古今百物語評判卷之二 第四 箱根の地獄幷富士の山三尊來迎の事
第四 箱根の地獄幷富士の山三尊來迎の事
[やぶちゃん注:やや長いので、特異的に改行や字下げを施して読み易くし、注も当該段落末に添えた。]
又、問(とふ)ていはく、
「はこね山には地ごく有(ある)よし、申(まうし)ならはし侍りて、人のよみがへりたる者などの物がたりにも、まことしき事あり。其うへ、そのよみがへりたる人の身などに紫色なる所など出來候ふを、訶責[やぶちゃん注:「呵責」。]にあひし跡なりと申は、結城(ゆふき)入道がいにしへも思ひ出でられて、實(げ)にも、らしく、聞え侍り。又、富士の山へのぼりたる人は、朝日にかゞやきて三尊來迎(さんぞんらいがう)の姿、おがまれ給ふ事、諸人の申し侍るは、何(なに)の道理ぞや。」
[やぶちゃん注:「結城入道がいにしへ」鎌倉後期から南北朝初期の武将で白河結城氏第二代当主結城宗広(文永三(一二六六)年~延元三/暦応元(一三三九)年)の伝承。ウィキの「結城宗広」によれば、『当初は鎌倉幕府の忠実な家臣として陸奥国南部方面の政務を任された』。元弘元(一三三一)年九月の「元弘の乱」に『際して、北条高時の命によって畿内へ派遣された討伐軍に「結城上野入道」の名があるが』、『これを宗広に比定』する学者がいる。しかし、元弘三/正慶二(一三三三)年、『後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると後醍醐天皇側に寝返って、新田義貞と共に 鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼした』。『その功績により、後醍醐天皇から厚い信任を受けて』、『北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された』。建武三(一三三六)年、足利尊氏が京都に攻め入り』、『一時』、『支配下に置くと、顕家と共に軍を率いて足利軍を攻め、朝廷軍の京都奪還で大功を挙げた』。同年三月には『後醍醐天皇に謁見し』、『宝刀鬼丸を授けられ』ている。『九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共に足利軍と懸命に戦ったが』延元三/暦応元(一三三八)年に『顕家が高師直と戦って敗死したため』、『軍は壊滅し、宗広は命からがら後醍醐天皇がいる吉野へと逃れた。その後、宗広は南朝方再起のために、義良親王を奉じ』、『伊勢より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難して伊勢国安濃津で立往生し、間もなく同地で発病して病死した』。『津市には遭難した海岸に結城神社が有り、梅祭りで有名である』「太平記」巻二十の掉尾「結城入道地獄に堕つる事」では、『宗広の死に関して、常に死人の首を見ないと気持ちが晴れないと言って、僧尼男女を問わず』、毎日、二、三人の『首を切って』、『わざわざ目の前に縣けせるほど、生来』、『暴虐な人物で狼藉が多かったため、その報いを受けて塗炭の苦しみを味わい』、『地獄に堕ちるという凄惨な描写をしている。宮城県多賀城市の多賀城神社に祀られている』。『宗広は南朝に最後まで忠実な武将であったが、その息子・親朝が北朝に通じて親房を攻めるという皮肉な事態が発生する事になった。なお、家督は当初親朝が分家していたため』、『親朝の子・顕朝を後継者としていたが、宗広の死後に顕朝が白河結城氏の家督と所領を父に献じたために親朝が継承している』とある。「太平記」のそれは面白いであるが、やや長い。santalab氏のブログ「Santa Lab's Blog」の『「太平記」結城入道堕地獄事(その1)』から九回に分けて原文と現代語訳が載るので、そちらを参照されたい。]
先生、いへらく、
「是れ、又、人の氣の前に見る幻容(げんよう)なるべし。くはしく、論じ侍らん。かく申とて、我、ゆめゆめ、佛道をそしるにあらず。各々、御存(ごぞんじ)のごとく、佛・菩薩をも、うやまひ侍れども、根元佛道の本意(ほに)は別に佛身をたつるにあらず。たゞ是れ、自性(じしゃう)の正覺(しやうがく)を本有(ほんう)の佛心とみたて侍る事、佛道第一の眼目にて御座候ふ。されば、其佛道に似て、『つゐへの侍る[やぶちゃん注:ママ。「潰(つひ)え」であろう。]』と、愚(おろか)なる人のまよひて、賣僧(まいす)にたぶらかさるゝをうれへ侍るのみ。
[やぶちゃん注:「自性」あらゆる存在そのものが、本来、備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。
「正覺」「無上正等覚・三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)」の略。正しい仏の悟りのこと。
「本有」連声(れんじょう)で「ほんぬ」とも読む。本来的な存在。初めから有ること。]
それ、地獄の事は鬼の事に付(つき)ても、あらあら、申し侍れども、又、かたり申さん。
彼(か)の佛家(ぶつけ)に、ときをき[やぶちゃん注:ママ。]給ひし地ごくの沙汰は、是れ、愚(おろかなる)人の奸惡(かんあく)をなして、『何とぞ、上(かみ)の刑罰をまぬがれん』として、恥(はづ)る事なき者の爲に、しばらく、まうけて教へをたつるのみ。いかでか、人、死し、かたち、つゐえて[やぶちゃん注:ママ。]後、更にくるしみをうくる事、あらんや。しからば、我朝にいふ所の箱根山、および越中のしら山・たて山、皆、硫黃(ゆわう)のせいより、さまざまわき出(いづ)るを申しならはしたるにて侍るべし。
[やぶちゃん注:「越中のしら山・たて山」言いがおかしい。「しら山」は越前の白山である。もろこしにも、かく名付たる所あり。「一統志」「湖廣總志」などにみえたり。
「硫黃(ゆわう)」前条「第三 有馬山地ごく谷・ざたう谷の事」で既出既注。硫黄(いおう)の古名。
「一統志」「大明一統志」。明の英宗の勅撰地理書(但し、先行する景泰帝の命じた一四五六年完成の「寰宇通志」の改訂版)。一四六一年に完成。全九十巻。最終の二巻は「外夷」(朝鮮国・女直・日本国・琉球国他)に当てられているが、説明は沿革・風俗・山川・土産のみで、簡略である。
「湖廣總志」「萬歷湖廣總志」明の徐學謨撰になる湖南省の地誌。全九十八巻。一五九一年成立。]
さある處に、我朝に、人のよみがへりたる後(のち)、或は、『はこねへゆきし』、又は』『それぞれの責めをうけし』など、まざまざ申事有(ある)は、是れ、日比(ひごろ)に『かく有べき』と思ひきはめたる氣の、前(さき)の病氣をうけて、既に半ばも死(しに)いれども、よみがへる者なれば、其本心は、しなざるにより、晝、おもひし事を、夢に見る理(ことわ)りなれば、此病氣の中に、すゞろ事(ごと)どもを、日比に思ひしごとくにみるを、かく申すなり。
[やぶちゃん注:「すゞろ事」これといった根拠や理由のないこと。ここは他愛もないさまざまな地獄の説。]
さて、また、紫色などのつきしは、ねつ氣などのさかんにして、とゞこほりて、色の變りしなり。『はやくさ』などにて相果(あひはて)る小兒を見れば、皆、むらさき色なり。是れ、たゞ積(つもれる)毒のあらはるゝにて、さらに訶責の跡にあらず。
[やぶちゃん注:「はやくさ」「早瘡」で、母体感染した小児性梅毒のことかと思われる。]
其うへ、司馬溫公の發明にも、人の蘇生して後、地ごくへ行き、閻魔王殿にあひしなどいふも、佛法わたりて後に、哲人、かく申せり。是、まよひ故なり。
[やぶちゃん注:「司馬溫公」北宋代の儒学者で歴史家・政治家としても知られる司馬光(一〇一九年~一〇八六年)のこと。彼は温国公の爵位を贈られており、それによって「司馬温公」「司馬文正公」と呼ばれることが多い。例の、子どもの頃、大きな水瓶に落ちた友人を、躊躇なく瓶に石をぶち当てて破って助けた話で知られる人物である(それを私は小学二年生の時、学校の道徳の授業で音読させられたのを何故か未だによく覚えている)。
「發明」物事の意味や道理を明らかにすることを目的として書かれた書という一般名詞であろが、以下の話は何に出るのか、よく判らぬ。識者の御教授を乞う。]
もし、『實(じつ)にある事ぞ』ならば、いかんぞ、佛法わたらざるさきに、いくたりも、蘇生の者侍れども、一人も、かやうの事あらざるやと申給(まうしたまひ)し事、千載不易の論なればこそ、文公「小學」にものせ給ひけり。
[やぶちゃん注:御説、御尤も!
『文公「小學」』初学者のために南宋の大儒、朱熹(一一三〇年~一二〇〇年:謚は文公)が編纂した宋代の修身・作法書。全六巻。一一八七年成立。]
或は、したしき親・なれたる妻などの死(しし)て、物每(ものごと)、かなしき折から、出家などのわたりて、そこそこを通りしに、『其死人(しびと)より、かたみをおくり給(たまひ)し』などいひて、死人(しにん)に着せやりたる着物の袖・つまなどを持ち來たる事、多し。是れ、皆、手だてある事のやうに覺え侍る。何れも、さしもの學者たちなれば、大かたは推察し給ふべし。
[やぶちゃん注:最後の一文は、集って元隣に問い、話を聴いている諸人を指すか。しかし、「さしもの學者たち」とし、尊敬語まで用いているのは不審である。かといって、朱熹に代表される学者たちと採るには文脈上は困難である。]
さて、富士の山三尊來迎の事は、朝日の光にて、雲の色あひ、其かたちに似たるを、日の光のまぶきまぎれに、其如く思ふなるべし。程子、石佛(いしぼとけ)の光をとゞめ給
ふ事、思ひあはせ給ふべし。
むかし、和國の山川は、其國の神をまつりけれども、中むかし、いつの時よりならん、名ある大山(たいさん)・大川(たいせん)、ことごとく佛者の爲に領せられし事にこそ侍れ。」
[やぶちゃん注:元隣が大の仏教嫌いの神道復古派であることが、如実に伝わってくる。]


