古今百物語評判卷之三 第五 貧乏神幷韓退之送窮の文、范文正公物語の事
第五 貧乏神幷韓退之送窮の文(ぶん)、范文正公物語の事
[やぶちゃん注:入れ子の会話文が多いので、特異的に改行・字下げ及びその他の記号を施して読み易くしてみた。]
ある人の云(いはく)、
――去(さる)物語たりに云へるは、河西(かはにし)あたりの、きはめてまづしき者、何事も『左(ひだり)ずまふ』をとるがごとく、くる年も侘しく、明くる年も心にかなはねば、
「とやせん、かくやらむ。」
と、身のをき所さへ案じくらす折ふし、何かは知らず、肩の上より、五寸ばかり成(なる)物、落ちたり。
取りあげ見れば、人形(ひとかたち)にて、目・鼻・口・舌も、そろひたり。
彼(かの)貧者、おどろきて、
「汝、何者なれば、我が肩より落ちたる。」
と云へば、答(こたへ)て云く、
「我、世に、いはゆる、貧乏神にて、日頃、こなたの身に住(すま)ゐせし者なり。」
と云へば、貧者、よろこび、妻子を呼(よび)て云ふやう、
「扨々、嬉しきこと哉(かな)。此日比(このひごろ)、此者、我につきまとへばこそ、汝等にも、からき目を見せつれ、向後(けうかう[やぶちゃん注:原典のママ。正しくは「きやうこう」。])よりは、手前もなをり、物每(ものごと)、潤澤なるべし。打ち殺しても捨(すつ)べきなれども、いぬると云へば、其まゝにてたすけやるべし。」
と云へるに、貧乏神、わらつていふやう、
「御悅(おんよろこび)は御尤(ごもつとも)なれども、我、そなたの身をはなるゝに非ず。こなたの身のうへ、頂(いたゞき)より、足のつまさき迄、ひしと、諸方の貧乏神、つきまとひたるうへに、此比(このごろ)、また、新しき神どもの、遠方よりつどひ來たりし故、おり所なく誤(あやまり)て落ち侍る。」
といへば、彼者、興さめて、あきれはてたり、と申す事の候が、若(もし)、此神候哉(や)、左(さ)候はゞ、萬(よろづ)のばけ物よりもおそろしき者にて御座候。――
と問(とひ)ければ、先生、評していはく、
――此神を『窮鬼(きうき)』[やぶちゃん注:貧乏神。]と名附たり。
夫(それ)、人の貧富は、天命の禀受(ひんじゆ)[やぶちゃん注:授かり受けること。]の、あつき・薄きによれば、聖賢君子の、德義正しく、智慮ふかしといへども、如何ともする事、なし。孔子・顏淵・曽參(そしん)・原憲(げんけん)の類(るい)、あげてかぞふべからず。
然るを、愚なる者は强(しい)て貧(まづしき)を去り、富を求めむとして、其身をくだし、名をはづかしめ、後には刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:刑罰に処すること。死刑に処すること。]に落ちゐる[やぶちゃん注:ママ。]たぐひ、此れ、天命を知らずして、幸(さいはひ)を願ふがゆへ成(なる)べし。
常體(つねてい)の者は、天命の說も、ことむつかしければ、佛家(ぶつけ)に、いはゆる、三世(さんぜ)の說を立てゝ、過去の宿業(しゆくごふ)と云へるも、害あるにあらず。
かく、天運によるなれば、神(かみ)有(あり)て司(つかさどれ)るにもあらざめれど、唐の韓退之と申せし大儒も、正月・晦日(つごもり)に酒肉をのせて、文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひしかど、一生が間、不仕合(ふしあはせ)のみ、打續(うちつづき)候故、宋の陳簡齋(ちんかんさい)といふ詩人の詩にも、「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」(韓愈 窮を推せども窮去らず 樂天 富みを待てども 富み來らず)と作りしとかや。
又、宋の范文正公と云(いへ)るは、宋朝一人の人品(じんひん)にて、學問才藝は更にもいはじ、好むで、人に施し給ふ。後に饒州(ぜうしう)の守護職に成(なり)給ひて、家、富み、門、榮(さかえ)たり。
然(しかる)に、其友に、きはめてまづしき浪人ありて、渡世のたつきなかりければ、范文正公と舊友なるによつて、
『合力(かうりよく)に預らばや。』
と思ひて、遙々、饒州にいたりて、此事を嘆きしかば、文正公、もとより、人に物ををしまぬ心なれば、大守たりといへども、一錢のたくはへ、なし。
折節、六月の頃なれば、文正公、仰せけるは、
「當夏(とうなつ)の税(みつぎもの)に麥を數萬石(すうまんごく)おさめしを、せがれ某(それがし)をして、慰みがてら、奉行にそへて、賣りに遣したり。此者、歸らば、此金をあたふべし。」
とて、待(まち)給ふに、子息、歸りて申さるゝは、
「むぎをそれぞれに賣(うら)せける所に、古鄕(ふるさと)を通りしかば、親類どもの、まづしく候ふ者に、のこらず、あたへて歸り候ふ。」
と申されし故、文正公も、彼の友だちも、力をおとしぬ。
さて、其後(のち)、文正公、仰出(おほせいで)らるゝは、
「此州に晉(しん)の王義之の石碑あり。是を石ずりにうつ時は、壹枚を黃金(わうごん)一斤(いつきん)には賣れ、やすかるべし。されども、平人(へいにん)の是をうつ事、あたはず。我、幸(さいはひ)、守護なれば、心易し。」
とて、則(すなはち)、其石摺り百枚をうち給ふべき紙硯(かみすゞり)をとゝのへ給ひ、
「既に、いついつの日、打ち給ふべき。」
とて、其(その)近邊に仰付けられ、既に明日はその所へ文正公も諸共(もろとも)に出で給ふべきと定(さだま)りたる今夜、俄に、土民ども、來たりて申(まうす)やう、
「今夕、俄に夕立して、雷(いかづち)、その石碑へ落(おち)候が、雨晴れて後、見候へば、石碑、微塵にくだけ、いづちへ飛びしやらん、行(ゆき)がたを存ぜず。」
と申(まうし)けり。
その友、とかうすべきやうもなくて、手をむなしくして、かへり侍りぬ。
誠にけつかう[やぶちゃん注:ママ。「結構」。]なる文正公を友達にもち、かく念比(ねんごろ)に預(あづか)れども、其數(すう)のきはまりには、是非にも及ばぬ事ならずや。東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りしは、此事なり。――
とかたられき。
[やぶちゃん注:「河西(かはにし)」よく判らぬ。辞書では、京都市の西洞院川又は堀川の西、下京二条通り以南の一帯。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に職人・小商人が多く住んでいたとし、別に京の賀茂川の西の遊所。陰間茶屋が並んでいた、とはある。
「左(ひだり)ずまふ」「左相撲」であろうが、不詳。「左前」と同じなら、「運が傾くこと・経済的に苦しくなること」で腑には落ちる。
「顏淵」孔子第一の高弟顔回の字(あざな)子淵からの呼称。
「曾參」孔子の弟子曾子の諱(いみな)。
「原憲」孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる弟子。
「三世(さんぜ)」前世・現世・後世(ごぜ)。
「韓退之」中唐の詩人で唐宋八大家の一人、文学者・政治家でもあった韓愈(七六八年~八二四年)の字(あざな)。才気煥発であったが、監察御史の時、京兆尹(いん)李実を弾劾し、却って連州陽山県(広東省)令に左遷され、後に中央に復帰し、刑部侍郎となったが、憲宗が仏舎利を宮中に迎えたことに反対したため、再び、潮州(広東省)刺史に左遷された。後に憲宗が死去して穆宗(ぼくそう)が即位すると、再び召され、国子祭酒から兵部侍郎・吏部侍郎を歴任するなど、政治家としては波乱に満ちた生涯であった。
「文章一篇をつくり、舟にて『窮鬼』を送り給ひし」八一一年、韓愈四十四歳の折り、正月に作った「送窮文」(窮を送る文)を指す。「結柳作車、縛草爲船」(柳を結びて車と作(な)し、草を縛りて船と爲し」て、窮鬼を送り出す祀り(貧乏神送りの儀式。唐・宋以来、年越し前に広く行われていた年中行事の一つ)を述べたもの。この文で彼は行事に託して「窮鬼」と自分との架空の対話を述べている。「紀頌之の中国詩文研究のサイト」の「韓愈の生涯」の「第五章 中央朝廷へ復帰」の「送窮」がよい。梗概を彼が陥れられた冤罪を含め、解説と評を交えて語られており、原文も後に示されてある。
「陳簡齋」(一〇九一年~一一三九年)は南宋初期の詩人で政治家の陳与義の号。開徳府教授から太学博士・符寶郎となるが、左遷されたりした。しかし、一一三八年には参知政事となり、大いに朝廷の綱紀を粛正した。詩に優れた。人格的にも非常に厳格で、濫りに笑わなかったという。
「韓愈推ㇾ窮窮不去 樂天待ㇾ富富不ㇾ來」陳与義の以下の詩の冒頭二句であるが、「韓愈」は「退之」の誤り。本名を詠み込むのは礼を失している。訓読は歯が立たないのでやめる。悪しからず。
寄若拙弟兼呈二十家叔
退之送窮窮不去
樂天待富富不來
政須靑山映白髮
顧著皂蓋爭黃埃
何如父子共一壑
龐家活計良不惡
阿奴況自不碌碌
白鷗之盟可同諾
三間瓦屋亦易求
著子東頭我西頭
中間共作老萊戲
世上樂複有此不
問夢膏肓應已瘳
歸來歸來無久留
竹林步兵非俗流
爲道此意思同遊
「范文正公」北宋の政治家范仲淹(はんちゅうえん 九八九年~一〇五二年)の諡(おくりな)。欧陽脩の推薦によって枢密副使・参知政事となった。彼は君子の正道を論じて十策に及ぶ施政改革を訴えた。散文にも優れ、著名な「岳陽楼記」の中の「天下を以つて己が任となし、天下の憂いに先んじて憂へ、天下の楽しみに後(おく)れて樂しむ」という「先憂後楽」(後楽園の由来)、儒学を人格形成の実学に高めた人物として知られる(主にウィキの「范仲淹」に拠る)。
「饒州(ぜうしう)」(現代仮名遣「じょうしゅう」)は江西省に嘗て設置されていた州。現在の上饒(じょうじょう)市鄱陽(はよう)県一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。仁宗の親政の時、范仲淹は中央で採用されて吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡に抗論して、饒州に左遷されている(後に欧陽脩の推輓により中央に復帰)。
「古鄕(ふるさと)」范仲淹は蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身。
「王義之」東晋の政治家で書家として「書聖」と謳われる王羲之(三〇三年~三六一年)。
「石ずりにうつ」石摺りに叩いて拓本として採ること。
「一斤」宋代のそれは五百九十六・八二グラム。
「やすかるべし」それで生活を安んずることが出来よう。
「念比(ねんごろ)に預(あづか)れども」非常な好意に預かったにも拘わらず。
「其數(すう)のきはまり」その浪人の貧として生まれつきの宿命として規定されたその限り。
『東坡(とうば)が「一夕雷轟饒州碑」(一夕(いつせき) 雷(らい) 轟かす 饒州の碑)と作りし』中文サイトを判らぬながら、いろいろ調べて見たが、蘇軾の「窮措大」(「貧乏学者」の意)という詩の一句らしいところまでしか判らなかった。また、以上の後半部の王義之の碑に纏わるこの不幸譚は、例えば、宋の恵洪(えこう)の詩話集「冷齋夜話」という書に、
*
範文正守鄱陽。有書生獻詩甚工。文正延禮之。書生自言、平生未嘗得飽。天下之至寒餓者。無出其右。時盛習歐陽率更字。薦福寺碑墨本直千錢。文正爲具紙墨打千本。使售于京師。紙墨已具。一夕雷撃碎其碑。故時人語曰、有客打碑來薦福。無人騎鶴上揚州。東坡作窮措大詩、有一夕雷轟薦福碑句。
*
と載る。また……いろいろ検索しているうちに、『薦福寺碑 即 僧人大雅又集王羲之行書刻成之「興福寺碑」』というページを見つけましたが、これがそれかどうかは、もう疲れました、勘弁して下さい、悪しからず。]
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