古今百物語評判卷之二 第三 有馬山地ごく谷・ざたう谷の事
第三 有馬山(ありまやま)地ごく谷・ざたう谷の事
又、問(とふ)ていはく、「有馬山に『地獄谷』といふ所あり。『鼓(つゞみ)が瀧(たき)』の近所にて御座候が、五尺四方ばかりの、ちいさき穴なり[やぶちゃん注:ママ。]。所の者、申候(まうしさふらふ)は、『此穴へ、何にても、生(しやう)ある物、入(いり)候へば、たちまち死し、又、其土をとりて、たむしなどにつくれば、其まゝ、なをり候[やぶちゃん注:ママ。]。是れ、地獄にて候ゆへ、かくのごとし』と申侍る。又、『ざたう谷』と申(まうす)は、むかし、盲目ありて、道をふみまよひて、此處(このところ)に死せし故、其たましい[やぶちゃん注:ママ。原典は『たましゐ』。]、變じて、大石(だいせき)となりて、此谷にのこれりとて、其たけ、一丈ばかりなる石、ざたうのごとくにみえて、今にあり。此事、いかんぞや」。先生、いへらく、「是、覺束なき名に侍る。其『地獄谷』といふは、もと、湯のわき出(いづ)る山なれば、硫黃(ゆわう[やぶちゃん注:原典のルビ。硫黄(いおう)の古名。])のせい、其下にさかんなる所へ、水のながれ、出(いづ)れば、其水、へんじて溫湯(あつゆ)となる事、もろこしの地理の書(ふみ)どもに、みえたり。されば、有馬も硫黃山(ゆわうやま)なれば、其『地獄谷』の近所も、『ゆわう』有(ある)べし。水すじ[やぶちゃん注:ママ。]なき故、湯、わかねども、湯黃(ゆわう)の氣によりて、其穴へ入(いり)たるむしの類(たぐひ)、死するなるべし。又、『ざたう谷』の事は、唐土(もろこし)にても、『望夫石(ばうふせき)』の故事と相似(あひにた)り。是、たまたま、其石の、人がたちに似たるを以て名付(なづけ)たるべし。疑ひ給ふべからず」。
[やぶちゃん注:標題「ざたう谷」はママ。「座頭谷」であるから、「ざとう」が正しい。実は有馬温泉の怪奇談は枚挙に暇がないほどあり、私も電子化で手掛けたその総てを挙げることが出来ないほどである。「諸國里人談卷之四 皷瀧【蛛滝 有明櫻 屏風岩 高塚淸水】」及び「諸國里人談卷之四 有馬毒水」の本文及び私の注が、ここでは「地獄谷」・「座頭谷」・「皷が瀧」等が調べてあるのでかなり有効であるから、まずはそちらを参照されたい(ここでは改めてそれらは注しない)。「座頭谷」は宝塚から有馬温泉に向かう有馬街道の途中にある蓬莱峡の一部で、ウィキの「蓬莱峡」に『座頭谷は、その昔、ここを通りかかったひとりの座頭が道に迷い、ついには行き倒れになったという言い伝えから名づけられたものである』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。本格怪談話としては、「諸國百物語卷之一 二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事」や、「御伽百物語卷之四 有馬富士」が印象に残る。
「たむし」「田蟲」。白癬の一種で、皮膚に小さな丸い斑点が生じ、それが次第に周囲に向かって円状(銭状)に広がって、中央部の赤みが薄れて輪状の発疹となる。痒みが激しい。股間に生ずるものは特に陰金田虫(いんきんたむし)という。銭田虫。
「望夫石」中国では湖北省武昌の北の山の上にある岩を指し、昔、貞女が戦争に出かける夫をこの山上で見送り、悲しみのあまり、そのままそこで岩となってしまったとする伝承がある。本邦でも同様の伝承は各地に散在し、その中でも肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)に伝わる松浦佐用姫(まつらさよひめ)の話は有名。彼女は百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾(ひれ:肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具)を振って別れを惜しんだが、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部(かべ)島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている。
「人がたち」「人形」で人の姿の意。心霊写真などに見られるシミュラクラであると一蹴する元隣は、流石、って感じ。]
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