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2018/10/10

甲子夜話卷之五 25 神尾若狹守、堀江荒四郎を擧る事

 

5-25 神尾若狹守、堀江荒四郎を擧る事

神尾若狹守春央は、享保中の勘定奉行にて、人となり才智ありて威嚴なりければ、國用を辨ずるにおひては功績多かりしとなん。一年諸國を巡見せることありしに、その威名を聞傳へて、いかなる苛刻の事もあらんやと、土民ども安き心も無りしに、道すがら輿中より見渡したる計にして經過せり。然るに隱田ある所は、自ら訴へ出、沃土の免低かりしは、自ら免を上げて申出けるにぞ、多くの國益とはなりける。若州曾て堀江荒四郞を薦て、これにも所所巡察せしめ、賦税を增益せること多かりしとかや。其頃中國にてかくぞ落首しける。

    

 東からかんの若狹が飛で來て

    神尾                四郞

      野をも山をも堀江荒しろ

此荒四郞は農民より出て御徒組に入、遂に御旗本に列せしと云。

■やぶちゃんの呟き

「神尾若狹守春央」(かんを(かんお) はるひで 貞享四(一六八七)年~宝暦三(一七五三)年)は旗本で勘定奉行。ウィキの「神尾によれば、『苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』。『下嶋為政の次男として』生まれた。『母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子とな』った。元禄一四(一七〇一)年に仕官し、『賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元』(一七三六)年、『勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行とな』った。『時に』八『代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元』(一七四四)年には、『自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約』二百六十年を通じて、『収税石高が最高となった』。『しかし、翌年』、『松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなる。春央は金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行、長崎掛、村鑑、佐倉小金牧などの諸任務を』一『人で担当していた他、支配役替や代官の所替といった人事権をも掌握していたが』、延享三(一七四六)年九月、『それらの職務権限は勝手方勘定奉行全員の共同管理となったため、影響力は大きく低下した』。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として広く知られている(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)』。『また、当時の勘定組頭・堀江荒四郎芳極』(ほりえ あらしろう/ただとう)『と共に行った畿内・中国筋における年貢増徴の厳しさから、「東から かんの(雁の・神尾)若狭が飛んできて 野をも山をも堀江荒しろ(荒四郎)」という落書も読まれた』とある。

「擧る」「あぐる」。

「苛刻」「苛酷」に同じい。

「輿中」「こしなか」。

「計」「ばかり」。

「隱田」「かくしだ」。

「沃土」地味の肥えた土壌・土地

「免」石高や収穫高に対する年貢高の割合。

「自ら」配下の担当者を介さずに彼が直接に。

「堀江荒四郞」堀江芳極(ただとう 元禄一四(一七〇一)年~宝暦九(一七五九)年)は上記の通り、当時、勘定組頭(後、吟味役)であった。父は成芳、母は水戸家侍女某氏の養女。開幕当初からの代官の家筋であった。勘定から勘定組頭を経て、延享二(一七四五)年閏十二月に勘定吟味役へ昇進、勘定奉行神尾春央の下で、「享保の改革」後半に於ける、年貢増徴政策の実務担当者として活躍した。勘定組頭時代の延享元年には、神尾とともに上方・西国巡見に赴いた際には例の落首が伝えられるように、西国の農民たちに恐れられた。寛延元(一七四八)年閏十月に罷免されて小普請になり、出仕を停止されたが、間もなく許されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「薦て」「すすめて」。

「若狹が飛で來て」「わかさ」は「未熟な野郎」を掛けるか。或いはこれを「神尾(の配下の)若さ(若い衆・子分)」として堀江四郎と読むことも可能であろう。但し、当時、堀江も既に四十三だから「若い衆」ではないけれど。

「荒しろ」「荒し」て米一粒だに残らぬという謂いであろう。

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