古今百物語評判卷之四 第十 雨師・風伯の事附殷の湯王・唐の太宗の事
第十 雨師(うし)・風伯(ふうはく)の事附殷の湯王・唐の太宗の事
一人の云(いはく)、「いろいろの事を思ひめぐらし候中に、雨・風ほど、不思議なる事、侍らず。雨の宮・風の宮など、神道にもあがめ候へば、神有(あり)て其事を司り給ふにや。又、唐土(もろこし)には雨師・風伯など申(まうす)よしを承り候。雨乞などいたして、其しるしの御座候も心得がたく存じ候ふまゝ、くはしく物語を承りたく侍る」と問(とひ)ければ、先生、答へて云ふ、「地の陰氣は、のぼりて、雲となり、陽氣は、くだりて、雨となれば、元より、陰陽のなす所にして、外につかさどる鬼神も有べきにあらず。されど、雲、行(ゆき)、雨、ほどこして、萬物のめぐみをうくるよりいへば、報恩の爲とて、唐土にも山川(さんせん)社稜(しやしよく)の祭(まつり)、國々に侍る。かくあるうへは、我が朝にも雨風の宮ある事、勿論の義なり。元より、風は天地の埃氣(あいき)と云(いひ)て、陰陽の氣の、動き發するところにて、形(かたち)有(ある)物に、あらず。東風(こち)の、氷をとき、水をぬるめ、花を開き、物をかはかすは、陽氣の所爲(しわざ)なれども、北風の、霜を結び、水を氷らし、葉をおとし、物をしめらすは、陰氣のなす處なり。かくてぞ、四季により、風の吹(ふき)やうも、ことなるべし。此雨風の神を、おそろしき形に刻み、袋など持たせたるは、神鳴の繪に太鼓を書(かけ)るごとく、それぞれの似合敷(しき)かたに、かたどれるなるべし。さて又、日でりに雨を乞(こひ)て其しるしある事は、さまざまの理(ことわり)侍る中(なか)に、一天下の旱(ひでり)ならば、天子の祈りに叶ひ、一國の旱には國主の求(もとめ)に應じ、一鄕(ひとさと)の日(ひ)でりには、其里の長(をさ)の願ひにかなふべし。其(その)銘々の司れる外(ほか)へは及ぶべからず。是れ、當然の理(ことわり)なり。猶も、自らなす事、覺束なき時は、身のけがれず、心のいさぎよき僧・覡(かんなぎ)を請じて、祈らしめたる例(ためし)多し。されども、自(みづか)ら祈れるにこそ、深き感應は侍らん。むかし、殷の湯王と申す聖人の御代に大旱(おほひでり)ありしに、湯王、自(みづか)ら庭に出で給ひ、其身を牲(いけにへ)として、身のあやまちを責(せめ)給ひしかば、こと葉(ば)の下に、忽ち、大雨ふりし、と云(いふ)事、「帝王世紀」に見えたり。又、唐の太宗といふ賢王の御代に、蝗(いなむし)といふ物、天下にみちみちて、民の害をなしければ、太宗のたまはく、『是れ、朕が政(まつりごと)のあしきにより、天より、わざはひをくだし給ひ、天下の蒼-生(たみ)をくるしむる事、其(それ)、いはれなし。もし、天、朕をあはれみ給はゞ、此蟲、東海へ去るべし。さなくば、朕を、害せよ』とて、其蝗をとりて吞(のみ)給ひしかば、その蟲、東海へ飛去(とびさ)りて、太宗にたゝりもなく、打繼(うちつづ)き豐年にして、斗米三錢(とべいさんせん)の戶(と)ざゝぬ御代になりける事、「貞觀政要(ぢやうぐわんせいえう)」に見えたり。是、その君(きみ)の、眞實に民をあはれみ給ふ心の感應なり。又、其外、一國一城の主(ぬし)の、德義ふかき故に、旱に雨を得、洪水に害なく、虎の、鄕を去り、いなむしの死(しに)し類(たぐひ)、あげてかぞふべからず。これ、世界のうちに、人より貴(たつと[やぶちゃん注:ママ。])きはなく、人の内にて、心より上なるは、なければ、其心に感ずるところ、さまざまのしるしありて、天人一理(てんじにちり)の妙(めう)なる事、儒學の極意なり」とかたられき。
[やぶちゃん注:「雨師(うし)風伯(ふうはく)」中国神話に於ける雨の神である雨師萍翳(へいえい)と風の神風伯飛廉(ひれん)。軒轅(けんえん:後の黄帝)と蚩尤(しゆう)が涿鹿(たくろく)で戦った際、雨師と風伯は蚩尤側につき、軒轅を甚だ困らせたとされる。個人ブログ「プロメテウス」の「黄帝を苦しめた中国神話最凶の風神、雨神コンビ、風伯と雨師」に詳しいが、それによれば、『この窮地を救ったのが』、『黄帝側についたキョンシーの祖先とも言われる旱魃という日照りの女神で』あった。『しかし、雨を止めるのは一筋縄ではいかなかったようで、雨師の降らせている雨を止めたはいいが加減ができなかったのか』、『戦後』、『長期にわたって涿鹿一体に雨が降らなくなり』、『乾燥した大地となってしま』ったとある。
「殷の湯王」殷王朝初代の王。紀元前十八世紀頃の人。「史記」によれば、始祖契 (せつ) から第十四世に当たるとし、甲骨文では「唐」又は「大乙」などと呼ばれる。文献では「天乙」或いは「成湯」とする。周囲の諸侯を協力させ、遂に夏を倒して殷を開いたとされる。古文献は、多く、明哲なる聖王として、その徳を讃えている。
「唐の太宗」(五九八年~六四九年/在位:六二六年~六四九年)は唐の第二代皇帝。諱は李世民。初代皇帝李淵(高祖)の第二子。隋末動乱の最中、太原方面の防衛を命ぜられた父に従って同地に赴き、李淵の側近や部下らとともに、父を促して挙兵に踏み切らせた、立国の功績は絶大。ウィキの「太宗(唐)」によれば、六二六年のクーデター「玄武門の変」で、『皇太子李建成を打倒して皇帝に即位、群雄勢力を平定して天下を統一した』。『優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた』。『騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど』、『文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる』。
「雨の宮・風の宮」現行、雨宮神社・雨之宮神社は各地にあり、風宮(かぜのみや)は三重県伊勢市豊川町にある外宮(豊受大神宮)の境内別宮として知られ、春日大社や、やはり各地に風宮神社風宮神社がある。
「覡(かんなぎ)」既出既注。古くは「かむなき」。「神(かむ)和(なぎ)」の意とされる。ここは「神降ろし」をする呪術者(シャーマン)の男性を指す(「巫覡(ふげき)」と言った場合、「巫」が「巫女」で女の、「覡」が男のシャーマンを指す)。
「帝王世紀」晋の学者皇甫謐(こう ほいつ 二一五年~二八二年)が編纂した歴史書。三皇から漢・魏に至る帝王の事跡を記録したもので、原本は十巻あったとされるが、散逸し残っておらず、引用によって片鱗を偲ぶのみである。元隣が元にした引用が何であったは調べ得なかった。判り次第、追記する。
「唐の太宗といふ賢王の御代に、蝗(いなむし)といふ物、天下にみちみちて……」ウィキの「中国蝗災史」に、『中国では昔から、蝗災(蝗害)、水災(水害)、旱災(旱魃)が3大災害の扱いを受けている』。『そもそも』「蝗」『の字は』、『農作物を襲う蝗の惨害をどう防ぐか、救うかに「皇」帝の命がかかっているというので』、『虫へんに皇と書くとする説がある』『ほどで、政治と蝗害は密接に関わってきた』「貞観政要」(唐の呉兢(ごきょう)の撰になる、唐の太宗と家臣たちとの政治上の議論を集大成して分類した書。全十巻。七二〇年以降に成立。治道の規範書として歴代皇帝の必読書とされ、日本でも広く読まれた)巻第八の「務農第三十」にある、『唐の太宗が蝗を飲み込んで蝗害を止めたという伝説にも、その関係性が表れている』とある。
「斗米三錢(とべいさんせん)の戶(と)ざゝぬ御代」太宗の御代には、一斗(当時の一斗は五・九リットル)の米が僅か銀三銭という安さで、貧困のために民が去って家が閉ざされることなく、家はいつも開かれて栄えていたという、彼の仁政を讃える謂いであろう。
「貴(たつと)き」私は「貴し」を「たふとし(とうとし)」と読み、「尊し」を「たつとし」と読むと、小さな頃から刷り込まれきた人間である。]
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