古今百物語評判卷之四 第十一 黃石公が事 / 古今百物語評判卷之四~了
第十一 黃石公が事
ある人のいはく、「なべて、人の存(ぞんじ)候、張良に一卷の書を授(さずけ)し老翁は、其(その)おきなの言葉に、『われ、黃石の精(せい)なり』と申されきと。さ候へば、石も劫(こう)を經ては、ばけ候やらん、いぶかしさよ」と云(いひ)ければ、先生、答(こたへ)ていはく、「是れは、石のばけたるにあらず。彼(かの)黃石公と申せし人は、其比(そのころ)、軍法(ぐうはう)の名人にて張良の師匠なる人なれば、則ち、智謀を用ゐたるなり。其故は、『我、世をのがれし者なるが、此書をたしなみをきたり[やぶちゃん注:ママ。]。汝に授けむ』など云はゞ、人の淺(あさ)まに[やぶちゃん注:「浅はかなに・軽薄に・いいかげんに」。]おもはむ事を思ひ、かくあやしくいひて、世の信仰をおこさしめむが爲なり。張長も其心をさとりて、後(のち)に黃石をまつりしなり。かやうの事、軍法におゐて、まゝある事なり」と語られき。
[やぶちゃん注:「張良」(?~紀元前一六八年)は漢の高祖の功臣。家柄は、代々、韓の宰相であった。韓が秦に滅ぼされると、その仇を報じようとして、巡幸中の始皇帝を博浪沙(河南省陽武県の南)で襲撃するも失敗し、秦の追捕を逃れて、下邳(かひ)(江蘇省邳県の南)に隠れた。この時、ここに出る不思議な黄石老人から、周の軍師として知られた太公望呂尚(りょしょう)の兵法書を授かったとされる。陳勝・呉広の挙兵に呼応して蜂起し、劉邦(後の高祖)に従って、その軍師となった。秦軍を破って関中に入り、秦都咸陽を陥落させ、かの「鴻門の会」では劉邦を危地から救い、さらに項羽を追撃し、自害へと追いやるまで、彼は常に劉邦の帷幕にあって奇謀をめぐらし、漢を勝利に導いた名臣であった。懐かしいね、漢文の授業が。ウィキの「張良」の「下邳時代の逸話」も引いておこう。『ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある』。五『日後の朝にここに来い」と言った』。五『日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また』五『日後に来い」と言い残して去った』。五『日後、張良は日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「』五『日後に来い」と言い残して去って行った。次の』五『日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる』。十三『年後にお前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという』。『後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に墓に入れられたという』。『この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは考えられる』。『また、この下邳での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んできたので、これを匿まっている』。]
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