小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)
島原の虐殺を以て、ポルトガルとスペインの布敎に關する實際の歷史は終りを告げて居る。この事件の後に、キリスト敎は、徐に[やぶちゃん注:「おもむろに」。]着々と、又執念深く踏み潰されてしまつて、目に觸れる限りは存在を失つてしまつた。キリスト敎の容認され、若しくは半ば容認されて居たのは、僅に六十五年間であつた、その傳播と崩壞との全歷史は、前後殆ど九十年に亙つて居る。殆どあらゆる階級の人々、卽ち王侯から貧民に至るまで、その爲めに苦難を受けた、何千といふ人々がその爲めに拷問を受けた――その拷問の恐ろしさは、多數の人々を無益な殉敎に送つたかのジエジユイト敎徒等中の三人までもが、苦痛にたえずその信仰を否認せざるを得なくなつた程甚だしいものであつた[やぶちゃん注:ここに在るべき【註】記号が底本には落ちている。註はある。]――又やさしい婦人達には、火刑を宣告されて、少し何とか言葉を用ひたならば、自分の子と共に救はれたであらうに、さういふ言葉を發するよりも、むしろその幼な兒を抱いて火中に投じたのもあつた。しかも數千の人々がその爲めに無益に死んだこの宗敎は、害惡以外何物を日本に齎しはしなかつた、擾亂、迫害、叛亂、政治上の難局、及び戰爭等を起こしたのみである。社會の保護と保持とのために、言語に盡くせざる程の代價を拂つて發展さした人民の美德、――彼等の克己、彼等の信仰、彼等の忠誠、彼等の不橈[やぶちゃん注:「ふたう(ふとう)」。如何なる困難に遇っても屈しないこと(「撓」は「たわむ・ひるむ」の意)。不撓不屈。]の精神と勇氣、――さへもこの暗い信條によつて亂され、方向をあやまられ、その社會を破壞する爲めに用ふる力にしてしまつた。若しその破壞がなし遂げられ得たならば、そして新ロオマ舊敎の帝國といふやうなものが、その廢墟の上に建立されたならば、その帝國の力は、僧侶の暴政、審問制度の擴大、良心の自由と人類の進步とに反對する永久なるジエジユイト派の戰亂といふものを、益〻擴張するために使用されたであらう。吾々はこの無慈悲な信仰の犧牲者を憐んで、彼等の役に立たない勇氣を當然賞讃して然るべきであらう、しかも誰れが彼等の主義の、失敗に歸した事を遺憾に思ひ得るであらうか……宗敎的偏執以外の別な立脚地から見、單にその結果によつで判斷すれば、日本をキリスト敎化しようとしたジエジユイト派の努力は、人道に反する罪惡、蹂躙の勞働、只だ地震、海嘯、火山の爆發等に、――それが惹き起こした不幸と破壞の理由から、――のみ比較し得べき災難であると考へざるを得ない。
註 フランシスコ・カツソラ、ペドロ・マルクエツ、ジウーゼツペ・キアラの三人。その中二人は――多分强制の下にであらう――日本の婦人と結婚した。彼等の後の物語に就いては、日本亞細亞協會記事“Transactions of the Asiatic Society of Japan”のサトウ氏の一文を見よ。
[やぶちゃん注:原文のそれぞれの宣教師の名は、Francisco Cassola・Pedro Marquez・Giuseppe Chiara である。イタリア人会士フランチェスコ・カッソラ(Francesco Cassola 一六〇八年~寛永二〇(一六四三)年或いは翌年)であるが、阿久根晋次氏の論文「ポルトガル人イエズス会士アントニオ・カルディンの修史活動―『栄光の日本管区におけるイエズス会の闘い』の成立・構成・内容をめぐって─」(PDF)に、次の管区長ペドロ・マルケスとともに、『江戸の井上政重の屋敷において存命中で、そこに女性が司祭のために奉仕しているとの情報が示され』てあるという記載がある以外は私には不明。二番目のペドロ・マルケス(一五七五年~明暦三(一六五七)年)はポルトガルの宣教師(イエズス会司祭・日本管区長)。慶長一四(一六〇九)年に長崎に着くも、五年後の慶長十九年にマカオに追放される。寛永二〇(一六四三)年に日本に再潜入を試み、捕らえられ、下総高岡藩主で宗門改役井上政重の尋問をうけて,「南蠻伴天連念佛ヲ申シ、コロビ候義實正ナリ」との誓詞を差し出して棄教した。江戸で八十二歳で病死した。最後のジュゼッペ・キアラ(一六〇二年~貞享二(一六八五)年)はイタリア出身のイエズス会宣教師で、禁教令下の日本に潜入したが、寛永二〇(一六四三)年五月、筑前国で捕らえられ、拷問の責め苦に耐えかねての強制改宗によって信仰を捨て、「岡本三右衛門(おかもとさんえもん)」という日本名を名乗って生きた。遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったことでも知られる。因みに、弟の宣教師(イエズス会司祭)フランシスコ・マルケス(Francisco Marques 一六〇八年~寛永二〇(一六四三)年)は、途中まで兄と行動をともにしたが、寛永十九年に薩摩下甑島に到着するも捕らえられ、長崎で穴吊るしの刑の後、寛永二十年二月六日、三十六歳で斬首されて殉教している。不審なのは、遠藤周作の「沈黙」の今一人のモデルとして知られ、また長与善郎の「青銅の基督」にも登場する、ポルトガルのカトリック宣教師(イエズス会士)であったが、拷問によって棄教し、「沢野忠庵(さわのちゅうあん:「忠安」とも)を名乗り、日本人妻を娶って、他の「転びバテレン」とともにキリシタン弾圧に協力したクリストヴァン・フェレイラ(Cristóvão Ferreira 一五八〇年~慶安三(一六五〇)年)が挙げられていないことである。]
孤立政策――日本を世界の他の國々から鎖ざしてしまふ政策――秀忠に依つて採用され[やぶちゃん注:元和二(一六一六)年に秀忠が明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する鎖国政策の布石的処置を断行したことを指すようである。正式な「鎖国令」は次の家光の代になって複数回発布されて完遂されることになる。]、その後繼者達によつて維持された處のそれは、宗敎的陰謀が鼓吹した恐怖の念を充分に示すものである。オランダの商人を除いて、すべての外國人等がこの國から追放されたばかでなく、ポルトガル人やスペイン人との混血兒も亦すべて追放され、日本の家族は彼等を養子にするとか、隱すとかを禁じられ、これを犯した家族は、その一族悉〻く[やぶちゃん注:ママ。]處罰される事になつた。一六三六年に、二百八十七人の混血兒が、マカオに向けて送り出された[やぶちゃん注:寛永一三(一六三六)年に家光が出した「第四次鎖国令」。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)二百八十七名をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移した。]。混血兒の通譯として働くその能力が特に恐れられたのも尤もな事である、然しこの布令の發せられた當時、人種的憎惡の念が、宗敎的敵愾心によつて甚だしく起こされたといふのも殆ど疑ふことは出來ない。【註】島原の挿話があつてから後、すべての西歐の外人は、例外なく、明らかに疑惑の念を以て見られたのであつた。ポルトガルとスペインの商人達は、オランダ人と入れ代つた(イギリスの商館は數年前に既に閉鎖されて居たので[やぶちゃん注:イギリスが業績不振のために平戸商館を閉鎖したのは元和九(一六二三)年。])併しオランダ人の場合でも非常な警戒は加へられた。彼等はその平戶に於ける形勝の地を棄てて、その商館を出島に移すやうに强ひられた、――出島とは僅長さ六百尺、幅、二百四十尺の小さな島である[やぶちゃん注:原文はフィート表記であるのを換算してある。「六百尺」は百八十一メートル、「二百四十尺」は七十三メートル弱。実際の大きさは南側が二百三十三、北側百九十、東側と西側が七十メートルで、約百三十一ア-ル。寛永一三(一六三六)年に完成した。参照した「兵庫大学大学院 連合学校教育学研究科 關浩和研究室内」の「出島とは?」によれば、『小学校の運動場のおよそ』二『倍ぐらい』とある。]。其處で彼等は、囚人のやうに絕えず監視されてゐた。彼等は人民の間に出てゆくことを許されなかつた。又如何なる人と雖も、許可なくして彼等を訪れることは出來ず、又如何な婦人も、醜業婦[やぶちゃん注:「しうげふふ(しゅうぎょうふ)」。売春婦。]は別として、如何なる事情があつても、彼等の保留地へ入ることは許されなかつた。併し彼等はこの國の貿易を獨占して居た。そしてオランダ人の根氣强さは、二百有餘年の間、利得のために、これ等の狀態を堪へ忍んだのであつた。オランダ商館と支那人とによつて維持された以外、諸外國との通商は、全然禁止された。如何なる日本人でも、日本を去ることは斬罪であつた、又祕に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]うまくこの國を拔け去り得た人も、その歸國するや、死刑に處せられた。この法律の目的は、布敎上の訓練のために、ジエジユイト敎派によつて、海外に送られた日本人が、普通の人を裝つて、日本に歸つて來るのを防止するにあつた。長い航海をなし得る船を建造することも亦禁じられ、政府によつて定められた大きさを超える一切の船は、破壞された。展望臺が異國の商船を見張るために、沿岸に置かれた。そして日本の港に入らんとするヨオロツパの船は、如何なる船でも、オランダ商會の船を除けば、襲擊されて打ち壞されたのであつた。
註 併し支那の商人はオランダの商人より以上の自由をゆるされて居た。
ポルトガル人の傳道によつて最初に得られた大成功に就いてはなほ考慮すべき處がある。日本の社會史に就いて、吾々は現在比較的無智なのであるから、キリスト敎徒の一と芝居の全部を了解する事は容易でない。ジエジユイト敎徒の傳道の記錄は澤山にある。併しそれと同時代の日本の年代記が、この傳道に就いて與へる知識は甚だ乏しい、――これは多分キリスト敎の問題に關する一切の書物のみならず、キリスト敎徒とか外國とかいふ語の入つてゐる書物は、みなこれを禁止する布告が、第十七世紀中に發布された爲めであらう。ジヱジユイト敎徒の本が說明して居ない事、そして若しさういふ事が許されるとしたならば、寧ろ吾々が日本の歷史家達に說明を期待して居る事は、祖先禮拜の土臺の上に建設され、外來の侵入に抵抗する巨大な能力を明らかにもつて居る。[やぶちゃん注:句点はママ。不要か読点でよい。]日本の社會が、どうしてジエジユイト敎派の勢力によつて、これほど急速に侵入され、更に一部分は瓦解されるに至つたのであらうかといふ事である。あらゆる疑問の中で、日本の證據によつて私が答へて貰ひたいと思ふ疑問は次のことである、曰く如何なる程度まで、傳道師達は祖先の祭紀を妨げたかといふ、その事である。これは重要な問題である。支那に於ては、ジエジユイト敎徒等は改宗の勸誘に抵抗する力が祖先禮拜にあることを早くも認めた。そして彼等は彼等の以前に佛敎徒も多分爲さざるを得なかつたやうに、機敏にもそれを默認することに努めた。若し法王權が彼等の方策に支持を與へたならば、ジエジユイト敎派は支那の歷史を一變し得たであらう。然るに他の宗敎團は猛烈にこの妥協に反對したので、その機會は逸してしまつた。其處で、どれ程まで祖先の祭禮拜が、日本に於けるポルトガルの傳道師等によつて默認されたかは、社會學上の硏究に取つて甚だ興味のある事である。勿論、最高の祭祀は、明白な理由からして、そのままにして置かれた。一家の祭祀が當時に於て、今日それが新敎とロオマ敎との傳道師によつて等しく攻擊されてゐると同じやうに、執念深く攻擊されたと想像するのは困難である、――例へば、改宗者達が、彼等の祖先の位牌を棄ててしまふとか、破壞するとかいふやうに、强ひられたとは想像し難い。なほそれと共に一方に於て、ずつと貧困な改宗者達の多く――召使やその他の一般庶民――が一家の祖先祭祀を持つてゐたかどうかに就いて、吾々は今でも疑ひをもつて居る。無賴漢の階級はその中に多數の改宗者を出して居るが、それ等は勿論、この默に於て考慮の中に置く必要はない。この問題を公平に判斷せんとするならば、第十六世紀に於ける平民の宗敎的狀態に就いて知らなければならない事がまだ澤山にある。兎に角、如何なる方法が採られたにしろ、初期の傳道の成功は驚くべきものであつた。彼等の傳道の事業は、日本の社會組織の特殊な性質のために、頭から始める必要があつた。臣下はその領主の許可によつて、初めてその信條を變へることが出來たのである。處が最初からこの許可は自由に與へられたのであつた。或る場合には人民が新宗敎を採ることは、彼等の自由であると、公然告知を受けた事もあつた。又或る場合には、改宗した領主が新宗敎を採るやうに人民に命令を下した事もある。或はこの外國の宗敎は最初佛敎の新しい種類だと考へ違ひされたらしくもある。そして一五五二年に、ポルトガルの布敎團に與へた今日まで殘つて居る山口に於ける公の許可の中で、彼等は『佛の法』を――佛方紹隆[やぶちゃん注:「せうりゆう(しょうりゅう)」或いは「じやうりう(じょうりゅう)」。先人の事業を受け繼ぎ、更に盛んにすること。]の爲め――說敎しても宜しいといふ許可が(その許可には大道寺といふ一宇の寺をもそのうちに入れてあつたやうに見えるが)異國人達に向つてなされたといふことを、日本の文字が明らかに述べてゐる。原文はサアーアアネスト・サトウによつて次のやうに飜譯されてゐて、氏はそれをそのまま復寫にして出して居る、――
[やぶちゃん注:以上の画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの、ここの画像をトリミングと補正を加えて使用した。これは訳者戸川明三が独自に挿入したもので原典にはない。以下、活字に起し、後に私の推定訓読(読みを追加)を示す。
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周防國(シユウ)吉敷郡(クニ)山口縣(アガタ)大道寺事
從西域來朝之僧佛法紹隆可創建彼寺家之由任請望之
㫖所令裁許之狀如
天文廿一年八月廿八日
周防介押字(大内義長ナリ)
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周防國(すはうのしゆう)吉敷郡(よしきのくに)山口県(やまぐちのあがた)大道寺(だいだうじ)の事
西域(さいいき)より來朝の僧、佛法紹隆の爲(た)め、彼(かれ)の寺家(じけ)を創建すべきの由、請望(せいばう)の㫖(むね)[やぶちゃん注:「旨」に同じい。]に任(まか)せ、裁許せしむる所の狀、件(くだん)のごとし。
天文廿一年八月廿八日
周防介(すはうのすけ)押字[やぶちゃん注:花押。](大内義長ナリ)
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個人ブログ「くすのき日記2」の「景教碑ゴルドン夫人と山口ザビエルの大道寺」によれば、この戦国大名大内義長(天文元(一五三二)年?~弘治三(一五五七)年、:天文二一(一五五二)年三月三日に大内家当主となった。但し、この時はまだ大内晴英で、天文二二(一五五三)年の春に室町幕府十三代将軍足利義藤(よしふじ:後の義輝)から偏諱を受け、「義長」と改名した)から裁許状を得た「西域より來朝の僧」とは、かのフランシスコ・デ・ザビエル(Francisco de Xavier /Francisco de Jasso y Azpilicueta 一五〇六年~一五五二年)の弟子でイエズス会宣教師のトルレスコスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres 一五一〇年~元亀元(一五七〇)年:ザビエル離日後も日本布教長として山口・豊後で精力的に布教に当たり、大村純忠を始め、約三万人に洗礼を授けた。肥後天草の志岐で死去)のことである(後の最後の引用参照)。古川薫「ザビエルの謎」(平成六(一九四四)年文藝春秋刊)からとされて、『ザビエルは山口で布教していた』。『幕末から明治初年にかけて来日したイギリスの外交官アーネスト・サトウが』、明治一一(一八七八)年にここで小泉八雲が述べているように、『亜細亜協会でおこなった「山口教会の変遷」と題する講演で』、『ザビエルの事績を紹介したことから、にわかに日本人の間での認識を深めた』。『大正時代の初め、ザビエル崇敬者のひとり英国のゴルドン男爵夫人が、金古曽町の一角を古地図にあてはめて大道寺跡と断定し、この土地を買収して記念碑の建立を計画した。その後、萩の天主教会のビリオン神父によって具体化され』、大正一四(一九二五)年に『完工した。今ではザビエル公園となり、十字架をかたどった高さ』八・七『メートルの御影石にザビエルの胸像がはめ込まれている』とある。また、そこにも引用されているが、山口市文化交流課のサイト「大内文化まちづくり」の「第11回 サビエル記念公園」には、『フランシスコ・サビエル(一五〇六~一五五二)は天文十八年(一五四九)に、キリスト教を布教するために鹿児島に上陸、天文十九年(一五五〇)十一月、京都へ向かったが、戦乱で乱れていたため、天文二十年(一五五一)四月、政情の安定した山口に再び訪れ、大内義隆に布教の許しを願いでました。義隆は許可を与え、サビエルの住居に廃寺であった大道寺を与えました。ここを宿所として、サビエルは毎日街に出て布教に当たっていたといわれています』。『明治二十二年(一八八九)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡、特に大道寺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。現在の山口市湯田温泉に生まれ、文学史上に大きな足跡を残した近代詩人中原中也の祖父で、医師中原政熊もその一人でした』。『そして大正十五年(一九二六)十月十六日、高さ十メートルにも及ぶ花崗岩にサビエルの肖像をはめ込んだサビエル記念碑が建立されました』。『しかし、この碑のサビエル肖像の銅板は、第二次世界大戦中に供出されました。現在の肖像は、昭和二十四年(一九四九)サビエル来山四百年記念祭を期し、サビエル遺跡顕彰委員会より委嘱された彫刻家河内山賢祐氏により作成されたものです』とり、一番下にこの裁許状をはめ込んだ石碑があり、そのキャプションに、『「天文二十年(一五五一)九月サビエルは弟子トルレスらに後事を託し九州へ去りました。その後陶氏の乱が起こり大内義隆は討死しました。陶晴賢が大友義鎮の弟をむかえ大内義長と名のらせて大内家を継がせました』。『この碑は、大内義長がトルレスに寺院建立の許可を与えた書状を銅板にしてつくられたものです』とある。ザビエル記念公園はここ(山口県山口市金古曽町。(グーグル・マップ・データ))と思われる。]
註 この文書のラテン及びポルトガルの飜譯に寧ろその僞造譯の中には、佛法を說くといふ事に就いては一言も云つてない、又日本の文書には少しも載つてゐない事が澤山附加されてゐる、サトウ氏のこの文書竝びにその僞譯に關する說明に就いては、日本亞細亞協會記事、第二部“Transaction of the Asiatic Society or Japan” Vol. Ⅶ, Part Ⅱ”を見よ。(譯者曰、八卷とあれど實は七卷なり)