィート、地表近くで直径』七・六センチメートル『あり、次第に細くなっていって掘り出された最深部では直径』五ミリ『となっていた。しかし閃電岩はきわめてもろいため』、『全体をそのまま掘り出すことはできず、最大の断片でも長さ』十五・二センチメートル『でしかない』。『「カスケード山脈の避雷針」として知られるシールセン山』『では、特に山頂点近くの』『岩表面に茶緑色の閃電岩が形成される。また、五大湖湖岸でも見つかる』。『おそらくもっともきれいな標本はフィラデルフィアの自然科学アカデミー』『に展示されているもの』で、一九四〇年に『発見された』。『最大のものは、イェール大学ピーボディ自然史博物館に展示されているコネチカット州北部の Lake Congamond の湖畔で採取された長さ』四メートルの『標本である』とあり、三メートル『以上ある標本がロンドン自然史博物館に展示されて』おり、これは『断片が』五十センチメートル『以上もある』。『閃電岩の生成には約』六『億ボルトの電圧を持った強力な雷が必要とされ、日本の気象条件では強くても』一『億ボルト程度の雷しか発生しない事から』、『閃電岩は通常できない』。『しかし、日本でも』一九六六年に『北海道岩見沢市で発見例があり、同市の郷土科学館にて長さ約』八十九センチメートル、重量約六十キログラムの『断片が展示されている(展示部以外を含む全体では長さ約』二メートル、直径が最大で約四十一センチメートル、推定重量は約二百三十キログラム)。『発見当時、この閃電岩の採取地点で高圧電線の切断事故が記録されている事から、落雷で切断された電線が障害物に引っ掛かる事なく』、『地表に接触し、同時に落雷のエネルギーが電線を経由して大きく増幅されたと見られる。さらにそこへ主成分となる珪砂を含んだ当該地点の地質が重なった事で、本来』、『起こりえない生成条件を満たし日本初となる閃電岩の発見に至ったとされる』とあった。はてさて、さすれば、この真正の狭義の「雷石」=「ファルグライト」は、本邦ではまず生成し得ないことが以上から判ったからには、私の最初の古代人の異物説の方が、しっくるくるように思うのだが、如何?

「能毒」効能及び毒性。

「雷(いかづち)ごとには、あるべからず」雷が発生する度に必ずそうした奇体な「雷石」が生成されるわけではない。]

 

2018/10/07

古今百物語評判卷之一 第七 犬神、四國にある事

 

  第七 犬神(いぬがみ)、四國にある事

 

先生、かたりて云(いふ)、「四國に『犬神』といふ物あり。此犬神を家に受領(じゆりやう)したる人を『犬神持ち』と云(いひ)て、今の世にも、まゝある事なり。たとはゞ、此『犬神持ち』、友達などの處へ行きかゝりける折から、その友の家に美食珍酒など侍るを見る事ありて、其物につゆばかりも、とかく心うつり侍る時は、其友、かならず、寒熱の煩(わづらひ)をなして、そゞろ事(ごと)には、彼(かの)思ひし飮食(いんしよく)の事など、いひ詈(のゝし)れり。然(しか)る處に、病者(びやうじや)の家人(けにん)、彼(かの)『犬神持ち』たる人に、『かく』と云(いひ)しらするか、又は、隔心(きやくしん[やぶちゃん注:原典のルビのママ。])なる中(なか)にて、いひ出(いだ)す事もなりがたければ、覡(かんなぎ)・山伏など、呼(よび)て、祓(はら)へさせる時、其病(やまひ)、いゆるとかや云へり。かゝるうるさき事なれば、其『犬神持ち』の家とは、かねて、遠ざかり、婚姻(こんゐん/よめいり[やぶちゃん注:原典のルビのママで、前者は右、後者は左に振られてある。])などは曾て結ぶ事、なし。其故、身もさがなき事にして、あきはて、悲しめども、先祖より傳はり來たれる邪神なれば、せんかたなく、身をうらみ、かなしめりとかや。其始(はじめ)をかたり傳ふるを聞(きけ)ば、ひとつの犬を柱につなぎ、其繩をすこしゆるめて、器(うつはもの)に食物(くひもの)をもり、其犬の口をさきの、既にとゞかんとする處に置(おき)て、うへ殺しにして、其靈(たましひ)をまつり納めて、なす事なり、と云へり。もろこしの蠱毒(こどく)の類(たぐひ)なり。倂(しかしながら)、今の世には、適(たまたま)『犬神持ち』たる人も、いかにしてか、此神のこと、かたへも行(ゆか)む事を願へば、まして、今更、なす者、あるべからず。是、名字(みやうじ)をもしらず、無佛世界(むぶつせかい)の時の事なるべし。猶、此『犬神』、王城の人につく事、あらず、と云へり。さは云(いへ)ど、都の方にも『犬神持ち』たる人、多し。萬(よろづ)に付(つけ)て、もてなすべき人の、我をもてなさぬを腹立(はらたて)て、心にかけ、詞(ことば)に云出(いひいだ)す處、是、則(すなはち)『いぬがみ』なり。もるべき酒を、もらぬも、人にあらず、もらずとて、とやかく思ふは畜類(ちくるい)たり。又、もてなされて、其情(なさけ)をしらぬは、木石(ぼくせき)たり。すべて、飮食の上に心を盡(つく)す人は、皆、『犬神』の性(しやう)たるべし」。

 

[やぶちゃん注:「犬神」ウィキの「犬神」より引く。『狐憑き、狐持ちなどとともに、西日本に最も広く分布する犬霊の憑き物(つきもの)。近年まで、大分県東部、島根県、四国の北東部から高知県一帯において』、『なお根強く見られ、キツネの生息していない四国を犬神の本場であると考える説もある。また、犬神信仰の形跡は、島根県西部から山口県、九州全域、さらに薩南諸島より遠く沖縄県にかけてまで存在している。宮崎県、熊本県球磨郡、屋久島ではなまって「インガメ」』、『種子島では「イリガミ」とも呼ばれる』。『漢字では「狗神」とも表記される』。『犬神の憑依現象は、平安時代にはすでにその呪術に対する禁止令が発行された蠱術(こじゅつ:蠱道、蠱毒とも。特定の動物の霊を使役する呪詛で、非常に恐れられた)が民間に流布したものと考えられ、飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで』、『怨念の増した霊を呪物として使う方法が知られる』。『また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときに』、『その頸を切ると、頭部は飛んで』、『食物に食いつき、これを焼いて』、『骨とし、器に入れて祀る。すると』、『永久にその人に憑き、願望を成就させる。獰猛な数匹の犬を戦い合わせ、勝ち残った』一『匹に魚を与え、その犬の頭を切り落とし、残った魚を食べるという方法もある』。『大分県速見郡山香町(現・杵築市)では、実際に巫女がこのようにして犬の首を切り、腐った首に群がった蛆を乾燥させ、これを犬神と称して売った』、『という霊感商法まがいの事例があり、しかもこれをありがたがって買う者もいたという』。『しかし、犬神の容姿は、若干大きめのネズミほどの大きさで斑』(ふ/まだら)『があり、尻尾の先端が分かれ、モグラの一種であるため』、『目が見えず、一列になって行動すると伝えられている。これは、犬というより』、『管狐やオサキを思わせ、純粋に蠱道』(「蠱毒」に同じい。華南の少数民族の間で受け継がれている動物を使う呪術。ウィキの「蠱毒にある通り、『ヘビ、ムカデ、ゲジ、カエルなどの百虫を同じ容器で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるためこれを祀る。この毒を採取して飲食物に混ぜ、人に害を加えたり、思い通りに福を得たり、富貴を図ったりする。人がこの毒に当たると』、『一定期間のうちにその人は大抵死ぬ』『とされる』もの)『の呪法』(「捜神記」の巻十二にある「犬蠱」のようなもの)『を踏襲した伝承というわけではないと考えられる。むしろ』、『狐霊信仰を中心とする呪詛の亜流が伝承の中核を成していると考えられる。また』、『容姿はハツカネズミに似て、口は縦に裂けて先端が尖っているともいい、大分県ではジネズミ(トガリネズミの一種、モグラの近縁種)に似ているといい』、『大分の速見郡豊岡町では白黒まだらのイタチのようという』。『前述の山口の相島では犬神鼠(いぬがみねずみ)ともいい、長い口を持つハツカネズミのようで、一家に』七十五『匹の群れをなしているという』。『徳島県三好郡祖谷山』(いやだに)『では』、『犬神の類を「スイカズラ」といい、ネズミよりも少し大きなもので、囲炉裏で暖をとっていることがあるという』。『国学者・岡熊臣の書』「塵埃」では、体長一尺一寸(三十三・三センチメートル)の『コウモリに似た姿とある』。『また、浅井了意の「御伽婢子」に登場する土佐国の犬神は』、『米粒ほどの大きさをしており、黒や白、斑模様の体色をした姿で伝えられている』。『犬神の発祥には諸説あり、源頼政が討った鵺の死体が』四『つに裂けて』、『各地に飛び散って犬神になった』『とも、弘法大師が猪除けに描いた犬の絵から生まれたともいう』。『源翁心昭が殺生石の祟りを鎮めるために石を割った際、上野国(現・群馬県)に飛来した破片がオサキになり、四国に飛び散った破片が犬神になったという伝説もある』。『犬神は、犬神持ちの家の納戸の箪笥、床の下、水甕(みずがめ)の中に飼われている』、『と説明される。他の憑き物と同じく、喜怒哀楽の激しい情緒不安定な人間に憑きやすい。これに憑かれると、胸の痛み、足や手の痛みを訴え、急に肩をゆすったり、犬のように吠えたりすると言われる。人間の耳から体内の内臓に侵入し、憑かれた者は嫉妬深い性格になるともいう』。『徳島県では、犬神に憑かれた者は恐ろしく大食になり、死ぬと体に犬の歯型が付いているという』。『人間だけでなく』、『牛馬にも、さらには無生物にも憑き、鋸に憑くと』、『使い物にならなくなるともいう』。『犬神の憑きやすい家筋、犬神筋の由来は、これらの蠱術を扱った術者、山伏、祈祷者、巫蠱らの血筋が地域に伝承されたものである。多くの場合、漂泊の民であった民間呪術を行う者が、畏敬と信頼を得ると同時に』、『被差別民として扱われていたことを示している。というのも、犬神は、その子孫にも世代を追って離れることがなく、一般の村人は、犬神筋といわれる家系との通婚を忌み、交際も嫌うのが普通である。四国地方では、婚姻の際に家筋が調べられ、犬神の有無を確かめるのが習しとされ、これは同和問題と結びついて問題になる場合も少なく』ない。『愛媛県周桑郡小松町(現・西条市)の伝承では、犬神持ちの家では家族の人数だけ』、『犬神がおり、家族が増えるたびに』、『犬神の数も増えるという。これらの犬神は家族の考えを読み取って、欲しい物があるときなどには』、『すぐに犬神が家を出て行って憑くとされる』。『しかし』、『必ずしも従順ではなく、犬神持ちの家族の者を噛み殺すこともあったという』。『犬神による病気を患った場合には』、『医者の療治で治ることはなく、呪術者に犬神を落としてもらう必要があるという。種子島では「犬神連れ(いぬがみつれ)」といって、犬神持ちとされる家の者が』、『ほかの家の者に犬神を憑かせた場合、もしくは憑かせたと疑われた場合、それが事実かどうかにかかわらず、食べ物などを持って』、『相手の家へ犬神を引き取りに行ったり、憑いた者が治癒するまで』、『郊外の山小屋に隠棲することがあり、その子孫が後にも山中の一軒家に住み続けているという』。『犬神持ちの家は富み栄えるとされている。一方で、狐霊のように祭られることによる恩恵を家に持ち込むことをせず、祟神として忌諱される場合もある』とある。以上を読むと、『管狐やオサキを思わせ』るというのは、その通りで、全くの同根のものとしか私には思われない。犬神のまがまがしい製造法や呪(のろ)い染みた部分は、寧ろ、中国の強力な呪術である蠱毒のおぞましい焼き直しに過ぎず、また、それを援用したに違いない土佐国物部村(現在の高知県香美市)に伝承された独自の陰陽道・民間信仰として知られ、一部にブラック・マジックの要素を持つ「いさなぎ流」の影響等が強く窺えるように私には思われる。またそれは、概ねそれは家の「持ち」と表現される点で、クダギツネのような何か懐にさえ入るような感じのまさに小獣のようであり、それは例えば、「御伽百物語卷之二 龜嶋七郞が奇病」で「病人の裾より、狸の大きさなる獸の、毛色は火の如く赤きが、眼(まなこ)の光(ひかり)、日月(じつげつ)のごとくにて、這ひ出でたり」とあるそれに似ている(私はそれをまさにクダギツネと推定した)。また、その分布域に『島根県』が含まれるが、小泉八雲が「知られぬ日本の面影 第十五章 狐(落合貞三郎訳)」の中のここで語る「人狐」や「狐持ち」の属性と強い親和性が感じられ、同じ「知られぬ日本の面影 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ」のこちらで「狐持ち」と「犬神持ち」とが実際に併記されて語られるとこなどから窺えるのである。

「そゞろ事」「漫ろ事」。通常は「とりとめもないこと・とるに足りないこと」の意であるが、ここは文脈から見て、熱に魘(うな)された者の「譫言(うわごと)」の意で用いているようである。

「『犬神持ち』たる人」以下もそうだが、これは「『犬神』持ちたる人」の意でも普通に読めるが、「犬神持ち」である人の意で統一して、かく表記した。

「かく」そちらの犬神に憑かれたらしい、という部分は厳に隠しておいて、単にこういう病態に陥っているということを語るのであろう。

「隔心」「かくしん」でもよいが、こう言う読みも存在する。「打ち解けないこと・相手に気兼ねする気持ち」であるが、ここは親しい間柄ではない場合の意であろう。されば「中」は「仲」の意と私は採る。但し。原典には「中」にルビはない。

「覡(かんなぎ)」古くは「かむなき」。「神(かむ)和(なぎ)」の意とされる。ここは「神降ろし」をする呪術者(シャーマン)の男性を指す(「巫覡(ふげき)」と言った場合、「巫」が「巫女」で女の、「覡」が男のシャーマンを指す)。

「さがなき事にして」「性無きことにして」であるが、本来は「さがなし」は「意地悪だ・性格が悪い」「口うるさい・口が悪い」の意で、文が繋がらないから(敢えて強引に訳すなら、そうした差別を受ける結果として、自然、性質が悪い人間になってしまい、と訳せぬこともないが)、ここは、周囲がそう対応する故に、何とも自分ではしようがない状態となってしまい、ぐらいの意味で採りたい。

「あきはて」そうした家系の宿命が、ほとほと厭になり。

「うへ殺し」ママ。「飢えごろし」。

「なす事なり」特異的なのは、ここでは犬神は邪悪な魂と欲を持った人間が、強い目的性のもとに製造する、呪われた人造の妖魅、モンスターということになるのであって、自然界にもともと棲息する超自然の妖異存在ではない点で、本邦の妖怪の中では、かなり異質なものと言える。それだけに、私はこの製造法自体が、かなり後になっておどろおどろしく飾るために後付されたものに過ぎないと考えているのである。

「かたへも行(ゆか)む」我が家からどこぞへ去って行ってしまってくれ。

「是、名字(みやうじ)をもしらず、無佛世界(むぶつせかい)の時の事なるべし」元隣は、この邪悪なる犬神の発生(というか、製造)を、民草が名を持たなかった、仏教が伝来する以前の、大昔の産物であろうと考えている。犬神にはシャーマニズムとの関連が認められるから、これは頗る正しい謂いであるように感ぜられる。

「さは云(いへ)ど、都の方にも『犬神持ち』たる人、多し」以下、比喩の道話にずらしてある。何だかな、って感じ。

「もるべき酒」「盛るべき酒」。饗応すべき十分な酒。]

2018/10/06

古今百物語評判卷之一 第六 見こし入道幷和泉屋介太郞事

 

  第六 見こし入道和泉屋介太郞事

 一人のいはく、「さいつ比(ころ)、大宮四條坊門(おほみやしでうばうもん)のあたりに、いづみや介太郞(すけたらう)とかやいふ者、夜更(よふけ)て外より歸りけるに、門、あはたゞしく叩きければ、内より、驚きて、あけぬ。さて、介太郞、内へ入るとひとしく、人心(ひとごゝろ)なし。さまざまの氣つけなど吞(のま)せければ、漸(やうやう)に生きかへりて云(いふ)やう、『我、歸るさに、月、うすぐらく、物冷(すさま)じきに、そこそこの辻にて、みかさあまりなる坊主、後(うしろ)より、おほひ來たりし程に、『すはや』と思ひて逃(にげ)ければ、いよいよ急に追ひかけしが、此門口にて、見うしなひぬ。其故、かくのごとし』と云(いひ)ければ、聞(きく)人、皆、驚きて、『扨々(さてさて)、あやうきことかな。夫(それ)こそ、「見こし入道」にて候はん』と云(いひ)て、舌(した)ぶるひしてけり。此事、まぢかき事にて、その入道に逢(あひ)し人、唯今も、そこそこに」と云(いへ)ば、一座の人、何(いづ)れも、「怖しき事かな」と云(いへ)るに、先生、評していはく、「此もの、むかしより、一名を『高坊主(たかばうず)』ともいひならはせり。野原・墓原などにもあらず、只、在家の四辻(よつつじ)・軒の下の石橋(いしはし)などの邊(ほとり)より出づる、と云へり。是、愚(おろか)なる人に、臆病風(おくびやうかぜ)のふき添(そひ)て、すごすごありける夜道に、氣(き)の前より生ずる處の『影ばうし』なるべし。其故は、此者、前よりも來らず、脇よりもせまらず、後(うしろ)より見こすと云(いへ)ば、四辻(よつつじ)・門戸(もんこ)の出入り、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]夜番(よばん)の火のひかり、月星(つきほし)のかげ、おぼろなるに、わが『影法師』、せい高くうつろふと、『さてこそ』と思ひ、氣をうしなふ、とみえたり。坊主とみゆるは、元より、『影ばうし』なれば、其形(かたち)、さだかならぬ成(なる)べし。介太郞も此類(るい)にて侍らん。もろこしにても、日中(にちちう)におのれが影をおそれて、逃(にげ)たる者ありと、漆園老人(しつゑんらうじん)もかきしとかや」。

[やぶちゃん注:本条は以前、『柴田宵曲 妖異博物館「大入道」』で電子化した。但し、今回は底本が異なる。リンク先の柴田のそれは「大入道」の記載としては、かなりよく書けている。また、この「大入道」の話は、総てがごくごく最近の京都市中の出来事であるという設定であることから、所謂、アーバン・レジェンド(都市伝説)の教科書みたような書き方になっている点に着目しておきたい。なお、ウィキの「大入道」も参照されたいが、これは記載が例示ケースに終始していて、民俗学的蒐集データとしてはいいが、考証がなく、やや不満である。ただ、そこにある、『東京の事例』として挙げてある、『第二次世界大戦最中の』昭和一二(一九三七)年のこと、『赤紙を届けに行った人が、赤羽駅の近くにある八幡神社踏切で』、『兵士の姿の大入道に襲われ』、四『日後にその場所で変死した。大入道の正体は自殺した新兵、もしくは失敗を責められて上官に撲殺された兵士の亡霊と言われた。ちなみに』、『その近辺では、赤紙を受取ったという者は誰もいなかったという』。『人間の霊が大入道と化す、珍しい事例である』というのは、非常に懐かしく思った。これは私が本格的に怪談に目覚めた、中学校二年生の夏、人生で最初に最も恐怖した話で、今野圓輔氏の編著になる「日本怪談集 幽霊篇」(昭和四四(一九六九)年社会思想社(教養文庫)刊)の「第七章 死者の働きかけ」の掉尾を飾る「一四 兵隊姿の大入道」で、昭和三九(一九六四)年の『東京タイムズ』掲載記事によるものである。そこでは証言者から変死した登場人物まで総てが実名フル・ネームで、住所も全部記されてあるのである。これは、今読んでも、キョワい!!!

「大宮四條坊門」現在の京都府京都市下京区坊門町附近。(グーグル・マップ・データ)。北で綾小路通りを隔てて、四条大宮町に接する。

「みかさあまり」岩波文庫の「江戸怪談集(下)」の本条の高田衞氏の脚注では、『三乗(みかさ)あまり。三丈余りの』とある。三丈は九メートル九センチ。

「すごすごありける」「悄悄在りける」。元気なく、おっかなびっくりそろそろと歩いている。

「氣の前」は「氣の持ちよう」の意。

「『影ばうし』なるべし」影法師という、怪異でも何でもない、物理的な自分の影法師を見間違えた、幻しの偽怪と断じてよい、と言っているのである。

「漆園老人」莊子の別號。莊子が若き日、生地の蒙で、漆の材料となる漆の木を栽培する漆園を管理する下級役人を勤めていたことに由來する。元隣の言うのは、「荘子」「漁父 第三十一」の以下。孔子が「自分は正当なことをしているのに、私の歩いた足「迹」までも消されるほど、何度も排斥されたのは何故でしょうか」と問うたのに対し、道家的人物である漁父の老人(以下の「客」)が、その誤った認識を徹底的に指弾する部分に出る。

   *

客悽然變容曰、「甚矣子之難悟也。人有畏影惡迹而去之走者、舉足愈數而迹愈多、走愈疾而影不離身、自以爲尚遲、疾走不休、絶力而死。不知處陰以休影、處靜以息迹、愚亦甚矣。……[やぶちゃん注:以下略。]

(客、悽然(せいぜん)として容(かたち)を變じて曰はく、「甚だしきかな、子(し)の悟り難(がた)きや。人、影を畏(おそ)れ、迹(あと)を惡(にく)みて、之れ、走りて去る者、有り。足を舉ぐること、愈(いよいよ)數(いそ)ががしくして、迹、愈、多く、走ること、愈、疾(はや)くして、影は身を離れず。自(みづか)ら以つて『尚ほ遲し』と爲(な)して、疾走して休(や)まず、力を絶ちて、死せり。陰(かげ)に處(を)りて以つて影を休(や)め、靜に處りて以つて迹を息(や)むることを知らず。愚なること、亦、甚だし。)

   *

訳してみる。

   *

 老漁師はさも孔子を哀れむように、居ずまいを正すと、こう答えた。

――なんとまあ、酷(ひど)いもんじゃな、お前さんの悟りの悪さ加減ときたら! 自分の影を怖がり、自分の後に附いた足跡を厭がって走って逃げた男がいたがね、焦って、足を素早く挙げれば、挙げるほど、足跡はますます多く、しっかりと記され、幾ら、より速い走りをしても、影は自分の体から離れぬ。そ奴は、『自分の走りが、まだ、遅いからだ』と思い込んで、どこまでも、どこまでも、さらに疾走し続け、さうして、遂に、力尽きて、死んじまったよ。日蔭に入って一息ついて影を消し、凝っ立ち止まって足跡を作らずにいるという、当ったり前のことに、そ奴は、気づかなかったのさ。愚かさも、ここまでくると、救いようのねえ馬鹿という奴だぁな!

   *]

古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事

 

  第五 こだま彭侯(はうこう)と云ふ獸(けだもの)狄仁傑(てきじんけつ)の事 

 

Kodama

[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」の図版の汚損を少し除去した。]

 

一人の云(いふ)、「『こだま』と申(まうす)物は山谷(やまたに)、あるひは、堂塔などにて、人の聲に應じて響く物を申せり。されば、文字には『空谷響(むなしきたにのひゞき)』と書きて、『こだま』とよめり。又、『樹神(うへのきのたましゐ[やぶちゃん注:原典のママ。])』と書き候(さふらは)ば[やぶちゃん注:原典は「候は」。「叢書江戸文庫」で補正した。]、いかさまにも、化物の類(るい)または草木(くさき)の精にも候ふやらん。然らば、芭蕉の、女にばけたるなどこそ『こだま』とも申すべからんや」と云へば、先生、評していはく、「いかにも仰せらるゝごとく、物のひゞく音を『こだま』と申せり。和歌にも『山彦のこたへするまで』など讀(よめ)る。是れは、わきに何物もなき、うつろなる所にて、聲をあぐれば、其むかふにある物にあたりてひゞく音なり。是れ、ゆめゆめ、生類にあらず、『空谷響(くうこくけい[やぶちゃん注:原典のルビ。])』の心なるべし。併(しかしながら)、草木に精なきといふには、あらず。又、草木の精をも『こだま』と申すべし。唐土(もろこし)にても『彭侯』といふ獸(けだもの)は千歳を經(へ)し木の中にありて、狀(かたち)、狗(いのこ)のごとしと云(いへ)り。むかし、呉の敬叔と云ひし人、大なる樟樹(くすのき)をきりしに、木の中より、血、ながれ出(いづ)。あやしみ見れば、中に、獸、有(あり)しが、『「彭侯」ならん』とて、煮て、くらひしに、味(あぢは)ひ、狗(いのこ)のごとしといふ事、「搜神記」に見えたり。是、たゞちに、『樹神(こだま)』なるべし。又、唐の武三思(ぶさんし)といふ人の許に、いづく共なく、容顏(ようがん)うるはしき女、來たりて、『宮づかへせん』と云(いふ)。武三思、其形に愛でゝ召しつかひしに、よく歌うたひ舞(まひ)まひて、琴棊書畫(きんぎしよぐは[やぶちゃん注:原典のママ。])にくらからず。三思、寵愛、なゝめならずして、賓客のたびに、馳走(ちさう)に出(いだ)し給へり。其頃、狄仁傑といふは、道德兼備の人なりしが、聊(いささか)の事ありて、武三思をとぶらひ給ひしに、三思、奔走のために彼(かの)女を呼び出だせしが、此女、いづく共なく、うせぬ。あやしみて求(もとめ)ければ、壁のはざまに、ひら蜘蛛のごとくに成(なり)て、かくれゐつゝ、云ふやう、『我、人間にあらず。庭前の牡丹の精なり。君(きみ)、あまりに牡丹を愛し給ふ故、人間に變じ、參りつかふまつりしが、狄仁傑は、其德義、正しき人なれば、出(いづ)る事かなはずして、かくのごとし』と云(いひ)て、消(きえ)うせしと、「開天遺事」に見えたり。又、芭蕉の、女にばけて、長篇の詩をつくりし事、「幽冥錄」に見えたり。謠(うたひ)もかやうの出所にや侍らん」。

[やぶちゃん注:「こだま」「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『木の精霊のこと。木々に精霊が宿っていると考える樹木崇拝の一つ。木に傷をつければ痛む、切倒せば死ぬとされ、供物を捧げれば人々に恩恵を与え、また』、『無視すれば』、『災害をもたらすと考えられたことから生じた。古くはギリシア・ローマ時代の神話にもみられ、たとえば』、『ホメロスの詩にあるアフロディテへの讃頌』(さんしょう:言葉を尽くし、また、歌などに作って褒めたたえること)『は、木霊へのそれであった。日本にも古くからこの信仰があり、人声の反響のことを』「こだま」『あるいは「山彦」と呼ぶのも、木の精、あるいは山の精が返事をしていると考えたためである。沖縄のキジムンも木の精の一つ 』であり、『その他、古いつばきの木が化けてなる火の玉とか、大木の梢からだしぬけに現れる妖怪とか、古い』柿『の木が化けた大入道などは、いずれも木霊の変形したものにほかならない』とある。次にウィキの「木霊」を引く。『木霊(こだま、木魂、谺)は樹木に宿る精霊である。また、それが宿った樹木を木霊と呼ぶ』。『また』、『山や谷で音が反射して遅れて聞こえる現象である山彦(やまびこ)は、この精霊のしわざであるともされ』た。『精霊は山中を敏捷に、自在に駆け回るとされる。木霊は外見はごく普通の樹木であるが、切り倒そうとすると祟られるとか、神通力に似た不思議な力を有するとされる。これらの木霊が宿る木というのは』、『その土地の古老が代々語り継ぎ、守るものであり、また、木霊の宿る木には決まった種類があるともいわれる。古木を切ると』、『木から血が出るという説もある』。『木霊は山神信仰に通じるものとも見られており、古くは』「古事記」に出る『木の神・ククノチノカミが木霊と解釈されており、平安時代の』源順(みなもとのしたごう)の著した辞書「和名類聚抄」には、『木の神の和名として「古多万(コダマ)」の記述がある』。「源氏物語」に「鬼か神か狐か木魂(こだま)か」「木魂の鬼や」等の『記述があることから』平安当時、『すでに木霊を妖怪に近いものと見なす考えがあったと見られている』。『怪火、獣、人の姿になるともいい、人間に恋をした木霊が人の姿をとって会いに行ったという話もある』。『伊豆諸島の青ヶ島では、山中のスギの大木の根元に祠を設けて「キダマサマ」「コダマサマ」と呼んで祀っており、樹霊信仰の名残と見られている』。『また』、『八丈島の三根村』(みつねむら)『では、木を刈る際には』、『必ず、木の霊であるキダマサマに祭を捧げる風習があった』。『沖縄島では木の精を「キーヌシー」といい、木を伐るときにはキーヌシーに祈願してから伐るという。また、夜中に倒木などないのに』、『倒木のような音が響くことがあるが、これはキーヌシーの苦しむ声だといい、このようなときには』、『数日後に』、『その木が枯死するという。沖縄の妖怪として知られるキジムナーはこのキーヌシーの一種とも、キーヌシーを擬人化したものがキジムナーだともいう』。『鳥山石燕の妖怪画集』「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年刊)では、『「木魅(こだま)」と題し、木々のそばに老いた男女が立つ姿で描かれており、百年を経た木には神霊がこもり、姿形を現すとされている』。『これらの樹木崇拝は、北欧諸国をはじめとする他の国々にも多くみられる』とある。

「芭蕉の、女にばけたる」金春禅竹作の複式夢幻能「芭蕉」を指しており、元隣評の最後に出る「謠(うたひ)もかやうの出所にや侍らん」がそれに応じている。小学館「日本大百科全書」によれば、『中国の湘水(しょうすい)の山中、日夜』、「法華経」を『読経する僧(ワキ)のもとに』、一『人の女性(前シテ)が現れ、経の聴聞を願い、草木成仏のいわれを尋ね、自分は芭蕉の精であることをほのめかして消える。夜もすがら読経する僧の前にふたたび姿をみせた芭蕉の精(後シテ)は、仏を賛美し、芭蕉が人生のはかなさを象徴していることを語り、四季の推移を舞い、秋風とともに消えていく。晩秋の季節を背景に、寂しい中年の女性の姿を借りて、無常感そのものを舞台に造形する。きわめて高度な能であり、もっとも抽象化を果たした演劇の例といえる』。「法華経」の『草木成仏の思想を軸に、王摩詰』(中唐の名詩人王維)『が雪の中の芭蕉を描いたという故事を踏まえた、禅竹独特の世界であり、また能だけが可能とした世界である』とある。台詞を含め、より詳しくは、『宝生流謡曲「芭蕉」』のページがよい。

「和歌にも『山彦のこたへするまで』など讀(よめ)る」「古今和歌集」の「巻大十一 恋歌一」にある読み人知らずの一首(五二一番歌)、

 つれもなき人を戀ふとて山彦(やまびこ)の應(こた)へするまで嘆きつるかな

である。類似した民俗的感懐を詠んだものは既に「万葉集」に認められる。

「わきに」周囲に、或いは、その一定の空間内に、の意。

「空谷響(くうこくけい)」「響」の音は「キヤウ(キョウ)」・「カウ(コウ)」で、「ケイ」という音はない。現代中国語でも「シィァン」であるから、不審。

「彭侯」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「こだま 彭侯」で以下のように電子化訓読し(筆の違う二図の挿絵も添えた。原文はリンク先を見られたい。訓読文は古い私の仕儀なので、引用に際し、少し新たに手を加えた)、考証した。中国音「ポン へ゜ウ」「木魅」「賈」(「」=「月」+「由」)「【「文選」「蕪城賦」に『山鬼なり。』と云ふ。】」「【和名、古太萬。】」と見出しし、

   *   *   * 

Kodama_3

 

Kodama2_2「本綱」に、『彭侯は【「白澤圖」に云ふ。】木の精なり。千歳の木、精有りて、状、黑狗のごとく、無尾、人面。烹て食ふべし。味【甘酸、溫。】狗のごとし。【「搜神記」に云ふ、】『呉の時、敬叔、大なる樟(くす)の樹を伐るに、血、出づる中に物有り、即ち、彭侯なり。』と。

按ずるに、彭侯、乃ち木魅【古太萬。】木の靈精なり。俗に此れを山彦と一物と爲(す)るは誤りなり。山彦は、山行の人、大聲に物を喚(よ)べば、則ち應(こた)ふるごとき者、乃ち、山谷の聲なり。乃ち、山響の畧なり【比比木(ひびき)を上畧して云ふ。「比木」と「比古」と、相(あひ)通じ、「山彦」と爲す。】。

 

[やぶちゃん注:木の精霊。但し、実際に煮て食うという描写が出てくる以上、何らかの実在する動物をモデルとしては比定し得るものと考える。黒犬に似ているだけでなく、後掲する如く、「捜神記」ではイヌと同じ味がするとあり、私は食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミの亜種で、主にユーラシア北端部に分布するシベリアオオカミ(ツンドラオオカミ)Canis lupus albus か、その老衰・病変個体、又は広くユーラシア大陸に分布するイヌ科のドール(アカオオカミ)Cuon alpinus 等の老衰・病変個体の誤認のように思われる。因みにドール Cuon alpinus については、以下にウィキの「ドール」より引用しておく。体長八十八~百十三センチメートル、尾長四十~五十センチメートル、肩高四十二~五十五センチメートル、体重十~二十キログラム。『背面は主に赤褐色、腹面は白い体毛で被われる。尾の先端は黒い体毛で被われる』。『耳介は大型。鼻面は太くて短い。門歯が上下』六『本ずつ、犬歯が上下』二『本ずつ、小臼歯が上下』八『本ずつ、大臼歯が上下』四『本ずつの計』四十『本の歯を持つ。上顎第』四『小臼歯および下顎第』一『大臼歯(裂肉歯)には歯尖が』一『つしかない。指趾は』四本。『森林に主に』棲息し、五~十二『頭からなるメスが多い家族群を基にした群れを形成し生活するが、複数の群れが合わさった約』四十『頭の群れを形成する事もある。狩りを始める前や』、『狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる。群れは排泄場所を共有し、これにより他の群れに対して縄張りを主張する効果があり』、『嗅覚が重要なコミュニケーション手段だと考えられている』。『昼行性だが、夜間に活動(特に月夜)する事もある』。『食性は動物食傾向の強い雑食で、哺乳類、爬虫類、昆虫、果実、動物の死骸などを食べる。獲物は臭いで追跡し、丈の長い草などで目視できない場合は直立したり』、『跳躍して獲物を探す事もある。横一列に隊列を組み、逃げ出した獲物を襲う。大型の獲物は他の個体が開けた場所で待ち伏せ、背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき』、『内臓を引き裂いて倒す』。『また』、『群れでトラやヒョウなどから獲物を奪う事もあるから獲物を奪う事もある』。『土手に掘った穴、岩の隙間、他の動物の巣穴などで』、十一月から翌四月にかけて、一回に二~九頭の『幼獣を産む』(これが空ろになった大木や枯れ木であったとすれば?!)。『繁殖は群れ内で』一『頭のメスのみが行』い、『授乳期間は』二ヶ月。『群れの中には母親と一緒に巣穴の見張りを行ったり、母親や幼獣に獲物を吐き戻して運搬する個体がいる』。『幼獣は生後』十四『日で開眼』し、生後二~三ヶ月で『巣穴の外に出て、生後』五ヶ月で『群れの後を追うようになり』、生後七~八ヶ月で『狩りに加わる』。生後一年で『性成熟する』とある。

『「文選」「蕪城賦」』南北朝時代の南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集「文選」に載る南北朝宋の詩人鮑照(四一四年?~四六六年)の代表作にして珠玉の名品。広陵(江蘇省揚州市)の荒廃を歎く。確かに、その第三連に「木魅山鬼」と出るのであるが、これは荒れ果てた城内を畳み掛けるシーンに現われ、対句になっている次句は「野鼠城狐」である。これは「木の魅」と「山の鬼」と「野の鼠」と「城の狐」の四つが並列であって、「木の魅」は「山の鬼」であって「野の鼠」は「城の狐」である、という表現ではないと思われる。勿論、山の木の精霊は山の精鬼ではあるから、「木魅」=「山鬼」の等式に誤りはないが、良安のこの語義割注は少しおかしいと思うのである。識者の御意見を乞う。

『「白澤圖」』「白澤」は聖獣の名。人語を操り、森羅万象に精通する。麒麟・鳳凰同様、有徳の君子ある時のみ姿を現すという。一般には、牛若しくは獅子のような獣体で、人面にして顎髭を蓄え、顔に三個、胴体に六個の眼、頭部に二本、胴体に四本の角を持つとする。三皇五帝の一人、医薬の祖とされる黄帝が東方巡行した折り、白澤に遭遇、白澤は黄帝に「精気が凝って物体化し、遊離した魂が変成したものはこの世に一万千五百二十種ある」と教え、その妖異鬼神について詳述、黄帝がこれと白澤の姿を部下に書き取らせたものを「白澤圖」という。因みに、本邦では江戸時代、この白澤の図像なるものは、旅行者の護符やコロリ(コレラ)等の疫病退散の呪いとして、甚だ流行した。

『「搜神記」』東晋の文人政治家干宝(生没年未詳)の撰になる、四世紀に成った六朝期を代表する志怪小説集。神仙・方士・魑魅・妖怪・動植物の怪異等、四百七十余の説話を、説話のタイプ別に分類して収録する。後世の小説群に多くの影響を与えた。該当箇所は「巻く十八」の以下の部分。

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先主時、陸敬叔爲建安太守、使人伐大樟樹。下數斧、忽有血出、樹斷、有物、人面狗身、從樹中出。敬叔曰、此名彭侯。乃烹食之。其味如狗。白澤圖曰、木之精名彭侯狀如黑狗、無尾、可烹食之。

   *

 の先主の時、陸敬叔、建安の大守と爲(な)れり。人をして、大樟樹を伐らしむ。數斧を下すに、忽ち、血の出づる有り。樹、斷(た)たれるに、物、有り、人面狗身にして、樹中より出づ。敬叔、曰はく、「此れ、彭侯と名せるなり」と。乃(すなは)ち、烹て之れを食へば、其の味、狗のごとし。「白澤圖(はくたくず)」に曰はく、「木の精を『彭侯』と名づく。狀(かたち)は黑狗(こくく)のごとく、尾、無し。烹て、之れを食ふべし」と。

「呉先主」とは呉を建国し、初代皇帝となった孫権(一八二年~二五二年)のこと。「建安」は現在の福建省。「樟樹」は双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora

・「比木と比古と、相通じ、山彦と爲す。」とは「比木」(ひこ)の「木」は「こ」とも読むから、「比木」(ひこ)となり、それは「比古」(ひこ)と同音で相互に通じるから、本来の「山響」(やまひびき)を略した「比比木」で、それをまた略した「比古」に元通りの「山」を冠せば「山彦」(やまびこ)となる、という意味。

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「狗(いのこ)」挿絵も猪の絵が描いてあるが、「狗」には「猪」の意はない(「熊や虎の子」の意はある)し、歴史的仮名遣も「猪」なら「ゐのこ」である。「捜神記」は偏愛する書で、複数の訳書を所持するが、皆、「犬」と訳している。中国では「猪」なら、「野豬」「山豬」である。犬を「いのこ」と一般的に言うというのは私は聞かない。「いぬのこ」(犬の子)の略だと言われれば、黙らざるを得ないが、だったら挿絵はおかしいだろ! なお、「犬の子」なら、先の私のオオカミ類の推定比定と合致するとも言える。

「武三思」(?~七〇七年)は唐代の政治家で、高宗の皇后で中国史上唯一の女帝となった武則天(六二四年~七〇五年/在位:六九〇年~没年まで)の異母兄弟である元慶の子(武則天の甥)。美青年であったという。ウィキの「武三思」によれば、『現在の山西省文水県に生まれる。武則天の一族ということで右衛将軍に抜擢され、武則天が政権を掌握すると夏官尚書に任命され、周朝(武周)が成立すると』、『梁王に封ぜられ』て『一千戸を賜る。ついで』、『天官尚書を拝命し』、六九五年には『春官尚書に転じて国史監修を担当』、六九八年に『検校内史、翌年には特進太子賓客に進んだ』。「新唐書」の「藝文志」によれば、「即天后實錄」(全二十巻)は『彼と魏元忠が編纂したものとされる。武則天の信任も厚く、同じく寵臣であった張易之・昌宗兄弟と結託し』、『権勢の確保につとめた。従父兄の承嗣とともに皇太子になるべく画策するなど』、『野心が強かった。皇太子の一件に関しては』、『武則天も立太子を検討したが』、『狄仁傑の諫言により実現しなかった』。『中宗の娘である安楽公主が子の崇訓に降嫁したこともあり』、『三思の権勢はより強固なものとなり、対立する桓彦範・敬暉・袁恕・崔玄暐・張柬之を排除し、自らの寵臣を大官に登用するなど』、『朝政混乱の原因を作り出し、また中宗の皇后・韋氏と昭容・上官氏に私通するなどの行動があった』。『三思は皇太子であった李重俊と不仲であったため、廃太子を行い』、『安楽公主を皇太女として立てるべく』、『政治工作を行っていたが、この態度に不満を持った重俊は』七〇七年、『兵を起し』、『三思・崇訓父子と親族数十名を殺した。これに対し』、『中宗は哀悼の儀式を挙行し、三思には太尉を追贈して「宣」と諡したが、睿宗が即位すると』、『三思父子に逆節があることを理由に』、『その墓所は破壊された』とある(下線太字はやぶちゃん)。

「狄仁傑」(六三〇年~七〇〇年)は唐の高宗・中宗・睿宗・武則天の四代に仕えた政治家。唐代で、太宗の時代に続いて安定していたとされる武則天の治世に於いて、最も信頼され、長年に渡って宰相を務めた。太原(山西省太原)の人。明経科に及第し、中央・地方の官職を歴任、六九一年に宰相となった。密告政治や契丹(きったん:キタイ。四世紀以来、満州南部を流れる遼河の支流にいたモンゴル系遊牧民族。十世紀初めに耶律阿保機(やりつあぼき)が周辺の諸民族を統合し、その子太宗の時、国号を「遼」とした。十二世紀初めに宋と金に滅ぼされたが、一部は中央アジアに移動して西遼(カラキタイ)を建てた)・突厥(とっけつ:とっくつ。六~八世紀にかけて、モンゴルから中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族及び彼らの創った国。ササン朝ペルシアと協力してエフタルを滅ぼして大帝国となったが、五八三年には東西に分裂、モンゴル高原を支配した東突厥は、六三〇年に唐の攻撃で滅び、中央アジアを支配した西突厥も唐に討たれ、七世紀末に滅亡。東突厥は、その後、一時、復興したが、八世紀初め、ウイグルに討たれて滅亡した)の外寇など、ただならぬ時世にあって彼自身も、一時、酷吏に陥れられたが、武后の信任を拠り所として、一貫して、無軌道な政治の是正につとめた。中宗の復位を武后に勧めたのも彼であり、その志は、彼の推挙した張柬之(ちようかんし)や姚崇(ようすう)らの賢才たちによって実現されて行った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「開天遺事」正しくは「開元天寶遺事」。小学館「日本大百科全書」によれば、『盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林(かんりん)学士などを歴任した王仁裕(じんゆう)』(八八〇年~九五六年)『が、後唐(こうとう)』(九二三年~九三六年)『の荘宗のとき、秦』『州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を捜集し』、百五十九『条を得て』、『本書にまとめたという』。但し、『南宋』『の洪邁』(こうまい 一一二三年~一二〇二年)は『本書を王仁裕の名に仮託したものと述べている。玄宗、楊貴妃』『の逸話をはじめ、盛唐時代への憧憬』『が生んだ風聞、説話として味わうべき記事が多い』とある。但し、以上の牡丹の精の話は、中文サイトの「開元天寶遺事」の原文を調べて見ても、見当たらなかった。話柄の類型は唐代伝奇や後の志怪小説(特に浮かぶのは「聊齋志異」辺り)にありがちなものではある。識者の御教授を乞う。

「棊」囲碁ととっておく。

「馳走」食事を出すなどして客をもてなすこと。表字は、その準備のために「走りまわる」意から生まれたもので、後文の「奔走」も同義である。

「幽冥錄」これは「幽明錄」の誤りではなかろうか。「世説新語」の撰者として知られる劉義慶(四〇三年~四四四年:南朝宋の皇族で臨川康王。武帝劉裕は彼の伯父)の志怪小説集。散逸したが、後代のかなりの諸本の採録によって残った。しかし、幾ら探しても、「幽明錄」には、芭蕉が女に化けて長篇の詩を作った話は見えない。そこで、別な作品集を捜してみたところが、作者不詳の元の志怪小説集「湖海新聞夷堅續志」の「後集巻二」の「精怪門」の「樹木」の中に、それらしい「芭蕉精」というのを中文ウィキソースの中に見出した。以下に一部を加工して示す。

   *

安成彭元功築庵山中、使一奴守之。一日暮時、有婦人求宿、自稱土名小水人、奴固把(「把」、抄配本作「拒」。)之不得、婦人徑入奴臥室中、不肯去。奴推之、婦人云、「隻見船泊岸、不見岸泊船、何無情如此。」。因近奴身、自解下裙。奴以爲怪物、遂與相(「相」、抄配本作「各」。)榻而寢。夜中又登奴榻、奴舉而擲之、輕如一[やぶちゃん注:この「」という注記号のようなものの意味は私にはよく判らない。]。奴懼、起取佛經執之。婦人笑云、「經雖從佛口出、佛豈眞在經。汝謂我誠畏經耶。」。天將明、庵有神鍾、起擊之、婦人云。「莫打。莫打。打得人心碎。」。取頭上牙梳掠頭畢、遂去。奴趁出(「趁出」原作「出趁」、據抄配本改。)門觀所向、入松林間、因忽不見。蓋林中芭蕉叢生故也。奴歸、見壁有五言詩、意婦人芭蕉精也。詩云、「妾住小水邊、君住靑山下。靑年不可再、白石坐成夜。隻見船泊岸、不見岸泊船。豈能深谷裏、風雨誤芳年。薄情君棄、咫尺萬里遠。一夜月空明、芭蕉心不展。解下綠羅裙、無情對有情。那知妾身重、隻道妾身輕。經從佛口出、佛不在經裏。卽在妾心頭、妾身隔萬里。月色照羅衣、永夜不能寐。莫打五更鍾、打得人心碎。」。

   *

なお、ここで、たまたま所持する安永五(一七七六)年刊の鳥山石燕の「画図百鬼夜行」(一九九二年国書刊行会刊)の「芭蕉精」の解説を見たところが、先に説明した謡曲「芭蕉」は、「湖海新聞夷堅續志」の『「芭蕉精」の怪異譚を取ったというが(新潮古典集成『謡曲集』)、『夷堅志』に芭蕉の怪異の話がほかにもある。庚志巻六「蕉小娘子」、丙志巻十二「紫竹園女」は芭蕉そのものが精怪になって出現する話である(沢田瑞穂「芭蕉の葉と美女」『鬼趣談義』所収)』と書かれているのに気づいた。実は、この沢田氏の「鬼趣談義 中国幽鬼の世界」(一九九〇平河出版社刊)を私は所持しているのだが、書庫の底に沈んでしまっていて、今すぐにはとても出てこないのであった。それを見れば、ここに、より豊かな注が出来るとも思うのだが、残念だ。発掘し次第、追記する。因みに、「蕉小娘子」「紫竹園女」(孰れも中文ウィキソースの収録ページ)、また「夷堅甲志」巻五に芭蕉上鬼(「中國哲學書電子化計劃」の検索抜出)というのも見出し、原文を見たが、孰れも漢詩を読んでいないから、違う。]

2018/10/05

古今百物語評判卷之一 第四 西岡の釣甁をろし幷陰火・陽火の事

 

  第四 西岡(にしのをか)の釣甁(つるべ)をろし陰火(いんくは)・陽火(やうくは)の事

 

Turubeorosi

 

一人の云(いふ)、「各(おのおの)の物がたりは、何れも聞きおよび給ひし事のみにて、『是れぞ見たり』と仰せらるゝ事も候はず。某(それがし)、去年(こぞ)五月の頃、にしの岡へ參りて、雨、ふり出(いだ)しければ、『一宿せよ』と云ひけれども、叶(かなは)ぬ用事ありて、もどり侍りしに、日も漸(やうやう)暮れて、人の通(かよひ)もなし。冷(すさま)じく思ふ處に、さいのほとりにて、藪ぎはを通りしかば、かたはらなる大木より、何かは知らず、火の、丸(まろ)かせ、鞠(まり)のごとき物、おりつ、のぼりつ、見えければ、『これは、いかに』と見る處に、さして外(ほか)へも飛行(とびゆか)ず候ふ故、逸足(いちあし)を出(いだ)して逃通(にげとほ)りしが、肌(はだ)に多年信心いたしぬる觀音の守(まも)りをかけ居申(をりまうし)候ふ故か、つゝがなく、まかり歸り候ふ。怖敷(おそろしく)存(ぞんぜ)らるゝ」と云(いへ)ば、先生、莞爾と笑ふて、「それは俗にいへる『つるべおろし』と云ふ、ひかり物なり。され共、天地(てんち)の間(あひだ)、一色(ひといろ)も陰陽五行の理(ことわり)にもるゝ事、なし。されば、其光り物は、大木(たいぼく)の精にて、卽(すなはち)、『木生火(もくしやうくは)』の理なり。さて、晝も顯れず、わきへもみえざる事は、火は、くらきを得て色をまし、明かなるにあひて、ひかりをうしなふ、常の事なり。就ㇾ中(なかんづく)、木の下の暗き所にあらはれ、見ゆるなるべし。されども、若木に生ぜざるは何ぞや。それ、陰陽の老變(らうへん)・五行の相生(さうじやう)は、四季の移りかはるがごとし。春、暮れて、夏、來たり、秋、みちて、冬、成(なる)がごとし。其始(はじめ)の氣(き)を盡さぬうちは、つぎの氣を生ぜず。されば、寸木尺樹も、『木生火』の道理、こもりながら、猶いまだ、木の氣を滿(み)たねば、火の氣(き)を生ずるに及ばざるなるべし。かつ又、天地(てんち)の間(あひだ)に、火の數、三つあり。星精(せいせい)の飛(とぶ)火、龍(ひりう)の火(ひ)、雷(いかづち)の火を『天火(てんくは)』といふ。木をきり、石をすりて出るを、『地火(ちくは)』といふ。人間にとりて、心(しん)の火、命門(めいもん)の火を、『人火(じんくは)』といふ。其火のうちにて、『陰火』・『陽火』のわかちあり。『陽火』は物を燒けども、『陰火』は物を燒くこと、なし。そも又、雷火(らいくは)などの、適(たまたま)人家を燒く事あるも、此火、『陰火』なるゆへに、水もて、けし、濡れたるを、もて、おほふときは、却つて、燃(もえ)候。火をなげ、灰を散らし、ふせげば、其まゝ消え侍る。是れ、道理のをだやかなる處なるべし。此『つるべおろし』とかやも、『陰火』なり。其故(それゆゑ)、雨ふりなどには殊に見ゆるなるべし」。又、いはく、「『つるべおろし』は『陰火』ならば、物を燒くに及ばざる事、さも、ありぬべし。然らば、深山幽谷(みやまふかきたに)などにて、其木の枝、もみあひて火を生じて、その木の燒(やく)る事は如何ぞや」。云(いふ)、「『うごく』は陽の用、『しづまる』は陰の用なれば、其木のもみあひ侍るにて、陽のわざをなして、『陽火』と變じはべるなり」とこそ。

[やぶちゃん注:またしても、怪異の記載の倍以上が元隣先生のブイブイである。それにしても、その博識開陳の脇に添えられた挿絵の「釣甁おろし」君はシッカリバッチリ「何か妖怪?」という人面を火の中に浮かべているのが嬉しいではないか。さればこそ! せめても「釣甁おろし」君のために、怖ろしく汚れていた「叢書江戸文庫」の挿絵を三十分かけて、可能な限りの汚損除去を行った。

「西岡(にしのをか)」これはいろいろ調べてみるに、どうも現在の京都府京都市右京区西院(さいいん)高山寺町附近(ここ(グーグル・マップ・データ))を指すようである。そうすると、後の「さいのほとり」という謂いが腑に落ちるからである。「京都電気鉄道株式会社」公式サイトの「嵐電」の「第2 どこまで知ってる?西院の歴史Part1 | 西院駅から出かけよう ぶらり西院さい発見!」によれば、この西院地区は、

   《引用開始》

 古くは「やましろ」(山代、山背)と呼ばれる山城盆地内の「葛野(かどの)」という地域であり、794年、桓武天皇が長岡京より平安京へと遷都を行い、葛野郡は平安京の一部となりました。桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と続いた後に即位した桓武天皇第三皇子・淳和(じゅんな)天皇は、仁明天皇に譲位した後に現在の西院付近に離宮である「淳和院(じゅんないん)」を構えます。

 この淳和院の所在地が皇居から見て西に位置すること、さらに佐比大路(さいおおじ)[現:佐井通(さいどおり)]にも近かったことから「西院(さいいん、さい)」と呼ばれて、付近一帯の地名となったとされています。以来、西院の名となり、大正時代まで葛野郡西院村という名称でした。

   《引用終了》

とあり、続く「西院にはあの世がある?」には、

   《引用開始》

 嵐電西院駅から北西すぐの場所に建つ、日照山高山寺(こうさんじ)は淳和院の広大な敷地の南東に位置していたとされ、門の前には「淳和院跡」の石碑が建っています。

 本尊は、室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏が近江・堅田からこの地に移したと伝わる由緒ある地蔵像。室町時代には「京都の六地蔵」の一つとして名高く、安産・子授けのご利益がある子安地蔵尊として信仰され、銀閣寺を建てた室町幕府八代将軍・足利義政の妻・日野富子もここで祈願し、男児を産んだという言い伝えがあります。

 高山寺は、かつては「高西寺(こうさいじ)」という名前で、今より南東の四条御前を下がった辺りの高台の上にあったそうです。豊臣秀吉が京都防衛のために御土居造る際に、その高台が御土居予定地にあたるため移転をせねばならず、現在の地に越してきました。本堂に向かって左側に立つ大きな地蔵像は、時代が下ってから御土居を崩した際に中からたくさんでてきた石仏を供養するため、明治期に金戒光明寺(通称:くろ谷さん)から移設されたものだそう。平安時代、この辺りには川が流れており、河原は葬送の地とされていたようです。御土居の中から出てきた石仏は、おそらくその供養のためでしょう。

 そして、西院(さい)の地名と、葬送の地であること、親に先立って亡くなった子どもたちがあの世で石の塔を積む『賽の河原地蔵和讃』にでてくる「賽(さい)」が同じ発音であることなどから、一帯を「さいの河原」と称すようになったと、一説ではいわれています。門の右手に立つ石柱と、本堂正面に掲げられた額にある「くろだにをはやたちいでてこうさんじ さいのかはらをみまもるみほとけ」という御詠歌にも、さいの河原の文言が記されてています。今では河原は姿を消しましたが、子安地蔵尊とさいの河原の地蔵像は、亡くなった子、生まれてくる子、すべての子どもたちを見守り続けています。

   《引用終了》

とある。本話の時期に川があったかどうかは判らないが、挿絵には画面の左下に小流れが描かれており、「さいのほとり」の「ほとり」が文字通り「川の畔(ほとり)」となり、「さい」という地名も「西院」(現行でも、阪急電鉄の駅名は「さいいん」であるのに対し、京福電気鉄道の駅名はこの二字で「さい」である)を指し、それが上記の通り、「賽の河原」に通じ、溝でも何でもいいが、小流れがあれば、それが『「さい」の川』となろう。但し、私は京都に全く不案内である。大方の御叱正を俟つものである。【2018年10月6日追記】何時も情報提供をして下さるT氏が以上の正当性を検証して下さったので、私の見解も入れ込みながら示すこととする。まず、この川は現在、西大路太子通交差点付近で西南西に折れて南流している天神川で、ウィキの「天神川(京都府)」によれば、昭和一〇(一九三五)年六月に発生した京都水害』『で被災後、花園より南側は現在のように付け替えられたが、水害以前は丸太町通り以南では天井川となって蛇行しながら西院から西京極の東側』、またそこから『吉祥院へと流れていた』とある(下線やぶちゃん)。さすれば、これが当時脇を流れていた西院附近では、上記のような背景から「さい川」(西院川・賽川)と呼ばれていたと考えてよい。さらにT氏は、国立国会図書館デジタルコレクションの「京図名所鑑」(版元は菊屋長兵衛で安永七(一七七八)年刊。本「古今百物語評判」は貞享三(一六八六)年刊であるから、話柄時とは百年近く隔たってはいる)を以ってその絵地図上(3コマ目)で確認され、当時の天神川は『「北野天満宮」西から南流、二条城の西、その少し南の「さい村」を通り、最後』に『賀茂川に合流』しているとお教え下さった。これは絵地図で、帖の大きさに合わせるために地図のスケールが正確ではないのだが、何より、「さい村」の名が力となる。以下にその国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングしたものを示したが、現在の地図の、東寺と西本願寺と「西院」駅附近を頂点とする三角形を想定し、加えて絵地図の「さい村」の東の方の「四条」の通り名、また、スケールが極度に東西に圧縮されてしまっているが、恐らくは現在の禅寺派大梅山長福寺(ここ(グーグル・マップ・データ))と思われる、「さい村」の西の「かつら川」に近い「長福寺」を合わせて見てみると、まさに、この「さい村」附近が現在の「西院」地区に当たることが判ったのである。さらに、私が検証していなかった本文の「西ノ岡」という地名についても、この絵地図で判明する(というより、当初から気づいていたが、「西院」から距離が離れ過ぎていると思い、敢えて注しなかったのであるが)のである。「さい村」の南南西の、「かつら川」と書かれた箇所の右岸に、「西の岡」とあり、これは現在の京都府向日市物集女町吉田附近(向日市立西ノ岡中学校がある。ここ(グーグル・マップ・データ))を指すのである。されば、この標題の「西岡(にしのをか)の釣甁をろし」は言い方を誤っていると断じてよいのではないかと私は思うのである。即ち、この「釣瓶おろし」に出くわした男は、京の市中からはちょっと離れた(例えば、四条大宮からは直線でも六キロメートルはある)「西岡(にしのをか)」に所用があって出向き、夕刻になって相手が「泊まって行きなはれ」というのを固辞して帰り、この「西院」=「さい村」の辺りまで来たところで、怪異が出来したのであって、この「西院」が別に「西岡(にしのをか)」という別地名を持っていたのではないと思われ、「西院」と「西岡」の類似性から、編者は「西院の釣瓶おろし」とすべきところを、誤って「西岡の釣甁をろし」とやらかしてしまったのだと私は思うのである。最後に、またお世話になったT氏に心より御礼申し上げるものである。

Saimura

「釣甁(つるべ)をろし」ママ。ウィキの「釣瓶落とし」によれば、『釣瓶落とし(つるべおとし)または釣瓶下ろし(つるべおろし)とは、京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県、和歌山県などに伝わる妖怪。木の上から落ちて来て、人間を襲う、人間を食べるなどといわれる』。『大正時代の郷土研究資料』である「口丹波口碑集」に『ある口丹波(京都府丹波地方南部)の口承によれば、京都府曽我部村字法貴(現・亀岡市曽我部町)では、釣瓶下ろしはカヤの木の上から突然落ちてきてゲラゲラと笑い出し、「夜業すんだか、釣瓶下ろそか、ぎいぎい」と言って再び木の上に上がっていくといわれる。また曽我部村の字寺でいう釣瓶下ろしは、古い松の木から生首が降りてきて人を喰らい、飽食するのか当分は現れず』、二、三日『経つと』、『また』、『現れるという。同じく京都の船井郡富本村(現・南丹市八木町)では、ツタが巻きついて不気味な松の木があり、そこに釣瓶下ろしが出るとして恐れられた。大井村字土田(現・亀岡市大井町)でも、やはり釣瓶下ろしが人を食うといわれた』。『岐阜県久瀬村(現・揖斐川町)津汲では、昼でも薄暗いところにある大木の上に釣瓶下ろしがおり、釣瓶を落としてくるといい』、『滋賀の彦根市でも同様、木の枝にいる釣瓶下ろしが通行人目がけて釣瓶を落とすといわれた』。『和歌山県海南市黒江に伝わる元禄年間の妖怪譚では、古い松の大木の根元にある釣瓶を通行人が覗くと光る物があり、小判かと思って』、『手を伸ばすと』、『釣瓶の中へ引き込まれて木の上へ引き上げられ、木の上に住む釣瓶落としに脅かされたり、そのまま食い殺されたり、地面に叩きつけられて命を落としたという』。以下、本条の体験を図とともに紹介し、『「釣瓶おろし」の名で、大木の精霊が火の玉となって降りてくる妖怪が描かれている。同書の著者・山岡元隣は釣瓶下ろしという怪異を、気が木火土金水の五つの相に変転して万物をなすという「五行説」により説明しており、雨の日(水)に木より降りて(木)くる火(火)、ということで』、水―木―火の『相生をなすことから』、『大木の精だと述べている。五行の変化は季節の移り変わりようなもので、若い木はまだ生を十分に尽くしておらず木の気を満たしていないので、次の気を生ずるに至らない。大木となってはじめて火を生ずる。その火も陰火なので雨の日に現れるという』(以上を本文の元隣のくだくだしい評語の注の代わりとする。悪しからず)。『鳥山石燕の妖怪画集』「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年刊。本「古今百物語評判」は貞享三(一六八六)年刊であるから、九十年後である)では、この「古今百物語評判」で『火の玉として描かれた「釣瓶おろし」が「釣瓶火」として描かれている。このことから、昭和・平成以降の妖怪関連の文献などでは釣瓶落としは生首や釣瓶が落ちてくる妖怪、釣瓶火は木からぶら下がる怪火、といったように別々の妖怪として扱われていることがほとんどだが、本来は釣瓶落としも釣瓶火と同様、木から釣瓶のようにぶらさがる怪火だったとする説もある』。『釣瓶落としに類する妖怪はほぼ日本全国に類似例があるものの、ほとんどは名前のない怪異であり、「釣瓶下し」「釣瓶落とし」の名称が確認できるものは東海地方、近畿地方のみである上、釣瓶が落ちるのもそれらの地域のみであり、そのほかは木から火の玉が落ちてくる、焼けた鍋が落ちてくるなど、火に関連したものが多い』。『たとえば』、『山形県山辺町では鍋下ろし(なべおろし)といって、子供が日暮れまで遊んでいると、スギの木の上から真っ赤に焼けた鍋が降りてきて、子供をその鍋の中に入れてさらってしまうといわれる』。『島根県鹿足郡津和野町笹山の足谷には大元神(おおもとがみ)を祀る神木と祠があり、周辺の木を伐ると松明のような火の玉が落ちてきて大怪我をするという記述がある。静岡県賀茂郡中川村(現・松崎町)では』、『鬱蒼とした木々の間に大岩があり、そこに毎晩のようにほうろく鍋が下がったという。青森県の妖怪のイジコも、木の梢から火が降りてくるものとの解釈もある』とある。

「丸(まろ)かせ」様態を丸くさせて一塊となったもの、という名詞。

「陰陽の老變」陰気と陽気の強さが永い時間を経過してバランスを失い、遂には元とは全く逆転するような様態になることを指すか。

「五行の相生(さうじやう)」現行では「そうせい」と読み、陰陽五行説のフィフ・スエレメント、木・火・土・金・水の五つの元素が、順列順送りで次の元素を生み出して行く、「陽」の関係性を指す。「木生火(もくしょうか)」(木は燃えて火を生む)・「火生土」(物が燃えた後に残る灰は土に還る)・「土生金(どしょうごん)」(土の中には鉱物あり、掘ることで金属を得る)・「金生水」(金属の表面には凝結して水が生ずる)・「水生木」(木は水によって生育する)という判り易過ぎる比喩で一般には説明される。逆の特定元素をうち滅ぼす「陰」の関係性を「相剋(そうこく)」と呼ぶ。それについては、ウィキの「五行思想を参照されたい。

「四季の移りかはるがごとし」五行では、木に春を、火に夏を、金に秋を、水に冬を当て、土は四立(しりつ)の立夏・立秋・立冬・立春の直前の約十八日間の土用(どよう)を当てている。まさに、元隣が「其始の氣を盡さぬうちは、つぎの氣を生ぜず」という、現在の季の気から次の季の気へと変容させる期間として土(用)が当てられているのである。以下の部分もそれを説明しており、「こもりながら」は次の季の原理が内包されているけれども、それがある瞬間に一気に発動して変化するのではないと言っているのであろう。

「星精(せいせい)の飛(とぶ)火」流星のことか?

「龍(りう)の火(ひ)」龍が吐く火のことか。前後が天文現象であるから、これも何かが

「心(しん)の火」感覚的には、怒り・恨み・嫉妬などの感情をであるが、そこには或いは、死者の霊魂の齎すところの人魂(狭義の霊現象としての「陰火」)も含まれるか。

「命門(めいもん)の火」漢方中医学にある用語で、サイト「家庭の中医学」のこちらによれば、『生命のかぎの意味をもち、臓象学説における重要な内容の』一『つ』とし、『存在部位に関しては右腎・両腎の中間など諸説があるが、機能に関する意見は一致している。概括すると』、『①命門は人体の「真元」すなわち真陰(元陰)と真陽(元陽)が居するところで、父母より稟けて生来備わっており、生命の原動力である』。『②命門は水・火を有し、水・火は互根互用で離れることなく、真陰と真陽の源泉である』。『③三焦気化・納気・生殖など正常な臓腑機能を幇助する(命門の火が不足すると命門火衰、居所を離れて上昇すると命門火旺・離位の相火・浮火などといわれ、病変が生じる)』。『④腎陰・腎陽が、命門の水・火を意味していることが多い』とし、『腎には相火という命門の火があり』、『この火は身体を温めるほどの火ではなく最低生命を維持する火で種火と考えてよいもので』、『これを身体を温める火に変えるためには、肝胆の力を借りて燃え立たせ』、その『燃え立った火を全身に送り届けて温め』る。『この命門の火は、小規模ではあるけれども』、『この火が消えてなくなるということは、読んで字のごとく命がなくなるということで』ある。『しかし、この命門の小さな火でも』、『唯一できる仕事が「勃起」で』、『命門の火の指令によって反応し』、男根は勃起するとある。ふ~ん、って感じ。

「火をなげ」火のついたものを細かにして投げ散らかして。対象物が小さいから、自然に燃焼し切って自然に燃えて消えることを指すか。

「ふせげば」「防せげば」。目的語は「火(の延焼)」か。

「をだやかなる」ママ。「穩やかなる」。五行の理論に自然に適合している。

「もみあひて」「揉み合ひて」。摩擦熱による(と思われていた人為ではない)自然発火現象をそう捉えたものであろうか。

火を生じて、その木の燒(やく)る事は如何ぞや」。云(いふ)、「『うごく』は陽の用、『しづまる』は陰の用なれば、其木のもみあひ侍るにて、陽のわざをなして『陽火』と變じはべるなり」とこそ。]

古今百物語評判卷之一 第三 鬼と云ふに樣々の説ある事

 

  第三 鬼と云ふに樣々の説ある事

 一人の云(い)へらく、「世に鬼(おに)と申(まうす)物は、ある事に候ふやらむ、又、なく候ふやらん。なき物ならば、もろこしより『鬼(おに)』といふ字も候ふまじ。また、ある物に候はゞ、目に見え侍らん。何ものを『鬼』と申し候ふ。委(くはし)く承りたく侍る」といへば、先生、いへらく、「是れは、よき不審にて侍る。逐一に物がたり申さん。先(まづ)、世界の目に見え、耳にふれ候ふ物は、天地(てんち)も、山川(やまかは)も、草木(くさき)も、水火(みづひ)も、土石(つちいし)も、凡そ、いきとし生ける物、何れも陰陽の二氣に、もるゝ物、なし。是れを『兩儀(りやうぎ)』といふ。その陽の所爲(しわざ)を『神(かみ)』と云ひ、陰のなす所を『鬼(おに)』といふ。されば、物每(ものごと)の『はじまる』と『長ずる』は神にて、『減ずる』と『終る』とは鬼なり。色々の委(くはしき)事、侍れど、百帖の紙にも盡しがたし。さて、人間にいたりては、諸々(もろもろ)のよき事・正しき事は、皆、陽に屬する故に、聖賢君子のたゞしくすぐなる靈を神といふ。我朝にあがむる神道も此外(このほか)ならず。又、もろもろの惡敷(あしき)こと・よこしまなるは、皆、陰に屬する故に、愚癡佞人(ぐちねいじん)のひがみ曲れるたましゐを鬼といふ。餓鬼・疫鬼(やくき)の類(るい)、みな、是れに外ならずと心得へ給ふべし。此靈の、より處なく、祭らるべきかたもなくて、暫(しばらく)天地に流行し、樣々の災(わざはひ)をなすなり。又、鬼魅(きみ)の類といふも、山谷(やまたに)の、こぶかき幽陰の所の、氣のつもりより起(おこ)る物なり。是れ、又、陰の類なり」。又、問(とひ)て云(いふ)、「然らば、鬼と申(まうす)は、或は陰のなすわざ、または、靈(たましひ)の名にて、形のなき物に候ふ哉(や)。地獄の牛頭(ごづ)・馬頭(めづ)・あはうらせつ、又は我朝のむかし、『鈴鹿の鬼』・『大江山の鬼』などは、皆、僞(いつはり)なるや」。答(こたへ)て云ふ、「佛説の鬼と申も、『自業自得果(じごうじとくくは)』と説(とき)侍れば、まよへる罪障にひかれて見る所の名にて、聖賢君子の靈のなれる物に非ず。されば、六道流轉(ろくだうるてん)は心より發(おこ)るによりて、『心の鬼』と申しならはせりとかや。猶も儒家(じゆけ)の誠には、夫(それ)、地獄といふは、天笠(てんぢく)の法(はう)に、科人(とがにん)あれば、地を掘りて居處(ゐどころ)として是れををくを[やぶちゃん注:「置くを」。]、名付けて『地ごく』といふ。其刑罰の法に、舌をぬき、臼にてつき、さまざまの怖しきおきて、あり。さて、又、夜叉・羅刹鬼(らせつき)などいふは、天竺の國の名にして、其地、中國を去(さる)事、遠ければ、人倫をはなれて、おそろしき色々の形あり、と云(いへ)り。かく生(いき)たる人に施こす事なるを、流轉の久敷(ひさしく)、あやまつて、地獄・極樂の説、及び鬼といふ名を立てたり、とも云り。また、立烏帽子(たてゑぼし)・酒典童子(しゆてんどうじ)などは、あながち、人を服(ぶく)するにもあらざるべけれど、おのれが勇力(ゆうりき)を賴み、王法・佛法にそむき、惡を長ぜるを、かく云(いひ)ならはせるにや。爲朝のわたり、俊寬がながされし『鬼が島』など云へるは、たゞ我が國の風俗に非ずして、物の哀(あはれ)をしらざる夷(ゑびす)をいふなるべし。また芥河(あくたがは)のほとりにて、二條のきさきを一口にくひたる鬼は、堀河(ほりかは)の大臣國經(おとゞくにつね)大納言とかや。『鬼こもれりといふは誠か』と讀みしは、しげゆきがいもうとを云へり。共におそろしき名なるべし。淺稻(あさいな)三郞がしうとの鬼は、狂言綺語(きやうげんきご)のたはむれ事、鬼薊・鬼野老(おにどころ)・鬼百合などは、共にたくましき稱たるべし」。

[やぶちゃん注:これはまるまる「鬼神論」であって、最早、怪談ではない。こんな優等生の作文みたようなものを第三条に持ち込んでしまったことが、本格怪談集としての致命傷になった憾みを拭えない。ただ、本書は元隣没後の息子の編集であるから、彼に直接の責任は全くないのである。本書が実は怪談を説くのは比喩で、専ら知性上の啓蒙に目的があったとしても、それでも、私なら、こんな編集はしない。元隣は無能な息子を恨むべきで、それを恨んで息子のところに元隣の亡霊が出て来て無鬼論をぶち上げるという「捜神記」の阮瞻(げんせん)に引っ掛けたフェイクの一話を僕は本「古今百物語評判」の最後に添えてもいいとさえ思っているぐらいなのである。但し、近世初期の怪談が、まずは相応に噂話(実話らしい怪談噺)としてそれなりに出揃ったピークであったと捉えるならば、ただの似通った感じの怪談噺に少し飽きかけていた庶民にとって、こうした在野の博識な御隠居が、知られた実例怪異を例として、それに類型的な中国の伝奇や志怪の先例を掲げ、当時は科学的に見えた陰陽五行説や仏教哲学による擬似論理的解析を行って考証するというのは、明治になって、神霊・鬼神・妖怪を、民俗学的に考察した柳田國男や近代哲学や科学を援用した稀代のゴースト・バスター井上円了の諸著作を垣間見るような新鮮さを感じたものかも知れない。さすれば、思いの外、本「古今百物語評判」は当時は好評を博したとして考えてもよいようにも思われる。二〇〇〇年の現実社会や政治の怪奇性にさえ飽きた未来人である我々は、最早、こうした素朴な感動を心に響かせることが出来なくなってしまったことを哀しく思うべきか。

「もろこしより『鬼(おに)』といふ字も候ふまじ」本邦に鬼神・魑魅魍魎が存在しないのであれば、中国から「鬼」という漢字が入って来ても、使いようがないから、現行、用いているはずがないという主張である。しかしこれもおかしな謂いで、「鬼」は中国語では元来、フラットな「死者」「死者の魂」の意であるから、本邦に定着しないというのは全くの誤りであり、事実、本邦の古代の認識や古い祭祀では、そうした本来の意味の「鬼」がルーツとして厳然としてあったし、今もそれは在る。知っている人には言わずもがなであるが、最初に述べておくと、「鬼」という漢字の本来の意味は「死者」或いは「死者の魂」である。「廣漢和辭典」の解字には『グロテスクな頭部を持つ人の象形』文字『で死者のたましいの意を表す』と記す。しかし私は大学時代に漢文学演習でしごかれ、しかし故に忘れられない畏敬する亡き吹野安先生が、「鬼」という字は死者の顔に、それを覆い隠すための四角い白い布「幎冒(べきぼう)」を被せ、それを縦横に結んで縛った形であると、講義で絵を描いて教えて下さった時のそれが、目から鱗のインパクトであった。同辞典では二番目(①の㋑。㋐は最初に示した意味)に『ひとがみ。人鬼。神として祭られた霊魂。「鬼神」天神・地祇』とし、次(①の㋒)に『不思議な力があると信ぜられるもの。一に聖人の精気を神、賢人の精気を鬼という』とあって、ここまでは非常にフラットな意味である。そこを私は押さえておかないと、中国語に於ける「鬼」概念を踏み誤ることとなると考えている。第四番目に至って、やっと①の㋓で『人に害を与えるもの。もののけ。ばけもの』という邪悪性が示されるのである。ところが、②になると『さとい』『わるがしこい』となり、③では「遠い」の意となるのである。⑧のところで仏教用語として梵語の「プレータ」の漢訳の『餓鬼をいう。飢えて飲食を求める死者。餓鬼道におちた亡者、また夜叉(ヤシャ)・羅刹(ラセツ)など、凶暴な鬼神をいう』とする。これは原型の最初の意味に中国で作られた偽経に基づく複雑怪奇な地獄思想を組み込んだものである。これらの後に国訓しての「鬼」の意として、『想像上の生物。人の形をして角があり、裸で虎の皮のふんどしをしている』と突如くるのである。因みに、これも言わずもがなであるが、何故、角があって虎の皮の褌かと言えば、これは何のことはない、鬼だから鬼門の方角からくるであろうということで、あちらは艮(うしとら)則ち「丑寅」であることから、日本で勝手に「牛の角」と「虎の褌」ということになってしまったに過ぎない。鬼門や十二支やあくまで符牒でしかなく、実在の「鬼」や動物とは無関係なのに、こうした比喩が安易に形成されるのも本邦のお目出度さだと言えば言えると私は思う(高校教師時代、このアホ臭い真相を同僚でさえ案外に知らないのには正直、呆れたほどだ)。また、後の青鬼・赤鬼の肌色や体格は、何人かの法医学者や解剖学者が述べているように、実際の死体が腐敗して変様してゆく過程での、肌の色の変化や腐敗ガスの膨満をリアルに写したものである。

「天地(てんち)も、山川(やまかは)も、草木(くさき)も、水火(みづひ)も、土石(つちいし)も」この読みは原典に従ったが、正直、不徹底さに嫌気がさすのだ。当時のルビを作家が附けていたどうかはよく判らない(因みに、御存じない方が多いので言っておくと、少なくとも、近代作家の多くは原稿にルビは振らなかった(泉鏡花などは別で原稿も総ルビに近い)。どうしてもこう読んで欲しいところだけにしか、振らないのだ。では、誰が振るかって? 編集校正者に決まってるじゃん! だからこそ堀辰雄は第一次芥川龍之介全集でルビ無しを強く主張したのである(結局、それは売り上げに影響するから通らなかった)。だから、ルビは原典・初出・定本を謳った全集(新字体でよく言うわと私は思う)絶対主義なんてのはチャンチャラおかしいんだよ!)が、素人に鬼神論を説く元隣が、音読みをしなかったところは判る。しかし、だったら、最初は「あめつち」だろう!

「兩儀」「易(えき)」に於いて宇宙生成論で使用される二元論的概念。ウィキの「両儀」によれば、『万物の根源である太極から生じた二極』を総て包含した概念で、『その解釈は一様ではないが、天と地だという説と陰と陽だという説がある』。「周易」の「繫辭上傳」に『ある「易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦 八卦定吉凶 吉凶生大業」(易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず)に由来する。根元の太極から万物を象徴する八卦に至る中間の過程として表れる』。『両儀からは四象が生じるが、その四象は、漢易では春夏秋冬の四季あるいは木火土金水の五行、宋易では陰陽二画の組み合わせ』太陽・少陰・少陽・太陰(それぞれの爻(こう)の組合せはリンク先を参照)『とされる』とある。

「たゞしくすぐなる」「正しく直なる」。

「愚癡佞人」愚かで、口先だけ、巧みに諂(へつら)う心の邪(よこしま)な者。

「疫鬼(やくき)」原典のルビ。「えきき」と読む方が一般的であるが、まあ、疫病神(やくびょうがみ)の語があるからね。疫病を流行らせる悪神。

「あはうらせつ」「あばうらせつ」で「阿傍羅刹」(あぼうらせつ)のことであろう。先の「牛頭・馬頭」と同じく(彼らのことを「牛頭獄卒・馬頭羅刹」とも称する)地獄の獄卒の名である(というより、元は彼らと同一である)。ウィキの「阿傍羅刹」によれば、『現世で悪事をなした人間が地獄に堕ちたとき、彼らによって閻魔のもとにともなわれて行き、百千万歳のあいだ呵責』『をあたえられる』。『阿傍とは「牛頭」(ごず)を差しており』、「五苦章句経」では、『地獄にいる「牛頭人手 両脚牛蹄」の獄卒を阿傍というとあ』り、「大方便仏報恩経」(巻二)などには『「牛頭阿傍」という語が見られ、地獄で亡者を責めている』。「賢愚経」(巻第一)には、『「獄卒阿傍」が様々な地獄の責苦を亡者たちに与えると』、『描写されている』。「法華伝記」(巻九)ではオリジナリティが生まれて、『「阿防夜叉」という語も見える。死んだ者の前には』八『人の阿防夜叉が現われるといい』、三『人は鉄棒(かなぼう)を持ち』、二『人は火車をかつぎ』、残りの三人はそれぞれ『鉄縄』・『神嚢』・『火籠をさげている』とある。但し、『厳密な「阿傍羅刹」という語は仏教における経典にはほぼ登場せず』、『日本における物語や寺社に関する説話などの表現上に例が多く見られる。文学作品での登場も数多いが』、『特殊な役回りがつくことはあまりなく、そこでの役割は地獄などの死後の世界で亡者たちを呵責することがほとんどを占めている。これらが「阿傍羅刹」という熟語表現が日本で普及をしていった淵源となっている』として、以下、「宝物集」・「曽我物語」(真名本巻七)・「曽我物語」(「丸子川の事」)・能「砧」の例を引き、最後に「真田三代記」の三好為三入道の辞世「落ち行けば地獄の釜を踏み破りあほう羅刹に事を欠かさん」を挙げてある。

「鈴鹿の鬼」大嶽丸。伊勢と近江の国境鈴鹿山に住んでいたとされる鬼。文献によっては「鈴鹿山大嶽丸」「大武丸」「大猛丸」などとも表記され、「鬼神魔王」とも称される。山を黒雲で覆って、暴風雨・雷鳴・火の雨を降らせるなどの神通力を操ったとされる。私の老媼茶話卷之四 高木大力」『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 六 鬼と大人と』を参照されたい。

「自業自得果」現行では「自業自得」悪い方にしか用いないが、本来は善悪双方の「業」を原因として起こる結果を「自業自得果」と称する。

「まよへる罪障にひかれて見る所の名にて、聖賢君子の靈のなれる物に非ず」これは前の「自業自得果」半可通な現行の悪のベクトルの一方通行で捉えた誤りである。「聖賢君子の靈のなれる物に非ず」なのではなく、「聖賢君子の靈のなれる」現象を、真逆に「まよへる罪障にひかれて」辿ってしまった結果として「見る所の」「名」としての「鬼」という仮の姿に過ぎない、というべきである。現世の存在は総てが仮のものであるから、仏教的に見れば、「聖賢君子が靈」となるのも、「罪障にひかれて」「鬼」となるのも、結局は「自他一如(じたいちにょ)」とこそいうべきであると私は思う。

「心の鬼」「鬼といひ佛といふも世の中の人の心の外のものかは」という奴ですな、元隣先生。

「地獄といふは、天笠(てんぢく)の法(はう)に科人(とがにん)あれば、地を掘りて居處(ゐどころ)として是れををくを[やぶちゃん注:「置くを」。]、名付けて『地ごく』といふ。其刑罰の法に、舌をぬき、臼にてつき、さまざまの怖しきおきて、あり」こんなルーツは私は聞いたことがないけれど、言われてみると、納得してしまいそう。

「夜叉・羅刹鬼(らせつき)などいふは、天竺の國の名にして、其地、中國を去(さる)事、遠ければ、人倫をはなれて、おそろしき色々の形あり、と云(いへ)り」これも無批判に納得してしまいそう。事実、前者は.釈迦の修行時代の説話を集めた「ジャ—タカ」の一つの「ヴァーラハッサ・ジャータカ」に、夜叉国(やしゃこく)に漂着した商人が、神通力で空を飛ぶ雲馬により救い出されるという話が載り、後者の羅刹国(らせつこく)も三蔵法師玄奘の「大唐西域記」に羅刹女の国として出るもんね。

「かく生(いき)たる人に施こす事なるを」以上の通り、現実に生きている人間に対して行われる処刑法であり、遠い全く文化習慣面相の異なる蛮人の住む、しかし人が行くこともあった実在の国であったのに。

「流轉の久敷」仏教が気の遠くなるような永い時空間をドライヴしてきた結果。

「立烏帽子(たてゑぼし)」その正体が鬼の娘ともされ、先の鈴鹿山に住んでいたと伝承される女性、鈴鹿御前(すずかごぜん)の別名。彼女は女盗賊・女神・天女・第六天魔王もしくは第四天魔王の娘とされ、また、鈴鹿姫・鈴鹿大明神・鈴鹿権現・鈴鹿神女として瀬織津姫(せおりつひめ)などと同一視されて祀られてもいる。室町以降の伝承は、その殆どが坂上田村麻呂伝説に関連しており、坂上田村麻呂と結婚し、子宝にも恵まれたりしている。伝承や文献により、その設定は様々であるが、彼女自身を忌まわしい「鬼」存在とするものは殆んどないのではないかと思われる。但し、ここで元隣は彼女と並列させている酒呑童子を真正の鬼としてではなく、「鬼」と名指されたスポイルされた異人、アウトローとしての盗賊(集団)として認識しているように思われるので特に違和感はない。委細は参照したウィキの「鈴鹿御前」を読まれたい。

「酒典童子(しゆてんどうじ)」丹波国の大江山或いは山城国京都と丹波国の国境にある大枝(老の坂)に住んでいたと伝わる鬼の頭領或いは盗賊の首魁であった酒呑童子は、奈良絵本では「酒典童子」として出、「酒伝童子」などとも書かれる。

「人を服(ぶく)する」盗賊として一般人を襲い、暴威によって支配する。

「爲朝のわたり、俊寬がながされし『鬼が島』など云へる」「爲朝のわたり」は「為朝が渡った所」でそこが「鬼が島」であったと言い伝える島の意。源為朝は伊豆大島に流罪となったが、流されてから十年後の永万元(一一六五)年、鬼の子孫とされる大男ばかりが住む「鬼ヶ島」に渡り、島を「蘆島」と名づけ、大男を一人、連れ帰り、以降、為朝はこの島を加えた伊豆七島を支配したとする伝承がある(ここはウィキの「源為朝」に依る)。同じ話について、ウィキの「鬼ヶ島」では、『鬼が住むとされる島の記述は、古くは』十三『世紀前後』に成立した「保元物語」に『おいて、「鬼島(諸本によって「鬼が島」「鬼の島」)」が文献上に見られ、源為朝が鬼の子孫を称する島人と会話をし』、『「鬼持なる隠蓑』、『隠笠、打ち出の履(くつ)』『」といった神通力を有する宝具を所持していた(が、為朝上陸時点ではなくなっている)ことが説明されている。この鬼ヶ島については、青ヶ島の古名であり、青島に鬼島の伝承があったことを示唆するものとされる』とある。青ヶ島は東京都青ヶ島村で伊豆諸島の八丈島の南方に浮かぶ一島。ここ(グーグル・マップ・データ)。「俊寬がながされし『鬼が島』」は「鹿ケ谷の謀議」の発覚によって真言宗俊寛僧都が流されたのは「鬼界ヶ島」とされ「鬼」がつくことに基づく。但し、この「鬼界ヶ島」がどの島に当たるかは、実はよく判っていない。現在では薩南諸島の、硫黄島(いおうじま:ここ(グーグル・マップ・データ))か、或いは音の通ずる同奄美群島の奄美大島の北部東方沖に浮かぶ「喜界島」(ここ(グーグル・マップ・データ))の孰れかと考えられている。

「芥河(あくたがは)のほとりにて、二條のきさきを一口にくひたる鬼」知られた「伊勢物語」の第六段、通称「芥川の鬼」などと呼ばれたあれ。古文の授業では何度もやったね。

「堀河(ほりかは)の大臣國經(おとゞくにつね)大納言」藤原長良の長男で正三位・大納言の藤原国経。彼は異母弟で、権謀術数を尽くして日本史上初の関白に就任することになる藤原基経に協力して、基経の同母妹で、在原業平と恋愛関係にあったとされる藤原高子(たかいこ)を業平から奪い返し(と「伊勢物語」には記されてある)、清和天皇元服の二年後である貞観八(八六六)年(清和帝は数え十七)に二十五歳で入内させた。

「鬼こもれりといふは誠か」「拾遺和歌集」の「巻第九 雑下」の平兼盛の一首(五五九番歌)、

   陸奥國(みちのくに)名取の

   郡(こほり)黑塚に重之が妹

   あまたありと聞きて言ひ遣(つか)

   はしける

 陸奥(みちのく)の安逹が原の黑塚に鬼こもれりと聞くはまことか

の異形ヴァージョン。ネット上にも散見するが、「言(い)ふ」の形のそれがどの出典かは不詳。本歌は「大和物語」の第五十八段で使用されて、そこでは源重之の妹たちの説話となっている。水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首」の彼のページによれば、『源重之(生没年未詳)は清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五位下三河守兼信の子。父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった。子には有数・為清・為業、および勅撰集に多くの歌を載せる女子(重之女)がいる。名は知れないが、男子のうちの一人は家集』「重之の子の集」を残している。『康保四年』(九六七)『十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後』、『相模権介を経て、天延三年』(九七五)『正月、左馬助となり、貞元元年』(九七六)に『相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二年』(九九一)『以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元年』(九九五)『以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年』(一〇〇〇)『頃、六十余歳かという』とある。「大和物語」の第五十八段は古文と簡潔な注と現代語訳ブログ「趣味の漢詩と日本文学」のこちらがよい。

「共におそろしき名なるべし」これは思うに、「立烏帽子」の「鬼」(の娘)以下、字背となるが、安達が原の「鬼」婆までの、各種の名前や固有地名に出現する「鬼」を指して言っているのであろう。「これらは『鬼』を含んで、或いは、直連想されて、名前ばかりが怖ろしげなまがまがしい「名」となってしまったものと言ってよい」の意と私は採る。

「淺稻(あさいな)三郞がしうとの鬼」よく判らぬが、「狂言綺語(きやうげんきご)のたはむれ事」とあるから(但し、これは「道理に合わない言葉と巧みに飾った言葉の意で、仏教・儒教などの立場から批判的に小説・物語の類を指すのであるが)、これはまさに狂言「朝比奈」等にインスパイアされている「朝比奈地獄破り」伝承を指すか。和田義盛の子で剛腕で知られた朝比奈義秀(安元二(一一七六)年~?)に纏わるもので、彼が見た夢で、地獄の鬼どもを平伏させ、地獄を征服してしまったという、絵本や「ねぶた」の素材とされているもの。ブログ「だるまさんが転んだ!朝比奈地獄破りがよく纏められてある。「しうと」が判らぬが、或いは「宗徒」(しゅうと)で(但し、歴史的仮名遣は「しうと」)、地獄という世界の信者である鬼の謂いか。

「鬼薊」被子植物門双子葉植物綱キク目キク科アザミ属オニアザミ Cirsium borealinipponense。日本固有種で東北地方から北陸地方の日本海側の山地や高山の草地に植生し、岩盤地でもよく耐え、大きな群落を作る。茎の高さは一メートル程まで伸び、葉は深く裂け、縁にある棘は鋭い。花期は六~九月で、頭状花序は筒状花のみで構成されており、強い紫色を呈し、ド派手な草体である。

「鬼野老(おにところ)」単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属オニドコロDioscorea tokoro根は強い苦味があり、しかも有毒なアルカロイドを含むため、食べられない。但し、嘗ては灰汁(あく)で煮て、水に晒し、食用としたこともある。根茎は鬼の金棒の短い奴みたような感じに私には見える。

「鬼百合」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium花の被片は強く反り返り、橙赤色で濃い色の斑点があり、花粉は暗紫色。花期は七~八月。なかなかに強烈な花貌と私は思う。球根部は百合根として食用にする。

「たくましき稱」上記注の下線部の様態からそれぞれに「鬼」が附くのは、確かに「逞しい」感じのする相応の和名と言えよう。]

2018/10/04

古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首見給ひし事

 

  第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首見給ひし事


Hitouban

かたへの人の云(いふ)、「ろくろ首と申(まうす)物は、はなしのみかとおもへば、此頃、絕岸和尙といふ僧、西國行脚の折から、肥後へ行(ゆき)て、「しころ村」といふ所に一宿せられしに、軒(のき)あばらなる、かり枕、風、凄(すさ)まじく吹き落ちて、夢もまどかならざりければ、夜更(よふくる)まで念佛稱名して居(ゐ)給ひしに、うしみつばかりに、其屋の女房の首、むくろよりぬけて、窓の破(やぶ)れより、飛出(とびい)でぬ。『あやし』と思ひて、念比(ねんごろ)に見れば、其首の通(かよ)ひしあとに、白きすじ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のやうなる物、見えたり。『是れこそ轆轤首よ』とおそろしく、誠に過去の業因までおしはからるゝに、夜明がたになりて、其すじ、動(うごく)やうにて、又、もとの處より、彼(か)の首、かへり、「につこ」と笑ふやうにて、おのがふしどに入りぬ。夜明(よあけ)て、其女房を見れば、首のまはりに筋あるやうにて、別のかはりなし。和尙も『亭主に語らばや』と思ひけれど、『いらざる事よ』と、默して、歸りぬ。『誠に出家の身ながら、おそろしかりし』と語(かたら)れ侍りしが、此事、いかに」と問ひければ、先生、評していはく、「此首の事、唐(もろこし)にも侍り。「博物志」には、南方に「尸頭盤(しとうばん)」とて、每夜、人の首、むくろよりぬけて、耳をもて、つばさとす、と見えたり。又「搜神記」には、女の首、とびし事を載せたり。されども、轆轤(ろくろ)の名は見ざりしに、此比(このころ)、元(げん)の陶九成(とうきうせい)が「輟耕錄(てつかうろく)」をよみしに、陳孚(ちんぷ)といふ者の南蠻紀行の詩に「頭飛如轆轤 鼻吸似」と、かき侍る。されば、此詩の心は、南蠻の人には、ろくろ首ありて、釣甁(つるべ)をおろしあぐるがごとし、又、鼻にて物を吸ふ事、もたひに水を移すがごとし、となり。是等の類(るい)を以て見る時は、むかしより、多く南蠻の中(うち)に侍るなるべし。天地のかぎりなき造化の變に至りては、水母(くらげ)の目なく、蝙蝠(かうもり)のさかさまにかゝり、梟(ふくろ)の晝(ひる)目(め)しいたる類(たぐひ)、一わうの見識にては、はかりがたし。されば、肥後にもあるまじきにもあらず。いかさまにも都方(みやこがた)には希(まれ)にも聞き及ばず。すべて、あやしき事は遠國(をんごく)にある物なりと思ひ給ふべし」。

[やぶちゃん注:本条は既に、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」の注で電子化しているが、今回は底本を変えているので、本文も注もゼロから全くやり直してある。「頭飛如轆轤 鼻吸似」は句間に読点があるが、漢詩であるので除去して字空けとした。因みに、「叢書江戸文庫」版では、これを、

 頭(くび)の飛ぶこと 轆轤(ろくろ)のごとし 鼻の吸ふこと 瓴(もたひ)に似たり

と訓じてあるが、私は、

 頭(かしら)の飛ぶこと 轆轤(ろくろ)のごとく 鼻の吸ふこと 瓴(もたひ)に似たり

と訓じたくなる。但し、残念ながら、原典も「くび」である。「瓴」は陶器製の吸飮(すいの)みのようなものを指すものであろうと思われ、彼らは鼻から摂餌対象物(水だけでなく、後の引用を見て貰うと判るが、「蟹蚓之類」(エビ・カニ類やミミズ等の蠕虫類)も餌であるとある)を吸い込む(後の注の森信壽氏の「非科學時代の迷信」の引用を参照)が、その音が、それを用いて吸い飲む時の「チュルチュル」という音に似ていたという意味であろう。ただ、現在の「輟耕錄」(元末の一三六六年に書かれた在野の文人学者陶宗儀(字が九成)の随筆。全三十巻。正しくは「南村輟耕錄」で、南村(なんそん)は陶宗儀の号)を幾ら探しても、当該箇所が見当たらない。但し、「元詩紀事」巻九に、元の政治家陳孚(一二五九年~一三〇九年)の詩として「安南卽事」の詩を引き(彼は一二九二年に安南(現在のベトナム)に官人として赴いている)、そこに逆転した、「鼻飮如瓴 頭飛似轆轤」の詩句を見出せる。中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらで原文と注が読めるが、かなり長いものである。而してその注には、『習以鼻飮、如牛然。酒或以小管吸之。峒民頭有能飛者、以兩耳爲翼、夜飛往海際、拾魚蝦而食、曉複歸、身完如故、但頸下有痕、如紅線耳』とあり、詩本文(五言排律)だけなら、中文サイトのこちらでも読める。

「絕岸和尙」不詳。禅僧(これで「おしょう」と読む場合は通常は禅宗・浄土宗の高僧・住持の尊称である)にはありそうな名で、実際、南宋末から初に活躍した臨済宗破庵派に絕岸可湘(ぜつがんかしょう 一二〇六年〜一二九〇年)がいるが……。

「しころ村」不詳。どうも気になる村名である。「しころ」は「錣」「錏」で兜(かぶと)の鉢の左右や後ろに革や鉄板を綴り合わせて造る垂らし物、例の頸部を守ものあれであり、やはり頭巾の顔面や耳から後頭部に垂らして顔や頸部を隠すための薄い裂(きれ)もかく呼ぶからである。妙にハマり過ぎている村名ではないか……。

「夢もまどかならざりければ」余りの荒天の戸外の音の激しさに、夢を見れるような安眠を得られなかったため。

「うしみつ」「丑満つ」或いは「丑三つ」。午前二時。

「むくろ」「軀・身」。胴体。

「念比(ねんごろ)に見れば」「懇ろに」、極めて注意して観察したみたところ。

「通ひしあと」飛んで行ったその後に。ここは附図から蜘蛛の糸のように胴体と繋がった細い糸状のものであり、それが空中に光って見えたものであろう。中国の飛頭盤や本邦の分離型の轆轤首では、この胴体と繋がった糸筋を截ち切ったり、或いは胴体の位置を動かしたりすると、頭は元に戻れずに死んでしまう(後の「明史」の引用参照)ことになっているケースが多い。

「すじ」ママ。「筋(すぢ)」。

『「につこ」と笑ふやうにて』これが本話の恐怖のクライマックスである。

「首のまはりに筋あるやうにて、別のかはりなし」「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」の注で私が引いた「甲子夜話」(そこには確かに「世の人、云ふ。轆轤首は其人の咽に必ず紫筋(むらさきのすぢ)ありと」という同様の謂いが載るが)や「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」のケースように、撫で肩でほっそりとして、そのために首が幾分長く見え、美人ではある(家族総てが轆轤首のケースを除いて私の知るそれは、皆、美人である)のだけれども血行不良等で顔色が悪く、しかも首の皮膚の横筋が特に目立つ場合、それがアダとなって、「あの娘は轆轤首だ」などという心ない(美人故に流されるイジメとしての)噂が立つのであった。

「博物志」西晋の宰相で博物学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)の著になる奇聞・伝説集。全十巻。神仙・怪人異人・動植物についての記録を主とし、民間伝説なども含まれた奇体にして面白い博物書である。元は四百巻あったとされ、現行本は散逸後、後世の誰かが諸書に引用されたものを集めたものと考えられている。但し、現行本には「尸頭盤」の記載は見当たらないように思う。但し、他書の「博物志」引用とする中に出るものらしく、森信壽氏の「非科學時代の迷信」PDF・雑誌『風俗研究』第十五・大正七(一九一八)年八月十五日芸艸堂発行・萩原義雄氏入力)の冒頭の「一、轆轤頸」には(正字不全はママ)、

   《引用開始》

 轆轤首とは大槻博士が言海に『にけくび[やぶちゃん注:ママ。所持する「言海」を見たところ、「ぬけくび」の誤りであることが判明した。]妖怪の名頸甚だ長く伸び縮みするものと云ふ』と説明されてゐるが、尚一層廣義に解して「頭首が軀幹を離れて遠く飛去するもの」を包含してよからう。支那の書籍には多くこの記事が載つてゐる、即ち「南方異物志」には『嶺南溪峒中有飛頭蠻者項有赤痕至夜以耳爲翼飛去將曉復著體』顧秉謙の三才圖會には『大闍娑國中有飛頭者其人目無瞳子其頭能飛其俗所祠名曰蟲落因號落民』(寺島良安の和漢三才圖會には此條を引き其國中人不悉然也)とある[やぶちゃん注:句点なしはママ。]「明史」占城の條下には『有尸頭蠻者一名屍致魚本媚人、惟無瞳神爲異夜中與人同寢忽飛頭食人穢物來即復』(「博物志」「酉陽雜爼」に引くところも大同小異である)以上引くところの記事を概括すると南方なる一蠻民に飛頭蠻若くは落頭民等と名けらるゝものがあって、此ある民族では、その頭首が夜に入れば拔け出で耳を以て翼とし、諸々を飛翔し虫類を採り食ひ曉となると歸り來つて元の如く軀幹に附着すると云ふのである。扨此飛頭者の頭首が軀幹より離るゝ前後の狀態は「太平廣記」に『飛頭獠、善鄯之東、龍城之西南地、廣千里皆爲田行人所經牛馬皆布氈臥焉。其嶺南溪峒中往々有飛頭者而飛頭一日前頸有痕、匝項紅縷妻子看守之其人及夜。狀如病。頭忽離身而去。乃于岸泥尋蟹蚓之類食之將曉如夢覺其實矣』一寸精神病學から云ふ睡游症のやうなものであらう。又この飛頭の者は鼻から水を飲むと傳へられてゐる。龍威秘書中の「輟耕録」に元の陳孚が安南へ使せし時の詩句を載せて曰く『鼻飲如瓴首飛似轆轤と[やぶちゃん注:鍵括弧閉じると句点がないのはママ。]「百物語評判」に之を和譯して『南蠻の人には「ろくろ首ありて、釣瓶をおろしあぐるが如し」と[やぶちゃん注:句点なしはママ。]蓋し轆轤首てふ名は是等から由來してゐるのである。この外惟り[やぶちゃん注:「り」はママ。衍字か。]頭首のみでなく両手亦飛去し而も各相異りたる方面に飛ぶと云ふ記載がある。王子年が「拾遺記」に『漢武時因墀國南方有解形之民、能先使頭飛南海左手飛東海右手飛西海至暮頭還肩上遇疾風飄於海外』など出てゐる。

   《引用終了》

とあり(この後には、まさに本「古今百物語評判」の本条が部分的に引かれてある)、この「博物志」『に引くところも大同小異』とする「明史」の「尸頭蠻」が元隣の「尸頭盤」とほぼ一致する。「明史」のそれは中文サイトによれば、「列傳第二百十二 外國五」に以下のように載る。

   *

有尸頭蠻者、一名尸致魚、本婦人、惟無瞳神爲異。夜中與人同寢、忽飛頭食人穢物、來卽復活。若人知而封其頸、或移之他所、其婦卽死。國設厲禁、有而不告者、罪及一家。

   *

『「搜神記」には、女の首、とびし事を載せたり』同書の「卷十二」の以下。

   *

秦時、南方有「落頭民」、其頭能飛。其種人部有祭祀、號曰「蟲落」、故因取名焉。時、將軍朱桓、得一婢、每夜臥後、頭輒飛去。或從狗竇、或從天窗中出入、以耳爲翼、將曉、復還。數數如此、傍人怪之、夜中照視、唯有身無頭、其體微冷、氣息裁屬。乃蒙之以被。至曉、頭還、礙被不得安、兩三度、墮地。噫咤甚愁、體氣甚急、狀若將死。乃去被、頭復起、傅頸。有頃、和平。桓以爲大怪、畏不敢留、乃放遣之。既而詳之、乃知天性也。時南征大將、亦往往得之。又嘗有覆以銅盤者、頭不得進、遂死。

   *

「狗竇」(クトウ)は扉の下に設けた「犬潜り」のこと。

「類(るい)」原典のルビを採った(正しくは「るゐ」)。まあ、確かに、後の「類(たぐひ)」とは差別化すべきところではある。

「一わうの見識にては、はかりがたし」「一わうの」は歴史的仮名遣から見て「一往の」であろう。副詞で「十分ではないが、一通り・大略」の意であるが、ここはそれを否定的に用いて、ただ通り一遍の無批判な低レベルでの認識では、とんでもない生態や習性を持った生物の存在や核心の真相を知り得ることは難しい、というのである。中国では盛んに記録として残っていても、日本の古記録には見当たらないからといって、本邦の肥後に轆轤首がいようはずがない、という認識は誤りだ、と元隣は言っているのである。しかし、認識論的な智の問題で大きく振り被ったのはいいが、「いかさまにも都方(みやこがた)には希(まれ)にも聞き及ばず。すべて、あやしき事は遠國(をんごく)にある物なりと思ひ給ふべし」という「チャンチャン!」的なオチは、如何にもショボ過ぎる。評言が例を重ねるのはいいとしても(しかし、評釈部は前説のエピソードとほぼ同じ分量である)、こういう一貫性のない物の言いが本怪談集の残念な一面なのである。]

古今百物語評判 序・目録 卷之一 第一 越後新潟にかまいたち有事 / 古今百物語評判 電子化注始動

江戸前期の俳人で仮名草子作家でもあった国学者山岡元隣(げんりん 寛永八(一六三一)年~寛文一二(一六七二)年)の遺稿による怪談本「古今百物語評判(ここんひゃくものがたりひょうばん)」(全四巻)の電子化注に入る。

 山岡元隣は字(あざな)を徳甫(とくほ)、別号を而慍斎(じうんさい)(序文に出る。その由来は最終章「古今百物語評判卷之五」の「第八 而慍齋の事幷此草紙の外題の事」に本人の口から語られている)・洛陽山人・抱甕斎(ほうようさい)と称し、医師でもあり、医名は玄水と称した。伊勢山田出身の京都の商家に生まれたが、生来、虚弱多病であったため、廃業、医を業とする傍ら、上京して俳諧・国学を後の松尾芭蕉の師となる北村季吟に就いて学んだ。また、儒学・禅学にも通じた。季吟門の逸材として仮名草子・俳諧・古典注釈などで活躍した。仮名草子作者としては教訓的随想集「他我(たが)身の上」「小さかづき」等があり、俳諧では「身の楽(らく)千句」「俳諧小式(しょうしき)」「歌仙ぞろへ」の編著がある。また、日用の家具・文房具を題材とした「宝蔵(たからぐら)」は俳文集の嚆矢として評価されているほか、「徒然草鉄槌増補」「鴨長明方丈記」「水鏡抄」「世の中百首註」などの古典注釈書がある。

 本怪談集は元隣の没後、息子山岡元恕による整理・補筆を経、貞享三(一六八六)年に板行された。以下の序文にある通り、生前、元隣のもとで行われた実際の百物語怪談会を元にしたものとも思われるが、他の百物語怪談集と異なり、各話について、元隣が和漢の故事や彼の儒仏の知識を以って成した、かなりくだくだしい「評判」=評釈(時に教訓的)が附帯する。ある意味、そのために折角の話の持つ怪異性が著しく殺がれてしまっている場合があり、今一つ、私の電子化の触手が今まで伸びなかった百物語系(例によって百話はなく、章にして全四十二話)怪談本である。しかし、ある意味で怪談そのものを議論の対象として、疑似科学的文学的(時に民俗学的)に解析しようとする立ち位置は、当時の、怪談会に惹かれた人々の関心の在り方を如実に示しているとも言える。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「德川文芸類聚(とくがわぶんげいるいじゅ) 第四 怪談小説」(大正三(一九一四)年国書刊行会編刊)の巻頭に配された「百物語評判」(本書の短縮表記)を用い、疑問箇所は所持する国書刊行会「叢書江戸文庫」の巻二十七「続百物語怪談集」(一九九三年刊・責任編集/高田衛・原道生)及び「早稲田大学図書館古典総合データベース」の原典画像(二種有るが、巻之四は孰れにもない で校合した。但し、底本には殆んど読みがないので、若い読者が判読に困難を要すると思われる箇所及び読みが振れると私が判断した箇所には歴史的仮名遣で読みを添えた(その場合、「叢書江戸文庫」「早稲田大学図書館古典総合データベース」版を参考にしたが、原典自体が歴史的仮名遣を誤っているケースも多いので、必ずしも原典通りには振っていない(例えば、盛んに出現する「理」には原典は「ことはり」と振るが、「ことわり」が正しく、そう振った)。その通りに翻刻すると、歴史的仮名遣の誤りを逐一、注しなくてはならなくなるためである)。また、底本は句点なしの読点ばかりのもので、非常に読み難いため、適宜、句点に代え、一部に読点を追加し、読み易さを考えて記号類(濁点追加を含む)も追加してある。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵があるが、これは「叢書江戸文庫」版のそれをトリミングして挿入した。 

 

 百物語評判序

 過ぎにし比(ころ)、六條あたりに、而慍齋先生とて、和漢の達者、儒佛兼學の老人あり。いはゆる、天地・山川・動植・古往今來(こわうきんらい)の事に會通(ゑつう)せずといふ事、なし。或る夕ぐれの、雨さへふり、物しめやかなる折ふし、先生を訪(とふ)らひけるに、はや、あたりのすき人、二、三人あつまりて、世の、ふしぎにおそろしき事の「百物がたり」をはじめければ、先生、其(その)ひとつひとつに、唐(から)の、やまとの、ためしを引き、評判をし給ふ。其道理、こまやかにして、事實に、もるゝ事なし。いまだ百にも滿たざれども、夜も更(ふけ)ければ、「又の夜」といひて、止みぬ。やつがれも其座につらなりて、聞覺(ききおぼ)へし事を書きつけつ。頃日(このごろ)、反古堆(ほごたい)の中(うち)より取り出(いだ)して、かいやり捨(す)つべかりしを、先生の辯論(べんろん)なれば、人の求(もとめ)に隨ひて、梓(あづさ)にちりばめ侍る。もし、理(ことわり)のそむけるあらば、やつがれが記(しる)しあやまれるにて、先生のつみにあらず。見る人ゆるし給へ、といふ。貞享とらの年二月中旬序す。

[やぶちゃん注:「而慍齋」(じうんさい)の号は「論語」の「學而第一」の「人不知而不慍、不亦君子乎」(人、知らずして慍(うら)みず、亦、君子ならずや)に基づくものであろう。

「古往今來」昔から今に至るまでの時間軸の総て。

「會通」本来は仏教用語で、教説の中の種々相違する異説について、表面上の矛盾を払い去り、深いとこのろある核心の主旨を明らかにし、総てに共通した正法(しょうぼう)の趣意を見出すことを指すが、ここは広く、あらゆる事象の普遍的真理に通暁(つうぎょう)していることを言っている。

「唐(から)」「叢書江戸文庫」版のルビを採用した。

「やつがれ」漢字表記では「僕」。一人称人代名詞。自分を遜(へりくだ)って称する語。「奴(やつこ)吾(あれ)」の音変化と言われる。古くは清音「やつかれ」。上代・中古には男女ともに用いたが、近世以降は男性がやや改まった場で用いるに限られた。

「聞覺(ききおぼ)へし」ママ。「おぼへ」は歴史的仮名遣は「おぼえ」が正しい。

「反古堆(ほごたい)」底本は「古反堆」であるが、一般的な「ほご」(書き損じの古紙)「反古」であり、「叢書江戸文庫」版もそうなっているので、ここは訂した。「堆」は堆(うずたか)く積もったものの意。

「かいやり」「搔い遣り」(「搔き遣る」のイ音便)。払い除(の)けて。押し遣って。

「梓(あづさ)にちりばめ」「梓に鏤め」。「梓に鏤む」は「版木(はんぎ)に刻む」ことから、「板行する・出版する・上梓 (じょうし)する」の意。中国で古くは梓の木(但し、中国の「梓」はシソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属トウキササゲ Catalpa bungei を指し、本邦で多様に認識されている「梓」とは異なる樹種と考えた方がよい)を版木に用いたことに由来する。

「理(ことわり)」「叢書江戸文庫」版は『り』であるが、どうも師の意見の中の「真理」部分を音「リ」と読むのには、私には抵抗がある。

「貞享とらの年二月中旬」貞享三年丙寅(ひのえとら)。グレゴリオ暦一六八六年三月上旬。

 以下、目録。なお、底本では各章の「第○」の後に読点があるが、これは私には五月蠅く感じられるので除去した。これは各本文章標題でも同じ処理を施したまた、各章は一字下げであるが、ブラウザの不具合を考えて無視した。巻の間には空隙がないが、一行空けた。「幷」は「ならびに」、「附」は「つけたり」と読む。]

 

目錄

卷之一

第一 越後新潟にかまいたち有(ある)事

第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首(ろくろくび)を見給ふ事

第三 鬼といふに樣々の說ある事

第四 西の岡の釣甁(つるべ)おろし陰火・陽火の事

第五 空谷響(こだま)彰彭侯(ほうこう)と云ふ獸狄仁傑(てきじんけつ)の事

第六 見こし入道和泉屋介太郞(すけたらう)事

第七 犬神四國にある事

第八 神鳴雷斧・雷墨の事 

 

卷之二

第一 狐の沙汰百丈禪師の事

第二 狸の事明(みん)の鄒智(すうち)齊齋藤助康手柄の事

第三 有馬山(ありまやま)地獄谷・座頭谷の事

第四 箱根の地獄富士の山三尊來迎(らいがう)の事

第五 產婦(うぶめ)幽靈の事

第六 垢(あか)ねぶりの事

第七 雪隱(せつゐん)の化物唐の李赤(りせき)が事

[やぶちゃん注:「せつゐん」は「叢書江戸文庫」の当該本文のそれが総てかくルビするのに従った。]

 

卷之三

第一 參州賀茂郡(かもごほり)長興寺門前の松童子に化(ばけ)し事

第二 道陸神(だうろくじん)の發明の事

第三 天狗の沙汰淺間嶽(あさまがだけ)求聞持(ぐもんじ)の事

第四 錢神(ぜにがみ)の事省陌(せいはく)の事

第五 貧乏神韓退之(かんたいし)送窮文(そうきうのぶん)苑文正公(はんぶんせいこう)の事

第六 山姥(やまうば)の事一休の物語狂歌の事

第七 比叡山(ひえのやま)中堂(ちうだう)油盜人(あぶらぬすびと)と云ふ化物(ばけもの)靑鷺(あをさぎ)の事

第八 「徒然草」猫またよやの事觀敎(くわんげう)法印の事 

 

卷之四

第一 攝州稻野(いなの)小篠(おざさ)吳隱之(ごゐんし)が事

第二 河太郞(がはたらう)丁初(ていしよ)が物語の事

第三 野衾(のぶすま)の事

第四 梟(ふくろ)の事賈誼(かぎ)が鵩鳥(ふくてう)の賦(ふ)の事

第五 鵼(ぬえ)の事弓に聖人の遣法のこる事

第六 鬼門の事周の武王往亡日(はうもうにち)に首途(かどで)の事

第七 雪女の事雪の說

第八 西寺町(にしでらまち)に墓の燃(もえ)し事

第九 舟幽靈丹波の姥(うば)が火津の國仁光坊(にんくはばう)が事

第十 雨師(うし)風伯(ふうはく)殷の湯王・唐の太宗の事

第十一 黃石公(くはうせきこう)の事 

 

卷之五

第一 痘(いも)の神・疫病の神「※1※2乙(きんじゆおつ)」の字(じ)の事

[やぶちゃん注:「※1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「※2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」。]

第二  蜘蛛の沙汰王守乙(わうしゆいつ)が事

第三  殺生の論伏羲(ふつき)・神農・梁(りやうの)武帝の事

第四  龍宮城山の神張橫渠(ちやうわうきよ)の事

第五  仙術幻術の事

第六  夢物がたりの事

第七  而慍齋化物の物語の事

第八  而慍齋の事此草紙の外題の事 

 

百物語評判卷之一

 第一 越後新潟にかまいたち有事

一人の云(いは)く、「某(それがし)召しつかひ候者の中に越後者ありしが、高股(たかもも)に、よほどなる疵あとみえ候ふ故、『いかなる事にか逃疵(にげきず)おひたる』と覺束なくおもひて、樣子を尋ねけるに、彼の者、申すやう、『生國又は秋田・信濃などにも多く御座候ふ「かまいたち」と申す物にきられ候ふ疵なり』と申(まうす)。あやしみ思ひて委(くはし)くたづねしに、『たとはゞ、所の者・旅の者にかぎらず、遠近(をちこち)を經(へ)めぐりし折(をり)から、俄に、たかもゝ・こぶらなどに、かまもてきれるやうにしたたかなる疵出で來(き)、口ひらけども、血、ながれず、其儘、きえ入り、臥(ふ)しける時、其事に馴れたる藥師(くすし)を求(もとめ)て、藥つけぬれば、程なく、いえ侍る。命に、さゝはり、なし。某も新潟より高田へまいり候ふ時、此「かまいたち」にあひ申したる疵にて候。さして珍らかなるにも候はず。されども都がたの人、または、名字(みやうじ)なる侍(さぶらひ)には、此災ひ、なく候ふ』と語りしが、誠に侍るやらん」と問ひければ、先生、評していはく、「凡そ天地のいきおひ、南は『陽』にてあたゝかなれば、物を長じ、北は『陰』にてさむければ、物をそぐ。是れ、常の理(ことわり)なり。されば、其(それ)、越後・信濃は北國の果(はて)なれば、肅殺(しゆくさつ)の氣、あつまり、風、はげしく、氣、冷(すさま)じきをかりて、山谷(さんこく)の鬼魅(きみ)などのなすわざなるべし。されども、都方(みやこがた)の人、または、名字ある侍に此疵あふたる者なきは、邪氣の正氣(しやうき)にかたざる理(ことわり)なるべし」と評せられき。

[やぶちゃん注:「高股」腿(もも)の上部。傷は恐らく、太腿の側面から後ろ側にくっきりとある。次注参照。

「逃疵」襲われて、その敵に背を向けて逃げた際、背部・後部に受けた創傷を指す語である。

「かまいたち」私の囊 之七 旋風怪の事柴田宵曲 續妖異博物館 「鎌鼬」「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」を参照されたい。私の体験を含め、詳述注をしてある。

「たとはゞ」「例はば」。例を申し上げるとなら。

「こぶら」腓(こむら)。脛(すね)の後ろ側の柔らかい部分。脹脛(ふくらはぎ)。

「きえ入り」出血は起こらないものの、意想外に大きくぱっくと空いた傷跡なので、ショックで貧血を起こしたりして、意識を失せかけてしまうのを指すのであろう。

「さゝはり」「障(ささは)り」。害。ここは予後の悪さの意。

「名字なる侍」「名字」には、同一の氏(うじ)から分かれ出て、その住む地名などに因んで付けた名。源氏から出た新田・足利 、平氏から出た千葉・梶原等の類いを限定する意味があり、ここはまさに武士として古来より由緒ある後裔の御侍方の意。

「肅殺の氣」原典・「叢書江戸文庫」版では『しくさつ』とルビするが、正規の歴史的仮名遣で示した。「秋の気が草木を枯らすこと」を意味し、生物の心身に厳しい気の意。

「鬼魅」すだま。精霊。魑魅魍魎。]

2018/10/03

5-21 又林氏の說幷川村壽庵の事 / 5-22 壽庵が事蹟 / 5-23 又、芙岳を好む事

 

5-21 又林氏の說川村壽庵の事

後日に風と前條の事を林公鑑に語しかば、公鑑は、從來大玉川と配稱すること、後世拙俗の所爲にして、采錄に足らず。高野大師の歌は假托にて、其時世の語言風格に非ずと云へり。又是に付おかしき噺ありとて、公鑑の云しは、河村壽菴【南部産】と云し町醫師、風雅人にて、其人名山を好んで諸國を登涉せり。一年高野山に登りしとき、嚮導者毒水玉川を指點して、側へよらば毒に觸べし。遠く避けて通行すべしなど恐嚇して云けるを、耳聞ざる如くして水岸に立、やがて無人として水中へ私しければ、嚮導者あきれはてゝ一言も無しとなり。

■やぶちゃんの呟き

前の「浴恩侯、高野玉川の歌の解」を受けていたのをうっかり見逃していた。以下二条もこの「21」と連関するので、纏めて掲げることとした。

「林氏」「林公鑑」既出既注の林述斎のこと。

「川村壽庵」(?~文化一二(一八一五)年)は江戸後期の医師。本条々の紹介によって奇行で知られた。ウィキの「川村寿庵」によれば、『南部藩出身。医学の修行のため』、『江戸に登り』、安永四(一七七五)年に『江戸の町医者・川村快庵の跡目を相続する。その後は町医者として医業に精だし、弟子も取る一方で、安藤昌益や林述斎らとも交流したと言われる』が、『寿庵の生涯については現在も不明な点が多い』。以下は本条々の現代語訳であるが、これ幸い(以下で注を大幅にカット出来るので)なれば、そのまま引いておく。『往診は自宅から数里四方内と限り、かつ調剤は巳の刻を限りとし、時刻を過ぎれば』、『好きな笛を持って同好の士を訪ねて合奏を楽しみ、帰宅を忘れるのが常であった。清水公(徳川重好』(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年:第九代将軍徳川家重の次男で徳川御三卿の一つである清水徳川家の初代当主)『と見られる)が重病になり、寿庵を知る家臣が寿庵を推挙し、使者を遣って招いたが、往診に距離に限りがあると』、三度、『招かれても応じなかった。推挙した家臣は困惑し、自ら寿庵を訪ねてようやく往診を承諾させた。しかも往診の際には垢衣を』纏って『薬籠を肩にした老貧医姿で、周囲を愕然とさせたという』とある。

「風と」「ふと」。

「嚮導者」「きやうだうしや(きょうどうしゃ)」先達。案内人。

「指點」「してん」。指差して。

「觸べし」「ふるべし」。

「恐嚇」「きようかく」。脅かし嚇(おど)すこと。

「聞ざる」「きかざる」。

「無人」「ひとなし」。

「私しければ」勝手に入り込んでしまったので。 

 

5-22 壽庵が事蹟

次でに公鑑の咄ありき。壽菴は奇男子と云べきものなり。石町邊に住し、我居處の四方、凡幾町と云定界を立て、その中の療治計して、その餘へは延致すれども往ず。分て懇交の人は、たまたまその外に刀圭執る事もあり。因てはいかなる王侯貴人より邀へても、峻拒して應ぜず。每日早旦より巳牌までに醫業畢るやうにして、鐘聲巳刻を報ずれば、笛を腰にして、出て管絃會集の許に行き、合奏して日を終ふ。性最樂を嗜み、樂器を貯ふること若干。名物と稱するものまで儲へぬ。又暇あれば書を看る。藏書も亦滿ㇾ庫。天明飢荒の時、鄕里の親緣故舊、殆ど餓死せんと告來る。卽時に庫を開き、數萬卷の書を一時售て金に換へ、脚力を馳て救ふ。これが爲に全活するもの數十人。後に人嗤て、足下は信を人に取ること久し。もし金借んと云はゞ、數百金も立處に集るべし。何の珍篇奇籍を售ことやあらんと云ければ、壽菴答て云。人の物を借りて救ふを誠意と云んや。我が物を以て救はざれば、我誠意を達するに非ずと。嗤し者愧服せり。壽菴常に頗る富めり。然るに綿入のときも帷子のときも、年々一二新調して餘贏あることなし。起臥内外同じ服を着す。時服過る比、其まゝ弟子奴僕に與へて、翌年に越るものなし。ある夏、淸水殿【浚德院殿】御大病の時、侍臣の中舊友ありて、頻に壽菴を推薦し、彼藩より召れける。例の事なれば、固辭して出ず。使价數囘に及ベども、遂に參らず。家司始悉その侍臣を責ること急なり。侍臣自ら壽菴が許に來り、もし藩命を奉ぜずんば、某罪を得て逭るべからず。故舊の情を以て某を救へと歎く。壽菴やむことを得ず、藩命を奉じ行く。藩にては名醫來れりとて、諸有司皆出て待つ。壽菴は一僕に藥籠を擔はせ、己は三伏晝夜を通して汗染はてたる帷子にて步み至れるを、人々覩て驚かざるものは無りしとなり。是を以て其氣槪を見るべし。公鑑年少のとき管絃の交際にて、今亡友の中にても指を屈する列なりとの物語なりけり。

■やぶちゃんの呟き

「石町」「こくちやう」で、現在の東京都中央区日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう)の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「凡」「およそ」。

「幾町」一町は百九メートル。彼の定めた町数は知らないが十町を越えるとは思われない。十町を越えると、江戸城内に達してしまうからである。

「定界」「じやうかい」。

「計」「ばかり」。

「延致」その限界の外へと引き延ばして来診を依頼すること。

「往ず」「ゆかず」。

「分て」「わけて」。

「刀圭」「たうけい(とうけい)」原義は「薬を調合する匙」で、転じて医術・診断・施療のこと。

「邀へても」「むかへても」。迎えても。

「巳牌」底本東洋文庫『みのこく』とルビする。午前十時頃。

「畢る」「をはる」。

「性最」「せい、もつとも」。

「儲へぬ」「たくはへぬ」。

「滿ㇾ庫」「くらにみつ」。

「天明飢荒」天明の大飢饉。江戸中期の天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年にかけて発生した飢饉で、本邦近世では最大の飢饉とされる。ウィキの「天明の大飢饉」によれば、『東北地方は』先立つ一七七〇年代(明和・安永)から『悪天候や冷害により』、『農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中』、天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日)には岩木山が、七月六日(八月三日)には『浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった』。天明二(一七八二)年から三年に『かけての冬には』、『異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により』、『地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約』三十『年前の宝暦年間』に『凶作があったときの天気と酷似していた』という。『被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約』二『万人)が餓死したと杉田玄白は』記して『いるが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている』。『しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が』十『数万人に達したとも伝えられており』、『逃散した者も含めると』、『藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には』一七八〇年から一七八六年の十六年間で実に九十二『万人余りの人口減を招いたとされる』とある。

「鄕里の親緣故舊、殆ど餓死せんと告來る」前条で示した通り、川村は南部藩出身である。

「售て」「うりて」。

「馳て」「はせて」。

「嗤て」「わらひて」。

「金借ん」「かねかりん」。

「愧服」「きふく」。恥じて従うこと。

「餘贏」「よえい」。余り。残余。剰余。「贏余」とも言う。

「時服過る比」「じふく、すぎるころ」。合わせた服の季節が過ぎる頃には。

「ある夏、淸水殿【浚德院殿】御大病の時……」以下は前条の引用を参照。なお、調べてみると、徳川重好の墓碑銘の諡号は「德院殿」である。因みに家重の長男の第十代将軍徳川家治の諡号は「明院」であるから、静山はそこを混同した可能性が大きい。

「中」「うち」。

「彼藩」「かのはん」であるが、清水家は御三卿だから今一つピンとこない気もするが、そもそも「藩」と言う語は江戸時代には一万石以上の領地を与えられた大名の支配する領域とその支配機構を指したものの、「藩」の名は幕府による公称ではなく、江戸中期頃に漢学者儒学者が周の封建制度に擬えて大名を「藩屏(はんぺい)」と称したことに由来し、実は公称とされたのは明治になってからであるから、この違和感も時代劇の見過ぎとも言える。

「使价」「しかい」。招聘伺いの使者。

「始悉」「はじめ、ことごとく」。

「責る」「せむる」。

「某罪を得て逭るべからず」「それがし、罪を得て、逭(のが)るべからず」。

「三伏」「さんぷく」。「初伏」(しょふく:夏至(げし)後の三度目の庚(かのえ)の日)・「中伏」(ちゅうふく:四度目の庚の日)・末伏(まつぷく:立秋後初めての庚の日)の総称。最も暑い時期を指す語。

「汗染はてたる」「あせじみ果てたる」。

「覩て」「みて」。

「無りし」「なかりし」。 

 

5-23 又、芙岳を好む事

壽菴は殊に芙岳を好み、幾度か登れり。居宅の樓上に架を作り、名は火見と稱し、實は眺岳の爲に設く。朝起れば、先づ架に上りて岳を看、それより日用の事に就く。生厓かはることなし。晚年本所に退居して人を避け、名山圖を刻行す。畫は文晁にかゝしめしが、山形はみづからの指點なりとぞ。岳に登るときは必魚味を携へ、窟室中にて用ゆ。道家叱すれども肯ぜず。岳巓は人の高聲禁ずると云に、いつも石に踞して笛を弄し、數曲を闋て山を下る。先達と呼ものも、如何ともすること能はざりしとなん。

■やぶちゃんの呟き

「芙岳」「ふがく」で「富岳」、富士山のこと。

「架」掛け渡した物見の木製の高台

「火見」「ひのみ」。底本のルビ。

「起れば」「おくれば」。

「生厓」「生涯」に同じい。

「文晁」江戸後期の奥絵師谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)。江戸下谷根岸の生まれ。狩野派・土佐派・南宗画・北宗画・西洋画などの手法を採り入れ、独自の画風を創出、江戸文人画壇の重鎮となった。田安徳川家に仕え、松平定信編「集古十種」の挿絵も描いている。渡辺崋山ら門人も多い。

「山形」「さんけい」でも「さんぎやう(さんぎょう)」でもよいが、私は「やまなり」と読みたい。

「指點なり」指図で描かせた。

「必」「かならず」。

「魚味」腥(なまぐ)さ物の魚類。

「窟室」岩室(いわむろ)。

「道家」「だうけ(どうけ)」。これは後に出る「先達」(せんだつ)で、山案内をする修験「道」の山伏の形(なり)をした者と私は採る。なまぐさものを山中で食することは一般に禁忌とされる。

「肯ぜず」「がへんぜず」。

「岳巓」「がくてん」。山頂。

「高聲」「こうせい」。

「云に」「いふに」。

「踞して」「きよして」或いは「こして」。しゃがんで。

「闋て」「をはりて」。話・音曲などの一つの区切りや話の纏まりを「ひとくさり」と言うが、あれは実は「一闋」と書く。ここは一曲を「演奏し終えて」の意。

譚海 卷之三 大嘗會

 

大嘗會

○大嘗會(だいじやうゑ)前後三十日、禁中神事有(あり)、每夜曉に徹して事終る、宮中燈盞(とうせん)を點ずる事數百千にして、みな土器(かはらけ)に盛る也。殿々(とのもとのも)燈(ともし)なき所なし、翠簾(すいれん)重々(ぢゆうぢゆう)透(とほ)り照して、閃閃(せんせん)として羣螢(くんけい)の如し。白河吉田の兩神祇官、宮掖(きゆうえき)深處に在(あり)て神樂歌(かぐらうた)をうたふ。蕭然淸幽言語同斷なる事也とぞ。天子每朝寅の時高みくらに御(ぎよ)す、御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也、みじろかせ給ふ時に、玉體(ぎよくたい)暗(あん)に簾外にすきておがまれさせ給ふ。堂上の雜掌諸司番々に警固をつとめ、赤墀(せきち)の下に圓座をもふけて[やぶちゃん注:ママ。]其上に候す。假寐(かりね)すれば人長(ひとをさ)來り杖にてゆりおこす、夜明(よあけ)て膝のうへを見れば、かきあはせたる素袍(すはう)の袖に霜の痕(あと)鮮(あざやか)に有。南庭よりみゆる山上の寺々は、いづれもむしろこもにて蔽隱(おほひかく)す。大嘗會中鐘磬(しようけい)の聲を禁遏(きんあつ)せらるゝ也、公卿皆唐服を着せらるゝ也。

[やぶちゃん注:「大嘗會」大嘗祭(だいじょうさい)に同じ。天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭(にいなめさい)。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じた。新嘗祭は毎年十一月に天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ自らも食す神人共食の祭儀で、当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であったが、後に即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭儀として大規模に執り行うようになり、律令ではこれを「践祚(せんそ)大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(新嘗祭)と区別した。大嘗会は大嘗の節会(せちえ)で、嘗ては大嘗祭の後に三日間に亙る群臣を集めた饗宴を伴う節会が行われていたことに由来する。以上は主にウィキの「大嘗會を参考にした。

「燈盞」灯油を入れて火を灯す小皿。

「白河吉田」花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家白川伯王家と、卜部氏の流れを汲む公家吉田家。ウィキの「白川伯王によれば、室町時代に、代々、『神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏の吉田兼倶が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。江戸時代に白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗するも、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いた』とある。

「宮掖」宮殿の脇の殿舎。皇妃・宮女のいる後宮。

「寅の時」午前四時頃。

「高みくら」「高御座」。天皇位を象徴する玉座で即位礼に於いて用いられるもの。ウィキの「高御座によれば、『平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された』とある。

「御座(みくら)は黑塗の八角の牀(とこ)也」同じくウィキの「高御座によれば、『高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり』、『大陸文化の影響、と考える人がいるが』、「延喜式」巻第十六内匠寮に、『高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され』、『二種類の敷物を重ねる平敷であり』、『椅子ではない。伊勢奉幣の』際『の子安殿の御座や』、『清涼殿神事の』際『の天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する』とある。

「赤墀(せきち)」「丹墀(たんち)」と言う語があり、これは「宮殿の階上の庭・天子の宮殿」の意であるから、それであろう。ここは吹き曝しであることが以下の描写から判る。

「人長」それら「雜掌諸司」「人」の「長」(頭(かしら))の意であろう。

「素袍」直垂ひたたれ) の一種。裏を付けない布製で、菊綴 (きくとじ) や胸ひもに革を用いる。

「鐘磬」梵鐘と磬(けい)。磬は法要の際の読経の合図に鳴らす仏具で、板状の鋳銅製のぶら下がったものを鉢で打ち鳴らす。

「禁遏(きんあつ)」禁じて停止させること。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)

 

 島原の虐殺を以て、ポルトガルとスペインの布敎に關する實際の歷史は終りを告げて居る。この事件の後に、キリスト敎は、徐に[やぶちゃん注:「おもむろに」。]着々と、又執念深く踏み潰されてしまつて、目に觸れる限りは存在を失つてしまつた。キリスト敎の容認され、若しくは半ば容認されて居たのは、僅に六十五年間であつた、その傳播と崩壞との全歷史は、前後殆ど九十年に亙つて居る。殆どあらゆる階級の人々、卽ち王侯から貧民に至るまで、その爲めに苦難を受けた、何千といふ人々がその爲めに拷問を受けた――その拷問の恐ろしさは、多數の人々を無益な殉敎に送つたかのジエジユイト敎徒等中の三人までもが、苦痛にたえずその信仰を否認せざるを得なくなつた程甚だしいものであつた[やぶちゃん注:ここに在るべき【註】記号が底本には落ちている。註はある。]――又やさしい婦人達には、火刑を宣告されて、少し何とか言葉を用ひたならば、自分の子と共に救はれたであらうに、さういふ言葉を發するよりも、むしろその幼な兒を抱いて火中に投じたのもあつた。しかも數千の人々がその爲めに無益に死んだこの宗敎は、害惡以外何物を日本に齎しはしなかつた、擾亂、迫害、叛亂、政治上の難局、及び戰爭等を起こしたのみである。社會の保護と保持とのために、言語に盡くせざる程の代價を拂つて發展さした人民の美德、――彼等の克己、彼等の信仰、彼等の忠誠、彼等の不橈[やぶちゃん注:「ふたう(ふとう)」。如何なる困難に遇っても屈しないこと(「撓」は「たわむ・ひるむ」の意)。不撓不屈。]の精神と勇氣、――さへもこの暗い信條によつて亂され、方向をあやまられ、その社會を破壞する爲めに用ふる力にしてしまつた。若しその破壞がなし遂げられ得たならば、そして新ロオマ舊敎の帝國といふやうなものが、その廢墟の上に建立されたならば、その帝國の力は、僧侶の暴政、審問制度の擴大、良心の自由と人類の進步とに反對する永久なるジエジユイト派の戰亂といふものを、益〻擴張するために使用されたであらう。吾々はこの無慈悲な信仰の犧牲者を憐んで、彼等の役に立たない勇氣を當然賞讃して然るべきであらう、しかも誰れが彼等の主義の、失敗に歸した事を遺憾に思ひ得るであらうか……宗敎的偏執以外の別な立脚地から見、單にその結果によつで判斷すれば、日本をキリスト敎化しようとしたジエジユイト派の努力は、人道に反する罪惡、蹂躙の勞働、只だ地震、海嘯、火山の爆發等に、――それが惹き起こした不幸と破壞の理由から、――のみ比較し得べき災難であると考へざるを得ない。

註 フランシスコ・カツソラ、ペドロ・マルクエツ、ジウーゼツペ・キアラの三人。その中二人は――多分の下にであらう――日本の婦人と結婚した。彼等の後の物語に就いては、日本亞細亞協會記事“Transactions of the Asiatic Society of Japan”のサトウ氏の一文を見よ。

[やぶちゃん注:原文のそれぞれの宣教師の名は、Francisco CassolaPedro MarquezGiuseppe Chiara である。イタリア人会士フランチェスコ・カッソラ(Francesco Cassola 一六〇八年~寛永二〇(一六四三)年或いは翌年)であるが、阿久根晋次氏の論文「ポルトガル人イエズス会士アントニオ・カルディンの修史活動『栄光の日本管区におけるイエズス会の闘い』の成立・構成・内容をめぐってPDF)に、次の管区長ペドロ・マルケスとともに、『江戸の井上政重の屋敷において存命中で、そこに女性が司祭のために奉仕しているとの情報が示され』てあるという記載がある以外は私には不明。二番目のペドロ・マルケス(一五七五年~明暦三(一六五七)年)はポルトガルの宣教師(イエズス会司祭・日本管区長)。慶長一四(一六〇九)年に長崎に着くも、五年後の慶長十九年にマカオに追放される。寛永二〇(一六四三)年に日本に再潜入を試み、捕らえられ、下総高岡藩主で宗門改役井上政重の尋問をうけて,「南蠻伴天連念佛ヲ申シ、コロビ候義實正ナリ」との誓詞を差し出して棄教した。江戸で八十二歳で病死した。最後のジュゼッペ・キアラ(一六〇二年~貞享二(一六八五)年)はイタリア出身のイエズス会宣教師で、禁教令下の日本に潜入したが、寛永二〇(一六四三)年五月、筑前国で捕らえられ、拷問の責め苦に耐えかねての強制改宗によって信仰を捨て、「岡本三右衛門(おかもとさんえもん)」という日本名を名乗って生きた。遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったことでも知られる。因みに、弟の宣教師(イエズス会司祭)フランシスコ・マルケス(Francisco Marques 一六〇八年~寛永二〇(一六四三)年)は、途中まで兄と行動をともにしたが、寛永十九年に薩摩下甑島に到着するも捕らえられ、長崎で穴吊るしの刑の後、寛永二十年二月六日、三十六歳で斬首されて殉教している。不審なのは、遠藤周作の「沈黙」の今一人のモデルとして知られ、また長与善郎の「青銅の基督」にも登場する、ポルトガルのカトリック宣教師(イエズス会士)であったが、拷問によって棄教し、「沢野忠庵(さわのちゅうあん:「忠安」とも)を名乗り、日本人妻を娶って、他の「転びバテレン」とともにキリシタン弾圧に協力したクリストヴァン・フェレイラ(Cristóvão Ferreira 一五八〇年~慶安三(一六五〇)年)が挙げられていないことである。]

 孤立政策――日本を世界の他の國々から鎖ざしてしまふ政策――秀忠に依つて採用され[やぶちゃん注:元和二(一六一六)年に秀忠が明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する鎖国政策の布石的処置を断行したことを指すようである。正式な「鎖国令」は次の家光の代になって複数回発布されて完遂されることになる。]、その後繼者達によつて維持された處のそれは、宗敎的陰謀が鼓吹した恐怖の念を充分に示すものである。オランダの商人を除いて、すべての外國人等がこの國から追放されたばかでなく、ポルトガル人やスペイン人との混血兒も亦すべて追放され、日本の家族は彼等を養子にするとか、隱すとかを禁じられ、これを犯した家族は、その一族悉〻く[やぶちゃん注:ママ。]處罰される事になつた。一六三六年に、二百八十七人の混血兒が、マカオに向けて送り出された[やぶちゃん注:寛永一三(一六三六)年に家光が出した「第四次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)二百八十七名をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移した。]。混血兒の通譯として働くその能力が特に恐れられたのも尤もな事である、然しこの布令の發せられた當時、人種的憎惡の念が、宗敎的敵愾心によつて甚だしく起こされたといふのも殆ど疑ふことは出來ない。【註】島原の挿話があつてから後、すべての西歐の外人は、例外なく、明らかに疑惑の念を以て見られたのであつた。ポルトガルとスペインの商人達は、オランダ人と入れ代つた(イギリスの商館は數年前に既に閉鎖されて居たので[やぶちゃん注:イギリスが業績不振のために平戸商館を閉鎖したのは元和九(一六二三)年。])併しオランダ人の場合でも非常な警戒は加へられた。彼等はその平に於ける形勝の地を棄てて、その商館を出島に移すやうにひられた、――出島とは僅長さ六百尺、幅、二百四十尺の小さな島である[やぶちゃん注:原文はフィート表記であるのを換算してある。「六百尺」は百八十一メートル、「二百四十尺」は七十三メートル弱。実際の大きさは南側が二百三十三、北側百九十、東側と西側が七十メートルで、約百三十一ア-ル。寛永一三(一六三六)年に完成した。参照した「兵庫大学大学院 連合学校教育学研究科 關浩和研究室内」の「出島とは?」によれば、『小学校の運動場のおよそ』二『倍ぐらい』とある。]。其處で彼等は、囚人のやうに絕えず監視されてゐた。彼等は人民の間に出てゆくことを許されなかつた。又如何なる人と雖も、許可なくして彼等を訪れることは出來ず、又如何な婦人も、醜業婦[やぶちゃん注:「しうげふふ(しゅうぎょうふ)」。売春婦。]は別として、如何なる事情があつても、彼等の保留地へ入ることは許されなかつた。併し彼等はこの國の貿易を獨占して居た。そしてオランダ人の根氣さは、二百有餘年の間、利得のために、これ等の狀態を堪へ忍んだのであつた。オランダ商館と支那人とによつて維持された以外、諸外國との通商は、全然禁止された。如何なる日本人でも、日本を去ることは斬罪であつた、又祕に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]うまくこの國を拔け去り得た人も、その歸國するや、死刑に處せられた。この法律の目的は、布敎上の訓練のために、ジエジユイト敎派によつて、海外に送られた日本人が、普通の人を裝つて、日本に歸つて來るのを防止するにあつた。長い航海をなし得る船を建造することも亦禁じられ、政府によつて定められた大きさを超える一切の船は、破壞された。展望臺が異國の商船を見張るために、沿岸に置かれた。そして日本の港に入らんとするヨオロツパの船は、如何なる船でも、オランダ商會の船を除けば、襲擊されて打ち壞されたのであつた。

註 併し支那の商人はオランダの商人より以上の自由をゆるされて居た。

 ポルトガル人の傳道によつて最初に得られた大成功に就いてはなほ考慮すべき處がある。日本の社會史に就いて、吾々は現在比較的無智なのであるから、キリスト敎徒の一と芝居の全部を了解する事は容易でない。ジエジユイト敎の傳道の記錄は澤山にある。併しそれと同時代の日本の年代記が、この傳道に就いて與へる知識は甚だ乏しい、――これは多分キリスト敎の問題に關する一切の書物のみならず、キリスト敎徒とか外國とかいふ語の入つてゐる書物は、みなこれを禁止する布告が、第十七世紀中に發布された爲めであらう。ジヱジユイト敎徒の本が說明して居ない事、そして若しさういふ事が許されるとしたならば、寧ろ吾々が日本の歷史家達に說明を期待して居る事は、祖先禮拜の土臺の上に建設され、外來の侵入に抵抗する巨大な能力を明らかにもつて居る。[やぶちゃん注:句点はママ。不要か読点でよい。]日本の社會が、どうしてジエジユイト敎派の勢力によつて、これほど急速に侵入され、更に一部分は瓦解されるに至つたのであらうかといふ事である。あらゆる疑問の中で、日本の證據によつて私が答へて貰ひたいと思ふ疑問は次のことである、曰く如何なる程度まで、傳道師達は祖先の祭紀を妨げたかといふ、その事である。これは重要な問題である。支那に於ては、ジエジユイト敎徒等は改宗の勸誘に抵抗する力が祖先禮拜にあることを早くも認めた。そして彼等は彼等の以前に佛敎徒も多分爲さざるを得なかつたやうに、機敏にもそれを默認することに努めた。若し法王權が彼等の方策に支持を與へたならば、ジエジユイト敎派は支那の歷史を一變し得たであらう。然るに他の宗敎團は猛烈にこの妥協に反對したので、その機會は逸してしまつた。其處で、どれ程まで祖先の祭禮拜が、日本に於けるポルトガルの傳道師等によつて默認されたかは、社會學上の硏究に取つて甚だ興味のある事である。勿論、最高の祭祀は、明白な理由からして、そのままにして置かれた。一家の祭祀が當時に於て、今日それが新敎とロオマ敎との傳道師によつて等しく攻擊されてゐると同じやうに、執念深く攻擊されたと想像するのは困難である、――例へば、改宗者達が、彼等の祖先の位牌を棄ててしまふとか、破壞するとかいふやうに、ひられたとは想像し難い。なほそれと共に一方に於て、ずつと貧困な改宗者達の多く――召使やその他の一般庶民――が一家の祖先祭祀を持つてゐたかどうかに就いて、吾々は今でも疑ひをもつて居る。無賴漢の階級はその中に多數の改宗者を出して居るが、それ等は勿論、この默に於て考慮の中に置く必要はない。この問題を公平に判斷せんとするならば、第十六世紀に於ける平民の宗敎的狀態に就いて知らなければならない事がまだ澤山にある。兎に角、如何なる方法が採られたにしろ、初期の傳道の成功は驚くべきものであつた。彼等の傳道の事業は、日本の社會組織の特殊な性質のために、頭から始める必要があつた。臣下はその領主の許可によつて、初めてその信條を變へることが出來たのである。處が最初からこの許可は自由に與へられたのであつた。或る場合には人民が新宗敎を採ることは、彼等の自由であると、公然告知を受けた事もあつた。又或る場合には、改宗した領主が新宗敎を採るやうに人民に命令を下した事もある。或はこの外國の宗敎は最初佛敎の新しい種類だと考へ違ひされたらしくもある。そして一五五二年に、ポルトガルの布敎團に與へた今日まで殘つて居る山口に於ける公の許可の中で、彼等は『佛の法』を――佛方紹隆[やぶちゃん注:「せうりゆう(しょうりゅう)」或いは「じやうりう(じょうりゅう)」。先人の事業を受け繼ぎ、更に盛んにすること。]の爲め――說敎しても宜しいといふ許可が(その許可には大道寺といふ一宇の寺をもそのうちに入れてあつたやうに見えるが)異國人達に向つてなされたといふことを、日本の文字が明らかに述べてゐる。原文はサアーアアネスト・サトウによつて次のやうに飜譯されてゐて、氏はそれをそのまま復寫にして出して居る、――Saikyojyou

[やぶちゃん注:以上の画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの、画像をトリミングと補正を加えて使用した。これは訳者戸川明三が独自に挿入したもので原典にはない。以下、活字に起し、後に私の推定訓読(読みを追加)を示す。

   *

 

周防國(シユウ)吉敷郡(クニ)山口縣(アガタ)大道寺事

從西域來朝之僧佛法紹隆可創建彼寺家之由任請望之

㫖所令裁許之狀如

 天文廿一年八月廿八日

      周防介押字(大内義長ナリ)

 

   *

 

周防國(すはうのしゆう)吉敷郡(よしきのくに)山口県(やまぐちのあがた)大道寺(だいだうじ)の事

西域(さいいき)より來朝の僧、佛法紹隆の爲(た)め、彼(かれ)の寺家(じけ)を創建すべきの由、請望(せいばう)の㫖(むね)[やぶちゃん注:「旨」に同じい。]に任(まか)せ、裁許せしむる所の狀、件(くだん)のごとし。

 天文廿一年八月廿八日

      周防介(すはうのすけ)押字[やぶちゃん注:花押。](大内義長ナリ)

 

   *

個人ブログくすのき日記2の「景教碑ゴルドン夫人と山口ザビエルの大道寺によれば、この戦国大名大内義長(天文元(一五三二)年?~弘治三(一五五七)年、:天文二一(一五五二)年三月三日に大内家当主となった。但し、この時はまだ大内晴英で、天文二二(一五五三)年の春に室町幕府十三代将軍足利義藤(よしふじ:後の義輝)から偏諱を受け、「義長」と改名した)から裁許状を得た「西域より來朝の僧」とは、かのフランシスコ・デ・ザビエルFrancisco de Xavier Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年~一五五二年)の弟子でイエズス会宣教師のトルレスコスメ・デ・トーレスCosme de Torres 一五一〇年~元亀元(一五七〇)年:ザビエル離日後も日本布教長として山口・豊後で精力的に布教に当たり、大村純忠を始め、約三万人に洗礼を授けた。肥後天草の志岐で死去)のことである(後の最後の引用参照)。古川薫「ザビエルの謎」(平成六(一九四四)年文藝春秋刊)からとされて、『ザビエルは山口で布教していた』。『幕末から明治初年にかけて来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウが』、明治一一(一八七八)年にここで小泉八雲が述べているように、『亜細亜協会でおこなった「山口教会の変遷」と題する講演で』、『ザビエルの事績を紹介したことから、にわかに日本人の間での認識を深めた』。『大正時代の初め、ザビエル崇敬者のひとり英国のゴルドン男爵夫人が、金古曽町の一角を古地図にあてはめて大道寺跡と断定し、この土地を買収して記念碑の建立を計画した。その後、萩の天主教会のビリオン神父によって具体化され』、大正一四(一九二五)年に『完工した。今ではザビエル公園となり、十字架をかたどった高さ』八・七『メートルの御影石にザビエルの胸像がはめ込まれている』とある。また、そこにも引用されているが、山口市文化交流課サイト大内文化り」の「第11回 サビエル記念公園には、『フランシスコ・サビエル(一五〇六~一五五二)は天文十八年(一五四九)に、キリスト教を布教するために鹿児島に上陸、天文十九年(一五五〇)十一月、京都へ向かったが、戦乱で乱れていたため、天文二十年(一五五一)四月、政情の安定した山口に再び訪れ、大内義隆に布教の許しを願いでました。義隆は許可を与え、サビエルの住居に廃寺であった大道寺を与えました。ここを宿所として、サビエルは毎日街に出て布教に当たっていたといわれています』。『明治二十二年(一八八九)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡、特に大道寺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。現在の山口市湯田温泉に生まれ、文学史上に大きな足跡を残した近代詩人中原中也の祖父で、医師中原政熊もその一人でした』。『そして大正十五年(一九二六)十月十六日、高さ十メートルにも及ぶ花崗岩にサビエルの肖像をはめ込んだサビエル記念碑が建立されました』。『しかし、この碑のサビエル肖像の銅板は、第二次世界大戦中に供出されました。現在の肖像は、昭和二十四年(一九四九)サビエル来山四百年記念祭を期し、サビエル遺跡顕彰委員会より委嘱された彫刻家河内山賢祐氏により作成されたものです』とり、一番下にこの裁許状をはめ込んだ石碑があり、そのキャプションに、『「天文二十年(一五五一)九月サビエルは弟子トルレスらに後事を託し九州へ去りました。その後陶氏の乱が起こり大内義隆は討死しました。陶晴賢が大友義鎮の弟をむかえ大内義長と名のらせて大内家を継がせました』。『この碑は、大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にしてつくられたものです』とある。ザビエル記念公園(山口県山口市金古曽町。(グーグル・マップ・データ))と思われる。]

註 この文書のラテン及びポルトガルの飜譯に寧ろその僞造譯の中には、佛法を說くといふ事に就いては一言も云つてない、又日本の文書には少しも載つてゐない事が澤山附加されてゐる、サトウ氏のこの文書竝びにその僞譯に關する說明に就いては、日本亞細亞協會記事、第二部“Transaction of the Asiatic Society or Japan Vol. , Part を見よ。(譯者曰、八卷とあれど實は七卷なり) 

2018/10/02

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 石タイ (ニザダイ)

 

Isidai2


石ダイ

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングし、分断された前部と後部を画像ソフトで合成して用いた。これもはっきりとイシダイではなく、体形がカワハギ類(フグ目カワハギ科カワハギ属 Stephanolepis)に似てよく側扁していること、吻部が前方に有意に突き出していて口が小さいこと、尾鰭の前にある四つの三角形状の黒斑が決め手で、

スズキ目ニザダイ亜目ニザダイ科ニザダイ属ニザダイ Prionurus scalprum

と断定出来る。この特徴的な黒い紋は、四~五個認められ、魚類図鑑等では楕円形状とするが、実際には前方に尖ってかく見えることも多い。また、これはただの紋ではなく、堅い骨質板が突出しており、摑んだりすると、怪我をする場合もあるので、注意が必要。英名の「Sawtail」(鋸の尾)もこれに由来する(ここまではィキの「ニザダイを参考にしている)。また、「ぼうずコンニャク」の「市場魚貝類図鑑」の「ザダイサンジ)によれば、漢字表記は「仁座鯛」であるが、この『「にざ」の語源は〈にざ〉は〈にさあ〉と同義語。〈にいせ〉、〈にせ〉から転訛。「新背(にいせ)」「新しく大人の仲間入りできた若者のこと」。「にざだい」とは「青二才の鯛」もしくは「鯛仲間の端くれ」の意味。『新釈魚名考』(榮川省造 青銅企画出版)』とあり、「サンノジ」という異名は『関東の市場、伊豆七島、三重県尾鷲、和歌山県、徳島県阿南市椿泊』、『大分県中津市』と広域に見られ、『これは尾柄部にある硬い骨質板が』三『つ並んでいることからくる』とある。同ページにも記されてあるが、美味い魚であるが、個体によってはかなり磯臭いものがあることはかなり知られていることである。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 石タイ (イシダイ)

 

Isidi1

 

石タイ

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングし、分断された前部と後部を画像ソフトで合成して用いた。これも安心してはっきりと、

スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus の成年になったばかりの個体

と断定してよかろう。横縞が綺麗に残っており、口吻部が黒ずんでいないからである。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(60) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅴ)

 

 このアダムスの通信は、家康が宗敎と政治とに關する外國の事情に就いての、直接の知識を得るためには、如何なる方法をとる事も辭さなかつた事を證明してゐる。又日本國內の事情に關しては、凡そ古來の最も完全なる探偵制度[やぶちゃん注:原文は“system of espionage”。平井呈一氏訳は『隠密制度』。]を、彼は意の儘に用ふることが出來たのである。そして事實彼はその時あつた事はみな知つて居たのである。しかも彼はすでに述べた通り、彼の布告を發するまでに十四年を待つたのであつた。秀吉の布告は、事實、一六〇六年に彼によつて復活された。然しそれは特にキリスト敎の公の說教に關係した事であつた。そして傳道師等が外面上法律に服して居た限り、彼は自分の領地の內に、彼等をそのまま許して置いたのであつた。迫害は他所では行はれてゐたが、それと共に祕密な布敎も亦行はれてゐて、傳道師等は尙ほ希望をつなぐことが出來たのであつた。併し嵐の前の沈滯のやうに、空中には何となく脅威があつた。キアプテイン・サリスは一六一三年に日本から手紙を送つて、極めて暗示的な感傷的な一事件を記してゐる。彼は言つて居る。『私はやや上注の多くの婦人に、私の船室に入つてもよいといふ許を與へた。この室にはヴイナスが、その子息のキユウピツドをつれてゐる繪が、大きな額緣に嵌められて、幾分だらしない飾り方で懸かつてゐた。彼等は之をマリヤとその子であると思つて、ひれ伏し、非常な信仰を表はして、それを禮拜した。そして私に向つて囁くやうに(信徒でなかつた仲間の誰れ彼れに聞こえないやうに)自分達はキリスト敎徒であると云つた、之によつて吾々は彼等がポルトガルのジエジユイト派によつて改宗させられたキリスト敎徒であることを知つた』と……家康が初めて壓手段を採つた時には、それはジエジユイト派に對してではなく、もつと無法な或る敎團に向つて爲されたのであつた、――アダムスの通信で解つた處に依れば。彼は云つて居る『一六一二年に、フランシスカン派のあらゆる敎派が平定されてゐる。ジエジユイト派は特權を持つてゐる……長崎に居るので、この長崎だけが總ての宗派の意のままに任せられて居る處である、他の場所ではそれ程に許されては居ない……』と。ロオマ舊敎はこのフランシスカン派の事件の後、更に二年の恩典を與ヘられたのであつた。

[やぶちゃん注:「キアプテイン・サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年か一五八〇年~一六四三年)。ウィキの「ジョン・セーリス」によれば、一六一一年、『通商を求めるイングランド国王ジェームズ』Ⅰ『世の国書を持って』、『貿易船「クローブ号」を指揮して日本へ向けてロンドンを出港し』、一六一三年六月十一日(慶長十八年四月二十三日)に平戸に到着、『徳川家康より貿易を許可する朱印状を得て、平戸にイギリス商館を開設し、リチャード・コックスを商館長として残して帰国した』とあり、ウィキの「クローブ号」には、『船長のセーリスはコックスら』八『名を日本に残し、家康・秀忠からの贈り物と、日本滞在中に得た漆器や屏風といった多くの美術品などをクローブ号に載せ』、一六一三年十二月五日(慶長十八年十月二十四日)に『イギリスに向け出帆』、一六一四年九月に『イングランドのプリマスに到着、同年』十二『月にロンドンに帰港した』とある。]

 何故に家康がその遺訓及び他の個所でこの宗敎を『虛僞腐敗の宗敎』と呼んだかといふことは考へて見なければならない。極東の見地からすれば、公平な調査の後に、彼は殆どそれ以外の斷定を下すことは出來なかつた。この宗敎は日本の社會が依つて以て建立されて居たその基礎たるあらゆる信仰と傳統に根本的に反對して居たのである。日本の國家は一人の神たる王をその頭に戴く宗敎團體の集合であつた、――總てのこれ等の團體の慣習は宗敎的法律の力を持つて居り、倫理とは慣習に服從することであつた、又孝道は社會の秩序の基礎であつて、忠義の念それ自身が孝道から出たものであつた。然るにこの西歐の信條は、夫はその兩親を去つて、その妻に附隨すべしと敎へたのであつて、餘程よく見た處で、孝道を以て劣等な德であるとなしたのである。その宣言する處は、兩親、主人、統治者に對する義務は、その從順がロオマ敎の敎に反對する孝道とならない限りに於てのみ義務てあり、又從順の最高の義務は、京都に在す[やぶちゃん注:「います」。]天子なる主權者に對してではなく、ロオマにゐる法王に對してであるといふのであつた。神々と佛とはポルトガルとスペインから來たこれ等の傳道師達によつて惡魔と呼ばれたのではなかつたらうか。このやうな敎義は、如何に巧みに彼等の辯解者によつて說明されたとしても、確に國を攪亂するものであつた。その上に、社會上の力としての信條の價値なるものは、その成果から判斷されるべきものである。然るにヨオロツパに於けるこの信條は、擾亂、戰亂、迫害、殘酷なる蠻行等の絕えざる原因であつた。日本でも、この信條は大擾亂を釀し[やぶちゃん注:「かもし」。]、政治的陰謀を煽動し、殆ど量るべからざる災害を起した。將來政治上の面倒が生じた場合、その敎は、子は兩親に對して、妻は夫に對して、臣は領主に對して、領主は將軍に對して、從順ならざる事を以て、正當と認めるであらう。政府の最高の義務は今や社會的秩序を制して、平和と安全の狀態を維持する事であつた。實際この平和と安全の狀態がなければ、國家は長年來の爭鬪による疲弊から決して囘復する事は出來なかつたのである。然るにこの外來の宗敎が、秩序の土臺を攻擊し、これを顚覆する事に專心してゐる間は、平和は決してあり得なかつた……。家康が彼の有名な布告を發した時には、かくの如き確信が充分彼の心の中に出來てゐたに相違ない。彼がそれ程長く時を待つて居たといふのが、ただ不思議な位である。

 何事も中途半端にして置く事をしなかつた家康が、キリスト敎が有爲な日本人の指揮者を一人も持たなくなつてしまふまで待つてゐたといふ事は、恐らくさう有りさうな事である。一六一一年に彼は佐渡の島(囚徒の慟いて居る鑛山地)に於けるキリスト敎徒陰謀の報告をうけた。この島の支配者、大久保なるものは、誘はれてキリスト敎を信じ、且つこの計畫が成功すれば、日本の統治者になれる筈であつた。併しそれでも家康は時機を待つて居た。一六一四年に至つては、キリスト敎は最早希望を失つて、それを指揮する人として大久保をさへもなくした。第十六世紀に改宗した大名は、或は死し、或は領地を取り上げられ、或は配流された。キリスト敎徒の偉大な武將達は處刑されてしまつた。重きを置くに足るべき改宗者の内の殘つて居るものは、監視の下に置かれて、實際に手足を出し得なかつたのである。

[やぶちゃん注:「大久保」武田氏の遺臣から家康に抜擢され、慶長八(一六〇三)年七月に佐渡奉行に任ぜられた大久保長安(天文一四(一五四五)年~慶長一八(一六一三)年)のことであるが、ここで小泉八雲が述べているような「キリスト敎徒陰謀」や、大久保が「誘はれてキリスト敎を信じ、且つこの計畫が成功すれば、日本の統治者になれる筈」といったトンデモ話があった事実は、私は、知らない(私は佐渡好きで既に三度訪れている)。ウィキの「大久保長安」によれば、大久保は晩年、『家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免され』、『中風のために死去した』が(佐渡奉行は在任のままと思われる)、死後になって、『生前の不正蓄財が問われ、また』、『長安の子』が『蓄財の調査を拒否したため』、七『人の男児は全員』、『処刑された。また』、『縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった』事実はあるが、これはキリシタン絡みではないように思われる。ウィキの「大久保長安事件」も参照されたい。但し、佐渡にキリスト教徒が多く集まった事実と迫害は、あった。「学校法人ノートルダム新潟清心学園」公式サイト内に、佐渡のキリシタンについての「日本キリスト教大辞典」等からの記載があり、それを見ると(「日本キリスト教大辞典」分のみを引くが、それに続く同じ青山玄氏の執筆になる「新潟県キリスト教史 上巻」の引用も詳細を極め、必読)、

   《引用開始》

1601年 徳川家康が佐渡を直轄地とし、大久保長安を奉行に命令。

・徳川家康はフランシスコ会士 ジェロニモ・デ・ジェズースを通じて採鉱術の導入を図る。

・従来の灰吹精錬法に代わり、「水銀ながし」が短期間行われた。

 江戸幕府のキリシタン迫害が始まると、炭鉱夫として地下に潜伏する信者増加

1619年以来、イエズス会士アンジェリス・G・アダミ佐渡を訪問、日本人神父結城ディエゴが来訪。

1637年以降、幕命により100名以上のキリシタン処刑これが現在のキリシタン塚と思われるが、史料的には確認できない。

1658年 「吉利支丹出申国所之覚」に「佐渡国より宗門10人斗り出申候」とあり、なお、相当数の信者がいたと推定される。

パジェス・Lによると次の通り

1601年 越後の大名の息子2名が大坂で規則正しく教理を聴聞し、承服していた。

・徳川家康の機嫌を損ねないように受洗はしなかった。(この2名は、堀秀治と堀親良と思われる)

1604年 伏見の古いキリシタン1名が佐渡鉱山に1年半滞在、キリシタン数名の信仰を固めた。

1619年 アンジェリス・Gが佐渡で洗礼、告解、秘跡を授けた。

1621年ころ、イエズス会士アダミ・GMが佐渡のキリシタンを訪問、授洗し、信者を増やした。

・「受洗者は数においても、質においても他の所より善く、将来もこのようになると期待している」と報告している。

・このころ、まだ相川ではキリシタンの取り調べが厳しくなかった。

1625年 イエズス会士結城ディエゴが医者に変装して佐渡来訪。

・来訪したときにはすでに迫害で20名以上追放されていた。このとき結城が数名授洗。

163536年、南部・仙台藩で逮捕されたキリシタンの中には、大窪太郎兵衛夫妻、弥兵衛夫妻ら越後出身者有り。

島原の乱後、取り調べが厳しくなり、相川でキリシタン数十名が逮捕され、中山峠で処刑、「吉利支丹出申国所之覚」(1658年)によると、本庄(村上)23人、新発田45人、長岡56人、高田56人と信者が記録されている。武士はほとんど転封、減封、廃絶された他家の家臣で、庶民はほとんど出稼ぎ人であったと思われる。(青山玄)

   *

とあることから、禁教令を犯したとして罪人となった人々が佐渡に流されたり、当初はそうした関係上、佐渡での取り締まりが比較的緩やかであったことから、炭鉱夫等になって佐渡に渡った切支丹が多かったことが推理し得る。八雲はあくまで不正蓄財絡みの「大久保長安事件」と、以上のその後の佐渡での切支丹迫害事件を直結混同しているものと思われなくもない。]

 外國の僧侶達と內地人なる傳道師達とは、一六一四年の宣言の直後にも歿酷に取扱はれはしなかつた。彼等の中、凡そ三百人は船に乘せられて外國に送られた、――政治及び宗敎に關した陰謀の疑ひをうけた幾多の日本人、例へば以前の明石の大名なる高山の如きと共に、この者はジエジユイト派の文士によつて『ジヤスト・ウコンドノ』[やぶちゃん注:原文“Justo Ucondono”で、“Justo”はポルトガル語で「義人」の意であり、これは音写するなら「ジュスト」である(平井呈一氏は『ジュスト』と音写されておられる)。ここは久保田典彦氏の「高山右近研究室のブログ」の『右近さん自身、「ユスト」とは言ってなかった!?』に拠った。]と呼ばれ、又同樣な理由から前に秀吉によつて領地を取り上げられ、職を免ぜられてゐたものである。家康は不必要な嚴重な例を置きはしなかつた。併しこれよりも嚴しい法令が、一六一五年に起つた事件につづいて出された、――かの布告發布の直ぐ後の年である。秀吉の子息、秀賴が、保護を託されて居た家族によつて取つて代はられた――日本にとつて幸[やぶちゃん注:「さひはひ」。]な事であるが。家康は彼のあらゆる面倒を見てやつた、併し彼を許して日本國の政府を導いて行かせる意圖は、家康に少しもなかつた、――十三歲の若者には殆ど出來ない仕事であつたから。秀賴が關與したと傳へられて居る色々な政治上の陰謀があつたに拘らず、家康は彼に澤山の歲入と日本に於ける最の城塞と、――秀吉の天才が殆ど難攻不落にしたかの堂々たる大阪城――を所有させて置いた。秀賴はその父に似ず、ジエジユイト敎徒を愛し、大阪城を以てこの『虛僞腐敗の宗派』の歸依者を容れる避難所たらしめた。大阪城で危險な陰謀が支度中であるとの政府の間諜の報告があつたので、家康は一擊を加へる決心をした、而して彼は手嚴しく打擊を加へた。必死の防禦をなしたに拘らず、この大城塞は襲擊をうけて、燒き打ちされた、――秀賴は炎中に身を亡つてしまつた。十萬人の生命が、この包圍で失はれたといふことである。アダムスは秀賴の運命と彼の謀叛の結果に就いて次のやうに奇しくも書いて居る――

 『彼は皇帝[やぶちゃん注:言わずもがな、家康。]と戰爭をした……ジエジユイト敎徒等とフランシスカンの敎團の僧侶達とは奇蹟と實驗[やぶちゃん注:原文は“mirracles and wounders”。平井呈一氏は『奇蹟と驚異』と訳しておられる。戸川氏は超現実的な「示現(じげん)」、或いは、確かな神の「実」(まことの)「験」(しるし)としての奇蹟の意で、かく、訳したのであろう。]との惠を受けるに相違ないと秀賴を信じさせて、この戰に加はつた、併し結局それは反對の結果になつた。何となれば老皇帝は彼に向つて直に、海陸より自分の軍兵を準備して、彼の居る城を圍んだのであつた、かくて敵味方に莫大な損害はあつたが、併し最後には城壁を打壞して、火を城にかけ、そして彼をその中で燒き殺した。かくの如くにして戰爭は終つた。處で、皇帝はジエジユイト敎徒とフランシスカン派の者共が、彼の敵と共に城內に居つて、今猶ほ時々彼に反抗すると聞いて、總てのロオマ敎の者に國外に退去するやうに命じた――敎會は破壞され、燒き拂はれてしまつた。この事は老皇帝健在の間つづいて行はれた。が、今やこの年、卽ち一六一六年に老皇帝は死去した。彼の子息が代つて統治したが、彼は彼の父よりも以土に熱烈にロオマの宗敎に反對してゐる、何となれば彼は彼のあらゆる領土に亙つて、彼の臣民は一人たりとも、ロオマ敎のキリスト敎徒たる事を禁じ、これを犯すものは死刑に處せられるとしたからである、このロオマ敎の宗派を彼は出來得る限りの方法で防止するために、異國の商人は何人たるとも、いづれの大都市にも逗留してはならないと禁止したのであつた』……。

 ここに子息といふのは秀忠の事であるが、秀忠は一六一七年に布令を出して[やぶちゃん注:これもよく判らない年表記である。但し、秀忠は元和二(一六一六)年に「二港制限令」、続けて元和五(一六一九)年)に改めて禁教令を出して弾圧強化は確かにはかられてはいる。]、ロオマ敎の僧侶やフランシスカンの僧侶が日本で見つかつた場合には、これを死刑に處すと定めた――この布令は日本から追放された多くの僧侶達が、祕密に歸つて來、また他の僧侶は色色な假面の下に居殘つて、布敎をして居たといふ事實から、刺戟されて出されたものであつた。かくして、帝國內のあらゆる市町村落に於て、ロオマ派のキリスト敎を根絕するための手段が取られた。いづれの組合もその中に外來の信條に屬する人が居れば、それに對して、責任を負はされた。そして特別な【註】役人、卽ち切支丹奉行と云ふ審問者が、この禁制の宗敎を奉する者を搜索して、これを處罰するために任命された。卽座に取消したキリスト敎徒は罰せられなかつたが、只だ監視をうけさせられた、拷問をかけても取消す事を拒んだ者共は、奴隷の地位に貶とされるとか、さもなければ死刑に處せられた。或る地方では非常な殘酷が行はれ、あらゆる形式の拷問が、取消しをひるために用ひられた。併し殊更歿酷な迫害の挿話は、地方の支配者卽ち役人達の個人的の兇猛に依つて生じたものである事は、先づ確な事である、――例へば竹中采女守[やぶちゃん注:「采女正(うねめのしやう)」が正しいが、原文自体がそうなっている。豊後府内藩第二代藩主竹中重義(?~寛永十一年二月二十二日(一六三四年三月二十一日)。彼の『時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われ、穴吊りなど、多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された』が、ウィキの「竹中重義によれば、第三代将軍『徳川家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した』が、『これと連動するかのように、重義は密貿易など』、『職務上の不正を訴えられた』。寛永六(一六二九)年十月に『書かれた平戸のオランダ商館長の手紙によると、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」と記録されている。調査の結果』、寛永一〇(一六三三)年二月に『奉行職を罷免され、切腹を命じられた』とある。]の場合のやうなのがそれで、彼はその長崎に於ける彼の權勢の濫用と、迫害を以て金錢誅求の手段としたのとで、政府から切腹を行ふやうにひられたのである。然しそれはさうであるとして、この迫害が遂に有馬の大名領內に於けるキリスト敎徒の叛亂を惹起する剌戟となつたか、若しくはそれを起こす助けとなつたのであつた、――これは歷史上では島原の亂として記錄されてゐる。一六三六年[やぶちゃん注:「島原の乱」の勃発は厳密には寛永十四年十月二十五日で、グレゴリオ暦一六三七年十二月十一日である。]に、一群の農夫等が、彼等の領主――有馬及び唐津の大名(兩地方共に改宗した地方である)――の暴政により絕望に驅られて、武器をとつて起ち、その近隣の日本の寺院を悉く燒き拂ひ宗敎戰を宣言した。その旗は十字架をつけて居り、その指揮者は改宗した侍であつた。キリスト敎の避難者達が間もなく日本のあらゆる部分から來て彼等の仲間に加はつて、遂にその數は三萬乃至四萬人に膨張した[やぶちゃん注:正確な数は不詳であるが、最終的に籠城した老若男女は三万七千人、全員が死亡したとされる。]。島原半島の沿岸で、彼等は原といふ場所で、主人の居なくなつた城を占有し、其處に自ら立て籠もつた。地方の官憲はこの暴動に敵する事が出來なかつた、そして叛逆人等は自ら防守し得たのみでなく、それ以上に出來ので、遂に十六萬以上を算する政府の兵力が[やぶちゃん注:実際の最終的な幕府討伐軍の総数は十三万近くであった。]、彼等に向つて送り出されるに至つた。百二日の勇敢なる防戰の後、城は一六三八年に襲擊されて、防戰者達はその妻子と共に、刄の露と消えてしまつた[やぶちゃん注:終結は寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)。但し、総攻撃の開始は、鍋島勝茂の抜け駆けにより、前日に前倒しされている。]。公にはこの事件が百姓一揆として取扱はれた。そしてそれに對して責任があるとされた人々は、最重に罰せられた、――島原(有馬)の領主は更に切腹を行ふやうに宣告された。日本の歷史家達は、この一揆がキリスト敎徒によつて最初計畫され、指導されたのであつて、彼等キリスト敎徒は長崎を占領し、九州を征服して、外國の武力的援助を求めて、政變をひようと目論んでゐたのだと述べて居る、――ジエジユイト派の文士は何等陰謀のなかつたことを我々に信じさせようとして居る。只だ一つ確な事は、革命的な要求がキリスト敎徒の要素[やぶちゃん注:原文“element”。平井氏は『分子』と訳しておられ、その方が躓かない。]に向つてなされ、それが盛んに應答され、驚くべき結果を生じたといふことである。九州沿岸に於ける一つの鞏固な域が、三萬乃至四萬のキリスト敎徒によつて支持された事は、重大な危險を構成するものであつた、――これは有利な一點で、この點から日本へのスペインの侵入が企てられ、且つ多少そのうまく行く機會もあり得たと云つて然るべき程な處なのである。政府はこの危險を認めて、從つて壓倒的な兵力を島原へ派遣したと考へられるのである。そして若し外國の援助がこの叛亂に送られ得たとすれば、その結果は長期に亙る内亂となつたかも知れないのてある。大がかりな殺戮に至つては、それは日本の法律を勵行したことを表はしたに過ぎない。又領主に對して叛亂を起こした百姓の罰は、如何なる事情の下にあつたとしても、死刑である。更にかくの如き虐殺政策に關して言へば、それは信長もこれよりも少い理由でありながら、比叡山の天台宗徒を絕滅さしたことを記憶して置くべきであらう。吾々が島原で亡びた勇者を氣の毒に思ひ、彼等がその統治者の兇猛な殘虐に對してなした叛亂に同情を表するのは、いづれから言つても理由ある事と思ふ。併しただ公明なる事實として、日本の政治的見地から、全體の事件を考慮することが必要であると思ふ。

註 これらの布告が、一として新敎徒のキリスト敎に對して向けられなかつたといふことは、心に留めておかなければならない、オランダ人はこの布令の意味では、キリスト敎徒とは考へられて居なかつたのである、又イギリス人も同樣であつた。次に示す代表的な村から得た拔萃、組帳則ち組合の取締法は、ロオマ舊敎の改宗者則ち信者の、その組合に居ることに關して、すべての團體に課せられた責任を示してゐる、

 『每年、殺初の月と第三の月との間で吾々は宗門帳を更める。若し吾々が禁制の宗門に屬してゐる者の居るのを知るならば、直に代官にそれを通ずるものである、……召使、勞働者共は、キリスト敎徒でないといふ事を宣明した證文を主人に差し出すべきである。嘗てキリスト敎徒であつたが、それを取り消した者に關しては――若しこのやうな者が村に來、また去る事があれば、吾々はそれを申出ることを約する』――ヰグモア敎授の『舊日本に於ける土地所有權及び地方制度所見』Professor J. H. Wigmore'sNotes on Land Tenure and Local Institutions in Old Japan

 オランダ人は船舶と大砲とを以てこの叛亂を潰滅さす助けをしたといふので非難された、彼等は自分等獨自の考へから、勝手に四百二十六發の大砲を城內に打ち込んだといふ。併しながら、今まで殘つて居る平のオランダ商館の通信は無論、彼等が脅嚇されて、斯樣な行動をとるの已むなきに至らしめられたのである事を證明して居る。兎に角、彼等の行動に就いて、これに只だ宗敎上の非難を加へるには充分な理由がない――よしその行動は人道上の見地からは充分に非難されるとしても。蓋し叛徒の大部分が、たまたまネザラドの男女を異端者として生きながら焚殺した處の宗敎を信じて居るのであるから、この叛亂を鎭壓して居る日本の官憲を助ける事を拒絕するわけには行かなかつたのであらう。察する處このオランダ人達の親族のものが少からず、かのスペインの猛將アルヴアの虐殺を逞うした日に殺された事があるのではあるまいか、恐らくそんな事も原因となつて、この砲擊が行はれたのかも知れない。若しポルトガル人竝びにスペイン人の僧侶にして、日本の政府を乘取る事が出來たならば、日本に於けるイギリス人とオランダ人とは、みなどんな目に遇つたであらうか、それは明らかに解つて居た筈であるが。

[やぶちゃん注:「スペインの猛將アルヴアの虐殺」年代的に見て、スペインの第三代アルバ公爵で将軍であったフェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba 一五〇七年~一五八二年)か。ウィキの「フェルナンド・アルバレス・デ・トレドによれば、一五三五年以降、『プロテスタント勢力打倒を目指すカール』『世のために』、『各地を転戦した。カール』『世の退位後はフェリペ』『世に仕え』、一五五九年の『カトー・カンブレジ条約を経て』、一五六七年から『属領ネーデルラントの総督となった。「血の審判所」と呼ばれた機関を設け、エフモント伯ラモラールを含む』、『多くの新教徒を処刑したが、その恐怖政治もオラニエ公ウィレム』『世を支持する北部ネーデルラントの市民階級の反抗を』、『くじくことができなかった』。一五七三年、『後任のレケセンスと交代させられ、スペインへ帰国した』とある。或いは、その息子(次男)で第四代アルバ公となった、八十年戦争時のスペイン軍司令官ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(Fadrique Álvarez de Toledo 一五三七年 ~一五八三年)であってもおかしくはない。ウィキの「ファドリケ・アルバレス・デ・トレドによれば、『リスボンで生まれ』、『ウエスカ公、コリア侯、カラトラバ騎士団の司令官職でもあった』。『彼は、スペイン領ネーデルラントにおける、最も血なまぐさい時期のスペイン軍を率いた。ハールレム包囲と同様に、メヘレン、ズトフェン(現在のオランダ・ヘルダーラント州)、ナールデン(オランダ・北ホラント州)において起こった殺戮の司令官だった』とある。まあ、親父の方が、それらしくは、ある。]

反古のうらがき 卷之四 蓼灣 附・鈴木桃野擱筆漢詩 / 反古のうらがき 全電子化注~完遂

 

    ○蓼灣

[やぶちゃん注:これが最後なので、読み易く改行して終りとすることとする。]

 予が僚友蓼灣(りようわん)といへる人は、古今に越(こえ)たる才子なりけり。殊に詩をよくし、千古未發(せんこみはつ)の見解あり。本邦詩學ありてよりの宗社(そうしや)といふべし。書も亦、絶倫なり。其餘、將碁栂戰の雜技、一たび其道に入れば、直(ただち)に其奧義を極むること、凡人にてはあらざりけり。

[やぶちゃん注:「蓼灣」幕臣で詩人、昌平黌助教の久貝蓼湾(くがいりょうあん 文化一六(一八一九)年~文久元(一八六一)年)。底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『名は正岱』(「せいたい」と音で読んでおく。但し、国立国会図書館デジタルコレクションの「敬宇文集」(巻五)の「乙骨耐軒久貝蓼湾傳」の久貝該当頁及び「国立国会図書館典拠データ検索」では、ただ「岱」一字である。生年は朝倉氏は享年を四十四歳とするが、「乙骨耐軒久貝蓼湾傳」では『四十有二』とあるのに従って計算、「国立国会図書館典拠データ検索」のデータとも一致を見たのでそちらを採った)、字は『宗之、はじめ金八郎のち伝太』とある。既注の友野霞舟門下で「霞舟先生峡役遺稿」の序は彼が書いている。

「千古未發」千年の昔から未だ嘗て用いられたことがない、純粋にオリジナルな詩想。

「宗社」宗廟(古代中国に於いて氏族が先祖に対する祭祀を行う神聖な祭儀場)と社稷(しゃしょく:古代中国に於いて天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷))。ここは転じて有力な漢詩派閥の権威者。]

 長崎唐通辭穎川(えがは)藤三郞、昌平黌勤番せしとき、

「唐人料理を振舞(ふるまふ)。」

とて、人々を請(しやう)じけるが、

「珍らし。」

とて、蓼灣も行(ゆき)てけり。

[やぶちゃん注:「穎川」家は『陳沖一(ちんちゅういつ)を祖とする唐通事の名門』と長崎の夏姫氏のブログ「夏姫の長崎倶楽部」の「唐通事の名門」にあった(詳しくはリンク先を参照されたい)。]

 鴨の丸煮・豚の吸物、種々無量の珍味ありて、酒盃も數々巡りぬれば、唐人のもて遊ぶ「猜技」といふものをしてけり【此方(こなた)の「なんご」の如し。】。

[やぶちゃん注:「猜技」「サイギ」と音読みしておく。現代中国音では「ツァィヂィー」。

「なんご」「なんこ」「ナンゴ遊び」とも。遊戯・賭博の一種。碁石・小石もしくは細かに折った杉箸などを握り、相手に差し出して、その人に数を当てさせる遊戯。同系統のそれが鹿児島県や宮崎県に伝わる酒席での遊びとして残る。十センチメートルほどの木の棒数本を使って、お互いの手の中にある本数を当てる遊び。「薩摩拳」とも呼ぶ。ここはウィキの「なんこ」の一条に拠った。]

 藤三郞、長技(ちやうぎ)なるよしなれば、蓼灣これと對しけるが、つゞけざまに負けてけり。灣、深く怪しみ思ふに、

『かゝる小數なる物に巧拙あるは、如何に。』

と、再び思ひをこらして對したれば、これよりは互に勝負ありて、同じよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]になりけり。

[やぶちゃん注:「長技」長じたゲーム、特異な遊び、の意であろう。

「小數なる物」「なんこ」のゲーム素材の使用可能数が、掌中に隠れるほどという制限がかかることから、ごく少ないこと、則ち、対戦時の推定される絶対仮定数の幅が小さいを言っている。]

 餘の人は終に藤三郞に、勝(かつ)事、あたはで、やみけり。

 其後、予と直廬(やくしよ[やぶちゃん注:底本のルビ。昌平坂学問所であろう。])にありて、

「扨も、此程、藤三郞と猜技を戰はせしが、初は、勝(かつ)事、能はでありしが、後(のち)は同じよふになりける。かゝる小數も少しの所に巧拙あり。其所に思ひ及べば、誰(たれ)も同じ事なれども、俄に思ひ及ぶ人と、しばらく及(およば)ざる人と、終(つひ)に及ぶことなき人と、あり。詩を作るも、同じ道理なり。」

といふにぞ、同僚不二石庵といふ老人、傍よりこれをきゝて、

「かゝる小數に巧拙あらんいわれなし[やぶちゃん注:ママ。]。子(し)、もし此(かく)理(ことわり)を得玉はゞ、我と對して彌(いよいよ)勝(かつ)ことを得玉わんや。一度、二度の偶然に勝ことはありとも、『必らず、かつ』といふ理(ことわり)は、疑はし。」

といふに、

「いや、さにあらず。其人によりて、必(かならず)勝ことあるべし。」

といふに、予が曰(いはく)、

「僕は、いかに。」

といへば、

「そこは、少しくさわり[やぶちゃん注:ママ。]あり。石庵ぬしは、勝(かち)やすし。」

といふ。

 石庵、彌(いよいよ)いらだちて、ありあふ筆房の蘆簡(ふで[やぶちゃん注:私の当て読み。])を、おし割りて、六つとなし、各(おのおの)三つづゝを分ちて、吾手に握りて出(いだ)しければ、蓼灣、

「其二つを出して、掌中と合せて三つなるべし。」

といふ、握(にぎれる)を開(ひ)らければ、果然(かぜん)なりけり。

 石庵、猶、信ぜず、

「これ、偶然、かゝることもあるべし。今一度。」

とて、又、握りて出(いだ)す。こたびは、

「これにて三つの數に合ふべし。」

とて、

「三つ出しけり。」

 石庵、握(にぎる)を閉らけば、重々(かさねがさね)、如(しく)なりければ、果して三つなりけり。

 石庵、彌(いよいよ)いらだちて、

「今一度。」

といふに、

「いや。度(たび)ごとに當る程ならば、神妙不便にして理(り)の外(がい)也。かくある理(ことわり)なければ、此次の頃(ころ)ははづるべし。試るに及ばず。都(すべ)て勝(かつ)といふは五度に三度、十度に六度のこと也。必しも、みな、勝にあらず。少しの得たる所あれば、先(まづ)二度當(あ)てたるのみ。其餘は何ぞ期することあらんや。但し、足下に二度計(ばか)りは當てらるゝの空闊(くうかつ)[やぶちゃん注:隠し立てを嫌い、開けっぴろげな性格のこと。]の所あればなり。他の人は又、別法なるべし。」

といふに、予、傍(かたはら)よりいふよふは、

「『少し得たる所あり』との玉ふは、理(ことわり)あるに似たれども、吾をして枚(ばい)を握らしめんには、後ろの方にて、三つながら地に落し、其蘆の皮の方(かた)、出(いで)たるを、一つまれ、二つまれ、握りて出さんに、これを卜(ぼく)し當(あて)ん人は、天とひとしき人あらざれば、能はじ、と思ふ。」

といひければ、

「さればこそ。始めより、さゝはりありとて足下をばさけ侍る。其こゝろあること、面目(めんぼく)にあらわれたるにもあらねど、つねづねの人となり、かゝる、わるがしこき態(わざ)せんこと、疑(うたがひ)なければ、まづ、さくる方(はう)よしと思へり。」

と、いひき。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が成されてある。]

 扨も、

「藤三郞が巧(たくみ)なるいふは、いかに。」

とゝへば、

「天地自然の理(ことわ)りをさとれば、誰(たれ)も同じくして、巧拙、なし。さはしりながら、三度に一度、五度に一度づゝ、吾が差略[やぶちゃん注:「策略」「機略」に同じい。]に出でゝ、自然なること、能はず。吾、自然に任せ、彼(かれ)が差略の私意に乘じて、しかと見定(みさだめ)たるとき斗(ばか)り、差略をなすのみ。都(すべ)て、事の工拙[やぶちゃん注:「巧拙」に同じ。]といふは、此理(このことわり)なるを、生涯、悟り得ざる人もあるべし。自然にして、しられざる事をしるは神龜(しんき)にひとしけれども、心を付(つく)れば、大槪、當る者なり。されども其理(そのことわり)を悟(さとり)、かたる人に語らざれば、おゝくは[やぶちゃん注:ママ。]疑ひて信ぜず。是(これ)、詩を作るの祕訣なれば、詩を作る人はおゝかた[やぶちゃん注:ママ。]しりたらん。」

といゝけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 はたして、凡人にては、あらざりけり。

 

 

言或無ㇾ根理必然、雨窓剪ㇾ燭夜如ㇾ年、平生技痒稗官史、朽腐陳々亦遠傳。

一枕瞢夢已殘、花枝結ㇾ子筍成ㇾ竿、詩人老去才華盡、又署新御入稗官

飜長舌得ㇾ人驚、讀者嗤々聽者傾、何限世間奇異事、多從才子意中生。

舊記新聞事未ㇾ奇、狐妖鬼祟亦談資、豆棚細雨冷於水、夜學燈昏前ㇾ席時。

螳黠蟬痴同失得、男才女貌好因緣、夜半自書還自讀、燈花一爆落床前

               詩瀑山人題

[やぶちゃん注:「詩瀑山人」は鈴木桃野の別号。底本には以上の訓点以外には振られていない。勝手流で訓読しておくが、必ずしも意味が判っているわけではない。

   *

言(げん) 或いは 根(こん)のある無く 理(り)は必然たり

雨窓 燭を剪(き)り 夜 年(とし)のごとく

平生(へいぜい)の技痒(ぎよう) 稗官(はいかん)の史

朽腐陳々として 亦 遠く傳ふ

一枕(いつちん) 瞢夢(ぼうむ) 已に殘り

花枝 子(み)を結びて 筍(じゆん) 竿(さを)と成る

詩人 老い去りて 才華 盡き

又の署新御 稗官に入る

長舌を爛飜(らんほん)して 人を得ては驚かし

讀者 嗤々(しし)し 聽者 傾(かたぶ)く

何ぞ 世間奇異の事に限らんや

多く 才子の意中より生ず

舊記新聞(しんもん)の事 未だ奇ならず

狐妖鬼祟(すい) 亦 談(はなし)の資たるのみ

豆棚(たうはう)の細雨 水よりも冷たく

夜學の燈昏(たうこん) 席に前する時

螳黠蟬痴(たうかつせんち) 失得するに同じ

男才 女貌 好因緣(こういんねん)

夜半 自(みづ)から書し 還(ま)た 自から讀む

燈花 一爆して 床前に落つ

   *

「年(とし)のごとく」毎年と同じで。

「技痒」腕が鳴る。技を奮いたくてむずむずする。

「稗官(はいかん)の史」民間の風聞を蒐集する役人。

「朽腐陳々とっして」古びて陳腐なものとして。

「瞢夢」昏くぼんやりとした夢の意か。

「署新御」不詳。前句の対句性から見て、桃野の後輩の新たに任ぜられた若き役人(昌平坂学問所の若き塾頭や学頭)のことを指すもののようには読める。

「螳黠蟬痴 失得するに同じ」国立国会図書館版は「痴」を同字「癡」で示す。意味不明。但し、検索を掛けると、中文サイトで、清の詩人張問陶」の「感事 其四」に「螳黠蟬痴亦愴神 幾曾世網罩天麟」という酷似する文字列を見出せ、日本語サイト「漢詩作法入門講座」のこちらで、北宋の名詩人黄山谷の「書酺池書堂」(酺池(ほち)の書堂(しよだう)に書(しよ)す)の起句「小黠大癡螳捕蟬」(小黠(せうかつ)大癡(たいち)螳(たう) 蟬(せん)を捕(とら)へ)の語釈に『小黠大癡=黠は慧、癡は不慧。慧はさとい、賢いこと』、『螳捕蟬=荘子外篇の山木篇に見える「蟷螂捕』蟬『」の故事をいう』とある。後者は「荘子」を見ると(「外篇 山木篇 第二十」の八章)蟷螂(カマキリ)が蟬(セミ)を狙って、自身が鵲(カササギ)に狙われている事実を知らない、というシチュエーションである。文字列に不審はあるが、要は、智の相対性の譬えで、目先の利害の得失にとらわれて物事を考えて決断する結果、ともに利を失う(命を亡くす)愚かさを説いている。最終章のエピソードとも響き合い、それなりに腑には落ちる。取り敢えず、識者の御教授を乞うておく。

「男才 女貌 好因緣」「男の才能や女の美貌というものは、これ、前世よりの定められた善き因縁(であるから、自分の努力ではどうしようもない)」の謂いであろう。]

 

 反古のうらがき 終

 

[やぶちゃん注:以上を以って鈴木桃野の「反古のうらがき」全篇が終わる。お付き合い戴いた方、特に多くの情報をお伝え下さった氏に特に感謝申し上げるものである。]

2018/10/01

反古のうらがき 卷之四 舞を好む事

 

    ○舞を好む事

 今の世にもてはやす「おどり[やぶちゃん注:ママ。]」といふものは、いにしへの舞(まひ)と狂言とをまじへしものなり。近き頃迄は女子のみ舞けるが、此程は男子も舞よふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に成(なり)にたり。友人庸臺子(ようだいし)[やぶちゃん注:不詳。]は深く此舞を好み、同じ心の友と、ひねもす、よもすがらに、舞けり。父母、これを憂ひていふよふ、「若年の頃は物よみ物かくこと、第一の業(わざ)なるを、それをばせで、舞を學ぶこと、曲事(くせごと)」とて、禁じけれども、とかくに舞たく思ひて、夜々に學問の師のがり行(ゆく)とて、宵の間(あひだ)は舞の師のがり行て舞けり。友の家にても此事はしらず、たゞ宵より出て亥の刻[やぶちゃん注:午後十時頃。]、歸るを常とはなせり。或日、いつもより少し早く出で、『思ふ樣(さま)に舞はん』と思ひ、師がり行けり。しばしありて、くゞり戸、引明け入來(いりきた)る人あり。『袴・羽織・大小を橫たへたりければ、かゝるなり形(かたち)にて舞學ばんとて入來るは、克(かつ)て諸侯の藩士抔(など)にもやあらん』と、座に付を見れば、こはいかに、二人の若人(わかうど)が學問の師なり。二人は、魂、大ぞらに飛(とび)うせて、「ひた」と打伏(うちふ)して、おもても得(え)あげず居(ゐ)にけり。學問の師、いふ、「いづれか二人が舞學ぶ師にておはすや」といふにぞ、舞の師は、年の頃、十七、八なる乙女にてありけるが、燈、かゝげて、「吾こそ何某とよばるゝ舞の師にて侍る」とて、出て逢ひけるに、「そは初て相見て侍るなり。此程、吾弟子二人迄、其許(そこもと)に行(ゆき)て舞を學ぶよしは、吾、とくにしりぬ。とく、青傳(いひづて)も言(いひ)おくらざりしは、吾がおこたりに侍る也。扨も。今宵來りしは、二人がことに侍るなり。其許にて舞を學ぶも、吾方にて學問學ぶも、同じことにては侍れども、如何にせん、二人が父母、舞をば許さで、學問のみを學べといふに、こうじ果て、今はひそかに舞(まふ)にてぞありける。但し、家を出るは、學問の師がり行(ゆく)とて出るなれば、父母は、宵より亥の刻迄は吾方にありとのみ思ひて、厚く謝禮にも心を配り玉ふに、吾、空しく御謝を受(うけ)て、實(まこと)は其許(そこもと)がりありて、舞ふに、父母より一言の謝辭もなきは、ひそかごとと、おゝやけ[やぶちゃん注:ママ。]とのけじめ、あればなりけり。吾、これを思ふ度々、其勞(らう)なくて其謝を受(うく)るを、恥かしくおもふにより、扨も、今宵、差付(さしつけ)て[やぶちゃん注:わざわざ。]、其言譯(いひわけ)を言(いひ)とくのみなり。今宵、吾、貮人を其親々へ引渡し、以後は吾家に來(きた)ることを辭し侍り、其後は其元(そこもと)がり來りて、舞學びたりとて、吾、敢て是(これ)を制せず」といふに、舞の師も「尤(もつとも)の理(ことわり)なり。此後(こののち)、二人の御親父より御賴みあらずば、二人の御方、御入(おんいり)候とも舞(まひ)教へ申侍(まうしはべ)らず。氣遣ひ、なし玉ひそ」といへば、「さらば」とて、左右の手に二人を携へて其家々に行て、事のあらましをとき明かして歸りにけり【此の師名は何といひしか忘れ侍る。古への風あるよき師なり。】。二人の親は大に怒りて、一間(ひとま)なる處におしこめて、物よみ、物かく事より外は、一事(いちじ)だも許さず。一月斗り過(すぎ)けるが、とかくに舞の舞たくて、人の見ざる間(ま)には、一間(ま)の中にて舞けり。かくてもいつ許さるべきよふもなければ、よくよく思ひ𢌞らすに、『舞、まひたりとて、さまでに禁ずべきことならねど、深くも父母の禁じ玉ふは、物よみ、物かくことをおこたるによりてなり。それさへ、よくせんに、何の妨げかあらん』とて、是よりは舞(まふ)こともなく、終日、机に向ひて、物よみ、物かき、一年足らず、一間にありける。父母は、今更に餘り、勤學(きんがく)するをみて、「病もや起らん」と案じ煩ふよふにぞ成(なり)けり。其頃に及びて、人して父母にいひおくりけるは、「吾、誤りてよみかきのことを捨て舞のみを學びたれば、父母、深く禁じ玉ひにき。今は其非をしりて侍れば、吾年三十に成(なり)なん頃迄、此一間に在りて勤學すべし。今より十餘年を經(へ)なんに、不肖(ふせう)たりとも、少しは得る處あるべし。其時、父母の許しを得て、心よく、舞、學び侍らんと思ふ。此心、誤りにあらずば、三十の後は許すべし」といふかね【約】[やぶちゃん注:「約」は割注ではなく、「かね」の右傍注。]言(ごと)を得て、それを樂(たのし)みに、此一間を出(いで)ず。「死すとも勤學は廢せじ」といゝ[やぶちゃん注:ママ。]おくりけり。父母、これをきゝて、大によろこび、「かゝる道理をしる上は、何の妨げあらん」とて、一間を出(いだ)しけり。猶も、晝夜、机をはなるゝことなければ、「今は隣りあたり訪ひ行き、少しは心なぐさむもよからん」などいふにぞ、それおも[やぶちゃん注:ママ。「其れをも」。]おしこらへて居にけり。二た月斗りありて、「晝の程、學問、おこたらずせんには、夜は遊ぶ方(はう)ぞよからん」といふに、「舞まふことはいかにや」ととへば、「うさはらしに、よからん」といふ。扨、舞たれども、多く忘れてけり。「おしきこと也。一手、二手ならば、師がり行て學べ」といふに、「さらば」とて、これより晝は、物、よみ、宵は、舞、まひ、いづれも片(かた)おちなく、學びてけり。今一人の友は、物よみも勤めてせで、舞をもやめてけり。庸臺、書・畫ともに、よくせり。學問もよくし、詩を作るに、警拔(けいばつ)ありけり[やぶちゃん注:着想が人の意表を突いて優れているのであった。]。みな、一間に閉(とぢ)こめられたる中(うち)に學び覺へたるなり[やぶちゃん注:ママ。]。後に酒興に乘じて舞をまふに、昔し深く學びたる故に、今に忘却せずして、おゝくは[やぶちゃん注:ママ。]、永きこと、初めより終り迄、一手をもたがへず、舞けり。但し、男子の舞はかゝる舞振(まひぶり)、よろしからず、少しにても、おもむきあらん方ぞよきと、人々、評しあへり。さすれば餘りに好めることは、他より見て、よくなき物なり。

反古のうらがき 卷之四 崋山

 

    ○崋山

 邊渡登、麹町一丁目三宅藩なり。繪事は世に越(こえ)たり。學問もありて殊に畫學も精しく、監識は書畫ともに精(くは)しかりき。主人八藏【後に何の守。】歿して公子二人迄おはせしが、家、貧にして立(たち)こらふべきよふ[やぶちゃん注:ママ。]なしとて、大臣ども、申合せて、大諸侯より養ひ子を取らんといふことに極(きま)りぬ。崋山獨りこれをうれひて、同じつかさ人等(ら)、いゝ合せ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、給分の半を君に返し奉り、國用を足し侍らんに、いかで、家のたもち難き事あらん、といゝ出(いで)けり。皆、一と度(たび)は「尤(もつとも)なり」と同(どふ[やぶちゃん注:底本のルビ。])じけれども、又、「おもふに、崋山は繪事をよくするによりて、給分の外おゝく[やぶちゃん注:ママ。]財を得るなれば、事かくことあらじ。吾等はかゝる業(わざ)なければ、何とて半給にてこらへ果(はつ)べき」といふ者ありて、大臣の議に從ふ人、多かりき。されども國の血脈(けちみやく)をたつるのおもきをしるものは、崋山にくみして、事やわらがざりければ、遂に止みにけり。後に和蘭の學を好み、其事にも精しく、おのづから和蘭の學をも、よくしてけり。其徒に長英といへる醫師ありけるが、其頃、英吉利(イギリス)にモリソンといへる豪傑ありて、諸國を征するよし、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]けるによりて、「夢物語」といふ書をあらはしけり。異國のこと、書(かき)あらはすは、御法度なりける故に、ひそかにをさめ置(おき)しを、ある小人(こびと)、奪ひて、おゝやけ[やぶちゃん注:ママ。]に告(つげ)てけり。崋山も此事にかゝり合(あひ)たりとて、ともに獄屋に入(いり)けるが、長英は、いかゞにしてか、逃れて、行方なくなりけり。崋山は主人御預けとなりて、國元に深く取込(とりこめ)てありけり。かゝる御預け人(おあづけにん)は、一日も早く死(しぬ)るを主人其外役人のよろこぶことにて、其手當、甚だおろかなり。崋山は母・妻・男女(なんによ)の子・おのれともに五人なるに、五人扶持のあてがひと聞へし。さる故に、崋山は自(みづ)から農作なし、母・妻は、絲、くり、麻、うみて[やぶちゃん注:「績(う)む」とは、青麻(あおそ=麻(アサ科アサ属 Cannabis)を湿(しめ)らしながら、指先で細く裂き、撚(よ)って繋ぐの意。]、漸く衣食に給するに、自ら城下に至る事を許さざれば、皆、人づてにて交易するに、利分薄くして、貧しきこと、いわん方なし[やぶちゃん注:ママ。]。江戸の畫弟子、これをしりて、金を返る人あれども、おゝくは[やぶちゃん注:ママ。]、とゞかで、うせぬることありけり。崋山が自書の弟子におくれる文通をみるに、配所のさまを繪がけり。崋山は偉然たる大男にてありしが、繪がけるさまは、憔悴(しやうすい[やぶちゃん注:底本のルビ。正しくは「せうすい」。])【やせる】して實(じつ)にあわれに[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]ぞありける。母は燈し火に向ひて、麻、うみながら、孫に物よむことをおしへ、妻は娘とともに、絲、くる。其庭とおぼしき所に、崋山、月を帶びて、はたを作る。貧家のさまなりけり。畫弟子何某が女(むすめ)、家、富みければ、これが主(しゆ)となりて、ふるき弟子どもへいひ合せて、月に金二分づゝをおくりけり。其謝儀として屛風一隻ぶりの繪を畫きて、江戸におくりき。これにて、少し餘寒を免れけり。扨も、此頃、朝家の大臣、貶黜(へんちゆつ)【おとし、しりぞく。】[やぶちゃん注:官位を降格し、上席格から退けること。貶斥(へんせき)。]のこと、おゝかりけるを、三宅家の役人ども、いひおくりけるは、「こたび朝家に事おこり、諸侯家、異國と内通の御疑ひありて、某公、某公、皆、職を奪はれ、下屋敷に蟄居せらる。かゝれば、吾主人[やぶちゃん注:当時の田原(たはら)藩主は第十一代三宅康直(やすなお 文化八(一八一一)年~明治二六(一八九三)年)。]へも御疑ひあらんも斗(はか)りがたし」といゝけり。崋山、これをきゝて、大におそれ、江戸なる畫弟子がり、右の實否をとひこししが、其答へに、「いかでかゝることあらん、諸侯大臣職を奪はれしは、みな、それぞれの罪にして、異國のことにては、これなき」趣きをいゝ送りしが、其ふみの、いまだとゞかざる間に、いかにせまりけん、小刀もて咽のあたりを突(つき)て死(しし)てけり。「おのれ、異國のことにて御疑ひを受けたれば、其罪、主人に及ばんか」とおそれて死したるは、あわれなることなりけり。予後に長英が著はせし「夢物語」を見しに、蘭學者の常談(じやうだん)のみにして、決(けつし)て疑(うたがふ)べきこと、なし。其頃、人のいひしは、「異國内通か、又は、密(ひそか)に異國へ乘渡(のりわた)りし人にあらざれば、かく委細にしるすこと能はじ。しかれば、御疑ひあるも尤(もつとも)」といゝし。笑ふべきの甚しきなり。かゝる人は唐・日本・天竺とて、世界は三國のみと思ひて、しかも天竺は天上の國と思ふなり。此固陋(ころう)[やぶちゃん注:古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと]をもて、人を疑ひ、かゝる寃罪を蒙むらしむ、哀哉(かなしいかな[やぶちゃん注:底本のルビ。])。「夢物語」は篋(はこ)底にひそめ置(おき)しを、さる心友の方に借し與へたるに、其家にて小人に見出(みいださ)れけるよし、小人も書生にて、かゝることをも好むよふにいひて、探り出し、「しばし、かし給へ」とて持(も)て行しが、公(おほやけ)に訴へたるなり。其小人といふは、上の卷に名をしるせし人の、しる人なれども、餘りに出身をいそぐにぞ、かゝる友を賣るの不仁をば、なせしなり。

[やぶちゃん注:超弩級の有名人の登場である。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士で画家として知られ、著名な蘭学者達のシンパサイザーでもあった渡辺崋山(寛政五(一七九三)年~天保一二(一八四一)年)である。号は当初は「華山」であったものを、三十五歳の頃に「崋山」と改めている。文政一〇(一八二七)年に第十代藩主三宅康明(やすてる)が二十八歳の『若さで病死してしまい、藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から養子を持参金付きで迎えようとした。崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前』(さだちか)『らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。結局』、『藩上層部の意思がとおって養子・康直が藩主となり、崋山は一時』、『自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。しかし、一方で藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保』(やすよし)『)を次の藩主とすることを承諾させている。また』、『藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、のちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出すこともあった。友信は崋山の死後の明治』一四(一八八一)年に「崋山先生略傳補」として『崋山の伝記を書き残している』。天保三(一八三二)年五月、満三十八歳の時に田原藩年寄役末席(家老職)となった。天保九(一八三八)年、「モリソン号事件」(前年天保八年六月末に日本人漂流民七名を乗せて、浦賀沖及び鹿児島湾に現われたアメリカ合衆国の商船「モリソン号(Morrison)」に対し、浦賀奉行太田資統(すけのり)及び薩摩藩が「異国船打払令」に基づいて砲撃を行った事件)を『知った崋山や』、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した学術団体「尚歯会」で知り合った陸奥生まれの蘭学者高野長英(文化元年五(一八〇四)年~嘉永三(一八五〇)年:開港論を唱えて投獄されるも脱走し、「沢三伯」の変名で江戸に潜入、医療や訳述に専念したが、幕吏に襲われて自殺した)は、『幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する』「慎機論」を書いた(天保九年に書かれたものの、途中で筆を絶っている)。しかし、『この書は海防を批判する一方で』、『海防の不備を憂えるなど』、『論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず』、『結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら』、『海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上』、「戊戌夢物語」(夢に託して江戸幕府を批判した作品。本文に出るように単に「夢物語」とも呼ぶ。高野長英著。全一巻。同じく天保九年作。「モリソン号事件」に対して、イギリスの強大なこと・その植民政策・モリソンの人柄などを数十人の大学者の集会のなかで甲乙二人が語るかたちで述べ,幕府のやり方の無謀なこと,国際常識のなさなどを批判したもので、崋山の「慎機論」とともに幕府の怒りを買い、「蛮社の獄」のきっかけをつくった。初めは無署名で二、三人に見せられただけであったが、後、筆写されて広まり、遂には将軍徳川家慶の目にも触れた。西洋事情や国際慣行などを記した警世の書として注目される。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『を書いた長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ』、『草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の』「蛮社の獄」に於ける『家宅捜索で奉行所にあげられ』てしまい、『断罪の根拠にされることにな』った。天保一〇(一八三九)年五月、「慎機論」原稿が『発見され、陪臣の身で国政に容喙したということで』、崋山は『田原で蟄居することとなった』。天保一二(一八四一)年、『田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した』崋山の高弟で南画家の福田半香(はんこう 文化元(一八〇四)年~元治元(一八六四)年:遠江出身)『の計らいで』、『江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した』。より詳しい事蹟は引用元のウィキの「渡辺崋山を参照されたい。

「邊渡登」「へん/ととう」と音読みしておく。登(「のぼり」。一部の絵では「のぼる」と揮毫)は彼の通称。錯字のようにも思われる画、所謂、和名を中国人風に組み替えることは、文人の間では好んで行われたから、ここはそれで採っておく。

「偉然」は底本では「然(いぜん)」であるが、「」は「等しい」・「列ねる」・「移る」・「同輩」・「同等」の意で意味が通らぬ。国立国会図書館版のこれなら、「立派であるさま。盛大なさま」で腑に落ちるのでそちらを採用した。

反古のうらがき 卷之四 竹村海藏

 

    ○竹村海藏

[やぶちゃん注:読み易さと臨場感を出すために改行を施した。]

 竹村海藏は向凌翁が取立ての弟子なりけり。後に林門となり、大才の聞へ[やぶちゃん注:ママ。]ありけり。書もよく書きて、出藍と號しけり。詩をよく作りたり。少時より、人に異なる事おゝかりき[やぶちゃん注:ママ。]。

 或時、向凌翁がり來りて、翁弟子と戲れたるが、庭に柿の子(み)のなりたるを、木の下に來りて、木のまゝに一口づゝくひ取りて、手のとゞく程の處は、みな、くひかきて置(おき)けり。

 後に向凌翁、是を見て、

「海藏が仕業なるべし。かゝる事をして、そらしらぬ顏して歸ると雖ども、後に悔ひて、おもなく思ふべし。かゝる大才ありても、年のたらわぬ[やぶちゃん注:ママ。「足らはぬ」。]うちは、わらべめける業(わざ)はあるもの。」

とて笑ひけり。

 明けの日も同じよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に來りて、庭に出(いで)て戲むるにぞ、翁、こなたより聲をかけていふよふ、

「きのふ、いたづら者ありて、我柿を、皆、食ひつきたり。一つ、二つ、摘取(つみとり)て食ひたらんには多くの内なれば、しるよしもなくて事濟(ことすみ)なんを。おろかなるくせ者かな。」

と、のゝしりければ、皆人(みなひと)、おそれあへりけるに、海藏は、おそるゝ色もなく、

「おのれ食ひかき侍るが、皆、澁く侍るゆへに、甘からん時に食わんと思ひて、摘取侍らず、木に付(つけ)て置(おき)たれば、不日(ふじつ)に熟すべし。かかる澁柿を摘取たらんものこそおろかなれ。かくしつる方(かた)は巧みなりといふべし。師のの玉ふ事こそ、かへりておろかなれ。」

といひて、大に笑ひてけり。

[やぶちゃん注:以下は底本でも改行が成されてある。]

 後に大酒を好み、座に人を罵(のゝし)り、口論を好みて、人に忌(い)まるゝ事、おゝかりけり。

 後に

「主人が家の政(まつりごと)、亂れたり。」

とて、家老何某が隱事(かくしごと)、數ケ條を劾奏(がいそう)[やぶちゃん注:官吏の罪状を暴いて、君主に奏上すること。弾劾奏聞(だんがいそうもん)。]しけれども、其身、微賤なりければ、思ふよふにも、言(げん)、おこなわれずして[やぶちゃん注:ママ。]、自(みづ)から仕(つか)へを辭してけり。

 其後は、文雅の交りのみにして、世の塵を厭(いと)ひ、隱者の如く、風流に世を送りぬ。

 或時、夕ぐれに家に歸るとて、主人の門に入らんとせしに、折節、家老何某も歸り來りて、ひとしく門に入らんとするに、貴賤の禮なれば、路(みち)の傍(かたはら)に拜することなるを、口惜しくやおもひけん、門のこなたに、ゆばり[やぶちゃん注:小便。]するよふにして、やり過しけり。

 家老も駕籠より出で、たゞに門に入(いる)べかりしを、と見れば、頭巾深くかむりたる人の容躰(ようてい)、海藏にまがふべくもあらざれば、

「そこに立(たち)てゆわり[やぶちゃん注:ママ。]するは何者ぞ。」

と、とがめければ、その一聲をきくとひとしく、いかでかこらふべき、

「おのれ、國賊。」

といふまゝに、小脇差、引放(ひきはなち)て、向ふ樣(ざま)にさしければ、聲をも立得(たてえ)ず、

「どふ」

と倒れたり。つゞけざまに、二刀(ふたかたな)、三刀、差してけれども、誰(たれ)ありて立向(たちむか)ふ者もなければ、先(まづ)、其所をば、のきてけり。

 それより、麹町醫師何某がり行ていふよふ、

「今日は心地よき事して、吾、願ひ足りぬ。今は心に望みなし。此上はいかゞせん。かゝる時、人のこゝろ、あわてゝ後(のち)に笑ひをのこすことも多かり。よりて、子(し)と計(はか)るなり。」

とて、顚末、委しく語りければ、每(つね)に親しくする友なりければ、敢ておどろかず、

「そは、よくし玉ひけり。今の身となりて、何の計る事かあらん。但し、三つのケ條あり。此より、君(くん)に告(つげ)て刑を家にまつこそ、上策といふべし。さりながら、これは尋常のことなり。其次(つ)ぎは、此まゝ、家に歸りて自刄すること、中策なり。これは常のことながらも、いさましくして心地よし。其次ぎは、影をかくし、萬一を僥倖(げうかう)[やぶちゃん注:幸運を願い待つこと。]するぞ、下策といふべし。これは世の中の鄙夫(ひふ)[やぶちゃん注:下賤の者。]の業(わざ)なり。」

といゝければ、

「さありけり。吾も此三策を思ひたり。上策よしといへども、命をおしむに似たり。下策、もとより、行ふべからず。中策にしたがはんとおもふ也。」

とぞいひける。

「いざ。名殘(なごり)の酒、くまん。」

とて、數盃(すはい)を傾け、蘭竹の畫、二、三枚を畫(ゑが)きて、家に歸りしが、其夜、自殺して失(うせ)てけり。

 一齋翁の話に、其弟何某【醫師なり。】、來りて、介錯せしとぞ。

 詩集一卷あり。後、林祭酒檉宇(ていう)、予同僚櫻墩(あうとん)をして校正せしむ。石柳溪、偶々(たまたま)來りて、其勞をたすけけり。

「甚(はなはだ)警策(きやうさく)あり。」

とて、たゝへてけり。

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。]

◎林祭酒、海藏ヲ集ノ小花和(おばなわ)ニ校正セシメシハ、「櫻墩ノ才、海藏、ヨク似タリ。」トテ、申付ケラレタルナリ。

[やぶちゃん注:「竹村海藏」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『向陵の弟子、のち林門』。『挙母藩士』(挙母藩(ころもはん)は三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた二万石の譜代大名の小藩)で家は代々藩医であった)。『名は正信一』(「正」は不審)、』『名は蕡』(音「フン」)、『字』は『伯実』。林述斎・佐藤一斎に学び、藩主侍講となり、また、藩士の子弟をも教えたが(ここは講談社「日本人名大辞典」を参考にした)、藩の藩の家老『津村伊左衛門の専権乱政を弾劾して容れられず、文政三』(一八二〇)『年、遂に斬り、切腹した。三六歳』。『森銑三に「奇士竹村悔斎」あり』とある(悔斎は彼の号)。

「向凌翁」既出既注。前注通り、「向陵」が正しい。塾「環翠堂」を営んだ(ここに出る海蔵の少年期のエピソードもその塾であろう)。能書を以って知られた。桃野の母方の親族。

「一齋翁」彼が学んだ、儒者佐藤一斎(明和九(一七七二)年~安政六(一八五九)年)であろう。美濃岩村藩家老佐藤文永の次男。藩主松平乗薀(のりもり)の子の林述斎(じゅっさい)とともに学び、林家の塾頭を経て、昌平黌教授となった。朱子学と陽明学を折衷した学風で、門人に渡辺崋山(本書の次章は「崋山」である)・佐久間象山らがいる。その著「言志四録」は頓に知られる。

「詩集一卷あり」海蔵の遺稿詩集「奚所須窩遺稿(けいしょしゅかいこう)」。

「林祭酒檉宇(ていう)」既出既注。林檉宇(寛政五(一七九三)年~弘化三(一八四七)年)は、かの林家当主林述斎の三男。天保九(一八三八)年)には父祖同様に幕府儒官として大学頭を称し、侍講に進んだ。

「櫻墩(あうとん)」(おばなわなりまさ)底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『小花和氏。名正度』とするが、調べてみると、小花和度正(おばなわなりまさ)が正しいようである。『字君璋』(「くんしょう」か)『銈次郎』(後のリンク先の写真キャプションでは『桂次郎』の表記)『または正助と称す。桜墩は号。一に玉舟と号す。文久元年』(一八六一年)『には日光奉行になった。明治十年』(一八七七年)『十二月四日歿。六五歳』とあるから、生年は文化一〇(一八一三)年(以下のリンク先でもその確認が出来た)。櫻井成孝氏のサイト「HOWDY TOMMY内に画像で載る桜井成広氏の論文「日光奉行小花和内膳正父子」に詳しい(何と、かの夏目漱石の遠縁に当たるとある)。因みに、「墩」という漢字は、中国で用いられる陶磁製の太鼓状の腰掛けで、主に庭園で用いられるあれを指すが、リンク先には彼の愛した隅田川向島の「桜の堤」の意とある。

「石柳溪」「公益社団法人新宿法人会」公式サイト内の「新宿歴史よもやま話」の第七十九回の「灌楽園――松岡藩下戸塚村抱屋敷(5)」の記載の中に、『石川柳渓(名澹、字若水、通称次郎 作、昌平校助教』と出る人物であろう。

「警策」「きやうざく(きょうざく)」「こうざく」とも読み、特にこの場合は、他者が驚くほど、詩文に優れていることを指す。

「海藏ヲ集ノ小花和ニ校正セシメシハ」国立国会図書館版もこうなっているが、これは私には「海藏小花和ニ校正セシメシハ」の錯字のように思われるが、如何?]

反古のうらがき 卷之四 不慮の死を遂し事

 

    ○不慮の死を遂し事

 いつの頃にや、飯田町(いひだまち)といふ所に、手おどりの師匠ありて、夜る夜る稽古するに、かどに立(たち)て見る人もおゝかりけり。こゝに、御家人の隱居ありて、此所を通りけるに、此夜は殊ににぎわいて[やぶちゃん注:ママ。]、はやしなどの音、聞ゆるにぞ、ふと立よりて見るに、人立(ひとだち)おふくて[やぶちゃん注:ママ。]よくも見へず。のび上り、のび上りする程に、後(うしろ)よりおしかゝりて見る人あり。しばしはこらへつれども、餘りにおしかゝるにぞ、少しおしかへすよふ[やぶちゃん注:ママ。]にしたれば、後なる人、大にいかりて、いたく、のゝしりけり。こなたも、一つ、二つ、ものいふ程に、後より、三、四人斗り取かゝりて、「物ないわせそ」といふまゝに、大小の刀のつかを左右の手にとりたり。「こはかなわじ」と、もろ手をかけて引留(ひきとめ)んとて、刀の鍔のあたりをとらへければ、刀は拔(ぬけ)て、左右の手、ともに、指、一つ、二つ、落てけり。これに驚きて手を引たれば、大小の刀とも奪はれてけり。「口惜し」とて追ひ行(ゆく)に、中坂といふ所をさして逃げ行にぞ、「いづく迄も」と追ひかけて、あわひ[やぶちゃん注:ママ。]一間斗りに成りたるとき、左右の手に引(ひつ)さげたる大小の刀をもて、立(たち)かへり樣(ざま)にさしたれば、鍔もと迄、さし入(いり)てけり。此手にたまりあへず、しり居(ゐ)にふしければ、其ひまに、いづち、行けん、さし捨(すて)にして、影だに見へずなりぬ。されども未だ死にもやらず、よふよふに[やぶちゃん注:ママ。]あたりの辻番所に行て、我家にしらせて引とらせけり。たへて手かゞりなければ、何物といふことをしらず。日を經て死(しに)たれども、おしかくして、やみけりとぞ。餘りに不覺なる死(しに)をせしと、人々申(まうし)あへりける。

[やぶちゃん注:「飯田町」底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『田安門外の北から爼板橋の間。町屋。いま千代田区の九段と富士見町とに渡る』とある。現在靖国神社附近(グーグル・マップ・データ)。]

反古のうらがき 卷之四 雷の事

 

    ○雷の事

 叔氏(をぢ)醉雪翁がはたち斗りのとき、余が家に訪ひ來りしが、夕立雲起りて、かみ[やぶちゃん注:「雷(かみ)」。]も少し鳴出(なりいで)ければ、辭して歸らんといふに、此日は七月廿六日にて、余が家にては愛染明王(あいぜんみやうわう)を祭る[やぶちゃん注:軍神として武家で尊崇された。]日なれば、茶のいゝ[やぶちゃん注:茶飯のことか。]燒きたり。「今しばし待玉へ」とてとゞめけれども、「強く雨のふらざるうちに」とて、傘をかりて歸りてけり。四、五町[やぶちゃん注:凡そ四百三十七~五百四十五メートル半。]も行(ゆき)つらんと思ふ頃、雨、く降りて、雷(かみ)一擊あたりに落たりと思ふに、程もなく、門のけはしく引明(ひきあ)けて、酵雪翁、戾り來れり。扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、「今の雷は柳町火の見の櫓に落たり。われ、火の見の見ゆる所迄行たるに、折しも、雨は、しのをみだし[やぶちゃん注:「篠を亂し」。]、一擊の雷ひゞくと覺(おぼえ)しが、向ふ樣(ざま)に、火の光、眼に入り、火の柱の如きもの、火の見の上に落かゝり、すぼめたるからかさの上より、おし付(つけ)らるゝよふに覺へたり[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。折節、一人のくすし[やぶちゃん注:「藥師」。医師。]、來かゝりしが、わが前にひらふしに、ふす。供の箱持(はこもち)もひらふしけり。落たる所よりは、あいだ、二、三十間[やぶちゃん注:凡そ三十七~五十四メートル半。]も隔つらん、おびたゞしき雷なりけり」とかたるに、「そは、危うきことにそありける」など、なぐさめき。しばしが程は此物語りに時をうつしけり。其頃は、雨もやみ、雷もしづまりけるが、雷の落たる處に行かゝりて、驚きたるは、理(ことわ)りなれども、其所が家に歸る道筋なれば、其所に行たらば、雷につかまるゝよふにも覺へしにや、立歸りて余が家に來りしは、何の故といふことをしらず。自(みず)からも心付(こころづき)て、今更何故にこゝ迄は來りけん、今は立ち端(は)[やぶちゃん注:「たちば」とも読む。座を立つべき潮時、タイミング。]もなくてこうじたる處に、折ふし、「茶のいゝは出來にけり、まゐり玉へ」といふがうれしくて、先(まづ)、はしをとりて、たべけり。夕方になりければ、「先きにかり求めたる傘をばかへし侍る」といひて、こたびは、ましぐらに家に歸りけり、とて、老(おい)てのち、余にかたられけり。此頃迄は甲良屋敷に火の見櫓ありしが、此雷(かみ)にくだけにければ、其後は梯(はしご)斗りになりて、今もあり。

[やぶちゃん注:標題「雷の事」も本文に従い、「かみのこと」と読んでおく。

「叔氏醉雪翁がはたち斗りのとき」既出の桃野母の弟で先手組与力であった多賀谷仲徳は天保一〇(一八三九)年に六十五歳で亡くなっているから、二十歳の頃は寛政六(一七九四)年頃となる。桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれであるから、未だ生まれていない。

「甲良屋敷」市谷甲良屋敷。現在の新宿区市谷柳町二十五番地・市谷甲良町。(グーグル・マップ・データ)。サイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)の「市谷甲良屋敷によれば、『徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄』一三(一七〇〇)年に甲良豊前(四代相員。底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『作事の大棟梁』とある)に『譲られ』、正徳三(一七一三)年には『町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから』、『町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになった』という。リンク先には国立国会図書館デジタルコレクションの切絵図画像がリンクされており、それを見て戴くと判る通り、本「反古のうらがき」の多くのロケ地として既にお馴染みの「二十騎町」の直近であることが判る。]

反古のうらがき 卷之四 媒の事

 

   ○媒の事

 近きあたりの人、妻二人迄もてりしが、みな、先だてゝけり。こたびは予が知れる人、媒(なこうど)して、さる國主に宮づかへせし女をめとりけり。男は年四十を越たれば、妻も三十斗にぞ有ける。婚禮の夜も深(ふ)け行(ゆけ)ば、媒は「宵の程」とて立去りにけり。程もあらで、媒が門のけわしく打たゝく者あり。女房、立出で「誰(たれ)」と問ふに、「何某なり、火急に殊に逢はで叶はぬことあり。こゝ、明(あけ)玉へ」といふ。媒は寢入(ねいり)もやらで有ければ、出(いで)て逢(あひ)たるに、せきにせきたるさまにて、「人にもあらぬ者を媒(なかだち)して」といふ聲の聞ゆるにぞ、妻は大におどろきて、壁に耳さしあてゝ聞くに、跡は「ひそひそ」として聞へず[やぶちゃん注:ママ]。又、「一分(いちぶん)立(たて)がたし。」といふ聲きこへて、又、「ひそひそ」と語りけり。『何ごとにや』と案じわずらひけるに、程もなく、さりてけり。媒(なこうど)は妻にも告(つげ)ず臥(ふし)けるが、明けの朝、とく、來りて、又も、奧まりたる座敷に入(いり)て、差向ひにて語るさまなりしが、媒、「いかにや」ととふ。たゞ、「よし、よし」と答へて、さりけり。此事、誰しるものもなくて、すみけり。一年斗り過(すぎ)て子一人、生(うまれ)ける。あやしかりし事になんありけり。

[やぶちゃん注:初夜、その始めに男の驚愕した事実は遂に明かされない。消化不良を起こす奇談である。ヒントは「人にもあらぬ者」一つ。なお、「なこうど」「なかだち」は私の趣味で読み変えたに過ぎない。総て「なかだち」でも問題ない。]

反古のうらがき 卷之四 聯句の事

 

    ○聯句の事

 近き頃のことになん有ける。

 色好める人ありけり。

 近きあたりの色よきおふな【女】[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。なお、「女」は割注ではなく、右脇書。後も総て同じ。]ある家には、かならず、ことによせて入(いり)まじらひて、人しらず、いゝより[やぶちゃん注:ママ。「をうな」が正しい。なお、「おうな」は「嫗・老女」で「老婆」であり、別な語である。]けれども、思ふよふになびくものもあらねば、いたづらに心をくるしめけり。

 こゝに名にしおひたるいたづら女ありける。すがたかたちは、人にすぐれたれども、こゝろざま、あくまであだめきて[やぶちゃん注:「徒めきて」浮気っぽい振る舞いを好み。うわついた感じで。]、おふ程の[やぶちゃん注:「負ふほど」か。沢山の。]おとこ[やぶちゃん注:ママ。]にこゝろゆるすにぞ、定まれる人といふもなくて、幾たりともなく、入(いれ)かはり、立(たち)かはりては、入來(いりき)にけり。

 色好む人、それともしらで、

『己(おのれ)ひとりにこゝろゆるしけり。』

と思ふに、かぎりなくうれしくて、めとりて、妻となしける。

 かゝる女の、人にゆきたりとて、あだごゝろのやむべきことかは。

 おつと[やぶちゃん注:ママ。]有(ある)其時斗りのことにて、又も、あだしきことのみなれば、しばしは、おしこらへつれども、日にくいやまずに、こうじ果て、やむことを得ず、さりてけり。

 これにこり果てたれば、こたびは、たゞしき人のむすめをぞ娶(めとり)てけり。

 これは前には似ず、すがた容(かたち)もよのつねにて、あだしごとは、ゆめ、なきことにぞ聞(きき)けるが、餘りに深くやしなはれたれば、世の人のしらざりしは、ことはり[やぶちゃん注:ママ。]なり。父母だにもしらざる程のことにこそありけれ。

 扨、もゝとせのちぎり[やぶちゃん注:「百年の契り」。]をいはふ【祝】さかづき取かわして、ともにふし[やぶちゃん注:臥所。]に入けるに、おしのふすま[やぶちゃん注:ママ。「鴛鴦(をし)の衾(ふすま)」。本来は、夫婦仲が睦まじいようにという願いを込めてオシドリの模様を縫い取りした初夜の夜具。男女の共寝をする一つの寝具の意。]のうちよりも、たきもの【薰】ゝかほりにあらで、いとあさましき香ぞ、いで來にけり。

『これはいかに。』

と思ふものから、近くよりてきく[やぶちゃん注:「嗅ぐ」の意。]ほどに、おふなが脇の下よりわきいづるが、世の人の病(やまひ)にこへて[やぶちゃん注:ママ。]、おふき[やぶちゃん注:ママ。]にてぞありける。

 世の人のいふなることわざに「夫婦のあいだはかゝる事ありても、しらですぎつることもある」よしなれば、今は始めてのことなれば、かくおどろきぬれども、後には、しらぬよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]に成行(なりゆく)事もや。』

と思ひかへして、いよいよ、むつみよりて、はだへ、かひさすりたるに、若きおふなのよふにもあらで、鮫の魚の皮にさわるよふに覺へけるが、

『これも、今宵の肌寒きによりて、身の毛立(けたち)たるにや、又は、これ迄、深く親(お)やの内にやしなわれたる[やぶちゃん注:ママ。]乙女が、しらぬ家に行(ゆき)て、今(いま)、千世(ちよ)[やぶちゃん注:長い時間。「三世(さんぜ)の契り」のニュアンスであろう。]の初(はじめ)のまじらひなれば、こゝろおそろしく、身の毛立しにや。』

など、吾とこゝろと、とひこたへして、扨も、手をおしくだして、なさけどころにさしやりしに、こはいかに、寐(ね)よげに見ゆる若草の一もとだにもあらばこそ、きのふけふ、もり上(あ)げたるあら墳(ばか)の土(ど)まんぢうの赤壤(つち)[やぶちゃん注:二字への底本のルビ。]も乾(かは)かぬごとくにて、それとも、さらにわきかねたれば[やぶちゃん注:後の続きからみて、「一向に陰部の襞(彼女は所謂、パイパンである)を掻き分けて陰門を探り当てることができなかったので」の意。毛が「湧き兼ねたれば」とも読めるが、それでは「たれば」が上手く始末出来ない。]、

『そこか、こゝか。』

とかひさぐるに、いかでかは、こゝにはあらで、又、外(ほか)に、

『それぞ。』

とおもふところのあるべきことにもあらず。

 墨田河原の今なる

 陶器師(はにし)がやけるかわらけの

 われては

 もとのつちかまや[やぶちゃん注:「土窯」か。]

 こがれはてゝは

 しら灰(ばひ)の

 又ともゆべき

 よふぞなき

『あら、なさけなのなさけどころや。さりとても、なさけ【情】の道にかわり[やぶちゃん注:ママ。]はあらじ。』

と、ふたゝび、かひさぐるに、これもよのつねのさまならず。

 秦のむかしに世を避けて

 入(いり)にし洞(ほら)の跡たへて

 桃の花さへ春しらず

 水の流れはかれにけり

 すなどる舟も

 いまははた

 かよふべきみちの

 ありやなしやをとふに

よしなければ、たゞ、あきれにあきれつゝ、

『扨も、世に用なきものは人の臍(ほぞ)にてありける。これは、ありてもなくてもこともかゝぬ事なるを、さる物は人にかわり[やぶちゃん注:ママ。]たることもなくてありながら、黃金(こがね)にも珠玉(たま)にもかへがたきなさけの道の、かく迄、あさましげなる人も、あるものかな。かゝる人に、千世萬代(ちよよろづよ)のちぎりありとて、なんの樂しみ、何の用かあらん。』

[やぶちゃん注:前の「こがね」「たま」ともに私の当て読み。]

と思へば、吾ならで、淚のこぼるゝにぞ、其夜はこゝろにもあらで、ふしてけり。

 かくて、月日立(たち)けれども、人にも語るべきよふもなく、父母に告ぐべきよふもなければ、

『如何なるゑにしありて、かゝる女にそひ果(はつ)ることぞ。定めて深き先(さき)の世の定まれる業因にや。』

と思ひて過(すぎ)しが、永き年月をば、こらへ果(はて)ずして、又も、さりてけり。

 後、友がり行(ゆき)て、ことのよふを明(あきらかに)して語り侍るに、聯句をぞなしける。

   隱邊無一毛 腋下有多臭友人

世の人、傳へて、

「秀逸。」

とぞいひける。

[やぶちゃん注:読み易さを狙って改行を多用し、一部の韻律的表現部の表記に工夫をこらした。底本は最後の対聯の漢文の他は、完全にベタで書かれてある。「反古のうらがき」では特異点の、バレ句的一条であるが、嗅覚・触覚感覚を打ち出していて面白い。最後の漢詩は総て音で「いんぺんむいちもう えきかゆうたしう」と読んでおく。なお、この一条は国立国会図書館版にはない。]

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