萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 ありあけ
ありあけ
ながい疾患のいたみから、
その顏はくもの巢だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、
腰からうへには籔が生え、
手が腐れ、
身體(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出で、
有明の月が空に出で、
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形の白犬が吠えてゐる。
しののめちかく、
さみしい道路の方で吠える犬だよ。
[やぶちゃん注:これも「悲しい月夜」に続いて、本詩集名の由来する一篇。或いは、こちらの詩集の方が具体なヴィジュアル性の高さから、「月に吠える」のイメージとしては相応しいように思われる。因みに、私は「月に吠える」というと、何故か、後のジョアン・ミロ(Joan
Miro)の一九二六年の作品「Dog Barking at the Moon」を思い出すのを常としている(こちら(英文サイト))。私は凄愴たる絵より、朔太郎が生きていたら(彼は昭和一七(一九四二)年五月十一日に急性肺炎で亡くなっている)、きっと気に入ったに違いないとさえ思っている作品である。初出は『ARS』(創刊号)大正四(一九一五)年四月号。初出形を以下に示す。
*
ありあけ
ながい疾患のいたみから、
その顏は蜘蛛の巢だらけとなり、
腰から下は影のやうに消えてしまひ、
腰から上には竹が生え、
手が腐れ、
しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり。
ああ、けふも月が出で、
有明の月が空に出で、
そのぼんぼりのやうなうすあかりで、
畸形の白犬が吠えて居る。
しののめちかく、
さむしい道路の方で吠える犬だよ。
*
「ぢつに」はママ。個人的には断然! 「籔」より「竹」だ!
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『ありあけ(本篇原稿五種五枚)』とし、二篇(前者は標題「黎明の散步」で、後者は無題)が載る。以下に示す。表記は総てママである。
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有明の 月 步行
黎明の散步
ありやけ月のうす白み
月かげのさびしきことは限りなし
み空をながれああわれの病おもたく
あらゆるところに疾みを登し
我のこの→人の→その右の手は白み
鼻白み
電線くもの巢のごとくからみ顏にはくもの巢がかゝり
腰から下のごときはもつともじつにめちやくちやなり
ああこの地面に鋭どき柱をたて
ましろき象牙をたて
常夜の闇を步かしめ
霜の夜天に尖れるものを
人肉の上にも光らしめ、
みよ、いたるところに遊行し
ありやけの人間は人體は血みどろなり
○
病氣のその靑い顏は蜘珠だらけになり
腰から下のごときもつともはやはらかくなりて消えてしまひ
腰から上には竹が生え
長い疾患のいたみから
あたまは光る金屬になり
しんたいいちめんじつにめちやくちやなり
ああけふも月が出て
有明の月が空にさむざむいでさむざむ→しろじろと淚ながるゝ
いたるところに遊行し淚
さぞやさむしかろうとおもへど
そのさむしさに淚ながしつゝあれど
畸形なる病氣病犬とつれだちてあゆむなり
有明の月はしろじろと墓場の上に
そのぼんぼりのやうなうすあかりで
しみじみと
畸形な病白犬が吠え居るのをきき、
*
以上の後者の「有明の月はしろじろと墓場の上に」と「そのぼんぼりのやうなうすあかりで」の間については、編者注に『空白がある』という記載があるため、敢えて三行空けた。或いは前のパートの終りの部分の、別詩想に基づく並置残存でもあるのかも知れない。他に、『「有明の月と犬有明の月と白い犬」と題をつけた別稿がある。また、末尾に「三月十六日」と制作月日を示した原稿もある。』とある。]
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