萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 殺人事件
殺人事件
とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裝をきて、
街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、遠いさびしい大理石の步道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。
[やぶちゃん注:「よつつぢ」はママ。正しい歴史的仮名遣は「よつつじ」。「晶玉」は「しやうぎよく(しょうぎょく)」で大理石などの美しい石。初出は『地上巡禮』大正三(一九一四)年九月号。「こひびと」が「戀びと」、「床」に「ゆか」とルビ、「しもつき上旬(はじめ)のある朝、」が「九月上旬(はじめ)のある朝、」であるのが大きな改変で、「十字巷路に秋のふんすゐ。」の方にも「よつつぢ」(ママ)のルビがあり、さらに「ふんすゐ」の後の句点は読点、「はやひとり探偵はうれひをかんず。」は「はやひとり、探偵はうれひを感ず。」と読点と漢字表記の違いがあり、「遠いさびしい」も「遠い寂しい」、「すべつてゆく」も「すべつて行く」となっている。この一篇は松本清張にどっぷりはまっていた中学時代に読んで、カット・バックとクロース・アップを多用し、サウンド・エフェクトも美事な、サスペンス映画のワン・シーン、例えば、後のキャロル・リード(Carol Reed)監督の「第三の男」(The Third Man・一九四九年製作・イギリス映画)を見るようなそれに、一気に惹かれたのを思い出す。私は当時から好きな詩を書き写す手帖を持っていたが、確かにこれをそこに綴ったのを懐かしく思い出す。九月上旬から十一月上旬に変えることで、シークエンスの冷感がいや増しにされて効果的なのではあるが、ただ、その結果として前段の「きりぎりす」が鳴いているのが、ありえないミス・シーンとなってしまっている(九月上旬なら問題ない)のが惜しまれる。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』末尾には、本篇の草稿として『殺人事件(本篇原稿三種四枚)』と記すものの、一篇も活字化していない。ただ、『或る稿の題名に「九月の探偵」とある』と注記がある。]