5-21 又林氏の說幷川村壽庵の事 / 5-22 壽庵が事蹟 / 5-23 又、芙岳を好む事
5-21 又林氏の說幷川村壽庵の事
後日に風と前條の事を林公鑑に語しかば、公鑑は、從來大玉川と配稱すること、後世拙俗の所爲にして、采錄に足らず。高野大師の歌は假托にて、其時世の語言風格に非ずと云へり。又是に付おかしき噺ありとて、公鑑の云しは、河村壽菴【南部産】と云し町醫師、風雅人にて、其人名山を好んで諸國を登涉せり。一年高野山に登りしとき、嚮導者毒水玉川を指點して、側へよらば毒に觸べし。遠く避けて通行すべしなど恐嚇して云けるを、耳聞ざる如くして水岸に立、やがて無人として水中へ私しければ、嚮導者あきれはてゝ一言も無しとなり。
■やぶちゃんの呟き
前の「浴恩侯、高野玉川の歌の解」を受けていたのをうっかり見逃していた。以下二条もこの「21」と連関するので、纏めて掲げることとした。
「林氏」「林公鑑」既出既注の林述斎のこと。
「川村壽庵」(?~文化一二(一八一五)年)は江戸後期の医師。本条々の紹介によって奇行で知られた。ウィキの「川村寿庵」によれば、『南部藩出身。医学の修行のため』、『江戸に登り』、安永四(一七七五)年に『江戸の町医者・川村快庵の跡目を相続する。その後は町医者として医業に精だし、弟子も取る一方で、安藤昌益や林述斎らとも交流したと言われる』が、『寿庵の生涯については現在も不明な点が多い』。以下は本条々の現代語訳であるが、これ幸い(以下で注を大幅にカット出来るので)なれば、そのまま引いておく。『往診は自宅から数里四方内と限り、かつ調剤は巳の刻を限りとし、時刻を過ぎれば』、『好きな笛を持って同好の士を訪ねて合奏を楽しみ、帰宅を忘れるのが常であった。清水公(徳川重好』(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年:第九代将軍徳川家重の次男で徳川御三卿の一つである清水徳川家の初代当主)『と見られる)が重病になり、寿庵を知る家臣が寿庵を推挙し、使者を遣って招いたが、往診に距離に限りがあると』、三度、『招かれても応じなかった。推挙した家臣は困惑し、自ら寿庵を訪ねてようやく往診を承諾させた。しかも往診の際には垢衣を』纏って『薬籠を肩にした老貧医姿で、周囲を愕然とさせたという』とある。
「風と」「ふと」。
「嚮導者」「きやうだうしや(きょうどうしゃ)」先達。案内人。
「指點」「してん」。指差して。
「觸べし」「ふるべし」。
「恐嚇」「きようかく」。脅かし嚇(おど)すこと。
「聞ざる」「きかざる」。
「無人」「ひとなし」。
「私しければ」勝手に入り込んでしまったので。
5-22 壽庵が事蹟
次でに公鑑の咄ありき。壽菴は奇男子と云べきものなり。石町邊に住し、我居處の四方、凡幾町と云定界を立て、その中の療治計して、その餘へは延致すれども往ず。分て懇交の人は、たまたまその外に刀圭執る事もあり。因てはいかなる王侯貴人より邀へても、峻拒して應ぜず。每日早旦より巳牌までに醫業畢るやうにして、鐘聲巳刻を報ずれば、笛を腰にして、出て管絃會集の許に行き、合奏して日を終ふ。性最樂を嗜み、樂器を貯ふること若干。名物と稱するものまで儲へぬ。又暇あれば書を看る。藏書も亦滿ㇾ庫。天明飢荒の時、鄕里の親緣故舊、殆ど餓死せんと告來る。卽時に庫を開き、數萬卷の書を一時售て金に換へ、脚力を馳て救ふ。これが爲に全活するもの數十人。後に人嗤て、足下は信を人に取ること久し。もし金借んと云はゞ、數百金も立處に集るべし。何の珍篇奇籍を售ことやあらんと云ければ、壽菴答て云。人の物を借りて救ふを誠意と云んや。我が物を以て救はざれば、我誠意を達するに非ずと。嗤し者愧服せり。壽菴常に頗る富めり。然るに綿入のときも帷子のときも、年々一二新調して餘贏あることなし。起臥内外同じ服を着す。時服過る比、其まゝ弟子奴僕に與へて、翌年に越るものなし。ある夏、淸水殿【浚德院殿】御大病の時、侍臣の中舊友ありて、頻に壽菴を推薦し、彼藩より召れける。例の事なれば、固辭して出ず。使价數囘に及ベども、遂に參らず。家司始悉その侍臣を責ること急なり。侍臣自ら壽菴が許に來り、もし藩命を奉ぜずんば、某罪を得て逭るべからず。故舊の情を以て某を救へと歎く。壽菴やむことを得ず、藩命を奉じ行く。藩にては名醫來れりとて、諸有司皆出て待つ。壽菴は一僕に藥籠を擔はせ、己は三伏晝夜を通して汗染はてたる帷子にて步み至れるを、人々覩て驚かざるものは無りしとなり。是を以て其氣槪を見るべし。公鑑年少のとき管絃の交際にて、今亡友の中にても指を屈する列なりとの物語なりけり。
■やぶちゃんの呟き
「石町」「こくちやう」で、現在の東京都中央区日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう)の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「凡」「およそ」。
「幾町」一町は百九メートル。彼の定めた町数は知らないが十町を越えるとは思われない。十町を越えると、江戸城内に達してしまうからである。
「定界」「じやうかい」。
「計」「ばかり」。
「延致」その限界の外へと引き延ばして来診を依頼すること。
「往ず」「ゆかず」。
「分て」「わけて」。
「刀圭」「たうけい(とうけい)」原義は「薬を調合する匙」で、転じて医術・診断・施療のこと。
「邀へても」「むかへても」。迎えても。
「巳牌」底本東洋文庫『みのこく』とルビする。午前十時頃。
「畢る」「をはる」。
「性最」「せい、もつとも」。
「儲へぬ」「たくはへぬ」。
「滿ㇾ庫」「くらにみつ」。
「天明飢荒」天明の大飢饉。江戸中期の天明二(一七八二)年から天明八(一七八八)年にかけて発生した飢饉で、本邦近世では最大の飢饉とされる。ウィキの「天明の大飢饉」によれば、『東北地方は』先立つ一七七〇年代(明和・安永)から『悪天候や冷害により』、『農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中』、天明三年三月十二日(一七八三年四月十三日)には岩木山が、七月六日(八月三日)には『浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった』。天明二(一七八二)年から三年に『かけての冬には』、『異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により』、『地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約』三十『年前の宝暦年間』に『凶作があったときの天気と酷似していた』という。『被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約』二『万人)が餓死したと杉田玄白は』記して『いるが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている』。『しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が』十『数万人に達したとも伝えられており』、『逃散した者も含めると』、『藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には』一七八〇年から一七八六年の十六年間で実に九十二『万人余りの人口減を招いたとされる』とある。
「鄕里の親緣故舊、殆ど餓死せんと告來る」前条で示した通り、川村は南部藩出身である。
「售て」「うりて」。
「馳て」「はせて」。
「嗤て」「わらひて」。
「金借ん」「かねかりん」。
「愧服」「きふく」。恥じて従うこと。
「餘贏」「よえい」。余り。残余。剰余。「贏余」とも言う。
「時服過る比」「じふく、すぎるころ」。合わせた服の季節が過ぎる頃には。
「ある夏、淸水殿【浚德院殿】御大病の時……」以下は前条の引用を参照。なお、調べてみると、徳川重好の墓碑銘の諡号は「峻德院殿」である。因みに家重の長男の第十代将軍徳川家治の諡号は「浚明院」であるから、静山はそこを混同した可能性が大きい。
「中」「うち」。
「彼藩」「かのはん」であるが、清水家は御三卿だから今一つピンとこない気もするが、そもそも「藩」と言う語は江戸時代には一万石以上の領地を与えられた大名の支配する領域とその支配機構を指したものの、「藩」の名は幕府による公称ではなく、江戸中期頃に漢学者儒学者が周の封建制度に擬えて大名を「藩屏(はんぺい)」と称したことに由来し、実は公称とされたのは明治になってからであるから、この違和感も時代劇の見過ぎとも言える。
「使价」「しかい」。招聘伺いの使者。
「始悉」「はじめ、ことごとく」。
「責る」「せむる」。
「某罪を得て逭るべからず」「それがし、罪を得て、逭(のが)るべからず」。
「三伏」「さんぷく」。「初伏」(しょふく:夏至(げし)後の三度目の庚(かのえ)の日)・「中伏」(ちゅうふく:四度目の庚の日)・末伏(まつぷく:立秋後初めての庚の日)の総称。最も暑い時期を指す語。
「汗染はてたる」「あせじみ果てたる」。
「覩て」「みて」。
「無りし」「なかりし」。
5-23 又、芙岳を好む事
壽菴は殊に芙岳を好み、幾度か登れり。居宅の樓上に架を作り、名は火見と稱し、實は眺岳の爲に設く。朝起れば、先づ架に上りて岳を看、それより日用の事に就く。生厓かはることなし。晚年本所に退居して人を避け、名山圖を刻行す。畫は文晁にかゝしめしが、山形はみづからの指點なりとぞ。岳に登るときは必魚味を携へ、窟室中にて用ゆ。道家叱すれども肯ぜず。岳巓は人の高聲禁ずると云に、いつも石に踞して笛を弄し、數曲を闋て山を下る。先達と呼ものも、如何ともすること能はざりしとなん。
■やぶちゃんの呟き
「芙岳」「ふがく」で「富岳」、富士山のこと。
「架」掛け渡した物見の木製の高台。
「火見」「ひのみ」。底本のルビ。
「起れば」「おくれば」。
「生厓」「生涯」に同じい。
「文晁」江戸後期の奥絵師谷文晁(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)。江戸下谷根岸の生まれ。狩野派・土佐派・南宗画・北宗画・西洋画などの手法を採り入れ、独自の画風を創出、江戸文人画壇の重鎮となった。田安徳川家に仕え、松平定信編「集古十種」の挿絵も描いている。渡辺崋山ら門人も多い。
「山形」「さんけい」でも「さんぎやう(さんぎょう)」でもよいが、私は「やまなり」と読みたい。
「指點なり」指図で描かせた。
「必」「かならず」。
「魚味」腥(なまぐ)さ物の魚類。
「窟室」岩室(いわむろ)。
「道家」「だうけ(どうけ)」。これは後に出る「先達」(せんだつ)で、山案内をする修験「道」の山伏の形(なり)をした者と私は採る。なまぐさものを山中で食することは一般に禁忌とされる。
「肯ぜず」「がへんぜず」。
「岳巓」「がくてん」。山頂。
「高聲」「こうせい」。
「云に」「いふに」。
「踞して」「きよして」或いは「こして」。しゃがんで。
「闋て」「をはりて」。話・音曲などの一つの区切りや話の纏まりを「ひとくさり」と言うが、あれは実は「一闋」と書く。ここは一曲を「演奏し終えて」の意。
« 譚海 卷之三 大嘗會 | トップページ | 古今百物語評判 序・目録 卷之一 第一 越後新潟にかまいたち有事 / 古今百物語評判 電子化注始動 »