古今百物語評判卷之二 第二 狸の事明の鄒智幷齋藤助康手柄の事
第二 狸の事付明(みん)の鄒智(すうち)幷齋藤助康手柄の事
先生のいへらく、「狸も狐のごとくに奇妙なる事はなけれども、ばくる事は、おさおさ、おとらず。人を害するわざ、却(かへつ)て、ふかし。其若(わか)だに、そら死(じに)・そらねゐりをして、人をあざむけば、其劫經(こうへ)たる、いかでか、人をまよはさざらん。世に、いはゆる、ばけ物といふは、おふやう、此物のしわざならし。たゞ此方(このほう)の一心さへたゞしければ、わざはひにあふべからず。或は武勇のさぶらひは、其の武勇ゆへ、心、うごかず。博學の學者は、其博學ゆへ、内(うち)、あきらかなり。戒律の出家は、其戒律によつて、邪魔(じやま)、きたらず。其道、おなじからねども、みな、内にまもりあれば、妖怪のものも害をなす事、あたはざるなるべし。其ためし、かぞへもつくすべからず。こと新しくいふも、くだくだしけれど、ひとつ、ふたつ、かたり侍らん。近比(ちかきころ)、大明(だいみん)の代(よ)に、鄒智とて、博識の人ありしが、夜更(よふく)るまで書物をよみゐられしに、其窻(まど)さきより、大きなる手を出(いだ)して、鄒智が顏を、なでんとす。鄒智、あやしく思ひながら、『さだめて狐狸のわざなるべし』と推(すい)して、朱筆(しゆふで)のありけるにて、其手の中に『花』といふ字を書付(かきつけ)て、また、もとのごとくに書物をよむ。始(はじめ)は、其(それ)、むきなりしが[やぶちゃん注:「無鬼なりしが」か。「怪異は起こらなかったが」の意で解しておく。]、夜(よ)の明(あけ)がたにおよびて、彼(かの)大きなる手、しきりになきさけびて、『書きつけし「花」の字、おとし給へ』といふ。鄒智、猶も、かへり見ず。彼(かの)物、いふやう、『我は此邊(このへん)に住(すみ)申(まうす)ふる狸にさふらふが、あやまつて學者をおかせしに、君、さきに何心(なにごころ)なく、文字をかきつけ給ふゆへ、われ、ばくる術は候へども、其たゞしき心にてかき給ふ文字をおとすべき術(じゆつ)なし。此文字、きえ申さず候(さふらふ)内は、歸る事、かなはず。されば、夜の明(あけ)候はゞ、人のよりあひて、我を殺(ころさ)ん事のかなしく候へば、御慈悲に、おとして給はれ』と云(いひ)しかば、鄒智、きゝて、『其儀ならば』と云ひて、硯の水にてあらひしかば、よろこびたる體(てい)にて、きえうせしといふ事、「皇明通紀(くはうみんつうき)」にのせたり。又、むかし、齋藤左衞門助康、丹波國へくだりしに、日暮(ひぐれ)て、人やど、遠かりければ、古(ふるき)堂のありけるに、入りて、あかさんとす。其あたりの者、申(まうす)やう、『此堂には、むかしより、人とる物の候へば、御無用』といひけるを、助康、『何程の事かあらん』とて、とまりけり。折ふし、其夜、雪ふり、風吹きて、聞きしにたがはず、物すさまじかりければ、正面の柱によりそひてゐたりしに、庭のかたより、物の、きおひたるやうにみえければ[やぶちゃん注:「競(きほ)ふ」は「負けまいとして先を争う・張り合う・競争する」の意。]、しやうじのやぶれより、のぞきけるに、何かはしらず、堂の軒にひとしき物、來て、彼(かの)やぶれより、大きなる手をいれて、助康をつかまんとす。助康、もとより、覺悟なれば、其手を『むず』と、とる。とられて引返(ひきかへ)さんとしけれども、助康、大力(だいりき)なれば、はなたず、しばし、からかひける程に、あいの障子、引(ひき)はなちたり。其障子を中にへだてゝ、うへに乘(のり)しかば、軒とひとしうみえつれども、障子の下に成(なり)ては、むげにちいさし。手もまた、細くなりければ、いとゞかつにのりて、おさへしに、『きゝ』と、なきけり。其時、下人をよびて、火をうたせて見れば、ふる狸にてありしを、打殺(うちころ)しけり。其後は其堂に人どりする事なし、と云へる事、「著聞集」に見えたり」。
[やぶちゃん注:「鄒智」(一四六六年~一四九一年)は四川省重慶府合州(現在の重慶市合川(ごうせん))出身の明朝の翰林学士(翰林院は唐の玄宗の以来、高名な儒学者・学士を召して詔勅の起草などに当たらせた役所)。一四八六年に郷試に同格し、翌年、進士となって翰林院に入った旨、中文ウィキの「鄒智」にある。
「齋藤助康」「齋藤左衞門助康」この話は鎌倉中期の説話集で橘成季著(跋文によれば建長六
(一二五四) 年成立)の「古今著聞集」の「巻第十七」の「齋藤助康、丹波國へ下向し、古狸を生捕る事」に載る(後に原文を示す)。新潮日本古典集成「古今著聞集 下」(西尾光一・小林保治校注・昭和六一(一九八六)年刊)の「左衞門」の注によれば、『左衛門府の三等官。「助康」は左衛門尉助頼』(調べて見たが、不詳)『の子か。とすれば、帯刀助村、検非違使・筑後守助兼、刑部丞助久ら六人の兄弟がみな左衛門尉という侍一族の一員』とある。
「皇明通紀」は元末の至正年間から正徳年間までの明朝前半期、約百七十年間を扱った編年体の通史で、臨江府学教授等を務めた陳建が致仕後に編纂した。前編「皇明啓運錄」(全八巻)と後編「皇明歷朝資治通紀」(全三十四巻)から成る。明代の一五五五年に完成したが、一五七一年に禁書とされてしまった。禁書となった理由は、新宮学氏の論文「陳建『皇明資治通紀』の禁書とその続編出版(一)」(PDFで「山形大学学術機関リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)によれば、『退職した地方官僚が「国史」を勝手に編纂するという「自用自專の罪」を犯したことが問題にされ』、『しかも一人の見聞によって、二百年間、万里を超える時空をカヴァーするのは到底不可能であるとし、その人物批評は衆を惑わすものであると批判』されたこと、『「内に伝聞の真を失するもの多し」という評価』が下されたりした結果であるらしい。幾つかの中文の電子化サイトを調べて見たが、以上の原話は残念ながら見出し得なかった。原文を探し当てられた方はお教え下さると嬉しい。
「其手の中に『花』といふ字を書付て」何故、この「花」の文字が怪異を封じ、妖怪狸を呪縛する強力な呪力を持つのかは不明。識者の御教授を乞う。
以下、「古今著聞集」の「巻第十七」の「齋藤助康、丹波國へ下向し、古狸を生捕る事」を示す。斉藤助康は藤原助頼の子。元隣が、化け狸を下人らが食べてしまったという部分をカットしてしまったのは、惜しい気が私はする。
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齋藤左衞門尉助康、丹波國へ下向したりけるに、かりをして日暮れたりけるに、ふるき堂のありけるにうち入りて、夜をあかさんとしけるを、其邊の子細しりたる物、
「この堂には、人とりするものゝ侍るに、さうなく御とゞまりはいかゞ。」
といひけるを、
「何事のあらんぞ。」
とて、猶、とどまりぬ。
雪降り、風吹きて、聞きつるにあはせて、世の中[やぶちゃん注:辺りの雰囲気。]、けむつかしくおぼえて、正面の間(ま)に、柱によりかゝりてゐたりけるに、庭のかたより、ものの競(きほ)ひきたるやうにしければ、明障子(あかりしやうじ)のやぶれより、きと[やぶちゃん注:素早く。]見れば、庭には雪降りて、しらみわたりたるに、堂の軒とひとしき法師の、くろぐろとしてみえけり。
さりながら、さだかにはみえず。
さる程に、明障子のやれより、毛、むくむくとおひたるほそかひな[やぶちゃん注:「細腕」。]をさし入れて、助康がかほを、なでくだしけり。
その折り、きと[やぶちゃん注:さっと。]居直れば、引き入れけり[やぶちゃん注:相手は腕を引っ込めた。]。
其後、明障子のかたにむかひて、かたまりに[やぶちゃん注:体を丸めて。]ねてまつほどに、また、さきのごとく、手をいれてなでける手を、
「むず。」
と取りてけり。
とられてひきかへしけれども、もとより、すくやかなる者[やぶちゃん注:力の勝れている者。]なれば、つよくとりて、はなたず。
しばし、とりからかひけるほどに[やぶちゃん注:手を摑んだままに争い合っていたところが。]、明障子、ひきはなちて[やぶちゃん注:引き外して。]、廣庇(ひろびさし)へいでぬ。
障子を中に隔てて、うへに乘りゐにけり。
軒とひとしうみえつれど、障子のしたになりては、むげに、ちいさし。
手も、又、ほそくなりにければ、いとど、かつに乘りて[やぶちゃん注:ますます勢いに乗じて押さえつけて。]、へし伏せてをるに、細ごゑをいだして、
「きき。」
となきけり。
その時、下人を呼びて、火をうたせて[やぶちゃん注:火打ち石を打ち出させて。]、ともして見れば、古狸なりけり。
「あした、村人に見せむ。」
とて、下人にあづけたりけるを、下人ども、いふかひなく[やぶちゃん注:とんでもないことに。]燒きくらひてけり。
次日、おきて、たづねければ、かしらばかりをのこしたりけり。
正體(しやうたい)[やぶちゃん注:胴体。]なくて、その頭(かしら)をぞ、村人にみせける。
そののちは、ながく、この堂に人とりする事なかりけり。
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