譚海 卷之三 吉田家神代文字
吉田家神代文字
○吉田家に神代の文字といふ物を藏む。是は日向國霧島ケ嶽の絶頂の谷中に天の瓊矛(あめのぬぼこ)と云(いふ)物有(あり)て、夫(それ)に鏤刻(るこく)し有(ある)所の文字也といへり。一とせ其國の惠比須の宮の神主遠遊を好み、霧島ケ嶽にのぼりたるに、言傳ふる所の瓊矛なるもの谷中に有。全く華物(からもの[やぶちゃん注:私の勝手な当て読み。])の華表の如き物にして、ゑり付ある所の花文古筆めづらしきもの也。それにしるし付(つき)て有(ある)文字を摺寫(すりうつ)し、上京致し吉田殿へ持參し、引合見(ひきあはせみ)たき由願(ねがひ)けると人のかたりぬ。
[やぶちゃん注:「吉田家」卜部(うらべ)氏の流れを汲む公家。ウィキの「吉田家」より引く。『京都室町小路にあった自宅の敷地を足利義満に譲った事で知られる家祖・吉田兼煕は、吉田神社の社務である事に因んで家名を「吉田」とした。この兼煕は神祇大副や侍従を務め、卜部氏として始めて公卿に昇った』。五代『兼倶は唯一神道を創始、既存の伊勢神宮系の神職と激しく対立しながら、後土御門天皇を信者に得て』、『勢力を拡大し』、『「神祇管領長上」という新称号を自称した。以後神祇伯の白川家を駆逐して全国の神社に対する支配を広げていった』。九代兼見(かねみ)に至って、『織田信長の推挙により』、『堂上家の家格を獲得した。近衛前久に家礼として仕え、明智光秀と深い親交のあった兼見の日記』「兼見卿記」は『織豊政権期の研究に必須の一級史料となっている。神職における吉田家の優位は江戸時代になって』、寛文五(一六六五)年の『諸社禰宜神主法度で確定』し、『歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は』七百六十『石。明治維新後は良義が子爵に叙せられた。分家として、江戸時代初期に萩原家が出ている』とある。前条「白河家」の私の白川伯王家の引用注も参照されたい。
「天の瓊矛」元来は日本神話に登場する聖具「あめのぬぼこ」で、「古事記」では「天沼矛」、「日本書紀」では「天之瓊矛」或いは「天瓊戈」と表記されており、「古事記」によれば、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神が別天津神(ことあまつかみ:天地開闢時に出現した五柱の神)らに、漂っていた大地の完成を命ぜられ、この「天沼矛」を与えられた。伊邪那岐・伊邪那美は、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、この矛を渾沌とした大地に突き刺して掻き混ぜたところ、その矛から滴り落ちたものが積もって「淤能碁呂島(おのごろじま)」となったとする(二神はこの島で「みとのまぐはひ」(交合)をして大八島と神々を生む。総てが判り易いフロイト的性的象徴であることは言うまでもない)。「日本書紀」本文には、「瓊」は「玉」のこと」とする注釈があり、そこでは「天之瓊矛」は「玉で飾られた矛」の意となる。但し、笨条のそれは、「日向國霧島ケ嶽の絶頂」に立つそれとあり、これは「天逆鉾(あめのさかほこ)」のことである。ウィキの「天逆鉾」によれば、『日本の中世神話に登場する矛で』、『一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰山頂部(宮崎県西諸県郡高原町)に突き立てられているものが有名である』。これは前に注した「天沼矛」「天之瓊矛」が、『中世に到』って、『仏教の影響のもと』に『様々な解釈が生み出され』、その性質が変容したものである。仏教及び修験道の立場から書かれた神道書「大和葛城宝山記」(巻末に天平一七(七四五)年のクレジットと「興福寺の仁宗が之を記し傳ふ」と書かれているが、実際には鎌倉後期の真言系の僧によって書かれたとするのが通説)によると、『天沼矛を天地開闢の際に発生した霊物であり』、『大梵天王を化生したとし、独鈷杵と見なされ』、『魔を打ち返す働きを持つとして別名を天魔反戈』(あまのまがえしのほこ)『というとされている。更に天孫降臨した邇邇芸命』(ににぎのみこと:「日本書紀」では瓊瓊杵尊)『を瓊(宝石)で飾られた杵(金剛杵)の神と解し、「杵」を武器に地上平定する天杵尊』(あめのき(せ)のみこと)、別名、杵独王(きどくおう)としている。『一方で両部神道の』中世に書かれた神道書「天地麗気府録」では、『オノゴロ島に立てられた金剛杵であるとされ、これらの影響を受けた』「仙宮院秘文」では『皇孫尊は天沼矛を神宝として天下ったとされた。このため天沼矛=天逆鉾は地上にあると考えられるようになった』。『天逆鉾の所在については』「大和葛城宝山記」では『天魔反戈は内宮滝祭宮』(たきまつりのみや)『にあるとされている。伊勢神道(度会神道)の神道書』「神皇実録」では、『サルタヒコの宮処の璽(しるし)とされており』、「倭姫命世記」では、『天照大神が天から天逆鉾を伊勢に投げ下ろしたとし内宮御酒殿に保管されているとした。いずれも、伊勢神宮に保管されていると説く。なお』南北朝期に北畠親房が著した「神皇正統記」の中では、『オノゴロ島である宝山にあると結論づけている』。『一方で天逆鉾が、大国主神を通してニニギに譲り渡されて国家平定に役立てられ、その後、国家の安定を願い矛が二度と振るわれることのないように』、『との願いをこめて』、『高千穂峰に突き立てたという伝承があ』り、『この天逆鉾は霧島六社権現の一社・霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町鎮座)の社宝』というが、『この矛の由来は不明である』。『古来、天逆鉾を詳しく調べようとした者はいなかったが、坂本龍馬が高千穂峰を訪れた際、何を思ったか』、『引き抜いて見せたというエピソードがある。このエピソードは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存している。なお、この天逆鉾は』、『のちに火山の噴火で折れてしまい、現在残っているものはレプリカである。オリジナルは柄の部分は地中に残っており、刃の部分は回収され、島津家に献上され、近くの荒武神社(都城市吉之元町)に奉納されたが、その後も様々な人手を転々と渡って現在は行方不明となっている』。歴史学者喜田貞吉は、「神皇正統記」などに触発され、『霧島山降臨の話を作り出した修験者が高千穂峰の山頂に逆鉾を置いたと推察している』。『兵庫県高砂市の生石神社では境内の石の宝殿を、天逆鉾、鹽竈神社の塩竈とともに「日本三奇」と称している』とある。
「神代文字」(じんだいもじ)は鎌倉時代中期以来、しばしば、日本に漢字が渡来する以前から存在したと主張されてきた文字。神字(かんな)とも称する。特に江戸中期から国学者の中で、その存在を強く主張する者が多く現れた。対馬に伝わる日文(ひふみ)を支持した平田篤胤
の「神字日文傳」などが有名であるが、現在では、その存在は否定されており、その多くは、朝鮮のハングルをもとにして 十五世紀以後つくられたものとされている(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。私も全く信じない。]