反古のうらがき 卷之四 雷の事
○雷の事
叔氏(をぢ)醉雪翁がはたち斗りのとき、余が家に訪ひ來りしが、夕立雲起りて、かみ[やぶちゃん注:「雷(かみ)」。]も少し鳴出(なりいで)ければ、辭して歸らんといふに、此日は七月廿六日にて、余が家にては愛染明王(あいぜんみやうわう)を祭る[やぶちゃん注:軍神として武家で尊崇された。]日なれば、茶のいゝ[やぶちゃん注:茶飯のことか。]燒きたり。「今しばし待玉へ」とてとゞめけれども、「強く雨のふらざるうちに」とて、傘をかりて歸りてけり。四、五町[やぶちゃん注:凡そ四百三十七~五百四十五メートル半。]も行(ゆき)つらんと思ふ頃、雨、强く降りて、雷(かみ)一擊あたりに落たりと思ふに、程もなく、門の戶、けはしく引明(ひきあ)けて、酵雪翁、戾り來れり。扨、いふよふ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、「今の雷は柳町火の見の櫓に落たり。われ、火の見の見ゆる所迄行たるに、折しも、雨は、しのをみだし[やぶちゃん注:「篠を亂し」。]、一擊の雷ひゞくと覺(おぼえ)しが、向ふ樣(ざま)に、火の光、眼に入り、火の柱の如きもの、火の見の上に落かゝり、すぼめたるからかさの上より、おし付(つけ)らるゝよふに覺へたり[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。折節、一人のくすし[やぶちゃん注:「藥師」。医師。]、來かゝりしが、わが前にひらふしに、ふす。供の箱持(はこもち)もひらふしけり。落たる所よりは、あいだ、二、三十間[やぶちゃん注:凡そ三十七~五十四メートル半。]も隔つらん、おびたゞしき雷なりけり」とかたるに、「そは、危うきことにそありける」など、なぐさめき。しばしが程は此物語りに時をうつしけり。其頃は、雨もやみ、雷もしづまりけるが、雷の落たる處に行かゝりて、驚きたるは、理(ことわ)りなれども、其所が家に歸る道筋なれば、其所に行たらば、雷につかまるゝよふにも覺へしにや、立歸りて余が家に來りしは、何の故といふことをしらず。自(みず)からも心付(こころづき)て、今更何故にこゝ迄は來りけん、今は立ち端(は)[やぶちゃん注:「たちば」とも読む。座を立つべき潮時、タイミング。]もなくてこうじたる處に、折ふし、「茶のいゝは出來にけり、まゐり玉へ」といふがうれしくて、先(まづ)、はしをとりて、たべけり。夕方になりければ、「先きにかり求めたる傘をばかへし侍る」といひて、こたびは、ましぐらに家に歸りけり、とて、老(おい)てのち、余にかたられけり。此頃迄は甲良屋敷に火の見櫓ありしが、此雷(かみ)にくだけにければ、其後は梯(はしご)斗りになりて、今もあり。
[やぶちゃん注:標題「雷の事」も本文に従い、「かみのこと」と読んでおく。
「叔氏醉雪翁がはたち斗りのとき」既出の桃野母の弟で先手組与力であった多賀谷仲徳は天保一〇(一八三九)年に六十五歳で亡くなっているから、二十歳の頃は寛政六(一七九四)年頃となる。桃野は寛政一二(一八〇〇)年生まれであるから、未だ生まれていない。
「甲良屋敷」市谷甲良屋敷。現在の新宿区市谷柳町二十五番地・市谷甲良町。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」の「市谷甲良屋敷」によれば、『徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄』一三(一七〇〇)年に甲良豊前(四代相員。底本の朝倉治彦氏の補註によれば、『作事の大棟梁』とある)に『譲られ』、正徳三(一七一三)年には『町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから』、『町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになった』という。リンク先には国立国会図書館デジタルコレクションの切絵図画像がリンクされており、それを見て戴くと判る通り、本「反古のうらがき」の多くのロケ地として既にお馴染みの「二十騎町」の直近であることが判る。]