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2018/10/30

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 雲雀料理(序詩)・感傷の手



 雲 雀 料 理

 




[やぶちゃん注:パート標題。左ページ。その裏に以下。活字は詩篇より有意にポイント落ちである。囲み線がブラウザ上では上手く引けないので、画像で示し、文章を改めてベタで後に示した。太字「ふおうく」は画像の通り、底本では傍点「ヽ」。]

 

Hibariryouri

 

五月の朝の新綠と薰風は私の生活を貴族にする。

したたる空色の窓の下で、私の愛する女と共に純

銀のふおうくを動かしたい。私の生活にもいつか

は一度、あの空に光る、雲雀料理の愛の皿を盜ん

で喰べたい。

 

 

 

  感傷の手

 

わが性のせんちめんたる、

あまたある手をかなしむ、

手はつねに頭上にをどり、

また胸にひかりさびしみしが、

しだいに夏おとろへ、

かへれば燕はや巢を立ち、

おほ麥はつめたくひやさる。

ああ、都をわすれ、

われすでに胡弓を彈かず、

手ははがねとなり、

いんさんとして土地を掘る、

いぢらしき感傷の手は土地を掘る。

 

[やぶちゃん注:初出は『詩歌』大正三(一九一四)年九月号。「をどり」が「跳り」、「しだいに」が「しだに」(これは脱字であろう)、「おほ麥」が「大麥(おほむぎ)」、「ああ、都をわすれ、」が「ああ都を忘れ、」、「われすでに胡弓を彈かず、」の読点がなく、二箇所の「掘る」が「堀る」(これは長年の電子化から朔太郎の癖と思う)である以外は変更はない。但し、詩篇末に下インデントで『――一九一四、八、三――』のクレジットがある。「かへれば」は多層的で、畳み掛けた表現で燕は「歸れば」(帰ってしまったので)――雰囲気としての動作としての「返れば」(ふと気になって振り返って見れば)――帰らぬ季節・時制の変化を示す「變れば」(様変わってしまって)等の響きを持たせているように私は感ずる。言わずもがなであるが、「はがね」は「鋼」、「いんさん」は「陰慘」である。「せんちめんたる」その他も含め、こうした意識的なひらがな表記は漢語の硬直したそれを軟体動物の蠢きのように変化させる朔太郎の内在律、錬金術的手法とも言える。]

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