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2018/10/26

古今百物語評判卷之四 第九 舟幽靈附丹波の姥が火、津國仁光坊事

 

  第九 舟幽靈(ふなゆうれい)丹波の姥(うば)が火(び)、津國(つのくに)仁光坊(にくわうばう)事

 

Hunayuurei

 

或る人、とふて云(いふ)、「西國又は北國にても、海上の風あらく、浪はげしき折からは、必ず、波のうへに、火の見え、又は、人形(ひとかたち)などのあらはれ侍るをば、『舟幽靈』と申(まうし)ならはせり。舟をさ[やぶちゃん注:「舟長」。]どもの云(いへ)るは、『とわたる船[やぶちゃん注:「渡る船」であろう。「」は海流の複雑な難所たる瀬戸と読む。]、破損せし時、海中におぼれし人の魂魄の殘りしなり』と申し侍るは、秦(はだ[やぶちゃん注:原典のママ。])の武文(たけぶん)が怨靈、幷びに、越中の守護名越(なごや[やぶちゃん注:原典のママ。])遠江守、同修理亮、兵庫助などが妄執の事、おもひ出でられて、まことしく候が、さに侍らん」と問(とひ)ければ、先生、答へていはく、「其(その)海原に見え候ふ火は、水中の陰火とて、一通り[やぶちゃん注:普通に。]、ある物なり。是(これ)、高き山のいたゞきに、水、有(ある)がごとく、水中にも、火、あるなり。さはいへど、其(その)おぼれ死せし人のたましゐも、いかにも、火と見え、形もあらはれ侍るべし。其形は、底のみくづとなりて朽ちはて侍れど、その氣の殘りし處、現れまじきにあらず。彼(かの)武文・名越などにもかぎらず、だんの浦などのごとく、一度に大勢相果(あひはて)たるは、猶、その怨靈も、のこるべし。丹波のほうづ河[やぶちゃん注:桂川の中流域を呼ぶ保津川のこと。現行は「ほづ」と読む。]に『姥が火』とてあり。是れも、其所の者、申(まうし)ならはせしは、そのかみ、龜山[やぶちゃん注:現在の京都府亀岡市。ここ(グーグル・マップ・データ)。]のほとりに兒(ちご)かい[やぶちゃん注:ママ。]姥のさぶらひしが、あまたの人の子を、『肝(きも)煎(い)る』とて、其生(うみ)の親のかたよりは、金銀をとりて、おのれが物とし、其子[やぶちゃん注:の生き肝をを採った後の遺骸は。]は此河へながせしとかや。其みぎり、いまだ世も治まらざる比(ころ)なれば、さして其掟(おきて)[やぶちゃん注:処罰。]にもあはざりしが、天命のおそろしさは、洪水の出(いで)たる時、彼(かの)姥、おぼれてあがき死(じ)にしけるが、其より後(のち)、今に、ほうづ河に、夜每に火の丸(まる)がせ[やぶちゃん注:火の玉。]、見え候を、『姥が火』とかや申しならはせりと云(いへ)り。是、其捨てられし小兒の亡魂、または、其姥がくるしみの火の、靈たるべし。又、津の國『仁光坊の火』と云(いへ)るは、是は先年、攝州芥河(あくたがは)[やぶちゃん注:現在、主に大阪府高槻市を流れる淀川の支流。ここ(リンク先はサイト「川の名前を調べる地図」の地図)。]のあたりに、何がしとかや云(いふ)代官あり。それへ往來する眞言僧に仁光坊といひて、美僧ありしに、代官の女房、ふかく心をかけ、さまざま、くどきけれども、彼の僧、同心せず。女房、おもひけるは、『かく同心せぬうへからは、我れ、不義なることの、かへり聞こえむ[やぶちゃん注:却って訴え出るかも知れぬ。]もはかりがたし。然るうへは此僧を讒言(ざんげん)して、なき者にせん』と思ひ、「仁光坊、われに心をかけ、いろいろ、不義・空事、申(まうし)かけたり」と告げれば、其代官、はなはだ立腹して、とかくの沙汰に及ばず、彼の僧を斬罪におこなふ。其時、仁光坊、大きにうらみ、「此事は、かやうかやうの事奉るを、實否(じつふ[やぶちゃん注:原典のルビ。])のせんさくもなく、かく、うきめを見するからは、忽ち、おもひ知らせん」とて、目をいからし、齒をくひしばりて死にけるが、終(つゐ)に其一類、のこりなく取り殺して後(のち)、今に至るまで、其僧のからだを埋(うづ)みし處の山ぎはより、火の丸(まろ)がせ、出(いで)候が、其火の中(うち)に法師の首、ありありと見ゆる、と云へり。かやうの事、つねに十人なみに[やぶちゃん注:普通に。]ある事には侍らねども、たまたまは、ある道理にして、もろこしの書にも、おりおり、見え侍る」とかたられき。

[やぶちゃん注:原典は「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」の「古今百物語評判」(お茶の水大学図書館蔵本)の当該条を確認した。本話は問答形式の構造に変化はないが、短い文章の中に「舟幽霊」・「姥が火」・「仁光坊の火」の三つの知られた怪火の語りが無駄なく圧縮されていて、元隣の薀蓄もさして気にならず、本「古今百物語評判」の中では、所謂、「百物語怪談集中の三話早回し的回」となって、図らずも、上手く、正統な怪談噺しとして出来上がっていると言える。但し、例示されたものはかなりメジャーなものばかりで、それらを単独で語った諸怪談のホラー性には足元にも及んではいない。まず、「舟幽霊」は私の記事にもゴマンとあるが、特にお薦めなのは、「北越奇談 巻之四 怪談 其七(舟幽霊)」(以下総て私の電子化注記事)で、話柄のリアリズムと、添えられたかの葛飾北斎の絵のホラー度が群を抜いて優れているものである。三つ目の「仁光坊の火」は「宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事」が事件の詳細を文学的に仔細に語って強烈である。「姥が火」は同名の怪異が他にもある(例えば「諸國里人談卷之三 姥火」を見られたい)。怪火の総纏め的な「柴田宵曲 妖異博物館 怪火」も参考になる。「柳田國男 うつぼ舟の話 一」の冒頭部分は短いが、民俗学的科学的視点から怪火について言及しているので一読の価値はあろう。

「秦(はだ)の武文(たけぶん)」生年未詳。元徳三(一三三一)年の「元弘の乱」の際、摂津国兵庫の海で死を賭して主君尊良(たかなが)親王(延慶三(一三一〇)年?~延元二/建武四(一三三七)年):後醍醐天皇の皇子。斯波高経率いる北朝方との金ヶ崎の戦いで新田義貞の子義顕とともに戦ったが、力尽きて義顕とともに自害した)の妻を守って入水したとされる忠臣秦武文(はたのたけぶん)。「はだ」と濁る読みもある。なお、彼は死後、ヘイケガニやカブトガニに変じたとする伝承があり、「平家蟹」には「武文蟹」の異名もある。私の『毛利梅園「梅園介譜」鬼蟹(ヘイケガニ)を見られたい。

「越中の守護名越(なごや[やぶちゃん注:原典のママ。])遠江守」北条(名越)時有(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)。ウィキの「北条時有」によれば、『従五位下左近将監、遠江守、越中守護』。『父は北条公時の子である公貞』(別に左近将監宣房の息ともいう)。『子に時兼。弟に有公、貞昭』。正応三(一二九〇)年、『越中国守護所として放生津城を築城する。正慶二/元弘三年に『隠岐から脱出し』、『鎌倉幕府打倒を掲げて後醍醐天皇が挙兵した際、時有は前年に射水郡二塚へ流罪となり』、『気多社へ幽閉されている後醍醐の皇子・恒性皇子が、出羽や越後の反幕府勢力に擁立され』、『北陸道から上洛を目指しているという噂を聞きつけた』第十四代執権『北条高時から、皇子の殺害を命ぜられる。時有は名越貞持に皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺させた』。『同年、新田義貞や足利高氏らの奮闘で反幕府勢力が各地で優勢となり』、『六波羅探題が陥落すると、越後や出羽の反幕府勢力が越中へ押し寄せ、また、井上俊清を初めとする北陸の在地武士も次々と寝返り、時有ら幕府方は追い込まれていく。二塚城での防戦を諦めた時有は弟の有公、甥の貞持と共に放生津城へ撤退するも、脱走する兵が相次いだ』。『放生津城の周りは、一万余騎に囲まれ』、『進退が行き詰った。時有は、妻子らを舟に乗せ奈呉の浦(現射水市)で入水させた。それを見届けた後、城に火を放ち』、『自刃している。一連の様子は、後に』「太平記」に『記されている』とある。因みに、彼は歌人としても知られた。以下、「太平記」巻第十一の「越中守護自害の事付けたり怨靈の事」を引く(参考底本には新潮日本古典集成を用いたが、恣意的に漢字を正字化し、一部の表記や読みを私が弄っている)。元隣がこの三名を引くのは、この末尾の怪異(太字部)に拠る

   *

 越中の守護名越(なごや)遠江守時有・舍弟修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)・甥の兵庫助(ひやうごのすけ)貞持三人は、出羽・越後の宮方(みやかた)、北陸道(ほくろくだう)を經て、京都へ攻め上るべしと聞えしかば、道にてこれを支へんとて、越中の二塚(ふたつづか)と云ふ所に陣を取つて、近國の勢どもをぞ相催(あひもよほ)しける。かかるところに、六波羅、すでに攻め落されて後(のち)、東國にも軍(いくさ)起つて、すでに鎌倉へ寄せけるなんど、樣々に聞えければ、催促に從ひて、ただ今まで馳せ集まりつる能登・越中の兵(つはもの)ども、放生津(はうじやうづ)に引き退いて、かへつて守護の陣へ押し寄せんとぞ企てける。これを見て、今まで身に代はり、命に代はらんと、義を存じ、忠を致しつる郞從も、時の間(ま)に落ち失せて、あまつさへ敵軍に加はり、朝(あした)に來たり、暮れに往きて、交はりを結び、情けを深うせし朋友も、忽ちに心變じて、かへつて害心をさしはさむ。今は、殘り留まりたる者とては、三族に遁(のが)れざる一家の輩(ともがら)、重恩をかうむりし譜代の侍、わづかに七十九人なり。

 五月十七日の午の刻に、敵、すでに一萬餘騎にて寄すると聞こへしかば、

「われ等、この小勢(せうせい)にて合戰をすとも、何ほどの事をかし出だすべき。なまじひなる軍(いくさ)して、言ふ甲斐無く敵の手に懸かり、縲紲(るゐせつ)[やぶちゃん注:罪人を黒い繩で縛ること。]の恥に及ばん事、後代(こうたい)までの嘲(あざけ)りたるべし。」

とて、敵の近付かぬ前(さき)に女性(によしよう)・をさなき人々をば舟に乘せて、沖に沈め、わが身は城の内にて自害をせんとぞ出で立ちける。

 遠江の守の女房は、偕老の契りを結んで、今年二十一年になれば、恩愛の懷(ふところ)の内に、二人の男子(なんし)をそだてたり。兄は九つ、弟(おとと)は七つにぞ成りける。

 修理亮有公(ありとも)が女房は、相馴(あひな)れて、すでに三年に餘りけるが、ただならぬ身[やぶちゃん注:身重の身。妊娠していた。]に成つて、早(はや)月頃[やぶちゃん注:数ヶ月。]過ぎにけり。

 兵庫助貞持が女房は、この四五日前(さき)に、京より迎へたりける上﨟女房にてぞありける。その昔、紅顏・翠黛(すゐたい)の世に類ひ無き有樣、ほのかに見初めし珠簾(たまだれ)の隙(ひま)もあらば、と心に懸けて、三年餘り戀ひ慕ひしが、とかく手立てを𢌞らして、盜み出だしてぞ迎へたりける。語ひ得て、わづかに昨日今日のほどなれば、逢ふに替はらんと歎き來(こ)し命も、今は惜しまれける。戀ひ悲しみし月日は、天(あま)の羽衣撫で盡くすらんほどよりも長く、相見て後の直路(ただち)は[やぶちゃん注:結ばれて後の時の経過は。]、春の夜の夢よりも、なほ短し。忽ちにこの悲しみに逢ひける契りのほどこそ哀れなれ。末の露、本(もと)の雫(しづく)、おくれ先立つ道をこそ、悲しきものと聞きつるに、浪の上、煙(けぶり)の底に、沈み焦がれん別れの憂さ、こはそもいかがすべきと、互ひに名殘(なごり)を惜をしみつつ、伏しまろびてぞ泣かれける。

 さるほどに、敵の早(はや)寄せ來るやらん、

「馬煙(うまけぶり)の東西に揚げて見へ候ふ。」

と騷げば、女房・をさなき人々は、泣く泣く、皆、舟に取り乘つて、遙かの沖に漕ぎ出だす。恨めしの追風や、しばしもやまで行く人を、浪路(なみぢ)遙かに吹き送る。情けなの引潮や、立ちも歸らで、漕ぐ舟を、浦より外(ほか)に誘ふらん。かの松浦佐用媛(まつらさよひめ)が、玉嶋山(たましまやま)に領布(ひれ)振りて、沖行く舟を招きしも、今の哀れに知られたり。水手(すゐしゆ)、櫓をかいて、舟を浪間に差し留めたれば、一人(いちにん)の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組んで、同じく身をぞ投げたりける。紅(くれなゐ)の衣(きぬ)、赤き袴(はかま)の、しばらく浪に漂ひしは、吉野・立田(たつた)の河水に、落花・紅葉(こうえふ)の散亂たる如くに見えけるが、寄せ來る浪に紛(まぎ)れて、次第に沈むを見果てて後(のち)、城に殘り留まりたる人々、上下七十九人、同時に腹を搔き切つて、兵火(へいくわ)の底にぞ燒け死にける。

 その幽魂・亡靈、なほも、この地に留まつて、夫婦執着(しふぢやく)の妄念を遺しけるにや、この頃、越後より上る舟人(ふなうど)、この浦を過ぎけるに、にはかに、風、向ひ、波、荒かりけるあひだ、碇(いかり)を下(おろ)して沖に舟を留(と)めたるに、夜更け、浪、靜まつて、松濤(しようたう)の風、蘆花(ろくわ)の月、旅泊の體(てい)、よろづ、心すごき折節、遙かの沖に女の聲して、泣き悲しむ音しけり。これを怪しと聞きゐたるところに、また渚(なぎさ)の方に男の聲して、

「その舟、ここへ寄せてたべ。」

と、聲々にぞ呼ばはりける。

 舟人止む事を得ずして、舟を渚に寄せたれば、いと淸げなる男、三人、

「あの沖まで便船申さん。」

とて、屋形(やかた)にぞ乘りたりける。

 舟人、これを乘せて、沖つ鹽合(しほあひ)に舟を差し留めたれば、この三人の男、舟より下(お)りて、漫々たる浪の上にぞ、立つたりける。

 暫くあれば、年、十六、七、二十ばかりなる女房の、色々の衣(きぬ)に、赤き袴、踏みくくみたるが、三人、浪の底より浮び出でて、その事となく、泣きしほれたる樣なり。

 男、よにむつましげなる氣色(けしき)にて、相互(あひたが)ひに寄り近付かんとするところに、猛火(みやうくわ)、にはかに燃え出でて、炎、男女の中を隔てければ、三人の女房は、妹背(いもせ)の山の中々に、思ひ焦がれたる體(てい)にて、浪の底に沈みぬ。

 男は、また、泣く泣く、浪の上を泳ぎ歸つて、二塚の方へぞ步み行きける。

 あまりの不思議さに、舟人(ふなうど)、この男の袖をひかへて、

「さるにても、たれ人(びと)にて御渡り候ふやらん」

と問ひたりければ、男、答へて云はく、

「我らは名越遠江守。」

「同じき修理亮。」

「竝びに兵庫助。」

と各々、名乘つて、搔き消すやうに、失せにけり。

 天竺(てんぢく)の術婆伽(じゆつばが)は后(きさき)を戀して、思ひの炎に身を焦がし、わが朝(てう)の宇治の橋姫は、夫を慕ひて、片敷く袖を波に浸(ひた)す。これ、皆、上古(しやうこ)の不思議、舊記に載するところなり。まのあたりかかる事の、現(うつつ)に見へたりける、妄念のほどこそ、罪、深けれ。

   *

以上を掲げたことで、この私の記事は相応の怪談と成った。「太平記」に感謝する。

「同修理亮」「兵庫助」上掲の「太平記」本文冒頭には時有の弟・甥とあるが、新潮日本古典集成山下宏明氏の頭注によれば、二人とも『系図の類には見えない』とあり、不詳である。]

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