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2018/10/06

古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事

 

  第五 こだま彭侯(はうこう)と云ふ獸(けだもの)狄仁傑(てきじんけつ)の事 

 

Kodama

[やぶちゃん注:「叢書江戸文庫」の図版の汚損を少し除去した。]

 

一人の云(いふ)、「『こだま』と申(まうす)物は山谷(やまたに)、あるひは、堂塔などにて、人の聲に應じて響く物を申せり。されば、文字には『空谷響(むなしきたにのひゞき)』と書きて、『こだま』とよめり。又、『樹神(うへのきのたましゐ[やぶちゃん注:原典のママ。])』と書き候(さふらは)ば[やぶちゃん注:原典は「候は」。「叢書江戸文庫」で補正した。]、いかさまにも、化物の類(るい)または草木(くさき)の精にも候ふやらん。然らば、芭蕉の、女にばけたるなどこそ『こだま』とも申すべからんや」と云へば、先生、評していはく、「いかにも仰せらるゝごとく、物のひゞく音を『こだま』と申せり。和歌にも『山彦のこたへするまで』など讀(よめ)る。是れは、わきに何物もなき、うつろなる所にて、聲をあぐれば、其むかふにある物にあたりてひゞく音なり。是れ、ゆめゆめ、生類にあらず、『空谷響(くうこくけい[やぶちゃん注:原典のルビ。])』の心なるべし。併(しかしながら)、草木に精なきといふには、あらず。又、草木の精をも『こだま』と申すべし。唐土(もろこし)にても『彭侯』といふ獸(けだもの)は千歳を經(へ)し木の中にありて、狀(かたち)、狗(いのこ)のごとしと云(いへ)り。むかし、呉の敬叔と云ひし人、大なる樟樹(くすのき)をきりしに、木の中より、血、ながれ出(いづ)。あやしみ見れば、中に、獸、有(あり)しが、『「彭侯」ならん』とて、煮て、くらひしに、味(あぢは)ひ、狗(いのこ)のごとしといふ事、「搜神記」に見えたり。是、たゞちに、『樹神(こだま)』なるべし。又、唐の武三思(ぶさんし)といふ人の許に、いづく共なく、容顏(ようがん)うるはしき女、來たりて、『宮づかへせん』と云(いふ)。武三思、其形に愛でゝ召しつかひしに、よく歌うたひ舞(まひ)まひて、琴棊書畫(きんぎしよぐは[やぶちゃん注:原典のママ。])にくらからず。三思、寵愛、なゝめならずして、賓客のたびに、馳走(ちさう)に出(いだ)し給へり。其頃、狄仁傑といふは、道德兼備の人なりしが、聊(いささか)の事ありて、武三思をとぶらひ給ひしに、三思、奔走のために彼(かの)女を呼び出だせしが、此女、いづく共なく、うせぬ。あやしみて求(もとめ)ければ、壁のはざまに、ひら蜘蛛のごとくに成(なり)て、かくれゐつゝ、云ふやう、『我、人間にあらず。庭前の牡丹の精なり。君(きみ)、あまりに牡丹を愛し給ふ故、人間に變じ、參りつかふまつりしが、狄仁傑は、其德義、正しき人なれば、出(いづ)る事かなはずして、かくのごとし』と云(いひ)て、消(きえ)うせしと、「開天遺事」に見えたり。又、芭蕉の、女にばけて、長篇の詩をつくりし事、「幽冥錄」に見えたり。謠(うたひ)もかやうの出所にや侍らん」。

[やぶちゃん注:「こだま」「ブリタニカ国際大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『木の精霊のこと。木々に精霊が宿っていると考える樹木崇拝の一つ。木に傷をつければ痛む、切倒せば死ぬとされ、供物を捧げれば人々に恩恵を与え、また』、『無視すれば』、『災害をもたらすと考えられたことから生じた。古くはギリシア・ローマ時代の神話にもみられ、たとえば』、『ホメロスの詩にあるアフロディテへの讃頌』(さんしょう:言葉を尽くし、また、歌などに作って褒めたたえること)『は、木霊へのそれであった。日本にも古くからこの信仰があり、人声の反響のことを』「こだま」『あるいは「山彦」と呼ぶのも、木の精、あるいは山の精が返事をしていると考えたためである。沖縄のキジムンも木の精の一つ 』であり、『その他、古いつばきの木が化けてなる火の玉とか、大木の梢からだしぬけに現れる妖怪とか、古い』柿『の木が化けた大入道などは、いずれも木霊の変形したものにほかならない』とある。次にウィキの「木霊」を引く。『木霊(こだま、木魂、谺)は樹木に宿る精霊である。また、それが宿った樹木を木霊と呼ぶ』。『また』、『山や谷で音が反射して遅れて聞こえる現象である山彦(やまびこ)は、この精霊のしわざであるともされ』た。『精霊は山中を敏捷に、自在に駆け回るとされる。木霊は外見はごく普通の樹木であるが、切り倒そうとすると祟られるとか、神通力に似た不思議な力を有するとされる。これらの木霊が宿る木というのは』、『その土地の古老が代々語り継ぎ、守るものであり、また、木霊の宿る木には決まった種類があるともいわれる。古木を切ると』、『木から血が出るという説もある』。『木霊は山神信仰に通じるものとも見られており、古くは』「古事記」に出る『木の神・ククノチノカミが木霊と解釈されており、平安時代の』源順(みなもとのしたごう)の著した辞書「和名類聚抄」には、『木の神の和名として「古多万(コダマ)」の記述がある』。「源氏物語」に「鬼か神か狐か木魂(こだま)か」「木魂の鬼や」等の『記述があることから』平安当時、『すでに木霊を妖怪に近いものと見なす考えがあったと見られている』。『怪火、獣、人の姿になるともいい、人間に恋をした木霊が人の姿をとって会いに行ったという話もある』。『伊豆諸島の青ヶ島では、山中のスギの大木の根元に祠を設けて「キダマサマ」「コダマサマ」と呼んで祀っており、樹霊信仰の名残と見られている』。『また』、『八丈島の三根村』(みつねむら)『では、木を刈る際には』、『必ず、木の霊であるキダマサマに祭を捧げる風習があった』。『沖縄島では木の精を「キーヌシー」といい、木を伐るときにはキーヌシーに祈願してから伐るという。また、夜中に倒木などないのに』、『倒木のような音が響くことがあるが、これはキーヌシーの苦しむ声だといい、このようなときには』、『数日後に』、『その木が枯死するという。沖縄の妖怪として知られるキジムナーはこのキーヌシーの一種とも、キーヌシーを擬人化したものがキジムナーだともいう』。『鳥山石燕の妖怪画集』「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年刊)では、『「木魅(こだま)」と題し、木々のそばに老いた男女が立つ姿で描かれており、百年を経た木には神霊がこもり、姿形を現すとされている』。『これらの樹木崇拝は、北欧諸国をはじめとする他の国々にも多くみられる』とある。

「芭蕉の、女にばけたる」金春禅竹作の複式夢幻能「芭蕉」を指しており、元隣評の最後に出る「謠(うたひ)もかやうの出所にや侍らん」がそれに応じている。小学館「日本大百科全書」によれば、『中国の湘水(しょうすい)の山中、日夜』、「法華経」を『読経する僧(ワキ)のもとに』、一『人の女性(前シテ)が現れ、経の聴聞を願い、草木成仏のいわれを尋ね、自分は芭蕉の精であることをほのめかして消える。夜もすがら読経する僧の前にふたたび姿をみせた芭蕉の精(後シテ)は、仏を賛美し、芭蕉が人生のはかなさを象徴していることを語り、四季の推移を舞い、秋風とともに消えていく。晩秋の季節を背景に、寂しい中年の女性の姿を借りて、無常感そのものを舞台に造形する。きわめて高度な能であり、もっとも抽象化を果たした演劇の例といえる』。「法華経」の『草木成仏の思想を軸に、王摩詰』(中唐の名詩人王維)『が雪の中の芭蕉を描いたという故事を踏まえた、禅竹独特の世界であり、また能だけが可能とした世界である』とある。台詞を含め、より詳しくは、『宝生流謡曲「芭蕉」』のページがよい。

「和歌にも『山彦のこたへするまで』など讀(よめ)る」「古今和歌集」の「巻大十一 恋歌一」にある読み人知らずの一首(五二一番歌)、

 つれもなき人を戀ふとて山彦(やまびこ)の應(こた)へするまで嘆きつるかな

である。類似した民俗的感懐を詠んだものは既に「万葉集」に認められる。

「わきに」周囲に、或いは、その一定の空間内に、の意。

「空谷響(くうこくけい)」「響」の音は「キヤウ(キョウ)」・「カウ(コウ)」で、「ケイ」という音はない。現代中国語でも「シィァン」であるから、不審。

「彭侯」私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「こだま 彭侯」で以下のように電子化訓読し(筆の違う二図の挿絵も添えた。原文はリンク先を見られたい。訓読文は古い私の仕儀なので、引用に際し、少し新たに手を加えた)、考証した。中国音「ポン へ゜ウ」「木魅」「賈」(「」=「月」+「由」)「【「文選」「蕪城賦」に『山鬼なり。』と云ふ。】」「【和名、古太萬。】」と見出しし、

   *   *   * 

Kodama_3

 

Kodama2_2「本綱」に、『彭侯は【「白澤圖」に云ふ。】木の精なり。千歳の木、精有りて、状、黑狗のごとく、無尾、人面。烹て食ふべし。味【甘酸、溫。】狗のごとし。【「搜神記」に云ふ、】『呉の時、敬叔、大なる樟(くす)の樹を伐るに、血、出づる中に物有り、即ち、彭侯なり。』と。

按ずるに、彭侯、乃ち木魅【古太萬。】木の靈精なり。俗に此れを山彦と一物と爲(す)るは誤りなり。山彦は、山行の人、大聲に物を喚(よ)べば、則ち應(こた)ふるごとき者、乃ち、山谷の聲なり。乃ち、山響の畧なり【比比木(ひびき)を上畧して云ふ。「比木」と「比古」と、相(あひ)通じ、「山彦」と爲す。】。

 

[やぶちゃん注:木の精霊。但し、実際に煮て食うという描写が出てくる以上、何らかの実在する動物をモデルとしては比定し得るものと考える。黒犬に似ているだけでなく、後掲する如く、「捜神記」ではイヌと同じ味がするとあり、私は食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミの亜種で、主にユーラシア北端部に分布するシベリアオオカミ(ツンドラオオカミ)Canis lupus albus か、その老衰・病変個体、又は広くユーラシア大陸に分布するイヌ科のドール(アカオオカミ)Cuon alpinus 等の老衰・病変個体の誤認のように思われる。因みにドール Cuon alpinus については、以下にウィキの「ドール」より引用しておく。体長八十八~百十三センチメートル、尾長四十~五十センチメートル、肩高四十二~五十五センチメートル、体重十~二十キログラム。『背面は主に赤褐色、腹面は白い体毛で被われる。尾の先端は黒い体毛で被われる』。『耳介は大型。鼻面は太くて短い。門歯が上下』六『本ずつ、犬歯が上下』二『本ずつ、小臼歯が上下』八『本ずつ、大臼歯が上下』四『本ずつの計』四十『本の歯を持つ。上顎第』四『小臼歯および下顎第』一『大臼歯(裂肉歯)には歯尖が』一『つしかない。指趾は』四本。『森林に主に』棲息し、五~十二『頭からなるメスが多い家族群を基にした群れを形成し生活するが、複数の群れが合わさった約』四十『頭の群れを形成する事もある。狩りを始める前や』、『狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる。群れは排泄場所を共有し、これにより他の群れに対して縄張りを主張する効果があり』、『嗅覚が重要なコミュニケーション手段だと考えられている』。『昼行性だが、夜間に活動(特に月夜)する事もある』。『食性は動物食傾向の強い雑食で、哺乳類、爬虫類、昆虫、果実、動物の死骸などを食べる。獲物は臭いで追跡し、丈の長い草などで目視できない場合は直立したり』、『跳躍して獲物を探す事もある。横一列に隊列を組み、逃げ出した獲物を襲う。大型の獲物は他の個体が開けた場所で待ち伏せ、背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき』、『内臓を引き裂いて倒す』。『また』、『群れでトラやヒョウなどから獲物を奪う事もあるから獲物を奪う事もある』。『土手に掘った穴、岩の隙間、他の動物の巣穴などで』、十一月から翌四月にかけて、一回に二~九頭の『幼獣を産む』(これが空ろになった大木や枯れ木であったとすれば?!)。『繁殖は群れ内で』一『頭のメスのみが行』い、『授乳期間は』二ヶ月。『群れの中には母親と一緒に巣穴の見張りを行ったり、母親や幼獣に獲物を吐き戻して運搬する個体がいる』。『幼獣は生後』十四『日で開眼』し、生後二~三ヶ月で『巣穴の外に出て、生後』五ヶ月で『群れの後を追うようになり』、生後七~八ヶ月で『狩りに加わる』。生後一年で『性成熟する』とある。

『「文選」「蕪城賦」』南北朝時代の南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集「文選」に載る南北朝宋の詩人鮑照(四一四年?~四六六年)の代表作にして珠玉の名品。広陵(江蘇省揚州市)の荒廃を歎く。確かに、その第三連に「木魅山鬼」と出るのであるが、これは荒れ果てた城内を畳み掛けるシーンに現われ、対句になっている次句は「野鼠城狐」である。これは「木の魅」と「山の鬼」と「野の鼠」と「城の狐」の四つが並列であって、「木の魅」は「山の鬼」であって「野の鼠」は「城の狐」である、という表現ではないと思われる。勿論、山の木の精霊は山の精鬼ではあるから、「木魅」=「山鬼」の等式に誤りはないが、良安のこの語義割注は少しおかしいと思うのである。識者の御意見を乞う。

『「白澤圖」』「白澤」は聖獣の名。人語を操り、森羅万象に精通する。麒麟・鳳凰同様、有徳の君子ある時のみ姿を現すという。一般には、牛若しくは獅子のような獣体で、人面にして顎髭を蓄え、顔に三個、胴体に六個の眼、頭部に二本、胴体に四本の角を持つとする。三皇五帝の一人、医薬の祖とされる黄帝が東方巡行した折り、白澤に遭遇、白澤は黄帝に「精気が凝って物体化し、遊離した魂が変成したものはこの世に一万千五百二十種ある」と教え、その妖異鬼神について詳述、黄帝がこれと白澤の姿を部下に書き取らせたものを「白澤圖」という。因みに、本邦では江戸時代、この白澤の図像なるものは、旅行者の護符やコロリ(コレラ)等の疫病退散の呪いとして、甚だ流行した。

『「搜神記」』東晋の文人政治家干宝(生没年未詳)の撰になる、四世紀に成った六朝期を代表する志怪小説集。神仙・方士・魑魅・妖怪・動植物の怪異等、四百七十余の説話を、説話のタイプ別に分類して収録する。後世の小説群に多くの影響を与えた。該当箇所は「巻く十八」の以下の部分。

   *

先主時、陸敬叔爲建安太守、使人伐大樟樹。下數斧、忽有血出、樹斷、有物、人面狗身、從樹中出。敬叔曰、此名彭侯。乃烹食之。其味如狗。白澤圖曰、木之精名彭侯狀如黑狗、無尾、可烹食之。

   *

 の先主の時、陸敬叔、建安の大守と爲(な)れり。人をして、大樟樹を伐らしむ。數斧を下すに、忽ち、血の出づる有り。樹、斷(た)たれるに、物、有り、人面狗身にして、樹中より出づ。敬叔、曰はく、「此れ、彭侯と名せるなり」と。乃(すなは)ち、烹て之れを食へば、其の味、狗のごとし。「白澤圖(はくたくず)」に曰はく、「木の精を『彭侯』と名づく。狀(かたち)は黑狗(こくく)のごとく、尾、無し。烹て、之れを食ふべし」と。

「呉先主」とは呉を建国し、初代皇帝となった孫権(一八二年~二五二年)のこと。「建安」は現在の福建省。「樟樹」は双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora

・「比木と比古と、相通じ、山彦と爲す。」とは「比木」(ひこ)の「木」は「こ」とも読むから、「比木」(ひこ)となり、それは「比古」(ひこ)と同音で相互に通じるから、本来の「山響」(やまひびき)を略した「比比木」で、それをまた略した「比古」に元通りの「山」を冠せば「山彦」(やまびこ)となる、という意味。

   *   *   *

「狗(いのこ)」挿絵も猪の絵が描いてあるが、「狗」には「猪」の意はない(「熊や虎の子」の意はある)し、歴史的仮名遣も「猪」なら「ゐのこ」である。「捜神記」は偏愛する書で、複数の訳書を所持するが、皆、「犬」と訳している。中国では「猪」なら、「野豬」「山豬」である。犬を「いのこ」と一般的に言うというのは私は聞かない。「いぬのこ」(犬の子)の略だと言われれば、黙らざるを得ないが、だったら挿絵はおかしいだろ! なお、「犬の子」なら、先の私のオオカミ類の推定比定と合致するとも言える。

「武三思」(?~七〇七年)は唐代の政治家で、高宗の皇后で中国史上唯一の女帝となった武則天(六二四年~七〇五年/在位:六九〇年~没年まで)の異母兄弟である元慶の子(武則天の甥)。美青年であったという。ウィキの「武三思」によれば、『現在の山西省文水県に生まれる。武則天の一族ということで右衛将軍に抜擢され、武則天が政権を掌握すると夏官尚書に任命され、周朝(武周)が成立すると』、『梁王に封ぜられ』て『一千戸を賜る。ついで』、『天官尚書を拝命し』、六九五年には『春官尚書に転じて国史監修を担当』、六九八年に『検校内史、翌年には特進太子賓客に進んだ』。「新唐書」の「藝文志」によれば、「即天后實錄」(全二十巻)は『彼と魏元忠が編纂したものとされる。武則天の信任も厚く、同じく寵臣であった張易之・昌宗兄弟と結託し』、『権勢の確保につとめた。従父兄の承嗣とともに皇太子になるべく画策するなど』、『野心が強かった。皇太子の一件に関しては』、『武則天も立太子を検討したが』、『狄仁傑の諫言により実現しなかった』。『中宗の娘である安楽公主が子の崇訓に降嫁したこともあり』、『三思の権勢はより強固なものとなり、対立する桓彦範・敬暉・袁恕・崔玄暐・張柬之を排除し、自らの寵臣を大官に登用するなど』、『朝政混乱の原因を作り出し、また中宗の皇后・韋氏と昭容・上官氏に私通するなどの行動があった』。『三思は皇太子であった李重俊と不仲であったため、廃太子を行い』、『安楽公主を皇太女として立てるべく』、『政治工作を行っていたが、この態度に不満を持った重俊は』七〇七年、『兵を起し』、『三思・崇訓父子と親族数十名を殺した。これに対し』、『中宗は哀悼の儀式を挙行し、三思には太尉を追贈して「宣」と諡したが、睿宗が即位すると』、『三思父子に逆節があることを理由に』、『その墓所は破壊された』とある(下線太字はやぶちゃん)。

「狄仁傑」(六三〇年~七〇〇年)は唐の高宗・中宗・睿宗・武則天の四代に仕えた政治家。唐代で、太宗の時代に続いて安定していたとされる武則天の治世に於いて、最も信頼され、長年に渡って宰相を務めた。太原(山西省太原)の人。明経科に及第し、中央・地方の官職を歴任、六九一年に宰相となった。密告政治や契丹(きったん:キタイ。四世紀以来、満州南部を流れる遼河の支流にいたモンゴル系遊牧民族。十世紀初めに耶律阿保機(やりつあぼき)が周辺の諸民族を統合し、その子太宗の時、国号を「遼」とした。十二世紀初めに宋と金に滅ぼされたが、一部は中央アジアに移動して西遼(カラキタイ)を建てた)・突厥(とっけつ:とっくつ。六~八世紀にかけて、モンゴルから中央アジアを支配したトルコ系遊牧民族及び彼らの創った国。ササン朝ペルシアと協力してエフタルを滅ぼして大帝国となったが、五八三年には東西に分裂、モンゴル高原を支配した東突厥は、六三〇年に唐の攻撃で滅び、中央アジアを支配した西突厥も唐に討たれ、七世紀末に滅亡。東突厥は、その後、一時、復興したが、八世紀初め、ウイグルに討たれて滅亡した)の外寇など、ただならぬ時世にあって彼自身も、一時、酷吏に陥れられたが、武后の信任を拠り所として、一貫して、無軌道な政治の是正につとめた。中宗の復位を武后に勧めたのも彼であり、その志は、彼の推挙した張柬之(ちようかんし)や姚崇(ようすう)らの賢才たちによって実現されて行った(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「開天遺事」正しくは「開元天寶遺事」。小学館「日本大百科全書」によれば、『盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林(かんりん)学士などを歴任した王仁裕(じんゆう)』(八八〇年~九五六年)『が、後唐(こうとう)』(九二三年~九三六年)『の荘宗のとき、秦』『州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を捜集し』、百五十九『条を得て』、『本書にまとめたという』。但し、『南宋』『の洪邁』(こうまい 一一二三年~一二〇二年)は『本書を王仁裕の名に仮託したものと述べている。玄宗、楊貴妃』『の逸話をはじめ、盛唐時代への憧憬』『が生んだ風聞、説話として味わうべき記事が多い』とある。但し、以上の牡丹の精の話は、中文サイトの「開元天寶遺事」の原文を調べて見ても、見当たらなかった。話柄の類型は唐代伝奇や後の志怪小説(特に浮かぶのは「聊齋志異」辺り)にありがちなものではある。識者の御教授を乞う。

「棊」囲碁ととっておく。

「馳走」食事を出すなどして客をもてなすこと。表字は、その準備のために「走りまわる」意から生まれたもので、後文の「奔走」も同義である。

「幽冥錄」これは「幽明錄」の誤りではなかろうか。「世説新語」の撰者として知られる劉義慶(四〇三年~四四四年:南朝宋の皇族で臨川康王。武帝劉裕は彼の伯父)の志怪小説集。散逸したが、後代のかなりの諸本の採録によって残った。しかし、幾ら探しても、「幽明錄」には、芭蕉が女に化けて長篇の詩を作った話は見えない。そこで、別な作品集を捜してみたところが、作者不詳の元の志怪小説集「湖海新聞夷堅續志」の「後集巻二」の「精怪門」の「樹木」の中に、それらしい「芭蕉精」というのを中文ウィキソースの中に見出した。以下に一部を加工して示す。

   *

安成彭元功築庵山中、使一奴守之。一日暮時、有婦人求宿、自稱土名小水人、奴固把(「把」、抄配本作「拒」。)之不得、婦人徑入奴臥室中、不肯去。奴推之、婦人云、「隻見船泊岸、不見岸泊船、何無情如此。」。因近奴身、自解下裙。奴以爲怪物、遂與相(「相」、抄配本作「各」。)榻而寢。夜中又登奴榻、奴舉而擲之、輕如一[やぶちゃん注:この「」という注記号のようなものの意味は私にはよく判らない。]。奴懼、起取佛經執之。婦人笑云、「經雖從佛口出、佛豈眞在經。汝謂我誠畏經耶。」。天將明、庵有神鍾、起擊之、婦人云。「莫打。莫打。打得人心碎。」。取頭上牙梳掠頭畢、遂去。奴趁出(「趁出」原作「出趁」、據抄配本改。)門觀所向、入松林間、因忽不見。蓋林中芭蕉叢生故也。奴歸、見壁有五言詩、意婦人芭蕉精也。詩云、「妾住小水邊、君住靑山下。靑年不可再、白石坐成夜。隻見船泊岸、不見岸泊船。豈能深谷裏、風雨誤芳年。薄情君棄、咫尺萬里遠。一夜月空明、芭蕉心不展。解下綠羅裙、無情對有情。那知妾身重、隻道妾身輕。經從佛口出、佛不在經裏。卽在妾心頭、妾身隔萬里。月色照羅衣、永夜不能寐。莫打五更鍾、打得人心碎。」。

   *

なお、ここで、たまたま所持する安永五(一七七六)年刊の鳥山石燕の「画図百鬼夜行」(一九九二年国書刊行会刊)の「芭蕉精」の解説を見たところが、先に説明した謡曲「芭蕉」は、「湖海新聞夷堅續志」の『「芭蕉精」の怪異譚を取ったというが(新潮古典集成『謡曲集』)、『夷堅志』に芭蕉の怪異の話がほかにもある。庚志巻六「蕉小娘子」、丙志巻十二「紫竹園女」は芭蕉そのものが精怪になって出現する話である(沢田瑞穂「芭蕉の葉と美女」『鬼趣談義』所収)』と書かれているのに気づいた。実は、この沢田氏の「鬼趣談義 中国幽鬼の世界」(一九九〇平河出版社刊)を私は所持しているのだが、書庫の底に沈んでしまっていて、今すぐにはとても出てこないのであった。それを見れば、ここに、より豊かな注が出来るとも思うのだが、残念だ。発掘し次第、追記する。因みに、「蕉小娘子」「紫竹園女」(孰れも中文ウィキソースの収録ページ)、また「夷堅甲志」巻五に芭蕉上鬼(「中國哲學書電子化計劃」の検索抜出)というのも見出し、原文を見たが、孰れも漢詩を読んでいないから、違う。]

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