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2018/10/05

古今百物語評判卷之一 第四 西岡の釣甁をろし幷陰火・陽火の事

 

  第四 西岡(にしのをか)の釣甁(つるべ)をろし陰火(いんくは)・陽火(やうくは)の事

 

Turubeorosi

 

一人の云(いふ)、「各(おのおの)の物がたりは、何れも聞きおよび給ひし事のみにて、『是れぞ見たり』と仰せらるゝ事も候はず。某(それがし)、去年(こぞ)五月の頃、にしの岡へ參りて、雨、ふり出(いだ)しければ、『一宿せよ』と云ひけれども、叶(かなは)ぬ用事ありて、もどり侍りしに、日も漸(やうやう)暮れて、人の通(かよひ)もなし。冷(すさま)じく思ふ處に、さいのほとりにて、藪ぎはを通りしかば、かたはらなる大木より、何かは知らず、火の、丸(まろ)かせ、鞠(まり)のごとき物、おりつ、のぼりつ、見えければ、『これは、いかに』と見る處に、さして外(ほか)へも飛行(とびゆか)ず候ふ故、逸足(いちあし)を出(いだ)して逃通(にげとほ)りしが、肌(はだ)に多年信心いたしぬる觀音の守(まも)りをかけ居申(をりまうし)候ふ故か、つゝがなく、まかり歸り候ふ。怖敷(おそろしく)存(ぞんぜ)らるゝ」と云(いへ)ば、先生、莞爾と笑ふて、「それは俗にいへる『つるべおろし』と云ふ、ひかり物なり。され共、天地(てんち)の間(あひだ)、一色(ひといろ)も陰陽五行の理(ことわり)にもるゝ事、なし。されば、其光り物は、大木(たいぼく)の精にて、卽(すなはち)、『木生火(もくしやうくは)』の理なり。さて、晝も顯れず、わきへもみえざる事は、火は、くらきを得て色をまし、明かなるにあひて、ひかりをうしなふ、常の事なり。就ㇾ中(なかんづく)、木の下の暗き所にあらはれ、見ゆるなるべし。されども、若木に生ぜざるは何ぞや。それ、陰陽の老變(らうへん)・五行の相生(さうじやう)は、四季の移りかはるがごとし。春、暮れて、夏、來たり、秋、みちて、冬、成(なる)がごとし。其始(はじめ)の氣(き)を盡さぬうちは、つぎの氣を生ぜず。されば、寸木尺樹も、『木生火』の道理、こもりながら、猶いまだ、木の氣を滿(み)たねば、火の氣(き)を生ずるに及ばざるなるべし。かつ又、天地(てんち)の間(あひだ)に、火の數、三つあり。星精(せいせい)の飛(とぶ)火、龍(ひりう)の火(ひ)、雷(いかづち)の火を『天火(てんくは)』といふ。木をきり、石をすりて出るを、『地火(ちくは)』といふ。人間にとりて、心(しん)の火、命門(めいもん)の火を、『人火(じんくは)』といふ。其火のうちにて、『陰火』・『陽火』のわかちあり。『陽火』は物を燒けども、『陰火』は物を燒くこと、なし。そも又、雷火(らいくは)などの、適(たまたま)人家を燒く事あるも、此火、『陰火』なるゆへに、水もて、けし、濡れたるを、もて、おほふときは、却つて、燃(もえ)候。火をなげ、灰を散らし、ふせげば、其まゝ消え侍る。是れ、道理のをだやかなる處なるべし。此『つるべおろし』とかやも、『陰火』なり。其故(それゆゑ)、雨ふりなどには殊に見ゆるなるべし」。又、いはく、「『つるべおろし』は『陰火』ならば、物を燒くに及ばざる事、さも、ありぬべし。然らば、深山幽谷(みやまふかきたに)などにて、其木の枝、もみあひて火を生じて、その木の燒(やく)る事は如何ぞや」。云(いふ)、「『うごく』は陽の用、『しづまる』は陰の用なれば、其木のもみあひ侍るにて、陽のわざをなして、『陽火』と變じはべるなり」とこそ。

[やぶちゃん注:またしても、怪異の記載の倍以上が元隣先生のブイブイである。それにしても、その博識開陳の脇に添えられた挿絵の「釣甁おろし」君はシッカリバッチリ「何か妖怪?」という人面を火の中に浮かべているのが嬉しいではないか。さればこそ! せめても「釣甁おろし」君のために、怖ろしく汚れていた「叢書江戸文庫」の挿絵を三十分かけて、可能な限りの汚損除去を行った。

「西岡(にしのをか)」これはいろいろ調べてみるに、どうも現在の京都府京都市右京区西院(さいいん)高山寺町附近(ここ(グーグル・マップ・データ))を指すようである。そうすると、後の「さいのほとり」という謂いが腑に落ちるからである。「京都電気鉄道株式会社」公式サイトの「嵐電」の「第2 どこまで知ってる?西院の歴史Part1 | 西院駅から出かけよう ぶらり西院さい発見!」によれば、この西院地区は、

   《引用開始》

 古くは「やましろ」(山代、山背)と呼ばれる山城盆地内の「葛野(かどの)」という地域であり、794年、桓武天皇が長岡京より平安京へと遷都を行い、葛野郡は平安京の一部となりました。桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と続いた後に即位した桓武天皇第三皇子・淳和(じゅんな)天皇は、仁明天皇に譲位した後に現在の西院付近に離宮である「淳和院(じゅんないん)」を構えます。

 この淳和院の所在地が皇居から見て西に位置すること、さらに佐比大路(さいおおじ)[現:佐井通(さいどおり)]にも近かったことから「西院(さいいん、さい)」と呼ばれて、付近一帯の地名となったとされています。以来、西院の名となり、大正時代まで葛野郡西院村という名称でした。

   《引用終了》

とあり、続く「西院にはあの世がある?」には、

   《引用開始》

 嵐電西院駅から北西すぐの場所に建つ、日照山高山寺(こうさんじ)は淳和院の広大な敷地の南東に位置していたとされ、門の前には「淳和院跡」の石碑が建っています。

 本尊は、室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏が近江・堅田からこの地に移したと伝わる由緒ある地蔵像。室町時代には「京都の六地蔵」の一つとして名高く、安産・子授けのご利益がある子安地蔵尊として信仰され、銀閣寺を建てた室町幕府八代将軍・足利義政の妻・日野富子もここで祈願し、男児を産んだという言い伝えがあります。

 高山寺は、かつては「高西寺(こうさいじ)」という名前で、今より南東の四条御前を下がった辺りの高台の上にあったそうです。豊臣秀吉が京都防衛のために御土居造る際に、その高台が御土居予定地にあたるため移転をせねばならず、現在の地に越してきました。本堂に向かって左側に立つ大きな地蔵像は、時代が下ってから御土居を崩した際に中からたくさんでてきた石仏を供養するため、明治期に金戒光明寺(通称:くろ谷さん)から移設されたものだそう。平安時代、この辺りには川が流れており、河原は葬送の地とされていたようです。御土居の中から出てきた石仏は、おそらくその供養のためでしょう。

 そして、西院(さい)の地名と、葬送の地であること、親に先立って亡くなった子どもたちがあの世で石の塔を積む『賽の河原地蔵和讃』にでてくる「賽(さい)」が同じ発音であることなどから、一帯を「さいの河原」と称すようになったと、一説ではいわれています。門の右手に立つ石柱と、本堂正面に掲げられた額にある「くろだにをはやたちいでてこうさんじ さいのかはらをみまもるみほとけ」という御詠歌にも、さいの河原の文言が記されてています。今では河原は姿を消しましたが、子安地蔵尊とさいの河原の地蔵像は、亡くなった子、生まれてくる子、すべての子どもたちを見守り続けています。

   《引用終了》

とある。本話の時期に川があったかどうかは判らないが、挿絵には画面の左下に小流れが描かれており、「さいのほとり」の「ほとり」が文字通り「川の畔(ほとり)」となり、「さい」という地名も「西院」(現行でも、阪急電鉄の駅名は「さいいん」であるのに対し、京福電気鉄道の駅名はこの二字で「さい」である)を指し、それが上記の通り、「賽の河原」に通じ、溝でも何でもいいが、小流れがあれば、それが『「さい」の川』となろう。但し、私は京都に全く不案内である。大方の御叱正を俟つものである。【2018年10月6日追記】何時も情報提供をして下さるT氏が以上の正当性を検証して下さったので、私の見解も入れ込みながら示すこととする。まず、この川は現在、西大路太子通交差点付近で西南西に折れて南流している天神川で、ウィキの「天神川(京都府)」によれば、昭和一〇(一九三五)年六月に発生した京都水害』『で被災後、花園より南側は現在のように付け替えられたが、水害以前は丸太町通り以南では天井川となって蛇行しながら西院から西京極の東側』、またそこから『吉祥院へと流れていた』とある(下線やぶちゃん)。さすれば、これが当時脇を流れていた西院附近では、上記のような背景から「さい川」(西院川・賽川)と呼ばれていたと考えてよい。さらにT氏は、国立国会図書館デジタルコレクションの「京図名所鑑」(版元は菊屋長兵衛で安永七(一七七八)年刊。本「古今百物語評判」は貞享三(一六八六)年刊であるから、話柄時とは百年近く隔たってはいる)を以ってその絵地図上(3コマ目)で確認され、当時の天神川は『「北野天満宮」西から南流、二条城の西、その少し南の「さい村」を通り、最後』に『賀茂川に合流』しているとお教え下さった。これは絵地図で、帖の大きさに合わせるために地図のスケールが正確ではないのだが、何より、「さい村」の名が力となる。以下にその国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングしたものを示したが、現在の地図の、東寺と西本願寺と「西院」駅附近を頂点とする三角形を想定し、加えて絵地図の「さい村」の東の方の「四条」の通り名、また、スケールが極度に東西に圧縮されてしまっているが、恐らくは現在の禅寺派大梅山長福寺(ここ(グーグル・マップ・データ))と思われる、「さい村」の西の「かつら川」に近い「長福寺」を合わせて見てみると、まさに、この「さい村」附近が現在の「西院」地区に当たることが判ったのである。さらに、私が検証していなかった本文の「西ノ岡」という地名についても、この絵地図で判明する(というより、当初から気づいていたが、「西院」から距離が離れ過ぎていると思い、敢えて注しなかったのであるが)のである。「さい村」の南南西の、「かつら川」と書かれた箇所の右岸に、「西の岡」とあり、これは現在の京都府向日市物集女町吉田附近(向日市立西ノ岡中学校がある。ここ(グーグル・マップ・データ))を指すのである。されば、この標題の「西岡(にしのをか)の釣甁をろし」は言い方を誤っていると断じてよいのではないかと私は思うのである。即ち、この「釣瓶おろし」に出くわした男は、京の市中からはちょっと離れた(例えば、四条大宮からは直線でも六キロメートルはある)「西岡(にしのをか)」に所用があって出向き、夕刻になって相手が「泊まって行きなはれ」というのを固辞して帰り、この「西院」=「さい村」の辺りまで来たところで、怪異が出来したのであって、この「西院」が別に「西岡(にしのをか)」という別地名を持っていたのではないと思われ、「西院」と「西岡」の類似性から、編者は「西院の釣瓶おろし」とすべきところを、誤って「西岡の釣甁をろし」とやらかしてしまったのだと私は思うのである。最後に、またお世話になったT氏に心より御礼申し上げるものである。

Saimura

「釣甁(つるべ)をろし」ママ。ウィキの「釣瓶落とし」によれば、『釣瓶落とし(つるべおとし)または釣瓶下ろし(つるべおろし)とは、京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県、和歌山県などに伝わる妖怪。木の上から落ちて来て、人間を襲う、人間を食べるなどといわれる』。『大正時代の郷土研究資料』である「口丹波口碑集」に『ある口丹波(京都府丹波地方南部)の口承によれば、京都府曽我部村字法貴(現・亀岡市曽我部町)では、釣瓶下ろしはカヤの木の上から突然落ちてきてゲラゲラと笑い出し、「夜業すんだか、釣瓶下ろそか、ぎいぎい」と言って再び木の上に上がっていくといわれる。また曽我部村の字寺でいう釣瓶下ろしは、古い松の木から生首が降りてきて人を喰らい、飽食するのか当分は現れず』、二、三日『経つと』、『また』、『現れるという。同じく京都の船井郡富本村(現・南丹市八木町)では、ツタが巻きついて不気味な松の木があり、そこに釣瓶下ろしが出るとして恐れられた。大井村字土田(現・亀岡市大井町)でも、やはり釣瓶下ろしが人を食うといわれた』。『岐阜県久瀬村(現・揖斐川町)津汲では、昼でも薄暗いところにある大木の上に釣瓶下ろしがおり、釣瓶を落としてくるといい』、『滋賀の彦根市でも同様、木の枝にいる釣瓶下ろしが通行人目がけて釣瓶を落とすといわれた』。『和歌山県海南市黒江に伝わる元禄年間の妖怪譚では、古い松の大木の根元にある釣瓶を通行人が覗くと光る物があり、小判かと思って』、『手を伸ばすと』、『釣瓶の中へ引き込まれて木の上へ引き上げられ、木の上に住む釣瓶落としに脅かされたり、そのまま食い殺されたり、地面に叩きつけられて命を落としたという』。以下、本条の体験を図とともに紹介し、『「釣瓶おろし」の名で、大木の精霊が火の玉となって降りてくる妖怪が描かれている。同書の著者・山岡元隣は釣瓶下ろしという怪異を、気が木火土金水の五つの相に変転して万物をなすという「五行説」により説明しており、雨の日(水)に木より降りて(木)くる火(火)、ということで』、水―木―火の『相生をなすことから』、『大木の精だと述べている。五行の変化は季節の移り変わりようなもので、若い木はまだ生を十分に尽くしておらず木の気を満たしていないので、次の気を生ずるに至らない。大木となってはじめて火を生ずる。その火も陰火なので雨の日に現れるという』(以上を本文の元隣のくだくだしい評語の注の代わりとする。悪しからず)。『鳥山石燕の妖怪画集』「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年刊。本「古今百物語評判」は貞享三(一六八六)年刊であるから、九十年後である)では、この「古今百物語評判」で『火の玉として描かれた「釣瓶おろし」が「釣瓶火」として描かれている。このことから、昭和・平成以降の妖怪関連の文献などでは釣瓶落としは生首や釣瓶が落ちてくる妖怪、釣瓶火は木からぶら下がる怪火、といったように別々の妖怪として扱われていることがほとんどだが、本来は釣瓶落としも釣瓶火と同様、木から釣瓶のようにぶらさがる怪火だったとする説もある』。『釣瓶落としに類する妖怪はほぼ日本全国に類似例があるものの、ほとんどは名前のない怪異であり、「釣瓶下し」「釣瓶落とし」の名称が確認できるものは東海地方、近畿地方のみである上、釣瓶が落ちるのもそれらの地域のみであり、そのほかは木から火の玉が落ちてくる、焼けた鍋が落ちてくるなど、火に関連したものが多い』。『たとえば』、『山形県山辺町では鍋下ろし(なべおろし)といって、子供が日暮れまで遊んでいると、スギの木の上から真っ赤に焼けた鍋が降りてきて、子供をその鍋の中に入れてさらってしまうといわれる』。『島根県鹿足郡津和野町笹山の足谷には大元神(おおもとがみ)を祀る神木と祠があり、周辺の木を伐ると松明のような火の玉が落ちてきて大怪我をするという記述がある。静岡県賀茂郡中川村(現・松崎町)では』、『鬱蒼とした木々の間に大岩があり、そこに毎晩のようにほうろく鍋が下がったという。青森県の妖怪のイジコも、木の梢から火が降りてくるものとの解釈もある』とある。

「丸(まろ)かせ」様態を丸くさせて一塊となったもの、という名詞。

「陰陽の老變」陰気と陽気の強さが永い時間を経過してバランスを失い、遂には元とは全く逆転するような様態になることを指すか。

「五行の相生(さうじやう)」現行では「そうせい」と読み、陰陽五行説のフィフ・スエレメント、木・火・土・金・水の五つの元素が、順列順送りで次の元素を生み出して行く、「陽」の関係性を指す。「木生火(もくしょうか)」(木は燃えて火を生む)・「火生土」(物が燃えた後に残る灰は土に還る)・「土生金(どしょうごん)」(土の中には鉱物あり、掘ることで金属を得る)・「金生水」(金属の表面には凝結して水が生ずる)・「水生木」(木は水によって生育する)という判り易過ぎる比喩で一般には説明される。逆の特定元素をうち滅ぼす「陰」の関係性を「相剋(そうこく)」と呼ぶ。それについては、ウィキの「五行思想を参照されたい。

「四季の移りかはるがごとし」五行では、木に春を、火に夏を、金に秋を、水に冬を当て、土は四立(しりつ)の立夏・立秋・立冬・立春の直前の約十八日間の土用(どよう)を当てている。まさに、元隣が「其始の氣を盡さぬうちは、つぎの氣を生ぜず」という、現在の季の気から次の季の気へと変容させる期間として土(用)が当てられているのである。以下の部分もそれを説明しており、「こもりながら」は次の季の原理が内包されているけれども、それがある瞬間に一気に発動して変化するのではないと言っているのであろう。

「星精(せいせい)の飛(とぶ)火」流星のことか?

「龍(りう)の火(ひ)」龍が吐く火のことか。前後が天文現象であるから、これも何かが

「心(しん)の火」感覚的には、怒り・恨み・嫉妬などの感情をであるが、そこには或いは、死者の霊魂の齎すところの人魂(狭義の霊現象としての「陰火」)も含まれるか。

「命門(めいもん)の火」漢方中医学にある用語で、サイト「家庭の中医学」のこちらによれば、『生命のかぎの意味をもち、臓象学説における重要な内容の』一『つ』とし、『存在部位に関しては右腎・両腎の中間など諸説があるが、機能に関する意見は一致している。概括すると』、『①命門は人体の「真元」すなわち真陰(元陰)と真陽(元陽)が居するところで、父母より稟けて生来備わっており、生命の原動力である』。『②命門は水・火を有し、水・火は互根互用で離れることなく、真陰と真陽の源泉である』。『③三焦気化・納気・生殖など正常な臓腑機能を幇助する(命門の火が不足すると命門火衰、居所を離れて上昇すると命門火旺・離位の相火・浮火などといわれ、病変が生じる)』。『④腎陰・腎陽が、命門の水・火を意味していることが多い』とし、『腎には相火という命門の火があり』、『この火は身体を温めるほどの火ではなく最低生命を維持する火で種火と考えてよいもので』、『これを身体を温める火に変えるためには、肝胆の力を借りて燃え立たせ』、その『燃え立った火を全身に送り届けて温め』る。『この命門の火は、小規模ではあるけれども』、『この火が消えてなくなるということは、読んで字のごとく命がなくなるということで』ある。『しかし、この命門の小さな火でも』、『唯一できる仕事が「勃起」で』、『命門の火の指令によって反応し』、男根は勃起するとある。ふ~ん、って感じ。

「火をなげ」火のついたものを細かにして投げ散らかして。対象物が小さいから、自然に燃焼し切って自然に燃えて消えることを指すか。

「ふせげば」「防せげば」。目的語は「火(の延焼)」か。

「をだやかなる」ママ。「穩やかなる」。五行の理論に自然に適合している。

「もみあひて」「揉み合ひて」。摩擦熱による(と思われていた人為ではない)自然発火現象をそう捉えたものであろうか。

火を生じて、その木の燒(やく)る事は如何ぞや」。云(いふ)、「『うごく』は陽の用、『しづまる』は陰の用なれば、其木のもみあひ侍るにて、陽のわざをなして『陽火』と變じはべるなり」とこそ。]

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