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2018/10/11

古今百物語評判卷之二 第五 うぶめの事附幽靈の事

 

  第五 うぶめの事幽靈の事

 

Ubume

 

[やぶちゃん注:これもやや長いので、特異的に改行や字下げを施して読み易くし、注も本文中或いは当該段落末に添えた。個人的に「うぶめ」には強いシンパシーを感じるので、かなり念入りに「叢書江戸文庫」の画像を清拭して掲げた。]

 又、問(とふ)ていはく、

「世にかたり傳ふる『うぶめ』と申す物こそ、心得候はね。其物がたりに云へるは、産(さん)のうへにて、身まかりたりし女、其執心、此ものとなれり。其かたち、腰より下は血にそみて、其聲、をばれう、をばれうとなくと申しならはせり。人、死して後、他の物に變じて來(きた)る道理(だうり)候はゞ、地獄の事も疑はしく存ぜられ候。如何に候ふやらん。」

[やぶちゃん注:「うぶめ」怪談集の定番で、私の電子化注でも既に多くの例が出来している。本文もさることながら、私の注としては、「宿直草卷五 第一 うぶめの事」及び『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)の二本を挙げておけば、ここに改めて注する必要はないと存ずる。そちらを参照されたいが、総論的「うぶめ」伝承について、一応、小学館「日本大百科全書」から引いておく。ここに述べられている通り、『産死した産婦の霊の妖怪』化したものと思われているもので、『身重のまま死んだ産婦を分身せずに埋めると産女で現れるとも伝える。道の辻』『などに現れ』、『通行人に赤子を預ける。赤子は徐々に重くなるが』、『耐えていると、帰ってきた産女は礼に大力や財宝を授けて去る、という伝説。死んだ産婦の墓から生まれる「子育て幽霊」も産女が飴』『で育てた昔話』や、また、『海難者の亡霊やさすらう磯女(いそおんな)をウグメ、ウブメとよぶ地方もあるが、妖怪譚』『の内容は類似している。「取付く引付く」系の財宝発見の昔話「うばりよん」は外出中の男に化け物が「負(ば)れたかったら負(ば)れろ」というと』、『背が急に重くなり、それを耐えて帰宅すると』、『いっぱいの黄金であったという筋で、趣向は同じである。山形県の伝説で、宿直に登城中の武士が妖女に赤子を預けられ重さに耐えていると、帰ってきた女が実は山中の氏神で礼に大力を授けられたという類もある。いずれも胆力ある者が試練を通過して長者などの好結果を得る型で』、「今昔物語集」の巻第二十七の「賴光郎等平季武値産女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郎等(らうどう)平季武(すゑたけ)、産女(うぶめ)に値(あ)ひし語(こと)第四十三)は、源頼光『四天王の卜部季武(うらべすえたけ)が産女に遭遇する説話だが、この場合は』、『返さなかった赤子が木の葉と化している。同じような伝説は各地にあって、無縁仏の供養や母子神信仰につながってもてはやされた文芸であろう』とある。

をばれう」前注に出るように、「負はりよう」で「背負うておくれよ!」の意。

と云へば、先生のいへらく、

「迚(とて)もの事に、かたり侍らん。まづ、『うぶめ』と申すは、もろこしにも『姑獲鳥(こかくてう)』又は『夜行遊女(やかうゆうぢよ)』など云(いへ)り。「玄中記」には、『此鳥、鬼神の類(るい)なり。毛を着(き)て、飛鳥(ひてう)となり、毛をぬぎて、女人(によにん)となれり。是、産婦の死して後(のち)、なる所なり。此故に、ふたつの乳(ち)あり。このみて、人の子をとりて、己(おのれ)が子となせり。凡そ、小兒の衣類など、夜は外にをく[やぶちゃん注:ママ。]べからず。此鳥、來(きたり)て、血を付(つけ)て、しるしとしぬれば、其兒、驚癇(きやうかん)をやめり。荊州に多くあり』といへり。又、「本草」の説には、『此鳥に雄なし。七、八月の頃、夜出でて人を害すと云へり。

[やぶちゃん注:「迚(とて)もの事に」「この際だから、まず、序でのこととして、一つ」の意。

「玄中記」西晋(二六五年~三一六年)の郭璞(かくはく)の著わした博物誌であるが、散佚。諸書の引用を纏めた「中國哲學書電子化計劃」の「玄中記」に、

   *

姑獲鳥夜飛晝藏、蓋鬼神類。衣毛爲飛鳥、毛爲女人。二句北錄引在豫章男子句上一名天帝少女、一名夜行游女、御覽引作名曰帝少女、一名夜游、今依北錄引補一名鉤星、御覽一引作釣星、一名隱飛。鳥無子、喜取人子養之、以爲子。今時小兒之衣不欲夜露者、爲此物愛以血點其衣爲志、卽取小兒也。今時至此已上荊楚時記注引、作有小兒之家卽以血點其衣。爲志御覽引、作人養小兒不可露其衣此鳥度卽取兒也。經史証類本草十九引、作今時人小兒衣不欲夜露者爲此也。今依北錄引補故世人名爲鬼鳥、荊楚時記注引有此句、荊州爲多。昔豫章男子、見田中有六七女人、不知是鳥、匍匐往,先得其毛衣、取藏之、卽往就諸鳥。諸鳥各去就毛衣、衣之飛去。一鳥獨不得去、男子取以爲婦。生三女。其母後使女問父、知衣在積稻下、得之、衣而飛去。後以衣迎三女、三女兒得衣亦飛去。今謂之鬼車。

   *

とある。なお、後半部の本邦の羽衣伝説に酷似した部分は、後の東晋の干宝が著した志怪小説集「捜神記」の巻十四にも、

   *

豫章新縣男子、見田中有六七女、皆衣毛衣、不知是鳥。匍匐往得其一女所解毛衣、取藏之、卽往就諸鳥。諸鳥各飛去、一鳥獨不得去。男子取以爲婦。生三女。其母後使女問父、知衣在積稻下得之、衣而飛去、後復以迎三女、女亦得飛去。

   *

とほぼ同文が出る。

「驚癇」癲癇(てんかん)或いは「ひきつけ」。

「荊州」現在の湖北省一帯に置かれた州。

「本草」明の李時珍の本草書のチャンピオン、「本草綱目」。その「禽之四」に、

   *

姑獲鳥【「拾遺」。】

釋名乳母鳥【「中記」】。夜行遊女【同。】。天帝少女【同。】。無辜鳥【同。】。隠飛。【「玄中記」】、鬼鳥【「拾遺」】。譩譆【「杜預左傳注」】。鉤星【「時記」時珍曰、昔人言此鳥産婦所化、陰慝爲妖、故有諸名。】。

集解藏器曰、姑獲能收人魂魄。「中記」云、姑獲鳥、鬼神類也。衣毛爲飛鳥、毛爲女人。云是産婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子養爲己子。凡有小兒家、不可夜露衣物。此鳥夜飛、以血之爲誌。兒輒病驚癇及疳疾、謂之無辜疳也。州多有之。亦謂之鬼鳥。「周禮」庭氏『以救日之弓、救月之矢、射矢鳥』、即此也。時珍曰、此鳥純雌無雄、七八月夜飛、害人尤毒。

   *

とあるのを指す。]

 本朝にては、いつ、出(いづ)るといふ事も侍らねど、かく申(まうし)ならはし、又、もろこしの文にも、くはしく書きつけたるうへは、思(お)もふに、此物なきにあらじ。其はじめ、産婦の死(しせ)しからだより、此もの、ふと、生じて、後には、其類(るい)を以て生(しやうず)るなるべし。もと、生(しやうず)る所の氣、産婦なれば、鳥となりても、其わざをなせるにこそ侍れ。或は、くされる魚鳥(うをとり)より、蟲のわき出(いで)、又は、馬の尾の蜂になり申(まうす)類(たぐひ)、眼前に、其物より、他の物、わき出(いづ)れば、産婦のかばねより、此鳥、わき申(まうす)まじとも申(まうし)がたし。是れ、形(かたち)より、形を生ずれば、さもあるべし。地獄の沙汰とは、なぞらへがたし。氣化(きくわ)・形化(けいくわ)の名義は、おのおの、かねて知り給へばかたるにおよばず。」

[やぶちゃん注:おやおや! 玄隣先生、やらかしちゃいましたね、理窟のつかない存在は化生(けしょう)説(四生(ししょう)の一つ。母胎や卵などからでなく、論理的因果関係なしに忽然として生まれるもの。天界・地獄・中有の衆生の類)ですかい?! まずかないですか? そいつは専ら、先生の大嫌いな仏教の発生説ですぜ?!

「氣化・形化」陰陽五行説の、それぞれの気と形態の見かけ上の相互影響による変容の意か。北宋の周敦頤(しゅうとんい 一〇一七年~一〇七三年)が一〇七〇年に著した、陰陽を表わす図を儒教の解釈によって説いた「太極圖説(たいきょくずせつ)」に基づき、朱熹が著わした「太極圖」では、『乾男坤女、氣化する者を以て言ふ也。各(おのおの)其の性を一にして、男女一太極なり』とか、『萬物化生、形化する者を以つて言ふなり。各其の性を一にして、萬物一太極なり』といったキャプションがある。]

 又、問ふていはく、

「然らば、凡(およそ)人間のこんぱく[やぶちゃん注:魂魄。]は此(この)形、死(しし)候へば、とかく消(きえ)うせ候(さふらふ)物と仰せせらるゝぞならば、或は戰場の跡などに、人のなきさけぶ聲のきこへ[やぶちゃん注:ママ。]候ふ事など、たゞしき書物にもみえ、又、「左傳」[やぶちゃん注:「春秋左氏傳」。]にも、彭生(ほうせい)と申(まうす)者の幽靈、きたりて、死(しした)る後に、怨(うらみ)をむくひし事など、書(かき)のせし由、承りおよび候。是れは儒書にて候ふが、其説、おぼつかなく候ふ。」

[やぶちゃん注:「春秋左氏傳」の「莊公八年」(紀元前六八六年)の条に出る以下。

   *

冬十二月、齊侯游于姑棼、遂田于貝丘。見大豕、從者曰、「公子彭生也。」。公怒曰、「彭生敢見。」。射之、豕人立而啼。公懼、墜于車、傷足喪屨。

(冬十二月、齊侯(せいこう)、姑棼(こふん)に游び、遂(つい)で貝丘(ばいきう)に田(か)りし、大豕(たいし)[やぶちゃん注:大きな豚。]を見る。從者曰く、「公子彭生なり。」と。公、怒りて曰く、「彭生敢へて見(まみ)えんや。」と、之れを射る。豕(ゐのこ)、人のごとく立ちて啼く。公、懼(おそ)れて、車より隊(お)ち、足を傷(やぶ)り、屨(くつ)を喪へり。)

   *

ウィキの「襄公(斉)によれば、紀元前六九四年一月、斉侯襄公は魯の桓公と会合し、桓公夫妻が斉にやって来た。実は襄公は以前に魯の桓公夫人(自分の異母妹・文姜)と私通したことがあったが、今回もまた密通し、桓公にそれを知られてしまう。そこで襄公は同年四月に再び魯の桓公と酒を飲み、彼が酔っている隙に乗じて、自身の公子彭生に命じて彼を殺害した。これを魯の国人が責めてきたが、襄公は実行犯であった彭生に総ての責任を押しつけ、彭生を処刑して陳謝した(襄公はこの後もたびたび文姜との密通をし続けている)という事実を亡き彭生は「怨」とするのである)。因みに、「左氏傳」では上記の後に襄公がこの後に王宮に戻り、従者に履いていた靴を出すように命ずるも見つからず、従者が激しく鞭打たれて、たまらず、王宮を逃げ出んとしたところ、門のところで、襄公の冷遇に切れた襄公の従弟である公孫無知らのクーデターと出逢い、カメラが換わって、その公孫無知らが王宮に侵入、隠れていた襄公が弑されるカタストロフ・シーンへと雪崩込んでいるのが、なんとも、早回しで、「怨」の力を感じさせて興味深い。]

といへば、先生、いへらく、

「生死有無(しやうじうむ)の論は、出類(しゆつるい)[やぶちゃん注:出類抜萃。人に抜きんでて才能が優れていること。]の見識ある人ならでは、かたりも聞かせがたく侍る。すべて世の中の事に、『常(つね)』と『變(へん)』と御座候(ござさふらふ)が、人、死(しし)てたましゐのちりうするといふは『常』なり。萬古(ばんこ)[やぶちゃん注:太古より。]、かくのごとし。其氣の殘りて、彰生がごとくなるは『變』なり。萬分の一なり。『變』とは、常(つね)にあらずしてたまたまある、をいふ。たとへば、[やぶちゃん注:「たとへば」は底本にナシ。原典で補った。]人の氣、おとろえ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、形、つかれて、病死する人は、火の、おのづからきえて、其灰にも、あたゝかなる氣のなきがごとし。或は、うらみ死(じに)にしぬるか、又は、劍戟(けんげき)のうへにて死(しす)る者は、其氣も形もおとろえざるに、俄にしするなれば、いまだ、もゆる火に水をかけてきやせる[やぶちゃん注:ママ。「消えさする」。]時は、其あたゝかなる氣、しばしは、のこるが如し。されば、其人の、がうきやう[やぶちゃん注:「」。]なる次第によりて、其氣の、のこる事も、淺深厚薄(せんしんこうはく)あるべし。」

 又、問ていはく、

「其氣の殘る事は承りつ。其氣の、のこりて、形の生(しやう)ずる事は、いかんぞや。」

 云く、

「天地(てんち)の間(あひだ)に生(しやうず)る物は、みな、氣よりおこれり。氣のとゞこほるによつて、形を生ず。たとへば、煙のすゝになるがごとし。煙にてみたる時は、かたちなく、手にもとられずといへども、其(それ)、つもりてすゝになりたる時は、手にとらるゝなり。是、氣は質(かたち)の始(はじめ)なる所なり。

 されば、其氣のとゞこほりて、或は形をなし、又は聲(こゑ)を生(しやうず)る物を『幽靈』といふなれど、猶、此『ゆうれい』も、程(ほど)ふるに及(および)て、其とゞこほりたる氣の散ずるに隨(したがひ)て消(きえ)うするなり。又、哲人名僧などの教化(けうけ)によりて消えうするは、もとより、妖は德にかたざる道理なれば、其の教化によりて、其氣、忽(たちまち)に散ずればなるべし。

 されば、中昔(なかむかし)、平將軍(へいしやうぐん)[やぶちゃん注:「將門」を誤ってかく附してしまったものであろう。]まさかどと云ひし逆臣、俵藤太(たはらとうだ)に討れて、其くびをあぎとにかけられしかども、三年にあまるまで、此首、死せずして、眼をひらき、とこしなへにいかれる姿をあらはせしに、往來の人、

『將かどは米かみよりぞきられける俵藤太がはかり事にて』

とよみければ、一首の狂歌に鬱憤を散じ、眼をとぢ、形をしぼめて、髑髏(どくろ)となり侍る、など申し傳へけるも此理(ことわり)にや。

[やぶちゃん注:「くびをあぎとにかけられ」所謂、後の獄門首として曝されることを指すが、どうもこの表現は重語で躓く。「首を掛ける」と「顎門・顎・鰓」=『「あぎと」を掛ける』は同じだからである(「あぎ」は「あご」で、「と」は「所・門」で「区分された箇所」という部分を指すものであろう)。

「將かどは米かみよりぞきられける俵藤太がはかり事にて」これは「太平記」巻第十六の「日本朝敵の事」の一節に出るのが知られている。

   *

朱雀院(しゆじやくゐん)の御宇承平五年[やぶちゃん注:九三五年。]に、將門と言ひける者、東國に下つて、相馬郡(さうまのこほり)に都を立て、百官を召し仕うて、みづから「平親王(へいしんわう)」と號す。官軍、舉(こぞ)つてこれを討たんとせしかども、その身、皆、鐡身(てつしん)にて、矢石(しせき)にも傷(やぶ)られず、剣戟にも痛まざりしかば、諸卿、僉議(せんぎ)あつて、にはかに鐡(くろがね)の四天を鋳(い)奉つて、比叡山に安置し、四天合行(してんがふぎやう)の法を行はせらる、ゆゑに、天より白羽の矢一筋降つて、将門が眉間(みけん)に立ちければ、遂に俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)に首を取られてけり。その首、獄門に懸けて曝すに、三月(みつき)まで色変ぜず、眼(まなこ)をも塞(ふさ)がず、常に牙(きば)を嚙みて、

「斬られし我が五體、いづれの所にか有るらん、ここに來たれ、首繼(つ)いで、今一軍(ひといくさ)せん。」

と、夜な夜な、呼ばはりける間(あひだ)、聞く人、これを恐れずといふ事、なし。時に、道過(みちす)ぐる人、これを聞きて、

  將門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀(はかりごと)にて

と詠みたりければ、この首、からからと笑ひけるが、眼(まなこ)、たちまちに塞がつて、その尸(かばね)、遂に枯れにけり。

   *

「四天合行の法」四天王合行法。密教で四天王を本尊として同一の壇で行う修法。災厄を祓い、福徳を招き、国土安穏を祈る。なお、この戯れ歌はそれ以前の「平治物語」にも載り、そこでは藤六という歌詠みが詠み掛けたとされてある。この戯れ歌はそれ以前の「平治物語」にも載り、そこでは藤六という歌詠みが詠み掛けたとされている。一首は、

 將門は顳顬(こめかみ)よりぞ斬られける俵藤太が謀り事にて

で、「こめかみ」が「顳顬」(耳と目の間にある、物を嚙むと動く部分)と「米」の掛詞となっていて、「俵」と、恐らくは「はかり」(年貢米の計量)が「米」の縁語として洒落になるようになっているものと私は思う。]

 畢竟、聖賢神佛の靈(たま)の、今にのこりて、罰利生(ばつりしやう)の正しきは、是れ、よき『幽靈』なり。然し、世の常の人は生きています時だに、よろしき事はまれにして、さがなき事[やぶちゃん注:性悪なこと。]のみ、おほき身なれば、せめてはわすれ[やぶちゃん注:ただただ自身の悪しきを忘れてしまい。]、てかへして[やぶちゃん注:掌を返すように。]、其執(しう)をとゞめざらぬには、しかざるべきわざにこそ。」

 

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