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2018/10/10

甲子夜話卷之五 24 九鬼松翁、享保殿中の物語

 

5-24 九鬼松翁、享保殿中の物語

享保の頃は、大廣間一同御禮のとき、隆暑祁寒などの折は、御大聲にて時氣の御諚ありて、いづれもさはりは無きやなどゝありしとぞ。今の九鬼泉州【隆國】の祖父松翁【長門守、隆邑】、九十一歳にて去々年終りしが、その人などは玉音を承りしとて語れりとなん。御晚年西城にて薨御の後、本城へ御機嫌伺登城のとき、殿中の靜なること人無きやうにありしとぞ。これ出仕の人々御德を仰慕して哀悼に堪ず、聲を出すものも無りし故なりしと。これも九十翁の物語なりときゝぬ。

■やぶちゃんの呟き

「大廣間」「おほびろま」。江戸城内最大の書院で、将軍宣下の儀式・武家諸法度追加法令の発布・年頭拝賀の式等の公的行事を行う最も格式の高い御殿。将軍が坐す「上段之間」以下、「中段之間」・「下段之間」・「二之間」・「三之間」・「四之間」・「五之間」・「納戸」が中庭を囲んで、合わせて五百畳で構成されていた。参照したブログ大江戸歴史散歩を楽しむ会の「江戸城表・大広間・控之間・松之廊下がよい。

「祁寒」「きかん」。厳しい寒さのこと。「祁」は「盛ん」の意。

「御諚」「ごぢやう」主君の仰せ。御言葉。ここは無論、徳川吉宗の時候のそれ。

「九鬼泉州【隆國】」摂津三田藩第十代藩主九鬼隆国(くきたかくに 天明元(一七八一)年~嘉永五(一八五三)年)。和泉守から後に長門守。静山より二十一歳歳下。

「祖父松翁【長門守、隆邑】」摂津三田藩第八代藩主九鬼隆邑(たかむら 享保一二(一七二七)年~文政三(一八二〇)年)。「去々年」(おととし)とあるから、珍しく、本条は文政五(一八二二)年の執筆であることが明確に判る記事である。ウィキの「九鬼隆邑」によれば、『官位は従五位下。長門守。号は松翁』。寛保三(一七四三)年、『兄で先代藩主の隆由』(たかより)『の死去に際し、その養嗣子として跡を継いだ』。天明五(一七八五)年十一月十四日、長男の隆張』(たかはる)『に家督を譲って隠居し』ている。『九鬼家に伝えられていた起倒流柔術を兄・九鬼隆由から学び、隆由の死後は鈴木邦教(滝野遊軒の弟子)から同流の柔術を学んだ』。『その後、長男の九鬼隆張に起倒流を伝え、以降は九鬼隆輝まで伝承が続いた。この、九鬼家の家伝となった起倒流の系統は起倒流九鬼派と呼ばれた』とあり、また、『隆邑(松翁)は、歴代藩主の中でも最も長命な人物であり』、文政二(一八一九)年正月十九日には九十歳の『祝賀が行われた。代々』、『三田藩の家老を務めた澤野氏により』、『明治初期に編纂された「九鬼史」(個人蔵)には』、「松翁樣九十歳御年賀御祝ニ付隆國公ヨリ白銀拾枚鯣壱折御祝被進之 松翁樣ヨリ御壽物トシテ御大小一腰被進其外夫々御壽物被進之 右ニ付家中一統ヘ御祝下賜夫々組合ヲ以御祝物獻之 御領下餠被下置 廿五廿六日御能拜見被仰付家中男女出頭ス老公ヨリ御染筆ノ石摺一枚ツゝ下賜」『とあり、領民には餅が配られ』、二『日間にわたり』、『能が演じられ』、『家中一同の観能が許された。なお、三田藩にかかる記録類において、能・狂言に関する記載は当該条文のみである。また、当該祝賀の実施場所については、藩主である九鬼隆国が』文政元(一八一八)年五月十九日に『三田に帰国し』、同三(一八二〇)年三月二十四日に『参府のため』、『三田を出立しているので、三田城陣屋の藩庁、もしくは三田城陣屋郭内の隆邑の隠居所であった御下屋敷の広間か』、『書院で行われたと考えられる』とあり、『九鬼松翁により「富貴是長命」と揮毫された長寿を寿ぐ書軸が今日に伝わっている』として、その『九鬼隆邑筆一行書「冨貴是長命」』画像(転載不可)がこちらで見られる

「西城にて薨御」吉宗は将軍引退から六年が経った寛延四(一七五一)年六月二十日に死去した。享年六十八(満六十六歳没)。死因は再発性脳卒中とされる(ここはウィキの「徳川吉宗」に拠った)。

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