古今百物語評判卷之五 第一 痘の神・疫病の神附※1※2乙(きんじゆおつ)」の字の事
百物語評判卷之五
第一 痘(いも)の神・疫病(やくびやう)の神附※1※2乙(きんじゆおつ)」の字(じ)の事
[やぶちゃん注:「※1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「※2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」。]
ある人、問(とふ)て云(いふ)、「痘の神・疫病の神と申(まうす)ものこそ、まざまざある物に候哉(や)。又、たゞ病氣のうへのみなるを、かく申(まうし)ならはせるや」と問(とひ)ければ、先生、答へて云はく、「痘の神・疫病の神、ともに、あるべし。痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたるよし、醫書にみえたり。元、人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり。されば、其根ざしは胎毒(たいどく)なれども、其いざなふ物は時の氣なり。そのあつまれる處、則ち、鬼神あり。是れ、痘の神なりけらし。それにより、世俗にしたがひて送りやりたるも、輕くなる理(ことわり)、なきにあらず。又、疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふれど、其靈(たましひ)の、今の世まで、さながら[やぶちゃん注:そのまま。]生き通して、我が日の本にわたれる事も、あるまじ。おもふに、疫病のはやる時は、多くは飢饉の後(のち)なれば、其道路にうへ死(じに)せるやからの、生(しやう)あるときだに、一飯もわけらるべき方(かた)[やぶちゃん注:手立て。]なければ、まして、死後にまつらるべきしたしみもなき亡魂どもの、あつまりて、人に[やぶちゃん注:ママ。]おそふが故に、その執(しう)に乘じていふ空言(そらごと)、おほくは、衣食(えじき)の事のみなり。又、兵亂(ひやうらん)の後(のち)にも行はるゝは、其戰場にて果(はて)し魂魄の疫鬼(えやみのおに)となれるなるべし。其(その)うけたる人の強弱にしたがひて、生死(しやうじ)の品(しな)もかはるにや。かくはあれど、孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば、其惡鬼をさくるやうに、まじなひて、名香をたき、雄黃(をわう[やぶちゃん注:原典のママ。])をかぎ、又、神符(しんふ)など書附(かきつけ)たるも、よろし。近比(ちかごろ)、家々に「※1※2乙(きんじゆつおつ)」といふ字をはりしは、「群談採餘(ぐうだんさいよ)」僧(そう)の部に出でたる故事なり。元の末つかた、天下に疫氣(えきき)はやりし時、浙江(せつこう)といふ渡しのあなたなる在所は、いまだ、其(その)類(るい)なし。ある時、老僧一人來り、其わたしの船頭をよびて云(いひ)けるは、『たゞ今、此所を、黃なる裝束したる者五人きたりて、「渡らん」といはゞ、必ず、わたすべからず。此五人はたゞ今、天下にはやる疫鬼(えきき)なり。もし强(しい)て「渡らん」と云はゞ、此文字を見せよ』とて、老僧は行きがたしれずなりにけり。船頭、あやしき事に思ひけるに、あんのごとく、五人の者、來たりて、『舟に乘せよ』といふ。船頭、うけがはざりければ、五人の者、大きにいかつて、船頭を打擲(ちやうちやく)せんとする。『すはや』と思ひて、彼(かの)文字のかきたるをみせければ、五人の者、見るとひとしく、跡(あと)をも見ずして、逃げたり。船頭、『さては。疫神にまぎれなし』とおもひ、急に追(おつ[やぶちゃん注:原典のルビ。])かければ、五人の者の、背(せなか)にちいさき籠(かご)をおひたるが、捨(すて)て逃(にげ)たり。船頭、今は間(あい)もへだゝれば、是非なく、其かごをとり、歸りて、ひらき見れば、ちいさき棺桶、三百づゝを入れたり。驚き、在所に歸りて、始めおはりを語りて、彼(かの)文字を家々におしける、となん。此文字なかりせば、その棺のかずほど、人を殺さむ爲(ため)なるべし、といふ事、みえたり。今の「※1※2乙」はそれを用ひたるなり」と語られき。
[やぶちゃん注:今までもそうだが、本条の原本のルビは歴史的仮名遣の誤りが特にひどい。今まで通り、勝手に私が訂しており、それについての注はしていない。本篇は元隣の話の五人の疱瘡神の話が私は知らなかったので面白く読めた。
「痘」疱瘡(ほうそう)。天然痘。「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の「疱瘡」の注を参照されたい。序でに、ここに関連させて、「耳囊 卷之四 疱瘡神狆に恐れし事」・「耳囊 卷之五 痘瘡神といふ僞説の事」・「耳囊 卷之七 痘瘡の神なきとも難申事」等も読まれると面白かろう。
「痘瘡(いもがさ)は、いにしへは、なし。戰國の頃より發(おこ)りたる」前者は正しいが、後者は誤り。ウィキの「天然痘」によれば、『日本には元々』は『存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった』六世紀半ば(古墳時代末期)に『最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇』(びだつ 宣化天皇三(五三八)年?~敏達天皇一四(五八五)年?)『が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた』。「日本書紀」には(敏達天皇十四(五八五)年三月丙戌三十日の条。オリジナルに示す)、
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發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。
(瘡(かさ)發(い)でて死(みまか)る者、國に充ち盈(み)ちたり。其の瘡を患はむ者、言はく、「身、燒かれ、打たれ、摧(くだ)かるるがごとし」と。啼き泣きつつ死ぬる。老いも少きも竊(ひそ)かに相ひ謂ひて曰く、「是れ、佛像を燒く罪か」と)。
『とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)』五八五年の『敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている』とある。
「醫書にみえたり」言わずもがなかも知れぬが、筆者山岡元隣は医師であることをお忘れなく。
「人の、胎内にやどりしときは、母のふる血を吞(のみ)て此身命(しんみやう)を長ず。其(その)とゞこほりし惡血(あくけつ)の毒、後々の時の氣にいざなはれて發(はつ)して痘瘡となれり」誤りであるが、胎児性の先天性感染性疾患と見做している。しかし、これは漏れなく総ての人間に当て嵌まる現象ということになり、元隣はその天然痘の病原を含んだ悪血胎毒を出生後に持っていても、「時の氣」(ある条件と体調の一致)に遭遇しなければ発症しない、則ち、そうした健常者、「キャリア」もいる、と考えていることになる。
「送りやりたるも」痘の疫神を追儺(ついな)することによっても。
「輕くなる」病状が軽くて済む。
「疫病の神と云(いへ)るは、もろこしの書には、上古の惡王子(あくわうじ)のたましゐ、此神になれりとかや云ひ傳ふ」出典不詳。識者の御教授を乞う。なお、ウィキの「瘟鬼」には(下線太字やぶちゃん)、『瘟鬼(おんき)は、中国に伝わる鬼神あるいは妖怪。疫病、疱瘡を引き起こすなどして人間を苦しめるとされる』。『瘟部神(おんぶしん)、瘟司(おんし)、瘟疫神(おんえきしん)とも言う』。『疫病や伝染病をひとびとにもたらして苦しめるという存在である。季節ごとにこれらを迎えたり送ったりして病害が大きなものにならぬよう祈りをささげる行事などが民間に広く伝承されていた』。『また、天の神々がふとどきな行いをかさねている人間たちに対して罰を下すために瘟鬼などを向かわせるという伝承も古くは存在しており、天界にはそのための瘟神・瘟鬼たちが詰めている瘟部(おんぶ)という場所があるとも伝えられていた』。『瘟鬼たちは五人組で行動をとることが多いと言い伝えられており、それを五瘟(ごおん)または五瘟使者(ごおんししゃ)などと称した。家畜に起こる伝染病に対しての祈願との関係で五瘟鬼それぞれに馬・牛・鶏・羊・兎など別々の禽獣の頭を持つ鬼神の図が描かれたりすることもある。縁起の悪い文字を忌み吉字をもって記載をする地域では「瘟」の字を忌んで「福」とし、これを五福大神、五福使者などと表記することもある(台湾などで見られる)』とある。また、ウィキの「五瘟使者」によれば、『五瘟使者(ごおんししゃ)は、中国に伝わる疫病をつかさどる神、鬼神。五方瘟神(ごほうおんしん)、五瘟大王(ごおんだいおう)、五福使者(ごふくししゃ)、五福大帝(ごふくたいてい)などとも言う』。『天界に存在する瘟部(おんぶ)に属するとされ、人々に流行病などをもたらしたりするとされた。「瘟」の字が縁起の悪い文字であるということから「福」という文字を用い、台湾などでは五福と表記することもある』。『五人の神によって構成されており、それぞれ』、東(春)を張元伯(東方青瘟)が、南(夏)を劉元達(南方赤瘟)が、西(秋)を趙公明(西方白瘟)が、北(冬)を鐘仕貴(北方黒瘟)が、中央を史文業(中央黄瘟)が『支配するとされる』。『支配下に五毒将軍(ごどくしょうぐん)が存在する』。中国の『南北朝時代』(北魏が華北を統一した四三九年から始まり、隋が中国を再び統一する五八九年までの中国の南北に王朝が並立していた時期)の『天師道』(「五斗米道(ごとべいどう)」に同じ。通説では後漢末に張陵(張道陵とも)が蜀(四川省)の成都近郊の鶴鳴山(或いは鵠鳴山とも。現在の大邑県)で起こした道教教団。二代目の張衡の死後、蜀では巴郡巫県の人である張脩(張修)の鬼道教団が活発化した、益州牧劉焉の命で、三代目の張魯とともに漢中太守蘇固を攻め滅ぼしたが、後に張魯が張脩を殺害してそれを乗っ取り、漢中で勢力を固めた。ここはウィキの「五斗米道」に拠った)『の書で鬼神のことについて記してある』「女青鬼律」の中にも、『張元伯・劉元達・趙公明・鐘仕貴・史文業は疫病に関する鬼たちを領している鬼主(五方鬼主)であると記されている』とある。実はウィキの「瘟鬼」が典拠の一つとしている、澤田瑞穂氏の「修訂 地獄変」(一九九一年平河出版社刊)は所持しているのだが、今は書庫の底に沈んで見出せない。或いは、それでここに、よりよい注を附すことが出来るかも知れない。発掘し次第、追記する。
「空言(そらごと)」病人の譫言。
「生死(しやうじ)の品(しな)」回復や悪化といった病態。
「孔子も鄕人(きやうひと)の儺(おにやらひ)をいみ給はねば」「論語」の「郷党篇」の「十之十」に、
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鄕人飮酒、杖者出、斯出矣。鄕人儺、朝服而立於阼階。
(鄕人(きやうひと)と酒を飮むに、杖者(ぢやうしや)出づれば斯(ここ)に出づ。鄕人の儺(だ)には、朝服して阼階(そかい)に立つ。)
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意味は、「故郷の村人と酒を飲み交わした時には、六十以上の年長者が退出されたなら、同時に退席する。故郷の村人が村の厄払いの追儺の式を成す時には、礼服を着て、客を迎えるべき東の階段に立ってそれを待つ。」の意。
「雄黃(をわう)」本邦では、毒性の強い硫化鉱物である雄黄(ゆうおう:orpiment)のことを指す。硫化砒素(arsenic sulfide:三硫化二砒素:As2S3)の塊りである。色調は黄色・褐黄色で、樹脂状の光沢を有する。但し、中国では同じ硫化鉱物で、同じく有毒な鶏冠石(realgar:四硫化四砒素:As4S4)を指し、対象が微妙に異なる(以上は製薬会社他の信頼出来る記載を複数確認した)。中国には、焼酎に少量の雄黄を入れた酒「雄黄酒」があり、解毒薬や厄払いのために端午の節句に飲んだり、室内に撒いたり、指にそれを附けて子どもの額に「王」の字を書いたりする(最後の習俗については、「人民中国」公式サイト内の丘桓興氏の「祭りの歳時記」の「端午節」に拠った)。
「※1※2乙(きんじゆつおつ)」(「※1」=「竹」(かんむり)+(下部)「斬」。「※2」=「竹」(かんむり)」+(下部)「厂」+(内部)「斯」)「※」の二字は恐らく造字と思われるが、不詳。そうした疱瘡除けの呪符を家の門口に貼る習慣が、本書が出版された寛文一二(一六七二)年以前にあったということは確認出来なかった。ただ、平成二〇(二〇〇八)年三弥井書店刊の三弥井民俗選書の大島建彦著「疫神と福神」の目次(リンク先は同書店公式サイト内の同書の広告)内に『「キシ乙」という呪符』とあり、ここを読めば、有効な注が附せそうであるが、私は所持しない。但し、太刀川清氏の論文「『百物語評判』の意義」(『長野県短期大学紀要』(一九七八年十二月発行)所収)(PDF)に、この箇所について、本書の最後に附される「跋」の中で、本作の一部の実例が語り手の山岡元隣の死後のことであり、これは本作を整理・補筆をして貞享三(一六八六)年に板行した元隣の息子山岡元恕が、内容自体をも加筆しているのではないか、という読者の一人の疑問を提示しているのであるが、『これは例えば、「近頃家々に※1※2乙といふ字を張りし」以下は『群談採余』の故事をひくところであるが、この※1※2乙の守り札が天和貞享のころ』(元隣は寛文一二(一六七二)年没で、天和(てんな:一六八一年~一六八四年。寛文・延宝の次)『のことである確証が俟たれる』とあるから、この事実はメジャーに知られたものではないようだ。
「はりし」「貼りし」。門口に疱瘡除けの呪符を貼ったのである。
「群談採餘」明の倪綰(げいわん)撰。全十巻。一五九二年刊。よく判らぬが、邦人記事の抄録訳などを見ると、志怪が多く含まれているようである。原本には当たれなかった。原典を見たい気がする。
「さくる」「避くる」。
「元の末つかた」元(大元)が事実上、滅ぶのは一三六八年(本邦は南北朝期の正平二二/貞治六年)。
「浙江」これは本来は現在の浙江省を流れる銭塘江(せんとうこう)の旧称で、現行では杭州市市街の南を通り、東で東シナ海にそそぐ部分を銭塘江と呼ぶ(杭州市街を経た南上流で富春江となる)ので、舞台は杭州市街の南端辺りかも知れない。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「老僧」この人物の正体が知りたくなる。
「すはや」感動詞。「あっ!」。]
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