萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 春の實體
春の實體
かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
櫻のはなをみてあれば、
櫻のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、
たとへば蛾蝶のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳(め)にもみえざる、
このかすかな卵のかたちは楕圓形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、
空氣中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまりのよに固くなつてゐるのだ、
よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの實體がおよそこのへんにある。
[やぶちゃん注:太字「ごむまり」は底本では傍点「ヽ」。
さて。その下の「よに」はママであり、筑摩書房全集の校訂本文でも「よに」である。「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年アルス刊)でも「よに」で、☞「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年第一書房刊)で「やうに」となっている☜だけである。萩原朔太郎は詩・文を問わず、文中に口語の短縮表現(「なつてゐる」ではなくて、「なつてる」のような。以下の初出形の終りから三行目の末尾を見よ)を好んで用いる傾向がある。ここも、「ように」ではなく、「よに」なのである。則ち、筑摩の徹底消毒主義が適用出来ないのだ。「よに」は口語の「ようだ」の連用形「ように」の短縮形だ。歴史的仮名遣を訂すること殲滅的なる編者はここは「よに」を「やうに」と修正指示するべきところだ(「やに」というのは流石に見たことないから、無効だろう。第一、誰もが躓くからな)。しかし、前で「やう」を削除しているから、この「よに」は朔太郎確の確信犯の用法であることは明白だ。まさに編者らが逆に躓いたであろう痛し痒しという場面だ。彼らは「凡例」の『著者獨特の用字・用語』或いは『慣用表記』を適応したと言うだろう。しかし、そうしたら、校訂本文はそれを遙かに逸脱して消毒していることは明白じゃないか? 筑摩版校訂本文は、絶対の萩原朔太郎の最良校本どころか――萩原朔太郎に――殆んど優等生の礼服をお仕着せした〈気持ちの悪い〉――いや! 朔太郎の詩篇の持つ大事な〈気持ちの悪さ〉が――まるで伝わってこない――殺菌消毒済の「最良最上品のタグをつけたマガイ物」――なのである!
なお、初出によって、上掲の四行目の「類」は「るゐ」と読んでいることが判る。
初出は『卓上噴水』大正四(一九一五)年五月発行に載った。以下に初出形を示す(三箇所の太字は同前)。
*
春の實體
かずかぎりもしれぬ蟲けらの卵にて
春がみつちりとふくれてしまつた
げにげに眺めみわたせば
どこもかしこもこのるいの卵にてぎつちりだ
さくらのはなをみてあれば
櫻の花にもこの卵いちめんにすいてみえ
やなぎの枝にももちろんなり
たとへば蛾蝶のごときものさへ
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ
それがあのやうにぴかぴかぴかぴか光るのだ
ああ 眼にもみえざる
このかすかな卵のかたちは楕圓形にして
それがいたるところに押しあひへしあひ
空氣中いつぱいになり
ふくらみきつたごむまりのよに固くなつてるのだ
よくよく指のさきでつついてみたまへ
春といふものの實體がおよそこのへんにある。
*
ルビ「るい」の表記はママ。
なお、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『麥畑の一隅にて(春の實體(本篇原稿四種四枚)』として以下の一篇がチョイスされて載る(標題は「春――四月上旬白晝の感覺――」)。表記は総てママである。
*
春の實體
――四月上旬白晝の感覺――
さくら
楕圓形のかずさへしれぬ蟲けらの白き→どもののたまごのるゐにて
春がみつちりとふくれてしまつた
ああげにげに眺めみわたせば
どこのかしこもこのるゐの卵にていつぱいなりぎつしりだ
ああ→みよ光あかるまばゆき春なれや→なればの日に
櫻は春なれやさくらの花をみてあれば
櫻の花にも蟲の細長き卵つきこのるいの卵いちめんにつきすいてみえ
柳の枝にももちろんなり
とほくたとへば蝶のごときものさヘ
そのうすき羽はぴかぴか卵の細胞にて形づくられ
それがあのやうにぴかぴかぴかぴかぴか光るのだ、
ああ眼にもみえざる
すべてのこのかすかな卵のひとつひとつは形は楕圓形にしてて
それがいたるところに押しあひへしあひ
空中に→宇宙にみつちりひろがつて しまつた る
空氣中いつぱいになり、
はりふくらみきつたゴム球のやうよにふくれ固くなつて居るのだ、
よくよく見給へ→さわつてみたまへ指のさきでさわつて見給ヘ
春 だ といふものだ→みんながこれを稱して春と呼
春といふものだものがここにある。のほんじつたいがおよそ→まづこのへんにあるやうだ。
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