古今百物語評判卷之三 第三 天狗の沙汰附淺間嶽求聞持の事
第三 天狗の沙汰附淺間嶽(あさまだけ)求聞持(ぐもんじ)の事
[やぶちゃん注:戸惑う人もあろうかと思うので、最初に注しておくと、この通称「朝熊山」、正式名「淺間が嶽」とは、三重県伊勢市(山頂は同市朝熊町(あさまちょう))・鳥羽市にある「朝熊ヶ岳(あさまがたけ)」である(ここ(グーグル・マップ・データ))。山頂の少し南東に臨済宗勝峰山(しょうほうざん)兜率院(とそついん)金剛證寺(こんごうしょうじ)があり、この寺を「朝熊山」と呼ぶ場合もある。この山はこの地方の最高峰であり、古くから山岳信仰の対象となっていた。ウィキの「金剛證寺」によれば、創建は六『世紀半ば、欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。平安時代の』天長二(八二五)年に『空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられている。なお』、『鳥羽市河内町丸山』『の庫蔵寺(真言宗御室派)は、空海が当寺の奥の院として建立したという。金剛證寺はその後』、『衰退したが』、南北朝期の末年に当たる明徳三(一三九二)年に、『鎌倉建長寺』五『世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が再興に尽力した。これにより』『東岳文昱』(ぶんいく)『を開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗』、『禅宗寺院となった』。『室町時代には神仏習合から伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として伊勢信仰と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢・志摩最大の寺となった』。「関ヶ原の戦い」から『敗走したのちに答志島(現・鳥羽市)で自刃した九鬼嘉隆のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い』、『金剛證寺に出家し、金剛證寺第』十二『世となった』。『江戸時代には徳川幕府が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した』とある。]
一人の云(いはく)、「天狗といふ物は、今の世に、誰(たれ)か、さだかに、其形を見たるといふ者なけれども、いにしへより、其すがたを繪にも書(かき)、又、おそろしき物語ども、多く御座候うへ、就中(なかんづく)近き頃、たしかにおそろしき事の御座候(さふらふ)は、伊勢山田に檜垣氏某(ひがきうぢそれがし)、たしかに物語いたされ候は、周防(すはう)の國、智遁(ちとん)といふ出家、淺間が嶽に來りて、『求聞持(ぐもんぢ)の法を行ひたき』よし、望みけるに、『此所は魔所なるゆへ、其法、成就しがたき』よし、申し候へ共、『たつて』と望みて、其法を修しけるに、三七日(みなぬか)[やぶちゃん注:二十一日目。]にあたる比(ころ)、俄に大風吹き來(きた)ると見えしが、彼(かの)求聞持くりたる僧[やぶちゃん注:「繰りたる」で順に呪法の文句を続けていた、の意味であろう。]、いづかたへ行きしやらん、見えざりければ、『今にはじめぬ事[やぶちゃん注:謂いとしては逆接であろう。「今に始まったことではないが、忽然と消失してしまったのは、のニュアンスであろう。]、不思議の至り』と思ふ所に、兩月(りやうげつ)[やぶちゃん注:二た月。]ばかりありて、周防より、『彼(かの)僧、いついつの比、忽然として來りしが、今に人心(ひとごこ)ちなき』と申しこせしに、其日ざし[やぶちゃん注:「日指(ひざ)し」で、伝えられたところのその月日の意である。]、伊勢にてうせし日と同(おなじ)日なり。幾百里の道を、一日(いちにち)が内に送りしも、おそろし。又、其古鄕(こきやう)の寺へとゞけたるも、あやし。此事、更にうきたる[やぶちゃん注:「浮きたる」。根拠のないいい加減な。]事に、あらず。其外、爰元(こゝもと)にても[やぶちゃん注:話者の住む辺りでも、の謂いであろう。]、礫打(つぶてうち)し事、度々あり。いかなる術を得しものに候哉(や)、兎角、心得がたく侍る」といへば、先生、云へらく、「天狗といふ名はもろこしには見えず。『獾(くはん)』と云ふ獸(けもの)の異名に『天狗』と侍れど、此類(たぐひ)にあらず。又、星の名に『天狗星(てんぐせい)』といふ、ほし、「史記 天官書(てんぐはんしよ)」・「天文志」等に見え候へども、いかなる星とも、はかりがたし。只、『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし。是れ、皆、深山幽谷にすむ魑魅の類(るい)なり。國々所々にあり。尤(もつとも)、多年多力なる物にして、其ふしぎをなす事、狐に百倍せり。木を折り、岩をまろばし、風雨を自在にし、大小の身を現(あらは)せり。順[やぶちゃん注:源順(みなもとのしたごう)。]が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり。おもふに、此もの、天竺・唐土(もろこし)の魔の類(たぐひ)と一所にもあらざめれど、所々の山谷(やまたに)の氣より生ずる所のものなるべし。其かたちをさだかに見ざるは、此もの、もとより、變化(へんげ)の物なればなるべし。世俗に『太郞坊』『次郞坊』など云ひて、山伏のやうに云(いひ)なせるは、其住む所、愛宕(あたご)・ひえの山・鞍馬などいひて、出家の住(すむ)所なればなるべし。『日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する』といふは、人間とても怒れる氣につれて、瞋恚(しんい)[やぶちゃん注:原典は『しんるい』であるが、訂した。「しんに」でもよい。怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪の感情。]のほむらをもやせば、熱丸をのむにひとしければ、其いかれる心を、たとへて、いふなるべし。さて、此妖怪、かならず、人倫[やぶちゃん注:これは単に「人里」の意。]遠き所にあるは、是れ、純陰の處より生ずるなれば、人家など多くつゞきて、たゞしき氣のあつまる處には、其術も、うすらぐ心にや侍らん。されば、淺間の嶽のふしぎも、さもありなんかし。又、『天狗礫』と云ふ事、多くは、狸のしわざなるよし、古き文(ふみ)に見えたり。狸を殺し、煮(に)えくらひて[やぶちゃん注:ママ。]、こらしめ詈(のゝしり)などすれば、其事、をのづから[やぶちゃん注:ママ。]、やむよし、「著聞集」に見えたり。孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば、かやうの類(たぐひ)に似たる沙汰も候はねど、たゞ人道をおさむれば、其怪しき事も、おのづから、消えうするにこそ侍れ」と語られき。
[やぶちゃん注:「智遁」不詳。
「求聞持(ぐもんぢ)の法」虚空蔵求聞法。密教で虚空蔵菩薩を本尊として行うもので、記憶力増進のための修法として知られる。
「獾(くはん)」「本草綱目」の「獣部 獣類」に「獾」として出る。
獾【「食物」。】
釋名狗獾【音歡。】天狗。時珍曰、獾又作貆。亦狀其肥鈍之貎。蜀人呼爲天狗。
集解汪頴曰、狗獾處處山野有之、穴土而居。形如家狗、而脚短、食果實。有數種相似。其肉味甚甘美、皮可爲裘。時珍曰、貒猪獾也、獾狗獾也、二種相似而畧、殊狗獾似小狗而肥、尖喙矮足、短尾深毛、褐色。皮可爲裘領。亦食蟲蟻爪果。又遼東女直地面有海獾皮、可供衣裘、亦此類也。
肉氣味甘、酸、平、無毒。
主治補中益氣、宜人【汪頴。】小兒疳瘦、殺蛔蟲、宜噉之【蘇頌。】。功與貒同【時珍。】。
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とあり、確かに異名を「天狗」とするが、これはどう見ても実在する動物で、調べて見りゃ、現代中国語では、哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ヨーロッパアナグマ Meles
meles に種同定されていた。
「天狗星(てんぐせい)」音を立てて落下したり、地上に落ちて燃えたりする、大きな流星のこと。
「史記 天官書(てんぐはんしよ)」「史記」の中の「天官書」(てんかんしょ)。司馬遷が書いた当時の星の運行や雲気について詳細に書き記されているが、「天人相関説」に則り、星座を官階に比して「天官」とし、北極を中心とした「中官」と、「二十八宿」を七宿ずつに分けて東・西・南・北の四官に区分した星座群として記録されてあるが、そこに、
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天狗、狀如大奔星、有聲、其下止地、類狗。所墮及、望之如火光炎炎沖天。其下圜如數頃田處、上兌者則有黃色、千里破軍殺將。
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とある。天狗星の形は大きな流星のよう、激しい音がし、地上に落ちると、それは丁度、犬のようなものに見える。落下する際に観察すると、強烈に耀く火の光が(後の描写からは火柱のようである)めらめらと燃え上って、中天を突き抜くようである。その流星が流れ落ちた下方の地は、丸く数頃(漢代であるので三万三千坪ほどか)の耕作地の表面はまっ黄色になり(熱で焼けることか)、その一帯の千里に於いては、戦敗や将軍が殺される、という意味か。
「天文志」特に「漢書」と「晋書」にある「天文志」のことであろうか。
「『魅魅(ちみ)』といひ、『魔の障碍(しやうげ)』などいふ、皆、爰許(こゝもと)に申す天狗の事なるべし」これで、上手くジョイントしないのを誤魔化したつもりですか、元隣先生?
『順が「和名抄」には、『あまのくつね』と和訓して、獸(けもの)の部に入れり』同書の獣の部(巻十八「毛群」)を懸命に探して見たが、遂に出てこない。識者の御教授を乞う。
「日に三ねつの苦しみありて熱丸(ねつぐはん)を服(ふく)する」面白いね! 天狗には宿命的な持病があって、毎日服用しなきゃいけなっかった! 「三熱」というのは、一般には仏教で竜蛇などが受けるとされる三つの苦悩で、「熱風・熱砂に身を焼かれること」・「悪風が吹きすさんで住居・衣服を奪われること」「金翅鳥(こんじちょう)に食われることであるが、薬を服用する以上は、内憂で「熱丸」とあるからには、やっぱり最初の熱病だろうなぁ。
『「著聞集」に見えたり』巻第十七の「三條前右大臣實親の白川亭に、古狸、飛礫を打つ事」を指す。
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三條の前(さき)の右の大臣(おとど)の白川[やぶちゃん注:鴨川の東一帯の広い範囲を指す呼称。後の叙述からロケーションは現在の東山区五軒町(ちょう)附近である。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の亭に、いづこよりともなくて、飛礫をうちけること、たびたびになりにける、人々、あやしみ、おどろけども、なにのしはざといふことを、知らず。次第にうちはやりて、一日一夜に、二盥(たらひ)ばかりなど、うちけり。蔀(しとみ)・遣戶(やりど)をうちとをせども、その跡、なし。さりけれども、人にあたる事はなかりけり。
「このことを、いかにしてとゞむべき。」
と、人々、さまざまに議すれども、しいだしたる事もなきに、或る田舍侍の申しけるは、
「此事、とゞめん、いとやすきことなり。殿原(とのばら)、面々に、狸を、あつめたまへ。
又、酒を用意せよ。」
といひければ、このぬしは田舍だちのものなれば、『さだめてやうありてこそいふらめ』と思ひて、おのおの、いふがごとくに、まうけてけり。
その時、この男、侍の[やぶちゃん注:侍の詰所の。]たたみを、北の對(たい)の東の庭にしきて、火をおびたゝしくをこして、そこにて、この狸を、さまざま、調じて、おのおの、よく食ひてけり。さけのみ、のゝしりて、いふやう、
「いかでか、おのれほどのやつめは、大臣家をば、かたじけなく打まいらせけるぞ。かゝるしれ事する物ども、かやうにためすぞ[やぶちゃん注:味見してやるぞ!]。」
と、よくよくねぎかけて[やぶちゃん注:「ねぎかく」は「祈ぎ懸く」で、原義は「神仏に祈願をかける」であるが、ここは叱責・脅迫を闡明することを指す。]、その北は勝菩提院なれば、そのふる築地(ついぢ)のうへへ、骨、なげあげなどして、よく、のみくひてけり。
「今は、よも別(べち)のこと、候はじ。」
といひけるにあはせて、そののち、ながく、つぶてうつこと、なかりけり。
これ、さらにうけることにあらず[やぶちゃん注:根も葉もないいい加減な作り話なのではなく。]、近きふしぎなり。うたがひなき、たぬきのしわざ、なりけり。
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「孔子の説には怪力亂神はもとよりあらざる所なれば」「論語」の「述而第七」に出る、君子たる者の在り方の一つ。
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子不語怪力亂神。
(「子は怪・力(りき)・亂(らん)・神(しん)を語らず。」と。)
「怪」怪奇・怪異なこと。「力」腕に恃んだ暴力的な武勇。暴虎馮河。「亂」背徳行為。道を乱す無秩序な様態を指す。「神」鬼神や魑魅魍魎に関わること。しかし、孔子がわざわざこれを言わなければならなかったほどに、中国人は、古えより、怪奇談が大好きな証しと言える。]
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