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2018/10/02

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(60) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅴ)

 

 このアダムスの通信は、家康が宗教と政治とに關する外國の事情に就いての、直接の知識を得るためには、如何なる方法をとる事も辭さなかつた事を證明してゐる。又日本國内の事情に關しては、凡そ古來の最も完全なる探偵制度[やぶちゃん注:原文は“system of espionage”。平井呈一氏訳は『隠密制度』。]を、彼は意の儘に用ふることが出來たのである。そして事實彼はその時あつた事はみな知つて居たのである。しかも彼はすでに述べた通り、彼の布告を發するまでに十四年を待つたのであつた。秀吉の布告は、事實、一六〇六年に彼によつて復活された。然しそれは特にキリスト教の公の説教に關係した事であつた。そして傳道師等が外面上法律に服して居た限り、彼は自分の領地の内に、彼等をそのまま許して置いたのであつた。迫害は他所では行はれてゐたが、それと共に祕密な布教も亦行はれてゐて、傳道師等は尚ほ希望をつなぐことが出來たのであつた。併し嵐の前の沈滯のやうに、空中には何となく脅威があつた。キアプテイン・サリスは一六一三年に日本から手紙を送つて、極めて暗示的な感傷的な一事件を記してゐる。彼は言つて居る。『私はやや上注の多くの婦人に、私の船室に入つてもよいといふ許を與へた。この室にはヴイナスが、その子息のキユウピツドをつれてゐる繪が、大きな額緣に嵌められて、幾分だらしない飾り方で懸かつてゐた。彼等は之をマリヤとその子であると思つて、ひれ伏し、非常な信仰を表はして、それを禮拜した。そして私に向つて囁くやうに(信徒でなかつた仲間の誰れ彼れに聞こえないやうに)自分達はキリスト教徒であると云つた、之によつて吾々は彼等がポルトガルのジエジユイト派によつて改宗させられたキリスト教徒であることを知つた』と……家康が初めて壓手段を採つた時には、それはジエジユイト派に對してではなく、もつと無法な或る教團に向つて爲されたのであつた、――アダムスの通信で解つた處に依れば。彼は云つて居る『一六一二年に、フランシスカン派のあらゆる教派が平定されてゐる。ジエジユイト派は特權を持つてゐる……長崎に居るので、この長崎だけが總ての宗派の意のままに任せられて居る處である、他の場所ではそれ程に許されては居ない……』と。ロオマ舊教はこのフランシスカン派の事件の後、更に二年の恩典を與ヘられたのであつた。

[やぶちゃん注:「キアプテイン・サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年か一五八〇年~一六四三年)。ウィキの「ジョン・セーリス」によれば、一六一一年、『通商を求めるイングランド国王ジェームズ』Ⅰ『世の国書を持って』、『貿易船「クローブ号」を指揮して日本へ向けてロンドンを出港し』、一六一三年六月十一日(慶長十八年四月二十三日)に平戸に到着、『徳川家康より貿易を許可する朱印状を得て、平戸にイギリス商館を開設し、リチャード・コックスを商館長として残して帰国した』とあり、ウィキの「クローブ号」には、『船長のセーリスはコックスら』八『名を日本に残し、家康・秀忠からの贈り物と、日本滞在中に得た漆器や屏風といった多くの美術品などをクローブ号に載せ』、一六一三年十二月五日(慶長十八年十月二十四日)に『イギリスに向け出帆』、一六一四年九月に『イングランドのプリマスに到着、同年』十二『月にロンドンに帰港した』とある。]

 何故に家康がその遺訓及び他の個所でこの宗教を『虛僞腐敗の宗教』と呼んだかといふことは考へて見なければならない。極東の見地からすれば、公平な調査の後に、彼は殆どそれ以外の斷定を下すことは出來なかつた。この宗教は日本の社會が依つて以て建立されて居たその基礎たるあらゆる信仰と傳統に根本的に反對して居たのである。日本の國家は一人の神たる王をその頭に戴く宗教團體の集合であつた、――總てのこれ等の團體の慣習は宗教的法律の力を持つて居り、倫理とは慣習に服從することてあつた、又孝道は社會の秩序の基礎であつて、忠義の念それ自身が孝道から出たものであつた。然るにこの西歐の信條は、夫はその兩親を去つて、その妻に附隨すべしと教へたのであつて、餘程よく見た處で、孝道を以て劣等な德であるとなしたのである。その宣言する處は、兩親、主人、統治者に對する義務は、その從順がロオマ教の教に反對する孝道とならない限りに於てのみ義務てあり、又從順の最高の義務は、京都に在す[やぶちゃん注:「います」。]天子なる主權者に對してではなく、ロオマにゐる法王に對してであるといふのであつた。神々と佛とはポルトガルとスペインから來たこれ等の傳道師達によつて惡魔と呼ばれたのではなかつたらうか。このやうな教義は、如何に巧みに彼等の辯解者によつて説明されたとしても、確に國を攪亂するものであつた。その上に、社會上の力としての信條の價値なるものは、その成果から判斷されるべきものである。然るにヨオロツパに於けるこの信條は、擾亂、戰亂、迫害、殘酷なる蠻行等の絶えざる原因であつた。日本でも、この信條は大擾亂を釀し[やぶちゃん注:「かもし」。]、政治的陰謀を煽動し、殆ど量るべからざる災害を起した。將來政治上の面倒が生じた場合、その教は、子は兩親に對して、妻は夫に對して、臣は領主に對して、領主は將軍に對して、從順ならざる事を以て、正當と認めるであらう。政府の最高の義務は今や社會的秩序を制して、平和と安全の狀態を維持する事であつた。實際この平和と安全の狀態がなければ、國家は長年來の爭鬪による疲弊から決して囘復する事は出來なかつたのである。然るにこの外來の宗教が、秩序の土臺を攻擊し、これを顚覆する事に專心してゐる間は、平和は決してあり得なかつた……。家康が彼の有名な布告を發した時には、かくの如き確信が充分彼の心の中に出來てゐたに相違ない。彼がそれ程長く時を待つて居たといふのが、ただ不思議な位である。

 何事も中途半端にして置く事をしなかつた家康が、キリスト教が有爲な日本人の指揮者を一人も持たなくなつてしまふまで待つてゐたといふ事は、恐らくさう有りさうな事である。一六一一年に彼は佐渡の島(囚徒の慟いて居る鑛山地)に於けるキリスト教徒陰謀の報告をうけた。この島の支配者、大久保なるものは、誘はれてキリスト教を信じ、且つこの計畫が成功すれば、日本の統治者になれる筈であつた。併しそれでも家康は時機を待つて居た。一六一四年に至つては、キリスト教は最早希望を失つて、それを指揮する人として大久保をさへもなくした。第十六世紀に改宗した大名は、或は死し、或は領地を取り上げられ、或は配流された。キリスト教徒の偉大な武將達は處刑されてしまつた。重きを置くに足るべき改宗者の内の殘つて居るものは、監視の下に置かれて、實際に手足を出し得なかつたのである。

[やぶちゃん注:「大久保」武田氏の遺臣から家康に抜擢され、慶長八(一六〇三)年七月に佐渡奉行に任ぜられた大久保長安(天文一四(一五四五)年~慶長一八(一六一三)年)のことであるが、ここで小泉八雲が述べているような「キリスト教徒陰謀」や、大久保が「誘はれてキリスト教を信じ、且つこの計畫が成功すれば、日本の統治者になれる筈」といったトンデモ話があった事実は私は知らない(私は佐渡好きで既に三度訪れている)。ウィキの「大久保長安」によれば、大久保は晩年、『家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免され』、『中風のために死去した』が(佐渡奉行は在任のままと思われる)、死後になって、『生前の不正蓄財が問われ、また』、『長安の子』が『蓄財の調査を拒否したため』、七『人の男児は全員』、『処刑された。また』、『縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった』事実はあるが、これはキリシタン絡みではないように思われる。ウィキの「大久保長安事件」も参照されたい。但し、佐渡にキリスト教徒が多く集まった事実と迫害はあった。「学校法人ノートルダム新潟清心学園」公式サイト内のこちらに、佐渡のキリシタンについての「日本キリスト教大辞典」等からの記載があり、それを見ると(「日本キリスト教大辞典」分のみを引くが、それに続く同じ青山玄氏の執筆になる「新潟県キリスト教史 上巻」の引用も詳細を極め、必読)、

   《引用開始》

1601年 徳川家康が佐渡を直轄地とし、大久保長安を奉行に命令。

・徳川家康はフランシスコ会士 ジェロニモ・デ・ジェズースを通じて採鉱術の導入を図る。

・従来の灰吹精錬法に代わり、「水銀ながし」が短期間行われた。

 江戸幕府のキリシタン迫害が始まると、炭鉱夫として地下に潜伏する信者増加

1619年以来、イエズス会士アンジェリス・G・アダミ佐渡を訪問、日本人神父結城ディエゴが来訪。

1637年以降、幕命により100名以上のキリシタン処刑これが現在のキリシタン塚と思われるが、史料的には確認できない。

1658年 「吉利支丹出申国所之覚」に「佐渡国より宗門10人斗り出申候」とあり、なお、相当数の信者がいたと推定される。

パジェス・Lによると次の通り

1601年 越後の大名の息子2名が大坂で規則正しく教理を聴聞し、承服していた。

・徳川家康の機嫌を損ねないように受洗はしなかった。(この2名は、堀秀治と堀親良と思われる)

1604年 伏見の古いキリシタン1名が佐渡鉱山に1年半滞在、キリシタン数名の信仰を固めた。

1619年 アンジェリス・Gが佐渡で洗礼、告解、秘跡を授けた。

1621年ころ、イエズス会士アダミ・GMが佐渡のキリシタンを訪問、授洗し、信者を増やした。

・「受洗者は数においても、質においても他の所より善く、将来もこのようになると期待している」と報告している。

・このころ、まだ相川ではキリシタンの取り調べが厳しくなかった。

1625年 イエズス会士結城ディエゴが医者に変装して佐渡来訪。

・来訪したときにはすでに迫害で20名以上追放されていた。このとき結城が数名授洗。

163536年、南部・仙台藩で逮捕されたキリシタンの中には、大窪太郎兵衛夫妻、弥兵衛夫妻ら越後出身者有り。

島原の乱後、取り調べが厳しくなり、相川でキリシタン数十名が逮捕され、中山峠で処刑、「吉利支丹出申国所之覚」(1658年)によると、本庄(村上)23人、新発田45人、長岡56人、高田56人と信者が記録されている。武士はほとんど転封、減封、廃絶された他家の家臣で、庶民はほとんど出稼ぎ人であったと思われる。(青山玄)

   *

とあることから、禁教令を犯したとして罪人となった人々が佐渡に流されたり、当初はそうした関係上、佐渡での取り締まりが比較的緩やかであったことから、炭鉱夫等になって佐渡に渡った切支丹が多かったことが推理し得る。八雲はあくまで不正蓄財絡みの「大久保長安事件」と、以上のその後の佐渡での切支丹迫害事件を直結混同しているものと思われなくもない。]

 外國の僧侶達と内地人なる傳道師達とは、一六一四年の宣言の直後にも歿酷に取扱はれはしなかつた。彼等の中、凡そ三百人は船に乘せられて外國に送られた、――政治及び宗教に關した陰謀の疑ひをうけた幾多の日本人、例へば以前の明石の大名なる高山の如きと共に、この者はジヱジユイト派の文士によつて『ジヤスト・ウコンドノ』[やぶちゃん注:原文“Justo Ucondono”で、“Justo”はポルトガル語で「義人」の意であり、これは音写するなら「ジュスト」である(平井呈一氏は『ジュスト』と音写されておられる)。ここは久保田典彦氏の「高山右近研究室のブログ」の『右近さん自身、「ユスト」とは言ってなかった!?』に拠った。]と呼ばれ、又同樣な理由から前に秀吉によつて領地を取り上げられ、職を免ぜられてゐたものである。家康は不必要な嚴重な例を置きはしなかつた。併しこれよりも嚴しい法令が、一六一五年に起つた事件につづいて出された、――かの布告發布の直ぐ後の年である。秀吉の子息、秀賴が、保護を託されて居た家族によつて取つて代はられた――日本にとつて幸[やぶちゃん注:「さひはひ」。]な事であるが。家康は彼のあらゆる面倒を見てやつた、併し彼を許して日本國の政府を導いて行かせる意圖は、家康に少しもなかつた、――十三歳の若者には殆ど出來ない仕事であつたから。秀賴が關與したと傳へられて居る色々な政治上の陰謀があつたに拘らず、家康は彼に澤山の歳入と日本に於ける最の城塞と、――秀吉の天才が殆ど難攻不落にしたかの堂々たる大阪城――を所有させて置いた。秀賴はその父に似ず、ジェジユイト教徒を愛し。大阪城を以てこの『虛僞腐敗の宗派』の歸依者を容れる避難所たらしめた。大阪城で危險な陰謀が支度中であるとの政府の間諜の報告があつたので、家康は一擊を加へる決心をした、而して彼は手嚴しく打擊を加へた。必死の防禦をなしたに拘らず、この大城塞は襲擊をうけて、燒き打ちされた、――秀賴は炎中に身を亡つてしまつた。十萬人の生命が、この包圍で失はれたといふことである。アダムスは秀賴の運命と彼の謀叛の結果に就いて次のやうに奇しくも書いて居る――

 『彼は皇帝[やぶちゃん注:言わずもがな、家康。]と戰爭をした……ジエジユイト教徒等とフランシスカンの教團の僧侶達とは奇蹟と實驗[やぶちゃん注:原文は“mirracles and wounders”。平井呈一氏は『奇蹟と驚異』と訳しておられる。戸川氏は超現実的な「示現(じげん)」、或いは、確かな神の「実」(まことの)「験」(しるし)としての奇蹟の意でかく訳したのであろう。]との惠を受けるに相違ないと秀賴を信じさせて、この戰に加はつた、併し結局それは反對の結果になつた。何となれば老皇帝は彼に向つて直に、海陸より自分の軍兵を準備して、彼の居る城を圍んだのであつた、かくて敵味方に莫大な損害はあつたが、併し最後には城壁を打壞して、火を城にかけ、そして彼をその中で燒き殺した。かくの如くにして戰爭は終つた。處で、皇帝はジエジユイト教徒とフランシスカン派の者共が、彼の敵と共に城内に居つて、今猶ほ時々彼に反抗すると聞いて、總てのロオマ教の者に國外に退去するやうに命じた――教會は破壞され、燒き拂はれてしまつた。この事は老皇帝健在の間つづいて行はれた。が、今やこの年、卽ち一六一六年に老皇帝は死去した。彼の子息が代つて統治したが、彼は彼の父よりも以土に熱烈にロオマの宗教に反對してゐる、何となれば彼は彼のあらゆる領土に亙つて、彼の臣民は一人たりとも、ロオマ教のキリスト教徒たる事を禁じ、これを犯すものは死刑に處せられるとしたからである、このロオマ教の宗派を彼は出來得る限りの方法で防止するために、異國の商人は何人たるとも、いづれの大都市にも逗留してはならないと禁北したのであつた』……。

 ここに子息といふのは秀忠の事であるが、秀忠は一六一七年に布令を出して[やぶちゃん注:これもよく判らない年表記である。但し、秀忠は元和二(一六一六)年に「二港制限令」、続けて元和五(一六一九)年)に改めて禁教令を出して弾圧強化は確かにはかられてはいる。]、ロオマ教の僧侶やフランシスカンの僧侶が日本で見つかつた場合には、これを死刑に處すと定めた――この布令は日本から追放された多くの僧侶達が、祕密に歸つて來、また他の僧侶は色色な假面の下に居殘つて、布教をして居たといふ事實から、刺戟されて出されたものであつた。かくして、帝國内のあらゆる市町村落に於て、ロオマ派のキリスト教を根絶するための手段が取られた。いづれの組合もその中に外來の信條に屬する人が居れば、それに對して、責任を負はされた。そして特別な【註】役人、卽ち切支丹奉行と云ふ審問者が、この禁制の宗教を奉する者を搜索して、これを處罰するために任命された。卽座に取消したキリスト教徒は罰せられなかつたが、只だ監視をうけさせられた、拷問をかけても取消す事を拒んだ者共は、奴隷の地位に貶とされるとか、さもなければ死刑に處せられた。或る地方では非常な殘酷が行はれ、あらゆる形式の拷問が、取消しをひるために用ひられた。併し殊更歿酷な迫害の挿話は、地方の支配者卽ち役人達の個人的の兇猛に依つて生じたものである事は、先づ確な事である、――例へば竹中采女守[やぶちゃん注:「采女正(うねめのしやう)」が正しいが、原文自体がそうなっている。豊後府内藩第二代藩主竹中重義(?~寛永十一年二月二十二日(一六三四年三月二十一日)。彼の『時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われ、穴吊りなど、多くのキリシタンを殉教や棄教に追い込んだ拷問が考案された』が、ウィキの「竹中重義によれば、第三代将軍『徳川家光が完全に権力を握ると、最初の鎖国令を発した』が、『これと連動するかのように、重義は密貿易など』、『職務上の不正を訴えられた』。寛永六(一六二九)年十月に『書かれた平戸のオランダ商館長の手紙によると、「彼が幕府にしか発行できない朱印を勝手に発行して東南アジアとの密貿易に手を貸している」と記録されている。調査の結果』、寛永一〇(一六三三)年二月に『奉行職を罷免され、切腹を命じられた』とある。]の場合のやうなのがそれで、彼はその長崎に於ける彼の權勢の濫用と、迫害を以て金錢誅求の手段としたのとで、政府から切腹を行ふやうにひられたのである。然しそれはさうであるとして、この迫害が遂に有馬の大名領内に於けるキリスト教徒の叛亂を惹起する剌戟となつたか、若しくはそれを起こす助けとなつたのであつた、――これは歷史上では島原の亂として記錄されてゐる。一六三六年[やぶちゃん注:「島原の乱」の勃発は厳密には寛永十四年十月二十五日で、グレゴリオ暦一六三七年十二月十一日である。]に、一群の農夫等が、彼等の領主――有馬及び唐津の大名(兩地方共に改宗した地方である)――の暴政により絶望に驅られて、武器をとつて起ち、その近隣の日本の寺院を悉く燒き拂ひ宗教戰を宣言した。その旗は十字架をつけて居り、その指揮者は改宗した侍であつた。キリスト教の避難者達が間もなく日本のあらゆる部分から來て彼等の仲間に加はつて、遂にその數は三萬乃至四萬人に膨張した[やぶちゃん注:正確な数は不詳であるが、最終的に籠城した老若男女は三万七千人、全員が死亡したとされる。]。島原半島の沿岸で、彼等は原といふ場所で、主人の居なくなつた城を占有し、其處に自ら立て籠もつた。地方の官憲はこの暴動に敵する事が出來なかつた、そして叛逆人等は自ら防守し得たのみでなく、それ以上に出來ので、遂に十六萬以上を算する政府の兵力が[やぶちゃん注:実際の最終的な幕府討伐軍の総数は十三万近くであった。]、彼等に向つて送り出されるに至つた。百二日の勇敢なる防戰の後、城は一六三八年に襲擊されて、防戰者達はその妻子と共に、刄の露と消えてしまつた[やぶちゃん注:終結は寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)。但し、総攻撃の開始は、鍋島勝茂の抜け駆けにより、前日に前倒しされている。]。公にはこの事件が百姓一揆として取扱はれた。そしてそれに對して責任があるとされた人々は、最重に罰せられた、――島原(有馬)の領主は更に切腹を行ふやうに宣告された。日本の歷史家達は、この一揆がキリスト教徒によつて最初計畫され、指導されたのであつて、彼等キリスト教徒は長崎を占領し、九州を征服して、外國の武力的援助を求めて、政變をひようと目論んでゐたのだと述べて居る、――ジエジユイト派の文士は何等陰謀のなかつたことを我々に信じさせようとして居る。只だ一つ確な事は、革命的な要求がキリスト教徒の要素[やぶちゃん注:原文“element”。平井氏は『分子』と訳しておられ、その方が躓かない。]に向つてなされ、それが盛んに應答され、驚くべき結果を生じたといふことである。九州沿岸に於ける一つの鞏固な域が、三萬乃至四萬のキリスト教徒によつて支持された事は、重大な危險を構成するものであつた、――これは有利な一點で、この點から日本へのスペインの侵入が企てられ、且つ多少そのうまく行く機會もあり得たと云つて然るべき程な處なのである。政府はこの危險を認めて、從つて壓倒的な兵力を島原へ派遣したと考へられるのである。そして若し外國の援助がこの叛亂に送られ得たとすれば、その結果は長期に亙る内亂となつたかも知れないのてある。大がかりな殺戮に至つては、それは日本の法律を勵行したことを表はしたに過ぎない。又領主に對して叛亂を起こした百姓の罰は、如何なる事情の下にあつたとしても、死刑である。更にかくの如き虐殺政策に關して言へば、それは信長もこれよりも少い理由でありながら、比叡山の天台宗徒を絶滅さしたことを記憶して置くべきであらう。吾々が島原で亡びた勇者を氣の毒に思ひ、彼等がその統治者の兇猛な殘虐に對してなした叛亂に同情を表するのは、いづれから言つても理由ある事と思ふ。併しただ公明なる事實として、日本の政治的見地から、全體の事件を考慮することが必要であると思ふ。

註 これらの布告が、一として新教徒のキリスト教に對して向けられなかつたといふことは、心に留めておかなければならない、オランダ人はこの布令の意味では、キリスト教徒とは考へられて居なかつたのである、又イギリス人も同樣であつた。次に示す代表的な村から得た拔萃、組帳則ち組合の取締法は、ロオマ舊教の改宗者則ち信者の、その組合に居ることに關して、すべての團體に課せられた責任を示してゐる、

 『每年、殺初の月と第三の月との間で吾々は宗門帳を更める。若し吾々が禁制の宗門に屬してゐる者の居るのを知るならば、直に代官にそれを通ずるものである、……召使、勞働者共は、キリスト教徒でないといふ事を宣明した證文を主人に差し出すべきである。嘗てキリスト教徒であつたが、それを取り消した者に關しては――若しこのやうな者が村に來、また去る事があれば、吾々はそれを申出ることを約する』――ヰグモア教授の『舊日本に於ける土地所有權及び地方制度所見』Professor J. H. Wigmore'sNotes on Land Tenure and Local Institutions in Old Japan

 オランダ人は船舶と大砲とを以てこの叛亂を潰滅さす助けかしたといふので非難された、彼等は自分等獨自の考へから、勝手に四百二十六發の大砲を城内に打ち込んだといふ。併しながら、今まで殘つて居る平のオランダ商館の通信は無論、彼等が脅嚇されて、斯樣な行動をとるの已むなきに至らしめられたのである事を證明して居る。兎に角、彼等の行動に就いて、これに只だ宗教上の非難を加へるには充分な理由がない――よしその行動は人道上の見地からは充分に非難されるとしても。蓋し叛徒の大部分が、たまたまネザラドの男女を異端者として生きながら焚殺した處の宗教を信じて居るのであるから、この叛亂を鎭壓して居る日本の官憲を助ける事を拒絶するわけには行かなかつたのであらう。察する處このオランダ人達の親族のものが少からず、かのスペインの猛將アルヴアの虐殺を逞うした日に殺された事があるのではあるまいか、恐らくそんな事も原因となつて、この砲擊が行はれたのかも知れない。若しポルトガル人竝びにスペイン人の僧侶にして、日本の政府を乘取る事が出來たならば、日本に於けるイギリス人とオランダ人とは、みなどんな目に遇つたであらうか、それは明らかに解つて居た筈であるが。

[やぶちゃん注:「スペインの猛將アルヴアの虐殺」年代的に見て、スペインの第三代アルバ公爵で将軍であったフェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Fernando Álvarez de Toledo, Duque de Alba 一五〇七年~一五八二年)か。ウィキの「フェルナンド・アルバレス・デ・トレドによれば、一五三五年以降、『プロテスタント勢力打倒を目指すカール』『世のために』、『各地を転戦した。カール』『世の退位後はフェリペ』『世に仕え』、一五五九年の『カトー・カンブレジ条約を経て』、一五六七年から『属領ネーデルラントの総督となった。「血の審判所」と呼ばれた機関を設け、エフモント伯ラモラールを含む』、『多くの新教徒を処刑したが、その恐怖政治もオラニエ公ウィレム』『世を支持する北部ネーデルラントの市民階級の反抗を』、『くじくことができなかった』。一五七三年、『後任のレケセンスと交代させられ、スペインへ帰国した』とある。或いは、その息子(次男)で第四代アルバ公となった、八十年戦争時のスペイン軍司令官ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(Fadrique Álvarez de Toledo 一五三七年 ~一五八三年)であってもおかしくはない。ウィキの「ファドリケ・アルバレス・デ・トレドによれば、『リスボンで生まれ』、『ウエスカ公、コリア侯、カラトラバ騎士団の司令官職でもあった』。『彼は、スペイン領ネーデルラントにおける、最も血なまぐさい時期のスペイン軍を率いた。ハールレム包囲と同様に、メヘレン、ズトフェン(現在のオランダ・ヘルダーラント州)、ナールデン(オランダ・北ホラント州)において起こった殺戮の司令官だった』とある。まあ、親父の方がそれらしくはある。]

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