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2018/10/04

古今百物語評判卷之一 第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首見給ひし事

 

  第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首見給ひし事


Hitouban

かたへの人の云(いふ)、「ろくろ首と申(まうす)物は、はなしのみかとおもへば、此頃、絕岸和尙といふ僧、西國行脚の折から、肥後へ行(ゆき)て、「しころ村」といふ所に一宿せられしに、軒(のき)あばらなる、かり枕、風、凄(すさ)まじく吹き落ちて、夢もまどかならざりければ、夜更(よふくる)まで念佛稱名して居(ゐ)給ひしに、うしみつばかりに、其屋の女房の首、むくろよりぬけて、窓の破(やぶ)れより、飛出(とびい)でぬ。『あやし』と思ひて、念比(ねんごろ)に見れば、其首の通(かよ)ひしあとに、白きすじ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のやうなる物、見えたり。『是れこそ轆轤首よ』とおそろしく、誠に過去の業因までおしはからるゝに、夜明がたになりて、其すじ、動(うごく)やうにて、又、もとの處より、彼(か)の首、かへり、「につこ」と笑ふやうにて、おのがふしどに入りぬ。夜明(よあけ)て、其女房を見れば、首のまはりに筋あるやうにて、別のかはりなし。和尙も『亭主に語らばや』と思ひけれど、『いらざる事よ』と、默して、歸りぬ。『誠に出家の身ながら、おそろしかりし』と語(かたら)れ侍りしが、此事、いかに」と問ひければ、先生、評していはく、「此首の事、唐(もろこし)にも侍り。「博物志」には、南方に「尸頭盤(しとうばん)」とて、每夜、人の首、むくろよりぬけて、耳をもて、つばさとす、と見えたり。又「搜神記」には、女の首、とびし事を載せたり。されども、轆轤(ろくろ)の名は見ざりしに、此比(このころ)、元(げん)の陶九成(とうきうせい)が「輟耕錄(てつかうろく)」をよみしに、陳孚(ちんぷ)といふ者の南蠻紀行の詩に「頭飛如轆轤 鼻吸似」と、かき侍る。されば、此詩の心は、南蠻の人には、ろくろ首ありて、釣甁(つるべ)をおろしあぐるがごとし、又、鼻にて物を吸ふ事、もたひに水を移すがごとし、となり。是等の類(るい)を以て見る時は、むかしより、多く南蠻の中(うち)に侍るなるべし。天地のかぎりなき造化の變に至りては、水母(くらげ)の目なく、蝙蝠(かうもり)のさかさまにかゝり、梟(ふくろ)の晝(ひる)目(め)しいたる類(たぐひ)、一わうの見識にては、はかりがたし。されば、肥後にもあるまじきにもあらず。いかさまにも都方(みやこがた)には希(まれ)にも聞き及ばず。すべて、あやしき事は遠國(をんごく)にある物なりと思ひ給ふべし」。

[やぶちゃん注:本条は既に、「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」の注で電子化しているが、今回は底本を変えているので、本文も注もゼロから全くやり直してある。「頭飛如轆轤 鼻吸似」は句間に読点があるが、漢詩であるので除去して字空けとした。因みに、「叢書江戸文庫」版では、これを、

 頭(くび)の飛ぶこと 轆轤(ろくろ)のごとし 鼻の吸ふこと 瓴(もたひ)に似たり

と訓じてあるが、私は、

 頭(かしら)の飛ぶこと 轆轤(ろくろ)のごとく 鼻の吸ふこと 瓴(もたひ)に似たり

と訓じたくなる。但し、残念ながら、原典も「くび」である。「瓴」は陶器製の吸飮(すいの)みのようなものを指すものであろうと思われ、彼らは鼻から摂餌対象物(水だけでなく、後の引用を見て貰うと判るが、「蟹蚓之類」(エビ・カニ類やミミズ等の蠕虫類)も餌であるとある)を吸い込む(後の注の森信壽氏の「非科學時代の迷信」の引用を参照)が、その音が、それを用いて吸い飲む時の「チュルチュル」という音に似ていたという意味であろう。ただ、現在の「輟耕錄」(元末の一三六六年に書かれた在野の文人学者陶宗儀(字が九成)の随筆。全三十巻。正しくは「南村輟耕錄」で、南村(なんそん)は陶宗儀の号)を幾ら探しても、当該箇所が見当たらない。但し、「元詩紀事」巻九に、元の政治家陳孚(一二五九年~一三〇九年)の詩として「安南卽事」の詩を引き(彼は一二九二年に安南(現在のベトナム)に官人として赴いている)、そこに逆転した、「鼻飮如瓴 頭飛似轆轤」の詩句を見出せる。中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらで原文と注が読めるが、かなり長いものである。而してその注には、『習以鼻飮、如牛然。酒或以小管吸之。峒民頭有能飛者、以兩耳爲翼、夜飛往海際、拾魚蝦而食、曉複歸、身完如故、但頸下有痕、如紅線耳』とあり、詩本文(五言排律)だけなら、中文サイトのこちらでも読める。

「絕岸和尙」不詳。禅僧(これで「おしょう」と読む場合は通常は禅宗・浄土宗の高僧・住持の尊称である)にはありそうな名で、実際、南宋末から初に活躍した臨済宗破庵派に絕岸可湘(ぜつがんかしょう 一二〇六年〜一二九〇年)がいるが……。

「しころ村」不詳。どうも気になる村名である。「しころ」は「錣」「錏」で兜(かぶと)の鉢の左右や後ろに革や鉄板を綴り合わせて造る垂らし物、例の頸部を守ものあれであり、やはり頭巾の顔面や耳から後頭部に垂らして顔や頸部を隠すための薄い裂(きれ)もかく呼ぶからである。妙にハマり過ぎている村名ではないか……。

「夢もまどかならざりければ」余りの荒天の戸外の音の激しさに、夢を見れるような安眠を得られなかったため。

「うしみつ」「丑満つ」或いは「丑三つ」。午前二時。

「むくろ」「軀・身」。胴体。

「念比(ねんごろ)に見れば」「懇ろに」、極めて注意して観察したみたところ。

「通ひしあと」飛んで行ったその後に。ここは附図から蜘蛛の糸のように胴体と繋がった細い糸状のものであり、それが空中に光って見えたものであろう。中国の飛頭盤や本邦の分離型の轆轤首では、この胴体と繋がった糸筋を截ち切ったり、或いは胴体の位置を動かしたりすると、頭は元に戻れずに死んでしまう(後の「明史」の引用参照)ことになっているケースが多い。

「すじ」ママ。「筋(すぢ)」。

『「につこ」と笑ふやうにて』これが本話の恐怖のクライマックスである。

「首のまはりに筋あるやうにて、別のかはりなし」「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」の注で私が引いた「甲子夜話」(そこには確かに「世の人、云ふ。轆轤首は其人の咽に必ず紫筋(むらさきのすぢ)ありと」という同様の謂いが載るが)や「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」のケースように、撫で肩でほっそりとして、そのために首が幾分長く見え、美人ではある(家族総てが轆轤首のケースを除いて私の知るそれは、皆、美人である)のだけれども血行不良等で顔色が悪く、しかも首の皮膚の横筋が特に目立つ場合、それがアダとなって、「あの娘は轆轤首だ」などという心ない(美人故に流されるイジメとしての)噂が立つのであった。

「博物志」西晋の宰相で博物学者でもあった張華(二三二年~三〇〇年)の著になる奇聞・伝説集。全十巻。神仙・怪人異人・動植物についての記録を主とし、民間伝説なども含まれた奇体にして面白い博物書である。元は四百巻あったとされ、現行本は散逸後、後世の誰かが諸書に引用されたものを集めたものと考えられている。但し、現行本には「尸頭盤」の記載は見当たらないように思う。但し、他書の「博物志」引用とする中に出るものらしく、森信壽氏の「非科學時代の迷信」PDF・雑誌『風俗研究』第十五・大正七(一九一八)年八月十五日芸艸堂発行・萩原義雄氏入力)の冒頭の「一、轆轤頸」には(正字不全はママ)、

   《引用開始》

 轆轤首とは大槻博士が言海に『にけくび[やぶちゃん注:ママ。所持する「言海」を見たところ、「ぬけくび」の誤りであることが判明した。]妖怪の名頸甚だ長く伸び縮みするものと云ふ』と説明されてゐるが、尚一層廣義に解して「頭首が軀幹を離れて遠く飛去するもの」を包含してよからう。支那の書籍には多くこの記事が載つてゐる、即ち「南方異物志」には『嶺南溪峒中有飛頭蠻者項有赤痕至夜以耳爲翼飛去將曉復著體』顧秉謙の三才圖會には『大闍娑國中有飛頭者其人目無瞳子其頭能飛其俗所祠名曰蟲落因號落民』(寺島良安の和漢三才圖會には此條を引き其國中人不悉然也)とある[やぶちゃん注:句点なしはママ。]「明史」占城の條下には『有尸頭蠻者一名屍致魚本媚人、惟無瞳神爲異夜中與人同寢忽飛頭食人穢物來即復』(「博物志」「酉陽雜爼」に引くところも大同小異である)以上引くところの記事を概括すると南方なる一蠻民に飛頭蠻若くは落頭民等と名けらるゝものがあって、此ある民族では、その頭首が夜に入れば拔け出で耳を以て翼とし、諸々を飛翔し虫類を採り食ひ曉となると歸り來つて元の如く軀幹に附着すると云ふのである。扨此飛頭者の頭首が軀幹より離るゝ前後の狀態は「太平廣記」に『飛頭獠、善鄯之東、龍城之西南地、廣千里皆爲田行人所經牛馬皆布氈臥焉。其嶺南溪峒中往々有飛頭者而飛頭一日前頸有痕、匝項紅縷妻子看守之其人及夜。狀如病。頭忽離身而去。乃于岸泥尋蟹蚓之類食之將曉如夢覺其實矣』一寸精神病學から云ふ睡游症のやうなものであらう。又この飛頭の者は鼻から水を飲むと傳へられてゐる。龍威秘書中の「輟耕録」に元の陳孚が安南へ使せし時の詩句を載せて曰く『鼻飲如瓴首飛似轆轤と[やぶちゃん注:鍵括弧閉じると句点がないのはママ。]「百物語評判」に之を和譯して『南蠻の人には「ろくろ首ありて、釣瓶をおろしあぐるが如し」と[やぶちゃん注:句点なしはママ。]蓋し轆轤首てふ名は是等から由來してゐるのである。この外惟り[やぶちゃん注:「り」はママ。衍字か。]頭首のみでなく両手亦飛去し而も各相異りたる方面に飛ぶと云ふ記載がある。王子年が「拾遺記」に『漢武時因墀國南方有解形之民、能先使頭飛南海左手飛東海右手飛西海至暮頭還肩上遇疾風飄於海外』など出てゐる。

   《引用終了》

とあり(この後には、まさに本「古今百物語評判」の本条が部分的に引かれてある)、この「博物志」『に引くところも大同小異』とする「明史」の「尸頭蠻」が元隣の「尸頭盤」とほぼ一致する。「明史」のそれは中文サイトによれば、「列傳第二百十二 外國五」に以下のように載る。

   *

有尸頭蠻者、一名尸致魚、本婦人、惟無瞳神爲異。夜中與人同寢、忽飛頭食人穢物、來卽復活。若人知而封其頸、或移之他所、其婦卽死。國設厲禁、有而不告者、罪及一家。

   *

『「搜神記」には、女の首、とびし事を載せたり』同書の「卷十二」の以下。

   *

秦時、南方有「落頭民」、其頭能飛。其種人部有祭祀、號曰「蟲落」、故因取名焉。時、將軍朱桓、得一婢、每夜臥後、頭輒飛去。或從狗竇、或從天窗中出入、以耳爲翼、將曉、復還。數數如此、傍人怪之、夜中照視、唯有身無頭、其體微冷、氣息裁屬。乃蒙之以被。至曉、頭還、礙被不得安、兩三度、墮地。噫咤甚愁、體氣甚急、狀若將死。乃去被、頭復起、傅頸。有頃、和平。桓以爲大怪、畏不敢留、乃放遣之。既而詳之、乃知天性也。時南征大將、亦往往得之。又嘗有覆以銅盤者、頭不得進、遂死。

   *

「狗竇」(クトウ)は扉の下に設けた「犬潜り」のこと。

「類(るい)」原典のルビを採った(正しくは「るゐ」)。まあ、確かに、後の「類(たぐひ)」とは差別化すべきところではある。

「一わうの見識にては、はかりがたし」「一わうの」は歴史的仮名遣から見て「一往の」であろう。副詞で「十分ではないが、一通り・大略」の意であるが、ここはそれを否定的に用いて、ただ通り一遍の無批判な低レベルでの認識では、とんでもない生態や習性を持った生物の存在や核心の真相を知り得ることは難しい、というのである。中国では盛んに記録として残っていても、日本の古記録には見当たらないからといって、本邦の肥後に轆轤首がいようはずがない、という認識は誤りだ、と元隣は言っているのである。しかし、認識論的な智の問題で大きく振り被ったのはいいが、「いかさまにも都方(みやこがた)には希(まれ)にも聞き及ばず。すべて、あやしき事は遠國(をんごく)にある物なりと思ひ給ふべし」という「チャンチャン!」的なオチは、如何にもショボ過ぎる。評言が例を重ねるのはいいとしても(しかし、評釈部は前説のエピソードとほぼ同じ分量である)、こういう一貫性のない物の言いが本怪談集の残念な一面なのである。]

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