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2018/10/18

和漢三才圖會第四十二 原禽類 突厥雀 (サケイ)

Tadori

たとり  鳩 

突厥雀

     【和名多止利】

 

テッキユッツヨッ

 

本綱突厥雀生北方沙漠池大如鴿形似雌雉鼠脚無後

距岐尾羣飛飛則雌前雄後隨其行止此鳥從北來則大

唐當有賊莊周云此鳥愛其子忘其母

按切韻云小鳥似雉蓋突厥者韃靼之名彼地之鳥

 乎然和名抄既載和名則昔有之乎不知

 

 

たどり  鳩〔(たつきゆう)〕

 雉〔(こうち)〕

突厥雀

     【和名、「多止利」。】

 

テッキユッツヨッ

 

「本綱」、突厥雀は北方沙漠の池に生ず。大いさ、鴿〔(はと)〕のごとく、形、雌の雉〔(きじ)〕に似て、鼠〔(ねづみ)〕の脚、後〔(うしろ)の〕距〔(けづめ)〕、無し。岐なる尾。羣飛す。飛ぶときは、則ち、雌は前、雄は後。其の行-止(ふるま)に隨ふ。此の鳥、北より來るときは、則ち、大唐、當に、賊、有るべし〔と〕。莊周、云はく、「此の鳥、其の子を愛して、其の母を忘る」と。

按ずるに、「切韻」に云はく、『は小鳥にして、雉に似たり』〔と〕。蓋し、突厥(とつけつ)とは韃靼〔(だつたん)〕の名なり。彼の地の鳥か。然れども、「和名抄」に既に和名を載するときは、則ち、昔〔(むか)〕し、之れ、有りつるや、知らず。

[やぶちゃん注:中文ウィキを調べると、サケイ(沙鶏)目サケイ科サケイ属サケイ Syrrhaptes paradoxus(漢名「毛腿沙鶏」)の俗名に「沙鶏」「突厥雀」「寇雉」とある。ウィキの「サケイ」によれば、『中国北部から、モンゴル、中央アジアのカスピ海東岸までの内陸に生息する』。『通常は渡りをしないが、個体数が増えたときは』、『遠方まで飛ぶことがあり』、一九〇六年には『ヨーロッパに大群が訪れた。日本では迷鳥で』、十『例ほどの観察記録がある』。全長約三十八センチメートルで、『体は太り気味で』、『足が短い。翼は長く、先がとがっている。顔は澄褐色、体はやや灰色がかっている』。昭和四五(一九七〇)年に『南三陸町で保護され、その数日後に死亡した個体の標本を志津川愛鳥会親交会が所蔵していた。この標本は、山階鳥類研究所への寄贈が決まり』、二〇一一年四月『以降に移動させる予定だったが、東日本大震災で失われた』とある……津波に流された砂漠好きのの沙鷄よ……お前は今、一体……どこを渡っているのだい……

「池」東洋文庫版現代語訳では『地』とあるが、原典及び別版本で「池」とした。

『莊周、云はく、「此の鳥、其の子を愛して、其の母を忘る」と』

「切韻」隋の韻書。全五巻。六〇一年成立。反切(はんせつ:ある漢字の字音を示すのに、別の漢字二字の音を以ってする方法。上の字の頭子音(声母)と下の字の頭子音を除いた部分(韻母)とを合わせて一音を構成するもの。例えば、「東」の子音は「徳紅切」で「徳」の声母[t]と「紅」の韻母[]とによって[toŋ]とする類)によって漢字の音を表わし、百九十三韻を「平声(ひょうしょう)」・「上声(じょうしょう)」・「去声(きょしょう)」。「入声(にっしょう)」の四声に分類した書。陸法言・劉臻(りゅうしん)・顔之推・盧思道・魏彦淵・李若・蕭該・辛徳源・薛道衡(せつどうこう)の九人が、古今各地の韻書について議論した結果を、陸法言が系統的に整理した。原本は早く失われたが、敦煌から一部が発見されている。唐代、他の韻書を圧倒して、詩の押韻の基準に用いられ、その後、王仁昫(おうじんく)の「刊謬補欠切韻」、孫愐(そんめん)の「唐韻」等により増補し、北宋の陳彭年の「広韻」によって集大成された。これらは〈切韻系韻書〉と呼ばれ、中上古の中国語の体系や音韻を推定するための貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここに出るように、辞書としての役割も持つ。

「蓋し」そもそもが。

「突厥(とつけつ)とは韃靼〔(だつたん)〕の名なり」「突厥」は、六世紀中頃から八世紀中頃まで、モンゴル・中央アジアを支配したチュルク族阿史那(あしな)氏の建てた遊牧国家。もとは柔然(じゅうぜん:四~六世紀、モンゴル高原に栄えたモンゴル系遊牧民族及びその国家。族長の社崘(しゃろん)が君主の称号である「可汗」を名乗った五世紀前半が最盛期。北魏と対立し、五五五年に、この突厥に滅ぼされた)の支配下にあったが、阿史那氏に土門(伊利可汗)が出るに及んで、強大となり、鉄勒諸部を従え、柔然から独立した。第三代の木杆可汗(もくかんかがん)に至って、柔然を滅ぼし,契丹・キルギスを破り、また西方ではエフタルをも破った。突厥の国家は中央部を大カガンが支配するほか、多くの小カガンが分立していたが、五八三年、西部を支配した西面可汗達頭は大カガンから独立、突厥は東西に分裂した。東突厥は暫くは強勢を誇ったが、その支配下にあった鉄勒諸部の反乱を受け、六三〇年に唐に帰属して一時消滅し、西突厥も、七世紀末に内紛で滅んだ。東突厥は七世紀末に阿史那骨咄禄(あしなこっとつろく)が出て、復興、自らイルテリシュ・カガンと称した。以後、数代にわたってモンゴルを支配したが、内紛を生じ、七四四年に鉄勒の一部であるウイグルに滅ぼされた(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。一方、「韃靼」は、本来は、モンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称である。タタールは十一~十二世紀に於いて、モンゴリアでは最も有力な集団の一つであり、また、モンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため、宋人はタタールを「韃靼」と呼んだが、それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。十二世紀末から十三世紀初めに、モンゴルにチンギス・ハーンが出現、モンゴル帝国が出現するに及んで、タタール集団の力は衰えた。従って、厳密には「突厥」はイコール「韃靼」であるわけではない

『「和名抄」に既に和名を載する』「和名類聚鈔」には「突厥雀」ではなく、巻第十八の「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に、「鵽鳥」(標題の異名に挙がっている「鵽鳩」の最初の漢字と一致)として、

   *

鵽鳥(タトリ) 陸詞が「切韻」云はく、『鵽』は【「古」「活」の反。和名「多土利」。】、小鳥にして雉に似たり。

  *

とある。「多土利」は古本では「多止利」なので、これである。

「昔〔(むか)〕し、之れ、有りつるや、知らず」「昔からこの鳥は本邦に(「和名類聚鈔」が載せる以上は、そう理解するのがまずは自然)いた(と考えられていた)のであろうか。よく判らない」の意。]

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